そして歯車は廻り出す

「オッス、師匠。なんか、すいませんでしたっす」

 後ろを自転車を押しながらついてくる森川の声が沈んでいる。どうやらさっきの騒ぎを気にしているらしい。

 周囲からの刺さるような視線をかいくぐりつつ森川を連れて正門を出た後、オレは自転車をこぐ気力すらなくしてトボトボと家路をたどった。

「私、なんかタイミング悪かったみたいっすね?」

 うん。タイミングが悪かったかと言えば、悪かった。

 実際、最悪だった。

 なんなら、そのタイミング自体永久に来なければよかったなー、と思わなくもなかった。

 だが、そのことで森川を非難するワケにはいかない。

 最初に会った時、コイツのバレーボール大の巨乳に目が眩んで釣りの指導を引き受けたのは他ならぬこのオレだ。コイツに好きな男がいると分かってやる気をがれたにも関わらず、はっきりと断らなかったのもこのオレだ。

 となればやはり、さっきのコントめいた一幕の責はオレに帰するべきなんだろう。義貴のご乱心は別にして。

 どこをどう歩いたか、気づけばオレたち二人はこの前の川の護岸にさしかかっていた。特にここに来ようとしていたわけではないのに、習慣のなせる技だろうか。

 二日前、釣りをしていたその場所につくと、オレは自転車を道の脇に寄せてスタンドを立てた。

 森川も黙ったままそれに従う。

 何気なくポケットに突っ込んだ右手が偶然何枚かの小銭を探り当て、オレは反射的に背後の自販機を振り返った。

 まず自分用に微糖のコーヒーを買い、続けて百円玉を二枚投入してから森川に場所を譲る。

 ところが森川、オレのこの行動の意味が分からなかったらしい。キョトンとした顔で、オレと全ての商品のスイッチが点灯した自販機に交互に目をやった。

 早くせい。硬貨が戻ってきちまうだろが。

 ちょっと不機嫌な顔になって、自販機に向かってアゴをしゃくる。

 それを見た森川がはっとしたように目を見開いて、ててっと自販機にかけ寄った。それからちょっと迷うように人差し指をさまよわせ、「えいっ」と声に出しながらあったか~い紅茶のスイッチをさも嬉しそうに押す。

「オッス! 師匠、ごっちゃんです!」

 弾むようなお礼の一言とともに、お釣りの七十円が差し出された。

 オレは黙ったまま小銭を受け取ると、ため息を一つついて缶コーヒーのプルタブを起こした。

 そのどんよりとした空気を敏感に察知したらしい。

 森川はちょっと体を縮こまらせて、上目遣いにオレの顔を覗き込んだ。

「……師匠」

 背後から吹きつけた風が、森川の囁くような声を川面へと運び去る。

「やっぱり、ご迷惑だったすか?」

 グビリと飲み下したコーヒーが、間違えてブラックを買ったのかと疑うほどに苦かった。

 迷惑か……。

 迷惑なことなら、この世でいくらでも起きている。年度末の予算帳尻合わせ工事で迂回させられたり、発電所火災で電車が止まったり。

 家やコンビニに車が突っ込んでくるなんて事件もあるし、なんなら日本海の向こうじゃ、ナメコ頭の太った独裁者がミサイル打つぞとわめいてるしな。

 だけど、森川の依頼をこれらと同列に置けるかと言えばそれは疑問だ。

「この前……」

 学校の正門を出てから初めて発せられたオレの言葉に、森川がピクンと身体を震わせる。

「部活に入るために釣りを覚えたいって言ってたな?」

「オ、オッス!」

「その部活、未経験者は入部できないのか?」

「いえ、そんなことはないっすが、ただ……」

 慌ててクビを横に振りながらオレの質問を否定する森川だったが、言葉の末尾を少し濁らせた。

「ただ?」

「まったくの未経験者が入部して、先輩にご迷惑をおかけするのも心苦しくて……」

 ほう。どうやらコイツなりの、憧れの先輩とやらに対する遠慮というか、気配りのようなものがあるらしい。

 その気配りがこっちには向かないのかと思わないでもないが、さっきの様子からするに、オレに迷惑をかけているかもという気後れみたいなものはあるみたいだ。

「他に釣りを教えてくれそうな人はいなかったのか? お父さんとか、親戚の叔父さんとか」

「オッス。父は釣りはしないっす。叔父さんたちも、釣りが趣味だって話は聞いたことがないっすね」

 ムムムと腕組みしながら唸っていた森川が、突然ポンと手を叩いた。

「あ、そう言えば道場の沖縄出身のお弟子さんが一人、手銛ヤスを使って素潜りで魚を取ってたって言ってたっす」

「ああ、うん。それは多分、ガチの海人うみんちゅさんだね。きっと部活では役に立たないから忘れていいぞ」

「オ、オッス……」

 はあ。結局この調子じゃ、オレがやるしかなさそうだ。

 まあ基本的なことだけチョチョイと教えて、コイツを部活に押し込んだら万事終了。多少の時間は取られるし面倒くさいが、さっさとすませてお役御免になるのがいいかもしれん。

「分かった。明後日の土曜、朝八時にここに来い」

 残ったコーヒーを一息にあおり、自販機脇のゴミ箱に空き缶を放り込む。

 森川はといえば、ポケッとした顔でそんなオレを見つめていた。

「……どうした?」

「い、いえ。オッス! 了解いたしましたっすぅ!!!」

 不審げに振り返ったオレに、森川が自衛隊員みたいなビシッとした敬礼を返す。

 それから急にトイレに行きたいのをガマンするような仕草を見せ、ぽしょぽしょと言いにくそうに口を開いた。

「そ、それで師匠……」

「なんだ?」

「あ、あの……。お、お月謝はいかほどっすか?」

「オゲッシャ?」

 思いもしなかった言葉を聞いたせいで、思わず忍法オウム返しが出た。

「オッス。ご指導いただく対価というか、指導料です」

「……」

 何を言っとるんだ、コイツは。

 オレの「ザ・シロウト釣り教室」で金なんか取れるか。後で詐欺だのなんだのと騒がれでもしたら、それこそ面倒なことになる。コイツのプロフィールからしたら、問答無用で正拳が飛んでくる可能性まである。

「い、いや。別に金をとる気はないけど」

「そういうワケにはいかないっす!!!」

 両拳を握りしめた森川がずいと詰め寄ってきた。

「父にもきつく言われてるっす。先達せんだつに教えを乞う以上、しかるべき指導料をお納めするようにと!」

 何なの。

 お前の親父さん、面倒くさすぎる。

 ただでさえわずらわしいのに、これ以上話をややこしくしないでほしいなぁ。

「わ、分かった」

 森川の勢いにちょっとたじろぎながら、オレはしどろもどろの返事を返す。

「じゃあ、出来高払いでよろしく」

「出来高払い?」

 オレの言葉にキョトンと首をかしげてみせる森川。

 なんだよ。ちょっとカワイイとか思っちゃったじゃねえかよ。

「そ。無事フィッシング部とやらに入部してちゃんと目的が果たせたら、その時お前が決めた金額を払ってくれ。オレが教えたことが役に立ったと思うならその分払えばいい。ぜんぜんためにならなかったらゼロでもいいぞ」

「おお!」

 なにが嬉しいのか、森川が目をキラキラ輝かせる。

「さすがは師匠、男らしいお申し出。それほどご自分の指導力に自信をお持ちとは!」

 なんか好意的に誤解されているようだが、都合がいいので釈明はしないでおこう。

 何はともあれ、桐谷きりや遙人はるとの釣り教室開講である。

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