第22話「もうずっと前から知っていた」

 さすがにそれは早計ではないか、慌ててそう思い直した。

 視線を相手の顔から外し、そのまま左腕へと移す。

 そこには、依然として黒い靄が纏わり付いている。


 神花を原料にした薬で進行を抑えているとは言え、五年前の時より確かに濃さを増している。

 他の誰も、本当に何も視えていないのだろうか。


「あれから左腕の調子はいかがですか?」

「ああ、もう何ともない」


 陛下の口調は明瞭簡潔で、思わず信じてしまいそうになる。

 金色の双眸をじっと見つめても、澄み渡っているのに底が見えない泉を覗き込んでいるよう。


「美夜?」


 目を逸らすでもなく、不思議そうに首を傾げる彼に、名状し難いもどかしさを覚える。

 やはり私には何も話してくれないのか。

 私の視線の強さにたじろいだ……わけではないけれど、何か感じるところはあったのだろうか。

 そっと手を伸ばし、前と同じように私の髪を一房掬い上げる。


 すると、黒い靄が私の髪を避けるように揺らぐ。

 それどころか、火の勢いが弱まるみたいに薄くなっている。

 黒い靄に意思があるとは思えないけれど、私のことを忌避しているのは確かみたい。

 陛下は何も言わないけれど、動揺する気配が伝わってきた。

 私が黒い靄に対して与える影響が、何らかの形で彼にも伝わっていると見て間違いない。


 髪に触れられているだけなのに、私は相手の顔を見ることができなくて、目を伏せたままでいる。

 触れられているのは神経の通らない末端部分の筈なのに、緊張して身体が強張り、心臓が早鐘を打つのを感じる。

 数拍の後、先に口を開いたのは陛下だった。


「何故だろうな。こうして貴女に触れていると、不思議と落ち着く」


 そう聞いて、胸を締め付けられるような、あるいは得体の知れない感情が胸の内に騒めくような、不可解な感覚に襲われた。

 私の髪を掬い上げた手を、両の掌で包み込む。

 陛下は驚いた顔をしたけれど、振り解こうとはしない。


「この腕、本当にどうされたのですか」


 痛めたというのは嘘でしょう、言外にそう告げる。

 この流れなら何か話してくれるのではないか、そう思った。

 一拍置いて、陛下は「何も問題ない」と答える。

 声が先ほどより低い気がしたのは、本当に気のせいだろうか。


「マティルダに見つかると、また怒られてしまうな」


 苦笑交じりに言って、そっと私の手を退けさせる。

 マティルダがどう思おうと関係ない、と私は大いに不満に思った。

 その不満を口にしたいと思いながら、言葉を構築することができない。

 私が何か言うより先に陛下が言葉を紡いだ。


「今、アスヴァレンを初めとした専門知識を持った者に元の世界へ戻る方法について調べさせている」

「え?」


 唐突な言葉に、虚を突かれた心地だ。

 元の世界、と聞いてもすぐには実感が沸かなかった。

 いずれは帰らなければいけない場所だと頭ではわかっているのに、いつのまにか元の世界のことを顕在意識の外へと追い出していた。


「待たせて申し訳ないが、一日も早く美夜が在るべき場所に帰れるように尽力する」

「元の世界に戻る方法、って……そんなものがあるのですか?」


 なければいい、と半ば思いながら尋ねた。

 陛下は一瞬だけ逡巡する素振りを見せた後、首肯した。


「前例はある」

「前例……」


 相手の言葉を反芻しながら、真っ先に思い浮かんだのは母のことだ。

 母は、こちらの世界で何か恐ろしいことが起きたため、父は身重だった彼女の身を案じて元の世界に帰したと話していた。


「それは、確かなのですか? その、安全性とかそういうのは……」

「美夜が不安に思うのも無理はない。それでも、必ず無事に元の世界へ帰すと約束する」


 食い下がる私に、陛下はそう断言した。

 もちろん、私は元の世界に帰れないことに不安を抱いているわけではない。

 けれども、それをどう言葉にして良いかわからず、黙り込んでしまう。


「美夜には負担を強いてしまうな」

「別に、そんなこと……」


 私の身を守るために奔走しているのは彼のほうなのに、あくまで私の心身を案じると言うのか。

 そのことに、私はもどかしさと苛立ちを覚える。


「私に何かできることは」

「そうだな。この王城内にいれば、美夜は安全だ。行動が制限されるのは窮屈だと思うが、侍女たちにはなるべく美夜の意向を叶えるように話してある。できる限り、快適に過ごしてくれればと思う」


 つまり、特に何もすることなく、侍女たちに傅かれながら優雅なお姫様ライフを送るだけで良いということか。

 それはそれで魅力的な話だけど、というかそうさせてもらうつもりではあるけど、私が言いたいのはそういうことではない。


「……美夜?」


 黙りこくった私を不審に思ったか、陛下はそっと声をかけた。

 私は何か言おうとして、けれどもすぐに言葉が出て来なくて口を噤む。

 それから、陛下の左腕にそっと手を掛けた。

 僅かに身動ぎする気配を感じながら、再び口を開く。


「痛めただけというのは嘘ですね」

「何……?」

「五年前から続いているのでしょう? 今も、薬で進行を抑えている状態ですね?」


 陛下は何も言わず、じっと私を見つめ返す。

 その貌は平静そのもので、そこから感情を読み取ることはできない。

 正直、もっと驚いたり「何故それを知っている?」と問い質すぐらいの反応は予想していたのだけど、大きく外れた。


「美夜」


 静かな声が私の名を紡ぐ。

 それはまるで、大人が子供に言い聞かせるみたいな響きがあった。


「どんな方法でそのことを知ったにせよ、それは貴女が気にすることではない」

「え……」


 口調こそ穏やかだけど、彼の言葉には私を立ち入らせまいとする強い意思が感じられた。

 呆気に取られる私を見つめたまま、席から立ち上がる。


「すまない。そろそろ行かなくては」

「……あ」


 何か言わぬば、そう思うのに思考は空回りするばかり。

 そんな私の頭に、陛下はそっと手を乗せた。

 膝を降り、座ったままの私に目線の高さを合わせる。


「既にアスヴァレンから聞いているとは思うが、貴女を狙う者もいる。ここにいる限り誰も手を出すことはできないから、安心して過ごしてくれ。ただ、間違っても侍女の目を掻い潜って抜け出そうとは考えないでくれ」

「そ、そんなことしませんけど。思慮の足りない子供じゃあるまいし」

「なら、いい」


 むっとして反論する私を見つめ、陛下は穏やかに笑いかけた。

 再び立ち上がりかけた陛下が、私のほうへと身を乗り出すと同時に片手を肩の上に置いた。

 何を、と聞く間もなく視界いっぱいに白いブラウスが広がる。

 思わず身を固くする私の頭に、何か柔らかなものが触れた。


 今のは、いったい?

 何となくその正体に気付きつつ、もう片方の腕の行方を視線で追うと、それは彼の身体の横に垂れ下がっていた。

 ということは、やはり……。

 確信した途端、頬がかぁっと熱くなる。


 当の陛下はと言えば、完全に硬直する私から離れると、まるで何事もなかったかのように小さく会釈して扉のほうへと歩き出す。

 全てはほんの一瞬の出来事だった。


 がたん!


 硬質な音が響く。

 お世辞にも洗練された動作とは言えないけど、私は殆ど無意識に立ち上がっていた。


「ひ、一つだけ。一つだけ、教えていただけませんか」

「どうした?」


 あの一瞬の出来事は夢か幻だったのではないか、そう思えるほどに陛下の声音は平静だった。

 一瞬の逡巡の後、私は口を開く。


「どうして、そこまでしていただけるのですか。……あ、そこまでというのは、破格の好待遇という意味であって、その」


 今の頭へのキスは関係ありませんから、と言外に伝える。

 幸いにして陛下はこちらの言わんとすることを汲み取ってくれて、恥ずかしさのあまり言葉にできないことについて言及するようなこともなかった。


「稀人……異邦人とは言え、ブラギルフィア国内、しかも王城内で保護した以上はブラギルフィア国民だ。それに、ブラギルフィア国は稀人への迫害を禁じている。元の世界に帰る手立てが見つかるまで、国王としてその者の生活を保障する義務がある」

「……それだけではありませんよね?」


 文書を読み上げるように淡々と語る彼に、私は言った。

 陛下は口を噤み、私をじっと見返す。

 その金色の双眸が一瞬困惑したように揺らぎ、それから再びあの目で私を見つめる。


 どうしてそんな目をするのか、私が聞きたいのはそのことである。

 そして、彼はそれを理解してくれた。

 少し躊躇う様子を見せた後、彼は半ば諦観するように嘆息した。


「実は、美夜のことはもうずっと前から知っていた」

「……え?」


 予想外な言葉に、思わず目を瞬かせる。

 でも、よく考えたら予想外とは言えない気もする。

 陛下が私に向ける目は、よく知らない者に向けるそれではなかった。

 それでも、いくら記憶を攫っても陛下に纏わる欠片は一つも見当たらなくて、それ故に困惑を覚える。


「あの、それは……?」


 陛下は小さく笑った。

 どこまでも澄み渡った、透明感を感じさせる笑みだ。


「いつか遠い未来で貴女に会えると知っていたから、何があってもそれを心の支えにして来た。あの日まで、ずっと」


 私は言葉を失ったまま、陛下を見上げることしかできなかった。

 不意に、陛下の笑みに一抹の寂しさが混じる。


「今度こそ、本当に行かないと」


 そう言った彼に、小さく頷く。

 その場から去る陛下の背を見送りながら、一言も言葉を発することができずにいた。

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