第5話




 その日、孝弘とアオイは遠く離れた街へ向かっていた。

 揺れる電車の中で、疲れが出たのか、孝弘はアオイの肩に寄り添うように眠っている。窓の外に建物は目立たず、山や海といった自然的な景色が広がっていた。ここまで来ると他の客は疎らであり、実際にその車両には孝弘とアオイしかいない。

 まるで世界から切り離されたかのような二人を乗せた電車は、ただひたすらに走り続けていた。


「少し出掛けようか」


 発端は、彼の言葉だった。

 目的地も、何をしに行くのかも明かされず、また、アオイもそれを聞くことはしなかった。


 いくつの駅を過ぎただろうか……。

 終点近くになったところで、二人はようやく降車した。そこから更に歩いて移動することになったのだが、アオイは、違和感を感じていた。

 普段は横を歩く孝弘は彼女の前を歩き、振り返ることも、声をかけることもしない。彼の白い服が揺れる背中は、やけに遠くに感じた。

 孝弘もまた、並々ならぬ険しい表情で足を踏み出す。

 この地は、二度と来ないと思っていた。


「着いたよ、アオイ」


 しばらく歩いたところで、孝弘は足を止める。

 そこは程高い丘の上だった。

 見晴らしのいいその場所からは、海と山が一望できた。空は晴れ日差しが強いせいか、通り抜ける風は涼しい。足元には雑草が生えているが、背は高くなく、腰を下ろせば青々しいクッションのように柔らかかった。


「美しい場所ですね」


 何気ないアオイの言葉に、遠くに見える水平線を眺めながら、孝弘は、何かを決心するように深く息を吐いた。


「……この場所は、僕の妻が好きだった場所なんだ」


「奥様?」


「ああ。事故で他界してたんだ。もう六年も前のことさ」


 孝弘は、遠い空を見上げた。


「何気ない毎日を過ごしてて、年を取るまで、ずっとその生活が続くと思っていたんだ。だからこそ、あまりにも突然過ぎて、どこか他人事のように思えてね……。だから葬儀でも泣けなくて、そのことから、僕や妻の家族からも冷たい人間だと罵られて、それっきり疎遠になった。でも家に帰れば誰もいなくて、なんで一人きりなんだろうって疑問ばかり。何のために働いているのか……何のために生きているのかもわからなくて……。そんな中で、君を見つけたんだ」


「私、ですか?」


 孝弘は小さく頷く。


「君を見た時は驚いたよ。君は、僕の妻――葵に、とてもよく似ていた。だからかな。思わず君を招き入れたんだ」


「では、私に名前を呼ばせたのは……」


「……ああ。僕は君に、死んだ葵の代わり求めたんだよ。酷い話だよね。以前はまるでそれっぽい理由を並べていたのに、結局のところ、本当の理由はそんなことなんだ」


「…………」


 アオイは何も言わず、懺悔のように話を続ける孝弘をただ見つめていた。


「最初は良かったんだ。口数は少ないけど、まるで葵が帰って来てくれたかのように思っていたんだ。でも、君と過ごしていく中で、違和感が少しずつ膨れて行って……。先日の夜……君とキスをした夜に、わかっちゃったんだ。君はアオイであって、葵じゃないんだって。笑っちゃうだろ? そんなの、当たり前のことなのにさ。勝手に身代わりを押し付けて、勝手に絶望して……なるほど、僕は本当に、冷たい人間なのかもしれない」


 孝弘は自虐するように一度だけ笑みを浮かべ、空を見上げた。


「……でも本当は、そんなことなんてとっくにわかっていたんだ。君が家事をする度に、話をする度に、こうして二人でいる度に、思い知らされる。……葵は、もう、いないんだって……もう会えないんだって……」


 気が付けば、彼の目からは涙が溢れていた。それを隠そうともせず、拭おうともせず、彼は泣き続けていた。


「……会いたいよ、葵に。僕は、会いたいんだ……」


 彼の姿を見たアオイは、冷たい指先で、彼の頬を伝う雫を拭い取った。


「……アオイ?」


「私は奥様にお会いしたことありませんし、どのようなご夫婦だったのかはわかりません。ですが、今の孝弘さんを見て、一つだけ確信を持ちました。……孝弘さんは、奥様を、心から愛していたのですね」


 そして彼女は、ノイズを待つことなく、優しく孝弘の手に自分の手を添えた。


「以前、孝弘さんから教えてもらいました。その人がどのような存在なのかを決めるのは、その人に接する人次第なのだと。私は、アンドロイドです。外見上は人に酷似していても、あくまでも人工物です。ですが孝弘さんは、そんな私を、人間だと言ってくれました。……今度は、私からあなたへ、伝えるべきなのでしょう」


 アオイは、彼女は、優しく微笑んだ。


「孝弘さん、あなたは冷たい人間などではありません。須田葵という女性をここまで愛し続けることができる、素晴らしい人間です。きっと奥様も、そう思っているはずです」


「アオイ……――」


 孝弘の中で、葵とアオイの姿が重なった。

 それは彼の記憶の中にいる妻の笑顔。人でも絡繰りでもなく、ただそこには、彼が最も会いたかった女性がいるように思えた。


「孝弘さん?」


 彼女が声をかけると、孝弘は、彼女を優しく抱きしめた。


「……ごめん、アオイ。少し、このままでいいかな?」


「……もちろんですよ、孝弘さん」


 アオイは返すように、孝弘の体に腕を回した。


 二人の横を風が通り抜ける。風に流された雲が太陽を隠し、その隙間から少しだけ光が差し込んだ。

 空から降り注ぐ優しい光の中で、お互いの存在を確かめるように、孝弘とアオイは、時を過ごしていた。





 


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