第69話 私(三津谷香織)
小さい頃の私はよく兄の背中を追う少女だった。
俗に言う、お兄ちゃんっ子。
それは単に兄が好きだという気持ちから生じる行為だけではない。
性格面的に考えて、私は……一人が嫌いなのだと思う。
一人で何かを始めることの恐怖。
一人でいることの寂しさ。
それに臆する弱い部分を性格面に隠し持っている。
小さい頃の私は極端に寂しがり屋で、寂しさから逃れるあまり兄の背中を付いて回っていた。
どこへいくにしても、前を往く兄に付いて行った。
そうするのが一番落ち着くから。
兄には悪いかもしれないが、兄に対する気持ちは一種のオマケとも言える。
両親が仕事で忙しく、家を空けることが多いから兄を拠り所として使っていただけ。
母がもしも家に入れば、拠り所としての役割は変わっていたに違いない。
でも、今となっては兄で良かった。
母を拠り所にしていたら、兄とはこんな風に話すような間柄ではなかった。
お互いに素直じゃないのを拗らせ、いつまでも兄妹であって赤の他人を演じていたかもしれない。
しかし、これはあくまでも結果論でしかない。
あくまでも『今となって……』だ。
兄が抱く本当の気持ちを気にも留めず、私と向き合い続ける兄にどこか勘違いしていた。
勘違いも甚だしいほどに……。
兄が怒るのも当然。
だが、当時の私はそれを薄々気付いていながらも、気付いていない振りをしていた。
兄の優しさに漬け込んで、マイペースなまでに振り回そうとした。
結果、四年前の沖縄でのあの日、その愚かなまでに自分勝手な気持ちが兄を激怒させ、ウザがられて「鬱陶しい」とまでに突き放され……私は逃げた。
悔しくて悔しくて堪らない気持ちに駆られて兄から遠ざかった。
でも、足が止まってしまい、気付けば振り返っていた。
『なんで……』
反対方向に遠ざかる背中。
自分の気持ちと正反対に向かう兄の背中が遥か遠く感じ、胸が酷く張り裂けそうなくらい私は一人ぼっちであると思った。
滑稽なことに、私はそこでようやく気付いた。
近いと思っていた心の距離がこんなにも離れていたことに。
『待って……行かないで』
怖い。
寂しい。
一人ぼっちにしないで。
寂莫な感情に駆られ、気付けば小さくなる背中を追い求め、足が動いていた。
周囲なんて顧みず、ただ一心に兄の背中に手を伸ばす。
その行為が余計に兄を激情させるとも知らず、我儘で身勝手なまでに私は私の気持ちを優先させた。物理的にも、心の距離においても離れたくない一心から。
あぁ……私って本当に寂しがり屋だ。
構ってちゃん、ブラコンだと言われても仕方がない。
まぁ、拒絶されても尚、時折兄に対して執拗に接していたのは単なる嫌がらせでしかなかった。
関わるのが嫌なら、いっそのこと極端にウザがられてやろう。
単なる腹いせでしかない。
多少なりとも効果はあったようだが、私はそれで心が満たされることはなかった。
やっぱり離れたくない。
直ぐ近くにいるのに、どうしてこんなにも遠くに感じるのか。
それがどうしても寂しかった。
だから、その気持ちを埋めようと……忘れてしまおうと始めたのが芸能活動。
アイドルになった経緯はどうあれ、私は春乃や柚野、麗華さんといった人達と出会った。
デビューライブから三人で何かをする時間が多く、一緒の生活が増えていた。地方の遠征時では寝食を共にし、裸の付き合いをする仲にもなった。
初めはあんな風にオッサンみたいな性格ではなく、お淑やかで大人し気な春乃や出会った当初から何一つ変わらないマイペースな柚野。
二人をよく知ることであの時に感じていた寂しさは完全になくなっていた。
その時の私はこう感じた。
自分の弱さからようやく乗り切ったのだと。
成長した。
強くなった。
打ち勝った。
自己肯定感を高め、自らの強さを過信するあまり……全然成長していないことに気付いていなかった。
気付いたのは一年前に行われたあるライブでのこと。
持ち歌披露で私がたった一人でステージに立ち、バラード曲を歌う際、私はいつものクセで両隣に居る二人に目を向けるも……二人の姿がないと気付く。
それは当然だ。
私が一人でステージに立って歌うのだから。
でも、気付いた途端に私はまた寂しいと感じてしまった。
変な話、客席には多くの人々が居て、舞台袖から春乃や柚野達が見守ってくれている。
寂しさなんて感じないくらい多くの人々が寄り添っているのに、私は一人でいるように思えた。
普段よりも客席側の照明を暗く、ステージ側からだとスポットライトの先が真っ暗闇にしか映らない。それが寂しいと連想させた。
(声が出ない……)
始めはただの緊張だと思った。
初めてのソロ歌唱で極度に緊張しているのだとそう思ってた。
しかし、身に覚えのある感情が胸の内から広がって直ぐに気付いた。
私は寂しいと感じている。
克服した筈の弱さがまた蘇ろうとしている。
いや、違う。
克服などしていなかった。
私は単に見て見ぬふりをしていた。
悪く言えば、逃げたことを成長したと思い込んでいた。
弱い自分と向き合っていたようでしっかり向き合っていなかった。
歌う前、二人に目を向けていたのが何よりも証拠。
あれは『行くよ』という合図でもあり、『居るよね?』という確認も含まれていた。
一人じゃない。
三人だと安心を得ることの確認。
それがその時になってようやく気付いた。
私はあの時からずっと臆病で寂しがり屋なままだと。
♢
辛い……。
身体が熱く、目を開けただけで激しい頭痛に見舞われる。
朦朧とする意識の中で身体を起こすにも気怠さが勝って起きる気にもなれない。
風邪を引いたのはいつ振りだろうか。
体調管理は常に万全を期して過ごすよう心掛けている。
早寝早起きは勿論のこと、適度に休息を取って身体を休める時はしっかり休ませる。
そのメリハリを意識してはいたものの、昨日までの二週間はそれが全然守れていなかったと認めざるを得ない。
ライブ、ファッション誌の撮影、ラジオ、一部深夜番組に出演するための収録等の慣れない仕事に身体が追いついていなかった。気持ちだけは強く持って、勢いで乗り切ろうとしたばかりにこうなっては今後の仕事にも支障をきたしてしまう。
反省しなければ……
『グ~』
窓の外の明るさ具合からして今はもう夕方。
濡れタオルが額に乗せてあることから母が既に帰ってきているのだろう。
それすら気付かずにずっと何も食べずに寝ていたからか、物凄くお腹が空いた。
叫んで下にいる母へ何か持って来てもらうかと思うも喉の奥がイガイガして痛く、声を出す気にもなれない。
仕方なく別の方法で頼もうとスマホに手を伸ばしかけると……玄関の扉が閉まる音が聞こえ「ただいま」という兄の声が薄っすら届く。
少し疲れを感じさせる声。
無事に何も問題なくレッスンに参加出来た。という言葉を聞きたいが、不安でしかなかった。
「大丈夫なのかな……」
腹ごしらえも兼ねて兄にメッセージを送って招集をかけようとした直後……
「入るぞ」
ドアがノックされ、返事をするも間もなく部屋に入ってくる。
替えの冷たいタオルとプリンを持ってベッドの前に立つ。
「あれ、起きてんのか」
「うん。それ頂戴」
「母さんがお腹空かせるだろうからって」
駅前のケーキ屋で売っているなめらかプリン。
風邪を引いた時はよく胃に通りやすく、食べやすいこのプリンを口にしていた。
スプーンと容器を受け取った私は直ぐに食す。
甘苦いカラメルに卵の味が絶妙にマッチし、喉の痛みが緩和されるかのようである。
「で、どうだったの?」
「バレた」
「でしょうね。期待はしてなかったし」
その割には全然後ろめたさはなさそう雰囲気。
「事情を説明したら納得してくれた。明日もまた来いって言われたよ。お前のプロデューサーさんに」
麗華さんが認めたのは意外だったが、一先ず何もお咎め無しであったことに安堵する。
「良い曲だな、新曲」
「ハマったの?」
「割と……」
満更でもなく照れ臭そうにして頬を掻く。
決してアイドルなんかと縁がなかった兄が謎の変身アイテムを手に入れて、私と同じアイドルをしている。それでいて今日は私に扮してバレずにレッスンを終えて帰ってきた。
それは明らかに普通ではないのに、違和感がないのは不思議。
兄なら私の代わりが務まる。そんな風に思い込んでいるのだろうか。
いや、今は止めておこう。
考え過ぎると余計に頭が痛くなるだけ。
さっさとプリンを食べ終えてしまおう。
「あぁ、そうだ。お前に渡しておくものがあった」
「なに?」
トートバッグの中からある物を取り出す。
「CD?」
表面には題名も何も記載されていない一枚のコンパクトディスク。
「一応、お前のスマホにも同じ中身の曲を送っているらしいが、一応渡しておく」
曲……ということは新曲の音源なのだろう。
しかし、【ハルノカオリ】用の音源は既に受け取っている。
となると、これはユニットとは別の音源。
SCARLETでの新曲を出すのかと予想しつつも試しにスマホの方で再生してみる。
ピアノ……いや、キーボード。
穏やかな音色に載せられた爽快なまでに透き通った綺麗な歌声が歌詞に込められた想いを一つずつ正確に読み上げていく。
この声……どこかで……
聞き覚えのある特徴的な歌声に暫く耳を傾ける。
兄も同様にして歌を聞き入っていた。
一音も外さず、正確なまでに音程を捉えて尚且つ気持ちの籠った声。
絶妙な調和が取れ、一つの曲が完全に完成していると痛感させられる。
だが、この曲が私に伝えたいのはそうじゃない。
この曲は多分、私に向けて作られたもの。
SCARLETでも、ハルノカオリで披露するものでもなく……三津谷香織として一個人に歌ってもらうために麗華さんがこの歌声の主である方に作詞・作曲を頼んだに違いない。
「あと、この曲を渡す際に伝言も頼まれた。『進みなさい』って」
「……!」
「それと練習するにしろ、しないにしろ。どっちでも構わない、判断は任せる、だそうだ」
その言伝とCDを残した兄は食べ終えたトレーに載せた空の器を持ってリビングへと戻っていく。
バタンと閉められたドアの音を聞き、再びベッドに背中を預けた私はぼんやりとた顔で天井を仰ぐ。
「進みなさい……か」
風邪で鈍くなった思考力でも理解できる言葉の意図を頭の奥深くに刻みつつ、瞼をゆっくりと閉じた私はもう一度スマホで曲を再生した。
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