第3章 キア、乞われる

第11話 手紙


 その日、イザック・リベリュルは、王子の傍らではなく黒狼隊の執務室にいた。

 彼の手にあるのは、早馬で届いたばかりの手紙だ。


 西のベルミ辺境伯領からは、毎日のように化粧師オーギュストからの暗号化された報告書が届いていたが、今朝届いたものにはキアからの短い手紙が添えられていた。


 キアの手紙には、テオが意識を取り戻したこと。辺境伯家に滞在している異国の青年の事情が、まるで母親あてに書かれた手紙のようにつづられていた。

 一方、オーギュストの報告書には、キアの手紙に書かれた情報から、ベルミ辺境伯にかけられた疑いが晴れたことと、撤収に関する質問が書かれていた。


「まずいな……」


 つぶやきとともに、イザックの手の中で報告書がくしゃりと潰れた。

 今まで感じたことのない不安が、イザックの心を苛立たせている。

 普段の彼はどんな時でも冷静さを失わない。それは部下への信頼に加え、ありとあらゆる事態を想定しているからだ。


 だが、今回は違う。

 いくらヴィクトール王子の人選でも、訓練を受けていない素人のキアを行かせるべきではなかった。

 深い後悔がイザックの胸をさいなんでいる。

 先日届いた報告書には、意識不明のテオを看病するため、キアがベルミ家に滞在することになったと記されていた。あの時点で、オーギュストはキアを止めるべきだった。


(いや、報告を受けた時点で、俺がそう命じるべきだった……)


 連絡を絶ったテオが、意識不明の状態で辺境伯家にいる。そんな事態を予測していなかったのは自分の失態だ。それが、キアの身を危険に晒している。


(なんだこれは? 俺は……あの娘を心配しているのか? 何の能力もない、ただの小娘を? 馬鹿な……そうではない。俺はただ、最悪の事態が起こることを恐れているのだ)


 ベルミ辺境伯夫妻が城を離れている今、城の警備は半減している。〝例の疑惑〟が晴れた今、最重要事項はケニーの保護だ。

 万が一、ラキウス王国内で彼の身が害されることになれば────例えそれがナヴィア王国からの刺客だったとしても────ラキウス王国側の無実を証明する証拠がない限り、マズい事態になりかねない。

 国と国との関係を壊したい輩にとって、開戦の発端には十分なり得るのだ。


(厄介な兄弟げんかをしやがって!)


 ギリっと奥歯を噛みしめた時、キアの顔が眼裏まなうらに浮かんだ。不満げな表情を浮かべつつ「笑ってください」と彼に要求を突き付けてきた時の顔だ。


 イザックは深いため息を吐いた。

 あの平凡すぎるほど平凡な娘の身が、イザックは心配でならない。それはたぶん、平凡な人生を送る筈だった彼女の人生を捻じ曲げた贖罪しょくざいの想いなのだろう。彼女が危険な目に合うのは、すべて自分のせいなのだから────。


(テオは恐らく、ケニーの正体をキアに知らせてはいないだろう)


 何事か起こった時、彼の近くにいなければ、最悪の事態になっても巻き添えを食うことはない。だが、キアは存外おせっかいだ。あの行動力も侮れない。

 イザックの眉間のしわがグッと深くなる。


(キア……頼むからケニーには関わるな。あいつは……)


 イザックは執務机から立ち上がると、壁際のポールハンガーにかけておいた黒い隊服の上着を乱暴に手に取った。



 〇     〇



 テオが目覚めて二日が経った。

 それなのに、キアの寝不足はまだ継続中だ。未だに一度も自分の寝室で眠れていない。


 そもそも、テオが無理して起き上がろうとしたのがいけない。キアが申し出たトイレの介助を拒否したくせに、ベッドを出たその場で倒れてしまったのだ。

 いくら恥ずかしいからと言って、黒狼隊の隊員ともあろう者が情けない。キアは思わずテオに小言を言ってしまった。


 それからというもの、開き直ったテオが、昼夜を問わずあれこれ用事を言いつけるようになったものだから、おかげでキアは、眠るテオの傍らで仮眠をとる毎日だ。

 爽やかな夏の日差しとカーテンを揺らす風に眠気を誘われて、今もベッド脇でゆらゆらと船を漕いでいる。


「キア! キアー!」


 大きな声とともに扉がバタンと開いた。

 びっくりして眠気の吹っ飛んだキアが顔を上げると、満面の笑みを湛えたケニーが立っていた。


「やぁテオ。気分はどうだい?」


 ついでのようにテオに声をかけ、彼はすぐキアに向き直る。


「聞いてよ。兄上から手紙が来たんだ! 元気になったって! 戻っても大丈夫だって!」


 開いたままの手紙を握りしめているケニーに、キアは「良かったですね!」と微笑んだ。

 彼の方が二つほど年上のはずなのに、何だか姉になったような気分だ。


「ありがとう! ああ、マティにも知らせないと!」


 ドタバタと部屋を出て行くケニーを見送りながら、キアは夢想する。


(ケニー様みたいなイケメンの弟がいたら、毎日楽しいでしょうねぇ~。ふふっ)


 憂い顔の彼も素敵だったが、はち切れんばかりの笑顔を浮かべた彼はまた格別だ。


「おまえ、ずいぶん懐かれたじゃないか」

「いやだなぁ~テオさんったらぁ。懐くなんて子供みたいじゃないですかぁ!」


 まんざらでもない笑顔で振り返ると、ベッドの中のテオは真顔だった。


「あの手紙が、偽物じゃないといいけどな。僕がこんな状態じゃなければ……」

「え、一体どうしたんですか?」


 テオのつぶやきは危険な響きを孕んでいて、明るかったキアの気持ちに影を落した。


  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る