第6話 ロイヤルホスト

 昨夜は凄絶な雷雨だった。


 男は日中の仕事で疲労困憊していたが、その雨音の所為で眠れなかった。


 文字通り、土砂降り。降っているのが水だけとは思えないほどの、屋根が抜けるのではないかという勢いの大雨だった。思わず空に向かって「なんかあったの?」と訊きたくなるくらいに。


 目覚めたのは、いつもの時間だった。休日はゆっくり眠りたいと思いながらも、同じ時間に起きてしまう。かといって、四十を過ぎると二度寝することも難しい。


 老人は早起きと言われるが、その兆候が既に出始めている。


 仕方なく男は起床した。今日の気象は晴れ模様だ。


 休日なのに早く起きて、いそいそと出かける準備をする男を、母親が不満そうに見ている。


 どこかに行くなら私たちも連れていけ。と顔に書いてある。両親は、男が休日に外出する理由を知らない。「またうすうすして!」と咎めるように言う。「ふらふら」のことを「うすうす」と言うのは、このあたりの方言だが、母以外の人が言っているのを、男は聞いたことがなかった。


 男も、多少心苦しいところはある。母は友達も多く、普段たまにちょっとしたバイトもしているが、父はずっと家でテレビを見ている。母がいなければ、日中は独りぼっちだ。


 たまに外に連れ出さないといけないとは思うが、今は、執筆欲のほうが勝っている。欲と言っても、平日は全く湧かない、中途半端なものだが。

ともあれ、男は今日も無事に外出した。


 向かう先は、高級ファミリーレストランで有名な「ロイヤルホスト」である。


 しかも、今日は平日に休みを取ったため、いつもよりも気分が一段階上だ。優雅な朝食、いや「ブレックファースト」を楽しみ、ゆったりとした時間の中で、創作に勤しむ。なんと贅沢な休日であろうか。


 しかし、男は平日の朝の恐ろしさをすっかり忘れていた。


 目的の「ロイヤルホスト」は、平常時なら男の家から二十分ほどの距離にある。旧国道沿いを、中央駅方面へ向かうと到着する。


 時刻は朝八時。そして平日。通勤ラッシュである。旧国道は渋滞していた。

平日は自宅と、車で五分ちょっとの地元の会社を行き来するだけの男は、見事にそれを失念していた。


 出鼻を挫かれた形とはなったが、出発から四十分後には、無事目的地に到着した。

この「ロイヤルホスト」は、昔からある。学生時代からあるので、もう二十年以上も存続しているだろう。


 一応県庁所在地とは言え、北関東の田舎町で、よくこんな高級な店が続くものだ。

駐車場には、男の他には車は一台しかなかったが、男が駐車している間に、もう一台入ってきた。


 その車は、比較的店の入り口に近い場所で老女を降ろした後、ゆっくりとスペースに駐車した。


 男が車を降りて入り口へ向かうと、その車を運転していた老人が降りてくる。父親よりももっと年老いて見えるが、上品な服装で、ハットまで被っている。もしや、紳士か。


 入り口へ向かう途中、男は老婆を追い越した。杖を支えに、ゆっくりと歩く老婆もまた、白を基調とした、綺麗な装いをしていた。


 入り口の扉が少し重かったので、男は老婆のために開けて、待った。


「あら、すみません」


 どう見てもヨボヨボなのに、老婆の声は凛と通っていた。男は少しだけ紳士になった気がして、気分よく入店した。


 さて、席取りである。「どうぞこちらへ」という案内形式を想定していたが、意外にも、自由選択式であった。最も奥の角席を確保する。


 四人掛けのテーブルの中央には、アクリル板が置かれていた。


 すぐにブレックファーストメニューが運ばれてくる。昨夜のうちに下調べをした男の注文は既に決まっていたが、一通り目を通した。


 やはり高級である。モーニングメニューでも、千円を超えるものがざらにある。男は予定通り、スクランブルエッグのモーニングプレートに決定した。これなら、ドリンクバー込みで税込み七百円弱である。トーストは、食パンか、英国風の山形パンを選ぶことができたので、せっかくなので英国風を選択する。


 ここで、男は悩んだ。「ロイヤルホスト」一押しの「オニオングラタンスープ」を注文するか否かである。値段は四百円後半。注文すれば、朝食だけで千円を超えてしまう。


 三分ほど悩んだ挙句、男はとりあえずスープを注文せず、様子を見ることにした。優雅な朝食を楽しむつもりだったのに、煮え切らない男である。


「ロイヤルホスト」のコーヒーが、他とは違って美味いとネットに書いてあった。だが、やはり男にはその美味しさがわからなかった。むしろ、前回のコメダ珈琲よりも少し酸味があって、あまり好みではなかった。


 朝食が運ばれてくるまで、男は執筆ではなく、読書をした。


 書くのも良いが、読むことも重要だ。そんなことはもう何十年も前に分かっていることだったが、男はこれまで、あまり読んできたとは言えない。


 書く気力が湧いて、そのことに気づき、にわかに読み始める。そんなことの繰り返しだ。


 特に、最近は長編を読むのが辛くなってきた。かと言って、短編集でも数編読んで疲れてしまう。それでも何とか読み切りはするが、そんな調子では、さほど吸収もできずに終わる。


 さらに、そうこうしているうちにせっかく湧いた執筆意欲も薄れ、結局書かないでしまうことも多かった。


 男自身、自分が小説家に向かないことは、もう分かっている。性格からしても、おそらく仕事としてやってはいけないだろう。趣味と割り切ってしまうほうが楽だ。


 それでも、男は夢を離さない。これからも、きっと一生離しはしないだろう。



 最初のコーヒーを飲み終わった頃、朝食が到着した。男がコーヒーを飲むペースはかなり遅いほうなので、やはり高級店らしく時間をかけて丁寧に調理しているのだろう。


 スクランブルエッグにハッシュポテト、そしてウインナー。英国風の山型食パンは小さめだが、何となく高級な感じはする。


 味は、驚くほど美味い! というわけではなかった。まあ、普通に美味しい。店側としても、一番安いメニューでそんなに期待されても困るだろう。


 男は普段、食パンには何も付けない派だったが、せっかくの英国風だからと、付属のバターとイチゴジャムをたんまり塗って、血糖値を上げた。


 二杯目のコーヒーを淹れ、席に戻る。この店では、コーヒーが二種類あった。一杯目は、よくある機械から抽出されるもの。そして二杯目であるこれは、店側が既にドリップして、ポットに入れてあるものだ。


 さて、味の違いはいかに? などと恰好をつけてみても、やはり男にその違いがわかるはずもなく、やっぱりちょっと酸っぱい、という程度の感想しか生まれなかった。


 気を取り直して、執筆を開始する。ブラインドから薄く見える風景は、良く晴れて光に満ちていた。きっと外は暑いだろう。比べて、ここは快適だ。


 三十分ほど書いたあたりで、隣の席に新しい客が座った。男女二人組である。気の弱そうな優男と、気の強そうなぽっちゃり女子である。


 店内はまだガラガラなのに、なぜ人の近くを選ぶのだろう。せめて一つ空けたら良いのに。と男は思うが、選択の自由は彼らにある。裏を返せば、自分だって好きな席を選んで良いのだ。


 何度か外での執筆をしてきた今の男には、これも今回の出来事の一つとして楽しもう、という余裕さえある。「人間観察」という言葉も、それを趣味とする人間も偉そうで大嫌いだが、人の様子や、会話に注目する面白さは、確かにある。そして文章表現の参考にもなるし、うまくすれば、そのままネタになったりもする。家に籠って執筆を続けていたら、気づけなかった事実かもしれない。


 男は一度席を立ち、ドリンクバーコーナーに向かった。


 コーヒーはもういいだろう。とはいえ、甘いドリンクにも興味はないし、温かいお茶を淹れるのも面倒である。


 男はグラスに氷を入れ、サーバーに入った「トロピカルティー」を注いだ。期間限定などと同じように、男はこの手の「その店オリジナルのドリンク」に弱い。大抵に種類くらい用意されているが、必ず一方は飲む。


 席に戻り、トロピカルティーを一口含む。ほぼ、普通の紅茶だった。ほんのちょっと、トロピカルな風味が奥のほうにある。


 再びパソコンを開き、ロックを解除した。先ほどまで書いていた文章が表示される。相棒のノートパソコンちゃんは、今のところ健康的だ。あちこち連れ歩かれて、時には生暖かい車内に取り残されるが、文句ひとつ言わない。


 男がキーボードを打ち始めた時、隣の二人組は注文するメニューを決めたらしく、店員呼出ボタンを押した。素早く店員がやってくる。


 まだ十時半前だが、がっつり食べるらしい。ブランチと洒落こむつもりだろうか。


 店員が去ると、女性のほうが大きな声で話し始めた。


 聞くつもりはなくとも、聞こえてしまう。


 しかも、内容が少し病んでいた。男は黙って話を聞いているだけだ。


「人間観察」好きな人たちは、ここで彼らの関係や背景などを想像しながら、その会話を楽しむのだろうか。チラチラと二人の様子を盗み見ながら、勝手な分析を始めるのだろうか。何様のつもりだろう。


 男はそういう人間にはなりたくなかった。小説の勉強になるとわかっていても、他人を上から見下ろすようなことはしたくない。自分の矮小さを、自分の臆病さを、自分の卑劣さを、これまでの人生で嫌と言うほどわかっているからだ。


 あまり話を聞かないようにするために、男はキーボードを叩いた。あまり良い文章とは言えなくても、とにかく進めた。それでも良い。後で推敲もできるし、考えずに綴った文章は、時に練られたものよりも優れている場合もある。


 女性の大きな声での嘆きに時折心を乱されながらも、男はなんとか執筆を続け、十一時が過ぎた。店内も多少混んできている。


 このあたりで一区切りつけて、昼食にすることにした。


 ロイヤルホストと言えば、オニオングラタンスープ……なのかはわからないが、メニューの一番初めに載っている。見るからにイチオされている。


 これを頼まない手はないが、いかんせんただのスープの癖に、高い。なんと単品で税込み四百九十五円もする。


 そこで、ランチセットに注目した。


 プラス料金を支払うことで、ランチスープをオニオングラタンスープに格上げできるのだ。ちょっと味見がしたいだけなので、それで十分なのである。


 男はデニーズに続き、またしても和風ハンバーグセットを注文した。ひねくれているというより、単純に和風ハンバーグが好きなのかもしれない。


 注文後にメモをまとめて、男はパソコンを仕舞った。


 再び軽く読書をして、ハンバーグを待つ。


 オニオングラタンスープが先に運ばれてきた。器の直径は十センチ程度で、思ったよりも小さめだった。


 早速一口掬って口に運ぶ。芳醇な香りとともに、男は火傷を負った。ものすごく熱い。


 トロトロの生地、チーズの香り、そして少し苦い玉ねぎの風味が駆け抜ける。


 これは確かに美味い。美味いが、単品で頼むほどではない気がして、セットにして正解だと思った。


 男はもう一つの楽しみ方を試した。モーニングの山型食パンを、少し残しておいたのである。


 パンはさすがに硬くなっていたが、それをスープに浸すと、ぎゅっ、と吸い込んだ。これもまた美味い。当たり前だが、温かいパンだったらもっと美味いだろう。


 ハンバーグが到着した。さっそくナイフを入れる。


「ぴゅ!」


 と確かに鳴いた。そして飛んだ。肉汁が。


 男の脇腹をすり抜けて、汁はバッグに着弾した。少し口が開いていたがパソコンにはかかっておらず、ほっとした。


 紙ナプキンとおしぼりでバッグをぬぐった後、男は改めてハンバーグと対峙する。とても肉肉しい。流石高級ファミリーレストランである。町の洋食屋となんの遜色もない。


 和風なので、大根おろしと青じそが乗っている。青じそも風味が強く「良いしそだ……」などと心の中で呟いてみる。


 ランチセットにはライスも付いていたが、やはり最後は、山型食パンの出番だ。ハンバーグの肉汁がたっぷりしみ込んだ和風ソースを吸わせて、口へ。


 爽やかにして、濃厚。繊細にして、野性が香る。もしかすると、今日食べた中で一番かもしれない。男は満足した。


 正午を回って、店内はいよいよ活気づいてきた。近隣から会社員やマダムたちがランチを楽しみにやってくる。


 高級店なのに田舎でよく持っているな、と思っていたが、想像以上に人気店だった。高いから、と引いていたのは自分の心だったのだ。


 その、雑多な雰囲気は、ロイヤルホストを身近に感じさせ、少し嬉しくなった。


 知らないことがまだまだある。ちょっと外に出ることで、知ることができる。汁は飛ぶかもしれないが、嬉しいことはまだ世界にあふれている。

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