第43話 亡き会長の想い2

 そこで希未子は立ち止まった。二人は大学構内を歩き続けていたのだ。疲れたと希未子きみこが叫ぶように言った。

「だから最初に云っただろういつもタクシーに乗る君が歩くからだ」

 こんな処は配送の車しか通らないから近道しましょうと大学構内を歩いた。ようやく車が頻繁に行き交う通りを出たのに、彼女は鴨川の急勾配になる土手を鹿能の手を借りて河川敷に降りた。

「此処を北へ上がるとクラッシックを流している古い喫茶店があるの」

 彼女は河川敷を今出川通りに向かって歩き出すと昔を想い出したようだ。

「此処はおじいちゃんと手を繋いで良く歩いた道なの」

 エッと一瞬思ったが、それは遠い昔の話だと知った。孫をあやす一回り若い会長の姿を思い起こした。この頃の会長は息子の総一郎の自立を促すために、わざと会社に出ない日々を増やしていた。その為かおじいちゃんの持つ携帯が良く鳴っていた。返事はああしろこうしろでなく、ああしたら、こうしたらいいのではないかとアドバイスばかりだった。

「今思えばこの頃から父と入れ替わる時期を模索していたみたいね」

「提案はするが事業が大きく下降しない限り口に出さなかったが、心の中ではハラハラドキドキさせられていたと思うでしょう。あたしはそんなおじいちゃんの側から手が離れると川縁まで行って遊んでいた。ふと電話を終えたおじいちゃんが慌てて駆け寄って抱き上げて、川縁から河川敷まで引き上げては何も無かった様に歩いた。どんなに危ない処に居ても決して怒られなかった。それが今のあたしの人格形成に深く影響したのじゃ無いかしら」

「つまり目の届く範囲で自由にさせていたんですか」

「兄の放浪癖も多分それの延長でしょう。でもその内に兄は自由の身から束縛されるように会社人間にされたけれど、女のあたしには関係ないと思っていたら片瀬さんに引き合わせられた。そうかあたしもその中で踊らされていたのかと思ったけど全ては子供の頃の夢のためだったのよね」 

「それはいつ知ったのですか」

「そうーね今思うと父と兄で会社を固めて片瀬さんを連れて来た辺りかしら」

 そこで薄ら笑いを浮かべると「弟のつよしはもっと早く気付いて金沢へ引き籠もった」と笑う口元からずるいと溢している。

「じゃあ会長が亡くなったから帰って来るかも知れませんね」

「世渡りが下手だからもう留まる理由はないもんね」

 そうかこの一家は会長の夢を喰って生きていたのか。それで希未子さんはその夢の欠片を育てられる人を探していたんだ。

 大きな橋桁が見えて来る。そこから土手を上がり、今出川通りに出た辺りに店があった。

 古い大きなお寺の山門横に茂る大木に囲まれるようにその喫茶店はある。

 何でもこの街では有名な喫茶店の一号店だそうだ。昔は京大生の溜まり場、サロンになっていたそうだ。

 中は年季の入った調度品で固められ、きっちりと並べても学生や教授達が、勝手に席を替えるのか、奇妙な形に並んでいる。客は三割の入りだろうか、テーブルごとに一人だけ座って、本やノートパソコンの画面を睨んでいた。その隙間にクラッシックのピアノ協奏曲が流れていた。二人は端っこに有る古めかしいテーブル席に対座した。

 亡くなる前まではおじいちゃんは此処にはよく来ていた。彼女は子供の頃までは祖父に連れられて、ここで特別注文のアイスクリームやパフェなどを食べていたそうだ。

「学生時代まではたまに此処で顔を合わせる事もあったけれどあたしは一人では来ないから別テーブルだったの」

「じゃあ会長とは目線だけで挨拶していたのか向こうは寂しいでしょうね」

「そうでもないわよ此処へは一人ノンビリするために来るんですからそれで此処のマスターがチャイコフスキーの悲愴を掛けてくれるのよ」

「そう言う関係ですか」

 と思っていると、チャイコフスキーの悲愴が、今は会長の鎮魂歌のように静かに流れ出した。

「どうやら曲だけ掛けてマスターはいるらしいけれど顔を見せないんですね」

「おじいちゃんは昔お母さんと一度だけ此処で待ち合わして会ったらしいのよ」

 社会人になって最初の給料をお母さんに渡そうとして「一丁前に生意気な事をするんじゃ無いよ」と言われて叩き返された。勢い余ってテーブルから給料袋が落ちてしまった。この時はおじいちゃんもムッとしたらしい。何もそこまでしなくてもと、落ちた給料袋を拾うためにかがみ込んでテーブルの下からそっと見上げた。その時に、母がハンカチで目頭を押さえているのが目に入り暫く探す真似をして、ハンカチを膝の上に戻すのを待って立ち上がり、座り直したのをおじいちゃんは良く覚えていた。あれほど厳しい顔なのに見えない処で母は泣いていたそうだ。だからお母さんは息子のために気丈に振る舞っていたんだと。

「どうしてなんですか素直にその時は気持ちを分かち合えば良いのに」

「あたしもそう思ったけど本当の母の気持ちを大事にしたかったそうよ」

 お母さんは泣きたいほど嬉しいかった。それをそのまま表したならどんなに楽か分からない。でも情に流されると出世なんて覚束ない。最初が肝心と、一生懸命に働いた汗の結晶を突き返せば、何クソッと反感精神を奮い立たせられると決めて会いに来た。その気持ちをおじいちゃんは大事にしたかった。

「しかし会長はテーブルの下からハンカチで目頭らを押さえるお母さんの手元を観なければなんちゅう親やと恨みこそしても励みにはならなかったでしょうね」

 と云われて希未子は使い込まれて年季の入ったテーブルを撫でていた。

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