第7話 高倉町珈琲
日曜日の朝9時。その店は既にそこそこ混んでいた。
駐車場がほぼ満車の時点で覚悟していたが、思ったよりも人が多く、おおよそ半分くらいの席が埋まっている。
満車に近いのに半分というのは謎だが、この店にとって、これはいつものことである。毎回、謎の人間消失事件が起きているのだ。
敷地内にはラーメン屋もあるが、まだ開店時間ではない。ここに停めてどこかへ行ってしまうことは考えにくいのだが、おそらく男が知らないどこかへ、人々の半数は向かっているのだろう。もしかしたら、別の次元へ行ってしまったのかもしれない。
それはさておき、男は着席した。二人掛けの窓際の席である。丸いテーブルに籐の椅子。そう、ここはお洒落なコーヒーチェーン店「高倉町珈琲」である。
できれば四人掛けのテーブル席が理想だったが、それらはみな埋まっていた。この店の開店時間は七時。かなり早めに来ないと、希望の席には座れないようだ。
まあ、座ったとしても、どんどん押し寄せる複数人の客にいたたまれなくなるのは目に見えているため、ここで良かったのかもしれない。
男はリュックを置き、モーニングメニューを開いた。
飲み物代にプラス料金を払って、モーニングの料理をつけるというスタイルのようだ。
男は悩む。
一番安いのはプラス百円のコーンマヨトーストで、ブレンドコーヒーにつけて五百八十円である。しかしそれも味気ないだろう。
高倉町と言えばリコッタパンケーキだが、それはプラス四百八十円もするため、モーニングだけで千円近くになってしまう。
他にもフレンチトーストや根菜雑穀ドリアなどのモーニングもあったが、少し中途半端に思えた。ドリアは男の好物だが、この日は食指が動かなかった。
こんなに悩むのは、外で執筆するようになってから初めてだった。おそらく十分近く考えていただろう。
最終的に定番か最安かで悩んだ結果、リコッタパンケーキに決めた。
リコッタパンケーキはソースを選ぶことができる。メープルシロップ、キャラメルソース、ベリーソース、高倉町珈琲特製クリームの四種類である。こんなラインナップであれば、いくら天邪鬼な男でも、特製クリームを選んでしまう。明らかに特別感があるではないか。
注文を終え、男は読書を始めた。椅子が良いからか、上質な時間を感じる。北関東の田舎町には、本来こんな空間は似つかわしくないし、それが似合う人間も稀だろう。
それでも時代は変わり、景色は移る。人の「姿」は、きっとこのように変化していくのだ。
ブレンドコーヒーは、酸っぱくなくて美味しかった。「たっぷりブレンドコーヒー」というのもあるが、普段あまり珈琲を飲まない男にとっては普通でもたっぷりだ。
リコッタパンケーキは、予想より大きかった。直径は測っていないが、モーニングメニューとは思えない大きさだ。下手すると通常と変わりないかもしれない。しかも二枚ある。
これでプラス五百円弱ならかなりお得だ。
食感はふわふわ、ではなく、ふんわふんわ。漫画だったら「フンワ~」という飾り文字が躍ることだろう。
特製クリームがまた美味い。チーズクリームのため、リコッタパンケーキとの相性が悪いわけがないのだ。ナッツのアクセントも良い。
美味すぎて、一枚を食べ終えた時点で、クリームが残り三分の一程になってしまった。計算を狂わせる、恐るべきクリームである。
とりあえずそこで食事を中断して、執筆にとりかかる。
ちょっと書きにくい。お洒落な椅子とテーブルは、もちろんパソコンを使うことを想定していない高さで調節されているので、当然だ。「飲み物」と書こうとして、男は何度も「もみもも」と書いてしまう。
だがこれは慣れるしかない。色々な場所で書いてきた男にとって、致命的な条件ではなくなっている。
少しすると、隣にカップル客が座った。日曜なのに、男はスーツ。女性も小綺麗な恰好である。ちょっとだけ下世話な想像をしてしまう男であった。
男女は共にモーニングメニューを注文し、会話を始めた。わりと席は近いが、内容は聞こえない。上品な感じではあるが、逆にそれが艶やかさを醸し出している……ような気がした。
程なくして、店員が男女のテーブルにやってきた。飲み物を持ってきたわけではなさそうである。どうやら、奥の席を薦めていることが、手の動きで分かった。
確かに、モーニングメニューは予想より量があり、それだけ皿も大きい。丸テーブルには二つの椅子が添えられているが、さほど広いわけではない。二人分の料理が並べば、かなり手狭に感じるだろう。
それを見越しての、店員の気遣いである。見事だ。朝から多くの人が訪れる、人気店になるのもわかる。人間消失の理由はわからないが。
それから少し執筆を続け、残りの半分のパンケーキを平らげた後、男はトイレに立った。もちろん、ノートパソコンをリュックに入れて持っていく。
とても綺麗なトイレだった。特に、個室が素晴らしい。ドアを開けると正面に便器があるのは当然だが、その右手に、物を置く台が確保されている。それも、個室のスペースの奥から手前まで、一メートル以上ある。幅も三十センチ強くらいあり、男のリュックも余裕で置くことができた。
店のトイレの個室は、ドアに金具が付いていることが多いが、パソコンが入ったリュックを掛けるには、少々心許なく、いつも落ちやしまいかとドキドキしているのだ。
席に戻った男は、残ったコーヒーを飲み干して、おかわりドリンクメニューを眺めた。
ドリンクを一杯注文すると、おかわりドリンクが半額になるのが、高倉町珈琲の特徴である。半額にできる種類は限定されるが、充分な種類がある。しかも、最初に注文したものと別のドリンクでも構わないという、涙がでそうなほど嬉しい仕様となっている。
男が選んだおかわりは、アイスロイヤルミルクティー。半額で三百十円である。
通常では六百二十円もする高級ミルクティーが三百十円で飲めるなんて! と男はホクホク顔になる。ちょっと初期設定が高すぎる気もするが、半額だからと気にしない。
本当は半額でも充分利益が出る計算なのだろう。巧妙と揶揄することもできるが、客も店も喜ぶ、決して悪くないシステムである。
ミルクティーは甘くないが、上に添えられた生クリームが甘くて、美味い。少し溶かしたりして味を変えながら、長く楽しめる工夫がされていた。これが三百十円なら、かなりのお得感を味わうことができる。
男の執筆は続き、気づけば正午近くになっていた。書きづらさにも慣れ、タイプミスもほとんどなくなったが、集中力もなくなった。
昼食はどうしようか。
ドリンク二杯とリコッタパンケーキで、すでに千二百七十円使っている。なんとか二千円に収めたいと、男は計算した。
七百三十円以内の料理をメニューから探すが、見つからなかった。ここで退店して、昼食は別に安く済ませる手もあるが、男は長居させてもらった恩返しの意味も込めて、なんとしてもここでもう一品注文したいと思った。
結局、注文したのは九百円のナポリタン。だが二千円は超えない。なぜなら、LINEの初回友達登録でお代わり一杯無料クーポンをゲットしたのである。つまり、三百十円のアイスロイヤルミルクティーが無料になったのだ。しかも元は六百二十円である。
男はさらに機嫌を良くし、単純にも再来店を決意した。
店の思惑に悉く躍らされている感覚は、男にも少しはある。だが、踊って楽しければ、嬉しければ、いいではないか。
どうせアホなのだ。大いに踊ろうではないか。
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北関東の田舎なので、店は限定されますが(笑)。
ライトピアを求めて 赤尾 常文 @neko-y1126
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