呪煙
餅"mochi"
呪煙
煙草の煙が嫌いだった。親戚が集まって酒を飲むと、空気が白く濁るのが嫌いだった。小児喘息を患っていた僕の前でお構いなしで吸う人間が嫌いだった。
愛煙家の両親に育てられた僕は、立派な嫌煙家になっていた。煙草を吸う人とは距離を取るようにし、何か理由が無い限りは極力近付かないようにしていた。
何故あんな煙たいだけの物を吸うのか、何故周囲の人間に害を撒き散らしてまで吸うのか、何故そんな物に対して高いお金を払っているのか、理解出来なかった。
誰かが室内で煙草に火を点けたとしたら、煙が行き場を無くして天井に溜まる前に逃げ出すのが常だった。わざと室内に残り大きく咳をしてみたこともあったが、それでも愛煙家達は吸い続けた。僕の苦情も文字通り煙に巻くのだ。
そんな僕も大人になり、喘息は息を潜めたが、未だに煙草は苦手だ。そういう嗜好の人も居るのだろうと一定の理解はするようになったが、苦手なものという区分が変わるわけではなかった。
しかし僕が就職した会社がよりによってパチンコ経営を主とする会社。パチンコ店に来る客は愛煙家だらけで、従業員にも愛煙家が多い。
僕が密かに想いを寄せる先輩の諸橋さんも例に漏れず愛煙家だ。太陽のように明るい人で、正直に言うと煙草がよく似合う女性だ。諸橋さんと話す為だけに、煙草嫌いな僕は今日も喫煙所に行くのだ。
「坂井君って今日の新台入れ替え参加組だっけ?」
諸橋さんが煙草を吸いながら聞いてくる。
「いえ、今日は僕は不参加ですね。明日早番なので」
「あ、じゃあ夜空いてる? 飲みに行こうよ」
「遅くまでは無理っすよ?」
「真面目だねぇ。だぁいじょうぶ。日は跨がないようにするからさ」
「結構引っ張るつもりですね……まぁ良いですけど」
「やったぁー! そうと決まれば残りの仕事も頑張れる!」
僕と飲みに行くだけで喜んでくれるとは、我慢して喫煙所に来続けた甲斐がある。
仕事が終わった僕は、着替えを済ませて喫煙所で待っていた。どうせ諸橋さんは仕事終わりに1本吸いに来るだろうという確信があったので珈琲でも飲みながら待とうと思ったのだ。
諸橋さんを待っている間、何人かの従業員が入れ替わりで煙草を吸いにやって来る。諸橋さんではない時点でそれなりに気持ちが萎えるのだが、皆と適当に交流を深めておくのも円滑な仕事の為だと言い聞かせる。
「坂井、お前帰んないの? 働いてく?」
仲の良い主任が冗談交じりに問いかけてくる。確かに仕事が終われば帰ればいいし、煙草を吸わない人間が喫煙所に来る理由もない。仕事が終わり煙草を吸わない僕が喫煙所に居るのは、傍目から見て疑問しかないだろう。
「働きませんよ……僕はこれから諸橋さんと―――」
「お待たせ!」
理由を言いかけた所で諸橋さん本人が颯爽と現れた。
ブルーグレーのボウタイと同色のVネックシャツ。やや青みがかった黒のスカートにストラップの付いた黒いパンプス。仕事中はポニーテールでまとめていた髪はハーフアップになっている。
落ち着いた大人の女性。そういう印象を抱くと同時に諸橋さんは僕の隣に座り、慣れた手つきで煙草に火を点ける。
「坂井。諸橋さんとなんだって?」
にやっと嫌な笑い方をしながら主任が聞いてくる。諸橋さんに対しての僕の気持ちに気付いているのかは分からないが、お前らそういう関係なのかと言いたいことだけはよく分かる。
これから諸橋さんと飲みに行くんですよ。と答えると、主任の笑い方はより一層いやらしさを増す。
「主任は連れてってあげませんからね」
遅番でまだ仕事を終えていない主任は当然来れるわけも無いのだが、諸橋さんは敢えて二人で飲みに行きたいのだと強調するように言った。自意識過剰と言われればそれまでなのだが、その言葉に今度は僕がにやけてしまう。
えーえー分かってますよ、お二人でごゆっくり。そう言い残して主任は仕事へと戻る。
「じゃ、私達も行こっか」
まだ吸い始めたばかりじゃないですか。そう僕が言うより早く、諸橋さんは吸いかけの煙草を水の入った灰皿へと放り込んだ。僕は言いかけた言葉の代わりにちょっと待ってくださいと言い、一気に飲み干した珈琲の空き缶をゴミ箱に放り投げ、諸橋さんに続いて喫煙所を出た。
「かんぱーい!」
この時を待ってました! とばかりに諸橋さんは大きな声で乾杯と言う。圧倒されながらも実際にこの時を待っていた僕は、後から続くように乾杯と応えた。
仕事上の愚痴。先の休みの過ごし方。他愛もない会話を続けている間、諸橋さんはころころと表情を変えていった。こういうところに惹かれたのだ。そう再認識していると、諸橋さんは煙草に火を点けながらそういえばと話題を変える。
「坂井君は煙草吸わないのにどうして喫煙所に来るの?」
いつかは聞かれると思っていた質問だった。とはいえ良い答えが用意出来ているかと問われればそういうわけではなく。手探りで答える。
「皆とコミュニケーションとりたいじゃないですか。せっかく同じ職場で働くことになったんだし」
皆と言うか諸橋さんと話したいだけではあるのだが、流石に真正面からそういう言葉を言えるほど僕の心は強靭に出来てはいない。
その為に来てたんだ、偉いねぇー! と諸橋さんは言い、続けて二つ目のいつかは聞かれると思っていた質問を投げかけてくる。
「煙草吸わないのに嫌いじゃないの?」
この質問の答えも用意出来ていない。必死に頭の中の引き出しを開けて言葉を探すが、良い回答となるものは何も見付からない。とはいえ時間をかけて言葉を探すと妙な間が生まれてしまう。どうしたものかと考えるより先に、実は……と言ってしまった。こうなったら後には引けないので正直に言おうと腹を括る。
「……本当は煙草苦手なんですよ。話したいから我慢してるだけで」
「えっ? あっ! ごめん!」
そう言って諸橋さんは即座に煙草を消した。いやいや良いんですよ吸ってもらってと言ったが、それでも諸橋さんは吸おうとしなかった。
ごめんね気付かなくて。無理させてたんだね。と暗い顔で言われる。心臓と胃が急激に縮こまったような感覚で苦しくなる。
沈黙。良い言葉を探してみるも中々見付からない。
「あ、じゃあこうやって会う時は香水つけてくるよ!臭いだけはまだマシになるかも!」
僕が言葉を見付けるより先に、諸橋さんは案を見付けたようだ。
「香水も苦手なんです……すいません」
僕は香水の作られたような臭いも苦手だった。香水の使い方を知らない人達が多く、使い過ぎな香水による香害が苦手だった。
そっか……と暗い表情を更に暗くする諸橋さん。縮こまった心臓と胃が更に縮こまって悲鳴を上げる。
「……じゃあ今日はそろそろ帰ろっか。明日お互い早番だもんね」
無理に笑顔を作っているのが手に取るように分かる。同意しお互い帰路についた後、僕は一つの決心をした。
「おはようございまえぇぇぇぇえええ!?」
諸橋さんがいつも通り喫煙所に入ってくる。と同時に挨拶と絶叫の混じった素っ頓狂な声を上げる。
「あ、諸橋さんおはよーございまーっす」
「え? いや、なんで? え?」
諸橋さんが挙動不審になるのも無理はない。喫煙所でいつも通りに挨拶をした僕の口には、本来そこにあるはずのない煙草が鎮座していた。
昨日の夜、自宅の最寄りのコンビニで煙草を買ったのだ。仲の良い友人が吸っていた銘柄を覚えていたので、とりあえず同じものを選んでみた。本当は諸橋さんと同じ銘柄が良かったが、女性がよく吸っている細身の煙草を買うのは少し気恥ずかしかった。
二人きりの喫煙所。座って煙草を吸う僕と、茫然と立って見下ろす諸橋さん。我ながら奇妙な光景だとは思いつつも、とりあえず諸橋さんに声をかける。
「とりあえず座ったらどうです? あ、火要ります?」
「え? あ、うん。要る……」
喫煙者って混乱しつつも煙草は吸うんだなと少し感心しつつ、僕は諸橋さんが咥えた煙草に火を点けた。
ありがと……とお礼を言う諸橋さんは未だに混乱している。僕の顔と煙草を交互に見て確認する様子が可笑しくて、僕はくすくすと笑いながら話しかける。
「何かあったんですか諸橋さん? 良ければ話してくださいよ」
「いや何言ってんの!? え!? なんで煙草吸ってるの!?」
その言葉を待ってましたとばかりに僕は話し始めた。諸橋さんと話す為に我慢して喫煙所に来ていたこと。昨日諸橋さんを傷付けてしまったこと。僕が煙草を吸うようになれば諸橋さんが気兼ねしなくても良いこと。
「そんなに私に気を使ってくれなくて良いのに……」
「いや気を使ってると言うか、僕がこうしたい理由があると言うか」
「理由?」
「諸橋さんのこと好きなんです」
言うタイミングはここなのか? と自分でも疑問を抱いた。これから仕事というタイミングで告白する奴が居るだろうか?
どんな返事が来るだろうか……と心臓の鼓動が大きくなっていくのを実感する。顔が異常に熱くなっているのが分かる。手に力が入り、指で挟んだ煙草がひしゃげた。
「火……火、消して」
意味の分からない返答に今度は僕が混乱する。諸橋さんが水の入った灰皿に煙草を落とすのを見て、つられるように僕も煙草を灰皿に落とす。
何が何だか分からない僕が何か聞こうと考えていると、諸橋さんに勢いよく抱き締められる。泣きそうな声でうーと言いながら抱き締めてくる諸橋さんに、僕は言葉を投げかける。
「僕と付き合ってもらえますか?」
それから喫煙所は定番のデートスポットに変わり、仕事以外でも頻繁に会うようになった。
「この前さ、坂井君の家の近くの店がネットの記事に載ってるのを見たんだ。そこ行ってみようよ」
いつものように喫煙所で煙草を吸いながら、明日のデートについて話を進める。
僕達の前提は煙草が吸えるお店であること。その上で美味しいお店や二人とも楽しめるお店を調べている。最近は吸えるお店が減ってきたので探すのも一苦労だ。
今回は僕の家の近くに良いお店があるとのことで、駅から遠い僕の家までわざわざ来て、それから歩いてお店に行こうと話していたところだ。
「それなら駅まで迎えに行きましょうか?」
「いいよいいよ。どうせ家の方に行くんだから無駄な移動になっちゃうし、タクシーで行くからすぐだよ」
まぁその通り無駄な移動ではあるのだが、その分長く諸橋さんと共に居られるのであればそっちの方が……と言おうとしたが、気恥ずかしさから言えなかった。
じゃあ明日の夜6時に家で待ってます。そう約束して職場を後にした。
明日はどんな服装にしようか。と考えながら、最寄りのコンビニでいつもの煙草を買って帰った。
当日はあいにくの雨。歩いて行く時に足元濡れちゃうかもね。などと他愛ない会話を連絡し合い、これからタクシーに乗るという連絡の後、ぱたりと連絡が途絶えた。
僕は待った。遅れそう?などの連絡にも返信が無い。約束の時間を過ぎても連絡はなく、流石に何かあったのかと思い電話をかけてみる。幾度か呼び出し音が鳴った後、電話が繋がった。あ、諸橋さん? どうしたの連絡……とまで言ったところで僕の言葉は遮られた。
「この電話の女性のお知り合いですか!?」
酷く焦った男性の声に気圧され、そうですけど……と肯定する。
「女性が乗っていたタクシーが事故に遭いました!お知り合いでしたら病院をお教えしますのですぐお越しください!」
そこから先は正直覚えていない。
気が付いたら僕は、たくさんの花と共に棺に入れられた綺麗な諸橋さんを見下ろしていた。別れの言葉をかけてあげてと諸橋さんの親族に頼まれた。
バイバイ、さよなら。それらの言葉は冷たく突き放すような印象があり、好きではなかった。しかし、またね。とは言えない。また会えない事は分かりきっているから。
開いた口は音を発することはなく、何かを求めるように幾度か動いた後、固く一文字に結ばれた。
涙が溢れ出す。どうしてこんなことになったのか考えてしまう。足からするりと力が抜けていき、僕は棺にうずくまった。
タクシーの運転手や追突したトラックの運転手を恨む気持ちにもならなかった。恨むだけの気力も無かった。恨めたらどんなに楽だろうかと考える余裕すら無かった。
僕の頭にあったのは自責の念だけだ。僕が諸橋さんを迎えに行けば、僕が他の店を提案していれば、僕が、僕が! 僕が!!
僕が、諸橋さんを、殺したんだ。
今日も電話が鳴り響く。あれから僕は仕事にも行かず、無断欠勤をして引きこもっていた。
いつ諸橋さんが来ても良いように、好きだった銘柄の煙草をテーブルに置いたまま、僕は煙草を吸っていた。
あれだけ急に居なくなったんだ。だから急に戻ってくるかもしれない。約束の場所である僕の家で待っていなきゃ。そんな思いが僕を家に縛り付ける。
職場から実家の家族に連絡がいったようで、両親が僕の家にやってきた。話し合いと呼べるほど僕は話せなかったが、両親の話し合いで母だけが僕の家に残ることになり、父は実家へと帰っていった。
仕事は正式に辞めた。それからというもの、もう外へ出る理由が無くなった僕は、家で煙草を吸うだけの生活を続けた。諸橋さんの事を忘れない為に、いつ諸橋さんが来ても良いように。煙草を吸うだけの生活が続いた。
雨が降っていた。あの日と同じように、暗く重たい空だった。
ただでさえ暗い気分がこういう天気だと一層深く沈む。どこまで沈み続けるのが分からないほど、僕の心は沈み切っていた。
「お前はいつまで煙草を吸っているんだい」
不意に母が僕に尋ねる。たったそれだけの事が切っ掛けだった。
煙草が僕自身を呪う道具になってしまっている事に気付く。
誰の目から見ても明らかに僕に責任は無い事故だった。それでも責任を負い続ける事は、諸橋さんを呪いの元凶に仕立て上げることだ。僕を縛り付ける煙という呪縛の元凶に。
僕は愛する人を呪いの元凶から解放したい。僕自身を呪いから解放するだけではなく、僕に縛られている諸橋さんを解放してあげたい。
そのことに気付いた僕は、煙草を断つ決心をした。
最後の煙草は諸橋さんと一緒に吸う。そう決めていた僕は、墓地に来ていた。
諸橋さんの墓前まで歩いていく。昨日の雨の影響で所々水溜まりが出来ているが、空は晴れ渡っていた。
「久しぶり、諸橋さん」
墓前に着いた僕は諸橋さんに話しかける。当然返事があるわけではない。それでも僕は続けて話す。
事故から呪いの話までし終えた後、僕はすっかり慣れた手つきで煙草に火を点す。ライターを仕舞ってから諸橋さんの好きだった細身の煙草を取り出す。
口に咥えた煙草の火種に細身の煙草を触れさせ、僕はもう一度息を吸う。僕の煙草から細身の煙草へ、火種は二つに分かれる。
燭台に細身の煙草を置き、ゆっくりと時間をかけて二人で煙草を吸う。
二本の煙草から上昇する煙と共に、僕の呪縛は空へと溶けていった。
煙の溶けた先の空には、僕を見守ってくれているような太陽があった。
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