君と手を伸ばす星空

織部羽兎

君と手を伸ばす星空

1


 昔から、星空を見上げるのが好きだった。

 他の友達より、空が少しだけ近かったのもあるのだろう。

 夜の澄んだ空気の中で、手をぐっと伸ばして、少しだけ背伸びをする。それを繰り返していればいつか星に手が届きそうな、そんな感じがしていた。

 それは、空が低いと思っていたという意味ではなくて、どちらかというとむしろ、わたしの方がどんどん空へ近づけるような気がしていたからだった。

 何度もやり続ければ、試し続ければ、きっといつかは手が届く。そう信じて、ママに止められてもずっと背伸びをし続けていた。結果的にやめて家へ帰ることになっても、それは諦めた訳じゃなかった。明日の夜こそは、明後日の夜こそは、きっとあのきらきらしたものに触れられるだなんて、そんな根拠のない予感を信じ続けていた。

 それなのに、あれをやらなくなったのは、どれくらい前だったっけ。






 「姉ちゃーん、夕飯だってー」

 「んー」

 部屋のドア越しに呼びかけてきた弟の陽太ようたに、自分でも意味の定かではない返事をする。ベッドにうつ伏せで倒れ込んでいた体をむくりと起こし、眠ってしまっていたかすらどうかよく分からない頭をがりがりと掻く。

 つい4、50分ほど前まで部活で走り回っていた身体はまだずっしりと重く、とっくに乾かしたはずの髪がまだ湿っているような気がした。なんなら一度しっかりと寝てしまいたい気分だったけれど、むりやりベッドから身体を起こす。厚いもやのかかった頭でわたしの部屋を見つめていると、小学校一年生の頃から使っているキツネのコン太の時計が、変わらぬ笑顔で尻尾を振っていた。午後7時前。確かに今寝てしまうと夜は眠れなさそうだ。

 そのまま抗い難い眠気と戦いながら、ぼんやりとベッドに座って周囲を見回した。

 6月の陽は長く、この時間でもまだ夕靄が見えてもおかしくないはずだけれど、窓の外は既に真っ暗だった。そろそろ梅雨が迫りつつある時期、きっと下校時に空を覆っていた雲はまだ晴れていないのだろう。雨こそ降っていないようだったけれど、これじゃあ、星は見えるはずがない。

 「姉ちゃーん?」

 「すぐいくー」

 部屋の外まで届いているかも分からない生返事をしながら、視線を勉強机の方へ移す。そこには、小学生の頃から飾ってある四季の夜空の星座ポスターが貼ってあった。

 学校の理科の授業で科学館へ行ったときにクラス全員に配られたそのポスターを、当時のわたしはたいそう気に入りお母さんに貼ってもらったものだ。対象年齢が対象年齢だから、文字は大きいし、さしたる情報は書かれていないし、ちょっと鬱陶しいくらいにふりがなが振ってある。

 どう考えても、中学生の部屋に貼ってあるものとしては幼稚にすぎる。それでも、わたしは未だにこのポスターを剥がせずにいた。

 まだ好きだから剥がしたくないとか、剥がすのがめんどくさいとか、そういう理由じゃなくて、もっと別の何かが私をそれから遠ざけていた。普段は何とも思わないけれど、こういうときにあれが目に入ると胸の奥がなんだかぞわぞわした。

 そんな感覚から逃げるようにポスターから目を逸らすと、今度はベッドのフレームにぶら下げたネットが視界に入る。中に入っているのは、なんの変哲もない茶色のボールだ。たぶんわたしの学校の体育館に転がっていたら、普通に備品と勘違いして体育倉庫に仕舞ってしまうだろうくらいにはありふれたものに過ぎない。

 けれど今は、それを視界に入れたことを後悔した。

 忘れていたはずの、いや忘れようとしていたはずの何かがこみ上げてきて、わたしは乱暴に頭をぼりぼりと掻いた。

 そのまままた視線を下に下げて、溜め息をつく。まだベッドから立ち上がる気にならないのは、疲れと眠気のせいのはずだ。

 「姉ちゃん! 俺腹減ったんだけど!」

 そんなわたしの感傷を打ち砕くように声が響いた。

 こういう時の陽太はしつこいのだった。






 夕食のメニューはコロッケだった。

 お母さんと健太の間には中濃ソースが置かれているのに対して、わたしの定位置には醤油が置かれている。たまに奇特な目で見られるのだけど、わたしはコロッケには醤油派なのだ。ソースほど衣のさっくりした触感を損なわないので食べやすい。ソースのあの甘みも、わたしはあんまり好きじゃなかった。

 明らかにスーパーの出来合いといった感じのそれを一つぺろりと平らげ、二つ目にも醤油をかけようとしたところで、お母さんが口を開いた。

 「そういえばみーちゃん、明日の夜は本当にいいのね? お母さんは確かに助かるけど……」

 「いいっていいって。わたしもう中一だよ。夕飯ぐらい自分で用意できるから。それより陽太が合宿で悪さしないか見ててやってよ」

 「はぁ!? 俺そんなことしねーし! つか悪さってなんだよ!」

 「んー? なんだろ。盗み食いとか」

 「どこからだよ……」

 明日から小学校は夏休み。陽太の所属しているスポーツ少年団のサッカー部で他校合同の合宿が行われる予定があるのだ。わたしも通っていた小学校だけど、そんなものがあったなんてつゆ知らなかった。参加したかったな。いや、わたしはサッカー部じゃなかったけどさ。

 そして、お母さんは運悪く、そしてわたしにとっては運良くその引率メンバーの一人に選ばれてしまったのだ。最初はわたしがいるからって辞退しようとしたそうだけど、大丈夫だってごり押しした。

 中学生女子にとって、一人でお留守番するチャンスを逃すなんて愚の骨頂といえる。お菓子もジャンクフードも食べ放題だ。深夜番組とか、ちょっとオトナなサイトを見ても叱られることはない。夜中にコンビニとか行ってみたいけど、流石にそこまではしないかな。いやするかも。

 「とりあえず、いくつか冷食は買っておいてあるから。それを暖めるにしろ、食べに出るにしろ、ちゃんと夕食は取ってよね」

 「はふぁっへふー」

 ごはんを口に含んだまま気のない返事を返す。わたしはそんなにお行儀が良くない子である。慣れたのか諦めたのか、お母さんももう咎めてこないし。

 「お風呂はちゃんと洗っといてね」

 「んー」

 「夕飯食べに出ても8時くらいには帰っておきなさいよ」

 「はいはいー」

 「寝る前はちゃんと歯磨きしてよ?」

 「分かってるー」

 その後にも、お母さんは矢継ぎ早にあれをしろ、これをするな、と明日のわたしの生活への注意を確認してくる。心配してくれてるのは分かるんだけど、そうはいっても延々と突っ込まれるのは鬱陶しい。さすが、未だにわたしを「みーちゃん」なんて呼ぶだけはある。幼稚園児かっての。

 流石に話題を逸らしたくなってきたわたしは、とりあえず何も考えずに弟に話題を振った。

 「あ、そだ。陽太は試合出るの?」

 わたしのあまりに雑な振り方に、わたしが実際は全く興味がないことがバレたのか陽太はやや表情を歪ませた。

 「出るよ。DFで。つか昨日言ったろ姉ちゃん」

 あれ。そうだっけ。そりゃバレるわ。

 「ごめんごめん、そうだったね。お姉ちゃん、行けないけど応援してるからねっ」

 「はいはい、応援ありがとね。姉ちゃんさ、普段自分のこと"お姉ちゃん"とか呼ばないだろ」

 気の入ってない返答。だから、その後の台詞も、単に言い返したいというだけの意図だったのだろう。

 そもそも、無自覚にその種を蒔いていたのはわたしだったから、自業自得でしかない。それでも、その言葉はわたしの心をチクリと刺した。

 「そういう姉ちゃんは、バスケでレギュラー取れたのかよ」





 小さい頃は、希望を込めて何度も手を伸ばした高い空。

 今わたしが見上げたそこにあるのは、届かないゴールリングだけだ。

ただ学年の中で二番目に背が高いというだけで、中学に入学してすぐに勧誘されたバスケ部。それまでスポーツなんてまともにやったことなかったし、バスケのルールだって体育の授業で聞きかじった程度しか知らなかったけれど、なんとなく気まぐれで見学に行った先で熱烈なラブコールを受けて流されるまま入部してしまった。

 結果として、たどり着いた場所はほぼ球拾いだった。

 経験者でもなければ熱意もないわたしが入部しても問題ないくらいの弱小部活だったのにも、人員不足過ぎて勧誘期間最終日まで熱心に勧誘を続けていたのにも関わらず、わたしは見事に一年生レギュラーからこぼれた。

 新入部員は全部で6人。一年生だけでチームを作れば当然、誰か一人が必ずこぼれる。その一人になったのがわたしだった。

 やる気なんてなかったはずだったし、レギュラーになるだなんてめんどくさいとすら思っていたのに、レギュラー発表のあの日からわたしの心からもやもやが消えることはない。一時忘れることがあったとしても、こうやってすぐに思い出す。

 じゃあバスケが好きになっていたのか、本当はレギュラーになりたかったのかと自分に問うと、そうでもないような気がする。悔しかったら練習をすればいいだなんてスポーツ漫画では言われそうなシーンだけれど、わたしの部活への熱意はむしろ落ちる一方だった。

 ギリギリで入ってきた新入部員がいなければレギュラーになれていたかもしれないけれど、それもあまり関係ないだろう。

 彼女が何かルールを破って割り込みをしたわけではないのだし、そもそも割り込みをされたからもやもやしているのではない……はずだ。それはもうそういうものだし、私の入部したのだってかなりギリギリだったし。

 つまるところ、わたしはここ最近、原因すら分からない悶々とした気分が抜けずにいたのだった。


 けれどもまぁ、それも本当になにか悶々としている程度の心の動きでしかない。別にわたしはそこで席を立ったり、言葉を失ったりだなんてドラマチックなことをすることもなく、取れるわけないじゃん、と陽太を軽く小突いて食事を続けただけだった。






2


 「じゃあ、本当に大丈夫なのねみーちゃん? ちゃんと戸締まりしてよね」

 「分かってるってばお母さん。それよりちゃんと陽太を監視しててよ」

 次の日の朝、わたしは出かけようとするお母さんの背中を押しながらそう言った。

 「じゃーな姉ちゃん。母ちゃんいない間にえっちいサイト見るなよー」

 「見んわ!」

 扉を出がてら捨て台詞を吐いた陽太のおでこにぺし、と強めのチョップを入れたせいで扉に手を挟みそうになった。あんにゃろ。

 お母さんと陽太が出て行った後の部屋はがらんとして……という感じでもなかった。わたし一人で夜を過ごすというのは初めての経験なのだけれど、別に幼稚園児じゃあるまいし、留守番自体が初めてだなんてことはもちろんない。二人が部屋を出るまでの間は心なしかわくわくしていたようなわたしの胸も、いつの間にか休日のだらだらルーティンとかわらないものになっていた。

 その後はまあ、何をするわけでもなく過ごした。読み溜めていた漫画を読んだり、適当に興味もないYouTuberのメイク動画を漁ったり、TwitterのTLを確認したりと、別にお母さんと陽太がいるときの休日と何ら変わらない過ごし方だ。

 ファンタグレープの500mlペットボトルを一つ空けたところで、自室のカーペットから自分のベッドへと移動した。

 ごろりと仰向けになって再びスマホの漫画アプリを起動すると、最近クラスで話題の少年漫画の最新話が更新されていた。最近はもう惰性で読んでいるだけのそれを読み始めると、頭の数ページで味方キャラが一人死んでいた。それなりの期間出ていた主人公と同格のキャラだったからか、主人公たちは皆揃って泣いていた。熱心に読んでいた漫画だったらわたしも心を動かされていたかもしれなかったけれど、残念ながら今のわたしはどこか冷めた目で彼らを見つめていた。

 別段家族と仲が悪いわけではないけれど、家族と過ごしているときは家族の都合に合わせて生活しなければならないことを鬱陶しく思うことは少なくない。

 けれど、いざこうやって解放されたところで何かが出来るようになるのかというと、よく考えたらそういうようなことは何もなかった。普段からわたしのやりたいことに対してはそんなに口出しをしてこない親だったし、わたしの方も別に親に対してやましいと思うようなことを常日頃からしてみたいと思っているほど不良娘でもないから当然といえば当然だった。

 強いて言うならばお昼前から炭酸を飲みながら板チョコを一枚丸々食べたことはお母さんにバレたらそれなりに何か言われるだろうが、まあ怒られるほどのことでもないはずだ。せいぜい「太っても知らないよ」とかその程度だろう。

 本格的に自由を満喫するなら夜になってからだろうし、お菓子も案外すぐに満足してしまった時分、夜の自由も案外そこまで食指が動かないかもしれない。ただ一人で過ごすことに漫画やネットで見たような憧れがあっただけで、実際にはわたしがやりたいと思ってたことはそんなになかったのかもしれなかった。かといってじゃあ何もしなかったらそれはそれで何となくしこりが胸の中に残る予感がして、自分の優柔不断さに少し自己嫌悪する。

 ともあれ、そんな甘味を楽しんだのも気がつけばもう何時間も前で、時刻は昼下がりに差し掛かりつつあった。少しお腹に空白感を感じ始めていたわたしは、スマホの漫画アプリを切ってベッドから起き上がる。

 代わりにLINEを開いて、同級生で一番よくつるんでいる親友の美輝みきに、『今何してる?』とだけ送った。普段だったら秒を待たずに既読がつく彼女だけれど、今日は珍しく反応が鈍い。

 程なくして、『部活』とだけ返ってきた。美輝は一緒にバスケ部を見学しに行った友達の一人だったけれど、実際に所属したのは吹奏楽部で、今はチューバを吹いているはずだった。そういえばコンテストが近いのだと少し前にクラスで聞いていたのを思い出す。特に大した成績も残していない弱小吹奏楽部だったはずだけれど、それでもコンテスト前には休日練習なんてするんだな、と少し失礼な考えが浮かぶ。普段は割と無断で部活をサボることも少なくない彼女が参加しているあたり、なかなか力が入っているのかもしれない。

 他にも何人かクラスメイトや小学校時代からの友達にLINEを送ってみたが、どれもにべもない返事ばかりだった。誰かと連れ立ってお昼ご飯を取ろうと思っていたけれど、結局全員からその話題を出す前に袖にされてしまった形だ。仕方がないので、わたしは諦めてクローゼットの扉を開く。

 部屋着のその場に脱ぎ捨てると、デニムにメンズのパーカー、キャスケット程度のラフな服装へと着替える。もうほとんど残っていないリップを塗り込むようにむりやり塗って、適当にボディバッグを一つ選ぶとお尻のポケットに財布を突っ込み、わたしは家を出た。ええ、ちゃんと戸締まりもしましたとも。


 外へ出ると、昨晩の雨が嘘のような晴天だった。はちきれんばかりの笑顔を幻視しそうな昼過ぎの太陽が、じりじりとわたしの肌を焦がしていく。日焼け止めを塗るのを忘れていたことに気づいて、慌ててバッグからスティックを取り出して鏡も使わず顔と手足に塗りたくった。

 カーポートの片隅に停めてある自転車は直射日光を浴びていなくても十分すぎるほど熱くなっており、真っ黒なサドルに座るとデニム越しでもお尻が焼ける感じがする。濃い藍色のコイツはわたしが中学校に進学するときに買ってもらったばかりの新品なのだけれど、毎日通学に使ったり友達と買い物に行くのに使ったりしているため、もう真新しさのようなものは失われていた。雨の日に乗ったときに跳ねた泥が乾いてフレームに少し残っていて、既に年期が出始めている。そんな相棒に跨がってわたしは道路へ出た。

 わたしの家があるのは人口三十万程度のそこそこの地方都市だけれど、ありがたいことに新幹線も停まるような大都市がすぐとなりに隣接しているので、街の規模自体はなかなかに大きかった。新興都市である故か道幅も広く、複雑に交差したような道も少ない。何よりも、自転車専用レーンが多いことがわたしのような中高生にはとてもありがたかった。

 暑いことは暑いが、自転車を飛ばせば顔に吹き付けてくる風は心地よい。わたしはショートヘアだけれど、もし髪が長かったらこの風に踊っていたのだろうか。そんなことを考えて脳裏に浮かんだ余りにも爽やかすぎるイメージが、わたしのセルフイメージとかけ離れ過ぎていて、少し一人で吹き出してしまった。街ゆく人には変な風に見られなかっただろうか。

 到着したのは最寄りのスタバで、土曜日だからか既に店内はわたしと同年代くらいの女子中高生たちで溢れかえっていた。窓際には何人かPCを開いてレポートに追われる大学生たちも見える。レジの前にもすごい行列ができていて、軽い溜め息を吐きながら後ろへ並んだ。

 思っていたより列の進みは速かったけれど、それでも10分くらい待ってようやく私の順番が回ってくる。

 並んで待っている間に知ったけれど、どうやら今日は新作のきなこ味のフラペチーノの発売日だったらしい。特にそんなに飲みたい物もなかったので、ハーブチキンのフィローネサンドと併せて私もそのフラペチーノを注文した。

 スマホのSuicaで支払いを済ませて、流されるままにフラペチーノが出来るのとサンドが温まるのを待つ。列に並んでいるのはやはりわたしと同世代の女の子ばかりで、土曜日なのに何故かちらほらとわたしの学校の制服も見えた。


 ……と。

 列の先端でドリンクを受け取っている横顔に、見覚えがあった。

 都幾川ときがわ瑞月みづき

 わたしとは違う5組の子。わたしと同じバスケ部の子。

 日焼けとは無縁そうな白い肌に、筆で書いたような細くも黒々として真っ直ぐな眉。やや色素の薄いセミロングの髪を下ろしているのを見るのは初めてだったけれど、感情の薄い切れ長の目は見間違えようがなかった。

 「都幾川……さん」

 それは、わたしの口から無自覚にこぼれ出たような小さな囁きだった。それなのに、彼女は耳聡くそれに気づいたようで、わたしの方へ振り向いた。

 (あ、空閑 くがさん)

 彼女はたぶんそんな感じのことを呟いたのだろうけど、わたしは唇の動きから推測することしかできなかった。しかも、その薄い唇はそれきり動くことはなく、けれども黒々とした瞳で横目でわたしの方へ視線を向けながら、彼女は順番に従って支払いを済ませた。都幾川さんの反応に困惑しているうちに、まもなくわたしの順番も回ってくる。結局、心ここにあらずという感じでスマホで支払いを済ませた。

 もうとっくに座れる席は残っていないので、都幾川さんもわたしもテイクアウトだった。わたしはすぐ近くにある運動公園のベンチでも食べようと思っているけど、あの子はどうするんだろうな、だなんて思っていたら、彼女はなぜかそのままお店出入り口に立ち尽くしていた。じわじわと列が進む間もずっとこちらを見ていて、なんだか待たせてしまっているようで気が引ける。なんだろう、わたし何か悪いことした?

 結局、待たせてしまっている"よう"ではなく実際にわたしを待っていたようで、わたしが彼女のところへ行くと同時に「どこで食べる?」とでも言いたげな目配せをしてきた。

 正直、気は進まない。

 けれども都幾川さんの提案を突っぱねるほどの理由もなかったわたしは、

 「じゃ、隣の公園で食べよ」

 だなんて提案をしてしまったのだった。




3


 スタバの隣にあるのは、そこそこの規模の市民公園だ。隣というか、スタバの背後もやはり公園なので、どちらかというと公園の一角にスタバが立地しているという方が正しいのかもしれない。

 体育館やトラック、武道場など一通りの運動施設は揃っているここは、地域の中学校の大会でも多くの競技が行われる場所だ。来月頭に控えたわたしたちのバスケ部の試合も、ここの体育館で行われる予定だった。

 そんな市民公園の一角、日常的に解放されているフリースペースの一角のベンチに、わたしと都幾川さんは腰かけていた。

 どういう口を利いたらよいのか分からず、取り敢えず袋からフラペチーノを取り出してストローを差す。すると、都幾川さんもそれに倣ったかのように自分の袋からホワイトモカのカップを取り出してストローを差した。

 無言のまま、二人でストローを啜る。

 燦々と輝く太陽の下、僅かに汗ばむ陽気に喉を通り過ぎる甘い氷片が心地いい。

 けれど、そんなフラペチーノの美味しさとは反対に、わたしたちの間にはどうにも停滞した沈黙が落ちていた。ちらりと横目で都幾川さんの方を見るけれど、彼女はただ黙ってストローを咥えたままだった。本当に、彼女はなぜわたしを誘ったのだろう。




 わたしは、やや都幾川瑞月のことが苦手である。


 彼女に苦手意識を持っている同級生は、少なくとも外見だけであれば、正直な話多いのではないかと思う。陶器のような白い肌、鋭い眼光を湛えた瞳、薄い唇を揃えたびっくりするほどの美人。体型はすらりとしていながらも体幹には強靱なバネがあり、やや低めの身長からは信じられないくらいの跳躍力を持つ。性格はクールで口数も少なく、なんとなくヒョウのような肉食獣を思わせる彼女は、常にどこか近寄りがたいオーラを纏っている。


 けれど、わたしが都幾川さんを苦手に思っている理由はそういった彼女の容姿だけが理由ではない。

 わたしは一年一組で、都幾川さんは一年五組。わたしたちの学校の教室の配置は少し変わっていて、一年三組までは一階に教室があるけれど、四組と五組は二年生と同じ二階にある。だから普段はわざわざ二階に上がらない限り五組の子と顔を合わせることはない。複数クラス合同の授業でも、だいたい一緒になるのは二組だし、美輝たち小学校時代からの友達も三組までにしかいないこともあって、都幾川さんの姿を見かける時間は九分九厘部活の時だった。

 都幾川瑞月は、女子バスケ部の最後の新入部員だ。

 厳密に言えば一年生は全員同時に入部しているから違うのかもしれないけれど、少なくともわたしの認識ではそうだった。

 仮入部が許される期間は、入学してから三週間ほど。わたしが入部を決めたのはその最終日の練習を終えてからで、だからこそわたしが最後だと思っていた。けれど、一年生は参加しないことになっている土曜日の練習の時に都幾川さんは体育館に現れ、そのまま入部を決めたのだという。

 だから、彼女とわたしが初めて顔を合わせたのは、本入部の日当日だった。 

 一番最初の印象は、綺麗な子だな───なんていう、都幾川さんの姿を初めて見た人なら誰だって思うようなありきたりのものだった。見慣れない子だな、とは思ったけれど、わたしもまだ部員の顔は一年生しか覚え切れていなかったし、今まで気にしていなかった先輩の誰かだったかな、だなんて思っていた。

 都幾川さんが一年生だと知ったのは練習が始まる前、新入部員の自己紹介をする段になってわたしの隣に並んだときだった。わたしも含めた他の一年生がみんな、名前の後には好きな芸能人だのスイーツだの、バスケとは関係ない話で自己紹介して先輩に「ちゃんと抱負くらい言えー」なんて茶化されていた中、一番最後だった彼女は、

 「都幾川瑞月です。バスケットボールは経験者なのでお役に立てると思います。宜しくお願いします」

 だなんて簡潔な自己紹介で済ませてしまった。少しの沈黙の後、まばらな拍手がパチパチと起こって、そんな微妙な感じで新入部員の自己紹介は終わりを告げた。

 自己紹介の時点ではそんな風に部から少し浮きそうな雰囲気を漂わせていた彼女だったけれど、むしろ部活には真っ先に馴染んでしまった。なにせ経験者だ。小学校の体育の時間に少しトラベリングがどうのだなんて聞きかじったレベルの知識しかないわたしたちとは訳が違う。それどころか、一年生の中では一応小柄なのに、二年生の先輩の何人かよりも明らかに上手だった。一緒に入部した隣のクラスの晴田さんなどは、ミーハー気質なのか自分の感情を隠そうともせずに素敵! カッコいい! と黄色い声をあげていた。そしてわたしも、そんな彼女のことをどうこう言う資格がないくらいには都幾川さんの姿に惹かれていた。ドリブルで踊る小さなポニーテールも、シュートの時に沈み込む細い足も、とても美しいと思っていた。


 美しいと思うからこそ、苦手だった。


 都幾川さんは容姿が与える印象通りのクールな性格で、私はもちろん別の一年生ともほとんど会話をしなかった。けれど最低限の人付き合いまで避けるほどではないようで、素直な気質と優れた技術、そして何よりその顔立ちの綺麗さを先輩たちは直ぐに気に入ったようだった。わたしと同じ一年生たちも近寄りがたさより好奇心が勝ったようで、あっという間に彼女は部の中心人物となってしまった。

 色白で小柄な彼女が先輩から貰ったお菓子を食べている様子は、まるでうさぎのようだと先輩たちには人気だったけれど、わたしから見ると、しなやかな肉体と鋭いオーラを持つ彼女は、むしろユキヒョウか何かのように見えていた。




 そんな彼女が、今わたしの隣でスコーンを食べている。おそらくチョコレートチャンクだろう黄色と黒の斑模様のそれをわざわざ両手で持って小さな口で齧る姿は、確かに肉食獣というよりは齧歯類のようかもしれない。

 わたしも釣られるようにしてフィローネサンドの封を切った。お店で温められたそれからは、具体的にどれというものかは分からないけれど良いハーブの香りがふわっと漂った。

 「……それ」

 「ひゃっ!?」

 わたしが手元の包みに顔を向けている一瞬の間に、都幾川さんはわたしのすぐ隣にまで距離を詰めていた。既に手元にスコーンはなく、くしゃくしゃになった包み紙が軽く握った彼女の左手から覗いていた。包み紙をのぞき込む彼女の髪からふわりと漂った制汗剤の爽やか香りが、先ほどまでわたしの頭を支配していたハーブの香りを塗り替える。

 「美味しそうだね」

更に都幾川さんが覗き込んでくる。彼女の香りで頭がいっぱいになる。

 「えっあっ」

 制汗剤の香りがするってことは自主練でもしてきた後なのかな、だなんてぼんやり考えていたわたしは、都幾川さんの行動に驚かされるばかりだ。けれども彼女は、そんなわたし自身のことはまるで興味がないかのように手元のフィローネサンドを見つめている。ただ目線を下げてわたしの太股……というかその上に乗っているものを見ているだけだというのに、俯いている彼女の風貌はどこか儚げで、その長い睫にどきりとしてしまう。

 「……食べる?」

 つい、そんな言葉をかけてしまった。けれど彼女は、

 「ううん、ありがと」

 とすぐにひょいと頭を上げてしまった。それでもわたしより頭一つ分は小さい彼女は、すぐ隣でストローを咥える仕草へ戻った。

 なんとなく、そんな彼女の様子を見てしまう。

 もちろん、じっと見つめるわけにはいかないから横目でだけれど。

 確かに、この子は小動物かもしれない。ただし、ウサギではないと思う。彼女へ元から抱いていた肉食獣のような印象は、むしろより強くなっていた。

 なんだろう……テンとかオコジョとか? ネコっぽいし、やっぱりユキヒョウかもしれない。

 そんな取り留めもないことを考えながら、わたしは改めてフィローネサンドにかぶりついた。

 受け取ったときには湯気が立っていたそれはすっかり常温になっていたけれど、汗ばむ陽気にはむしろそれくらいが心地よかった。

 いい香りのする、暖かいのか冷たいのかよく分からないものを、わたしはひたすら咀嚼していた。

 ぱさぱさとした鶏の胸肉は、しつこく口の中に残っていた。




4


 お互い注文したものを食べ終わると、都幾川さんは「じゃあね」とだけ告げて去っていった。スタバの紙袋を持っていない方の手が腰の高さ位まで上がったのは、一応別れのジェスチャーのつもりだったのだろうか。

 一緒に昼食を食べたというのに、わたしと都幾川さんとの間に起こった会話は場所を指定したのと、フィローネサンドについてのやりとりの二回だけだった。わたしに何か用事があったのかもしれないけれど、今更彼女を追いかけて声をかけるほどの衝動はわたしには沸いてこなかった。

 太陽は傾き始めていたけれど暑さはいよいよ激しさを増し、喧しいくらいのアブラゼミの大合唱が頭痛のように頭に響く。普段のわたしならさっさと冷房の効いた屋内へ駆け込んでしまうような蒸し暑さだったのに、何故かこのまま家へ帰ってしまうのは勿体ない気がして、なるべく木陰を狙って公園を散策することにした。

 スタバのすぐ裏にあるのは小さい子供たちのための遊具のコーナーで、木製の大きな滑り台やロープに掴まって移動するジップラインの子供用みたいな遊具が並んでいる。わたしが幼稚園の頃によく遊びに行っていた頃には回転ジャングルジムや籠型のブランコなんかもあったものだが、最近の世間の風潮を反映してかそれらはもう撤去され、敷地はどこか閑散としている。けれどもそんなセンチメンタルな雰囲気になるのはわたしが久々に来たからに過ぎないのだと伝えるかのように、遊具で遊ぶ子供たちは元気いっぱいに楽しそうな声を上げていた。少し離れたところにある屋根付きのベンチコーナーには、そんな子供たちの母親が集まって井戸端会議に花を咲かせていた。

 もうああいう遊具で遊ぶ歳ではないと思っているけれど、いつからそのような気持ちを抱くようになったのか振り返ってみると、そういうプライドのよう何かが生まれたのはそんなに前のことではなかったような気がする。そんなことを考えてしまったからか、楽しそうに遊んでいるあの子たちを見ているだけの自分がどこか惨めな感じがしてきて、わたしは公園の裏手の方へ足早に歩き出した。

 公園の中央を占める雑木林の間の道を抜けた先には、様々なスポーツが出来るフリースペースがある。裏手とはいうものの、こちらの方がスペースは広く取られており、部活の大会を行うような各種施設と並んで、この市民公園はスポーツ公園としての役割を持っているようだった。ラインナップはテニスコート、フットサルコート、そしてバスケットコート。本来は3on3をするためのコートなのだろうけど、何故かコート内にいくつもゴールが増設されているため試合は出来なくなっていて、実質的にフリースローの練習場と化していた。おそらく最初は3on3をやってもらうために作ったのだけれど、その用途で使う利用者が殆どいなかったのだろう。わたしの学校以外も近隣にバスケの強豪校みたいなものはないし、このあたりはバスケ日照りの地域なのかもしれない。

 実際、わたしが通りがかったときにはコートを利用している人は誰もいなかった。隣のテニスコートでは恐らくわたしより年上の高校生の女の子たちが賑やかにラリーをしていたし、フットサルコートの方を見やると社会人チームらしいおじ……お兄さんたちが真剣に試合をしているのにも関わらずだ。

 コートの中央には誰かの忘れ物だろうボールが一つだけ転がっていた。

 賑やかにスポーツを楽しむ人々の声の中で、その空間だけがぽっかりと空いているように見えて、わたしは吸い込まれるようにそちらへ歩を進めていった。昨日の夜帰ってきたときには見たくもなかったあのボールが、けれども今はとても可哀想だった。

 手に取ってくるくると回してみる。名前のようなものは書かれておらず、持ち主が誰かは分からない。ブランドも恐らく一番多く普及しているだろうミカサのもので、珍しさのようなものは何もない。

 わたしたちの部活で斡旋されているボールもこれだった。わたしもボールには名前を書いたりはしていないし、外見だけではわたしのボールと見分けがつかない。

 もちろん、本物のわたしのボールは今でも家のベッドの柱に引っかけてあるはずで、これがわたしのものであるはずがない。

 それでも。

 なぜか、このボールは他人のものであるような気がしなかった。




 何の気まぐれか、わたしはボールをひょいとゴールの方へ投げた。およそシュートなどとは呼べない、本当にただ「投げた」としか表現できないそれは、当然のようにゴールリングへ届くはずもなく地面へ落ちた。

 ボールがバウンドする。落ち方の角度の問題なのか、それはわたしの方へ戻ってきて、わたしの足にぶつかって止まった。

 もう一度、投げた。もちろん届かない。むしろ、さっきより酷かった。方向すらめちゃくちゃで、そもそも高さが足りていない。けれど、落ち方だけは完璧だったのか、バウンドしたボールはまたわたしの足下へと転がってくる。

 ボディバッグにスタバの紙袋を入れ、地面に置いた。

 代わりにもう一度ボールを拾い上げる。

 両手で構えてゴールリングへ投げた。今度はシュートの動きのはずだ。膝を曲げて、屈伸に合わせてボールを両手から放つ。

 それでも、届かなかった。ボールは緩い放物線を描いて地面へ落ちた。そしてバウンドして、跳ねて。


 やはり、わたしの足下へ戻ってくる。

 やめて。わたしに縋ってこないで。わたしにまとわりつかないで。

 もう一度シュートを打つ。今度こそ、リングへ届け。そう願ってボールを引き剥がす。届かない。落ちて戻ってきて、またしてもボールはわたしに拾われようとする。わたしを屈ませようとする。拾われようとする。それを拒絶するように、わたしはまたボールを投げた。やっぱり、高さが足りなかった。届かない。今度は、ボールは明後日の方向へ転がっていった。戻ってきはしなかった。けれど、わたしはボールを拾いに行く。

 視界の端に、恐らくこのボールを入れるためのネットが落ちているのが見えた。これも忘れ物だろう。

 でもそんなものは無視して、わたしはボールを拾い上げた。

 もう一度シュートを打つ。それでもボールは届かない。

 なんでだろう。なんでわたしはこんなに躍起になっているのだろう。

 そんな疑問が一瞬心をよぎったけれど、そんな思いは一瞬で嵐のような衝動に塗りつぶされる。

 なんで。なんでわたしのボールは届かない。

 バスケに熱意なんてなかったはずなのに。やる気なんてなかったはずなのに。

 否、今もそんなものはない。バスケットボールなんて楽しくもない。上手く行きたいとも思っていない。別に選手になんてなりたくない。補欠でも悔しくなんてない。例えば明後日に顧問の先生から理不尽な退部勧告のようなものを出されたとして、特に反論もなく受け入れてしまいそうな気持ちは今も変わらない。やめる理由がないからやめないだけ。誘われて入って、一応シューズやボールも買って貰ったけれどそれも先輩に勧められたもので。練習よりもその帰り道に友達や先輩と買い食いしながら帰る方が楽しいし、何かの理由で部活が潰れると嬉しいし。だから、部活は楽しくてもバスケへの熱意なんてなかった。

 ただ。

 ただ、今このボールが届かないのがとてつもなく嫌だ。

 このボールを引き剥がしてしまいたい。

 わたしの届かない場所までこのボールを飛ばしてしまいたいんだ。

 シュートを放つ。届け、届け、離れろ、出ていけ。わたしに近づかないで。わたしに拾わせないで。わたしに下を向かせないで。

 なんとなくで始まったわたしの気まぐれは、今や完全にシュート練習になっていた。今度こそ。今度こそ。何度も繰り返し投げるけれど、ボールはネットをかすめることすらしない。額から伝った汗か眼に入って痛い。左腕で汗を拭って、もう一度。それでも届かなくて、また汗が眼に入って、わたしの目頭には涙が滲んだ。微妙に動きを変えて、何度でも試してみる。足下に落としていたボディバッグは自分でも無自覚なうちにベンチの方へ移してあった。だぼっとして動きづらいメンズのパーカーも脱いで、下に着ていたノースリーブ一枚になって、またシュートを打つ。やっぱり届かない。足の広げ方、手の角度、力加減、タイミング……そういったものを、最初は意識していたけれど、今はもう、ただボールを投げるだけになっていた。最初に気まぐれで投げた一投よりも、フォームは酷いものになっているかもしれない。それでも、わたしはボールを放り続けた。

 このボールをあのリングに届けることを諦めるのは嫌だ。それだけは絶対に。深いきっかけはない。ただの衝動だ。関係ない。




 あのネットに、都幾川瑞月の名前が書いてあったことなんて、関係ない。




 不意に、ぐらりと視界が揺らいだ。

 視界の周囲に黒い雲が蠢いている。足に力が入らないし、腕が上がらない。それになんだか酷く暑い。ボールを拾いたいのに拾えなくて、手からボールが零れて転がっていく。そんなの嫌だ。諦めてたまるか。でも、どうしても身体の自由がきかない。世界がぐらぐらと揺れて、台地が空になる。

 そういえば、今日の最高気温は37℃を越えるって、朝のニュースで言ってたっけ。

 ああ、熱中症か。初めてなるなあ、熱中症。へぇ、熱中症ってこんな感じだったんだ。

 熱中症になるまで頑張っても、わたしはシュート一つ決められないのか。

 届かないんだな。都幾川さんには。


 あそこにネットがあったということは、コートにボールが落ちていたということは。

 あの時、彼女の髪から、ふわりと制汗剤の香りがしたということは。

 彼女は午前中、ここで練習をしていたのだ。試合の練習は出来ない構造だから、恐らくわたしと同じシュート練習を、都幾川さんはしていた。彼女も汗をたっぷりかいて、それをおそらくは体育館の更衣室で着替えて、お昼にスタバを食べに来たのだろう。

 都幾川さんは何回ゴールを決めたのだろう。きっと10は軽く越えているはずだ。だっていつもの練習で、都幾川さんのシュートは百発百中だから。

 なのに、わたしのシュートは一本も届かないんだ。これだけ繰り返して、汗にまみれて、波を食いしばっても、届かなかった。

 そう思うと抑えようのない惨めな感情がわき上がってきて。

 ボールの方へ伸ばしていたわたしの手は、ぱたりと落ちた。

 そして、わたしは意識を手放した。


 最後にわたしの視界に映ったのは、わたしから離れるように転がっていく都幾川さんのボールだった。







5


 「……ぉ……ぃ」

 どこか遠くから声がする。

 「さ……がに…………てよ」

 その声は甘くて、けれどもどこか涼やかで。

 喩えるならば、レモン味のシャーベットのような。

 「あ……もう、あ………がしび……て」

 そんな声につられるように、わたしはゆっくりと目を開いた。

 そこにあったのは、酷く綺麗な黒曜石の瞳で。

 つまるところ、その少女はわたしの顔を至近距離で覗き込んでいた。

 「えっ……!? なっ……ときっ!?」

 慌てて身体を起こそうとして、ごつんという酷い音と共に目の前に星が踊った。一度覚醒したはずの頭が再びクラクラして落ちて、何か柔らかいクッションのようなものに受け止められる。

 でもその程度で済んだわたしはまだマシな方で、わたしより遙かに体格で劣る額をぶつけた相手は、その勢いのまま地面へ倒れ込み、背中まで強かに打ってしまっていた。

 「うぅ……あ痛ったぁ……」

 左手を後ろ手で身体を支えながら、右手で額を擦って彼女は上体を持ち上げる。下半身を動かすことがなかったのは、そもそも今彼女は下半身を動かせないからだ。

 そこに、わたしが乗っているから。わたしを、膝枕していてくれたから。

 「ご、ごめんっ。でも、どうして」

 「もう、いきなりご挨拶だなぁ空閑さん。看病してあげたあたしへのお礼が頭突きとは」

 からかっているのか愚痴っているのか分からないような口調で、都幾川さんはわたしにそう笑いかけた。





 「お家に着いてからさ、あーボール忘れてきたわーとか思って公園戻ったら空閑さん倒れてるし。そりゃびっくりするよ」

 スマホを開いたら既に時間は17時半近くなっていた。夏至を控えた西空は梅雨明け宣言を迎えていないのが嘘かのように雲一つなく、鮮やかな赤に染まった夕陽が、ところどころペンキのはげた白いベンチを自分と同じ色に染め上げている。わたしの隣に都幾川さんの白い頬も同じようにお日様の光の色を映していて、どこか上気しているような風に見えていた。

 「だから急いでそこの『きよフー』、あ、スーパーね。そこで氷貰ってきて冷やしてさ」

 いつも部活で見ている時と変わらない淡々とした語り口だけれど、少し早口かもしれない。そういえば都幾川さんが動揺をしているところを見たことがなかったけれど、部活仲間が倒れているのを発見したようなときには流石に少しは慌てることもあるらしい。

 「あ、嫌じゃなきゃこっちも飲んで」

 都幾川さんが傍らに置いたリュックサックからイオンウォーターを取り出してわたしの方へ投げてきた。さっきOS-1を飲ませてもらったこともあって今は気分はすっきりしているけれど、既に宙に浮いていたペットボトルを拒否するわけにもいかず、わたしはそれを受け取った。都幾川さんのリュックは山岳用かと思うほど大きくてゴツいもので、小柄な彼女のイメージとはかけ離れている。

 フタは既に開けてあったようで、大した力をかける必要もなく開栓することが出来た。というか、これ飲みかけだ。正確に覚えているわけじゃないけれど、満タンのペットボトルと比べると2割くらいは内容量が減っている気がする。いいのかな、と思い都幾川さんの方に目を向けるけれど、彼女は小さく首をかしげると「どうぞ」というようなジェスチャーをしただけだった。じゃあ遠慮なく、と清涼飲料水を喉へ流し込む。日中の陽気の中も持ち歩いていたのかぬるいどころか温かいと呼んでもいいような温度のそれは、どこか人肌に近い温度のように感じられた。

 わたしは結構身体の強い子供だったけれど、それでも小学校低学年の頃には何度か風邪を引いて寝込んだことがある。そんな時、お母さんはよく飲みやすいようポカリスエットを薄めて、温めて飲ませてくれた。今わたしの喉を駆けるイオンウォーターは、あの時の記憶を想起させた。

 「空閑さんも練習しに来てたんだね。部で練習のない日もわざわざ練習する子なんて他にいなかったから、なんだか嬉しい」

 「あ、うん。そんな感じ」

 歯切れの悪い返答をするわたしの様子に気づいた風もなく、地面に届かない足をぶらぶらと動かしている。

 「何人か連絡先交換してた子や先輩は誘ったんだけどね。みんな断られちゃった」

 まあ、そりゃあそうだろう。わたしだって別に練習する気でここに来たわけじゃないし。

 「そういえば空閑さんの連絡先、まだもらってないね。LINEはやってるよね?」

 「やってるよ。ただ……その、わたしもそんなに頻繁に練習に来るってわけじゃない……かな」

 「いいっていいって。はやくー」

 そんな感じでなし崩し的にLINEのIDを交換し終わると、都幾川さんはお昼を食べたときのように無言に戻った。けれど立ち去るようなこともなく、二人で夕陽を眺める。夏の日は長いけれど、それでも後数時間もすれば完全に沈むだろう。お日様が沈んだら、夜が来る。こんなに雲一つないいい天気なんだ、今晩は星が見られるかもしれない。夜の空を覆う星々。少し気が早いけれど、天の川や織姫や彦星も見えるはずだ。

 その星には、届かないけれど。




 そんなことをぼんやりと思っていたときだった。

 わたしの服の裾が、何かに引っ張られるような感じがした。つられてそちらを見ると、引っ張っていたのは都幾川さんだった。いつものクールな様子とは少し違っていて、目線が合わない。やや俯き気味な彼女の顔色は、夕陽に染め上げられていてはっきり見えない。

 「あのさ、よかったらだけど」

 そこでようやく、都幾川さんと目が合った。黒々とした瞳に揺れる感情を、わたしは読み取れない。

 「あたし……手伝ってあげよっか。フリースローの練習」






6


 「あ、違う違う。そうじゃなくて、腰はもっと落とした方がいいよ。せっかく空閑さんは足が長いんだし、バネを使わないと勿体ないって」

 普段は言葉少なに会話するだけで、ミステリアスな印象のある都幾川さんだったけれど、その指示はわたしには適切だった。

 「ボールが手を離れたらそれで終わりと思っちゃダメ。フォロースルーっていうんだけど。フリースローはボールがゴールに入るかどうかを見届けて初めて終わるんだ」

 情けないことだけど、そもそもフリースローがどういうシュートのことを指すのかもよく分かっていなかった程度のわたしに、彼女は手取り足取り指示してくれる。

 「ちゃんとゴール見てる? ボールを見ながらじゃなくて、届けるゴールの方を見ないと軌道がブレるよ」

 時には、わたしに手を添えてくれることすらあった。都幾川さんの腕は細くてひんやりと柔らかく、こんな細腕があんなにゴールをもぎ取っているとはとても思えなかった。でもその指先はしっかりと硬くて、積み重ねた練習の成果があのプレーなのだと理解した。

 「うん、やっぱり腕に力が入りすぎてる。ずっとフルパワーで腕を動かすんじゃ案外ボールって飛ばないんだ」

 フォームの説明をするときは、言葉だけじゃなくて実際に実演をして見せてくれた。わたしより頭一つ分以上小さい都幾川さんのボールは、当然のようにゴールリングの中央を撃ち抜いてネットを揺らした。わたしへ実演するときも適当に投げることはなく、その綺麗な顔には真剣な光が灯っていた。

 「こうやって……こう。わかるかな。力を抜くんだ。だらっとするわけじゃなくて……うん、そんな感じ」

 そうして、二人の練習は続いた。日は更に暮れていって、私たちを照らす光も、赤から紫へと移り変わる。

 「そうそう、手首の返しはいいんじゃない。さっきも言ったけど、逆回転がしっかりかかるとボールの飛距離は伸びるんだ」

 何度も何度も、繰り返し投げる。それはさっきの練習の焼き回しのようで、けれども決定的に違っていた。隣の小さなコーチのおかげで、わたしのフリースローは少しずつ改善してゆく。

 外れたけれど、ゴールの横はかすめた。高さは足りなかったけれど、ネットには当てることができた。

 距離は足りなかったけれど、ゴールの高さには届いた。

 一歩ずつ、一歩ずつ。がむしゃらじゃなくて、やけくそでもなくて、僅かでも改善していることがよく分かるから続けられる。

 でも、それだけじゃない。

 もし、この改善がそれがわたしが一人で勝手に感じていることでしかなかったら、"結果的にはゴールには届いていない"という実情が少しずつわたしの心に流れ込んできて、自らの感覚を疑ってしまっていたかもしれない。どこかでそんな疑念に前向きな気持ちは侵食されて、さっきみたいにまた途中から投げやりになってしまっていたかもしれない。

 けれど、わたしの隣には小さなコーチがいるから。

 「うん、いい感じ。よくなったじゃん、少しだけだけど」

 「あー……いや、今のは少し後退かも」

 「さっき教えたこと、疎かになってる。同時にやらないとダメ」

 ……結構、言葉は辛辣なものも多かったけど。

  それでも、都幾川さんはわたしを見放したりしなかった。

 「おおっ、もう少しじゃん」

 「惜しいね。もう少し右だった」

 「高さは足りてる。後は飛距離だね。もう少し手首のスナップ意識してみるといいかも」

 そうやって、練習を繰り返していく。わたしの失敗も成長も、全部都幾川さんが見ていてくれるから、わたしは安心して練習に目を向けることができる。失敗したら失敗だとはっきり言ってくれて、教えてくれたことを実践できたらゴール自体には届かなくても褒めてくれる。そのバランスが心地よくて、その感覚が嬉しくて、都幾川さんに喜んで欲しくなる。

 入部以降で、友達とのおしゃべりでもなく、帰り道の買い食いでもなく、ここまで純粋にバスケットボールの練習を楽しいと思ったのは、今日が初めてだった。




 がこん、という音と共にゴールリングにわたしのボールが弾かれるのを見るのも慣れてきた頃だった。いつものように鮮やかにリバウンドをキャッチした都幾川さんが、何故かボールを投げ返すことなく立ち止まった。どうしたのだろうと思って彼女を見つめるけれど、都幾川さんは上を見上げたまま動かない。そして彼女はボールを小脇に抱え直すと、ゆっくりと左手を上へ、空へと向けた。

 「空閑さん」

 その声はどこか高揚して、踊るような響きを称えていて。

 「星が」

 つられて見上げた空には、星が見え始めていた。

 もしかして、と思ってわたしの部屋の星座のポスターをを思い出す。わたしの一番好きな星。あの星はどこだろう。伝説も好きで、星座も好きで、名前も好き。

 こと座α星。ベガは。

 織姫星はどこにあるのだろう。




 「――――――――――――――あっ」





 果たしてその星は、わたしの真正面。

 ゴールリングの真上に輝いていた。





 「都幾川さん、ボールちょうだい」

 「あ、うん、ごめんね。ほいっ」

 軽い言葉と共に投げられたボールを受け取る。そして、宣言した。




 「わたし、次は決められる気がする」




 幼い頃に憧れた輝き。

 届きたかった星。

 いつまでも背伸びしていたわたし。

 きっと届くと信じて諦めなかった。

 夜に外へ出かけたときにはいつも手を伸ばしていたのに、いつからかやめてしまった。

 届かないのだと、どこかで悟ってしまったから。

 今は知っている。あの星々はキロメートルなんて単位じゃ測れないほど遙か彼方に輝いていて、決して届くはずのないものなのだと。

 だから、手を伸ばしても無駄なのだと。

 でも。今のわたしなら届かせられるものがある。




 あのゴールリングは、わたしの星だ。

 あそこになら届かせられる。

 何度も練習した。

 一日だけだけれど、それでも必死に練習した。




 何より、都幾川さんが見ていてくれるなら。




 見据えるのはわたしの"星"。

 足のバネをしっかりと使って。

 力を入れすぎず。

 投げた後の軌道を意識して。

 手を、伸ばす。

 手首を返して。

 ボールがわたしから離れても、その届く場所を見据える。

 わたしのボール。そして、都幾川さんのボールは。

 綺麗な放物線を描いて。

 ゴールリングの中央へ吸い込まれていった。








 気がつけば、都幾川さんがわたしを抱きしめていた。

 やったね。やったね空閑さん。

 そんな言葉をずっと繰り返しながら。

 彼女は涙を流していた。







7


 二人で抱き合って感動の渦に呑み込まれてから数分後。

 わたしたちは同時に我に返り、急に近しい距離感で抱き合っていたことに気づいて赤面した。コーチをしていた都幾川さんもかすかに汗ばんではいたけれど、日中に汗だくになって練習して倒れた後、着替えることもなく練習してさらに汗をかいたわたしはその比ではあるまい。彼女にわたしの汗の臭いを嗅がれてしまってはいないだろうか、私の汗だくの体が気持ち悪いと思ってはいないだろうか。そんなことを気にしてしまう。

 わたしが星を掴む手伝いをしてくれた頼もしくも小さなコーチは、まだわたしからほど近いところにいた。陶磁の肌を真っ赤に染めて、クールな彼女らしからぬ羞恥の表情を浮かべて目を逸らしている。すでに初夏の太陽はビルの谷間へと姿を消し、僅かな黄昏の残光と降るような星の光が、彼女の汗ばんだ肌をキラキラと輝かせていた。

 ……さて、どうしたものか。

 「……とりあえず、座ろっか」

 「……そうだね。空閑さんも疲れてるだろうし」

 何かを取り繕うような雰囲気を出しながら、わたしたちは自分の荷物を置いたベンチへと移動した。

 ベンチの隣に座ると、都幾川さんが自分のバッグから乾いたタオルを渡してくれた。いくら初夏だとはいえ、夜にここまでびしょ濡れのままで立ち尽くしていては風邪をひいてしまう。タオルをありがたく受け取って顔をぬぐうと、都幾川さんと同じ匂いがした。そのまま腕や足、失礼してお腹のあたりまで汗を拭きとる。

 「ありがとう。月曜日、部活の時に洗って返すから」

 「いいのに。別にあたしは気にしないんだけど」

 「…………わたしが気にする」

 「あっ、そうだよね。ごめんっ」

 会話があまり続かない。このまましばらく沈黙が落ちるとではないかと思ったその時。

 「実を言うとね」

 都幾川さんがおもむろに口を開いた。




 「あたし、空閑さんのことちょっと邪険にしてたところあるんだ」

 驚きはしなかった。わたしも何となくだけど察していたのだろうと思う。部活動の時、都幾川さんがわたしとあまり会話をしなかったのは、単にわたしのほうが苦手意識を持っていたこととか、都幾川さんがクールな性格であることとかだけでは説明できないような溝があったのを察していた。彼女は確かに自分から積極的にいろいろと話すタイプではないけれど、むしろ部活の中心人物といっていい存在だった。最初の自己紹介こそ簡素だったけれど、基本的にふざけてばかりいるうちの部活の中で、本当に愛想のない子が溶け込めるはずがなかったのだ。

 先輩が冗談を言えば都幾川さんは笑っていたし、晴田さんのような友達に真顔で冗談を言って、ツッコミを入れられている場面も見たことがあった。

 それなのに、わたしと都幾川さんの間に合った会話はほとんど事務的なものばかりで、部活に直接関係ない会話といえば、下手をしたら今日のお昼でのスタバの前が初めてだったかもしれないくらいだったから。

 「……幻滅した?」

 「ん? 別に。言われてみればって感じ」

 少し誤魔化してみたけれど、まあ確信があったわけでもないし、嘘でもないだろう。

 「あのさ、理由、聞きたい?」

 「どっちでもいいかなー」

 「空閑さんの意地悪。あたしの方が話さないと落ち着かないことはわかってるくせに」

 「じゃあどうぞ」

 「興味なさそうな反応だなぁ」

 「実際ないし」

 「言ってくれるねぇ……」

 突き放すようだけど、わたしとしてはあんまりギスギスさせたくなかった。興味がない、というか気にしていなかったのは気づいていない時点でその通りだし、こういう案件であまり相手を問いただしたりするほうが、むしろ事態は拗れる気がする。気に病んでいるほうが話したいように話して、相手はそれをまるっと受け入れる。ここまでそんなに長く生きてきたわけじゃないけれど、そういう解決法が一番あとくされがないのだと、わたしは経験則で思っていた。

 「空閑さんさ、背が高いじゃん」

 「169あるからね。クラス二位」

 「えっ、それで二位!? じゃあ一位は……ってそれは宮田くんか」

 「そそ。女子では一位なんだよねわたし」

 ぐい、と胸を張る。どこに目を向けていたのか、都幾川さんはわたしから目をそらした。

 「そ、それでさ。あたし146センチしかないの。小学校一年の時からバスケやってるのに全然伸びんくてさ」

 少し、都幾川さんの声が沈んだ気がした。

 「転校生……っていうのはちょっと違うのかもしれないけど、あたし中学入る直前まで別の町に住んでてさ。あっちは結構バスケが盛んだったんだよね。あたしもバスケ好きだったし、学校のスポーツ少年団に入ってミニバスやってたんだけど……年齢が上がるほど成績が伸び悩んじゃって」

 都幾川さんは傍らに置いてあった自分のボールへ手を伸ばすと、人差し指の上で回転させ始めた。器用なものだと思う。わたしには絶対できない。

 「今のNBAだとスリーポイントどれだけ取るかみたいなのが重要になってきてるらしくてさ、あんまり身長は重要視されなくなってきてるみたいだけど、もちろんそんなの上澄み中の上澄みの話でさ。結局学校のチームの中じゃそこまでテクニックで差がつかなかったこともあって、身長こそ全てみたいになっちゃってさ。こっちじゃみんな初心者が多いから期待のルーキーみたいに持て囃されてるけど、小学校じゃ落ちこぼれだったんだよねあたし。っとと」

 そんな彼女の言葉に呼応するようにボールのバランスが崩れて、指先からボールが落ちようとした。けれども都幾川さんは慌てることなくそれをキャッチして、胸元に抱え込んだ。

 「だからさ。こっちの部活で初めて顔合わせになった時、最初に見つけたの、あんただったんだよね」

 都幾川さんがはにかんだ。

 「すごい背の高い子がいるーって、すごく羨ましくて。ずっと向こうじゃ背の高い子に追い抜かれてばかりだったから、八つ当たりみたいな気持ちが起こっちゃった。話しかけるだけで嫉妬の気持ちが沸き上がりそうで、これあんまり話しかけないほうがいいだろうなって。そうやって避けてたら、あたしの周りにばっかり人が集まるようになっちゃって、一人だけまともに会話したことがない相手みたいになっちゃってさ」

 はにかみに自嘲の色が混じる。ボールごと両膝を抱え込むようにして、都幾川さんは丸くなった。

 わたしは黙って聞いていた。わたし自身はあんまり得をした経験はないし、かわいくないからこの身長はあまり好きではないのだけど、友達からうらやましがられることは多かったし、あまりそういうことは言わないようにしていた。都幾川さんに対しても、それを伝えることは良策ではないだろうし。黙って聞いて、全部受け止める。それが彼女の気持ちの整理には一番だと思った。

 けれど、彼女の次の言葉を聞いて、わたしは面食らった。

 「でも、ここ最近はあたし、空閑さんに謝らなきゃいけないって思ってて」

 「えっ、謝る?」

 「……そう、謝らないとって」

 「なして?」

 変な訛りまで出るほどわたしは面食らっていた。

 わたしが都幾川さんに苦手意識を抱いていたことは事実だけれど、それはわたしの側から一方的に彼女が美人だとか雰囲気が近寄りがたいと思っていたからで、彼女のほうの態度によるものではなかったと思う。だから、邪険にしていたこと自体を懺悔して謝りたいと思ったという話ならともかく、彼女の口調はそれとは別件のようだったのもあって、わたしは困惑してしまう。

 都幾川さんは体を丸めたまま、見上げるようにわたしを見た。

 「後から入ったわたしがいなければ、レギュラーに入れたよねって」

 「……ああー」

 「ぅぅ、反応薄いじゃん……」

 都幾川さんはいっそう体を丸めてしまう。

 でも、わたしはこう返した。

 「だってわたし、それそのものはそんなに気にしてなかったし」

 そう。レギュラーになれなかったことを、わたしは気にしていなかった。それは最初から思っていた通りで、いま改めて考え直しても、バスケットボールそのものへの熱意にうそをついていたというようなことはないとはっきり言える。別にスポーツそのものにやる気はあんまりないし、うまくなりたいというような感情も大して強くない。

 「で、でも! 空閑さんレギュラー発表の後から明らかに浮かない顔してて、あたしもバスケ続けるかどうか悩んだ結果の入部でギリギリだったし! しかもそんな子から邪険に扱われてて、それでみんなと一緒にプレイする邪魔にもなっちゃって! 空閑さんが落ち込んじゃってるのはあたしのせいだって……そう悩んでたところで偶然お昼に空閑さん見かけたから……。でもそんなことどう切り出していいかわからなくて、結局黙って帰っちゃって! だから……」

 だけれど、今ならわかる。

 わたしのもやもやした気持ち。

 レギュラー発表のあの日から、私の気持ちが晴れなかった理由。

 「わたしがなんか落ち着かなかったのはさ」

 そして、いま私の気持ちが晴れ晴れとしている理由は。




 「都幾川さんと一緒にバスケやれないってなったからだと思うんだ」

 「えっ……」




 そう、あの気持ちもまた憧憬だったのだ。

 毎日の練習で、コートを鮮烈に舞う小柄なシルエット。自分よりも背の高い先輩たちの隙間を縫ってゆく鮮やかなドリブル。チームメイトへの適切なパス。

 そして、鮮やかなロングシュート。

 あの子は、都幾川さんは、今も星に手を伸ばしていた。

 自分の小柄さに負けない動きに憧れた。ハンディキャップを覆すほどの努力に憧れた。

 たとえその努力が、前の小学校では実っていなかったとしても、彼女は努力を続けていたのだろう。あの頃は実情を知らなかったけれど、それでも彼女が努力を重ねていたことを、私はいつの間にか感じ取っていたのだ。

 いつしか手を伸ばさなくなったわたしと、努力を怠ることのなかった都幾川さん。その違いが、わたしに憧れと嫉妬を抱かせて、それは苦手意識という形でわたしの態度に表出した。レギュラーと補欠という形で、彼女が遠くへ行ってしまうことが、私には直面しづらかったのだと思う。

 手を伸ばしても届かないものに、私は手を伸ばし続けられなくなっていたから。




 都幾川さんもまた、わたしにとっての"星"だった。




 「でも、あたし、空閑さんに冷たくして」

 「さっき言ったでしょ。それは別に気にしてなかったって」

 どんなに夜空の星に焦がれたところで星の方がわたしへ微笑んでくれないのは当然のことだ。そんなことで私の憧れは消えたりしない。星は勝手に輝くだけ。その光に手を伸ばし続けるか、それとも諦めるかは憧れたものが決めることでしかない。

 そこまで考えたところで、漸くわたしはお昼過ぎにわたしを熱中症にまで追い込んだ、あの衝動の意味を理解した。

 わたしは、あの時コートに転がっていたあのボールが、都幾川さんのものなのではないかと、見かけたときにはすでに察してしまっていた。そしてネットに書かれた名前を見て、それは確信へ変わってしまった。決して届かないとすら思える憧れの存在の、そのすぐそばにあるべきものを掴んでしまったこと。それを認識してしまったことが、ボールにすら嫉妬してしまったことが、きっとあの耐え難い衝動の正体だったのだ。

 わたしは近づけないのに、諦めてしまったのに、あのボールはいつも彼女の練習に寄り添っていたのだと理解してしまったから。だから、それを投げ続けた。憧れたものに届くように、わたしだって届かせられるのだと、躍起になってしまったのだ。


 けれど。

 「どっちかと言うと、わたしはむしろ感謝してるんだ」

 ゴールを決めた後に、都幾川さんを抱きしめた時のあの感覚を思い出す。

 都幾川さんは私の腕の中にすっぽりと収まるほど小さくて。

 あたたかくて、やわらかくて、いい匂いがして。

 それは、子供のころに星を掴んだらきっとこんな感じだと、想像していた何かにそっくりだったから。

 「都幾川さんと練習できて、もやもやしてた気持ちはすっきりしたから。あなたと練習できて嬉しかった。楽しかった」

 丸くなってボールを抱え込んでいた都幾川さんの手を取る。ボールが彼女の手から離れて転がっていったが、わたしは彼女の手を掴んで離さない。

 都幾川さんもまた、ボールではなくわたしの方を見ていた。

 ざまあみろ。今、都幾川さんに一番近いのは、お前じゃなくてわたしなんだぞ。

 そんなことを考えながら、わたしは彼女のもう片方の手も自分の手で包み込んだ。

 「ありがとう、都幾川さん」

 都幾川さんの身体がびくりと震えた。けれど、その表情はすぐに零れるような笑顔に変わる。

 「ううん、あたしこそ今まで冷たくしてごめんね」

 そう言う彼女の顔は、それこそ星のように輝いていて。

 都幾川さんってこんな顔もするんだ、なんて。

 でもその嬉しさを素直に伝えるのもなんだか違うような気がして、わたしは少し意地悪な笑みを浮かべる。

 「もう、気にしてないって何度言えばわかってくれるの」

 「わかった。じゃああたしももう言わない。一度言ってあたしもすっきりしたし」

 うん、そういう感じのことを言うと思った。なので、わたしは用意していた言葉を返す。

 「それ、謝った相手の前で言うことかな?」

 そんな軽口を叩ける関係がいつの間にか生まれていたことが、何よりも嬉しかった。

 もしかしたら、ゴールを決められたことよりも断然嬉しかったかもしれない。

 「空閑さんったら、またそうやって梯子外す……」

 都幾川さんが視線を逸らす。

 わたしの憧れた星が、すぐ隣にいて、少し唇を尖らせて拗ねている。

 その様子が、我慢できないほど愛らしくて。

 もう、苦手意識を持っていたころのような、肉食獣のような少女は隣にはいなかった。

 そこにいるのは都幾川さんというという少女で、わたしの部活仲間で、わたしのバスケットボールのコーチで。

 そして。

 「あのさ空閑さん……。こんなことを聞くのって変かもしれないけど」

 「うん」

 「これからさ、下の名前で呼んでいいかな」

 恥じらいながらもわたしの目を見てくる、そんな の問いかけに対する返答は、一つしかなかった。





 「もちろん。これからよろしくね、瑞月」

 「ありがとう。こちらこそよろしく、美星みほし




 いよいよ空からは太陽の残光も消えて、街は夜の帳に包まれていく。

 ふたりで見上げた空には、降るような美しい星々が輝いていた。






空閑 美星(くが・みほし)

12月6日生まれ。O型。

身長170cm。

好きなものはチョコレートと炭酸飲料。

苦手なものはミミズ。


都幾川 瑞月(ときがわ・みづき)

4月2日生まれ。B型。

身長146cm。

好きなものはミルクコーヒーとビスケット。

苦手なものはクモ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君と手を伸ばす星空 織部羽兎 @Chiaroscuro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ