四話 もう、どうでもいい
「それでね! お姉様が私を庇ってくれたの! かっこよかったなぁ!」
再び悪夢が始まった日の夜、いつもの通り家族と夕食を共にしていた。
私の隣には妹のアメリナ。対面には父親のレオニード公爵と母親のシャルロット夫人が。
そんな中、興奮気味のアメリナが楽しそうに今日の出来事を話して聞かせる。話題の渦中にいるはずの私は、黙々と食事を進めていた。
それはなぜか……。
「ねっ! そうよね! お姉様!」
「ええ」
さらりと流すように答える私。真面目に答えるだけ無駄だから。
「ほう、お前もたまには役に立つんだな。その調子でアメリナを見守ってやるんだぞ」
「そうよね。アンスリアはお姉さんなんですもの。しっかり、妹の面倒を見てあげないと」
「もう、お母様ったら! 私だっていつまでも子供じゃないのよ!」
「あらあら、そうだったわね。ごめんなさい」
三人の和やかな笑い声が広い天井を駆け巡る。でも、その笑い声の中には私の声は入っていない。本当に血の繋がった家族なのかと疑ってしまうほど、私と彼女達には溝があった。
産まれた頃は、確かな愛情を注がれていたのに……。
「そういえばね、その三年生におもいっきり叩かれたのよ! それも二回も! 本当に痛かったわ」
ガシャァン。
「……なんだって?」
突然、部屋中にピリピリと稲妻が迸る。数人の使用人達にも緊張が走り、凍りついた空気が背筋を強張らせた。
言うまでもないけれど、アメリナの話題がお父様の逆鱗に触れてしまったんだ。溺愛する娘に手を上げたとなれば、親なら皆怒るもの。
「アンスリア、お前が付いていながら、どうしてそうなったんだ?」
「……申し訳……ござ……」
「この役立たずがっ!!」
バシィーン!!
お父様の怒りの矛先が私の頬を貫く。あまりの衝撃で椅子から転げ落ち、袖のブローチに引っ掛かったテーブルクロスからは料理が落ちる。できたてのスープが腕にかかり、赤く腫れてしまう。
全力で叩かれた頬もまた、じんじんと脈打つ。
何度受けても、これだけはいまだに慣れない。
「お姉様!」
慌てて駆け寄るアメリナが叫んだ。私の肩を抱き、身体を起こすのを手伝ってくれる。
「お前が不甲斐ないからアメリナがこんな目に会うんだぞ! もっとヴェロニカ公爵家としての威厳を持たんか! この面汚しが!」
「……申し訳……ございません」
「やはり彼をアメリナの専属執事に……」
「そうですわね、あなた。アメリナは……」
叩かれた頬が熱くなり、
でも、こんなのは日常茶飯事だ。アメリナが産まれてからずっとそう。
いつの日からだろう。両親が私に注いでくれるのは、憎しみだけになっていったのは……。
━二ヶ月後の朝━
今日はアメリナとは登校していない。なんて清々しい朝なのだろうか。お陰さまで何のイベントも発生していない。
ザーザーと降る篠突く雨に隠れる為、一際大きな傘をさす。ついでに人目からも逃れられるし、今日は幸先の良い始まりだわ。
「アンスリア様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、イライザ様」
校舎の入口で挨拶を交わしたこの生徒は、同じクラスの男爵令嬢イライザ・フレデリクさん。人当たりもよく、いつもニコニコとしている。
さすがにイライザさんにまで冷たく接する必要はないわね。
「イライザさんの着てらっしゃるブラウス、なんだかキラキラしていますのね。とっても素敵だわ。それになんだか、肌触りも良さそう」
教室へ向かう最中、ふと気がついた事を言う。それはイライザさんの身につけた真っ白なブラウス。首から覗かせているその襟元は、控えめな光沢を纏い、サラサラと肌を滑るような着心地なのが見てわかる。
「……本当ですか!? この生地、私の実家で作っているんです! あまり知名度はないのですが、我が領地の名産にもなっているんですよ!」
「そう、羨ましいわね」
「でしたら今度、アンスリア様のご衣装も身繕ってさしあげますわ!」
「ありがとう。楽しみにしているわ」
よほど嬉しかったのだと思う。その後も、いつも以上に元気で明るいイライザさんとお話をしていた。こんなに上機嫌な理由はやっぱり、そのブラウスを誉めたからなのね。
故郷の特産物を
何て言うのも大袈裟だけれど、たまには人を喜ばせても罰は当たらないわよね。
「アンスリア様、それでまた」
「ええ」
イライザさんと教室で別れ、窓際にある自席へと座った。
窓ガラスから映し出された景色は、仄暗く黒い空を滝のように流れる雨が歪ませている。この豪奢な教室とはまるで別世界ね。高い天井から吊るされたシャンデリアに照らされ、人の醜ささえも美しく彩る偽りの景色。
外と内、そのどちらも不安を掻き立てる景色だ。記憶の中で何度も見た、悪い事象の前触れ。
「ごきげんよう、アンスリア様」
久々に声をかけてきたのは、例の悪友三人組だった。リーダー的存在のジェニファーさん。取り巻きのエイミーさんとカルメンさん。三人ともそれなりの貴族家出身ではあるけれど、何かと私に取り入ってくるんだ。
実家ではどんな扱いを受けているのかも知らずに。
「今朝はイライザ様と懇意にしていたみたいですけれど、いつの間に仲良くなったんですの?」
「……別に、たまたま会っただけよ」
「近頃、よくお話しているところもお見受けしましたが?」
何を言うのかと思えば、ただの嫉妬か。
自分達は相手にしてもらえないのに、なんで
「話しかけられたから軽く返事をしただけ。友人などではないわ」
「まあ、それは良かったですわ! もしアンスリア様のご友人でしたら、今頃大変なご無礼になっていましたもの」
口角を片側だけ吊り上げ、ニタリと嗤うジェニファーさん。
「……!」
ガタァン!
思わず席を立ち、遠く離れた席のイライザさんへ手を伸ばした。
「きゃぁぁぁーっ!!」
同時に響き渡る叫び声。その声の主は、やはりイライザさんだった。
床に倒れ、震えおののくその先には、彼女の学習机から溢れ落ちる虫の死骸。堰を切ったようにボタボタと次から次へと床に溢れだすのは、忌み嫌われる虫ばかり。
「あははは! やりましたわね! アンスリア様!」
私の手を握り、さも嬉しそうに言うジェニファーさん。静寂の教室で、取り巻きの二人までもが高らかに笑い声をあげる。
「……一体、何をしたの」
沸き上がる感情を抑え、尋ねる。
「クスクス……イライザ様のご実家はご存じでして? なんと、代々幼虫を育てる家系らしいのですわ!」
「それに、その幼虫の吐瀉物を衣服として着ているそうなんですのよ! 何て汚らわしい!」
そうだったんだ。今、初めて知ったわ。
おそらくイライザさんの領地では蚕の繭を繊維に使っているのね。
転生前の世界では、シルク素材と言えば上質なものと言われているのに。この異世界に住む上流階級の人々の中では、御法度だったなんて。
「そんなに虫さんがお好きならぁ、きっと喜んでいただけると思ってたのにぃ。わざわざ使用人に集めさせた甲斐もなく、非常に残念ですわぁ」
「やっぱり害虫は好みではなかったみたいですわねぇ。あははは!」
あからさまに演技をする三人。絶対にこうなる事をわかっていたんだ。
「アンスリア……様?」
震えるイライザさんと視線が合う。その疑心に溢れた瞳、きっと疑っているのね。私が主犯なのでは、と。
「ほらほら! アンスリア様に何てものを見せているの! 早く片付けなさい!」
「虫の扱いなら手慣れていらっしゃるのでしょう? この田舎者!」
追い討ちをかけるように罵倒するエイミーさんとカルメンさん。
ふらふらと立ち上がったイライザさんは、その綺麗な両手で虫の亡骸を掬い、屑かごへと放っていた。
どうして誰も助けないのか。なぜ見て見ぬふりをするのか。その原因は全て、この
私の一言で全てが解決するのに。誤解を解けるのに。でも私は何もしない。そうしたところで、未来は何も変わらないのだから。
もう、どうでもいいわ。
「
俯き、そう呟く。
私と関わる人間は、すべて不幸になるんだ。
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