第31話 片瀬の帰国

 華やかな帰国の人々に混じって片瀬は、ひとり機内持ち込みの小さなキャリングケースを引き摺りながら、ポツンとゲートを行き過ぎた。そこに待ち構えていたようにこっそりか隠れていた三人が片瀬の前に飛び出してきた。これには片瀬も面食らって暫くは動けずに呆然としていたが、先ず千鶴さんが旅行先での接待にお礼を言った。そこでやっと我に返ったように硬い表情を崩して鹿能には軽く会釈した。希未子さんも少し表情を和らげたが、真っ先に千鶴さんが言葉を交わした。

「お陰で愉しい新婚旅行が出来ましたわよ」

 と千鶴さんはしっかりと片瀬のキャリングケースを引き取った。将来の社長夫人に、それは困りもんだと辞退したが、意に介せずそのまま千鶴さんはケースを引っ張ってゆく。その姿は新婚旅行のお礼返しに見えて微笑ましく、そのまま空港バスに乗り場に行った。

 その間は片瀬は千鶴さんとヨーロッパ旅行の続きのように接している。片瀬も希未子も二人とも真面に顔を見合わせるのを避けているよう鹿能には思える。此の二人をさりげなく今は導くのが鹿能に課せられた義務のように感じた。その上で距離を保って接して欲しいと希未子さんは望んでいるのかも知れない。そう察して先ずは希未子さんの代わりに口を開いた。

「北欧は住んでみてどうですか僕にはトナカイとサンタクロースのイメージしかないのですが」

「私も向こうへ着くまではそうでしたが着いて見ると随分違いますねまあ着いたのが初夏でしたかも知れませんがでも日差しが違いますね随分長いと思ううちに白夜何ですよ日が西に落ちるかと思えばそのまま横にずれるとまた日が昇り始めるんですからこれには参りましたよお陰で寝不足になりましてね」

 そう言いながらも片瀬の視野の端にはおそらく希未子さんの朧気な表情をしっかりと捉えようとするように眼が定まりきれなかった。

「白夜ですかそれは未体験の僕にはなんか得も言われぬもので、例えば京都で憧れる雪国の世界と似てるんでしょうね、アッそれはそうと此の冬はオーロラはどうでした」

「精進が悪いのか現れませんでした」 

 言葉の冒頭は希未子さんへの反省が含まれている錯覚さえ抱いてしまうほど彼の謙虚さが目立つ。それらは全て希未子さんの好印象を与えたくて苦心の行動をしているようだ。彼は千鶴さんと鹿能には良く喋っているが本命の希未子さんとはまだぎこちない。ご機嫌伺の挨拶程度に踏み留まったままでゲートからバス乗り場まで来た。

 そろそろその触手を希未子さんへ伸ばしても良いが、以前と比べると実に控え目に終始している。矢張り希未子さんの好印象を狙っていると受け止めている。それに対して何処まで引き寄せられるか、もし機嫌を損ねても何処までバックアップ機能を働かせるのか、希未子さんは高みの見物ならぬ様子を窺っているのだ。

 こうして片瀬には先ず千鶴さんが、次に鹿能が寄ってきても、希未子は直ぐ傍で話す此の三人とは一線を保ち、会話には参加せずとも遠巻きにして鹿能を見守っている。このままでは希未子さんの出る幕が京都に着くまでないかも知れないがそれはそれで良しとしょう。

 さあみんなバスに乗り始めた。誰がどの席にどう座るか。先に乗り込んだ片瀬が詰めるように窓側に座った。意外にも希未子さんは片瀬が着いた席の隣に座った。これには片瀬が驚いたようだ。残った千鶴さんと鹿能がペアになった。

 久し振りに会ったと云うのに、会話らしい会話をしていない彼女が、窓側に座った片瀬の隣へ何食わぬ顔で座ったからだ。これには他の二人は前日までの策略は何なの、どうなってるのと首を傾げたくなる。希未子さんは片瀬に、海外勤務ご苦労さんと先ずは労っている。

「せっかく呼び戻してくれたのにおじいちゃんの死に目に会えなかったのは残念だったでしょうね」

 あの時は北欧では長い極夜きょくやが忍び寄っていても、まだ気温は下がりきっていなかった。それでも恐ろしいほど日差しは、凄いスピードで遠のいて驚く中で、会長からの帰国の報に接した。帰り着くと日本では余りの日差しの長さに感謝した。それでも夏よりは二時間近く日差しは短くなっているがありがたい。向こうではもう春まで日が昇らず、その暗い日々の前触れのように会長は亡くなった。

「そうか暗い北欧に居た片瀬さんにすれば帰国は一日だけの太陽の恵みだった訳か」

「でも今頃はもう日差しは戻り掛けていますよ一日中暗かったのが昼間だけ南の方が明るくなってきているので。でも寒さは一番厳しい時期ですけれど一足早い光の春ですよ、だからみんなの気持ちはえませんね。それで北欧の人達の希望は矢張り寒さより日差しが伸びる明るさでしょうか」

「そうか片瀬さんは日中も真っ暗な朝のない極夜と謂う世界と、一日中明るい夜のない白夜と謂う世界、この両方を体験してきたんだ」

 白夜では部屋を暗くして眠り、今頃は部屋を明るくして起きていたそうだ。それだけ自然の摂理に逆らって生きる生活に、順応して生きる適応力を養ってきたらしい。

 初めての北欧にしては、心の準備のないまま赴任して、お陰で気持ちはハプニングの連続だった。夜は当たり前にやって来るし、朝は勝手に訪れると思っていたものが、あそこでは夜も朝も区別がなかった。そこでは自分で工夫しないとやって行けないと実感して、初めて知ったこの世界観が、律儀な片瀬の考え方に大きな変化を生じて、面食らっている。それをいち早く希未子は見つけたようだ。

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