第一話 異世界へと通じる穴
全てが嫌いだった。この薄い色の空も、あの地平線を遮るビル群も全て。
何もかも潰れて、何もかも死ねばいいと本気で考えていた。
「もう秋か」
人気が全くない場所にぽつんと置かれたベンチに座っている少年は孤独に呟く。
羽織った灰色のコート、虚な目。側から見れば完全に病んだ人間だ。
その目の前には紅葉した木が日陰でみすぼらしく生えており、それもまた、人生の欠落感を強調させている。
振り返れば、何もかもが不幸な人生だった。
加えてミナトは特徴のないモブ顔であり、勉強も運動も人並みで、恋人はおろか知り合いすら居ない。
それに、決して誰も彼を愛しはしない。
――つまり、人に誇れる事など何一つ無いのだ。
ここ十数年必死で努力をしよう、何かを成そうと思った事はなく、何も無い空の春夏秋冬をただ無心で過ごしていた。
(これが最後の景色か)
ふおりと吹いた風でミナトは肌寒さを感じ、ベンチを軋ませながら立ち上がる。
そしてコートのポケットに手を突っ込むと、体を縮めながら歩き始めた。
周りには誰一人も居ない。だがそれでもミナトは何回も辺りを見回す。
徒歩での帰宅。何も変わらない帰り道。
いつも通り、ミナトは見慣れた長階段をゆっくりと下りていった。
「ん?」
その途中、視界の端に何か青く光り輝く物が映りこむ。
ただの反射の様な、はたまた発光のような不思議な弱光だった。
ミナトは引き寄せられるように視界をそれに向ける。
(花? にしてはヘンテコだな)
外来種であろうか。
それは不明だが、素人目でも絶対に在来種ではないと分かる程にその花は派手な形をしている。
言うなればその形は百合に近いであろう。
その不可思議さについ気を取られたミナトは、よく見ようとその場にしゃがみ込む。
(だけど、よくよく見ると綺麗な花だな……)
無警戒で近付いてみると、花弁は見たこともない鮮やかな青であり、茎はラメを貼ったかのように細かく輝いている。
それに花特有の匂いが無いので、一瞬だけ人工物なのではないかと考えた。
だがそういう品種は存在するだろうし、造花には宿っていない生命力を感じたので直ぐに否定する。
そして一通りの観察が終わった後、ミナトは成る程良い事を思い付いたと微笑む。
(そうだ、写真を撮って両親に見せよう。……ちゃんと綺麗に撮らないとな)
そう考え、コートの右ポケットからスマホを出そうとしてすぐに気付いた。
――自身の真下に四角い大穴が開いた事に。
「なっ……!? うわぁあああっ!!」
瞬間、左手を伸ばしたが何も掴めなかった。
段々と浮遊感が増していき、焦りが内臓を強く引き絞る。
どうして。何故。
それを考える暇もなく、ミナトは深く落ちていく。
それでもただ、ミナトは訳も分からず右手でスマホを強く、強く握り締めていた。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
「……うぐっ、ぅううぅっ、ごほっゴホゴホっ!!」
どれぐらいの時間眠っていたのであろうか。
ミナトの意識が覚醒した途端、無意識で呻き声と咳が出た。
目を開けば、ぼんやりとした視界。
寝起きに近い感覚だ。それに背中が冷たい。
そして徐々に視界がはっきりするにつれ、焦りが募っていく。
「――ここはっ!? 確か僕は穴から落ちてっ……!?」
焦りがピークを越したミナト。
勢いよく仰向けの状態から上半身を起こし、突如開いた穴から落ちた事思い出して顔が青ざめる。
ミナトは直ぐに全身を触り、かすり傷すら無いことを確認した。
そして最後に自身の後頭部をそっと触り、手のひらを見る。
「はああぁぁぁっ……よ、良かった」
手に血が付着していないのを確認したミナトは、どうやらどこにも怪我が無いと分かり、安堵のため息をつく。
少しだけ落ち着いたミナトは状況を整理し始めた。
「ここはどこだ? トンネルの中か? にしても、階段の下にこんな場所が存在しているなんて……」
ミナトはキョロキョロと辺りを見回す。
そこは不思議な場所であった。
前方も後方も、光っている水晶が等間隔で壁についており、奥の方まで明るくなっている。
だが、その水晶は安っぽそうな見た目だ。削っても売れなさそうである。
通路の横幅はトラック約一台分であり、縦幅は少し窮屈と感じるぐらいだ。
壁の材質は薄いヒスイ色のタイルのようなもので、果物を刺せそうなぐらいギザギザと尖っている。
くすんだ床の表面はツルツルとしているが、何故か全く滑らない。
初めての感覚に、ミナトは思わず何回も触ってしまった。
「しかし、何で無事だったんだろ……俺」
ミナトは天井を見つめながら、自身の悪運を呪うの共に不思議に思った。
体感的には十五秒以上も落下していたが、骨折どころか擦り傷一つも無いのは流石に不気味である。
それに、あの穴は何故か何処にも開いていない。
何か得体の知れない寒気を感じたミナトは、とりあえずスマホで救急隊を呼ぼうとして気付く。
「……スマホが、無い」
先程の疑問も恐怖心も焦りで掻き消される。
ミナトは急いで立ち上がり、グルグルと辺りの床を見回す。
すると、後方にそれらしき物体があるのを見つけて走り向かった。
「ああそんな……! うそだ」
――ミナトは五体満足であったが、スマホは駄目だった。
画面には大きな亀裂が入っており、故障して電源がつかない。
なけなしの金で買った高級品がこうもあっさりと壊れてしまうと、心に大きくダメージを負ってしまう。
それよりもこれでは助けを呼べず、孤独感に打ちひしがれるのは決定的だ。
こんな不気味な場所で何時間も、いや、何日も彷徨わなければならない可能性に、一瞬にして絶望したミナト。
だが、そんな彼の目の前には約二メートルの古く、錆びついた扉があることに気づいた。
(とりあえず、行くだけ行くか……?)
この先には何か打開策があるかも知れない。
そう考えたミナトは、気は乗らないが進む事を決心した。
とりあえず、ボロボロのスマホはコートの右ポケットにしまって扉に手を掛ける。
案の定非常に重く、簡単には開かない。
あまりの重さに一瞬だけ諦めかけるが、現状他にする事がないのだ。
ミナトは全体重を乗せ、ゆっくりと扉を開けると、そこには――、
「――は?」
――そこには、地獄が広がっていた。
目の先には少女らしき肉塊が転がっており、正体不明の黒い物体がその付近に散らばっている。
その右の壁には茶髪の少年がもたれ掛かっているが、ばっさりと左肩から下が無い。
また、その腹の傷からは血がどくどくと出ており、虚ろな顔をして血の気がなかった。
そして天井は全体的に赤く染まっており、より悲惨な状況を醸し出している。
それらの情報を理解する前に、ミナトはどっと押し寄せる、酸っぱく鉄臭い臭いに襲われた。
「な、なんだあれ……」
だがミナトは全く反応せず、ただただ棒立ちしていた。
それは鼻の機能を停止させる程の情報量が、脳の処理速度を遥かに超えたからである。
――何か異質なものが、部屋の中央に"居る"。
「ガッッアァアァッ……」
それは巨大なキメラの怪物だった。
顔は豚、体と足はワニのような鱗に覆われている。
尻尾はズタズタだが成人男性の腕ぐらい太く、イノシシのような毛に包まれていた。
見ていて吐き気がするぐらい醜悪で歪な姿。
だがその怪物は全身から吹き出す紫の血色に厚毛を染め、血溜まりの中で倒れていた。
そして、部屋に入ってきた人間を見つけて呻きに近い唸り声を出す。
見た目通り瀕死の筈。
だが、血走った目を大きく開き立ち上がろうとするが、上手く力が入らずに倒れ込んだ。
「ああぁ、あぁあっ……」
瀕死の怪物。
だがそれでも、ミナトを恐怖の底に突き落とすのには十分だった。
恐怖により情けない声を出し、思わず尻餅をつく。
悪夢を見ている気分に陥り、気分が悪くなるミナト。
しかし、頭の中ではこれは現実だと理解している。
だからこそ、非常に強い絶望と非現実に押し潰されているのだ。
「たっ、たっあっあた……」
――全身の力が抜けていく。
助けて、という言葉は出せなかった。出せたとしても、誰も助けてはくれないだろう。
その惨すぎる現実がミナトの生きる希望を奪う。
「ガルル、ラアアァ!!」
怪物はこの好機を見逃さなかった。血を吐きながら雄叫びを上げる。
そしてズタズタの尻尾を素早く伸ばすと、ミナトの右太腿に巻きつけて力を込めた。
ミシミシミシと、厚紙を無理やり折ろうとするような音が鳴り始める。
「ばけ、ば、ものっ……! がぁあ、ぅうう!!」
折られる。
鈍い痛みに耐える中、直感でそう思った。
このまま放っておけば右太腿はぐちゃぐちゃにされ、すぐに失血死するだろう。
はっきりとした死のビジョンに震えるミナト。
だがその時、ミナトは見てしまった。気付いてしまった。
――男の生首が怪物の下敷きになっていることに。
「――っ! ああああぁっっ!!!」
心の奥底から急に湧いて出る死への恐怖。
それがミナトから火事場の馬鹿力を引き出した。
「クソクソクソクソっっ!! クソっクソっクソっ!」
巻きつけられた尻尾の傷口を掻き毟る。
同じ箇所に拳を叩きつけ、肘を叩きつける。
自由に動かせる左足で、蹴る、蹴る、蹴る。
必死に足掻く。必死に足掻く。必死に必死に必死に。
(死にたくない死にたくない死にたくない!!)
一心不乱に手や足を使い、尻尾の傷口を抉ぐる。
血が噴き出す。見えた血管を手で引きちぎろうとして失敗したので噛み千切る。
口の中に暴力的な味が広がるが、ミナトはそれに構っている程の余裕はなかった。
「グガアアァッッ……!」
もし怪物が万全の状態なら全く効かなかったであろう足掻き。
だが、決して浅くない傷口に対しての殴る蹴る噛むの攻撃は、今の怪物にとって致命傷になりうるかもしれなかった。
「グルゥゥ、ゥッ」
怪物は尻尾で殺せないのならば噛み殺せばいいと考え、全力でこちらに引っ張ろうとした。
だがミナトの必死の悪足掻きにより、思うように力が入らない。
結果、ミナトを約一メートルしか引きずることしか出来なかった。
――これが怪物にとって悪手だった。
(――っ! これはっ!!)
ミナトの側に、紫の血に濡れた剣があった。
既に死んでいる少年のものであったのだろうか。だが、今はそのことを考えている暇はない。
迷わずそれを手に取り、尻尾の傷口に突き刺す。
そして剣を引き抜き、何度も同じ箇所に叩きつけた。
「ガアアアアアッ!! ヴゥゥヴゥッ!」
怪物は堪らず、ミナトの右太腿に巻き付けている尻尾をほどいた。
いくら鱗で覆われて頑丈な尻尾だとしても、傷口に剣を何度も叩きつけられれば切り落とされる。
実際尻尾の根本は薄皮一枚でしか繋がっておらず、更に血がゴボゴボと溢れていた。
もう、尻尾では何もできない。
それに怪物は今完全に動けない。
――今しか無い。
ミナトは扉に向かい走る。
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