第70話 潜入③
「おはようございます」
見慣れないスタジオのドアを引き、いつも通りの口調で挨拶する。
照明の付いたスタジオ内には誰もいない。
一番乗りかと思い、足を踏み入れようとする寸前で一旦立ち止まる。
死角からバッと現れた影が空を抱きしめ、「なに、気付かれた!?」と驚きを露わにした。
やはり潜んでいた。
明るいスタジオに誰もいない……なんてことはない。そう判断した俺はドアの横に隠れて、側面から何か仕掛けてくるであろう春乃さんの行動を予想し、見事に的中、回避した。
「流石だね~ヒカリちゃん」
「ドア開けるの恐怖症になるんで止めて下さい」
「もう大げさだな~」
そのスキンシップの激しさをどうにかして欲しいものだが、こうして頻繫に会う間柄ではないし、まだ香織みたいな仲ではないから少し言い辛い。
それでも気兼ねなく向こうから接してくれるのは多少なりとも有り難いことだ。
「それより、香織は大丈夫そうだった?」
スタジオ内で練習着に着替える片手間に答える。
「今朝もまだ熱はあったから、治ってはいないかな。多分、明日も来れない」
「そっか……明後日からお盆休み入るし、香織にはしっかり休息を取ってもらう方がいいかな」
「そうね。春乃の言う通りね」
新たに二人、スタジオ内に入ってくると分厚い防音扉を閉める。
着替えるの止めて挨拶を述べた後、憂いを帯びた麗華さんは深い溜息を吐く。
「あの、私ここにいていいんでしょうか?」
「ごめんなさい。今の溜息は違うわ。香織に無理をさせたことに少し後悔しているの。いくらあの子が自分でやるとは言ったものの、スケジュール調整と管理が甘かったのは否めないし」
自分の非を真っ向から認め、香織の体調不良を生じさせた責を深く受け止めるこのマネージャーに俺は人柄の良さを感じた。
少し無愛想で硬い表情ではあるものの、三人のマネジメントを真剣に取り組み、心の中では誰よりも熱く三人を応援していて且つ人にあまり見せない優しさを持っていると認識した。
ちなみにだが……春乃さん、麗華さん、傍らで準備するタムタムの三人はここにいるのが三津谷香織に扮した三ツ谷ヒカリであると既に知っている。
詳しい話は遡ることの昨日のレッスン終わり……
♢
意外とハードだった。
休憩の合間に買った二本目のスポーツ飲料を飲み干し、額から流れる汗をタオルで拭う。
頭から最後までたった三時間で一通り全部触れるとは思ってもいなかった。と言っても、この曲は二人のデュエットが中心で、頭からサビの部分はダンスよりも歌がメイン。
しかし、サビの少し前からダンスの方が少し激しさを増し、十秒間の間奏中に披露するシンメトリーはダンスの見せ場でもあることから、今日の所はそのパートを重点的に行った。
香織が倒れてでもレッスンに行こうとしていたのは恐らくこのため。
息の合った足の運びを求められる以上、片方が欠けた中での練習はあまり練習とは言えない。
立ち位置の確認、お互いの距離感や動作のタイミング……それらが対称的に見えてこそ、この曲のダンスにおける見せ場であると言える。
別段、そこまで難しいダンスは要求されない。
来る前の動画でサラッと触れ、レッスン冒頭でゆっくり動きを確認する程度でどうにか誤魔化しはついた。息の合った動きをするのは少々苦労したが。
「いや~良かったよ。初めての合わせでこう上手くいくとは思わなかった」
「息ピッタリとまではいかないけど」
「そうだね。それはまた明日からの練習で合わせるしかないね」
「それにまだ、もう一曲あるんだし。うかうかしてる暇はない」
「お~やる気だね。ちなみに明日も来るの?」
……え?どういう。
「え、香織じゃなくてヒカリちゃんだよね?」
自然な流れで正体を看破された。
「いつから気付いて……」
「気付いたのはダンス中。振りがいつもと全然違うし、いつもは香織が合わせてくるのに今日は鏡ばっかり見て余裕なさそうだったし」
本当に人をよく見ている。
言葉遣いや口調では流石に見抜けなかったようだが、やはり動きのクセで大きく違いが表れていたようだ。それに春乃さんを直接見るのではなく、鏡越しで動きを確認していたのもバレていた。
後半になるにつれて、妙に動きが合い始めたのは春乃さんが合わせてくれていたから。
完全におんぶにだっこの状態で尚且つヒカリだとバレていた。
「いや~ヒカリちゃんも必死に隠してるから何だか言い辛くて」
「正体隠していたのはこっちだし」
「そうね。その辺り、事情を説明してもらえるかしら?」
春乃さん同様にタムタムもまた気付いていた。
レッスン中、二人からやけに注目して見られていると思い、薄々勘付かれているのではないという懸念通りの結果ではあるが、仕方なくここは今回の経緯を説明した。
「香織が風邪……まぁ、無理もないか。あの量の仕事は私でも堪える」
「仕事が大事なのは分かるけど、休む時はしっかり休まないと身体を壊しちゃうわ。特に彼女みたいな若い子は……」
「はい。だから、私が代わりに来ました」
「まぁ、香織の代わりが務まるとしたらヒカリちゃんくらいだもんね。にしても、本当にそっくりだね……話してるだけだったら全然気付かない!」
「迫真の演技だったわ」
身体の隅々まで触れて香織とヒカリの比較をしようとする春乃さんの手を払い除ける。
「結果的にバレては元も子もないです。それに本番は私ではなく香織、合わせるのは本人じゃないと意味ないのでは?」
「あ~多分だけど、香織はこう考えているんだよ。ヒカリちゃんに一人二役やらせようって」
「え、どういうこと?」
一人二役の意味が把握出来ない。
春乃さんの言葉に「なるほど」と同意したタムタムに説明を仰ぐ。
「休んでいる間、ヒカリちゃんに練習してもらって後日、どこかで合間を縫って二人で合わせる。その際にヒカリちゃんは春乃ちゃんのパートをコピーして付き合ってもらう的な感じかしら」
「つまり、自習練か何かで私が春乃さん役をやると?」
「そだね。デビューライブはお盆休みが開けた約一週間後の日曜日。この三日間が終われば私達は練習する機会が極端に減っちゃう。そこで一人二役が出来るヒカリちゃんを思う存分使ってやろうっていう考えだね。香織は」
あいつは悪魔だな。
風邪を引いているからまともな判断力は残していないかと思いきや、しっかり事後を見据えた上で代役を容認していた。推測でしかないが、本人もそう認めるに違いない。
「なんだかごめんね。私達の事情に付き合ってもらって」
「代わりに行くって言ったのは私だし……この際、唯菜の為を思って二人に協力する」
「おやおや、何でそこで唯菜ちゃんが出てくるの?」
「唯菜が二人のデビューを楽しみにしてるから。それに一役買えるなら、私は手伝う」
これは分かり切った建前。
本心を言えば、香織のためである。
せめてもの罪滅ぼし。
仲直りしたと言えども、まだ誠意は示せていない。
俺が過去の自分を許すためにも何かしら行動で償うべきだと決めているなら……この機会に少しでも返そう。俺、あるいは私でしか返せないもので。
「ふふっ、ヒカリちゃんらしいわ」
「うん。唯菜ちゃんが羨ましいよ。こんな頼もしい相棒がいて」
「あら、あなたにとっての香織ちゃんはそうじゃないの?」
「どうでしょう……私はまだ二人の域に達していないと思ってますから」
いつも明るい春乃さんが今だけ少し気落ちした表情をみせた。
二人の関係を詳しくは知らない。
俺の観察力では二人の関係は良好でしか映らない。
だが、お互いにまだ深い信頼を築いている間柄ではないというようにも捉えられる。
「気にしないで下さい。これは私が解決しますから」
確かに、そこをどうこうするのは本人達次第。
赤の他人が二人の関係に口を挟む余地なぞない。
「まぁ、それは置いていて。ヒカリちゃんの覚悟も聞いたことだし、麗華ちゃんが戻ってくるまでの間はスタイル使っていいみたいだから、立ち位置替えて練習しましょうか」
「え?」
「賛成!」
今ので体力が少し回復したと言えども、正直言ってもうヘトヘト。
今日初めて知った曲を覚えるべく、脳をフル回転させて練習に取り組んでいた影響が大きい。
「大丈夫だよ。さっき覚えた動きを逆にすればいいだけなんだから」
「いや、そんな簡単に言われても……」
「唯菜ちゃんのため、なんでしょ?」
「……タムタム、第二ラウンド」
「いい心掛けね。私も気合い入れて指導するわ!」
いつになくテンション高めのタムタムも手拍子でリズムを刻む。
俺と春乃さんは互いに位置を入れ替えて、曲に合わせてさっきとは対称を意識して踊ろうとした直後……分厚い防音扉が勢いよく開かれ、息を切らした麗華さんが戻ってきた。
「あら、おかえりなさい。会議は済んだのね」
「色々あったけど、無事に」
少しばかり乱れた髪を整え、目線をこちらに向ける。
「香織、あなたに渡したいものがあるの」
そう言って手渡そうとするのは一枚のCD。
「それって彩香ちゃんの?」
「以前、ジルを介して頼んだものよ。それが今日、届いた」
「これは?」
「聴くか聴かないかは別にして……一応、渡しておくわ。あなただけの曲」
「香織だけの曲?……あ」
「え……もしかして、あなた!?」
マズイ。これは確実にバレた。
「はぁ……ジル、やってくれたわね」
「いえ、ジル社長は関係ないです。あくまでも私個人の判断なので謝罪すべきは私で……」
「結構よ。多分だけど、香織の代わりに来たということはあの子、体調でも崩したのよね?」
「そうです」
「やっぱり。一昨日から疲れていそうな顔はしてたから不安だったのだけど……ごめんなさい。あなたには私から謝罪します。それから親御さんにも同様に……」
「あの!それは大丈夫ですから……今は一旦、落ち着きましょう」
この人、明らかに三ツ谷ヒカリの正体が香織の兄である陽一だと知っている。
こうして話すのは今日が初めてではあるものの、ジル社長と交流の深いこの人なら気付いていてもおかしくない。かと言って、春乃さんの目の前でそれを話されても困る。
「そう、ね。ごめんなさい」
どうやら俺の意図に気付いてくれたようだ。
「どうやら疲れているのは麗華ちゃんも同じみたいね。今日は一先ず、レッスンを終わりにして少しくらい休息を取ったら?」
「お気遣いありがとう善男君。お言葉に甘えてそうさせてもらうわ。それと……」
改めて視線をこちらに戻し、再度CDを手渡す。
「これ、伝言も付けて香織に渡しておいて」
「分かりました」
「じゃあ、お願いね」
♢
というのが昨日の経緯である。
正体がバレて何もお咎めなしなのが幸いだったが、俺が一人二役を担った以上、三日間の練習に代わりに参加して出来るだけ多くを吸収して香織に伝える。
甚だ不本意な流れではあるが、やるからにはしっかりやる。
これは香織だけではなく、自分のためである。
SCARLETに勝つには香織や春乃さん達の動きにしっかり付いて行く必要がある。
ダンスの部分で未熟な点が多い俺にとっては良い経験になるとタムタムは言ってくれた。
これはまたとない絶好の機会。
やるしかない。
「二人共、いい表情ね。早速、今日も取り組んでいきましょう」
『お願いします!』
共通の相棒を持つ者同士、やる気に満ちた表情で俺達は今日を含めた残り二日間の特別レッスンを濃く体験した。
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