「もう腹減って死にそうだ」

 トウヤとデボラがいなくなった医務室で、イリスとドミニクが話し合っていた。


「イリス、グリモアが顕現したというのは本当か?」

「うん」


 イリスは嬉しそうに言うと、グリモアを出した。


「これが私のグリモア。正直言うと、まだ何が出来るのかよくわかってないんだけどね」

「ふむう……」


 ドミニクは、懐から水晶を取り出した。水晶をイリスの前に差し出す。イリスの表情が曇る。

 程なくして、水晶の中心部にタブレットが浮かび上がった。イリスの表情がぱあっと明るくなった。


「どうやら本物のグリモアのようじゃの」


 ドミニクは水晶を懐にしまった。


「だから言ったでしょ? それより見てよ」


 イリスは、グリモアを人差し指で操作してみせた。


「何と面妖な石板じゃのう。目がチカチカするわい」

「石じゃないわ。背面は金属だけど、表面は今まで見た事が無い材質よ。トウヤは、この板の使い方を熟知してるみたいだけど、お爺ちゃんは何かわかる?」

「いや、儂も初めて見る形状じゃな……文字も読めんし」

「見てて。こうやって……文字の上にある模様を人差し指で触ると、絵面が変わるの」


 イリスは、がんばって集めた収集品を自慢げに披露する子供のように、無邪気にグリモアを操作した。


「でも、この模様だけは、何故か文字も無いし、触っても何も起こらないんだけどね」


 その模様は、記号を彷彿とさせるほどの単純な模様だった。線と図形が幾つか組み合わせて出来た、古い壁画にありそうな記号。

 ドミニクが眉をひそめる。イリスの視線はグリモアに向いていたため、ドミニクの表情に気づいてないようだ。


「イリスや……あの小僧、トウヤは先の模擬戦で勝利したとはいえ、相当な痛手を負ったそうじゃな」

「それは……まあ、そうだけど。でも勝ちは、勝ちよ」

「相手はバルナバス=フォン=ゲルストナー。ミストダリア家に仕える騎士のご子息。少々行き過ぎてはおるが主君への忠義も厚く、騎士としては将来有望ではあるものの、能力は未だ半人前の域にも至らず、という評を聞いておる。グリモアも良書じゃしな」


 ドミニクが言い終えると、イリスの目つきが恐ろしく冷たくなった。

 その視線は、親しい間柄の人間を平然と切り捨てる事も厭わない、と感じさせるほどの黒い物を漂わせている。


「何が言いたいの?」

「悪い事は言わん。彼は止めておけ。もっと腕の立つ者や知恵が回る者にするべきじゃ」

「確かにお爺ちゃんの言葉は一理あると思います……ですが」


 イリスは、黒い感情が漂う視線を躊躇なくドミニクに向けた。


「その言葉、お爺ちゃんの口から聞きたくなかったわ」

「むっ……しかし!」

「お爺ちゃんは、あたしを捨てたいと思った事はありましたか?」


 ドミニクは口をつぐんだ。


「身寄りが無く、魔法も使えない、武芸も一向に成長しないあたしを、お爺ちゃんは懸命に育ててくれました」

「子供を育てるのと、彼を生かしておくのとは違う! このままでは――」

「ですが、同じ命です。あたしの都合で呼び寄せて、それを無力だからと一方的に突き放す事は、あたしには出来ません」

「もう情が移ったのか! 今ならまだ傷も浅くすむ。考え直せ! 何なら儂が手を下しても――」

「あたしをあの女と一緒にしないで!!」


 イリスの叫び声が医務室に響き渡る。

 感情的に言葉を吐き出したイリスの双眸には、光が戻っていた。

 凍てつくような黒い感情は消え失せ、代わりに力強い意思が宿っている。


「もし、トウヤに手を出したら」


 ドミニクは、何も言わなかった。

 良心の呵責に苛まれてるのか、長い時を生きた老成の目は、哀調に帯びていた。胸中には、無数の糸が絡みついているのだろう。

 育ての親だからか、娘の身を案じたのか、はたまた娘が異性を連れてきたからか、それとも……自分よりも真摯に命に向き合う姿勢が眩く見えたのか。

 ドミニクは、ただ黙ってイリスを見つめていた。


「お爺ちゃん、もう行くわね。トウヤが待ってるから」

「ああ……」とドミニクは力なく答えた。


 イリスはグリモアを消してからベッドから降りた。寝起きだからか軽い足取りで医務室を出て行いった。

 ドアの閉まる音がドミニクを一人にした。





 ◇◇◇




 突然、音を立てて開いたドアに、トウヤの肩がビクンとはねた。


「お待たせ、トウヤ」

「ああ。もう腹減って死にそうだ」


 この世界の常識を知らないトウヤは、無遠慮に言った。


「はいはい、今から部屋に戻るから、もう少し辛抱してね」


 イリスは、子供をなだめるような穏やかな口調で答えた。

 トウヤは立ち上がると、イリスと肩を並べた。背丈の低いイリスに、歩調を合わせる。

 空腹を紛らわせるため、トウヤは何か適当に話題を振る事にした。


「そういやさ。さっきの試合、魔力っての? 勝手に体の中に入ってきたんだけど、あれ凄いな。相手の魔法は素手で弾き返せるし、鈍らの剣に魔力を注げば真剣みたいな切れ味も実現できるしよ」

「へぇー」

「イリスも出来るんだろ? そうじゃないと、あんな剣とか魔法が飛び交う戦いを五体満足で切り抜ける事できないもんな」

「え? あたしはそんな事できないわよ。もし、あたしが素手で魔法を弾いたり、武器に魔力を注ぐ事なんて芸当が出来るなら、最初から毒を盛ったりトウヤをあてにしたりしないわ」


 トウヤは、驚きのあまり足を止めた。数歩、先を行くイリスの背中を呆然と見つめた。


 ――今の前にいる女の子は自分よりも一回り小さく、とても可愛らしい。そんな見た目とは裏腹に、とてもしたたかな女性のようだ。


 トウヤが遅れている事に気づいたのか、イリスは踵を返した。


「何ぼうっとしてるのよ、さっさと部屋に帰るわよ」

「悪い悪い、ちょっと疲れてたみたいだ」


 トウヤは慌てて、イリスの隣に並び立った。

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