帰り途

河村雨季

帰り途

 空を覆った雲が、夕刻を隠すようにどこまでも続いている。

 雨上がりの湿った畦道あぜみちに、心許ないちいさな足跡を付けてゆく少年の背中がひとつ。スニーカーの白いつま先にくっ付いた泥を眺めながら歩みを進めるその足取りは、重い。

 この町の小学校に入学して初めての夏を前に、じめじめと肌に纏わりついてくる湿気が、少年にの存在を殊更ことさら感じさせていた。

冴島肇さえじまはじめは呪われている」

 入学してまもなく、同級生たちの間で合言葉のように囁かれはじめたそれは、はじめが小学校で新たに手に入れるはずだった居場所を、いとも容易く奪い去った。それでも、好意的なものではないにしろ、話題にされるだけまだマシだったかもしれない。

 学校で初めてと遭遇したのは、入学して最初の算数の授業だった。使い古された机や椅子、黒板などの備品とは裏腹に、まだ一つの傷も付いていないランドセルやそこに存在することに慣れていない子供たちによって、教室内には、「新しい」という緊張感が漂っている。

「それじゃ、算数の教科書を出してください」

 若い女性の担任教師、木村が溌剌はつらつとした、よく通る声を生徒たちに放つ。40人程の小人たちは、机の引き出しを覗き込んだりしながら、真新しい教科書をつたない手つきで各々おのおの引っ張り出す。

はじめは黒板に顔を向けたまま、引き出しに手を入れた。一時限目の算数の教科書は一番上にあると分かっていた。教科書の感覚を確かめ、引っ張る。しかし、何かに引っ掛かっているのか、掴んだそれは出てこない。カタカタと本を捻って何度も引っ張っぱるが、それでも出てこない。

 はじめは体を横に折り曲げて引き出しの中に目をやった。


「うわあぁっ」

 瞬間、短い悲鳴が教室を巡る。

 叫びながら椅子もろとも床に倒れ込むはじめに、ぶつかられた四方の机の席に座っていた子ども達の当惑の声が上がる。教室にあった全ての瞳は床に突っ伏して怯える彼へと注がれた。

「大丈夫⁉︎」

 そう驚き混じりに声を掛けながら木村ははじめに駆け寄った。しかし、それでもはじめは小さな身体をより一層小さく丸め、ダンゴムシのようになっていた。


−なに?

−どうしたの?

 それぞれの囁きが、一つに纏められ、ザワザワと教室を撫でる。木村ははじめの両肩に優しく手を添えて、再度、「大丈夫?」とはじめの顔を覗き込む。

 はじめは真っ青な顔をしている。

「き……きょうかしょ……」

 辛うじて声を搾り出したはじめだったが、自分の席へ顔を向けることができない。木村ははじめの机の引き出しを覗き込む。それに乗じて好奇心で溢れた周囲の生徒もおずおずと覗き込んだ。そこには少し崩れた教科書の山だけがあった。


「なにもないよ?」

(慄く《おのの》ようなことは)という意味を含んで一人の女子生徒が不思議そうな顔で、はじめに諭すように言う。

 はじめは恐る恐る自分も机のほうへと目をやった。そしてそこになに一つ異変がない事を確認して、今度は先ほどとは違う意味で青ざめた。

−−−しまった。

 はじめは心で、呟いた。

 木村ははじめの気まずそうな様子を見とめて、「虫でもいたかな?」と困惑が覗く笑みで問いかける。はじめは、致し方なしといった様に小さく「はい……」と答えた。

 その言葉に微かな悲嘆が女生徒たちの間で生まれたが、木村はそれらをいさめると、はじめに「もういないから大丈夫よ」といって、引き出しから教科書を取り出すと、はじめの机の上へ置いて、教卓へと戻っていった。自分の席へ座り直し、担任が置いてくれた教科書を見つめる。周囲からの狼狽を冷やかす視線は、はじめの中に少しの恥じらいと安堵を生んだ。


−−−ビビりと思われていた方が百倍マシだった。

 はじめはその時を思い返した。


 5月にもなると、子どもたちは学校生活にも慣れ、校内に足を踏み入れれば、たちまち学校の一部と化すようになった。しかし、はじめだけは、常に張り詰めた空気を纏い、混入した異物のままだった。そして、その空気を周りは敏感に感じ取った。はじめが算数の授業の時のような言動を繰り返すごとに、子ども達ははじめに対してのみ、緊張を高めてゆくのだった。

 最初は他の生徒もはじめの言うことを間に受けてはおらず、単に驚かそうとして嘘をついているだけというような受け止め方だったが、はじめの尋常ではない怯えように、病弱でよく学校を休むことや、はじめの祖父が通学路の途中にある「地獄の入口」と恐れられている墓地を管理する双晶寺そうしょうじの和尚であることが知られると、はじめは気味悪がられるになっていった。それでも、はじめはなるべく平静を装うことに努めた。それらは下手をすると、悪戯に増幅させることを、はじめは7年という余りにも短い人生の中で、嫌というほど学習していた。

 しかし先週の水曜日、はじめは致命的な失敗を犯す。

  学校帰り、いつものように一人で帰り道を歩いていると、クラスメイトの早坂康太はやさかこうたに声を掛けられた。

「このあとサッカーするけど、おまえ来ない?」

 人に声を掛けられたことにびっくりして、黙り込んでいるはじめに、早坂は間が持たないといった感じで言葉をつないだ。


「人数、足りないんだよ」

「あ、うん」

 はじめが反射的に答えると、早坂は「いったん帰って、学校な」と言いながら走り出した。

 はじめは早坂の後ろ姿をしばらく見つめた。それからせきを切ったように自宅の方向へ走り出した。

 お寺の門を潜ると、併設されて立っている自宅の玄関ドアが開いて、竹箒たけぼうきを持った袈裟姿の祖父、双樹そうじゅが出てきた。

「ただいまっ」

とすれ違いざまに声をかける。

 はじめは立ち止まることなく家へ入り靴を脱ぎ、すぐさま階段を駆け上ったため、祖父の「おかえり」は尻窄みになって聞こえた。

 自分の部屋へと足を踏み入れることもなく、ランドセルを放り投げると来た道を駆け戻る。

「学校で遊んでくる!」

 まだ庭を掃き始めてもいない祖父に、声を掛けて門をでた。祖父に何か声を掛けられたが、よく聞こえなかった。

 急いで学校へ行くと、「さえじま、こっち」と早坂が校庭の隅から声を掛けてきた。はじめは早坂と、他数人のクラスメイトにそろそろと歩み寄る。互いに緊張しているのがわかった。その緊張をかき消すように早坂がはじめに言った。


「……おまえ、キーパーでいい?」

「……うん」

 はじめは、不安と高揚感で波打つ胸の高鳴りを抑え込むように声を絞り出した。それから一時間ほどみんなでサッカーをした。早坂たちと過ごす時間に、はじめの心は満たされていた。の存在も忘れるくらいに。

 そろそろ解散しようということになり、校門へ向かいみんなで歩き出だす。

はじめは前を歩く早坂と他の子たちの間にひと一人分ほどの距離をあけて歩いた。早坂たちは、はじめよりも一足先に、校舎が作った陰に足を踏み入れる。その時だった。薄黒い陰からが這い出てきて、早坂に纏わりつく。


「はやさかくん‼︎‼︎」


 はじめがそう叫び駆け出した次の瞬間、もの凄い音を立てて早坂が地面に倒れ込んだ。一呼吸置いて、早坂の声が校庭に響き渡る。それに呼応して、他の子が声を上げた。


「なにすんだよ‼︎‼︎」

 地面に倒れ込んだまま赤子のような声を上げる早坂の顔と体は土埃にまみれ、所々、擦り切れた傷口から滲む鮮血とその土埃とが交わってゆく。

 はじめは立ち尽くして、そんな早坂を見下ろしていた耳鳴りがした気がした。その耳鳴りが本物だったのか、それとも気がしただけなのか、思い返してもわからなかった。


「キモいんだよ、死ねよ」

 そう、声がした。


 はたと視線を彼らに向けたが、誰が言ったのかはわからない。ただそこには、ハッキリと侮蔑をしるした瞳ではじめめ付ける子供たちがいた。

 はじめはこの時、初めて自分が本当に呪われているような気がした。この時、もはやが消えてしまっていたか、それともまだ周りを漂っていたかも思い出せない。

 その後のことは、早坂の泣き声に気づいて職員室から出てきた教頭の姿と、祖父が学校まで自分を迎えに来たことくらいしか覚えていない。

 これがきっかけとなり、これまで余所余所しくも必要に応じては会話してくれていたクラスメイト達は、目も合わせてくれなくなった。陰口を叩くわけでもなく、何か意地悪されるわけでもない。

 まるではじめは存在していないかのようになった。


 はじめは思った。

−−−ぼくも、あいつらと同じなんだ。


 はじめの言動とクラスメイトからの扱いを問題視した担任の木村は、はじめの母親である桂子けいこを学校に呼び出した。今までの経緯からして、桂子や家族の反応はもありなん、といったものであったのは、はじめにとって多少の救いになったかもしれない。それでも、母親に対して後ろめたさは拭い切れなかった。家庭環境を問われたり、病院での受診を勧められたり、理屈での説明を求める相手への対処は骨の折れる事だということをはじめが一番、身をもって知っている。結局のところ頭を下げるしか手がないことも。

 はじめは、担任を責める気にはなれなかったが、だからといって自分にそれほどの非があるとも思えなかった。


「どうしろっていうんだよ…」

  雨は上がったはずなのに、先ほどよりもさらに淀んで見える空のもと発した、はじめの小さな嘆きは、町中を濡らした雨によって歓喜している蛙の声に掻き消されたが、瞳から溢れるものを消してはくれない。

 はじめのつま先にだけ、雫がり続ける。そんな彼を見とめる者は誰もいない。はじめにしてみれば好都合だった。こんな姿は誰にも見られたくない。4つ年上の姉、美咲にでも見つかれば十中八九、揶揄からかわれる。



−−−ひとりでよかった。


 はじめは独りごちた。




−−−いきてるひとがいなくてよかった……。




 それもまた、蛙の声に消されてしまった。




                          完





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帰り途 河村雨季 @amezilyosi

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