コスケ
川谷パルテノン
アマリリス
猫のコスケは飼い猫じゃない。野良の王様だ。その界隈じゃ一番強いなんてのがもっぱらの噂で右耳がない。コスケを初めて見たのは我が家の庭で火鉢に水を張って育てていたメダカを丸飲みしているときだった。コスケは前脚を火鉢に引っ掛けて頭を水面に突っ込んでいた。はじめはなんだかヘンテコな姿勢に可愛げを感じていたがまさかと思って追い払ってみるとメダカが二匹減っていた。私はこれでも几帳面なほうで毎日メダカを観察していたから数が少ないことはすぐにわかった。とても悲しい気分になった。
翌る日もコスケは火鉢の前に現れた。私はずっと見張っていたから次はとっ捕まえてやろうと罠を仕掛けておいたのだ。火鉢の縁にとり餅を薄く塗っておいたこれが覿面、コスケは見事に引っかかった。前脚を必死になって引っ張っていたが時すでに遅し。コスケを私は捕まえた。
「ばかばかばか! なんてことするの!」
「フシャーーッ」
「二度としないって誓ったら許したげる」
「フシャーーッフシャーーッ」
「このー! わしゃわしゃわしゃわしゃ!」
結局じゃれてしまった。私は猫が好きだから。この時、コスケの片耳がないことに気づいた。ケンカでやられたのかわるい人間にいたずらされたのかは定かではないけれどコスケはどうも私を嫌ってるような感じで噛みついたり引っ掻いてきたりした。もちろん痛いし、変な菌に感染するのはゴメンだけれど私はなんだかコスケのことが愛おしくなって彼を獣医に見せることにした。織田先生は腕利きのお医者さんでコスケのような暴れ猫もお手のものだった。
「ユリナちゃん、この子はもう大丈夫だよ。飼うの?」
「飼わない。コスケはコスケだから」
「コスケ?」
「名前」
「名前つけちゃったら愛着わいちゃうでしょ」
「ううん、私は大丈夫。コスケが大丈夫なら安心」
「そう なんだ」
織田先生はコスケの治療代を私の出世払いという建前でまけてくれた。私はコスケを病院の外で自由にしてやった。
それから二週間ほどするとコスケはまた火鉢に前脚を引っ掛けていた。
「もう! ほんとに恩知らず!」
私はコスケの背後にゆっくり近づいた。コスケはただただ水面を眺めているだけだった。私はコスケの横にしゃがんで一緒にメダカを眺めた。
「後悔してるの? 命はね戻んないんだよ」
コスケは片耳のせいか聴こえないフリをして黙って火鉢の中を見ていた。
「メダカの分まで生きなきゃね」
私がそう言うとコスケは私の顔を見た。まんまるの瞳がどんな宝石よりも煌めいて、ぶっきらぼうな野良猫の雰囲気が取っ払われていた。私は胸が詰まる思いで今にもその無垢に吸い込まれてしまいそうになる。コスケは脚をおろしてとぼとぼと去っていった。
学校からの帰り道。それはいつだってひどく寂しかった。ひとりであることを紛らわそうとリコーダーを吹いてみたりする。おかえりとかけてくれる声には全力でこたえた。それも一瞬。私はまた笛を吹く。そんな帰り道に足下を通り過ぎてく毛玉があった。コスケだ。私は急に嬉しくなった。追いかけるとまた少し離れるように早足になる。まあいいやと私はリコーダーで覚えたてのアマリリスを演奏した。コスケは何度も振り返って、私が立ち止まるとコスケも止まった。
次の日も、また次の日もコスケは一緒に下校してくれた。私とコスケはもう友達だと思えた。私はこれでも几帳面なほうで、コスケの怪我にはすぐ気がついた。
「またケンカしたの?」
コスケはもう逃げない。織田先生のとこに連れてかなくちゃ。織田先生はまた出世払いにしてくれた。
それはずっとつづくものだと、それはずっと優しいのだと私は思っていた。道路脇に横たわるコスケを見つけた時、今までないくらいの速さで心臓が震えて、どれだけ流しても止まらない涙を堪えながら織田先生のもとへコスケを運んだ。メダカの分も生きなきゃ、約束でしょ。
「ユリナちゃん、コスケは事故だったんだよ。ごめん、僕じゃあもう助けてあげられない」
私は理解できた。見つけた時にはもう半分諦めた自分がいた。だから悔しくて私は自分を責めたりした。信じてあげられなかった。コスケは友達なのに。
久しぶりに帰省した実家の前で年老いた母が出迎えてくれた。庭にはまだあの頃の火鉢が残っていたけれどメダカももういない。なんだか懐かしくて一瞬、光だか影だかそこに前脚をかけた猫が見えた気がした。織田先生もすっかりおじさんで私が包んだコスケの治療費は受け取ってもらえなかった。病院の裏手には彼のお墓がある。最近はずっと来れてなかった。油性マジックで書いた汚い「コスケ」の字はかすれて消えかかっていたけれど綺麗に手入れされていた。私はコスケを想って手をあわせた。織田先生とコスケの話をしているとすっかり日が暮れてしまった。帰り道。鼻唄で奏でるアマリリス。遠い昔日の大切な友達。
コスケ 川谷パルテノン @pefnk
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