第11話 始まり④

 ヒカリの姿で支度を済ますべく、タンスに用意されていたレディースの長ズボンとラフそうなシャツを適当に見繕ろって着替える。

 時間もないので身なりを適当に鏡で整えてから慌てて部屋を出る。


 運動着にタオルやスマホ、財布等が入ったトートバッグを持ったまま車が多く走り、多くの人々が行き交う大都会の中を駆ける様子に周囲からチラチラと視線を向けられる。

 この姿で公衆の面前に出るのはまだ些か気が引けるが、そうも言っていられる余裕はない。身体の骨格もガラリと変わってしまったせいか、歩く度に胸が擦れた感触が気になったリ、歩幅や視点が短くなったり、低くなったりと……色々この身体の不便さを改めて感じた。


 意識と感覚で身体を慣らして歩いている内に、あっという間に目的地へと辿り着く。

 事務所入口の守衛所に居たボディーガードマンに社長室へと向かうよう言伝を受け、エレベーターで最上階へと向かう。

 ドアが開かれると直ぐ、奥の方から誰かが言い争っている様な声が響く。

 

「喧嘩か?」

 

 こう言う場合、少し落ち着くのを見計らってから入るべきなのだろうか。

 聞いてみる感じ、ジル社長ともう一人は声からして少女っぽい。

 何か感情を込めながら叫んでいたのはどちらかというと少女の方で、ジル社長は声を荒げずに落ち着いた口調で淡々と言葉を返しているようだが……その内容は一切分からなかった。


 何せ、二人が使っていた言語は日本語ではなく、多分……ロシア語。

 ロシア語に関して一切の教養がないからか到底理解出来ない言語の壁を意識させられた。

 一先ず、扉の隙間から様子を伺う。


「あら?あなた……」

 

 ふと、背後の方から女の人っぽい口調の野太い声に気付く。

 徐に首を後ろへ向けると肌の焼けたオッサンの顔が間近に迫っていた。

 それに少しだけギョッと驚くも、落ち着いてそのまま挨拶をする。


「初めまして、今日から所属することになりました三ツ谷ヒカリです。よろしくお願いいたします」


 つい先程、事務所で初めて顔を合わせるであろう人物達との挨拶に向け、事前に端的な自己紹介を考えた陽一は慣れない笑顔を貼り付けて一礼を示す。


「ご丁寧にどうも。それより、ジルちゃんに用があるんじゃなくて?」


 かなり高身長で且つゴリゴリにマッチョなオッサンは顔に人差し指を当てながらそう尋ねた。


「はい。けど、今はお取り込み中みたいだったので」

「ん?あぁ、あれはいつものことよ。いいから中に入りましょ」


 そう促され、オッサンの後に続いて部屋に入る。

 それに気付いたジルは視線をリビングに現れた二人へと移し、『時間通りだね』と呟いた。

 奥へと進み、彼の身体が向く先に彼と同じ白銀色の細く綺麗な長い髪が目に映った。


「ルーチェ、この話は一旦終わりにしよう。もう時間だ」

「何よ。急に日本語で……誰?」


 ジル社長の視線を追うようにソファに座る銀髪の少女はヒカリへと顔を向けた。

 彼女の知らない顔がそこにあったからか、口論でイライラが収まらなかったからか。あるいはその両方かは分からないが、敵意を剝き出しの鋭い視線を初対面のヒカリへ差す。


「さっき言っただろ。新メンバーだよ」

「こんな小規模で名も知れない事務所に?物好きも居るものね」

「色々と余計だよ。まぁ、とにかく新しいメンバーなんだ。仲良くしなさい」

「上から目線で言わないで」

「ったく……すまない。騒々しくって」

「いえ。それで彼女は?」

「僕の妹のルーチェ。昨日は会えなかったから分からなかったと思うけど、彼女もメンバーの一人なんだ」


 『昨日』という言葉で思い出した。

 

「あのFPSゲームの配信をしてた子」

「何よあんた。ゲームしなそうな顔してるくせにあのゲームの事知ってるの?」

「一応、PC版じゃない方でプレイはしているけど……」

「ふーん。気が合いそうじゃない。採用」

「君が決める権利はないよ。それと当分、ゲームは禁止だ」


 兄の言葉に怒りを募らせたルーチェは机を両手で叩いて反抗に乗り出す。


「はぁ~ふっ、ざけんじゃないわよ!このクソニキ」

「あとネットも禁止だ。君の部屋の電波は暫く止めさせてもらう」

「い~やーだ!今のご時世、ネットのない部屋に住む馬鹿なこと言わないで。そんな原始人みたいな生活で生きていけるわけないでしょ」

「ネットがなくとも人間は生きていける。それに、僕は動画配信で収益を得ているなんて話を聞いてない。それもかなりな額を最近稼いでいるようだね」

「春……言わないでよぉ」


 先程の兄妹喧嘩の続きが始まったかと思いきや、動画配信の事を指摘されたロシア系美女は弱弱しい声で恐らく兄に隠し事を伝えてしまった人物の名を吐く。


「とにかくだ。これ以上酷いなら君をあの部屋から……」

「無駄よ。動画配信の収益であの部屋は私が買い取ったもの!」


 鼻高々にそう告げるも……


「何を言っているんだ。オーナーが僕である限り、そんなことは認めないよ」


 妹がそう発言すると予測し、予めポケットの中に忍ばせていた申請書の用紙を本人の前に出し、ビリビリに破り捨てた。


 クッ…っと悔しさを滲ませた妹はまだ諦めまいとあの手この手を使って兄に反抗しようと試みる。その無駄な努力と時間に辟易した兄はこの勝負を早々に決めに掛かる。


「分かった。ルーチェ、君がそんなにも僕に反抗したいのであれば、僕も相応の措置を取る」

「何よ……」


 穏やかな表情の中に隠された圧を感じ取り、今から口に出るであろう言葉にゴクリと唾を飲み込み、真っ正面から聞き入る。


「暫く幸香に君の面倒をみてもらう」

「ごめんなさい。お兄ちゃん、もう我儘は言わないで許してください」


 早かった。

 電光石火の如く早く折れた。

 あっさりと自分の非を認め、ソファの上で兄に土下座をして許しを請う。


「……はぁ、まったく」

「そのくらいにしといてあげなさいよ。ルーチェちゃんは良い子だから言えばしっかりと反省してくれるわよ」

「うわーん、ありがとうタムタム~」


 兄に迫られ、反省の色を示した?妹を擁護するガチムチなオッサンにまだ中学一年生くらいの少女が抱きつく光景には些か絵面的な問題を感じる。

 優しいオッサンの掛ける言葉に涙目で感謝しながら胸に飛び込み、反省を示すフリをして物凄く悪そうな笑みを浮かべる少女を一旦、見なかったことにする。。


「すまないね。こんな茶番劇に付き合わせてしまって」

「いえ……」


 自分で茶番劇って言っている時点で、この人は妹が全く反省していないと既に気付いているようだった。それでも深く言及しないのは、優しい性格故なのだろうか。


「それであんた、名前は何て言うのよ」


 演技を止め、いつの間にか元の定位置へと戻ったルーチェが尋ねた。


「えっと、私は三ツ谷ヒカリと言います」

「ヒカリね。好きなゲームは?」

「ゲームは大体なんでも」

「ふーん。FPSの経験は?」

「一年ちょっと…かな」

「なら、春と一緒に出来そうね」


 何の質問だ、コレ。と思いながらも話は進む。

 

「じゃあ、次は私ね」


 そう言って名乗り出るのはガチムチなオッサン。


「私は田村善男(たむらよしお)。あなた達のダンスと歌のレッスンのを指導しているわ」


 見た目な齢は四十前後といった感じだろうか。

 来ているタンクトップの上から意外にもゴツくて引き締まった身体のラインが強調されているので、黙っていれば下の守衛室にいる黒スーツのボディーガードマン達と何ら変わらな……いや、色々と変わっている。主に頭の中が。


「見ての通り心は乙女なの、よろしくね。あと、タムチンって呼んで頂戴」

「は、はい……よろしくお願いいたします」

「いや、タムチンって。『チン』の部分が卑猥だから止めて言ったのタムタムでしょ」

「あら、そうだっけ。最近思い込みとど忘れが激しくてって……じゃあ、ルーチェちゃんみたいにタムタムって呼んでね」

「はぁ…分かりました」


 所謂、オネェキャラなのだろうが、かなり性格は良い人寄り的な印象を感じられた。

 俺もオネェとか、ニューカマーとかではないが、それに近いものだ。

 『見た目は美少女、中身は冴えない男』。なんてキャッチフレーズがお似合いなのだろうが、完全にアウトな言葉でしかないため、即却下にした。

 

「それよりもあなた……」


 廊下で会った時と同様に、物凄い距離で顔を近づけてからヒカリの身体全体をジロジロと凝視する。


「あの、何か?」

「ちょっと気になってね。あなたの歩き方や立ち振る舞いに」

「……っ!!」


 鋭い観察力に内心で驚愕した。

 決して表面には出さず慣れない笑顔を見せながらも、直ぐ側で控えているジルに『SOS』の意味を込めた視線を投げる。

 それを受けた彼は『やれやれ』と息を吐く。


「流石は善男だね。やはり君には隠し通せないか」

「伊達に男女を演じている歴は浅くはないわ」

「まぁいいさ。彼の指導を色々と任せるからには、遅かれ早かれこの事を伝えておくべきだったし」


 こちらへと再度視線を送り、右人差し指で左手首の関節部をトントンと触れた。

 直ぐにそのジェスチャーの意図を察し、ヒカリは『いいんですね』と言わんばかりの顔で変身を解く。

 元の身体へと戻り、三ツ谷ヒカリではなく三津谷陽一としての素顔をジル以外の人に始めて晒す。

 

「なるほど。これが本来のあなたということね」

「ゲーム好きなのは男だったからってことか」


 二人の反応は意外にもあっさりとしていた。

 この現象に別段、驚くこともなければ、陽一の顔を見ても落ち着いたままだった。


「じゃあ、改めて……」

「三津谷陽一です。こっちが本当の自分です」

「一応、二人には知っておいてもらいたいんだ。ルーチェにとっては隣人みたいなものだから事前に了承しておいて欲しい。善男も分かっているとは思うが……」

「別に唯菜達に告げたりしないわよ。兄貴がアレを渡した理由はもう何となく察したし」

「話が早くて助かるよ。善男も、彼のサポートをお願いするよ」

「任せて頂戴。鍛えがいがあるわ~」


 何だろう、善意で言っているのは分かるのだが、顔がどうしても受け入れられなかった。

 まるで淫獣がお気に入りの獲物を見つけた時の表情。

 そもそもどんな表情なのかすら知らないし、知りたくもない。


 それと、身体が男になったせいで着ている服がかなりぴっちりしていてキツい。 

 この格好だと、一体どっちの自分が本当の自分なのか分からなくなってくるが、一先ず三ツ谷ヒカリの身体へと戻る。


「気に入ってくれて何よりだよ」

「どうしたらそう見えるんですか」

「何となくさ」

「……」

「さて、大分時間をオーバーしてしまったことだし。ルーチェはレッスンの時間だよ。それとヒカリ君もね」

「うぇ~」


 滅茶苦茶嫌そうな顔と声で渋そうにするも、素直にソファから立ち上がって部屋を出ていく。

 その後に続いて、ヒカリも彼女の背を追ってエレベーターへと乗り込む。


「ルーチェちゃん。あ~見えて努力家なのよね」

「もっと素直になってくれれば兄としては助かるよ。僕にあまりとやかく言う権利はないけど」

「……それで、ヒカリちゃんは?」


 うーん。と少し悩んだ末にジルはある提案を促す。


「さっきも言ったように、暫く君に預けるさ。あの身体にまだ慣れていないだろうし」

「見た感じそうね。歩き方も少しぎこちなかったから、見ていて不安だわ」

「そこら辺は君に任せるよ。むしろ、君じゃないと駄目だ」

「任せて。私が彼…いえ、彼女を最高の女の子にしてあげるわ~」 

「ほどほどにね」


 それは流石に彼も嫌がるんじゃないかな、と苦笑いを浮かべる。

 しかし、三ツ谷ヒカリという彼を成長させるにあたって善男はジルの中で最高の適任者だと認めている。かつて、自分も彼に師事した時を思い出しながら、大いに期待を馳せた。

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