第5話 今のって……先輩の声なんじゃ?

 月日はめぐり、バレンタインの季節になっていた。無論、俺には縁のない行事だ。

 2月の中旬、その放課後だ。

 俺がこっちにきたのが、7月のことなので、あれから、半年以上が経過したことになる。

 クラスはまだ変わっていない。

 こっちの学園も、始業式は4月にあるからだ。


(……だが、あともう少し)


 3月になれば、すぐに春休みがはじまるので、それがおわるともう新学期だ。だから、地獄の日々も、残すところ20日を切った。

 ようやくだ。

 俺はこの生き地獄を、がんばって耐え抜いたのだ。

 現実は何も変わっていないし、俺は、弱くてダメな人間のままだったが、それでも今は……今だけは、自分自身を褒めてやりたい、そんな気分だった。




「な~に、たそがれてんの?」




 そう言って、頭を優しくはたいたのは、一つ上の先輩。

 爽夜さわや先輩だ。

 だれにでも、分け隔てなく接してくれる先輩は、たまにこうして、俺の話し相手にもなってくれた。もちろん、俺に気を遣って、いじめっ子たちがいないときを、見計らってのことだ。




「い……え。なんでも……ないです」




 それが、俺にはたまらなくうれしかった。

 たぶん、俺が復活前の自分みたいに、屋上から身投げせずに済んだのは、実際のところ、先輩の存在が、とても大きかったのだと思う。

 さすがに、期限つきとはいえ、孤独に地獄を耐え抜けるほど、俺も強くはないからだ。




「もうすぐクラス替えじゃん、よかったね」

「……」




 理由はあえて言わない。先輩なりの優しさなのだろう。

 俺も何も言わず、自然とこぼれそうになる、複雑な涙をこらえながら、幾度も首を縦に振った。何度も同じことをしたって、進級のときが、近づいてきてくれるわけでもないのに、俺はバカみたいにくり返し、うなずいた。

 しばし、無言の時が、俺たちの間を優しく流れていく。




「そろそろ、帰ろっかな。じゃあね!」




 言って、先輩は俺に手を振りながら、校門のほうへと駆けていく。

 あの性格だ。

 きっと、大勢の人から、好かれていることだろう。

 俺はそれを、花壇の横で、地面に座りながら、目に焼きつけるように、ただじっと眺めていた。


(そういえば、元の世界にも一人だけ、たまにあいさつしてくれた子がいたっけ……)


 名前はなんだったか。いまひとつ思いだせない。

 でも、すごくいい人だったことだけは、ちゃんと覚えている。

 世の中にいるだれかが、どうせ幸せになるのであれば、それは、こういう人たちであってほしい。爽夜さわや先輩のような人たちこそが、幸せにならないといけないんだ。


(さて……変なのにからまれる前に、俺も帰るか)


 そう思い、にわかに立ちあがったところで、悲鳴を聞いた。




「やめて、やめてってば! 離して……ねえ、だれか!」




 ぽかんとした。

 何が起きているのか、しばらくはわからなかった。頭が、理解するのを拒んでいたのだ。

 それは聞き間違いなぞでは、決してない。


(今のって……先輩の声なんじゃ?)


 自分のカバンなぞ投げ捨て、俺は夢中で、校門に向かって駆けだしていた。

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