廻り出した歯車、しばしば止まる

「なあ、どうした。何があった。何か悩みでもあるんなら、聞くくらいはできるぞ」

 土曜、朝八時。

 正確には八時を十数分過ぎている。

「オッス。いや、これはっすね……」

 森川はこの日、オレとの約束にちょっとばかり遅れて姿を現した。

 自分でもそんなに心の狭いほうじゃないと思う。

 女の子が待ち合わせにちょっと遅れてやってくる。そんなことは世界中で一日に何万件と起きているだろうありふれた出来事で、わざわざ目くじら立てるほどのことじゃない。

 けれど、森川が姿を見せた瞬間にオレには彼女の遅刻の理由が一目で分かったし、遅刻したことよりその理由の方が問題だった。

「や、やっぱりヘンっすかね?」

「ああ。多分、お前が思ってるのとは別の意味でな」

 手を後ろに組んで上目遣いにオレを見る森川に、我知らず抑揚よくようのない言葉が出る。

「オマエ、そんなシックでフォーマルな釣り人をどこかで見たことがあるのか?」

 ブラウス。

 真っ白な立ち衿フリルのブラウス。

 下は膝丈よりちょっと短めの黒いプリーツスカートだ。

 高校生がこんなカッコで錆びたママチャリに乗ってきたんだから、ここまでさぞかし人目を引いたに違いない。

「オッス、すいませんっす。これ、実は母がっすね……」

「お母さんが?」

「オッス。母が『殿方のお誘いで外出するなら、それなりの服装を』と申しまして」

「外出って、オマエ……」

 まあ確かに、外出といえば外出だ。

 アウトドアという点では、これ以上ない文字通りの外出とすら言える。

 だが……。

「行き先、ちゃんとお母さんに言ったのか? いくら何でも、その格好で釣りはねえだろ。映画見に行くとか、遊園地や水族館に行くとかじゃねえんだから」

 いや、もしそうだとしても高校生としては頑張りすぎな気がする。これじゃあ、そのままホテルの最上階ラウンジに行ったって違和感ねえだろ。

「それともなに。オマエ、誰か男と出かけるたびにそんな格好してんの?」

「オッス! 初めてであります!」

 急にハキハキとした口調に変わって、森川が声を張る。

 口調の変化の理由は釈然としないが、とりあえずちょっとホッとした。

 さすがのコイツも、そこまでブッ飛んではいなかったらしい。

「だよな。毎回そんな格好で来られても、男のほうがどん引くわ……」

「いえ。殿方とどこかに行くのが、そもそも初めてであります!」

 そっちかよ……。

 まあ、これだけズレてると周りの男どもも手をこまねくんだろうけどな。

 見た目はかなりイイ線いってるだけに、彼らのジレンマというか歯がゆさが想像できてちょっと笑える。

「まあ、ステキな服なのは分かるけど、今日の目的には合わん。それくらい分かんだろ? オマエんち、ここからどれくらいだ?」

 そう問いかけるも、森川はなぜか返事をしない。

 どしたん? と様子をうかがうと、さっきまでのキリッとした顔から一転、戸惑ったような表情で目を泳がせていた。しかも指先でブラウスのフリルをしきりにいじくりながら、口許をモニョモニョさせている。

「お・い、も・り・か・わ!」

「オ、オッス! なんでしょうか、師匠!」

 一音ごとに区切ってドスを利かせたら、ようやく現実に戻って来やがった。

「なんでしょうかじゃねえ。オマエんち、ここからどれくらいだっていてんだ」

「オッス。自転車で五、六分くらいっす」

「よし。じゃあ三十分だ。一度家に帰って、着替えて三十分でここに戻ってこい」

「オッス! 了解しましたっす。それで、どんな服に着替えればよろしいっすか?」

 釣りに行くときの服装。

 動きやすくて肌の露出が少なく、汚れても大丈夫な服。

 こいつの家なら空手の道着とかありそうだが、それはさすがにあんまりか? しかし、どんなと言われてもそう一口には……。

「……ジャージでいい」

「ジャージ?」

「ジャージだ。学校で体育のとき着てんのとかあんだろ。急げ!」

「オッス! 行ってまいります」

 オレの一喝に、森川が弾かれたように自転車に乗って走り出した。

 この上、服装についての指示とか面倒すぎる。もう汚れるのが前提のジャージで十分だ。

 あとは、それに森川母のコーディネートが加わらないことを祈ろう。




 十七分。

 森川が着替えて戻るまでの所要時間だ。

 三十分以内に戻れというオレの指示を大きく下回る実績。

 森川がこの実績を残すためにどれほどの労力をいたかは一目瞭然だった。

 スッゲェ汗。

 まだ四月の中旬。風もヒンヤリしているというのに、まるで真夏の炎天下でフルマラソンでもしてきたかのような有り様だ。おそらくフルスロットルでペダルをこいできたに違いない。

「大丈夫か、お前?」

 思わず本気でそう口にした。

 森川は髪をベッタリと汗で濡れた頬に貼り付かせ、ゼエゼエと肩で息をしている。あまりに息が乱れて声が出ないのか、コクコクと首だけで返事をした。

 うん、分かった。

 ゼンゼン大丈夫じゃないことが分かった。

 まったく、要領の悪いヤツ。三十分と言われたら、リミットを目一杯使えばいいものを。

 ライトグリーンの地に白いラインが入ったデザインのジャージが、汗を吸った部分だけ暗い色に変色している。

 上着のファスナーは途中まで引き上げられているが、二つのバレーボール大の物体に接触したところで進行を妨げられていた。そこから無理に引き上げたりしたら、生地が張り裂けるんじゃないかという危惧きぐを抱かせる光景だ。

 ジャージ、新しいの買った方がよくないか……。

「オッス。……でもこれ、入学してすぐに買って、まだ新しいんっすが……」

 そう困ったような声で森川に言われてはじめて、ポッと頭に浮かんだ感想が、実際に言葉となって口から漏れていたらしいことに気づいた。

 焦った。なかば強制的に心の声を言葉に変換して引き出すとは、なんて破壊力満点の光景。

「ああ、うん。だよな。そうだよな」

 そういやこいつ、一年生だったっけ。そりゃ買ったばかりに決まってる。

「……なんか変っすか、師匠?」

 お、おい、まてよ。なんでそんな泣きそうな顔すんだよ。

「い、いや! ヘンとかじゃなくてさ。さ、サイズがさ? ちょっとさ? あ、あのさ……、なんて言うの? ちょっと……。そ、そう! ちょっと小さくね? みたいなさ!!!」

「で、でも、この上のサイズだと丈が……」

 開いた自分の胸もとに目を落としながら、消え入るような声でそう言う森川。

 だから、そんな泣きそうな顔をするんじゃねえよ!

「すいませんッス。デブですいませんッス……」

「いや、デブってお前……。もしかしてそれ、本気で言ってる?」

「だって、丈がピッタリで前が閉まらないってことは、つまりそういうことじゃないっすかぁ!」

 とうとう爆発しやがった。こいつ的には、かなりコンプレックスだったんだろうな、この件。

「い、いやすまん。なんか……、スマン。だけどそれ、デブだからじゃないからな? 断じて違うからな?」

 オレは恐る恐る森川の胸もとを指差しながらフォローを入れた。

 そう。お前の場合、ジャージの前が閉まらないその要因を「デブ」とは表現しない。少なくとも一般的には。

「……デブだからじゃない?」

 キッとばかりに振り向けられたその目がコワイ。

「じゃあ、なんでっすか? なんでクラスで私だけ、ジャージの前が閉まらないんっすか?」

「いや、なんでってそりゃお前……」

 後につなぐべき言葉をどんなオブラートで包もうかと逡巡するものの、森川のつらぬくような視線がオレにそのいとまを与えてくれない。

「き……」

 いいのか? これ、女の子に面と向かって言っちゃっても。

「……き、きょにゅ……」

 そこまで言いかけたところで、森川の抱える特殊事情を説明するための言い回しが突然頭に浮かんだ。まさに神の啓示だ。


「と、とにかく、お前はデブじゃないの! 途中まででもファスナーが上がるのがその証拠! デブだったら、ウエスト周りからしてヤバイはずだろ!?」

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