第7話「姫神テオセベイア」

「これが私の部屋……ですか」


 陛下が例の部屋と呼んだその部屋を見た瞬間に言葉を失った私は、やっとの思いで呻くようにそう呟いた。

 因みに、私はまだ陛下に抱き上げられた状態にある。

 アスヴァレンは途中でどこかに行ったため、今は彼と二人だけだ。


「お気に召さなかっただろうか?」


 私の言葉の意味を取り違えたらしく、陛下の声音には不安そうな響きがあった。

 慌てて首を左右に振る。


「いえ、まさか」

「そうか」


 陛下の顔に安堵の色が広がる。

 胸の奥がざわつくような、落ち着かない気持ちになった私は、視線を部屋へと移した。


 陛下に案内していただいた部屋は、一言で言えば「とても広々とした瀟洒な部屋」である。

 ずっと昔、海外旅行に行った時に、実際に王侯貴族が住んでいたお城を見学したことがあった。

 その時に見た部屋を彷彿とさせる、そんな内装が目の前に広がっている。


 陛下は私を抱き上げたまま、その部屋へと足を踏み入れる。

 部屋……というより、居住区というべきだろうか。

 寝室を含む三部屋、それに元いた世界の私の私室より広い浴室と衣装部屋で構成された空間だ。

 全体的には、象牙色と落ち着いたピンク色を基調とした部屋で、かわいらしくも上品な印象を受ける。

 優美な曲線を描く象牙色の家具や天蓋付きの広い寝台は、一般的な家庭に置くと壁や天井の高さと釣り合わずに浮いてしまうだろうけれど、この部屋にはよく映える。


 部屋の隅に、私の鞄が置いてあるのが見えた。

 どうやらシルウェステルは本当に届けてくれたみたい。

 彼としては不本意な仕事だっただろうけれど。


 広々とした部屋は、当然ながら壁面積も大きい。

 その面積を活かして何枚かの絵画が飾られていて、私はその内の一枚に注視した。

 長い黒髪の女性が、美しい夕日の中にいる光景を描いた絵だ。


「彼女は姫神テオセベイアだ。八柱目の神……そして、原初の女性」


 陛下が口にした名は、私にとっても初耳ではなかった。

 それでも、こうして第三者の声でその名を聞くというのは久しぶりだ。


「テオセベイアに会わせていただくことはできますか?」


 そう尋ねると、陛下は意外そうに目を瞬かせた。

 その様子を見て、「しまった」と思った。

 テオセベイアはこの世界の神であり、本来なら異世界から来たばかりの私が知っている筈がない。

 こんな尋ね方は不自然だ。


「彼女を知っているのか?」

「ええ、まぁ」


 追及されるのは面倒で、適当に言葉を濁すことにした。

 自分が置かれている状況がわからない以上、相手にこちら側の情報を渡すのは得策ではない。


「テオセベイアは、確かに嘗てはこの地上にいた。しかし、今はもう会うことができない」

「え……」

「二百年前に起きた天変地異により、地上から姿を消した」

「そう、なのですか」


 私は曖昧に頷きながら、驚きと共にショックを受けていた。

 母は、テオセベイアのことをまるで友人か何かのように話してくれた。

 だから、会えるものだとばかり思っていた。


「美夜? どうした?」

「いえ、何でもありません」


 ありがたいことに、彼はこの件についてそれ以上尋ねてこなかった。

 陛下と共に室内を回りながら、私は疑問と高揚とを感じていた。

 この世界の生活水準はまだわからないけれど、さすがにこれは破格の扱いなのではないか。

 何の弁解をする機会さえ与えられないまま殺されかけたかと思えば、次はこの扱いときた。

 このことをどう解釈するべきなのだろう。


「処刑前の囚人が過ごす部屋としては、贅沢すぎる気がするのですが」

「いや」


 陛下は慌てた様子で首を左右に振った。


「さきほどの一件は、完全にこちらの手違いだった」

「では、そのお詫びということでしょうが」

「そういうわけでもないのだが」


 彼は妙に歯切れ悪く言って、苦笑を浮かべる。


 それから、暫く無言で私をじっと見つめた。

 懐かしむような優しげな眼差しは、とても見知らぬ相手に向けるものとは思えない。

 彼がどうしてこんな目で私を見るのかわからなくて、どうにも居心地が悪い。

 ましてや、抱き上げられた状態では必然的に顔が近くなる。

 そっぽ向いた私に、陛下は言葉を続ける。


「先ほども言ったように、ここは貴女の……美夜の部屋だ。何か不足があれば、遠慮なく伝えて欲しい」

「遠慮なく、ですか」


 彼の言葉を反芻すると同時に、この人を困らせてやりたいという気持ちが沸き上がった。


「では、グランドピアノを用意していただけますか? できれば今日中に。私は寝る前にピアノを弾かないと落ち着かず、眠れないのです」

「ピアノか……すまない、さすがに今の時間だと今日中にというのは難しい。もう少し猶予をもらっても構わないだろうか? 少し移動することにはなるが、別の部屋にあるピアノならいつでも弾いてくれて構わない」

「いえっ、冗談ですから! 私はピアノなど弾けません」


 大真面目に返されて、私のほうが困惑してしまう。

 我ながら、くだらない絡み方をしたものだと少しばかり反省する。

 陛下は目を瞬かせた後、「そうか」と笑った。


「美夜がピアノを弾くのを聴いてみたかったのだが」

「残念ながら弾けません。ところで、そろそろ下ろしていただきたいのですが」

「ああ。そういえばそうだったか」


 陛下そう言われて初めて思い出したような口調で言った。

 それから、渋々といった様子で私をカウチソファへと座らせる。

 ほっと胸を撫で下ろす私に「そのまま待っていなさい」と言って、退室した。




 それから数分後。


 ちゃぷ、と水音が響くと同時に足先を程良い温度の湯が包み込む。

 冷え切った足に、じんわりと温かさが広がっていく。

 背後では暖炉の炎が揺れていて、室内は快適な温かさを保っている。

 快適な状況に置かれているにも関わらず、私は苦々しい思いで陛下を見下ろしていた。

 その理由こそ、自分の目前で跪く青年……ブラギルフィア国王に起因している。


 ブラギルフィア国王ことエレフザード陛下は、木製のたらいに湯を張り、丁寧な仕草で私の足を洗っている最中だ。

 何がどうしてこんなことになったのか、どこからどう突っ込んで良いかわからずにいたけれど、とうとう堪え切れなくなって声を上げた。


「あ、あのっ!」

「どうした? ……すまない、もしかして熱かったか?」


 彼はきょとんとした表情で見上げ、それから慌てて私の足を湯から持ち上げた。


「い、いえ、お湯の温度は快適です」

「そうか、それは良かった」

「そ、そうじゃなくてですね、あの」


 安堵した様子で頷くと、陛下は立ち上がって再び部屋から出て行く。

 こちらが何か言う暇もなかった。

 彼はすぐに戻って来て、その手には新しい湯を張ったたらいと清潔なタオルを抱えている。

 再び私の前に跪くと、既に汚れが落ちた足を洗い始める。

 その手付きはどこまでも丁寧で、だからこそ余計に困惑が募る一方だ。


「あ、あのですね。その、一国の王がこのようなことをなさるべきではないと思うのですが」

「だからと言って、あのままでいるわけにもいかないだろう? もし怪我でもしていたら、すぐに手当てをする必要があった。幸い怪我はなかったが、それでも汚れを落としておくに越したことはない。……と、これで綺麗になったと思うが、どうだろうか?」

「は、はい。ありがとうございます。って、私の話を聞いていらっしゃったのですか?」

「ああ、もちろん聞いている」


 そんなやり取りをしている間も、陛下は私の足を持ち上げてタオルで拭き始める。

 柔らかな生地が足を包み込み、水分を吸い取っていく。

 汚れを落とすと共に、芯まで温まった足を柔らかな手触りが包み込む心地良さに、息を吐き出した。


「間に合わせのものしかなくて悪いが、今はこれで我慢してくれ。後日、美夜に合ったものを作らせよう」


 そう言いながら、陛下は私に靴を履かせる。

 刺繍の入った布製の靴で、私はそれを一目で気に入った。


「かわいいですね」

「気に入ってもらえたなら幸いだ。と、貴女の足には少し大きかったようだ。確か子供用だった筈だが」

「いえ、これぐらいなら何とか……って、自分で履けますから!」

「そ、そうか。わかった」


 ついつい荒くなってしまった語調に、陛下は目を白黒させながら立ち上がり、少しだけ離れた。

 何となく罪悪感を覚えつつも、ここで引き下がってはいけないと己を鼓舞する。

 陛下を見上げて、可能な限り毅然とした態度を見せようとする。


「あのっ、わ、私だって自分のことぐらい自分でできますから」

「いや、しかし」


 こちらの主張に、彼は困ったような顔をする。


「美夜はどこに何があるか、まだわからないだろう?」

「そ、それはそうですが……だからといって、陛下のような方が私にこのようなことをなさるのは間違いです」

「何か問題があっただろうか」


 相当に血の巡りが悪い……とは思えないけれど、こちらの指摘にも陛下は困惑した様子を見せる。


「先ほども言った通り、あのままにしておくわけにはいかなかった。傷口に土汚れでも入ったら大変だからな。それに、貴女はどこに何があるかまだ知らないから、自分で汚れを落とせというのも無理な話だ。侍女を待つこともできたが、なるべくなら早いほうがいい。そこで手が空いている俺が行ったわけだが、ふむ、やはり何も問題はないと思う」

「……そ、そうですね。仰る通りです、はい」


 反論するのも面倒臭くなって、暫しの沈黙の後、彼の言い分を全面的に受け入れることにした。


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