第16話「一緒に昼食(前編)」

 窓際の、庭が見える場所に置いた円卓へと陛下を案内した。

 実際、ここは庭を眺めながらお茶を楽しんだりするスペースみたい。


「部屋の居心地はどうだ?」

「快適です。お陰様で」

「そうか。それは良かった」

「そういえば、今日は……シルウェステル様はご一緒ではないのですか?」

「ああ、シルウェは……」


 何気ない問いに、陛下は言葉を濁した。

 まだよく知らない相手ではあるけれど、正直言って私は彼のことがあまり得意ではない。

 だから、今日も陛下に付き添って近くにいるのだろうかという警戒からそう尋ねたのだ。


「撒いてきた、というか」

「撒いて?」

「あるいは隙を見て逃げて来たというべきか」

「な、なるほど」


 合点が行った。

 つまり、自分の従者に行き先を知らせていないようだ。


「後で怒られませんか」


 シルウェステルは私のことを快く思っていない。

 陛下が自分を撒いて私を訪れたと知れば、いい顔はしないだろう。


 長瀬先生が、私のことを絶世の美少女だと評していたとクラスメイトが知った時、彼女たちの不満の矛先が向けられたのは先生ではなく私だった。

 何だか、それと同じことが起きそうな気がしてならないのだ。


「美夜はシルウェステルのことが気になっているのか?」

「えっ?」


 意外な質問に、言葉を失ってしまう。

 気になっている、と言えば確かに気になっているけれど、陛下の質問の意図がよくわからない。


 詳細を聞く前に、マルガレータを伴ったサーシャが戻って来た。

 彼女たちは、お茶や取り皿を手際良く卓の上へと並べて行く。

 その間も、マルガレータが私と陛下を見比べていることに気付かない訳にはいかなかった。

 多分きっと、何か下世話なことを考えているに違いない。


 とは言え、王族の身近で働く侍女だけあってか、さすがに陛下の前では不用意なことを口にしたりはしなかった。

 準備を整えると、二人とも速やかに退室した。


 陛下が卓上に置いたバスケットを開けると、そこには数種類のサンドイッチやケークサレといった、すぐに食べられるものが詰められている。

 食べ物を目にした途端に空腹を感じる。


「美味しそうですね。いただいてもよろしいでしょうか?」

「ああ、どれでも好きなだけ食べてくれて構わない」

「ありがとうございます。いただきます」


 そう言いながら陛下の様子を伺ったけれど、彼は私を見つめるばかりでバスケットの中身に手を付けようとしない。

 先に食べることに抵抗を覚えつつ、私はサンドイッチの一つに手を伸ばす。


 茶色いパンに、結構なボリュームのある具材……刻んだ野菜とパテを挟み込んでいる。

 一口囓ると、独特の香草の味がした。どうやら、パテにパクチーによく似た風味の香草を刻んで混ぜているみたい。

 細切りにした野菜のシャキシャキ感と相俟って、なかなか美味しい。


 あっという間に一切れをお腹に入れた私は、陛下の許可を得てから二切れ目に手を伸ばす。

 今度は、バターロールのような形状のパンに切れ込みを入れて具材を詰め込んだ、所謂ロールサンドだ。

 具材は、酸味の強いマリネと、やや癖のあるハムで、マリネにもパクチーのような風味が感じられる。


「美味しいです」

「そうか。そう言ってもらえて何よりだ」


 パクチーやバジルといった香草が好きな私としては、好みの味である。

 私の率直な感想に、陛下は満足そうに頷いた。


 それはそうと、陛下は食べないのだろうか。

 そんなことを考えていると、陛下がくつくつと笑うのが見て取れた。

 私がきょとんとしていると、彼は笑いを堪えながら自分の顎付近を指差して「食べこぼしている」と言った。


 慌ててそれらしき場所に触れたけれど、どこだかわからない。

 焦るあまり却って見当違いの場所を探っていたようで、不意に陛下が手を伸ばして私の口元を拭った。


 正直、胃袋がひっくり返るような心地だった。


「よし、取れた」

「あ……ありがとうございます」


 私は面食らったまま、何とかそれだけを口にする。


 とは言え、内心では何とも複雑な気分だ。

 そうしなければいけないほどの緊急性もないのに、付き合いの浅い女性の顔に触るというのはどうなのだろうか。

 この人の距離感にはやはり違和感を禁じ得ない。


 おそらく、わざとだろう。自分が女性に拒まれる筈がないと、確信しているのだ。

 暫く重苦しい沈黙が落ちる。

 正確には私が押し黙っているだけで、陛下は平然としている。

 

彼は不思議そうに首を傾げ「美夜?」と言った。


「女性に文句を言われたことがないのですね?」


 そんなことは口にすべきではないと思いつつ、言わずにはいられなかった。

 案の定、言葉にすると同時に後悔してしまう。

 さすがにこれには、陛下も「えっ」と眉を顰めた。


 私は胸が早鐘を打つのを感じながら、明後日の方向に目を逸らして続く言葉を待つ。


「いや、そんなことはないが」


 陛下の声音には、多分に困惑が含まれていた。

 私は、失礼なことを言った自覚はあるのに、怒気を孕んでいないことに安堵してしまう自分に気付いた。


「マティルダには、子供の頃からしばしば小言を言われていたよ」

「えっ? あ、は、はい」


 いきなり何の話だろうか。

 どうしてここでマティルダの名前が登場するのかわからない。

 私は話が見えないまま相槌を打った。


「昔、俺はダンスの授業が苦手だった。ある日、仮病を使って休んだが、彼女にはこちらの思惑などお見通しだったらしく、訓練所で剣を振っていたら首根っこを押さえられた」

「現行犯逮捕ですか」

「そう、まさに現行犯だな。ああ、因みにだが、今は社交の一環としてダンスも重要な嗜みだと理解している」


 後半の言葉は何だか弁解めいていて、それが妙に可笑しかった。

 それに、この人が仮病を使って授業を放棄するというのは実に意外だ。案外、普通の子供だったのかもしれない。


「マティルダには今も頭が上がらない。この年になった今も『坊ちゃん』呼ばわりはさすがに勘弁してもらいたいが、一生そう言われ続ける気がする」


 そう言って、諦観を滲ませながら嘆息する。


「そうですか」


 私は曖昧に答えて、侍女が淹れてくれたお茶を一口飲む。清涼感のある甘さが口内に広がった。

 もちろん、私が言いたかったのはそういうことではない。

 確かにマティルダは女性だけど、私の言う「女性」とは意味合いが異なる。


 皮肉を言った筈が、上手く躱された……というよりも通じていない。

 いや、本当に通じていないのか、それとも受け流したのかはわからないけれど、何にせよ私の負けである。


「あの、陛下は召し上がらないのですか?」

「え? ああ、そうだな。ところで、美夜はニーヴェやセルベルは好むのか?」

「ニーヴェ? セルベル……?」

「独特な風味のある香草だ。この具材の中にも入っているだろう?」


 ニーヴェとセルベルというのは、どうやらこの独特の風味がする香草のことらしい。


「私は好きですね。……もしかして陛下は」

「いや、決して嫌いというわけでも、子供の頃のようにどうしても食べられないというわけでもない」


私の言葉を遮って、彼はいつもより早口で言った。それから不自然に視線を明後日の方向へと向ける。


「ただ、少々苦手なだけというか、美夜に付き合ってもらえればその意識も改善されると思ってだな」

「は、はぁ」


 陛下は言い訳めいた口調で言って、バスケットの中身の手を伸ばす。

 一口囓り「うん、旨い」と頷く。


 その様子を見ながら、昨日マティルダが意味深な目で彼を見ていたことを思い出す。

 あれは、言外に食べ物の好き嫌いを咎めていたのだと理解した。

 一見隙のなさそうなこの人にも、苦手な授業を抜け出した経験や食べ物の好き嫌いがあるというのは、何だか意外だ。


 ……正直なところ、少しだけ、本当に少しだけだけど、かわいいと思ってしまったことは否めない。

 私は堪えきれなくて、吹き出してしまった。


 一切れのサンドイッチを食べ終えた陛下は、そんな私を見て顔を綻ばせた。


「ああ、やっとだ」

「え? 何が、です?」

「やっと笑ってくれた」

「えっ」


 そう言われて、初めてそのことに気付いた。

 同時に気恥ずかしさを覚えて、誤魔化すようにティーカップを傾けた。


 いつの間にか中身は空になっていたけれど、それでもお茶を飲む振りだけでもしておく。


「そういえば、このお弁当は差し入れだと仰いましたね? もしかして、陛下のお口には合わないため、あわよくば私に食べさせようとした……と言うところでしょうか」

「いや、それは正確ではないな。マティルダにも言ったが、ニーヴェもセルベルも今は決して食べられないわけではないからな。子供の頃はともかくとして」


 悪し様な私の言葉を、陛下はやんわりと否定して二切れ目のサンドイッチに手を伸ばす。

 彼に促され、躊躇いながら私もそれに倣うことにした。


「食べられなくはない……けれど、好きでもない。やはり体良く私に処理させようとしたことには変わりがない気がします」

「いや、今この瞬間から好きになった」

「何故です?」

「美夜の笑顔を見られるきっかけを作ってくれたのだからな」


 それを聞いた私は、思わずサンドイッチを喉に詰まらせそうになった。

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