第5話 笑ってくれますか?
「おまえにやってもらいたい仕事がある」
イザックはそう言って、キアの前に紙を広げた。
しっかりした厚手の紙には、細長い三角形のような輪郭と、山や川などの絵が描かれている。所々にある文字は主要な都市の名前だ。
「これって、ラキウス王国の地図ですか?」
「そうだ」
イザックは頷いて、その細長い三角形の左端をトンと指さした。
「ここはナヴィア王国との国境、ベルミ辺境伯領の領都だ。おまえの仕事は、このベルミ伯の館まで使いに行くことだ。王太子殿下が、どうしてもおまえに行かせろと言って聞かない。前回のクロエ・ソルシエール嬢役を上手くこなしたおまえを、殿下はお気に召したようだ。どうだ、嬉しいか?」
「へ? 嬉しくないですよ!」
キアは唇を尖らせた。
「だって王太子殿下は、私を囮に使うようなお方ですよ。きっと、またとんでもない目に合うに決まってます! それに、そんな遠くまでお使いに出るなんて、侍女仕事の範疇を超えてますから!」
思いつくまま不満をぶちまけたキアは、一瞬遅れてハッとした。
王太子に対する不満は、不敬罪にあたるのではなかったろうか。しかも、目の前にいるのは王太子付きの護衛騎士だ。彼に誤魔化しは効かない。そして、口から出てしまった言葉は、残念ながら口の中には戻せないのだ。
(しまった!)
恐る恐る見上げると、イザックの目がゆっくりと弧を描いた。
笑っているようにも見えるが、隙間から覗くアイスブルーの瞳は凍てつく氷山の色だ。ほんの少しも笑ってない。
キアがあわあわしていると、ふっとイザックの瞳が和らいだ。
「おまえ、辞令をよく読んでないだろう? 侍女の仕事内容は黒狼隊に準ずると記してあったはずだ」
「え?」
キアはぱちぱちと目を瞬いて、固まった。あの辞令に、そんな注意書きがあったろうか。一応目は通したつもりでいたが────記憶には無い。
「ええと、それって……つまり?」
「俺が命じたことがおまえの仕事、という意味だ」
「そんなぁ~! ひどいじゃないですか。そもそもお城で働きたいなんて、私は一言も言ってないのに……」
キアは半泣きだ。
この王都に来るまで、故郷から出たこともなかった田舎娘だ。たった一人で辺境伯の館へ行くなんて不安すぎる。
キアの頭からは不敬罪のことはすっかり抜けていた。
「殿下と知り合ったのが運のつきだ。諦めろ。その分、おまえの給金は普通の侍女の倍になってるはずだ。今回の仕事では、さらに特別出張費と危険手当が加算される」
「やっぱり危険なんですね!」
「いや、危険はないはずだ」
「本当ですか?」
キアは胡乱な目でイザックをねめつけたが、彼はサッと視線を外してしまった。
「出発は明日の朝だ。おまえの任務は、辺境伯家に家庭教師として入っている隊員と連絡を取ることだ。彼の妹として訪ねてもらう。よって、辺境伯領までは乗合馬車で行く。化粧師も同行するが、彼とはあくまでも他人としてふるまえ」
キアの不安などお構いなしに、イザックは事務的にどんどん話を進めてゆく。
「辺境伯家に彼がいれば連絡を取って戻る。居ない場合は別の者が捜索を開始する。おまえはそのまま戻って構わない。どうだ、簡単な仕事だろう?」
(簡単⁈ 冗談でしょ?)
喉まで出かかった言葉をキアは飲み込んだ。
どうせ自分が何を言ってもこの任務は覆らない。決定事項なのだ。
ならば────。
キアは不退転の決意でイザックを見上げた。
「わかりました……その代わり、この任務が成功したら笑ってください」
「は?」
「ワハハ、ていう笑いじゃダメです。心底優しそうにフワッと微笑んで下さい。約束してくれますか?」
「……いいだろう。いくらでも笑ってやる」
「絶対ですよ! 約束しましたからね!」
キアは何度も確認してからようやく会議室を後にした。
「……すこし酷だったかな?」
キアが退出して行った扉を見つめながら、イザックはその精悍な顔を曇らせた。
ラキウス王国では珍しくもない薄茶の髪と緑の目。これといった特徴のない平凡な顔立ちの娘は、ある意味、誰にでもなり得る白いキャンバスのようなものだ。そんな可能性を秘めたキアを初めて見た瞬間、「使える」と思ったのは自分だったはずなのに。
(……この後味の悪さは何だ?)
無意識のうちに、眉間にグッと力が入る。
次の瞬間、イザックはハッと目を瞠った。
キアのことに気を取られていたせいか、突然湧いて出た人の気配に気づくのが遅れた。
「へぇ、イザック様でもそんなこと言うんだね。人の気持ちなんか考えない冷血漢だったのにね!」
「オーギュストか?」
鷹揚に振り返ると、続き部屋に通じる扉の前に化粧師が立っていた。大事そうに抱えた紙袋からは、何やら香ばしい匂いがする。
「何の匂いだ?」
「
「そうか。キアが……」
イザックは、オーギュストが差し出した紙袋の片方へ手を伸ばした。
カリカリになったパンを手に取り、キアの顔を思い浮かべる。
(せめて最初の任務くらいは、目の届く場所でやらせたかったが……)
机の上に置いた「食事予定表」が目の端に映る。
「食材が余って困る」と怒っていた彼女は、とても仕事熱心な普通の少女なのだ。
イザックは小さくため息をついてから、二度焼きパンを口の中に放り込んだ。
サクサクとした歯触りでパンが砕けてゆくにつれ、塩味とガーリックバターの風味が舌の上に香ばしく広がってゆく。
「うん。美味い」
「でしょ? まだたくさんあるから食べなよ。次は甘いのにする?」
ポリポリ サクサク
二人の男が日中の会議室で菓子をつまむ。
その頃、調理場へ戻ったキアが、空になった天板を見つけて叫び声を上げたことなど、彼らは知る由もなかった。
(第2章に続く)
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