第二話 醜悪浮かぶ笑み

 ――今しか無い。


 本能が逃げろ逃げろと急かしてくる。

 焦る気持ちを抑えられないミナトは、どっと冷や汗を噴き出した。

 口の中が急激に乾いて手が震え、剣を握る力が強まる。


「グルルルゥッ……」


 怪物は唸り、こちらを睨むだけで動く気配はない。

 いや、動けるはずがないだろう。痛みやダメージが尋常ではないからだ。

 その状態を再確認したミナトは扉に向かって走る。


「いけるっ、逃げれるっ! 俺は――」


 ――壁に生えた水晶に向かって手を伸ばした瞬間。


 ミナトは足がもつれ、顔から地面に突っ込む。

 焦りすぎたせいなのか。それとも血で滑ったのか。

 そんなことより早く逃げなければ。ここから立ち去らなければ。

 早く、早く――、


「――えっ、ぁ……?」


 ――いや違う。


 自身に何が起こったのか、何故足がもつれたのか。

 ミナトがもう一度足を動かそうとした時に一瞬で気付いた。


(み、右脚が、し、痺れて……っ!)


 少し動かしただけで右脚から強烈な痺れが脳に伝わってくる。


 怪物は目の前の獲物を逃がす程、弱っても愚かでもなかった。

 ミナトの右太腿に尻尾を巻き付けた時、その先端に生えている細毛から遅効性の弱毒を打ち込んでいたのだ。


 一瞬抱いた希望。それが絶望に塗り替えられていく。


「――っ、くそっ! 逃げないとっ……!」


 だが、未だミナトは諦めていない。

 右脚が使えないと分かると、なんとか立ち上がり、左足で跳びながら扉に近づく。

 跳ぶたびに右脚の痺れが全身に巡るが、奥歯を噛み締めて我慢する。


 扉まで、あと数歩。

 いける、そう思った瞬間――。


「ぶぐ」


 背後の方でヒュン、と音がなる。

 その瞬間、ミナトはまるで車にでも轢かれたかの様に勢いよく吹き飛ばされていた。


 あまりの勢いに右手に持っていた剣を離してしまい、それは遠くの方に飛んでいってしまう。


 左肩から壁に激突したミナトは、肺の中の空気が強制的に押し出され、軽く呼吸困難になる。

 そして頭をぶつけたのか、視界が澱んで立ち上がれない。


 今のは何だったのか。何が起こったのか。

 ぼんやりとする視界の中、振り向こうとすると――、


「――――」


 ――嫌な予感がする。


 未だ頭の中がぐるぐると回るが、ちゃんと勘は働いていた。

 まだ痛む体を無理に動かして顔ごと後ろを向くが、怪物は全く同じ姿勢で動いていない。


 だが、何かがおかしい。何かが変化しているのだ。


 深い不安に震えながら、ミナトはぼやけた視界でもう一度怪物を観察した。


 その瞬間、ミナトは目を見開く。


「傷が、治ってる……」


 全身からの出血は完全に止まり、千切れかけていた尻尾はほぼ繋がっていた。


 必死で尻尾の傷をさらに広げたはずなのに。

 もう尻尾は動かせないと、確信したのに。

 それなのに、なぜ。


「――それどころじゃないっ!!  逃げないとっ……!!」


 思考停止しそうになった頭を、自身の頬を右手で叩いて覚醒させる。


 折れてはいないだろうが、左腕は鋭い痛みでもう動かせない。

 だが、今のミナトにとってその問題は些細な出来事にすぎなかった。


(は、早くっ! 早くっ!! アイツが完全に復活する前に)


 壁を使って立ち上がり、不細工によたよたと歩きながら出口に向かう。

 なりふり構っていられない。

 どれだけ滑稽だろうが、今は逃げる方が先決なのだ。

 でなければ、あの者達と同じ運命を辿る事になる。


 そんなの嫌だ。死にたくない。

 ミナトは涙を薄く浮かべながら、必死に逃げる。


 ――突如、ミナトは動きを止めた。


「……は?」 


 濃く大きな影が足元から伸びてきたのだ。

 息を飲み、ミナトは目を泳がせながら後ろを振り返る。


「――――」


 先程まで自身の血に沈み、死にかけだと思った怪物。

 それが既に目の前まで接近していた。

 それに加え、四足でしっかりと立ち、その見た目も覇気も段違いに高まっている。


「ひっ、や、やめろ」


 のそり、のそりと、更にこちらへと近付いてくる怪物。

 ミナトはその恐怖で尻餅をつき、ただ後ずさるだけだった。


 互いの距離が縮まるにつれ、高まる鼓動。

 しかし突如、怪物は動きを止めた。


「ぁ、た、な、何だ、よ」


 ミナトは体を震わせながら、見上げて問う。

 無意味な事は分かっているのだが、どうしてもその真意を知りたかったのだ。


 何も語らない怪物は"獲物"の目をじっと見つめると、――嗤った。

 お前の命を賭けた抵抗は無駄だった。そう嘲笑うかの様に。


「ぁ」


 そこでミナトは理解した。

 最初から怪物は、自分を本気で殺そうとしていなかった事に。


 右太腿が狙われた時点で気付くべきだった。直ぐに殺したかったのならば首を狙った筈。

 全て遊びだ。怪物の常軌を逸した遊びに付き合わされていただけだったのだ。


 それに気付いた途端、ミナトの全身から冷や汗が噴き出す。


「そんな……」


 ミナトは力無く呟く。もう、為す術は無いのか。

 その時、視界の端に落とした剣が映った。


(そうだ。まだ、まだあの剣を使えば――)


 そう考えた次の瞬間、天井に叩きつけられていた。

 そして、そのまま地面に落ちていくミナトの側頭部に、尻尾の先端が横に叩き込まれる。

 ミナトは二回バウンドした後、転がりながら壁に激突した。


「あがっ……ぅうっ」


 首の筋を痛め、額から生暖かい液体が溢れ出す。

 動かせなかった左腕は、今度こそ中間で折れていた。


 気絶しそうなミナトをよそ目に、怪物は嗤いながらゆっくりと右太腿に尻尾を巻き付けていく。

 そして一気に引き寄せ、ミナトを逆さまに吊るす。


「ぁ」


 足から伝わる鱗の冷たさと、所々から流れてくる生暖かさ。

 それらを感じながら、そこでミナトは漸く気付いた。


 自分はあの"尻尾"で今も、先程も壁まで叩き飛ばされたのだと。


「ち、ちょ待っ……」


 頭を強く打ったせいか上手く呂律が回らないミナト。


 壁に吹っ飛ばされた時、その動きが全く見えなかった。


 逃げるのに必死で周りが見えなかった、とかいう話ではない。

 単に尻尾が振られるスピードが速すぎて見えなかったのだ。

 そしてそれは、自分を軽々しく吹き飛ばせるまでに復活していた事を裏付ける証拠だった。


 右脚が動かない上に怪物は完全に回復し、今やミナトは怪物に宙ぶらりんの状態にされている。

 この状況に戦慄すると共に心の底から絶望していく。

 自分の必死の抵抗は虚しく、無駄に終わったと気づいたからだ。


「ぅうぅっ、うっ……」


 逆さまになった体が震えてくる。

 自身の血に濡れた歯はカチカチと鳴り止まず、赤く汚れた涙は止まらない。

 血抜きの様に、しとしとと血溜まりを広げていくだけだった。


「し、しにた、死にぬにぁあっ、じにたふないぅあぁあっ!」


 千切れかけた舌から鮮血を流しながら叫ぶ。

 だが、そんな生きたい、逃げたいという願いとは裏腹に、どんどんと体に力が入らなくなっていく。


 それでも必死にミナトは自身の体の力を呼び起こした。

 右太腿に絡められた、まるで丸太の様な太さの尻尾を掻きむしる。


 だが、怪物はその足掻きすら楽しんで嗤う。

 そして砲丸選手の様にぐるぐると回った後、ミナトを勢いよく投げ飛ばした。

 ミナトは頭から壁に激突し、ペギっと乾いた音が大きく一回鳴り響き、それ以降動くことはなかった。


 ――完全に遊ばれている。


 この死者達もそうやって殺されたのだろうか。


 野生の残虐性を存分にひけらかす怪物は、力加減を誤ったと後悔しながらミナトの方に近づいてくる。


(ああ……写真、写真を撮らないと……)


 頭からどんどんと血が流れていくのと同時に意識が薄れてゆく。

 もう既に体は動かず、次第に現実と夢の境が曖昧になる。


 元の世界の最後の記憶。

 とても綺麗な、綺麗な花のことを思い出していた。


(父さんと、母さんに……綺麗な、花。見せ……)


 ミナトは怪物の血と自身の血でビチャビチャになった手で、右ポケットからボロボロのスマホを取り出す。


 一方、怪物は口を大きく開き、ミナトの頭を噛み潰そうとする。


 ――その瞬間、白い光が部屋を包んだ。

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