第29話 モンマルトルの安酒場

 傍で黙って聞いていた鹿能が興味を示し「俺に似ているというそのパリのモンマルトルって処に居る画家ってどんな人」と訊ねる。

「正確にはモンマルトルにあるテルトル広場ってとこで似顔絵を描いて暮らしているの」

「それだけで生活できるのか」

 最初は絵の留学生として学校でちゃんと習っていたけれど。そこを退学させられてから日本からの仕送りが無くなり。モンマルトルの安酒場で知り合った女給と同棲生活を始めて、今も一緒に暮らしているらしい。

「じゃあその酒場のメイドに養ってもらっているのかい」

「口を濁していたけれど似顔絵だけではやっていけないわね」

「それでその男がモンマルトルに踏み留まる理由は何なんだろう」

「見果てぬ夢を追いかけているって言っていたけれど」

 どこかで聞いた文句だとチラッと希未子さんを窺った。

 その男は人生をどれだけ長生きしても、充実した日々がどれだけ在ったかで、その人が生きた意味が決まるって言っていた。

 これらは千鶴さんが彼に似顔絵を描いてもらいながら色々と聞いたが、勿論そんなに聞ける時間は無かった。その夜に彼のパトロンが勤めている安酒場に三人でお邪魔してそこで聞きだしたのだ。

 仕事を終えた彼に画材と椅子を抱えて案内してもらった。その安酒場は敷石を敷き詰めた中世を思わす細い路地を入った中にあった。一日の労働を終えた労務者が寄り集まって、狭いテーブルやカウンターで呑んでいた。

 彼は女給を遣っている彼女に向かって顎でしゃくって「あたしの人生の全てを掛けてあなたを幸せにしてみせるって言ってくれた女なんだ」と言った。

 それでこの町から抜け出せなくても良いの、日本に帰れなくて良いのかしらって言うと、このモンマルトルの何処が悪いって言われる。

 此処には他では代え難い二人が暮らせるだけの安らぎがあり、ここに居るみんなもそうなんだ。今宵は一杯の安酒のために人生がある連中ばかりが、此処に集まっているんだ。それが不幸と思えるかって聞かれると、あたしと健司はともかく、もがきながら這い上がろうとする、片瀬には何も応える術を持ち合わせていない。

 ここに居ると健司は、あの世界中を放浪した日々が蘇って、労務者たちと益々グラスを重ねてバカッ騒ぎをしていた。しかし片瀬にはもう理解の限界処が二度と踏み込みたくない悪夢に浸ったようだ。夫はいつの間にかあの画家と肩を寄せ合って呑んでいるから始末が悪い。ゴッホやゴーギャン、ルノワールも売れない頃はこんな場末の安酒場でこんな風に明日への生きる意欲を充電して、売れない絵の憂さ晴らしする。その根底に見え隠れするのは、彼らの描く見果てぬ夢に向かって荒野を歩く姿だ。それがこの酒場にはお似合いなのだ。

 此処に居る連中の価値は未来に夢を預けた人にしか解りはしない。そしてその未来に賭ける恋が此処には雑居している。時々画家の恋人はその金髪を靡かせて、彼に甘い瞳を投げつけている。彼女を見ているとルノワールのモデルの女給を想い出してしまう。そう此処はあのムーラン・ド・ラ・ギャレットのダンスホールを凝縮したような喧騒に包まれた安酒場だ。勿論此処に集うのは貴族や上流階級の紳士淑女で無く、下町のその日のかてにも苦労する連中ばかりだ。その中でひとり浮いているのが片瀬だった。

 こんな愉快な旅は後にも先にもこの日しか訪れなかった。いや、あの似顔絵を描いた画家崩れが導いてくれた。もっと厳密に言うなら片瀬任せで無く、千鶴がモンマルトルのテルトル広場で、椅子ひとつ置いて居並ぶ似顔絵描きの中から彼を見つけたからだ。そうでなければこの旅行はありふれた観光に終わっていた。

 問題はあの安酒場での片瀬は、一体人生の何を知ることができたのか。それとも嫌悪感を抱いたまま、あの場を逃れたのか。その答えがもう直ぐ分かると希未子さんは言った。即ち片瀬が今度の週末に帰国してくるからだ。

「連絡があったんですか」

「あたしにでは無くどうやら兄に手紙を寄越したのよそしてその兄がその手紙をあたしに手渡すとお前が迎えに行ってやれなんて言うのよどうかしていると思わない」

「どっちが」

「どっちも、どっちもよ!」

 と希未子は益々苛立ちながら定まらぬ瞳を投げつけている。

「ねえ、千鶴さん、そのモンマルトルの安酒場だけどそこで片瀬はどうしていたの」

 希未子は被虐的な嗤いを浮かべて聞いて来る。どうやらそこでの振る舞いを空港で真っ先に片瀬にっ付けて訊ねるらしい。

 片瀬が店に入ったときの驚きから、それが戸惑いに変わるのに時間は掛からなかった。健司とあたしが画家に続いて直ぐに店に踏み込んでも、片瀬さんは駄々っ子のように躊躇ちゅうちょしていたのが可笑しかった。健司はしょうがねぇって顔していたけれど、あたしが強引に引っ張り込んだの。それで諦めたように店の片隅で女給が作ったカクテルを呑んでいた。片瀬さんは最後までこの店の雰囲気に溶け込めなかった。その片瀬が言った言葉が、みんな狂っているて言ったのよ。

「これはお祭りよ日本のお祭りもみんなこんな風に騒いでいるでしょう」

 と言ったけれど彼は否定した。

「違う此処とは目的が違う日本のは神事だ」

「じゃあ此処のは何なの」

「だから狂気だと言っただろう」

 でもどっちも解け込めなければ一緒よって言ってやったら、そのまま無言で酒をあおっていたのよ。

 あんなあいつの後ろ姿を見たのは初めてだなあって、そしてあたしにそっとしてやれっ言うから、男心は解らんと健司にぼやいて遣った。

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