ヒト畜生の憐れ
不朽林檎
1
私の人生が始まった時、私の理性は世界の何処にも届きはしなかったが、私の感性は世界のあらゆる遠方までも届き、すべてを享受していた。陽の光は眩しく、当たり前のように美しかったし、何よりも暖かかった。淡空に浮かぶ掠れた雲や、駐車場の錆びたフェンスや、その向こうで揺れていた狗尾草だの芒だの、そんなものの一々一々が、出したての絵の具みたいに新鮮だった。
だから私には、目に映るそれらが、まさか、生きた時間のぶんだけ劣化していくものだとは、とても思いつけないでいたのだ。
夏休みも間近に迫った七月上旬、彼は私たちに宝物を見せてくれると約束した。誕生日がちょうど七月の頭にあった彼は、両親からヘラクレスオオカブト買い与えられたばかりで、それを、もう、吹きまくりたくてたまらなかったのであろう。
子供の感性とは今にして思えば実に普遍的で分かりやすく、それゆえに或る種の真理にも通じうる、何か美しいものを秘めている。大人になれば大抵は気味悪がられる昆虫の類が実に面白く興味深いものに思われるという、あの不思議な感覚でさえ、たぶんそうだったのだと、今では思うのだ。
そんなわけで、私を含めた数人は翌る日の放課後、彼の家を訪れた。彼は私たちを庭先で待たせて、家の中へ引っ込んでいく。たかだか昆虫一匹、私たちはそのお披露目を、しかし今か今かと待っていた。
未だ陽は高く、暑い。蝉が盛んに鳴いていた。傍の庭木にも二つ三つとくっ附いていて、忙しなく騒音を撒き散らしている。私は未だ九歳で、そんな景色をも色鮮やかに観察することができた。
果たして、玄関から再登場した彼の手にはプラスチック製のケースが提げられていた。それは機能的には百円ショップの安っぽいのと大差ない代物であったろうが、とにかく中身が凄いものだから、私の目には大層な逸品であるかに錯覚せられた。
「デケェ!」
右隣に立っていた友人が、思わず歓声を上げる。それに倣ったわけではないが、
「わぁ」
と、そんな音が、私の口からもまろび出た。感動が言葉にならない瞬間など、この頃の私には珍しくもないことだったのである。彼はいよいよ得意げになり、
「十五センチあるんだぜ。普通のカブトなんてクソ雑魚」
などと言って、気前よく、正面の友人にケースを渡した。子供ながらに高級品であって、もしもの際には代えが利かぬと解っていたのだろう、皆一様に恭しく眼前に掲げ、昆虫の珍妙な姿をしげしげと眺めては、行儀よく順番に回していった。いよいよ、ケースは私の手に渡る。
私は他のみんなと同じようにケースを掲げ、そうして、見惚れた。
光沢のある羽はプラスチックを彷彿させる質感にて、射す西陽でテカテカしていた。その全身はひどく作り物めいていて、日本刀を逆さにしてくっつけたみたいなツノや、細いながらもがっしりと止まり木を捉える脚や、そんな全てが、なんだか美しかった。第一、こんな物体が木の上をのそのそ動いて生きてあることが不可思議だったし、とても神秘的だった。
他のみんなは、口々にそれを羨んでいるらしかった。それは紛うことなき物欲であって、できることならば我が手中に収めたいという、なんとも人間らしい衝動が垣間見えていた。
そうして私は、それを欲しいとは思わなかったけれども、ただ、誰もいないところで、時間を気にせず眺めていたかった。その昆虫が私に与える不思議な高揚感を失いたくなかったのだ。
なので私は、皆が帰ってしまったあと、こっそりと彼の家へ引き返し、未だ庭先で蝉を見上げていた彼を捕まえた。
「おう、どうした?忘れ物?」
「ううん。ヘラクレス、もうちょっと見たくて。今日だけ貸してくれない?」
「あ、え、貸すってお前…」
彼は露骨に動揺した。今にして思えば、善良な少年だったのだろう。たった一晩は、子供にとって恐ろしく永く、まさに一日千秋なのである。大切な宝物をみすみす差し出すまいとするのは、無理ないことだった。私にはその辺りの理解が欠如していたように思うけれども、なんとなく、彼の心情を推して察ることは能うた。
「いきなりごめん。じゃあ明日、オオクワ持ってくるよ。それで、一日だけ交換しよう?」
子供らしくもなく、あさましい私は早くも交換条件を差し出した。現金で人を懐柔できるなどと云うことを、酒の席や何かで大人たちから聞いたことはある。それを真似たわけではないが、子供なりに私は、人間の根っこに存在する第一原理のようなものを理解していた。バランスが重要なのである。そら、そう言ったら彼だって、うんうん、ちょっと悩むそぶりこそ見せたけれども、終いには、
「わかった」
と頷いた。しめしめ、すかさず私は「約束な」と念を押して、「ありがとう」と、これまた形ばかりの感謝を述べた。
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