第15話 始まり⑧/葛藤
「って、昨日のことを思い返している場合じゃなかった。今の時間は……」
床に無造作に置かれたスマホを拾い、液晶画面で現時刻を確認しようとする直前で空で止まった。
待て。昨日の夜、何時に寝たかさっぱり覚えていない。
いや、薄っすらだけ記憶にあった。
完全に寝落ちする寸前にベランダの方を軽く覗き見た外の光景と音。
近くの大通りを走る車の音が徐々に増え、真っ暗闇の空が徐々に明け始めていた気がする
その上で、体感的にかなりぐっすり眠っていた……という危機感から慌てて現時刻を確認。
「……ライブって三時からだっけ」
今日のライブが始まるのは三時。
その二時間前に会場に着いて、ルーチェ達はリハーサルをしなければならない筈。
となると、その集合時間は……
「おい!起きろって。集合時間過ぎてるぞ」
現時刻は午後一時十分。
もう既にこの時間で遅刻は確定的。
急いで支度をして会場に向かっても一時間の遅刻は免れない。
それに加え……
「ん~、今日は働かな~い。むにゃむにゃ」
危機意識ゼロのゲーマーアイドルときたらふざけた寝言を口にしながらスヤスヤと寝ている。
揺さぶっても、声を掛けても、軽く叩いてもルーチェは一向に起きやしない。
「どうしよ。別に俺はライブが始まる時間に行けばいいだけだが……見捨てるのもあれだよな」
俺はともかく、ルーチェが来ないと困るのはメンバーの白里達。
昨日は嘘吐いて誤魔化したが、幸香さんにはこの部屋で匿っていることを完全に知られてしまっている。彼女のみがルーチェの所在を確実に知っており、ここへ迎えに来るようなことがあれば俺は……
『ピンポーン』
突然のインターホンにビクッと驚いた俺は最悪は事態が早々にしてやってきたのではないかと、激しく不安感に駆られる。
こういう場合、居留守を使ってやり過ごしたいが、そういう訳にはいかない。
白里達のライブで迷惑は掛けれない以上、直ぐにルーチェを引き取ってもらう他ない。
そう考えながらも、恐る恐るインターホンのボタンを押し『はい』と応答。
すると、そこにはスキンヘッドに、黒いサングラスを掛けたスーツの男性二人が立っていた。
『おはようございます、三津谷様。ルーチェ様をお迎えにあがりましたので、中に入ってもよろしいでしょうか』
見た目とは裏腹に、とても丁寧で穏やかな渋い声で挨拶をしたジル社長の秘書兼ボディーガードマンを直ぐに部屋の中へ招き入れた。
この体のせいか、身長がかなり大きく見え、実際に向かい合うと途轍もない貫禄を感じるものの、物腰柔らかで、丁寧な所作を心掛ける彼らには個人的に好印象を与えられた。
ボディーガードマンの一人が部屋で眠るルーチェを見つけると長い腕の中でそっと抱き上げ、起こさないように気遣って運ぶ。そして、もう一方の方は胸のポケットからスマートフォンを取り出し、誰かと通話をし出した。
彼の話し方からして、通話の先にいる人物が誰であるか何となく察する。
「はい。今、お隣にいらっしゃいますが……分かりました」
彼はこちらに向き直るとスマートフォンを手渡してくる。
「ジル社長から代わるようにと」
少しばかり嫌な予感がするも、社長からの電話に拒否する訳にもいかず、仕方なく応答した。
「お電話代わりました。陽一です」
『ははっ、その声だと君はヒカリ君じゃないか』
意外にも陽気な声で面白く笑っていた。
ジル社長の指摘に少しばかりめんど臭さを感じた。
「どちらでも構わないでしょう。どっちも俺なんですから」
『確かにそうだ。どちらも君自身であり、表裏一体とでも言うべきかな』
「……それで、何の用ですか?」
『急に押しかけて済まないね。君の部屋にいるルーチェを回収したくて、彼らを派遣したんだ』
この人、やはり俺の部屋にルーチェが居ることを知っていたのか。
「幸香さんから聞きましたか?」
『幸香ちゃん?彼女からは何も聞いていないが……』
聞いてない?
幸香さんがここを教えた訳じゃないのか。
「じゃあ、どうしてここにルーチェが居ると?」
『簡単な話さ。ルーチェと君の部屋のベランダ、その間にある防火扉があるだろう』
ありますね。昨日、ルーチェが強引に破ったせいで防火扉として機能すらしていないが。
『あれにはちょっとした細工をしていてね。ルーチェが君の部屋に逃げ込む場合、彼女は絶対に玄関を通していかない。これはもう、理由を彼女から聞いているんじゃないか』
流石はお兄さんだ。
妹の逃走ルート及び逃走方法、逃走先を正確に把握していらっしゃる。
「概ねは」
『すまないね。ルーチェの我儘に巻き込んでしまって』
「いえ、別に……」
巻き込まれた際に、既に代価はもう受け取っている。
あのゲーム機器を貰ってしまった以上、文句を言う権利は俺にない。
『防火扉の方は後日、修繕するとして……君は一人で来るかい?』
ルーチェと一緒に会場まで送ってもらっても構わない。その意図で提案しているのだろうが…
「いえ、一人で行きます。会場の外の雰囲気も見ておきたいので」
『了解した。会場に入る際は姿はヒカリ君のままで、帽子とマスクをして来て欲しい。変装の意味合いも込めてね』
「分かりました」
『では、また後で』
用件を伝え終わると通話は切れ、スマートフォンを持ち主へと返す。
彼は深々とこちらに頭を下げ「失礼いたしました」と告げ、部屋を後にした。
嵐が去った後の外みたく、シーンと静まり返った部屋の中央に立った俺はもう一度時間を確認した。
時刻はもう半過ぎを回り、二時に長針、短針が差し掛かってた。
「俺も支度をしないと……」
いけない、その前に。
昨日の晩にお風呂に入っていなかった事を思い出す。
食事や寝る暇を惜しんでひたすらゲームをし続けたせいか、自分があまりにも不衛生な身体であった事に気付く。
まぁ一日くらい入らなくてもいいよな。
そう短絡的に逃げようとするも、今の自分が三津谷陽一ではなく三ツ谷ヒカリだと鏡で見つめ直す。
この身体での他人のイメージはまだ曖昧な形であり、正直自分ですら確立したアイデンティティを見つけられてすらいない。
そんな状態で少しでもずぼらな印象を与えてしまっては、後に自分のイメージへ大きく響くかもしれない。取り返しがつかなくなる前に、常日頃から清楚な自分を確立しなければ三津谷陽一と三ツ谷ヒカリを区別する境界線がいつまでも曖昧になってしまう。
それを避けるべく、風呂……時間がないのでシャワーは浴びておくべき。
……という長い建前と前置きはここまでにする。
シャワーを浴びる際に、当然の流れで俺は衣服や下着を脱いで裸になる。
本来であれば存在する筈もなく、新しく出来た未知の領域へ足を踏み込んだことはない。
昨日、スポーツブラを買いに行った際も少し目を閉じながら試着していたため、まじまじとじっくりこの身体を見つめることはまだ一度もない。
そうさせているのは、男としての理性が無意識に張られた最終防衛ラインを越えてはならぬと警告メッセージを出し続けているからであろう。
一方で、本能的にこの身体……いや、女性の身体を知りたいという思春期ならでが欲求が当然の如く働きかけている。
その結果がこの葛藤という訳だ。
今はあらゆる意味合いを頭の中で並べ、正当化して自分を説得してはいるものの、やはり最終防衛ラインで待ち構える鉄壁の守りを築いた自分が依然と警告を出し続けている。
しかし、そんな守るを華麗に掻い潜りながら、防衛ラインを突破しようとする俺が現れた。
素早い動きで防衛ライン直前の防空壕で身を潜める俺の隣に滑り入り、こう語り掛けた。
『お前は何を躊躇っていやがる』
『何をって……』
『見たいものは見る。それが俺だ。違うか?』
ガツガツと食い気味で話す俺に『少し違うと思う……』と否定したくもなるが、俺は有無を言わさずに主張を述べる。
『この身体を見た時、お前は初めどう思った?』
三ツ谷ヒカリの姿をした自分に、三津谷陽一の姿をした自分がそう問いかける。
どう思ったか。
一番最初に見た時の印象は確か……
『香織に似ている気がした』
『そうだ。俺と香織は双子の兄妹。その俺が女になればそれはもう香織だ!』
う、うん。ソウダネ。
『俺と香織は小さい頃、一緒に風呂に入ったことがある。その時にお互いの裸は何度も見合った筈だ』
『それは子供の頃の話』
付け加えるなら小学校低学年の頃までだ。
それ以降はお互いに一緒の湯船に浸かったことはない。
しかし、俺が何を言いたいかは理解出来て来た。
『思い出せ。俺は過去に二度、脱衣所で誤って香織の裸を目撃してしまっただろう』
そんなこともあった。
一回目は中学一年生の夏。部活動帰りで直ぐに風呂に入りたくなって帰宅してお風呂場に直行した時に、偶然にも先に風呂場から上がって身体を拭いていた香織と鉢合わせてしまった。
あの時は色々と文句を言われ、口喧嘩をした挙句、夏休み期間はまともに口すら利かなくなる程の仲違いをした。
二回目は割と最近。高校一年生の夏。深夜までゲームをしていた俺は昼頃に目が覚め、顔を洗いに脱衣所と一緒になっている洗面所に向かうと、午前のレッスン帰りでシャワーを浴び終えた香織とまた鉢合わせてしまった。
お互い驚きのあまり数秒間見つめ合ったものの、今回は何故か罵詈雑言の嵐が飛び交わなかった。
香織は頭も良く、冷静沈着な性格であるからして中学を卒業した後は物凄い勢いで大人びていった。芸能界に入ったこともあってなのか、何事にも深く動じない性格へと変わっていた香織はその姿のまま、タオルを取りに脱衣所へと出た。
『いつまで見てんの変態』
『わ、悪い』
寝起きだったこともあり、思考が鈍っていた俺は我に返って、そのまま洗面所を無視してリビングへと向かった。
どちらのシーンも一糸纏わぬ裸体姿であったため、その時、その瞬間で俺は香織の身体を目に焼き付け、脳裏の記憶ストレージにロックを掛けて保管した。
比較すると後者の方は色々とかなり成長しており、我が妹ながら羨ましく思えるスタイルであると認めた……その時、俺はふと気付いてしまった。
俺は妹の身体では欲情しない!
いや、当然のことだと思うが、思春期の一端の高校生にしてはしっかりと性欲が制御出来ている方だとは自負している。ましてや、相手はモデル雑誌にも載る女子高校生。
世の男子であれば、欲情しない方がおかしいとも言える。
そんなことはさておき、そろそろ決断の時がやって来た。
もう時間がない。
刻一刻と猶予は狭まり、早めに動かなければこの戦い……もとい葛藤は長引くのみ。
そのケリをつけるべくやってきた三津谷陽一の姿をした俺が脳内で最後にこう伝える。
『それはお前の身体だ』
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