友情は、朝日の前の露より儚く

 あの嵐のような出会いから二日。

 オレの日常はごくごく平穏に過ぎていた。

 あのムチムチカラテガールがオレの連絡先も確認せずに去って行ったため、いったんは巻き込まれかけた面倒ごともなんとか頭上を通り過ぎてくれたらしい。

 もちろんあの釣り場にはここ二日近づいていない。もしあの森川という子がオレを本気で探そうと思ったら、あの場所が唯一の手掛かりになるのは明白だからだ。

 午後のかったるい授業を寝ぼけ半分でやり過ごし、今日もなんとか無事に放課後を迎えた。

 寄り道の相談や部活の用意でざわめく教室の中、バックを手にとってモッサリと席から立ち上がる。

「よう、遙人。今日も釣りかあ?」

 後ろからチャラい調子でそう声をかけられた。

 振り向かなくても分かる。この声は義貴よしきだ。

「いや、今日はやめとく。なんか気分が乗らん」

「へえ? 珍しいな」

 そう言いながら前に回り込んできたのは井谷いたに義貴よしき。オレとは同中おなちゅうの腐れ縁。

「えらくアクが強い」という第一印象をこちらが乗り越えられさえすれば、かなり愉快で飽きのこないヤツだ。だが、言動がうわついて見えるのが玉にきず。そのせいで女子からは色眼鏡で見られ、オレ同様これまでの人生で彼女ができたためしがない。

「どうした。もしかして、大事なロッドをおっぺしょったとかか?」

 事情を説明しようかと一瞬思ったが、やめた。

 今週いっぱいは念のために帰り際の釣りを中止しようと思っているが、来週からはいつも通りだ。わざわざ余計なことを言って、いらん詮索をされるのも面倒くさい。

「別になにもねえよ。ただちょっとダルくてな」

「ふうん?」

 どことなく納得していないような口ぶりだったが、義貴はそれ以上追及してこなかった。

「なら、久しぶりにちょっと付き合わねえか? たまにはゲーセンでも寄ってこうぜ」

「……そうだな。たまにはいいか」

 一秒の半分ほど迷ったが、義貴の誘いを受けることにした。

 ただでさえ周りから付き合いの悪いヤツと思われているオレだ。愛想を尽かさずにいてくれる貴重なツレに、こんなときくらいは付き合っておくべきだろう。

「よっしゃ、決まり」

 そう言うと、義貴はポンとオレの肩を叩いた。

 駐輪場で回収した自転車にまたがり、二人並んで正門に向かう。

 学校敷地内の桜は花をとっくに散らし、正門に続くアスファルト舗装路を薄いピンクに染めていた。そのピンクの絨毯の上を、何人もの生徒たちがぞろぞろと歩いていく。

 だが、今日はいつもと違って彼らの様子がどこか変だ。みな一様に何かに気を取られ、よそ見をしながら歩いている。

 こっちが背後から近づいても気配に気づかないようで、オレたちはノロノロと蛇行しながら何度となくベルを鳴らして進路を確保しなければならなかった。

「なあ、遙人」

 その呼びかけに目をやると、義貴までが周りの生徒たちと同じ方向に目を凝らしている。

「どうした?」

「……見ろよ。スゲエな、あれ」

 いぶかしんでたずねるオレに、義貴は門の脇に向かってアゴをしゃくってみせた。

 その指し示す先には確かにスゴいものがあった。

 どこかで見覚えのある、この学校のものではない制服に身を包んだ女子生徒。


 あれは……、森……川…………さ、紗奈!


「あ! オッス、ししょぉー!」

 オレの姿を見つけるなり、森川がありったけの声で叫びやがった。しかも、叫び終わらないうちからこっちに向かって全力疾走を始める。

 あいつが一足地を蹴るたび、義貴言うところの「スゲエ」ものが、それこそスゲエ勢いで上下した。

 その圧倒的迫力が、森川の前に出エジプト記の紅海に現れたがごとき道を切り開いていく。

 周りの生徒たちがみな一様に走り過ぎる森川を振り返った。男子たちは期待と欲望の、女子たちは羨望せんぼう怨嗟えんさの目で。

「オッス、師匠。ご無沙汰しております!」

 数多あまたの視線を糸のように引きずりながら、森川がオレの前にたどり着いた。

 オレの方は言葉を発することもできないまま、ただ金魚のように口をパクパクさせるだけ。

 迂闊うかつだった。

 そういえばコイツ、オレの制服が明経大付属のだって知ってた。しかもこの前うっかり名前を言っちゃってるし。

 オレのこと、探そうと思えば簡単に探せちゃうじゃん。

「師匠、私の指導カリキュラム、いかがっすか。そろそろ出来上がったすか?」

 一点の曇りもない笑顔でそう催促する森川。

 ど、ど、ど、どうしよう?


 逃げるか、森川を振り切って。


 いや、それは問題の解決にならない。

 今日はよくても、明日はどうする。来週は?

 学校と名前がバレてたら、ヤクザに住所ヤサを押さえられたらも同然だ。時間をかけて、じっくりと追い詰められるに違いない。

 こうなったら、頼りになるのはコイツだけか。

 進退きわまったオレはすがるような気持ちで隣の義貴に目を向ける。

 この場は義貴に協力してもらって、森川の依頼をキャンセルするための時間稼ぎをする。それが最善策だろう。

 頼むぜ、相棒! 話、うまく合わせろよ。

 ……けれど。

 けれど、義貴の目は……濡れていた。

 溢れ出る滂沱ぼうだの涙に濡れそぼっていた。

「……は、遙人。おまえ…………」

 こみ上げる激情を抑え込もうとするかのように義貴の声がわななく。

 だが、義貴の感情抑制装置はそんなに高性能な方じゃない。

「こ、この裏切り者おぉぉぉーーー!!!」

 校舎の壁を、木々の梢を、澄み渡った大気を打ち振るわせ、その絶叫は周囲に響き渡った。

 その場に居合わせた全員が身じろぎ一つせず見守る中、絶叫の余韻が空に溶けていく。

 そして、静寂が訪れた。

 聞こえてくるのは小鳥のさえずりと、木の葉のかすかなざわめきだけ。

 ヤバい。

 どうすんのよ、この空気。

 義貴のヤツ、頼りになるどころか状況を悪化させやがった。

「お前だけは……信じてたんだ」

 かろうじて絞り出したかすれ声だったにも関わらず、その声は静寂のせいでやけに明瞭に聞き取れた。

「お前だけは……『こっち側』の人間だと……信じて……いたんだ」

 自転車にまたがった姿勢のままうなだれ、義貴がとぎれとぎれに言葉を紡ぐ。

「お前こそは世界中の『非モテ男』の精神的支柱、救世主になるべきヤツと思っていた。いつかその座に登りつめるおとこと信じていた。その類い希なるブサイクさ、ズボラさ、貧困さ、……そして短小さをもってなあ!」

 おい、断りなくオレに世界的重圧を背負わせるな。

 あと最後の追加情報いらねえ。ていうか事実じゃねえ! ……と思う。

「なのにキサマ、いつの間にこんなムチムチ、プリプリな他校の女子とお近づきに……」

 うつむいているせいで表情は読みとれないが、義貴の肩はふるふるとうち震えている。

 そして突然ガバッと上半身を起こすと、燃え盛る目でオレを睨みつけた。

「の、呪われろおおおぉぉぉーーーーーーーーーー!!!」

 本日二度目の絶叫とともにヤツは走り出し、木霊こだまする声とともに遠ざかっていった。

 衆人環視のもと、森川と二人取り残されたオレは、その状況で取りうる唯一の選択肢に従った。


 すなわち、現実から逃避した。

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