三十四話 医療に携わる人には、感謝しないとね
レムリア学園の帰り道、私達の乗る馬車は突然停車した。
ここは王都から暫く離れた森の中。とは言え、決して人の往来は少なくはない。でも、一つ大道を外れてしまえば、誰も寄り付かない獣道。闇討ちするなら、絶好の場所だ。
どうして私は気が付かなかったのか。馬車の揺れが普段より大きかった事を。
違う道を走っていたという事を。
「お嬢様、ちょっと外の様子を見てきますので、中で待っていてください」
「……メア! 待って!」
私の制止を聞かず、メアは扉から出ていってしまった。
すぐに私も追いかけるべき。頭ではわかっていても、不思議と足が動かない。
歪んだ窓景色からは、鮮血の月光が射す。野鳥が野太く鳴き、獣が唸り、草木を揺らす。
こんな事、今までには無かった。
だからこそ恐いんだ。何が起きるのか、わからないのだから。
「……いいえ、違うわ。きっとこれも、いつも通りなんだ」
震える足で立ち上がり、ゆっくりと馬車の扉を開く私。
私の存在を否定するかのように、赤い月は雲間に隠れていった。
暗い森の中からは、私を狙う視線を感じる。それは野生の動物なのか、悪意を持った人間なのかは、想像も付かない。
「……駄目、魔力を操作できない」
こんなに震えた手では、魔法で火を灯す事もできない。こんなに動揺して精神を乱していては、魔法を操れもしない。
「メア、メア」
精一杯の声で呼ぶ。こんな声量では、すぐ隣にでも居ないと聞こえはしないだろう。
「メア、何処なの?」
それでも私は、呼び続ける。
「そうだわ。確か御者席には
ふと思い出した私は、馬車の壁を伝いながら前へと進んだ。一歩、また一歩を、踏み締めるように。
「……あった」
座席の頭上にかけられていたのは、二つの
ただおかしいのは、何故
誰かが私を襲撃しに来たのだとしたら、まずは退路を塞ぐ為に輓馬を離すはず。
それ以前に、私は今頃襲われているのだと思う。
やっぱり狙いは……。
「ぐっ……げほっ」
僅かに誰かの咽ぶ声が聞こえた。
誰かなんかではない。これは、メアだ。
「メア! そこに居るのね!? 待ってて、今行くわ!」
急いで燐寸を擦り、
そしてメアの声がする方へと駆け出した。
ビチャッ! ビチャッ!
汚れた水面を叩くような、不快な足音が鳴る。恐る恐る
「……うっ!」
不意に吐き気が襲い、後退る私。
それは、地面に真っ黒な水溜まりができていたからだった。間違いなく、血溜まりだ。
「……メア! メア! しっかりなさい!」
その隣には、仰向けに倒れるメアの姿が。
両手で押さえる腹部からは、赤黒い血が流れ続けていた。
メアの虚ろな瞳からは、少しずつ色彩が消えていく。僅かに口を動かしているけれど、声が出せていない。
結局私は、何度も一七歳をやり直しているだけの子供。こんな時どうしたら良いのか、わからない。
「……そうよ。止血しないと!」
とは言え、包帯やガーゼなんてある訳がない。なら、私の衣服を破いて……。
でも、この出血量では焼け石に水。メアを助けられない。
「それなら、火傷を負わせるしか……」
焼灼止血法。傷口を焼く事で止血する危険な手段。そう聖女の伝記に記されていた。ただ書物を読んだだけの素人の私には、到底不可能なのかもしれない。
でも、もうそれしかない。
そう思った私は、メアの給仕服へと触れた。前掛けを肩からずらし、胸元から順に、全ての釦を外していく。
そして赤く染まった腹部を露にさせ、傷口を探した。
「メア……ごめんなさい!」
ジュゥゥゥゥーッ!
「うっ……うぅっ」
両手をメアの腹部に当てて、私は炎を呼び出した。これ以上ない程、私は魔法に集中した。だって、メアの命が私に懸かっているのだから。
メアが気を失っていたのは不幸中の幸いだったわ。お陰で火傷の激痛を感じなくて済んだんだもの。
「アンスリアお嬢様ーっ!!」
「お姉様ーっ!!」
その時、誰かが私を呼んだ。
それはリヒトとアメリナだった。どうして二人だけでこの道を通っていたのか。そんな事は、今はどうでも良かった。
「リヒト、アメリナ……」
掠れる声で彼等を呼ぶ。血塗れの震える手で
「良かった。ご無事でしたか……」
「えっ、待ってリヒトさん。そこに倒れているのって、メア?」
リヒトの後ろに乗っていたアメリナが、必死に目を凝らす。
「お願い、メアを助けて」
私の言葉で、表情で、二人は理解してくれただろう。今、どんな状況なのかを。
「は、はい! ……で、でも、どうしたら……」
私と同じく温室育ちのアメリナも、どうしたら良いのかわからず右往左往する。
メアに向けて手を伸ばし、引っ込める。
「そ、そうです! 王都に行って、宮廷治癒師さんに診てもらいませんか!?」
確かにアメリナの言う通り、宮廷治癒師と呼ばれる王国屈指の医療団ならメアを救えるはず。
でも……。
「残念ですが、止血しているとは言えこの傷では間に合いません。確実に王都までは持たないでしょう。ここはヴェロニカ邸へ運ぶべきです」
そう言いながら、リヒトは横抱きにメアを抱き上げる。私は急いで馬車の扉を開き、リヒトとメアを乗せた。
「俺が馬車を走らせます。アンスリアお嬢様はメアの介抱を。アメリナお嬢様は早馬で屋敷に知らせてください。至急手術の準備を求む、と」
「う、うん、わかった! 先に行くね!」
そして、アメリナは一人、駆け出していった。まだ犯人が潜伏しているかもしれない。普通ならそう思うだろう。
でもそれは無いわ。野党や暗殺者なら、私が狙われるべきなのは明白。
なのに私が無事だという事は、既に犯人は任務を終えていたという事。
そう。初めから狙いは私ではなかったんだ。
私の親しい者を苦しめ、精神的に追いやろうと考えたのかもしれない。
どちらにせよ、メアの死を回避できた訳ではなかったんだ。
大きな事象は、終わってはいないんだ。まだ。
━ヴェロニカ邸・使用人部屋━
翌日、私は屋敷の地下にある一室にいた。
そこは数ある使用人専用の寝室。軋む二段ベッドが一つとクローゼットが二つ。それと一枚の姿見。それだけしかない質素な部屋だ。
昨日から私は一睡もしていない。
それは当然、メアに付き添う為だった。
「もう! お嬢様ったら大袈裟ですよ! この私が簡単に死ぬ訳無いですって! っていうか学校は?」
「ふふふ、貴女を口実に、怠けてしまったわ」
流石は魔法具の生産を担うヴェロニカ家と言うべきか。至急ヴェロニカ邸へと搬送されたメアは、すぐに医療魔法具を駆使して手術を施された。
それは現代の医療器具にも似た物ばかりで、初めて見た時は眼を疑ったわ。まぁ、性能は圧倒的に劣っていそうだけれど。
「おっ、元気になったのか? 良かったな、メア」
「お邪魔しまーす! 私も、学校サボっちゃいました!」
全てはあの時、リヒトとアメリナが駆け付けてくれたからだ。
偶然にも、二人は私達が先に学園を出たのを見掛けていたらしい。先に出たはずの私達の帰りが遅い事を心配して、馬を走らせてくれたみたいなんだけれど。
もしも私の乗った馬車の轍が残っていなかったら。もしもあの時、リヒトが轍に気付いていなかったら。
きっと私達を見つけられなかったと思う。
「時にアンスリアお嬢様、メアの見舞いにチョコレートケーキをお持ちしたのですが、良ければ如何ですか?」
「ありがとう、少しお腹が空いていたの」
「ほらね! やっぱりお腹空いてたんだ! 私とお姉様は通じ合っているんです! だから、お姉様の事なら何だってわかるもの!」
「流石ですね。アメリナお嬢様」
「……あれ? そのケーキって。あれ? 私の
その後、憲兵が捜索に当たるも、結局メアを襲った犯人の手掛かりは見つからなかった。メア自身も犯人の姿を見ておらず、人数すらもわからないらしい。
常日頃から私の馬車を操作するマーカスもまた、行方がわからないままだ。
私にここまでの恨みを持つ者は、一体誰なのだろうか。
順当に考えれば、やはり彼女が……。
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