第6話「懐かしい温もり」

 他の者には見えないものが視えるという体質は、余計な苦労をもたらすことが多い。


 それが、まだ幼い子供であれば尚のこと。

 幼い頃、私は眠るのがとても恐ろしかった。

 恐ろしいものがやって来るのは大抵が夜、それも私が寝台に入ってからだったから。


 その夜も、恐ろしいものを目の当たりにした私は転げ落ちるように寝台から出て走り出していた。

 こんな時でさえ、祖父母を起こすような声や音を立てなかったのは、さすがだったと自分でも思う。

 小学校に上がろうという子が、自分の妄想に怯えて取り乱しているようでは情けないと呆れられるのは嫌だった。


 可能な限り音を立てないよう、それでいて全速力で離れにある母の寝室を目指した。

 息を切らせながら寝室の扉を開くと、半身を起こした母の姿が伺えた。


「どうしたの、美夜ちゃん?」

「あ……え、っと」


 自分が見たもの、感じた恐怖をどう言語化すれば良いのかわからなくて、思考は空回りするばかり。

 でも、母はそれ以上説明を求めることはなく、自分の隣に私が横になれる場所を作ると、「いらっしゃい」とその辺りを軽く叩いた。

 後になって思えば、母にはしばしばこういった面が見受けられた。

 のんびりしているように見えて、不思議と全てを見透かしている、そんな女性だった。

 今も、私の来訪に予め気付いたかのように起きて待ってくれていた。


「美夜ちゃん。お母様と一緒に寝ましょう?」

「う、ん」


 両腕を広げる母に、吸い寄せられるように歩み寄る。

 そのまま寝台に上がり、隣に身体を横たえる私を母は優しく抱き締めてくれた。

 彼女の腕はか細く、とても強靭とは言えないのに、その優しい温もりに包まれた途端にあらゆる不安も恐怖も溶けるように消えていく。


 こうして母の腕の中にいると、この世の全てのものから守られているような、そんな気がした。

 徐々に瞼が重くなってきて、夢路へと旅立つ意識に、どこか悲し気な響きを帯びた言葉がそっと覆い被さる。


「他の人とは違うその『能力』のせいで、これからもきっと怖い思いや辛い思いをすると思う。……でもね、その『能力』を持つ貴女にしかできないこともある筈よ」


 この時、私は母の言葉の意味を殆ど理解できていなかったかもしれない。

 それでも、半ば夢うつつの中で頷いた。


「いつかきっと、その『能力』が美夜ちゃんの大切な人を助けてくれるわ。だから……」




 水中をたゆたうような、あるいは電車に揺られるような、心地良い振動。

 意識を取り戻した私は、まずそれを感じた。


 電車に乗ってから眠ってしまったのだろうか、だとすれば降りる筈の駅を通過した後なのでは。

 そんなことを考えながら目を開けると、藍色に染まりつつある空が目に入った。

 夕暮れ時を過ぎた、黄昏という時間帯だ。

 ぼんやりと空を眺めながら、私の意識は先ほどまで見ていた夢の残滓を追ってしまう。


 随分と懐かしい夢を見た。

 あの優しい温もりは、もう二度と手の届かないところへ行ってしまった。

 今は、もう……。


「良かった、目を覚ましたのだな」


 突如として降ってきた声に我へと返る。

 そもそも、ここはどこなのだろう?

 屋外にいること、それに周囲の景色が動いていることからして移動中であることは確かだけど……。

 顔を上げ、金色の双眸と視線が交差した瞬間に私は固まった。


「……ぴぎゃあ!」


 自分が置かれている状況、即ち陛下に横抱きにされている体勢に気付くなり、思わず奇声を上げた。

 同時に、彼の腕から逃れようと身を捩る。


「……っ、と! 危ない!」


 何とか陛下の腕から逃れた、というよりは彼の意思で下ろしたほうが近いだろうか。

 足が地面に着いたと同時に、弾かれたように飛び退いた。

 陛下から一定距離を取った場所で立ち止まると、警戒も露わに彼に向き直る。


 この時になって、私と陛下以外にもう二人の男性がいることに気付いた。

 一人は、先ほども見た銀髪の少年だ。

 名は確かシルウェステルと言ったか。

 どういうわけか、彼は私の鞄を持っている。

 もう一人のほうは初めて見る。

 年の頃は陛下と同じぐらいで、ほっそりとした黒髪の男性だ。


 二人とも目を白黒させながらこちらを見ている。

 何だか、私に不満に感じているようにも見える。

 本当ならこのまま逃げたいところだけど、私たちが今いる場所は広い庭の石畳の上で、もちろん全く見覚えのない景色だ。

 どこに向かえばいいのか見当も付かない。


 陛下に向き直ったものの、何を言っていいかわからなくて、「うぅー」と唸った。

 自分でもよくわからない行動だけど、とにかく「怒っています」という意思表示だけはしておきたかった。

 陛下は呆気に取られた顔をして、それから敵意がないことを表明するかのように両手を軽く掲げた。

 シルウェステルが主君を庇うように踏み出したけれど、陛下はそれを制する。


「先ほどのことについては非礼を詫びよう。それに、怪我をさせてしまったことも、申し訳ないと思っている。ただ、こちらにもそれなりの事情があったんだ。ともかく、俺は貴女に危害を加えるつもりはない」


 そう言われて怪我をしたことを思い出し、掌を見たけれど、そこには傷一つない。

 白衣の男性が、不機嫌そうな面持ちで肩を竦めた。


「手当しといたよ。僕のかわいいエルの頼みだからね、仕方なく」


 エル、というのは話の流れからしてエレフザード陛下のことだろう。

 つまり、この黒髪のほうとしては不承不承ということらしい。

 手当と簡単に言うけれど、こんな短時間で跡形もなく完治するのは不自然だ。

 でも、今はそれどころではない。


「……嘘です」

「すぐに信じろ、と言うほうが無理があるか」


 決め付ける私に、陛下は嘆息交じりに言った。

 黒髪の男性は、そのぼさぼさの頭の後ろで手を組み、眉根を寄せながら「やれやれ」と呟く。

 彼は痩身に白衣を羽織り、黒縁の眼鏡を掛けている。

 医者か研究者のような格好だけど、インテリというよりはだらしのないマッドサイエンティストといった印象が強い。


(……あれ?)


 どういうわけか、彼とは初対面でないような気がしたけれど、すぐにそんな筈はないと思い直す。

 陛下が何事か考え込んでいる隙に、じりじりと後退りながら、護身用のスタンガンに手を伸ばそうとポケットを探る。

 登下校中、変な男に絡まれやすい私はスタンガンを常に携帯しているのだ。

 ところが、どこを探しても見つからない。

 私の様子に気付いた陛下が、どこからともなく護身具を取り出してみせた。


「探し物はこれだろうか?」

「わ、私の……!」

「すまないが、念のために預からせてもらった」

「くっ」


 身を護る唯一の手段を奪われたことを悟り、唇を噛み締めながら相手との距離を伸ばしていく。

 この時になって、陛下が外套を着ていないことと、自分がまだそれを羽織っていることに気付いた。

 長身の彼が羽織ると見栄えのいい長衣も、私が着ると完全に服に着られている状態だ。

 同時に、これを借りた直後に裏切られたことを思い出す。


「そんな恰好では寒いだろう。到着するまでの間、着ていなさい」

「い、いりません。って、近付かないでください!」

「それと、年頃の女性が膝を出すのはこの国では一般的ではない。その点は気を付けたほうがいい」


 淡々と語りかけながら、陛下はゆっくりと私へと歩み寄る。

 その時、白衣姿の男性が口を開いた。


「ね、エルぅ~。何かさぁ、随分と恩知らずな女だよね? 正直むかつくんだけど」


 傍らにいるシルウェステルは言葉こそ発しなかったけれど、その表情を見れば同意見であることは一目瞭然だ。


「そんな言い方は止せ、アスヴァレン」


 アスヴァレン……と呼ばれた彼の言葉に、陛下は強い口調で返した。

 アスヴァレンは、「ぷぅ~」と口に出して言って頬を膨らませる。

 見た目は二十代の男性だけど、その仕草はまるで子供みたい。

 口調もどことなく幼さを感じさせる。


 陛下は、私の威嚇なんかお構いなしで手を伸ばせば触れられる距離まで来ると、スタンガンを差し出した。


「……何のつもりですか?」

「いや。か弱い女性から抵抗する手段まで奪っておいて、信用して欲しいというのは無理があるだろう」

「じゃあ、この場でやっつけられても構わないと?」


 ひったくるようにして護身具を取り返すと、スタンガンを相手に向けてスイッチを入れた。

 スタンガンの先端が青白い火花を散らし、バチバチという物騒な音が反響する。

 並の胆力の持ち主なら、これを見ただけで怯んでしまうだろう。


「女!」

「止せ、シルウェ」


 シルウェステルが非難と警戒を露わに叫び、腰に帯びた剣へと手を掛ける。

 それでも、陛下はあくまで冷静だ。

 彼の隣にいるアスヴァレンも、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに肩を竦めた。


「いざという時は、そうすればいい」

「そもそも、そんなおもちゃでエルをやっつけようと思うのが間違いだよね。レイドリックくんで試してみたけど、ちょっとビリってくるだけ……ひえっ!」


 アスヴァレンにスタンガンを向けると、彼は慌てて後退った。「ビリってくるだけ」とは言え、自分がそれを受けるのは勘弁願いたいというところか。


「いざという時って、ひゃあっ!」


 再び陛下に抱き上げられ、奇声を発した。


「ちょっ、まっ、あ、あのっ!」

「何だ」

「何だ、じゃないでしょう? 私の話を聞いていないのですか?」

「いや、聞いている」

「だったら、どうしてこんな……!」

「靴を片方しか履いていないだろう? そのままで歩けば怪我をしてしまう」


 そう言われて、どこで落としてきたのか靴が片方ないことに気付いた。


「そもそも、どこに行く気ですか!」

「貴女の部屋へお連れする」

「い、行きたくありません」

「だからと言って、ずっと屋外にいるわけにもいかないだろう? もうじき日も暮れる。そうだ、シルウェ」

 陛下は顔を上げて、銀髪の少年を見る。彼は、どうやら陛下の従者という立場にあるのだろう。

「悪いが、一足先に戻ってマティルダに伝えてくれないか。例の部屋の準備を頼む、と」

「しかし、陛下」

「シルウェくん、大丈夫だよー」


 シルウェステルはまだ私を警戒しているらしく、敵意の籠もった目を向けて来た。

 そんな彼に、アスヴァレンがひらひらと手を振る。


「エルには僕がついてるからね。こいつがエルをいじめたら、僕が代わりに泣かすよ」

「……承知致しました。では、伝えて参ります。ついでに、この荷物もお部屋のほうに届けておきます」


 そんな言葉を交わした後、シルウェステルはその場を走り去った。なかなかの俊足である。

 にしても、私を無視して勝手に話を進めないで欲しいのだけど。

 それに、例の部屋というのも何だか嫌な予感がする。


「あの、何と言いますか。そもそも私に攻撃されることをもっと警戒するとか、そういうのはないのですか?」

「いや、それはないと確信している。貴女は賢明な女性のようだからな」

「は、はぁ?」


 称賛とも取れる言葉に思わず目を白黒させる。

 困惑と警戒を隠そうともせずに陛下を見上げると、彼は平然とした様子で言葉を紡ぐ。


「現状、俺を当てにするのが最善だと理解しているのだろう? だからこそ、即座に逃げ出そうとしなかった。反発するのは致し方ないにしても、その武器で俺を倒したところで益はない。貴女は無意識の内にそう判断した、違うか?」

「う……それ、は」


 痛いところを突かれ、押し黙る。

 目が覚めた時、一瞬逃げ出そうかとも思ったけど、この訳のわからない状況で逃げ出す度胸など私にはない。

 そう、私は慎重派なのだ。


 彼の言うことはどれも正論で、それ故に余計に腹が立つ。

 とは言え、反論できるだけの材料もなく、私は押し黙ったまま大人しく運ばれることしかできない。


「そういえば自己紹介がまだだったな」


 不意に、陛下がぽつりと呟いた。


「俺はエレフザード=ウィルトス=レガリア=ミストルト。この国の王を務めている。こいつははアスヴァレン、王国筆頭錬金術師だ。貴女のことは何と呼べばいい?」


 エレフザード、と改めてその名を脳裏で反芻する。

 確かに、嘗て母親から聞いた名前だ。

 でも、彼からの問いには口を噤んだ。ややあって口を開く。


「……答えたくありません」

「そうか」


 そんな頑なな態度に、陛下は残念そうに頷いた。

 ……その様子を見て、私が罪悪感を持たなかったと言えば嘘になる。


「答えたくないなら仕方がない。しかし、呼び名がないというのは不便だな。……では、姫と呼ばせてもらうことにしよう」

「は……はい?」


 予想外の反応に、思わず目を丸くした。

 陛下ご本人はと言えば、自分の案が気に入ったように頷いている。


「姫、か。うん、いい呼び名じゃないか? 姫、後もう少しで目的地に着くから、暫しの間辛抱してくれ」

「美夜、です」

「美夜?」


 そう反芻したのは、陛下ではなくアスヴァレンだった。

 彼は私たちのやりとりに特に興味もなさそうだったけど、何故か私の名前には反応した。


「どうした、アスヴァレン?」

「……それが私の名前ですけど。あの、何か」

「いや、君の名前になんか興味ないよ?」


 アスヴァレンはそれだけ言うと、ポケットからキャンディの包み紙を取り出してその中身を口に放り込む。

 それ以上は特に言うこともないようだ。

 訝しく思って見つめていると、アスヴァレンは不意に振り返って「あげないよ?」と言った。


「いえ、別にいりませんけど」

「美夜、か。なるほど、いい名前だ。すると、そう呼んだほうがいいのだろうか」

「……お願いします」

「わかった」


 陛下はあっさりと頷いた。


(こ、この人……!)


 彼に運ばれながら、私は表情を見られないようにして眉を顰めた。

 こちらの神経を逆撫でするためにわざとやっているのか、それとも悪気のない天然なのか。

 私の要望をすんなり受け入れた辺り、後者のような気がする。

 容姿も含めて、彼のような人物は今まで見たことがない。

 悪い人ではないのかもしれない。

 でも、喉元に刃を突き付けられたことについては決して許せない。


「……一つだけ、教えていただけますか」

「どうぞ。いや、一つと言わず幾らでも」

「私が今いるこの場所……国は、何と言うのですか?」

「ここは、ブラギルフィア諸侯国連合の一角のブラギルフィア王国だ」

「ブラギルフィア王国」


 その国名を反芻しながら、頭がくらくらするのを感じた。

 同時に、心のどこかで「ああ、やっぱり」とも思う。


(いつか一緒に帰りましょうね、ブラギルフィアに)


 そう言った母の屈託のない笑顔が脳裏に浮かぶ。

 どうしてなのか、あるいはどうやってなのか、自分でもわからない。

 それでも、自分が異世界に迷い込んでしまったことは最早疑いようもない。


 様々な疑問や思考が目まぐるしく脳裏を駆け巡るけれど、それらに対応するにはあまりにも疲れすぎていた。

 一切の思考を手放し、陛下に運ばれるままになることにした。



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