第2話 あいまみえる
階下から聞こえてくる彼女の笑い声に、レポートの手が止まる。
意識しないようにしていても、どうしたって胸に響く声。
キーボードを打つ手が止まってから数分。これでは拉致が明かない。
開いたままの文献を閉じて、部屋を出る。
この広い屋敷で彼女がいる場所はひとつしかない。
探さなくていいのは非常に助かる。
増築に増築を重ねたムダに広い屋敷は、複雑な構造になっていて慣れない人間はすぐに迷子になってしまうのだ。
・・・そういえば、初めて彼女がひとりでここに来た時もそうだったな。
あれは確か、彼女の母親が亡くなってちょうど5年がたった夏。
彼女を知ってから半年が経とうとしていた頃。
★★★★
「これで英文はオッケーだよな」
「まだ難解な古文が残ってるけどね」
亮誠が凝り固まった肩を回して言った。
「はあー・・・・なあ、息抜きにやらね?」
と、剣を振るしぐさをしてみせた。
昨日も夜までしごかれたのに、まだ飽き足りないらしい。
でも、自分も同じ気分だったので笑ってしまう。
「いいけど、なら腹ごしらえしてからのほうが良くないか?」
そろそ14時だ。
遅い昼食を食べてから道場に行くのが賢明だろう。
「だなー。俺の部屋寄ってもいいけど」
「ご免被るよ。賞味期限切れのラーメンは飽きたから」
「オンナが置いてったプリンなら・・・」
どうせ一週間も前のものだろう。
亮誠の私生活のだらしなさを知っている一鷹としては、この男の家にある食材は一生口にしないと決めている。
「佐代子さんに何か頼んでくる」
「頼んだ!」
休憩時間と決めたらしく、放り出してあった雑誌を読み始めた亮誠を残して離れを出る。
渡り廊下を歩いていると、茶室の方へ向かう女性の後ろ姿が見えた。
母親が気まぐれで茶会でも開いたのだろうか。
本家には毎日のように来客が訪れるので、こうして廊下で誰かと会うことも珍しくはない。
ぼんやりとその姿を眺めていると、どことなくあの日出会った彼女に似ている気がした。
そんなわけない。
そもそも、ここに来るはずが無い。
すでに志堂の姓から抜けて父親の姓になっている彼女は言わばこの家とは無関係の人間だ。
そう自分に言い聞かせてみるけれど・・・視線は女性の後ろ姿から離せない。
すると、困惑気味の一鷹の方に向かって、さっき目の前を通り過ぎた彼女が戻ってきた。
あたりを見回すその横顔を見て思わず立ち止まってしまう。
間違いなく彼女だった。
あの日から少し伸びた髪を緩く結ったリボンがふわふわと揺れていた。
水色のストライプのワンピースをすっきりと着こなした背中は変わることなく凛として。
半年前の冬が甦る。
首に巻いてくれたストールに残っていた甘い香り。
逸る心を抑えるように、ゆっくりと彼女に近づく。
向こうは、廊下の真ん中に立ってどちらに行くべきか思案しているようだった。
「・・・・あの・・・・迷われました?」
家の中で”迷う”という言葉を使うのも変な感じだが事実なので仕方ない。
来客がこういった事態に陥るのは珍しいことではなかったから。
くるりと振り返った彼女がこちらを見て心から安堵した表情を浮かべる。
「人がいたー!良かったー、そうなんです。迷っちゃって・・・佐代子さんがいない間探検しようと思ってウロウロしてたら元来た道が分からなくなっちゃって・・・」
一息に言ってこちらを見上げる視線。
半年前は変わらない身長だったのに。
そんな小さな変化が嬉しくて笑い出しそうになる。
必死に堪えるけれど。
「・・あ・・・笑ってる」
「違うんです、ごめんなさい。この家は作りが変だから無理ないですよ」
一気に不機嫌になる彼女に、慌てて顔の前で手を振る。
「・・・・半年前はもうちょっと可愛かったのにな、一鷹君」
「名前・・・・知ってたんですか?」
「あら、一応あたしも志堂のはしくれだから、何度か会ったことあるのよ。あなたはあたしのこと知らな」
「幸さんでしょ、知ってますよ」
かぶせるように言うと、両目を見開いて、次の瞬間こちらがドキっとするような笑顔を見せた。
「じゃあ自己紹介は必要ないわね」
「いつかはストールありがとうございました。お返ししたほうがいいですか?」
「あげるっていったでしょ?」
「じゃあ遠慮無く・・・・大雪降りましたね、あの日」
予言通り大寒波のせいで10年ぶりに大雪になったあの日。
一面の銀世界を目の当たりにして、言葉を無くした。
どうしようもなく彼女に会いたくなった。
「だから言ったでしょ?少しは面白い事増えたかしら?」
「はい。あの日からずっと」
「そう。なら良かった」
そう言って彼女が耳元に零れてきた髪を耳に掛けた。
あの日は不思議と自分が守られているような気がしたけれど、彼女の手首は驚くほど華奢だった。
思わず伸ばしかけた手を引き戻す。
「あの、案内しますよ・・・目的地まで」
彼女から顔を逸らして言うと”ありがとう”という言葉が返ってきた。
★★★★
台所まで彼女を案内すると、通いの家政婦はまだ戻っていなかった。
彼女の母親は家政婦の佐代子と乳兄弟のように育ったと聞いていたが、未だに交流がある事は知らなかった。
とんでもない見落としだった。
「一鷹君は用事だったんじゃないの?」
「佐代子さんに何か作ってもらおうと思ってたんですけど・・・」
仕方ない。
亮誠の部屋までにどこかへ寄ることにしよう。
そう思って踵を返そうとした背中に彼女の声がかかった。
振り返ると、椅子にかけてあったエプロンに袖を通している。
「ちょっとだけ待って。玉子焼きとおにぎりくらい作ってあげる。台所の使い方はもう何度も来てるから、心配いらないわ」
「え、でもお客さんに・・」
「10分もかからないわよ」
「いいんですか?」
「ここは台所で材料は揃ってて、あたしはご飯が作れる。あなたはお腹が空いてる。そしてお互い誰かも知ってる。従姉弟同士で遠慮はいらないでしょ?何か問題あるかしら?」
つらつらと言葉を並べながらも幸の手は止まらない。
迷うことなくフライパンを取り出して、冷蔵庫から卵を二個出してきた。
勝手知ったる家のようだ。
こんなに彼女がこの場所に馴染んでいたなんて知らなかった。
まさか幸の手料理が食べられるなんて夢にも思っていなかった。
半ば呆然としながら依頼することに決める。
「・・・じゃあ・・・お願いします」
「お任せくださいな」
幸は快く引き受けて、手際良く調理に取り掛かった。
こういう人なんだな。
臆さず、揺るがず、凛として。
そういえばあの時も半ば強引だったっけ。
料理が出来るのを待つ間、椅子に座って彼女の話相手をすることにする。
夢じゃないだろうか。
ボウルに落とした卵を菜箸でほぐす手元を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
それほど会いたいと思っていたから。
「そんなに楽しい?」
じっと見られる視線に気付いて彼女が面白そうにこちらを見てくる。
「あまり料理したことがないんですよ」
「佐代子さんお料理上手だし、自立した時のために習っとくといいのに。とくに煮物は絶品よ」
「確かに。佐代子さんの料理は何でも美味しいです」
ボウルに砂糖と塩をパラパラと振り入れる。
少しの牛乳を加えて、熱したフライパンに流し込む。
迷いのない手つきは普段から家事をしている人のそれで。
志堂の家に生まれた彼女の母親はすでに他界して久しいので、家の事はほぼすべて幸がこなしている、と受けた報告が間違いなかった事を確信した。
「あ、あたしの家甘めの味なんだけど、大丈夫?」
「え?」
「玉子焼きの味。本家って御出汁とかのお家なのかしら」
気にしたこともなかった。
そう思ってみれば家政婦の佐代子が作る玉子焼きはほんの少し甘かった気がする。
「何でも食べるから平気ですよ」
「ならよかった」
頷いて幸が器用に玉子を巻いていく。
自宅ではあるのだが、台所でこんなにゆっくりしたことはなかった。
料理は出来上がったものが食卓に並べられるのを待つのが常だったのだ。
手際よく焼いたアツアツのそれを器に盛って、幸が得意げにこちらに差し出す。
どうやら上出来らしい。
優しいにおいが部屋に広がった。
「大学は楽しいですか?」
続いておにぎり作りに取り掛かる彼女の横顔に問いかける。
「何でも知ってるのね?」
少し驚いたように幸が一鷹を見つめ返した。
ほんの一瞬混ざった視線。
それだけで体中の血液が沸騰したような錯覚に陥る。
「年の近い従弟たちの話題はいつも耳に入っていますから」
これは嘘ではない。
本当は、志堂を抜けている彼女のことは別枠で調べてもらっていたのだけれど、当然その事を口にするつもりもなかった。
「なるほど。そうねー、あたし女子高だったから、校則も厳しくて大変だったけど、今はのびのび出来てる・・・かな。自分の好きなことを好きなだけ学べるって幸せなことだと思ってるわ」
「好きなこと・・・・」
「無いの?」
「・・・なりたいもの、というか欲しいものは、やっと見つかったんで・・・それに見合う自分になりたいと思いますね」
「大人みたいね」
彼女がおにぎりに海苔を巻きながら笑う。
「早く、大人になりたいんです・・・・」
貴女の隣を歩ける大人になりたいんです。
胸の中でそっと呟く。
知らずに拳を握っていた。
どんなに遠くても、諦めきれない。
こちらの緊張が伝わったのか幸がゆったりと微笑んだ。
一鷹に向けられる視線は、年下の親族に向けた穏やかなそれで、かけらの恋情も含まれていない。
自分の現在位置を明確に示された気がした。
「ゆっくりでいいと思うわよ?可能性なんて無限にあるから、後悔しないように焦らずやってけばいいのよ」
「後悔は・・・しません・・・・絶対」
「うん、なら頑張って」
「・・・応援、してくれますか?」
「ええ、もちろん」
彼女の言葉にやっと笑えた自分がいた。
4つ並んだおにぎりと、玉子焼きに麦茶。
きれいに並んだそれをお盆にのせてこちらに渡してくる。
「お待たせしました、召し上がれ」
「ありがとうございます」
そう言って、受け取ったそれを手に台所を出て行こうとして立ち止まる。
「幸さん・・・ピアス開けてるのに、髪は染めないんですね」
ふと気になった疑問を口にした。
彼女がエプロンを外しながら答える。
「あー・・・亡くなった母がね、綺麗なロングの黒髪だったの。だから、何となくこのままがいいかなって」
小さく微笑む彼女。
「すごく似合ってますよ」
それだけ言うと、照れくさくて返事を待たずに歩き出す。
「ありがとう」
小さな彼女の言葉が背中に響いた。
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