運命的で、喜劇的な……
求めよ さらば与えられん。
そうイエスは言ったそうだ。
実感が湧かない。
どんなに求めても、努力しても、与えられないことはある。むしろ与えられないことのほうが多い気すらする。
惜しくも金メダルに手が届かなかったアスリート。
幾多の困難を乗り越えて挑戦者となりながらタイトルを逃した棋士。
そんな雲の上の話を持ってくるまでもない。
第一志望校に合格できなかった受験生や、希望の職種に就けなかった人なんてこの世にはゴロゴロしている。
その一方で、人生には求めてもいないものが転がり込んでくるなんてこともある。
タナボタ的な話だってごくまれにあるが、大概はろくでもないものが転がり込んでくると相場が決まってるのだ。
オレは釣りが好きだ。
勘違いしないでほしい。だからって別に、海に川にとしょっちゅう飛び回ってるワケじゃない。
ほどほどに、無理なく。これがオレのモットー。
オレが釣りを好きな理由は、あまり金がかからないわりにそこそこ充実した時間を過ごせる、非常にコストパフォーマンスに優れた娯楽だからだ。
そりゃあ、本格的にやれば金はかかる。
そんなことをしてたら、高校生のサイフのHPなんてあっという間にゼロになる。
だが汎用性のあるタックル(※2)を一つ二つそろえ、自転車で行ける範囲でやっているぶんには、初期投資はそれなりにかかってもランニングコストはたかが知れているのだ。
ゲーセンで毎日のように百円玉をチマチマつぎ込んだり、バンドを組んでギターだのスコアだのスタジオだのと散財するよりはずっと安上がりにすむ。
一つには、釣り好きの
初めて連れていかれた利根川で、二尺(六十センチ)超えのコイを上げて味をしめたところからオレの釣り遍歴は始まった。
学校の帰り道に三、四十分。休みの日は夕方二時間くらい。
それくらいの温度感で今はやっている。
春、四月。
学校からの帰路、オレは小さな河川のコンクリート護岸に立ってロッドを振っていた。
東京湾に流れ込む河口がすぐそこの汽水域。春には「シーバス」ことスズキがよく釣れる場所だ。
意外に思うかもしれないが、ここは市街地のど真ん中。立ち並ぶ雑居ビルやマンションの間を流れる都市型河川だった。こんなところでも、ちゃんと魚は釣れる。
自転車通学だから道具の持ち運びも簡単。
六フィートのツーピースロッド(※3)は自転車のサドルとドロヨケの間に差し込んでおけるし、カバンの底のペンケース大ツールボックスにはルアー三つとハサミその他の小物が入っていた。
ブラックバス用、九グラムのミノー(※4)を使い、護岸沿いにゆっくりと通す。春先はまだシーバスの動きが鈍いため、ルアーを速く巻いてはダメだ。
昨日はこの同じ場所で、久々に三十二センチを一本上げた。
連日の釣果への期待を胸に、ゆっくりとリールのハンドルを操る。
それにしても春はいい季節だ。暑くもなく寒くもなく、しかも色々な魚が活性を取り戻して釣りシーズンが本格化する。
サワサワと頬に心地よい春風の感触に目を細めながら、ふと辺りを見回した。
少女がいた。
向こう岸、川沿いの路地で止まった自転車にまたがり、こちらをじっと見ている。
ビルの間に沈みかけた太陽を背にしているためほぼシルエットしか分からないが、おそらく高校生だ。
こんなところで釣りをしてると、通行人がもの珍しげに足を止めることはまあ時々ある。けれどそれはたいがい、小さな子供か競輪場帰りのおっさんがほとんどで、女子高生が興味を示すことなんかまずない。
なんだコラ、見世物じゃねえぞと睨むと、こちらの視線に気づいたのかその子が自転車をこぎ出した。
相手がビルを背にする位置まできたところで、やっとはっきり姿を確認できた。
思ったとおり、やはり女子高生だ。濃紺のブレザータイプの制服に身を包んでいる。
この辺りでよく見かける制服だが、どこの学校かは知らない。
ジャケットを押し上げる胸と、スカートから伸びる脚がなかなか、とか思ったのを覚えているから、そのあたりまではきっとオレにも余裕があったんだろう。
けれど、オレの生物としての危険察知能力が警鐘を鳴らし始めるまで、そこからものの二秒とはかからなかった。
ヤバい、おかしい。
あれは絶対おかしいって。
何がおかしいって、まずその子の表情がおかしい。
限界まで目を見開き、オレを穴があくほど凝視していた。その顔たるや、まるで獲物を見つけたゾンビだ。
二つ目。その子の行動速度がおかしい。
全、力、疾、走。
若干サビが浮いた古そうなママチャリを、腰を浮かせて全体重をのせ、前傾姿勢になって走らせている。
肩にわずかにかかる長さのストレートボブを振り乱し、スカートがはためくのも気にかけず、それはもうなんと言うか、実に見事な疾走ぶりというほかなかった。
ていうか、そのスピードでよそ見すんな。死ぬぞ。
その子は四十メートルほど下流に架かった橋にたどり着くと、タイヤとブレーキを
そしてわずか三秒フラットで橋を渡りきり、再度九十度ターンをかますとこちらに進む小道に自転車を乗り入れた。
あれよあれよと、その鬼気迫る姿が大きくなる。
ちょっと、何!? いや、やめてぇ!!!
そんな心の叫びが終わるかどうかといううちに、すでに暴走ママチャリは甲高いブレーキ音とともにオレの自転車の脇に停止していた。
フーフーと荒い息遣いの女子高生がゆっくりと自転車から降り、スタンドを立てる。その前髪は汗の浮いた額に貼りつき、目は
ヤバい。マジで生命の危険を感じる。
神に誓って言うが、オレは目前にジリジリと迫るこの女の子に見覚えはない。絶対にない。
となれば当然、命を狙われるほどの
あれ? もしかしてあれか? さっき睨んだことを怒ってるとか?
いやいや。いくらなんでもあれくらいでこんなに怒んないでしょ。現代の若者がいくらキレやすいっていってもさ。
じゃあ、この異様な事態と身に迫る危機はいったいなんなんだ?
……そうか!
突如、天啓が降りた。
人違いだ。
きっとそうだ。絶対そうだ。
おそらく、オレに似た誰かがこの子に何かしたんだ。心と身体をさんざん
そして不幸な子供を身ごもったこの女の子が思いあまって……。
ふざけんなよ、昭和のサスペンスドラマかよ! 何曜ワイド劇場だよ!
そんな人間のクズの身替わりで殺されてたまるか。どうせ殺されるなら、せめてホントに自分がフった女の子に殺されたい。
ちなみに、女の子をフった経験はこれまで一度もない。フラレた経験は四回ほどある。
いやまあ、それはともかく、かくなる上はなんとしても誤解をといて真犯人を探し出し、この子の前に突き出してやる。なんなら出刃包丁とセットで差し出してやる。
明経大付属の船越英○郎と呼ばれたオレをナメるなよ! ……呼ばれてねえけどなぁ!
「なあキミ……」
オレはカラカラに乾いた口で、何とか言葉を絞り出した。
「落ち着け、きっと何かの間違いだ」
「………………間違い?」
やっと息が整い始めた女の子が、かすれた声でそう口にする。
「そうだって、間違いだって。落ち着いて、よぉーーーくオレを見てよ」
彼女の視線が、オレの顔から右手にゆっくりと移る。そして突然不安げな色を帯びて、再びオレの顔へと戻ってきた。
「オ、オッス。突然失礼いたしましたっす。あ、あの……」
「な、何?」
「あ、あなた様、釣りをなさってたんじゃない……っすか?」
「……え?」
予想から九十度それた質問に、思考が一瞬凍りつく。てっきり「やっと見つけたわ。私と結婚するか、ここの魚たちのお
「つ、釣り?」
「オッス、釣りっす。……違うっすか?」
女の子がオレの右手に握られたバスロッドをおずおずと指差す。
「い、いや。たしかに釣りはしてたけど……」
オレはその言葉を最後まで続けられなかった。女の子の歓声に
「や、やっぱりぃぃぃ!!!」
ピョンピョンと彼女が跳ねるたび、そのたわわな胸もゆさゆさと上下する。
白状すれば、オレはこの時少し油断していた。
実のところ、ちょっとニヤけてすらいた。
さしあたり命の危険はないらしいと感じたこともあるが、女の子(とその胸)が嬉しそうにはしゃぐ様子を見て頬を
とはいえ今思い返してみても、その時点で彼女の言葉遣いや振る舞いに警戒心を抱かなかったのは、やはり自分の致命的ミスだったと認めざるを得ない。
そしてそのミスが招いた苦難の日々は、彼女が次に発した言葉をもって開始されることとなった。
「師匠! なにとぞ私めに釣りのご指導を!」
(※1)擬似餌
(※2)釣り道具全般のこと。特に竿とリー
ルの一組を指すことあり。
(※3)二つに分けられる継ぎ竿
(※4)小魚を模したスタンダードなルアー
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