疲労蓄積道中譚

「でっぶじゃっないー♪ でっぶじゃっないー♪ でっ、でっ、でっ、でっ、でっぶじゃっないー♪」

 後方から、そんな歌が聴こえてくる。

 聴きようによっては新興宗教の経文きょうもんみたいに聴こえる歌が。しかも、毎朝ため息をつきながらヘルスメーターとにらめっこをしているような人が耳にしたら、とハラハラするような歌詞だ。

 いったい、どんだけ「デブじゃない」評価が嬉しかったんだ……。

「おい……」

 自転車をこぐ脚を止め、肩越しに後ろを振り返った。

「やめとけ、その歌」

「オ、オッス! ……な、なぜっすか?」

 オレに追突するギリギリのところで自転車を停止させた森川が、戸惑いの若干混じる笑顔でそう答えた。もっともその言葉の前半は、森川の錆びたママチャリのブレーキがたてる、絞め殺される羊の声みたいな音にさえぎられてよく聞き取れなかったんだが。

「なぜっすかって……。まず第一にバカだと思われんだろ。第二に、ある種の人たちにケンカ売ることにもなりかねない」

「ある種の人たち……。あ、おデブさんたちっすか!?」

「おい。言うなよ、そういうこと。カワイく言えば何でも許されるってもんじゃねえぞ」

 ホントによ。言い方次第で許されるなら、お前にも「おバカな子猫ちゃん。そういう歌をおそとで歌っちゃダメですよ~」とか言っちゃうぞ、オレ。

「……すいませんでしたっす。以後気をつけるっす」

 今日の目的地に移動する道すがら、なぜだかご機嫌な森川は、さっきの調子っぱずれな歌を終始かなりのボリュームで口ずさんでいた。いや、口ずさむなんてレベルじゃなく、一杯かげんの酔っぱらいくらいのイキオイで歌いあげていた。こいつ、絶対音楽の成績「1」だぜ、と思わせる歌唱力で。

「もうすぐ着く。黙って後ろついてこい」

 そう言って、再びペダルを漕ぐ脚に力を込めた。森川もコクリと頷いてそれに従う。

 森川と初めて出会った場所で彼女と落ち合った後、オレはこの巨乳お花畑娘を連れて、あらかじめ当たりをつけておいた釣り場へ移動する途中だった。

「ここじゃダメなんすか?」

 場所の移動を告げた時、森川はさも不思議そうにそう言った。

 実際、ルアーならあの場所でもよかった。だが、森川はまったくの釣り未経験者だ。ゼロベースから、いきなりルアーフィッシングは荷が重い。まずはエサ釣りで基本から……。そう思ったオレは、周りに田んぼや畑が点在するようなあたりまで川を遡ってきていたのだ。

 出発してからここまで三十分弱。

 胡乱うろんな歌をがなりたてる、ジャージ姿の音痴な女子高生と同行するには十分すぎる時間と言っていい。

 目指していた国道のバイパスが目に入り、この苦痛の道のりが残りわずかとなったことを感じると、なぜだか急に疲れがドッと押し寄せてきた。

 帰りてえよ、もう。

 まだ何もしてねえけどな。




「ヒンヤリしてるっすね」

 キョロキョロ周りを見渡しながら森川が感想を漏らす。

 それはそうだろう。ここは高架になった国道バイパスの下を川がくぐるように交差している地点。ほぼ一日、高架が作る影に覆われているため、体感気温は常に他の場所より低い。

 森川と初めて会ったあの場所から川を上流にさかのぼった地点だが、ここの周囲は雑木林や田畑がほとんどで、川の両岸も藪に覆われているようなところだった。

「今日はここでやるぞ」

 そう森川に声をかけながら、自転車に積んだタックルを下ろす。

「あ、師匠。道具なら私が……!」

 森川が慌てたふうにサビたママチャリ、略してサマチャリから降りようとする。

「そんなことはいいから、それより……」

 足もとに気をつけろ、とオレが続けるより早く、森川が舗装されていない砂利道の小石で軸にしていた左足を滑らせた。

「いや……っ!」

 知り合ってから初めて耳にするような殊勝げな声だ。

 その声につられたワケじゃないが、サマチャリごと左に倒れ込みそうになる森川の上腕をオレはとっさにつかんだ。


 かる……。


 瞬間、口の中でそんな言葉が空回りした。

 軽い。意外なほど。

 森川は上背こそないが、見た目の印象としてはそこそこズシッときそうなイメージがあった。特に胸のあたりのせいで。

 だが実際にその身体からだを受け止めたオレの右手には、驚くほど頼りなげな手応えしか返ってこなかった。

 やっぱり、コイツも一応は女の子なんだな。そんな口には出せない思いが頭の中に浮かぶ。

「そらみろ」

 森川が自分の体重を自ら支えなおしたのを確認してから、つかんだ腕をそっと離した。

「す、すいませんっす」

 照れ隠しなのか、ポリポリ頭をかきながらペロッと舌を出す森川。

「余計な気を回さなくていいから、足もとに気をつけろ。これから川岸に降りるけど、草に隠れた石とかゴロゴロあるからな。コケたら大ケガすんぞ」

 オレ達が今いるのは、川を見下ろすちょっとした土手の上を走る農道だった。ここから川岸に降りるのには、雑草に覆われた急な斜面を下らなければならない。しかもその雑草の陰には、かなりの大きさのゴロタ石が高確率で隠れているのだ。

 下りの斜面で足を取られるだけでもかなり危険なことなのに、倒れた先に運悪く大きな石でもあったりしたら……。

「チョロチョロしないで、オレがたどるルートをゆっくりついてこい。足もとを確認しながら、ゆっくりだぞ」

 オレはタックルボックスのストラップをたすきにかけ、ロッドケースをつかみながら森川に釘をさした。

 森川も今のでりたのか、黙ってうなづくと敬礼のしぐさを返してきた。

 大丈夫かな? オレの経験上、敬礼のしぐさをするヤツって、八十パーセントくらいの確率でやらかすんだけどな。

 不安をおし殺して、オレは土手の斜面にできた釣り人たちの通り道にゆっくりと踏み入った。シーズンの盛りなら、頻繁に人が行き来するために雑草も踏みしめられてハッキリ見えるこのルートも、まだ春になったばかりの時期では消えかけてしまっている。

 記憶をたどりながらゴロタ石の多い部分をよけて慎重に進むせいで、カメようなペースにならざるを得ない。だが、このカメペースの理由はそれだけじゃなかった。

 後ろをついてくる森川が、オレのパーカーの裾をきゅっとまんでいたからだ。

 人生、経験してみないと分からないことというものがある。女の子に服の裾をそっとままれるというのもその一つらしく、なんだかヘンにこそばゆい心持ちがした。

 なんとかコケることなく無事に河原にたどり着くと、森川がやっとオレのパーカーから手を離した。その口から、ふうっ、と安堵のため息が洩れる。

 森川の手から解放されたオレは、一通り川面かわもを見渡してから岸辺に歩み寄った。揺らめく水面にそっと手を差し入れると、ヒンヤリした冷たさが肌に伝わってくる。

 よし、よかった。水量も水温もまずまずだ。

「……あの、師匠?」

 フィールドコンディションを確かめて少しホッとしているところに、背後から気遣わしげな声をかけられた。いぶかしんでしゃがんだ姿勢のまま振り向くと、ステンレスボトルを手にした森川と目が合う。

「もし喉が渇いていらっしゃるなら、川の水じゃなくてコレを……」

 おい待て。コイツ、もしかしてオレが渇きに耐えかねて川の水を飲もうとしてたと思ってる? オレ、どんだけ野生児?

「カッパかよ、オレは……」

 ちょっとゲンナリして、思わずそう呟いた。

「違うから。別に川の水飲もうとかしてねえから。ちょっと水温を確かめてたダケだから」

「水温を……?」

「そ、水温。今年は暖かくなるの遅かったから、ここら辺の水温はどうかみてたんだよ」

「おお……!」

 オレの言葉を聞いた森川が、まるで日本がワールドカップで優勝したというニュースでも聞いたみたいに目を丸くする。

「さすが師匠! いかにも上級者っぽいお振る舞いっす……」

 さすがは森川。いかにもバカっぽい反応だ。

「感心してねえでちゃんと覚えとけ。いずれはそういうことも必要なんだってな」

「オッス! 了解しましたっす!!!」

 そう元気な声で応じながら、森川はふたたびあのやらかし率八十パーセントの敬礼をしてみせた。

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