第28話 モンマルトルの片瀬

 基本的にはワンルームになっているが、マンションと呼べないほど質素な作りだ。入り口から奥に掛けてキッチンとバストイレが有り、そこを抜けると奥が八畳ほどの洋室だ。暖房は炬燵しかなくこれで食卓を始め、全てを賄っている。そこへ三人が座り込んだ。  

 今朝は具合悪くて休ませてもらったのに寝込んでいない。押し掛けた二人は鹿能を見て、これではせっかく見舞いに来ても、何処が悪いのか見当が付かない。鴨鍋が当たったとか聞いたけど、と千鶴さんは心配そうに声を掛けてくれたが、その目は嗤っているようだ。

「あんな物で当たるのならおじいちゃんは何回死んでるか解ったもんじゃ無いわよ」

 希未子きみこさんにまでそう言われると、今度は頭が痛くて本当に寝込みたくなる。布団は押し入れが無いから隅に積んで有る。そのいい加減な鹿能が光彩を放っているのは、矢張り花束の製作だろう。それで千鶴さんは来てくれたが、あの家の居間よりも、遙かに殺風景な部屋に籠もって、あれだけの素晴らしいブーケを作れる環境がこの部屋のどこにもないからだ。

 良くこんな部屋に籠もって、メインに成る胡蝶蘭を一輪だけ色彩豊かに引き立てるために、その周囲に可憐で地味な花を配置する。その感覚が、此処で磨かれるはずは無いともう一度見回している。それに希未子さんが「此処は気持ちをにする処でさっき伺ったあの店で花に囲まれているうちに彼の感覚が研ぎ澄まされてゆく」と千鶴さんに説明していた。

 そうなんだ、とあの店で一つ一つの花と無言で対話して、それぞれの花の特性を引き出して、彼の手元でそれを組み合わせているんだ。

 確かにジッと佇んでいるんでなく、それぞれの花に、このメインの胡蝶蘭をどの花が盛り立ててくれるかを目視して見極めているんだ。これは片瀬さんには絶対に持ち合わせていない豊かな感情なんだ。そう思うと千鶴さんは、次第に瞳を輝かせて、寝ぼけまなこの鹿能の瞳に集中させた。

「希未子さん、あたしこの人を応援する」

 と千鶴さんが一旦決め付けると、だからグズグズしていると片瀬さんは帰って来るわよ、と発破を掛けられた。

「あなたは良い物を持っているのにこんな処でくすぶってる場合じゃあないでしょう立花さんが嘆いているわよ」

「社長はそんなことは無いよあの人はいつも市場の開拓に躍起に成っていて仕事のことは何も言わないよ」

「それだけあなたを信頼しているのよ」

 社長の信頼は腕でなく、これで幾ら稼ぐかその収入を考えて居るんでしょう。まあ経営者なら当然の処置だが。今は社長の人柄から甘んじて受け入れている。

「それは遠回しにあなたの腕を見込んでいる。それであの店が盛り立っている、それを別な処に応用すれば良いだけなんだけれど」

「それは腕で無く此処だなあ」

 と鹿能は自分の頭を指で軽く叩いた。

「それで千鶴さんから向こうでの片瀬の話をしてもらおうと来てもらったの」

 とうとう出番が来たか、と千鶴さんは待機万全で乗り出してくる。

 先ず勤務地の北欧では希未子さんへの目立った言動は無かった。それは慎んでいるのか、また仕事がらみで、それどころではないのかもしれない。それは慣れないあたし達に付いて来てくれるのは良いがまるで新婚旅行なのか、仕事の延長なのか、区別が付かないのも困りものだった。仕事から離れてノンビリと観光気分が味わえるようになったのはパリに来てからかしら。まあそれまでも希未子さんの事は小耳には入っていたけれど、それは健司の妹として話していた。それが北欧を離れると、健司で無くあたしに直接希未子さんの様子を伺い出したけれど、こっちはそれどころではない。それでモンマルトルではあたしの芸術論に片瀬さんは相づちを打つ程度だ。仕事も大事だけれど若い時は人間形成も大事よ。特に良き伴侶を望むならと警鐘したけれど。これには鹿能より希未子さんが「それでどうだったの」と深い関心を示した。

 まあそれ以後は片瀬さんは律儀に朝一番には、モーニングコールしてホテル一階で朝食へ引っ張り出すほどの献身ぶりだ。それほどにあたしたちの世話をしていても、健司が離れると直ぐに希未子さんの様子を聞いて来る。お陰で短い付き合いにしては、かなり片瀬さんと言う人となりが掴めた。

 先ずあの人は営業マンとしては十分ですけれど。仕事を離れたプライベートで、どれだけ相手の身になれるか。営業マンとしての駆け引きより、人としての駆け引きを磨く必要性を求められる。片瀬さんを突くとすれば、その辺りが一番効果てきめんらしい。

「それはあたしも同感だけどこの人にはもっと具体的な助言が必要なのよ」

 と希未子は千鶴に更に詳しい情報を、鹿能に提供するように求める。

 モンマルトルには多くの似顔絵を描いて生計を立てている、主に北アフリカからの移民だけれど。そこに東洋人とおぼしき絵描きが居たの。彼の前に置かれた折り畳み椅子に座ると。片瀬さんが直ぐに英語で頼み込んでいるが、スケッチ帳を持つ男は絵筆を動かさなかった。だからあたしがあなたのような人に描いて貰えれば嬉しいと日本語で喋ると、彼はメルシーマダムと日本語訛りで言うと描き始めてくれたの。その人は雰囲気が鹿能さんに似ていたの。だからかしら、片瀬さんが喋る英語混じりの片言のフランス語に彼は反応しなかったのは。

「片瀬さんは律儀だけどそれは商談をまとめるには良いけれどあの日本人の絵描きには通じなかったのよ」

 どうも片瀬さんはあの絵を描く人を見下して居るのが、相手には受け入られなかった。それはこんな所で難民に混じって一緒に絵で生計を立てるなんて、俺は時には億単位の取引もすると云う自負が、あの人には表に出さなくても見え隠れする。だから片瀬さんはもう少し、人を同じ目線で捉えられないと難しい、と千鶴さんは言っていた。


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