カサンドラの蛍

西野ゆう

第1話

「違うよ。そうじゃない」

 何度も何度も繰り返す。くだらないことでも、重要なことでも。

 抽象的な言い回しはご法度だ。夫を混乱させて、私も混乱する。

「そうだけど、字が違うの。意味も違うの」

 今、夫が首をひねっているのは「大赤斑」だ。深さ五百キロメートルに及ぶガスの渦。木星にある高気圧の渦。

「大きい赤飯じゃないんだね?」

「そうだよ。斑点、の斑だから」

 調子がいいときは、帰宅から食事、入浴、就寝まで流れるように過ぎ去る。毎日調子が良ければいいのに。

 だが、その話をしたときにこう言われた。

「調子がいいのは貴女が? それともご主人が?」

 夫の相談に通っていたはずの精神科医。それがいつのまにか、私の治療になっていた。

 私に変調があると気づいたのは、その「大赤斑」の話を夫としていた時だった。

 巨大な、とてつもなく巨大な、地球さえ飲み込む渦にとてつもない恐怖を感じ、眩暈で倒れた。

 直接の因果関係はないという。だが、眩暈と症状の相談をするうちに「カサンドラ症候群」と診断された。近親者に発達障害などの人がいることで、自身が抑うつ状態になったり、不安障害になったりするものだ。

 私は、夫に向き合う孤独の中で、知らず知らずにストレスをため込んでいたのだ。

 それでも、元々夫が通っていた病院に、専門のカウンセラーがいたため、私の場合は幸運だったといっていいのだろう。深刻な状態になる前から、カウンセラーの相談が受けられたのだから。

「ここで笑い話にしてしまうのもいいですよ」

 そういって、カサンドラ症候群の人たちが集まる自助会を紹介されもした。

 私には、この自助会がだった。

 夫のいない場で、夫とのやり取りで手を焼いたこと、思わずイラついたこと、愛おしく思えたこと、全てが本当に笑い話になった。

 他の参加者もそうだ。皆同じような苦労をしている。人の話でも笑った。

 特に印象的な話がある。もう還暦間近というベテラン主婦の話だ。

 その婦人は「もう一度乱舞する蛍が見たい」と言ったらしい。

 だが、都市部にすむ彼女には難しい願いだ。身近に運転免許を持っている者もいない。そこで、彼女のご主人は考えた。自分が蛍になってやろうと。

 どこの店で買ってきたのかわからないが、蛍のコスチュームに身を包み、独り乱れ踊ったらしい。

「乱舞はめちゃくちゃに踊るという意味ではなくて、何匹も入り乱れて踊るように空を舞うという意味よ」

 婦人は笑いながら言った。

 すると盆休み、ご主人は集まった子供たちを巻き添えにして、皆でホタルの格好で舞ったらしい。

 想像すると、あまりにおかしくて涙もにじみ出た。

 そして私も夫に「乱舞する蛍が見たい」と言ってみようと、その時は秘かに考えていた。

 だが、実際家に帰ればそんなことも忘れてしまうような日々だ。私のため息は相変わらず減らないし、夫を叱責する自分に嫌悪感も抱く。

 そんな中、テレビで流れた蛍の映像。

「私も乱舞する蛍が見たいな」

 特に考えもなくするりとその言葉が口をついた。

 翌日、彼が買ってきたのは蛍のコスチュームではなく、もっと何倍も高い、新幹線の乗車券だった。

「見に行こう、蛍」

 夫は私を愛している。

 私は夫を愛せているのだろうか。

「ありがとう」

 そう抱きしめて、夫に涙は見せなかった。悲しませたと思わせたくないから。

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カサンドラの蛍 西野ゆう @ukizm

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