第9話 始まり②
ジル社長のメール内容に従い、彼が保有するマンション前へと到着した。
「これ、本当に無賃なのか?」
場所は明治神宮前駅から徒歩数分。事務所からだと十分程度。
五階建ての大きな白いマンションで、一階はケーキ屋、二階以降が住居といった構造であった。
如何にも新築マンションといった感じで、見た目もそれなりに悪くない。駅近で都市のど真ん中にある分、家賃はかなり高いだろう。
「やぁやぁ。来てもらってすまないね」
エントランスから爽やかな笑みを浮かべた現れたジル社長へと近づき挨拶を交わす。
「おや、何だか眠たそうだね」
「お陰様で昨日はあんまり眠れなかったんですよ」
「緊張しているのかい?」
「色々と」
「大丈夫!なるようになるさ」
何を根拠にそう言っているのかと少し呆れて果てた。
それにあれこれ考えた所で大した意味は成さない、
いっそのこと、彼が言うように『なるようになる』と受け入れてしまった方が楽。
責任云々は全て彼が請け負ってくれるとのこと。今はその言葉を契約の一つとして捉える。
「では、行こうか」
そう言って案内された部屋はエレベーターで最上階まで昇り、降りてから一番奥側にある1LDKの部屋。
玄関を入り、通路を挟んだ奥側には広々としたリビングがあり、既にベッドやテレビ、冷蔵庫と言った家具までが用意され、通路の途中には洗面所とトイレや浴槽に洗濯機までもが完備されていた。部屋に備えられた家具や器具はどれも最新式で実家よりも快適過ごせそうな印象を抱く。
「これ、本当に全部使っていいんですか?」
「好きに使って構わないさ。何ならここに住んでもいいよ」
美味すぎる話にゴクリと唾を飲み込む。
「いや……流石にやめておきます」
現実的な話。それは絶対にない。
ここからだと学校に通うのが遠くなり、いつもよりも早く家を出ないといけないだけでなく、自炊や家事を一人でこなさなければならない。面倒屋な陽一にとって高校生の段階で一人暮らしは早いというのが家族の見解でもあり、本人も認めている。
因みに俺は、まだ両親に自分が事務所に入って、アイドルを始めるなんて話をまだしていない。
いや、出来る訳がない。『は?』と困惑されて、心でも病んでいるのかと心配されて終わり。
こんな事実、口が裂けても家族にだけは伝えられない。
「まぁ、その辺は君に任せるさ。三ツ谷ヒカリという空想のアイドルを演じる為の小道具程度に使っても構わないさ」
無論、陽一は端からそのつもりで来た。
部屋の鍵を受け取り、部屋の中を隅々まで見渡す。
本当に立派な部屋だと感心しながら眺めていると、下がタンスで上の部分がクロゼットの家具へと目が往く。
今日ここに来るにあたって、持ち物は特に必要ないと言われた。
必要な物は全てこちらで用意すると。メッセージでそう伝えられたからだ。
しかし、嫌な予感がする。恐る恐るクタンスの引き出し口へと手を伸ばして、ゴクリと唾を呑んで勢いよくタンスを引いて中を覗く。
「……やっぱり」
そこには男性用ではなく、女性用の衣服や下着がしっかりと収納されていた。
「あの、これ……」
「君が変身した際の服さ。サイズは多分、変身した時に合わせてあるよ」
(よくもまぁ、揃えたな)
何で測ってもいないサイズを知っているのか色々と尋ねたい所ではあるが、改めて女性用衣服……主に下着類を見詰める。
「これ、全部社長の趣味ですか?」
「僕ではないね。友人の女性の趣味と言っておこう」
それは……良いのか、悪いのか。あまり判別がつきにくいが、とにかくここにある数々の下着に陽一はある意味で趣味の良さを感じると同時に、これを自分が付けないといけないのかという恐怖に襲われた。
布地面積が男用のものよりも物凄く小さく、普段履いて過ごすとなるとその女は痴女だ。
年頃の女子高校生が付けるには些か年不相応にも見える。少なくとも、妹の香織が持っている下着でこんなものは無かったと思う。詳しくは知らないけど。
「まぁ、分からないことがあったら彼女達に聞いておくれ。僕は答えられない」
「聞ける訳ないでしょうが!」
性別が変わって真っ先に危惧した問題は主にトイレと着替え。
トイレの作法とか、その辺は陽一もよく知らない。トイレをする場合は一度戻ってからにしようと決めた。だが、着替えに関しては別だ。特に下着(上の方)。
「ブラジャーはちょっとな……」
いくらヒカリの姿であっても中身が男な時点で歯に衣着せぬ背徳感が付き纏う。
見た目は女の子だから着用しても問題ない。そう自己肯定すれば乗り切れなくはないが、超えてはいけない一線を前に理性が警告メッセージを出し続ける。
「まぁ、下着は男ものでもどうにかなるか」
ブラじゃなくとも下着としての機能を果たす衣服が多い。特にスポーツブラとかであればかなり着やすそうなので、付けるとするならそれでいこうと決めた。
実際、今この中に用意された下着の中にスポーツブラはない。
「今日ってダンス錬とかするんですか?」
「ん~一応、明日はライブもあるし。今日は彼女達のレッスンを傍で見てもらおうだけにしようかな」
ほうほう。それなら問題なさそうだ。
「なら、次までに自分で下着を揃えるので、これは回収しても構いません」
「まぁまぁ、いつか使う日が来るかもしれないし。そこに置いておきなよ」
来ねぇよ、と。軽快にツッコミたくなるも、これ以上精神を浪費したくないので、この件はまた保留にしておく。どうせ、誰かに見せる訳ではないし。
部屋の時計へと目を配ったジル社長は再度、自分の腕時計でも時間を確認する。
「では、そろそろ僕は行くよ。三時前には事務所に来てくれ」
そう言い残した彼は足早に部屋を出て行った。
「三時前までって……まだ、一時間半以上あるのか」
現在の時刻は一時半前。
部屋を案内するからという趣旨で割と早くこっちに来たのだが、意外にもここでやることはもうあまりなさそうだ。
暇だと感じた陽一はふと大きな欠伸を掻く。
「結局、帰ってからも寝れなかったし……今、少しだけ寝ようかな」
リビングの右側にある白いベッドへと横たわる。
全身を包み込む様な柔らかな感触が背中一杯に広がる、この心地良い感じに眠気が一気に襲う。
「ふわぁ~ねよ」
念の為、携帯のアラーム音を設定するとそのまま壁側へと身体を向けて目を閉じた。
考えることを一切放棄し、落ち着いたままゆっくりと微睡の中に意識を沈める。
『~~~』
ん?
『~~~~!!』
何か聞こえる。
誰かの叫び声?なのだろうか。
この部屋の防音性がかなり高性能なのか、外部からの音を最小限に遮断しているため何かの小さな雑音程度にしか聞こえない。
だが、耳に若干届いている音は雑音というよりも声に近い。
それでもそれが雑音だと聞こえるのは声に出している言葉が日本語っぽくないからだろう。
隣に住んでいるのが外国人なのだろうか。
言語の内容が分からない以上、聞こえてくる言葉が雑音であるのとそう大差ない。
別段、気になる程の音でもないので、取り敢えず時間が来るまで少しばかり眠りについた。
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