第17話「一緒に昼食(後編)」

 どんな顔をしていいかわからず、「そうですか」とだけ言っておく。

 陛下の言葉は、どこまで本気でどこから社交辞令なのかわからない。

 そもそも、私はお世辞や社交辞令の応酬という駆け引きが得手ではない。

 内心の動揺を表に出さないように努めつつ、次のサンドイッチを手に取る。

 囓ってみても、味は殆どわからなかった。


 陛下と向き合いつつ、それでいて意識して顔を見ないようにしていたら、椅子の肘掛けに乗せた左腕が見えた。

 さり気なく伺うと、やはりその袖口から黒い靄が滲み出ている。でも、昨日見た時よりも薄らいでいる気がする。

 私は、幽体になった時に見た彼とアスヴァレンのやり取りの記憶を振り返った。

 薬で症状を抑えていると聞いたけれど、今もそうなのだろうか。


「ところで、おいくつですか?」

「え?」


 私からの質問に、陛下は不思議そうな表情を浮かべる。

 しまった。

 自然な流れで切り出すつもりだったのに、これではあまりにも唐突すぎて不自然だ。


「年齢です。因みに私は十五ですが」


 先ほどから確認したいと思いつつ、そのタイミングが掴めずにいた。

 迂闊に尋ねると、何だか相手に興味を抱いていると誤解されそうで嫌だったのだ。

 敢えて自分の情報を渡したのは、別に私のことを知って欲しいとかそういうわけではなく、一方的に相手の情報だけ寄越せというのはフェアじゃない気がしたから。


「俺は今年で二十二になる」


 二十二歳、か。

 私は頭の中で反芻した。

 やはり、昨日見たのは過去の出来事だったのだ。

 陛下が十七歳の頃だとすると、今から約五年前のことか。


 陛下を伺うと、何やら思案するような顔をしている。


「あの、どうかされましたか?」

「いや。……そうか、美夜は十五歳か。正直、もう少し、その」

「……若いと思っていらっしゃいました?」

「そうだな」


 と、決まり悪そうに苦笑を浮かべた。

 そんな彼を見ながら、思わず閉口してしまう。

 慣れたこととは言え、やはり複雑な気持ちになることは否めない。


小柄であること、人形めいたかわいらしい顔立ちをしていること、そして何より内面をそのまま映し出すかのような純真無垢な雰囲気を纏っていることから、私は年齢より幾分か年若く見られることが多い。


「因みに、ブラギルフィア国では十六で成人と見做され、婚姻も結べるようになる」

「はぁ、そうですか。ところで、最初はいくつだと思われたのですか?」


 思い切って尋ねたところ、陛下は明らかに不自然に目を逸らした。

 そして、間を置いてから独白のように呟く。


「……十は超えているのでは、と思ったが」


 こちらの予想以上に幼く見られていたようだ。

 となると、陛下が気紛れに私に手を出そうとしているという見立ては間違いで、単に子供の相手をしているつもりだったということだろうか。


 そんなことを考えながら、次のサンドイッチにを伸ばそうとしたら、もうバスケットの中身は空っぽだった。

 今になって、自分ばかり食べていたのではないかという決まり悪さを覚える。

 陛下のカップが空になっていることに気付き、お茶を注ぐ。


「も、申し訳ありません。調子に乗って食べ過ぎてしまいました」

「いや、構わない。それより、口に合ったなら幸いだ」


 陛下は言葉を切ると、カップを傾けて中身を一口飲んだ。

 湯気が立たないところを見ると、すっかり冷めてしまったみたい。


 次からはもっと早めに注ぐべきか。

 いや、そもそも次があること前提なのか。

 そんなことを考えていると、「それに」という声が聞こえた。


「美夜とも随分打ち解けられた気がする。それが何よりだ」


 そう言って私をじっと見つめる。

 どう返していいかわからない私は、「そうですね」とだけ言ってカップを傾けた。

 中身はやはり冷めていた。

 ……それだけ会話に夢中になっていたということだろうか。


 唐突に髪に触れる気配を感じて、思わず顔を上げると陛下と目が合った。

 彼は片手で私の髪の一房を掬い上げたところだった。

 私がぽかんとして眺めていると、彼は決まり悪そうに明後日の方向を向いた。

 その手から、髪が零れ落ちる。


「いや。悪かった。触り心地が良さそうに見えてな、つい」

「は、はぁ」


 どう言っていいかわからなくて、曖昧に頷く。

 セクハラ……の類ではなさそうだけれど、どう解釈していいものだろうか。

 その時、あることに気付いた。


「左利きなのですか?」

「ん?」

「今、私の髪に触れた際は左手だったようにお見受けしましたが」


 そう。

 陛下が掬い上げたのは、私の右耳に近い一房だった。


「特にそういうわけではないが。普段は右手を使うことが多いだろうか」

「そう、ですか」


 私の問いかけの意図が掴めないのか、陛下は困惑気味だ。

 私自身、どうしてこんなことを気にするのかよくわからないのだ。

 ただ、彼の左腕に纏わり付く黒い靄……改竄の痕跡と関係ある気がした。


「また不快にさせてしまったな。申し訳ない」


陛下は呻くように謝罪の言葉を口にしたけれど、責めているわけではないし、そんなものを求めているわけでもない。

 ……よく考えたら、別に不快になど思っていない自分に気付く。

自分が何をしようとしているのかわからないまま、気付けば私は陛下の左手を取っていた。


「……美夜?」


 陛下の声音に、驚きと困惑が混じる。

 それでも、振り払おうとはしない。

 陛下の左手を持ち上げ、円卓の上へと乗せて両の掌に包み込む。

 じっと観察していると、黒い靄が私を避けるようにして揺らめくのが見えた。

 いや、実際に避けている?


 いったいこの現象は何だろう。

 わからないけれど、そこにこの靄に関するヒントが隠されているような、そんな気がしてならない。


 私がここに来ることになった原因、昨夜に見た過去の出来事、虚空に出現した綻び、これらにはいったいどんな繋がりがあるのだろうか。

 一人で悩んでいても、やはり限度がある。


 ……ここは思い切って打ち明けるべきか。

 私が意を決して口を開こうとしたその時だ。


「失礼致します」


 ノックもなしに扉が開き、私は心臓が止まりそうな心地でそちらを振り返った。

 その視線の先にはマティルダが無表情で佇んでいた。

 彼女は私と陛下を……いや、彼の手を握り締める私を見て、すっと目を細めた。

 慌ててその手を離す。


「マティルダ……! お前、開ける前に確認ぐらいしたらどうだ」

「それは悪ぅございました。何しろ、シルウェステル様が貴方様を探しておられたのでね」

「火急の用なのか?」

「さて、そこまでは一介の侍女にはわかりませんが。全く、クラヴィス様からの差し入れを持ってどこへ行かれたのかと思いきや」


 そう言って大仰に嘆息するマティルダ。

 彼女の言葉で、私が先ほど食べた昼食は神使ことクラヴィスの作ったものだと理解した。


「美夜にも、クラヴィスの手料理を分けてあげたかったんだ」


 陛下の言葉は妙に言い訳じみている。

 マティルダにもそれが伝わったのか、呆れ顔で肩を竦めた。


「ま、そういうことにしときましょう。何にせよ、坊ちゃん、そろそろお戻りくださいな」

「……すまない、美夜。慌ただしいが、そろそろ失礼しなければならない」

「ええ、はい。どうぞ」


 突然の出来事に放心していた私は、その言葉で我へと返った。

 この時、正直なところマティルダに不満を抱いた。

 邪魔をされた、と感じたのだ


 再び頭を下げる陛下を見送った後、部屋には私とマティルダだけが取り残された。

 彼女は慣れた手付きで、使い終わった食器類を片付け始める。

 一瞬、手伝うべきかとも思ったけれど、下手に手を出さないほうがいいだろうと思い直した。


「美夜お嬢様」

「は、はい」


 突如呼び掛けられ、ぎこちない返事が口から零れた。

 そんな私に顔を向けたマティルダは、目を細め、口をへの字に曲げる。

 まるで、私のことを咎めているみたい。


「淑女として、どうかもう少し慎みを持ってくださいませ。クラヴィス様を悲しませるようなことはなさいませんよう」

「えっ?」


 言いたいことだけ言って、マティルダは回収した食器を手に出て行こうとする。

 そんな彼女を慌てて呼び止める。


「あの、クラヴィス様って……いえ、その、陛下とクラヴィス様は……」


 咄嗟に言葉を紡げない私を、マティルダは小馬鹿にしたように見る。

 付き合っていられないとばかりに踵を返し、そのまま扉を開ける。

 私の質問に答えず出て行くのだろう、そう思ったけれど、意外にも彼女は出て行く寸前にこう呟いた。


「クラヴィス様は、坊ちゃんの大事なお方ですよ。子供の頃から、あの方のことだけを想っておられるんです」


 それだけ言い残し、ばたんと音を立てて扉が閉まった。

 部屋に一人取り残された私は、半ば呆然としながら固まっていた。

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