乙女の怒り

 森川の敬礼にため息をつきつつ、オレはロッドケースを開いて今日の準備を始めた。

 二.七メートルの延べ竿を取り出し、タックルボックスから選び出した仕掛けをそれにセットする。それから黄色と赤の球形のウキを取り付け、ウキ下を調節すればいっちょあがりだ。

 組み上がった竿を、森川にグリップを向けて差し出す。

「師匠が使ってたのと違うっすね……」

 両手で捧げるようなしぐさでそれを受け取った森川が、ボソッとそう呟いた。

 生意気な、と思うより前に、森川の観察眼と記憶力に感心した。コイツ、初めて会った時にオレが手にしていたタックルを覚えてるんだ。

「あれはルアーのタックルだからな。今日は、お前にはエサ釣りをやってもらう」

「エサ!!!?」

 いきなりすっとんきょうな声を出すんじゃねえ。

 いやいや、違うよ。別に、お前にエサをやろうってんじゃないよ。そんなに喜ぶなよ。

 けれど森川のヤツ、別に喜んでいるワケじゃないらしく、眉をひそめておそるおそるといったてい身体からだを震わせている。

「エサってもしかして……、め、さんとかっすか?」

「ああ、まあそうな。残念ながら、お前のエサじゃねえけどな。ゴメンな?」

 そう告げたとたん、森川の顔から表情が消えた。身体からだの震えもピタリと止まる。

「残念でもないし、あやまる必要もないっす」

 かつて聞いたことのないほど低い、その森川の声の調子に気を取られていた。それゆえ、脇に引きつけられた森川の右拳に気がついたのは、それが自分の胸板むないたに突き立てられた時だった。


 ドゴッッッ!!!


 その鈍い音は、空気を震わせるというよりは、まるでオレの身体からだの中でしたように感じた。

「うぐおぉぉぉ!!!?」

 思わず胸もとを押さえて後ろによろめくオレ。

 森川が、一歩ずいと踏み出して開いたオレとの距離を詰める。

「な、なにしやが……!」

 抗議の声をあげるも、呼吸が乱れて最後まで言い終えることができない。

 残念でも、謝る必要もないことで正拳を喰らわされるとは。しかも利き腕がわの……。

「女の子にむかって『エサ』とかありえないっす……。しかも、それがさんとか……!」

 握り締められた拳が、絞り出される言葉に合わせてプルプル震えていた。

 ああ、なるほど。プライドをないがしろにされた乙女の怒りってワケか? まあ、それに対する反応はゼンゼン乙女じゃなかったけどな。

「お前だって、人が川の水飲もうとしてたとか思ってたろうが! しかもそんなことでいきなり胸板むないたに正拳って……」

「『そんなこと』とか言ってると、もう一発お見舞いするっすよ? 今度は三十パーセントくらいの力加減で」

 言うと同時に、今度は左の拳を脇に引きつけやがった。

「ちょっと待てよ!『今度は三十パーセント』って、さっきのは何パーセントだったんだよ?」

「十五パーセントくらいっす」

「十五パーセントであの威力!?」

 何だよ、この巨乳人間兵器は!? 百パーなら間違いなく相手が死ぬぞ。相手がオレなら、二十パーでも十分死ぬぞ。

「待て、落ち着け。オレを殺す気か?」

「三十パーセントくらいじゃ死なないっすよ。まあ、胸骨きょうこつが砕けて、肺に刺さるくらいはするかも知れないっすが……」

「いっそ死んだ方がマシっぽい!?」

 心底怖気おぞけが走った。骨が砕けるだの、肺に刺さるだのと静かに語る女子高生とかイヤすぎる。

「ご安心を。師匠が万一身罷みまかられるようなことがあれば、弟子の務めとして直ちに後を追うっす」

「そんな黒い服従はいらねえよ!」

 ていうか、服従すんならまず前提として殺すなよ。

「あ、そうだ……。そういやお前、仮にも『師匠』とか呼ぶ相手に正拳喰らわすとか、それってどうなの?」

「…………はっ!?」

 オレが口にしたそのしごく根本的な問いかけに、森川がぐわっと目を見開いた。

「ご……」

 ゴクリ、と喉をならし、ふたたび身体からだをプルプルと震わせ始める巨乳人間兵器。次の瞬間、巨乳人間兵器が巨乳人間拡声器に変わった。

「ご無礼をおぉぉぉ!!! 師匠、大変なご無礼をおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

 この時の森川の声ときたら、高架の基礎のコンクリや鉄筋を震わせ、確かに共鳴現象を起こしていた。後になってこの話を誰かにすると、決まってウソつき呼ばわりされたもんだけどな。

 それから森川はパッと一、二歩後ろに下がり、一面に生い茂る雑草の上に正座した。雑草の上に。

「どんな罰でも甘んじて受けるっす。何とぞ破門だけは……。破門だけはお許しをおぉぉぉ!」

 目はウルウルと潤み、唇はワナワナ、縮こまらせた身体からだはプルプルしている。

 どうやら殺される危険は回避できたらしい。危険を回避できたところで満足すればよかったものを、悪いクセでもうちょっとコイツをいじってみたくなった。

「どんな罰でも受ける……?」

 口もとをにやっと歪めて、意地悪い感じでそう言ってみる。

「は、はい……。破門以外は。あ、あと、さんを食べる以外は……」

 意外と注文多いな、このやろう。

「じゃあ……」

 言いかけてから、色々なことが頭をグルグルとめぐる。

 女の子に「なんでも言うことをきく」なんて言われたら、オトコとしてはそりゃもう、ありとあらゆる妄想が浮かんでは消えるってもんだ。けれどここで調子に乗ったら、また我を忘れた森川に今度こそ胸骨きょうこつを砕かれかねない。

「……まあいいや。罰はあらためて考えとく」

 安全確保を最優先として、当たり障りのない選択をする。

 それでも森川の方は見るからにホッとした様子だ。

「ご寛大なお沙汰、いたみいりまするぅ……」

「いや『あらためて考えとく』だけだからね? 一時保留なダケだからね?」

 無罪放免と思うなよ。いずれ恥辱に身悶えするような罰を与えてやる。

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