第36話 やっぱり海斗はモテモテ
麻保の口の中はレモンスカッシュの泡で弾けていた。頭の中も相当弾けていたが、それはやっぱり海斗の家にいるからだった。敵陣に乗り込んだ気分、いや海斗の手の中で転がされているような小鳥のような気分を味わっていた。
するとその時海斗のスマホにメールが入った。海斗は少し困った顔をした。
「あれ、今日これからバイトに来てくれって」
「もちろん、今日はお断りでしょう。だってねえ、こうして二人でいるんだもの」
麻保は焦りながら、ちょっと甘い声を出してみる。眼もくるくると動いている。ここでやめてくれなければ、自分のプライドがボロボロになりそうだ。
「返事を送った」
「えっ」
断ってくれたのかな。
またすぐに返信が来たようで、困った顔をしている。まさか、心が動いているのではないでしょうね。目の前に私という、れっきとした彼女がいるのに。
「う~ん、夕方からでもいいって、そんな切羽詰まってるのか?」
「だけどねえ、他の人を当たってみればいいことだし、海斗さんじゃなきゃダメってことはないでしょうし」
「それが、俺じゃなきゃダメだって言ってるらしいんだ。どうしようかな、夕方からでもいいって、しょうがないなあ」
「しょうがないって、そんなあ」
嫌だよお、と言えたらどんなにいいか。
「だいぶ困ってるようだし」
私だって困るわよ。もしかして、海斗さん相当お金に困ってるんじゃ、私には言わないけど、そうなのかもしれない。だから、だから、お金のためにはどんなことでもして、女性に尽くしているんじゃ。ああ、理解してあげなきゃならないのかなあ。ほかの女性と会うことを認めなきゃいけないなんて、このジレンマは何。
「しょうがないなあ。あのおばあさん、俺に慣れてるから絶対来てほしいって。ごめん、夕方から行くって返事するよ、かわいそうだし」
私だってかわいそうだよお。
「ねえ、おばあさんなの?」
「そうなんだ、年を取って出かけるのも大変だから、家に来てほしいって、時々呼ばれるんだ」
「そう、家で、おばあさんと……」
おばあさんだって、女なんだから若い男の子に来てほしいときもあるんだわ。きっとさみしくて、海斗さんのことを思い出したんだわ。だから、海斗さんはお金のために、おばあさんとのデートも承諾する。
お金さえあれば、そんなことをしなくてもいいのに。
うお~~、お金が欲しい。お金、お金、お金が欲しいよお~~~。
「どうしたの、しゅわしゅわしすぎて、口の中が弾けちゃった?」
「そうかもしれない。きっと、レモンスカッシュにむせちゃったんだわ。夕方からはバイトが入っちゃったのね」
「そうなんだ、でもそれまでは一緒にいられるよ、夕方までね」
時間は貴重ってことなのね。モテる人と付き合うのって大変なことなのよ。理解しなきゃいけないの、麻保頑張れ。
「そのおばあちゃんて、どんな人? 素敵な人?」
「おじいさんがだいぶ前に亡くなって、一人暮らしをしていて、最近足腰が弱っちゃって何かと大変みたいだよ」
「歳は、いくつくらい?」
「八十歳ぐらいじゃないかな。訊いたことはないけど。頭はボケてはいないようだよ。話はしっかりしてるから」
「へえ、どんな話をするの」
「う~ん、お天気のこととか、料理のこととか、花のこととか」
「それだけ」
「そうだなあ、あとは昔の思い出話を聞いてあげたりする。おばあさん、昔は結構モテたんだって。お祭りの時なんか、若い男性にちょっかいを出されて大変だったって」
「そう、昔はモテたの」
どうしたのかな、また麻保ちゃん。バイトの話をいつも根掘り葉掘り聞いてくるけど、まさかおばあさんに対しても焼きもちを焼くなんて、どうかしてるのか。
そんなに俺のことが好きなのか、それとも信用してないのか、どちらかだ。ちょっと脅かしてやろうか。
「そんなに心配だったら、麻保ちゃん。僕のここにキスしてくれない?」
海斗は自分のほほを麻保の顔の前に突き出した。
「し、心配してないし、焼きもち焼いてるわけでもないし。海斗さん、そんなにキスしてほしかったら、してあげてもいいけど」
と言いながら、麻保はチュッと海斗のほほに唇を寄せた。
しめしめ、このままの調子で行くか、と海斗の方は上機嫌だ。
「あ、そうだ、来週は仕事の依頼が入っちゃったんだ。だから、デートはお預けかもしれないなあ」
「えええっ、そんなあ!」
私がいるのに、またバイトに行くの。相手はどんな人。
「どんな人から依頼されたの?」
おっと、またかかったな。じらしてやろうかな。
「今度は若い女性で……一人暮らしみたいだな。緊張するなあ」
「……どうしよう」
麻保ちゃん、手に負えないって顔してるぞ。
「だけど、きっと麻保ちゃんの魅力には勝てないよ」
「そうかな」
麻保は、意を決して海斗の方へ両手を伸ばし、がしっと抱きしめた。
「うっ、苦しい」
「ご、ごめん」
「いいけど」
完全に自分の方が不利な立場にいる。いつも焼きもちを焼いているのは自分の方。麻保は焦っていた。
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