第23話「初恋、それは人生の夜明け」

 私の誕生日は二月の十一日、立春と雨水の丁度中間に当たる。

 十五歳の誕生日を迎えて早くも二ヵ月となる私は、自慢ではないけれど恋人いない歴と年齢が完全に一致する。

 というより、今まで色恋沙汰とは完全に無縁な人生を生きて来た。


 女子校育ちということを差し引いても、異性への興味というのが完全なまでに欠如していたのだ。

 同じ年頃の少女たちが夢中になっている男性芸能人を見ても、「隆俊伯父より見劣りする」程度の感想しか持てなかった。


 故に私は、身近な異性への恋心と、住む世界が違う芸能人への憧れの区別さえ付かない。

 芸能人に夢中になっている子が、違う学校に通う男の子と交際を始めたと聞いて首を傾げたものだ。

 これは心の浮気には該当しないのだろうか、と。


 一般的には男性芸能人への関心と、恋愛感情は別物と思われているらしい。

 でも、私はそのどちらも知らない。


 ……否、知らなかったというべきだろうか。

 私は今、自分の内に芽生えつつある馴染みのない感情に大いに戸惑っていた。




「王女殿下。ブラギルフィア騎士団は、本日明朝に出立致しました」

「……そう」


 サーシャの報告を聞きながら、彼女が淹れてくれたお茶を受け取る。

 今日のお茶は、柑橘系の果物の皮を加えた紅茶だ。

 一口飲んでみると、果実の爽やかな香りが口内に広がった。

 渋みの少ない茶葉で、ともすれば頼りなく感じそうだけど、柑橘の香りと上手く調和していて美味である。


 陛下と最後に会ってから二日が経過した。

 あの日、陛下を見送った後は何をしていても上の空で、ずっと足元がふわふわするような感覚に悩まされた。


 その翌日に、遠征に向かう陛下を……もとい、騎士団を見送りに出たいとサーシャに打診してみたけれど、棄却された。

 やはり、私は本城から出てはいけないらしい。

 今日は気を取り直して、こちらの世界での読み書きを強化するべく、書物に目を通している最中だ。


 誰かに習う、ということも考えないではなかったけれど、断念に至った。

 私が接触できる相手は限られており、数人の侍女と兵士、それにアスヴァレンぐらいだ。

 侍女たちはマティルダの監視下にあり、そしてそのマティルダは私を快く思っていない。

 彼女の息のかかった者に習うというのも気が引ける。


 アスヴァレンについては、はっきり論外である。

 彼は陛下のためなら尽力を惜しまないけれど、その陛下の頼みだとしても、私に読み書きを教えるとなるとあの面倒臭そうな気怠そうな態度を隠そうともしないだろう。


 そんな訳で、独学に励むことにした。

 ところが、困ったことになかなか捗らないのである。

 理由はわかっている。


「それでは、私は退出致します。何かあればお呼びください」

「ありがとう。……ねぇ、サーシャ」

「はい」


 足を止めるサーシャを見て、私は内心で呻いた。

 思わずサーシャを呼び止めてしまったことを後悔する。

 無難な言葉をかけて誤魔化しておこうか、それこそ紅茶が美味しいとか何とか。

 そう思いながら、意に反したことを口にしてしまう。


「サーシャは、その。は、初恋の経験ってあるの?」

「え?」


 何を言われたのか理解できない様子で、目を瞬かせるサーシャ。

 ややあって、いつもより口籠もりながら「もちろんあります」と答える。


「やはり、私だってこれでも年頃の女性ですから」

「そう」


 頷きながら、私は内心で大いに動揺していた。

 サーシャは私より三つほど年上とは言え、同年代と言える。

 やはり私ぐらいの年頃の女の子は、初恋を経験しているものなのか。


「因みに、何歳ぐらいの頃なの?」

「そうですね、確か八つでした」


 八つ、と私は胸中で反芻する。

 真っ先に思ったのは「早い」だったけど、よく考えればそう不自然でもないのか。

 私が幼稚園に通っていた頃、女の子たちは誰が好きかという話題でよく盛り上がっていた。


「そうなのね。どうもありがとう」


 退室を促したけれど、サーシャはすぐにそうしようとはせず、やや好奇を含んだ目を向けてきた。


「もしかして、王女殿下……」

「えっ」

「陛下が気になっていらっしゃるとか」

「いえ、違います」


 反射的に口にした否定の言葉は、自分でも驚くほど平静そのものだった。

 その言葉とは裏腹に、心臓は早鐘を打っている。


 おそらくサーシャは、男性と接触する機会だなかった深窓の令嬢が、エレフザード陛下に安直な好意を抱き始めているとでも思ったのだろう。

 気になっている対象が陛下なのは間違いないけれど、生憎と私が生まれ育ったのは自由恋愛大国である。

 恋愛の機会がなかったから陛下に惹かれているというわけでは、断じてない。


 それに、単に今まで興味がなかったというだけで、私自身は紛れもない恋愛強者だ。

 私がその気になれば、トップアイドルだろうと愛妻家だろうと石油王だろうとローマ法王だろうと、確実に自分の虜にできる自信がある。

 そんな私が、生まれて初めて心惹かれたのがエレフザード陛下なのだ。


「故郷で良くしていただいた方のことを思い出していたのです。その時は気付きませんでしたけど、離れてみたことで、その……」

「そうでしたか。立ち入ったことを聞いてしまい、申し訳ありませんでした」


 咄嗟についた嘘だけど、サーシャはあっさあり信じてくれたみたい。

 申し訳なさそうに頭を下げる様子を見て、ほっと胸を撫で下ろす。




 サーシャが去り、一人になった私は勉強を中断して自分の胸中へと意識を向けることにした。

 彼女に先ほどの話を振ったことで、やはり私は陛下に惹かれているのだと確信する。

 でも、これは俗に言う恋愛感情というものなのだろうか?

 それとも、芸能人への憧れと同種のもの?


「んー……」


 天井を仰ぎ見ながら、最後に会った時の陛下の言葉を思い出す。

 陛下がずっと前から私を知っていたということについては、そこに至った経緯や事情はこの際無視して、ありのままの事実として受け止めることにした。

 何か不可思議な現象が起きた、あるいはこれから起きるのだろう。

 昔から超常現象に遭遇しやすかったせいか、陛下がそう言うのだからそうなのだろうと、素直に納得できた。


 それに、その話を聞いて色々と腑に落ちた。

 この世界に来て、気を失う直前に確かに名前を呼ばれた気がしていたのだ。

 陛下あの時点で既に私の名前を知っていて、咄嗟に呼んだのだとしたら合点がいくというもの。

 陛下が私を見る目も、ずっと会いたいと思っていた女性に対してのものだったのだ。


「……でも、ということは、つまり」


 かぁ、と頬が熱くなる。

 何だか気恥ずかしくなった私は、椅子の上に膝を立てて、その間に顔を埋める。

 陛下は私との「再会」を待ち望み、その日が訪れることを心の支えにしていた。

 それは、私のことが好きだと言っているようなものではないのか。


「陛下が、私を」


 そう口に出しかけたものの、再び気恥ずかしさを覚えて、最後まで言えなかった。

 膝に顔を埋めたまま、小さく唸る。


 陛下が、私のことを好き。

 そう考えると胸が高鳴り、歌い出したいような駆け出したいような、そんな衝動に駆られる。

 天にも昇る気持ちというのは、こういうことを言うのだろうか。

 初めて味わう感情だけど、悪い心地ではない。

 むしろ、こんな夢見心地になったことなど今までなかった。


 そして私はと言えば、彼の来訪を心待ちにしたり、会えないことを寂しく思ったりしている。

 彼が抱える事情を知り、協力したいと願う。

 これはやはり、手の届かない偶像に対する憧れなどではない。


 間違いない、私はエレフザード陛下に恋をしている。

 そう確信した瞬間、心の中の地平線から太陽が顔を出し、地上を……私の心を照らし始めるのを感じた。

 まるで、人生における夜明けの訪れだ。


「と、いうことは」


 両思い、と口には出さずに胸中で呟いた。

 途端に鼓動が速くなる。


 立ち上がった私は、窓の外へと視線を向ける。

 空はいつにも増して青く晴れ渡り、生い茂る緑もまた生き生きと色付いているように思える。

 世界とはこんなに美しいものだったか。


 ところが、不意に私の心に影が差した。


(一日も早く美夜が在るべき場所に帰れるように尽力する)


 陛下は確かにそう言った。

 それは、紛れもない事実だ。


 間違いなく……多分、いや、きっと彼は私のことを好きな筈だ。

 でも、想い人である私と一緒にいることではなく、元の世界に帰すことを望んでいるのだ。


 先ほどまでの幸せな気持ちに、暗澹とした雲が広がっていくような、そんな気がした。

 そのイメージが、陛下の左腕に纏わり付く黒い靄と重なった。

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