名前で呼んで
苦しい、息が出来ない……いや、厳密には出来るには出来るんだがとにかく苦しい。
「……助けてくれ」
真っ暗な視界の中、助けを呼んでも返ってくる言葉はない。それどころか更に圧迫されるような力を感じる。まるで大きな何かに体を押さえつけられているような感覚、金縛りを受けているかのように全く体が言うことを聞いてくれない。
「何なんだこれは……姉さん助けてくれ……」
俺は確か姉さんと同じベッドで眠ったはずだ。もしこれがまだ夢の中なら姉さんに声は届かないだろうけど、それでも俺はそう言わずには居られなかった。苦しい、マジで苦しい……誰でもいいから助けてくれ!!
「……っ!!」
ふっと力を入れて目を開けようとすると、ようやく俺は目を覚ますことが出来た……? 息苦しさは変わらず視界も真っ暗なまま……くそ、一体どうなってんだ。
「もう蓮? 朝からお姉ちゃんに甘えるなんて可愛いわね!」
「……あ、そういう」
なるほど全てを理解した。
俺は落ち着いて目の前の何かから顔を離す。すると一気に空気が体の中に入ってきた。どうやら俺はまた姉さんの胸で窒息しかけたらしい……男なら女の胸で死ねるなら本望? 冗談じゃない、そんな死因は恥ずかしすぎるね。
「ってまだ全然時間あるじゃん」
いつも起きる時間よりかなり早い、もうひと眠りしようと思えば出来るけど……流石にもう完全に目が覚めてしまったかな。姉さんはもう起きて準備をするだろうし、偶にはこうやって早く起きるのもいいかもしれない。
「あら、まだ寝てても良いと思うけど」
「偶にはこんな日もいいかなって。姉さん先に風呂行くでしょ?」
「そのつもりよ……あ!」
「一緒には入りません」
「……意地悪」
意地悪って何さ意地悪って。いつもは朝風呂に行くことはないんだが、昨日の酒の匂いに塗れた姉さんと一緒に寝たからなぁ……そんなに濃く匂いが残っているわけじゃないけど、とりあえず姉さんの後に俺もシャワーは浴びることにしよう。
「さてと、それまで今日の準備を……うん?」
部屋を出ようとした時、俺の視線はカレンダーに向けられた。それは特に何もないカレンダーだが、一つだけ気になった場所がある。それは11月22日の場所が黒く塗り潰されている。自分の誕生日を記すためにしては少しやりすぎというか物騒というか、とても記念すべき日に対する印には思えなかった。
「……思い出せ?」
ミミズが這ったような雑な字でそう書かれていた。……ふむ、全く意味が分からん。それから俺は姉さんが風呂から出た後にシャワーを浴びる。何が何でも入ってこようとする姉さんを撃退しながら済ませ、兄さんも揃って朝食を終えた。
「それじゃあ行ってきま~す」
「いってらっしゃい」
いつものように姉さんに見送られて俺は家を出た。普段よりも遥かに早い時間だが、それが原因なのかいつもより人通りが少ない。偶にはこんな静かな空間を歩くのもいいな、俺はそんなことを考えていた。
「……ふわぁ」
確かに気持ちの良い目覚めの朝ではあったのだが、いつもより早いということでやはり欠伸が出てしまう。それから何度も欠伸をしながら通学路を歩いていると、見覚えのある二人の姿を俺は見つけた。俺の前を歩いているのは夢野と有坂だ。特に何も話をしている様子はなく、淡々と一緒に歩いているだけのようだ。
「学校に女の子と一緒に行くってそれだけでステータスだよなぁ」
俺の場合こうして一人で歩くか、知り合いと歩くかのどちらかしかない。二人の背中を眺めつつ、特に合流しようとも思わないため俺はその距離を縮めないでいた。暫く歩いていると何故か夢野が立ち止まり、有坂に何かを口にした。すると有坂は一つ頷いて夢野から離れ、そのまま先に歩いて行ってしまった……何だ?
角を曲がって有坂の姿が見えなくなったその瞬間、夢野はクルッとこちらに振り向いた。
「!?」
……すまん、割と冗談抜きでビックリした。俺がビックリしたことを察したのか夢野は苦笑し、俺の元へと駆け足で近づいてくるのだった。
「おはよう神里君。今日は早いんだね?」
「おはよう夢野。まあ色々あってな。いいのか?」
「何が?」
「有坂を先に行かせて」
「いいよ全然。それよりも、体調はもう大丈夫?」
一応昨晩に一緒に保健室へ行ってくれたことのお礼はしたが、どうやらずっと気にしてくれていたのかもしれない。
「大丈夫だよ。放課後は健一とも遊んだし、家でもゆっくりしたから万全だ」
「そっか。それは良かった。……って、遊ばずに真っ直ぐ家に帰ろうよ」
「……申し訳ねえ」
「ふふ、仕方ないなぁ」
気に障ったかと思ったがそんな様子は全くなく楽しそうに夢野は笑っていた。
「それにしてもよく分かったな俺が後ろに居たの。こっち見てないでしょ?」
「え? 神里君のことならすぐ分かるよ?」
「……え?」
「? おかしなことかな?」
不思議そうな顔で首を傾げる夢野……別におかしなことではないのか? いやいや、そんなことはないでしょうよ。
何だろう、無駄に朝から疲れた気がする。夢野と話をするのは嫌ではないし楽しくはあるんだけど、いつまでもこうしていては学校に遅れてしまう。足を動かすと当然のことながら夢野も歩幅を合わせるように俺の隣に並んだ。
「一緒に行くの?」
「うん。嫌?」
「嫌じゃないよ」
夢野みたいな子と一緒に登校するのはむしろ嬉しくはある。ただ、このまま行くと先に歩いて行った有坂に変な目で見られてしまいそうだ。ただ、そんな俺の悩みを察したのか、或いは最初から考えていたのかは分からないが夢野がこう口にした。
「噂とかされちゃうと神里君が困るだろうし、途中までお話しながらいこ?」
『麻美さんには負けられないもん。だから途中までは一緒にいこ?』
小首を傾げる夢野、その夢野の隣に薄っすらともう一人の夢野が見えた気がした。一度瞬きをするとその夢野は消えてしまい、いつも見ている夢野が目の前に居る。
「……分かった」
「うん♪」
それから俺は初めて夢野と一緒に通学路を歩き出す。お互いに特に話すことはそんなにないと思っていたのだが、夢野は弟さんのことが本当に大切なのか優しい表情で話してくれた。どことなくそんな夢野の姿が姉さんに被って見えることもあって、やっぱり下に弟や妹を持つと感性が似るのかなとも思ったりした。
「ねえ神里君」
「うん?」
「名前で呼んでもいいかな?」
少し照れた様子の夢野に俺は頷いた。別に名字だろうが名前だろうが呼び方は構わない、仲の良い人は基本名前を呼ぶからな。新城さんは名前を呼ぶ男性は彼氏だけがいいとのことで、彼女に関してはいまだに俺を名字で呼ぶけど。
「分かった……れ……れ…れれれ……」
「そんなに緊張します?」
レレレのおじさんかな。
夢野は一度深呼吸をして、改めて俺の名前を呼ぶのだった。
「……蓮君」
「おう」
あの夢野に名前を呼ばれたのは少し感動を覚えたかもしれない。妙な胸の高鳴りを感じていると、今度は夢野が名前を呼んでほしいと口にした。
「亜梨花」
「……むぅ、少しも恥ずかしがらないのが悔しい」
それは俺が悪いのかな……まあでも、緊張がないわけではなかった。けれど夢野は口を尖らせているが嬉しそうな様子を見れると俺も嬉しくなる。……けど、一つ不可解なこともあった。
「どうしたの? 蓮君」
「……いや、何でもない。それじゃあこの辺で別れる?」
「そうだね。それじゃあまた学校で!」
「おう。またな、亜梨花」
「っ……うん!!」
パタパタと駆けて行った夢野……亜梨花の後ろ姿を見送って俺は考えに耽る。
「……どうしてかな。名前で呼ぶことに緊張はしても、それが普通のように感じたのは」
自分でも分からない気持ちを抱えたまま学校に行くが、少しすればその違和感も消えてなくなってしまう。
亜梨花と別れたとはいっても学校に向かうことに変わりはない。いつもより早いのもあって時間はまだまだ余裕がある。俺は少しだけ、そんな不思議なことを考えながら足を進めるのだった。
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