第5話 コメダ珈琲
相変わらず雨が続いている。もう五月も後半に入った。梅雨入りしたと言われてもいい時期だが、気象予報士はまだそう言っていない。
どちらにしても嫌だ。梅雨なのだとしたらもちろん嫌だし、まだ梅雨ではないとしたら、これから梅雨が来るということになるので、やはり嫌だ。
男は最近になって、雨が嫌いになった。雨が降ると、夜間の運転がしにくいのだ。
小さい頃から悪かった男の目は、加齢によりさらに劣化し、眼鏡なしでは何もできない。夜に雨が降ろうものなら、車道を区切る線が見えなくなる。男はよく「ほとんど勘で運転してますよ」などと冗談を言って同僚を引かせているが、いよいよ冗談ではなくなってきた。
雨とは違い、梅雨は昔から嫌いだった。雨そのものよりも、じめじめと纏わりつく空気が嫌なのだ。子どもの頃からぽっちゃりだった男は、生暖かい空気と湿気だけでも汗をかいてしまう。それがまた服に貼りつき、気分が悪くなる。
最近雨が多いとは言え、まだそのねっとりとしたしつこさは感じない。やはり、まだ梅雨ではないのだろう。つまり、梅雨はこれからやってくるのだ。
そんな雨の中、男は目的地に到着した。
家から車で三十分ほどの距離にある「コメダ珈琲」である。
その店は、いつの間にか旧国道沿いにできていた。数年前に一度行ったことがあるが、その時にはもう「新しい」とは言えないくらい、その土地に馴染んでいた。男が気づかないだけで、物事は目まぐるしく変化ししているし、それだけ時間が過ぎ去っているのだ。
男はノートパソコンが入ったリュックを雨から守るように抱え、店内に入った。時刻は九時。七時開店の店には、すっかりくつろいでいる先客たちが何組もいた。
「お好きな席へどうぞ」ということで、席を探す。角はもうほとんど埋まっている。空いていても、大きなテーブルなので、一人では気が引けた。
結局、角席の間仕切り裏にある、二人掛けの小さなテーブルに決めた。座ってみると、見た目よりも狭い。テーブルの上は、メニューやら呼出ボタンなどで、すでに三分の一ほどが埋まっている。
失敗したかもしれない。混んではいないし、四人掛けでも良かったような気がした。しかし、ここからバタバタと動くのも恰好が悪い。男はそんなつまらないことを気にする。誰も彼のことなど気に留めていないのに。
男の右手にある壁、つまり角席との間仕切りには、コンセント口があった。反対側の席をみると、やはりある。流石珈琲ショップ、流石喫茶店である。これがあると、長居しても良い気がしてくる。
だが、今日の男には関係ない。パソコンのアダプタを持ってきていないのである。
メニューを見て、注文を決めた。呼出ボタンを押す。
ブレンドコーヒーのたっぷりサイズをオーダーした。一杯六百円だ。名古屋に本店があるコメダ珈琲では、朝の時間帯に飲み物を注文すると、モーニングがセットになる嬉しいサービスがある。
さらに、モーニングのパンを、食パンとローブパンから選ぶことができた。ローブパンという名称を、男は初めて聞いた。コメダ珈琲の主力商品である「シロノワール」と同じデニッシュ生地のパンらしい。
続いてトッピングを選ぶ。ゆで卵、手作り卵ペースト、おぐらあんの三種類がある。さらにパンに塗るものを、バター(またはマーガリン)かジャムか「ぬる豆乳」から選択できた。
男は食パンと、おぐらあん、バターを注文した。
天邪鬼な性格である男は、メニューに「おススメ」と書いてあるものを注文することはあまりなく、ちょっと変わったものを食べたくなる傾向がある。今回はそれがローブパンやぬる豆乳に逆反応し、王道を行くという結果になった。
つまり、両者が王道と横並びで、さも平然と存在することによって「私ちょっと変わってるでしょ、しかも王道と同じくらいおススメよ。ぜひ食べてみて」という無言の主張となり、男の選択肢から外されたのだ。
これが二択、三択でなければ、結果は違っていた。数多くの選択肢の一つであれば、その主張よりも特異性が目立ち、男の選択肢の上位に入る。
至極面倒な男である。
さて、改めてテーブルの大きさを確認する。
この後、コーヒーとモーニングセットが届き、それを食べ終えたら執筆開始だ。パソコンを手前に置けば横にはスペースがなくなるため、コーヒーと食べ終わった食器等はテーブルの奥に置くしかない。パソコンは体から十五センチくらいは離したいため、手前は十センチほどスペースが必要だ。
それぞれの大きさを予想しつつ、男はテーブルの上を少し片づけた。メニューや呼出ボタンはできるだけテーブルの右奥に追いやり、手前と、左奥のスペースを確保する。
かくして、朝食が運ばれてきた。コーヒーはたしかに「たっぷり」だった。長居するからと大き目のサイズを頼んでみたが、たっぷりなくても良かったかもしれない。相変わらず味の良し悪しは分からないが、酸っぱくはないので良しとした。
トーストの温度はややぬるめだった。よく言えば、すぐにでも食べられる温度。だが、男はもう少し熱々が好みだった。だが美味い。しっかりバターが塗られていて、その塩気と、小倉餡の相性が抜群に良い。
たっぷりのコーヒーと四枚切りを半分にしたサイズのバタートーストと小倉餡。これで六百円なら納得だ。しかし、朝でなければコーヒー単品となる。それはちょっと高いような気がした。
朝食を楽しんでいると、少し離れた席の人が「ありがとうございます」と言うのが聞こえた。飲み物なのか料理なのかわからないが、店員が何かをテーブルに運んでくれた礼なのだろう。
男はそれを聞くと、残念な気持ちになる。
言えない自分が、残念なのだ。
男は言いたいと思っている。言える自分になりたいと思っている。何度も言おうと試みたことがあるが、言えなかった。
その理由はおそらく、彼が自分に自信がないことにある。こんな自分にお礼を言われても、きっと店員は嬉しくない。などと思っている可能性がある。
さらには、ただ単に最近強くなってきた風潮に流されているだけで、別に感謝をしてもいないのに、言ったほうがいいような感じだから言っているだけだと思われるだろう。とまで考えているかもしれない。そう、彼は天邪鬼だから。
もしくはただ単に、照れくさいだけということも考えられる。現に、一瞬しかすれ違わない、目も合わせないバスの運転手に対しては、男は下車する時にわりと「ありがとうございました」と言っている。
レストランやカフェでは、給仕は大抵が女性で、にこやかにお礼を言うのが恥ずかしいだけなのかもしれない。
ともかく男は、自分が客だから偉いとか、金を払っているのだから当然だとか、店員が料理を運ぶのは仕事で、それで金を稼いでいるのだから礼をするのはおかしいとか、そのような類のことは全く思っていない。
ただ、心から感謝している時、人は何も考えずとも自然と口から礼の言葉が出るものだ。そう考えれば、男には、まだ感謝の気持ちが足りていないのかもしれない。やや風潮に流されていることを、否定できる材料もなかった。
男が「ありがとう」と言えるようになるのは、自分に自信を持てた時だろうか。それとも風潮に押し負けた時だろうか。前者であって欲しい。後者ならきっと、彼は今よりももっと、自分のことを嫌いになってしまうだろう。
モーニングセットは楕円形のバスケットにコンパクトに収まっていたため、食べ終えた後は無事テーブルの奥に置くことができた。まだたっぷり入っているコーヒーをその前に置いても、手前側には充分な余裕がある。
男はおしぼりと紙ナプキンでテーブルをさっと拭いてから、ノートパソコンを取り出した。
狭いことは狭いが、書けないほどではない。もし左手側にも間仕切りがあったら、絶妙なすっぽり感で、逆に居心地が良かったかもしれない。
男は執筆を始めた。時折ノートパソコンのモニターを閉じて、それに隠れていたコーヒーを飲む。ちょっと面倒だ。
二十分ほど書いたところで、左手側の隣の席に、男性の一人客がやってきた。そこは四人客で、男は内心で舌打ちした。
隣席との間は充分に離れているため、執筆に影響はない、はずだった。だが男の指は思わず固まった。
似ている。会社の人間に。もちろん直視はしていないため顔ははっきりしない。頭髪の感じや、雰囲気が似ていた。少し不思議で、不審な雰囲気だ。
すぐに別人だということは分かったが、一瞬本人かと思ったのだ。きっと正面から顔を見れば、それほど似てもいないのだろう。
男は執筆を続けるが、どうしても彼のことが気になってしまう。
彼は女性店員に注文をする時に、少しだけ横柄な態度だった。本を読みながらノートに何かを書いて、ぶつぶつ言っている。モーニングを食べ終わると店員を呼び、下げるように言った。飲み物が無くなるとお代わりを注文し、またモーニングセットを食べる。十一時までに注文すれば、何度でもモーニングが付くのだ。
女性店員が少し怖がっているのが男にもわかった。お代わりの注文の時に来たのは、男性店員だった。
そのような状況の中、男は少しずつだが、執筆を進めた。
二セット目のモーニングを終え、隣の男性客は帰った。不思議で不審な雰囲気ではあったが、何の問題もなかった。彼もきっと不器用な人なんだろうと、男は思った。
朝から来て、コーヒーをちびちび飲みながらノートパソコンに何かを打ち込んでいる男自身もまた、見る人が見れば、不思議で不審に違いなかった。
明らかなビジネスマンの恰好でもなければ、ノマドワーカー然とした様子もない。私服の中年男性が、趣味にすぎないと言われても仕方のないような小説を書いているだけだ。書いているものを見られなくとも、その違いは表れているだろう。
先ほどの彼もきっと、カフェでコーヒーと朝食を楽しみながら、ゆったりと読書をするような、優雅な午前のひと時を過ごしたかったのだろう。
男は、彼が楽しめたことを願った。彼がなりたい自分に、少し近づけたと感じていたら良いと、そう思った。
時刻は正午近くとなった。そろそろ集中力も切れる。昼食を食べて、お暇しようと、男はメニューを開いた。
コメダの売りの一つである「カツパン」はどれも九百円以上する高級品だ。少しがっつりと食べたかったので、シロノワールの気分でもなかった。
迷った挙句「自慢のドミグラスバーガー」に決めた。六五〇円也。手ごろである。
注文した後、文章をとりあえずのところまでまとめ、男はパソコンを仕舞った。テーブルを整えて、バーガーの到着を待つ。
運ばれてきたそれを見て、男は固まった。
予想よりかなり大きかったのだ。バンズの直径が十センチくらいある。厚さは噛めないほどではないが、それでも「でかい!」と言うには充分だ。
いざ尋常に勝負である。男はゆっくりとハンバーガーを持ちあげ、口に運ぶ。重い。その重さは、肉の重さだった。パテが自重で下に落ちてしまうため、最初の数口はバンズとレタスだけだった。それでも、ソースが美味い。
その後も肉は下がり続け、ようやくたどり着いたのはなんと八口目だった。そこからは肉の嵐である。そして共に落ちていたチーズも顔を出す。
これはもう、グルメバーガーが食べたくなったらこれでいいじゃないか、というくらいの満足感であった。六五〇円でこれは安い。
男は心の中で拍手した。「素晴らしい! ブラボー!」と見えない誰かと一緒になって叫んだ。
次は「ありがとう」が言えるような気がした。
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