第19話 新婚帰り

 新婚帰りの兄は当然タクシーで家に帰るもんだと思っていたが、希未子は二人を空港バス乗り場に案内した。何だこれはと呟くと十日分の旅行の疲れがそこで一気に噴き出した。兄は愁眉を開くどころか、新妻の顔をじっくり眺めてから、妹に何だこれはともう一度今度はハッキリ聞こえるように、罵声に近い言葉を浴びせた。それでも馬の耳に念仏がごとく、妹は二人を急かしてバスに乗り込ませた。

 四人は通路を挟んで座った。どう言う訳か兄妹は離れて反対の窓側の席に座っている。余程に兄はこの仕打ちが気に入らないのだろうが、妹は当然と云う顔をしていた。困惑したのは通路を挟んで座った鹿能と千鶴さんだろうか。そんな乗客を乗せたままに、空港バスは直ぐに高速道路を何事もなく突っ走りだした。自然と通路を挟んだ二人が、この場をつくろうように喋り始める。

 此処で話題になるのは、矢張り欧州旅行の印象だろうか。それを鹿能が先ず聞き出した。これに千鶴さんが快活に応えてくれる。これで此の場はお通夜にならずに済んだと鹿能は一息吐けた。後は両脇の兄妹が話に乗ってくれれば、迎えに来た甲斐も有ると謂うものだ。それは意外なほど早く訪れた。即ちバスが高速に乗って豊中のインターを過ぎた辺りからだ。

 先ず千鶴さんが片瀬に付いて、あの人は観光案内を買って出てくれたのはありがたいけれど、あたしたちは一生一度の新婚旅行なのよ。それが気の利かないのか全く感じられず、二人ッきりに一度もしてくれなかった。お陰でホテルへ帰ってホッとしたのも束の間。また夜が明ければあの男からかしこまって挨拶されて、朝食から今日の都合を聞かれた。パリで帰国の途に就いてホッとしても、窓からまだあの男が見送っているのよ。

 これには兄が弁護し始めた。俺はともかく妻は初めての異国だ。心細い思いをさせないという彼独特の一流の心遣いなんだ。と一応は片瀬の肩を持った。まあ商談を終えれば帰って来る。そうすればしょっちゅうお前とは顔を合わすかも知れん相手だ。これで良い顔繋ぎが出来たと思えば良いだろう。

「良くないわよこんな新婚旅行なんてもう最低」

 と千鶴さんは言葉とは裏腹に笑っている。それに気を良くしてやっと両端の兄妹も口をほころび始める。

「お兄さん、片瀬さんはどうしてまた国内勤務に戻したのかしら」

「それが亡き会長の最後の伝言だからだ。社長の親父は取り敢えずはそうしたいのだろう」

「じゃあ頃合いを見てまた海外勤務に戻すって事も無きにしもあらずって事とでしょう」

 それは誰も解らないらしい。その鍵を握っているのが、どうも希未子さんらしいのは解る。それを何処までも棚に上げて話を進めるところがどうも胡散臭い。しかし新婚の千鶴さんには新鮮な話に聞こえて、色々と片瀬の処遇に付いては口を挟まれた。お陰で話はかなりあやふやになってくる。これには希未子さんも成り行きをハッキリさせようとする。

「もうおじいちゃんは亡くなったのだからその話がまだ残っているのは可怪おかしいでしょう」

「だが片瀬にすればそうはいかないだろう」

 片瀬は祖父が招いた男であって、この男には孫娘が打って付けだと決めつけている。亡くなった今は、誰がその意思を受け継ごうとするのか。息子である総一郎は、その娘には手を焼いている。残るは兄しかいない。その兄も身を固めて独り立ちすべく、これから動き出す。そんな会社に取っては片瀬は必要な男だった。彼が入り婿になれば兄はどんなにやり安かも知れないと思っているだろう。だがそれに叛旗はんきひるがえして立ち向かってくれ人が、今あたしの隣に居てくれている。そう思えるのは希未子一人かも知れない。鹿能にそれだけの実力が備わっていると、幻想を抱き続けているのは希未子一人だけかも知れない。でも元々恋は幻想なのだ。その思い込みが終生変わらぬまま抱き続けられるかに掛かっている。その理屈からすれば新婚帰りのこの二人は当てはまらないのか。と思う間もなく千鶴は、通路を挟んだ我々からそむけるように窓辺に居る夫に向き直った。健司も車窓から隣り居る妻に向き直して頬を崩している。

 二人はやっと新婚で付きまとわれた片瀬からの呪縛に目覚めたようだ。良かれと思い夫の配慮がこの旅行をその記念に値するものから剥奪していた。ようやく二人は取り戻したようだ。それを確かめるように希未子が鹿能に、これで片瀬の役目は終わったのよ、とそっと耳元で囁かれた時には、彼はその意味を察し切れなかった。ましてその意味さえ聞きただせるものでもなかった。希未子の屹度した瞳が、聞くなと物語っているようだ。今の彼にそれを踏み越える自信が無かったのも確かだが、それでも敢えて彼女の心に添う為に鹿能は訊ねた。

「片瀬はなぜそこまでして新婚の二人に付きまとったのですか」

 冷笑されるかと思いきや、この時に彼女が讃えた微笑は美しかった。

「あの人は誇りを取り戻したのです」

 それはあたしへの恋を今一度取り戻そうとする誇りに他ならない。そんな片瀬を滑稽にも馬鹿馬鹿しいとは想わないまでも、彼女の心には鹿能への強い思い入れがあるらしく、今より一層あたしを大切にして欲しいと鹿能に望んでいるようだ。 

 通路を挟んだ向こうでは、先ほどまでの陰険な空気は一掃されて笑い声さえ漂ってくる。矢張りこの夫婦はどんな状況下でも、自然とりを戻すすべを心得ているのが不思議だ。そこから更に不思議なのは、一体この夫婦は新婚旅行では、片瀬とどんな風な遣り取りをしたのか気になる。

 空港バスは新たな局面を乗せて希未子の家へ向けて走り続けている。

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