第9話

「まずは自己紹介からだ。僕はラファっていうんだ。見ての通り冒険者の身なりをしている。ちなみにこの施設はギルドの所有施設のひとつだ。まあ僕たちの活動拠点だと思ってもらって構わない。そして君はここにどうやって入りこんだんだい?」

そう言うと男は爽やかな笑顔を見せる。

「なるほど……つまり君は『空間転移』の能力者で、その能力を使ってこの場所にやってきたってことか……」

ラファと名乗った男は顎に手を当てながら呟くように言う。どうやら俺が転移魔法でここへやってきたと思っているようだ。まあ確かにその通りなんだけど……。

とりあえず適当に誤魔化しておくことにする。

俺は小さく息を吐いてから口を開いた。

「……えっと、あなたは?」

「おっと! 失礼! 僕はアルファース・エルリックっていうんだ。よろしくな!」

そう言うと、アルファースは右手を差し出してきた。

「あ、はい。どうも……」

俺は軽く頭を下げつつ握手に応じる。

「ふむ。君は確か……マオって名前だったよね?」

「えぇ……そうですけど」

「やっぱりそうか。いや、実は君のことを探していたんだよ」

「俺のことを……ですか?」

「あぁ、そうさ。……と言っても、まだ名前すら聞いていなかったんだけれど」

「あ……そうですね。俺はユートと言います」

「僕はアルフレッドだ。よろしく頼むよ、ユート」(アルファースじゃなかったの?)

「はい……こちらこそ」

俺は小さく頭を下げる。

「それで、どうして俺のことを探していたんです?」

「いや、特に理由はないんだ。強いて言うなら好奇心ってところだね。まあ、要するに暇つぶしさ」

「そうですか……」

「でも、まさかこんなところに人が住んでいるとは思わなかったけどね。……いや、ひょっとしたら本当に誰かが住んでいて、隠れているのかも……」

「あの……」

「おっと、これは失礼。自己紹介がまだだったね。僕はルーカス・オルブライト。この国の騎士団に所属する騎士だよ」(もうつっこむのはやめよう……)

「……」

「それで、君は?」

「えっ、あ……」

「名前を教えてくれるかい?」

どうしよう……。正直、迷う。この人はどう見ても善良な市民ってタイプじゃなさそうだしな……。とはいえ、悪い人に見えないっていう点だけは間違いないんだけど……。

「…………」

「ふむ、だんまりを決め込むつもりみたいだね。まあ、無理に聞き出そうとは思わないけど……」

そう言うと男は右手を差し出した。

「僕の名はアルフォンス・ハイネマン。一応、この施設の責任者みたいなことをしている」

「えっと……」

いきなり名乗られて困惑する。どう反応すればいいのか分からない。とりあえず握手を求められているんだろうと思い、俺は手を伸ばしてみた。すると、次の瞬間、男がその手を掴んでくる。そしてそのままブンブン振り回してきた。

「いや~、良かった! 本当に無事でよかった! ずっと心配していたんだよ! あの爆発の後、君は煙のように消えてしまったからね! 一体、どこへ行ってしまったんだろうと、ずっとずっと探していたんだ!」

「……」

そういえば、あの時、確かに変な爆発に巻き込まれた記憶がある。あの後、気が付いたらこの場所にいたわけだから、多分その時に一緒に吹き飛ばされたんだと思うけど……でも、どうしてこんなところに? まさかここが天国とか言わないよね? だとしたら、随分と質の悪い冗談だ。

「いやあ、それにしても助かったよ。あの怪物たちのせいで街がめちゃくちゃになってね。あちこちに死人が転がっていて大変だったんだ。みんなで必死に片づけていたんだけど、やっぱり死体を放置しておくのは良くないと思ってさ。それで、ここに運び込んで火葬にしたって訳。でも、そのせいで時間がかかってしまってね。今、ようやく一段落したところだよ」

男が嬉しそうに語る。

なるほど。どうやらここは地獄ってわけではないらしい。

「おっと、自己紹介がまだだったね。僕はアルス。この街の自警団の団長を務めている。君は?」

「……」

「……ん? どうかしたのかい?」

「いや、なんでもないです」

「そうかい?」

「はい」

「そういえばまだ名前を聞いていなかったね。教えてくれるかい?」

「えっと……」

「あ、ちなみに僕のことはアルスと気軽に呼んでくれればいいから」

「はあ……じゃあアルスで」

「うん、それでいいよ。よろしく」

「こちらこそ」

「ところで、君はどうしてこんなところにいるんだい?」

「それは……」

「まあ、言いたくないなら無理には聞かないけど」

「いや、別に隠しているわけじゃ……」

「おっ! じゃあ教えてくれるの?」

「……」

「まあ、いいや。とりあえず自己紹介をしておこう。僕はアリエス・マグナ。この国で『黒騎士』と呼ばれている。一応、この国の警備責任者みたいなことをしているんだ。よろしく」

…………えっと……今、何て言ったんだろう。聞き間違いじゃなかったら、なんかとんでもない単語が飛び出てきた気がするんだけど。

「……あの……今、『黒騎士』って……」

「そうそう。僕の通り名だよ。カッコイイでしょ?」

「は、はぁ……」

どうしよう。全く同意できない。

「で、君は何て言う名前なの?」

「あ、はい。タケルです。……あの、一つ聞いてもいいですか?」

「ん?なに?」

「あの……ここはどこでしょうか?」

「え?」

「いや、あの……気が付けばここにいたんですけど……」

「ふむ……。そういえば僕も気が付いたらここにいたんだよねぇ。しかも君と同じで記憶がないんだ。いやー、まいったよ」

「えっ!? あなたも同じですか?」

「うん。僕はね、どうやら記憶喪失らしいんだよね。ちなみに僕の名前は、佐藤信彦って言うんだけど君はなんて名前なんだい?」

「あっ、はい。私は、安藤結衣と言います。私の名前も記憶と一緒に無くなってしまって……すみません……」

「いや謝る事じゃないさ。お互い大変だもんなぁ~! まあ、これから一緒に頑張っていこうぜ!」

「はい!! よろしくお願いします!!」

「おう!! こちらこそよろしく頼むわ!!」

「ところで、佐藤さんは何でこの部屋にいたんですか? この部屋には、私とあなたの二人しかいなかったはずですけど……」

「ん? ああ、それなら多分この部屋のどこかに隠れてるんじゃない? ほら、よくあるじゃん。こういうの……」

「え? どういう事です? 隠れるって……どこに?……うぅ~……全然わからない……」

「わたしたちはみんな同じもの」

そう言ったのは、だれだったろうか? いや、そもそも本当にそんな言葉があったのだろうか? でも、たぶん、そういう考え方もあったんだと思う。少なくとも、わたしにとっては、それが真実であった。わたしたちには、共通点がある。外見的な特徴や性格はもちろんのこと、年齢・性別・国籍など、あらゆる面で、共通している部分が多いのだ。もちろん、完全に一致しているわけではない。たとえば、わたしは右利きだけど、左利きの人もいるし、視力が悪い人もいれば、運動神経が良い人だっている。他にも、肌の色が違う人や、体格の違う人はたくさんいるだろう。しかし、それらは些細な違いでしかない。そして、そんな細かいことなんてどうだっていいんだって思うこともあるし、もっと大きなことを考えるべきだと思うこともあります。……でも、結局のところ、ぼくにとっては、それが全てなのです。ぼくは、これから先もずっとそうやって生きていくのでしょうね。

あなたにとって一番大事なものは何ですか? それは、本当に一番大事なものですか? それとも、誰か他の人のために取っておいた方がいいのでしょうか?……まぁ、こんなことを真剣に考えてみたところで、あまり意味は無いんでしょうけど。

それでも、時々、思い出すんだ。

僕がまだ幼かった頃。僕は、お姉ちゃんと一緒に暮らしていた頃のことを。その頃のお姉ちゃんは、いつも僕の手を引いてくれていた。一緒に遊んでくれたり、時には、勉強を教えてくれたこともあった。そして、いつも笑顔を絶やすことなく、優しく接してくれていた。

「弟くんは私のことが好き?」

そうやって訊ねられた時は、決まってこう答えたものだ。

――うん! 大好きだよっ!! すると、彼女は、とても嬉しそうに笑った。僕は、彼女の笑顔を見るのが好きだった。僕は、彼女の声を聞くのが好きだった。僕は、彼女と一緒の時間を過ごすのが好きだった。でも、もういない。僕だけが残されてしまった。

「ごめんね」

と、彼女。どうして謝るんだろう? 君が悪いんじゃないのに……。きっと、これは罰なんだと思う。僕の罪に対する報い。だから、仕方がないんだよ。

「違うよ。私が、あなたを巻き込んじゃったんだよ」

「巻き込む?」

「うん……。ごめんね、こんなことになっちゃって……」

彼女はそう言って俯いた。どうやら彼女の方でもいろいろあったらしく、その時の会話はそこまでだった。その後、ぼくたちは少しだけ話した後、すぐに別れることになった。彼女が何を言っているのかはよく分からなかったけど、きっと彼女なりの考えがあるんだろうと思って深くは聞かなかった。結局、ぼくは何者なんだろうか? そんなことを思いながらぼくは家に帰った。

それから一週間ほど経った頃、ぼくは再び彼女と会った。

「こんにちは」

彼女はいつものように微笑んだ。

「あぁ、どうも……」

ぼくは軽くお辞儀をした。ぼくは彼女のことを警戒していた。しかし、彼女に会うことをやめようという考えはなかった。ぼくはその日以来、ほとんど毎日のように彼女と会っていた。最初に彼女が言った通り、彼女は自分のことについてはあまり話さなかった。その代わりに、ぼくの話を聞きたがった。ぼくは、自分のことをあまり人に話すのが得意ではなかったけれど、それでも聞かれれば答えた。そして、時には自分のことや、今までに起こった出来事を彼女に語ったりもした。そうやってしばらく過ごしていくうちに、いつの間にか、ぼくは彼女を信頼するようになった。

「どうしてあなたは、わたしのことを信用してくれるの?」

ある時、彼女がぼくに尋ねた。

「えっと……」

ぼくは少し考えた後、こう答えることにした。

「それは多分、君も同じだと思うからだよ」

すると、彼女はクスッと笑みを浮かべた。

「面白いことを言うのね。でも、残念ながら違うわ。だって、あなたは私のことを好きだと言ったじゃない」

彼女はそう言って笑った。ぼくは、彼女の言葉の意味がよく分からなかった。

「いや、別にあなたのことが好きとは言っていないけど……?」

「あら? そうなの? 私てっきり、そういう意味かと思ってたんだけど。まぁ、どっちにしても同じことだわよね。あなたは、私のことが好きなんだもの」

「えっ……? どういう意味です? どうしてそんな話になるんです? ぼくはただ……」

「ううん。もういいのよ。私は分かってるから。大丈夫だから。安心して。ほら、もっと近づいてきてもいいのよ。ねぇ? 遠慮しなくてもいいのよ。私達、これから恋人同士になるんだから」

彼女が何を言っているのか理解できなかった。彼女は一体何を言いたいのだろう? しかし、どう考えてみても答えは一つしか見つからなかった。

つまり、ぼくと彼女の間には大きな認識の違いがあるということだ。

「あの……すみません。ぼく、こういうものです」

そう言って差し出された名刺を見て、僕は驚きの声を上げた。

「えっ!? あっ! あぁー!! あぁぁ~!!」

僕の反応を見たその人は、満足そうな顔をして言った。

「どうやらご存知みたいですね?」

いや、知っていたどころじゃない。その顔と名前に見覚えがあった。僕が小学生の頃、あるテレビ番組に出演していた人だ。確か名前は、

「お久しぶりですね」

彼女はそう言った。そして、僕の返事を待たずに続けた。

「あなたがここに来たということは、きっと、もうすぐ死ぬんでしょうね。……でも、残念だけど、まだ早いわ。もっと生きてないとダメよ。あなたの未来はこれからなんだから」

僕は黙っていた。何を言えばいいか分からなかったからだ。

すると、彼女は小さく息を吐き、

「……なんていうと、ちょっと偉そうな感じになるかな?」

と言った。僕は少し考えて、それから答えた。

「いえ、そんなことはないと思います」

「そっか。良かった。……うん、やっぱり、こういうのって、直接言わないといけないよね。ごめんなさい。わたしは、あなたのことを応援しています。だから、頑張ってください。いつか、あなた自身の夢を見つけて、叶えて下さい。それがわたしの夢でもあるんだから。わたしはいつも見守っています。ずっと」

彼女がそう言って微笑むのと同時に、周囲の景色が変わった。

ぼくは、彼女の言葉を聞いて、自分の耳を疑った。

「……え?」

ぼくは、思わず声に出してしまった。すると彼女は言った。

「あなた、わたしの言葉を信じられないのね」

ぼくは彼女に訊いた。

「どうして、そんなことができるんだい? 君が何を言っているのか、ぼくには分からないよ」

ぼくは続けて訊いた。

「君の言うとおりだとしたら、君は、自分が死んだ後も、意識を持ったままで存在し続けるっていうことになるよね? そんなことが可能なんだろうか?」

「理論上は可能だよ」

「つまり、君たちは死後の世界に行って、永遠に生き続けることができるっていうことなんだね? すごい! まさに永遠の生命じゃないか!」

「いや、そういうわけじゃないんだ。あくまでも、意識を持った状態で存在し続けることが可能なだけであって、永久不滅の存在になるってわけじゃないんだよ。ぼくらは、この世界にいる時は実体があるように見えるけど、魂だけの状態になると、この世界に存在している時の記憶を失ってしまうんだ。だから、永遠にこの世界で生きるっていうのは不可能だし、そもそも、この世界の仕組み自体が永遠ではないと思うよ」

「なるほど。そうか。残念だな。せっかく、面白い話ができると思ったんだけど」

「いえ、大丈夫ですよ。それにしても、こんなところに呼び出して、いったいどうしたんですか?」

「ん? ああ、そうだね。君と二人きりで話す機会なんて滅多にないと思ってさ。ちょっと話をしてみたかったんだ。ほら、君はいつも一人で本を読んでいるみたいだし。そういうのって、僕にとってはすごく興味深いんだよ」

「……そうですか。それで、ご用件というのは?」

「うん? 特にこれといったことはないよ。ただ、こうして話しをしてみたかっただけだ。まぁ、でも、それもそろそろ終わりかな。君の方も忙しいだろうし」

「え? あぁ……まぁ、そうだね。でも、大丈夫だよ。まだ時間はあるし」

「そうか。ならいいんだ。じゃあ、これでお別れだね」

「うん。……ありがとう。じゃあ、またね」

ぼくは電話を切った。……まぁ、何ということもない会話だったな。別に、特別な意味なんてなかったんだろうか? いや、でも、ちょっと待てよ。そういえば、さっきの人は、確か、自分の娘さんの話をしていたんだっけか? ということは……。……まぁ、いいや。とりあえず、今日はもう寝よう。

「うわぁー」

ぼくは思わず声を上げた。……だって、こんなの初めて見たもん。目の前に広がるのは一面の花畑。色とりどりの綺麗な花たちが咲き乱れていて、それがずっと先まで続いている。

「わぁー!すごい!」

「ねぇね、きれい」

「うんっ!きれぇ……」

私達は暫くの間、呆然と立ち尽くしていた。ここは何処? どうしてここに居るの? 私は死んだんじゃないの? 様々な疑問が私の頭を駆け巡る。でも、答えなんて出るはずもなくて……。

するとその時、後ろの方で誰かの声が聞こえた気がした。

「おい! お前、いつまで寝てるんだよ!」

そして、その声の主はすぐに分かった。僕は振り向いて言った。

「ごめん」

そう言って、僕は起き上がった。ここは教室の中。机の上に突っ伏して眠っていた僕を起こしたのは親友である加藤だった。彼はいつものように元気な様子で、こちらに向かって手を振った。

「よぉ、おはよう」

僕は彼の方を見て、笑顔を作った。

「どうしたんだい?」

彼は僕を見たまま、しばらく黙っていた。そして、口を開いた。

「……本当にいいのかい? 君は、それで」

僕は彼に笑いかけた。

「ああ、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。でも、もう決めたことだしね」

そう言うと、彼も笑ってくれた。

「分かったよ。……じゃあ、そろそろ行こうか」

「うん。そうだね」

僕たちは歩き出した。

「ねぇ、ちょっと聞いてもいいかな?」

彼が僕の方を向いた。

「なんだい?」

「なんで君はこの世界にいるんだろう?」

唐突に投げかけられた問いに対し、僕は答えられなかった。

僕だって知りたいよ。

なんで僕はこんなところにいるんだよ。

「君には悪いけどさ」

僕の目の前に立つ少年はそう言って、申し訳なさそうな顔をして笑う。

「もう死んでくれないかな? この世界で生きていても意味なんてないと思うんだけど……どう思う?」

少年の言葉を聞きながら、僕は思った。確かにそうだね。この世界にいても仕方がないよね。なんで生きてるんだろ? どうして死なないの? 生きることに希望を持てないし、生きること自体に意味があるとも思えないし。死ぬ勇気もないくせに。

いや、違うか。死にたくないだけだ。死んだ後のことを考えると怖いから、まだ生きていたいと願うだけの臆病者だ。そんな奴の願いを聞いてくれる神様はいないだろう。

「ごめんね。いきなり変なこと言っちゃって。でも、このままだと、本当に死んでしまうかもしれないし」

困ったような顔をしながら話す彼の言葉に嘘はないのだろう。だからと言って、はい分かりましたと簡単に受け入れるわけにもいかない。それにしても、この人は何者なんだ? 何故、僕のことを気にかけるのだろうか? まあ、そんなことより、どうやって死のうか? 首を吊る? 飛び降り? 溺死? 焼身自殺? 薬物中毒? どれも怖くてできそうもないなぁ……。

「……あの」

僕は恐る恐る彼に話しかけてみた。すると彼は僕に向かって微笑んだ。

「どうしたの?」

「えっと……あなたは一体……」

「私はただの旅人だよ」

「旅人ですか……それで、どうしてこんなところに一人でいたんですか? ここは危ないですよ。この先にはモンスターもいるし……」

「大丈夫だよ」

そう言って、彼女は僕を抱きしめてくれた。僕は泣きたかったけれど、泣かなかった。涙を流すことで、彼女を困らせてしまうような気がしたからだ。彼女が僕のことを好きだという気持ちは分かっていた。でも、それでも、彼女の口からその言葉を聞くまでは、僕は自分の気持ちをはっきりとさせないようにしようと思っていた。彼女と過ごす時間は楽しかったし、彼女と一緒に居るだけで幸せだったけれど、一方で、このままではいけないという思いもあった。……いや、違うな。正直に言おう。彼女にフラれるのが怖かったんだと思う。

「私はね、あなたと付き合うことはできない」

しばらくして、彼女が言った。

「うん……」

分かっているよ。そんなことくらい。

「ごめんなさい」

いいんだよ。君が悪いんじゃない。謝らないでくれ。

「ありがとう」

どうしてお礼を言うの? だって君は優しいじゃないか。

「私のために泣いてくれたから」

君のためじゃないさ。

「うそつき」

嘘なんかついてない。

「知ってる?」

何をだい?

「女の子はね、好きな人に抱きしめられた時に流す涙は、嬉しくて流してるものなのよ」

知らなかったな。

「本当に?」

ああ、本当だよ。

「良かった」

と僕は言った。

「え?」

と彼女は訊き返した。

「いや、なんでもないよ。……もうそろそろ帰ろうか」

僕たちはベンチに座っていた。ここは公園だった。僕は立ち上がった。そして、空を見た。そこには満天の星があった。まるでプラネタリウムの中に居るみたいだと、僕は思った。

それからしばらく経って、ぼくは、ある女性に出会った。彼女は、ぼくと同じ高校に通っていた同級生だった。彼女と初めて会った時は驚いた。だって、彼女があまりにも変わっていたんだもの。まず最初に、彼女の顔を見て思ったのは「すごく美人になったな」ということ。次に、声を聞いて、「あぁ、この人は変わっていないな」と思った。最後に、話をしてみて、やっぱり変わった人だなと思った。彼女と出会ったことで、ぼくの人生は大きく変わったと思う。それまでは、特にこれといった目的もなく生きてきたけれど、今は違う。ぼくは、自分にしかできない使命があるような気がしていて、それをやるために生まれてきたのだと確信している。ぼくが、これから先、何をしようとしているかについて、まだ彼女に詳しく話すことはないかもしれないけれど、それでもいつかきっと、その時が来た時にはきちんと説明するつもりだ。その日が来ることを楽しみにしている。

……ここはどこ? 目が覚めると、わたしは暗闇の中にいた。辺り一面真っ暗だ。それに、なんだか少し肌寒いような気がする。

「お姉ちゃん! 起きて!」

妹の声が聞こえた。どうやらわたしは眠っていたらしい。でも、なぜだろう? どうしてこんなところに居るんだろう? 思い出せない。

「えっと……」

わたしはゆっくりと瞼を開いた。すると、目の前に妹の顔があった。

「おはよう、お姉ちゃん。よく眠れた?」

「うん」

妹の声を聞きながら目を開けた私は、ベッドの上で上半身を起こした。

「今日は天気もいいみたいだし、散歩に行かない? 私、昨日、近くの公園に行ってきたんだけどね、すごくきれいな花壇があったんだよ! あと、芝生もあったし!」

そう言って笑う妹の顔を見ていると、自然と笑みがこぼれてくる。……この笑顔を見るためなら何でもできる気がした。

「分かったわ。じゃあ、朝食を食べましょう」

母さんがそう言った後、すぐに台所に行って料理を作り始めた。僕は、部屋に戻って服を着替えた後、洗面所に行った。そして、顔を洗い歯を磨いた。それから、リビングに行き椅子に座って待った。

しばらくして母さんが僕を呼びに来たので、一緒に朝ご飯を食べることにした。今日のメニューはトーストとハムエッグとサラダだった。食べ終わって、少しゆっくりした後、家を出た。

「いってきます!」

「いってらっしゃーい!気をつけてね!」

玄関先まで見送りに来た妹の元気な声を背中に受けて、僕は家を出た。いつものように自転車に乗り、ペダルを漕ぎ始める。学校までの道を進むにつれて、同じ制服を着た生徒の姿が多くなっていく。僕と同じ高校に通う生徒たちだ。彼らの多くは友達と一緒に登校しており、楽しげな雰囲気を漂わせていた。中にはカップルらしき男女もいる。

(いいよなぁ……みんな幸せそうで)

放課後の教室。俺は窓際の席に座って一人ぼーっと空を眺めていた。今日は雲一つない快晴。太陽は燦々と輝き、眩しいくらいに俺達を照らしてくれている。

「……」

俺は手に持っていたスマホを机に置き、再び視線を外に映す。目の前に広がるのは、楽しそうな笑顔を浮かべて歩いている人たちの姿。今日は休日だからか、みんなどこか浮き足立っているように見える。

「……」

そんな彼らの様子を眺めつつ、俺は先ほどまで読んでいた本のことを思い出す。『人はなぜ死ぬのか?』というタイトルのその本では、人間の身体の構造的な問題や死生観などについて詳しく解説されていた。それによると、俺達人間が死ぬのは当たり前のことらしい。なぜなら、この世界は、死後の世界ではなく、あくまでこの現実世界の延長線上なのだから。そして、死とは終わりであると同時に始まりでもあるそうだ。つまり、死後の世界に旅立ったとしても、そこには新しい別の世界が広がっているだけで、結局のところ、この世界は続いて行くのだという。

しかし、それは同時に、この世界において、今ある自分の意識というものが消え去ることを意味する。すなわち、自分の記憶の中にしか存在しないもう一人の自分が生まれることになるのだ。

でも、そうやって生まれてくる自分のことを、以前の自分と同一視することはできるのだろうか? この世界を以前と全く同じものと捉えることができるのだろうか? 俺は、自分の手のひらを見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。……うーん。やっぱりよく分からないなぁ。

自分の思考を客観的に分析してみようと思ったのだが、やはり難しい。自分の考えを文字にして文章にするというのは、なかなか大変な作業だ。それにしても、なぜ人は小説を書くのだろうか? と不思議になる。別に書く必要なんてないだろうと思う。わざわざ言葉にしなくてもいいことだ。

しかし、あえて書いてみることにする。例えば、ぼくは、この世界は「物語」であると考えている。いや、違うな。この世界を、ぼくらが生きるための一つのシステムだと考えていると言った方が正確かもしれない。……そうすると、ぼくはこの世界の創造主ということになるのかな? まぁ、そんなことはどうでもいいか。

とにかく、ぼくは、「物語」の世界の中に生きていて、その「物語」の登場人物の一人なのだ。そして、登場人物たちは、みんなそれぞれ固有の役割を与えられて生まれてきたはずだ。でも、彼らは、自分の生まれた意味について考えたりしないし、また、そのことを意識したりもしていないようだ。

いや、ひょっとしたら、そうじゃないかもしれない。でも、少なくとも、ぼくはそうだ。ぼくは、自分の役目については分かっているつもりだし、それが自分の使命だと自覚している。

ぼくの役割は、主人公になることだ。主人公は特別な力を持っている。特別だからこそ、彼は苦悩するし、時には失敗することもある。でも、主人公が失敗すればするほど、読者にとっては魅力が増すことになる。読者は主人公のことを応援するし、また、主人公自身も自分のことを応援してくれる人たちのことを心の底では大切に思っている。

そして、もちろん、ぼくは、自分自身の人生において最善の選択をしたと心の底から信じている。

でも、それでも、時々思うんだ。もしも、あのとき、別の選択をしていたならどうなっていたのかなぁって。きっと、その時は、もっと違った人生を歩んでいたのかもしれないなって。いや、そうじゃないのかな。結局は同じ道を辿っていた可能性もあるか。でもさ、そういう可能性の話をするんじゃなくて、純粋にこうやって考えてみるのも悪くないんじゃないかなと思うんだよ。だって、今のこの状況と全く違う状況を考えることができるわけだしね。

まぁ、とりあえず、こんな感じで、今日は終わりにしておきます。おやすみなさい。

「うわっ!」

わたしは思わず声をあげてしまった。目の前に、巨大な物体が出現していたからだ。高さは約三メートルくらいあるだろうか? その物体の表面は滑らかではなく、凹凸があった。そして、表面全体を覆うようにして銀色の光が反射しており、それが太陽光を乱射させていた。

「何これ?」

わたしはそう呟いた。すると、隣にいた男が口を開いた。

「ああ、これはですね……」

彼は説明を始めた。どうやら、この物体は、彼が作ったロボットらしい。彼の名前はタカシというそうだ。タカシは、現在失業中で、この国では仕事を見つけるのが非常に難しいため、今はロボットを作っているのだという。このロボットを作るために、彼の父親は多額の借金をして工場を建てたのだが、その後すぐに会社が倒産してしまい、借金だけが残ったらしい。しかし、まだ小学生の彼には、お金を稼ぐ手段がなく、また、父親が残してくれたわずかな貯金を使って生活していくしかなかったのだとか。そのため、彼は、少しでも早く、お金持ちになりたいと思っており、そのためにはまずお金が必要だと考えたらしい。

そこで、彼は考えたのだと言う。お金を手に入れるために必要最低限のことだけをすればいいと。そして、その結果、今の会社に就職することができたのだという。

「……あの」

僕は言った。

「はい?」

「えっと……。そういうことって、あるんですか? その、僕みたいな普通の人間が大企業に入れるようなことがあるんでしょうか? だって、そんなこと、普通ありえないでしょう? いや、別に、あなたを疑うわけじゃないですけど……。でも、やっぱり信じられないというか、どう考えてもおかしいというか……。それに、仮にあなたの言う通りだとしたら、どうして僕が選ばれたのかなぁとか……」

すると、彼女は微笑んだ。

「そうですね。確かに、あなたのような方は珍しいかもしれませんね。ただ、私としても、特別なことをした覚えはないんですよ。もちろん、他の方より有利な条件ではありましたが、それでも、基本的には実力だけです。私が、あなたを選んだのは、面接の時の印象が強く残っていたことと、それから、実際にお会いしてみて、この方なら大丈夫そうだと思ったからです。もちろん、私の直感を信じて採用しましたので、それが外れたこともありますし、外れなかったこともよくあります。でも、私は今まで一度たりとも、自分の勘というものに従ったことがないんですよ。だから、これは本当に偶然です。もちろん、運が良かったというのは間違いありません。しかし、それでも、この人はいいかもしれないと思って採用したんですから、やはり、その判断は正しかったということなんでしょう」

「いえ、別に気にしていないですよ。僕だって、自分の性格が変わってるって自覚はあるんで。それにしても、よくそんな人を採用しようと思いましたよね。普通だったら、避けるんじゃないですか?」

「えぇ、もちろんそういう反応になる可能性は高いとは思っていましたが、でも、あなたの場合に限って言えば、そうはならなかったでしょうね」

「どうしてですか?」

「あなたは、わたしのことをよく知っていたはずです。それに、わたしの職業についてもご存知のようでしたし」

「……まぁ、そうですね。一応は知ってますよ」

「じゃあ、もうお分かりですよね? あなたの性格なら、きっと……」

「あー、はいはい。そういうことか。なるほどね」

「ふふっ、やっと気づいてくれましたか。本当に鈍いんですね」

「うるせぇよ。って言うかさ、そんなこと言われたら普通気づくだろ。いくらなんでも、そこまで言われれば分かるわ!」

「まぁ、確かに、あなたの場合は、ちょっと特殊ですもんね。でも、これで納得できたんじゃないでしょうか?」

「まぁ、そうだな。だいたい分かったと思うけどさ。それで結局のところ、何なんだ? おれをこんなところに呼び出してまで聞きたかったこととは何だよ?」

「……まぁ、こんなところかな」

「お疲れ様です。いつもありがとうございます」

「いや、別にいいよ。どうせ暇だしね。それに、こういうのを考えるのって結構楽しいんだよね」

そう言って僕は笑った。

「確かに、面白いですよね。わたしも時々考えたりしますもん」

彼女は笑い返した。

「それで、君はこれからどうするつもり?」

「とりあえずは、普通に大学に行って、卒業したら就職しようかと思ってますけど……」面接官は、しばらく考えた後、「なるほど」と小さく呟いた。

「じゃあ、質問を変えようかな。君は何のために勉強してるの?」

「えっと……将来に役立つ知識を得るため……ですかね?」

「将来って言うと、具体的にはどのくらい先までのことを考えてるの? 大学卒業してからずっと働くのか、あるいはどこかで起業したりとか……そういうことも考えてたりする?」

「そうですね……。まぁ、できれば大学を卒業しても働きたいですし、将来的には、起業したいとも思っています。でも、まだ具体的なイメージまでは持てていません。ただ、漠然とではありますが、いつかは会社を作ってみたいとは思っていて」

「ふーん、そうなんだ。ちなみに、君は、どうしてそう思うようになったの?」

彼女は言った。

「……えっと、それはですね」

ぼくは答える。

「うん、それで?」

彼女は促す。

「……えっと、だから……」

ぼくは答えようがない。

「う~ん、君が何を言いたいのか分からないよぉ。もっと分かりやすく説明してくれないかなぁ?」

彼女が言う。

「……はい、分かりました。では、もう一度最初から確認させていただきますね。えーっと、ご依頼内容は、『息子を殺した犯人を捕まえてほしい』ということでよろしかったでしょうか?」

「はい、そうです」

「なるほど……。しかし、失礼ですけど、息子さんを殺されたのはいつ頃ですか? ちなみに私は、この仕事に就いてもう十年以上になりまして、これまでたくさんの方の依頼を受けてきましたが、残念ながら、事件が起こってしまった後での依頼というのは珍しいケースなんです。というか、今回が初めてかもしれません。なので、まず最初にお伺いしたかったのですが……」

「ああ、それはですね、つい先日、うちの妻の妊娠が発覚したものですから。それで、いろいろと考えた末に、やはり、妻と一緒にいたいと考えまして」

彼はそう言って笑った。彼の年齢は三十代半ばくらいだろうか? 見た目の印象では、もう少し若いような気がしたけど。でも、そんなことよりも気になったのは、彼が、奥さんのことを『妻』と呼んだことだ。ぼくは独身なので、そういう経験がないんだけど、夫婦というのは、お互いを名前で呼び合うものじゃないんだろうか? まぁ、確かに、結婚して一年ちょっとというところみたいだし、まだお互いに慣れていないということもあり得るのかもしれないけど。それにしても、奥さんの方はどうなんだろう? 彼女は、彼を「あなた」と呼んでいた。……いや、別に、ぼくは彼女のことを疑っていたわけじゃなく、ただ単純に不思議に思っただけです。

「……それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」

と、ぼくは尋ねた。すると、彼は少し戸惑った表情を浮かべてから答えた。

「いや……別に、そういうことはないと思うけど」

じゃあ、どういうことなんだ? ぼくはその質問を繰り返した。すると、彼は再び困り顔になりながらも答えてくれた。

「そうだね……なんていうか、君の場合、まだ、自分の中のスイッチみたいなものが完全に切り替わってないんじゃないかな?」

ぼくはそれを聞いて、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。……でも、それがどういう意味なのかはよく分からない。そう言った。

それからしばらくの間、ぼくらはお互いに言葉を発さなかった。ただ、静かに時が流れていくだけだった。やがて、彼が言った。

「ごめん。変なこと言って」

「いいよ。全然気にしない」

そう言ってくれたのは、小学校からの付き合いのある友人だった。僕が、彼女に対して、恋愛的な好意を抱いていることを、彼女は知っていた。そして、僕の告白を断った後も、普通に接してくれていた。

しかし、僕はそのことを申し訳なく思っていた。彼女が、他の男と付き合っているという噂を聞いたからだ。別に、彼女に彼氏ができたこと自体は、そこまでショックを受けることではなかった。ショックなのは、噂が流れたタイミングだ。僕が、彼女と付き合い始めた直後だったのだ。彼女は僕のことを好きだと言った。彼女を信じたいと思う気持ちがあった一方で、彼女の言葉だけでは足りないという思いもあった。そうして悩んだ末に、僕はある決断を下した。そして、今に至る。

「えっと……」

放課後の教室にて、気まずい沈黙が流れる。目の前にいる少女は俯き加減になり、こちらの顔色を窺うような視線を送ってくる。正直言って、かなり居心地が悪い。このまま黙っていても仕方ないので、とりあえず口を開くことにする。

「ごめんなさい。急に呼び出したりなんかしちゃって」

「いえ、全然大丈夫ですよ」

そう答えると、彼女はほっとした表情を見せた。

「それで、用件というのは?」目の前にいる男が言った。

「ぼくは、あなたと話してみたかったんです」

ぼくはそう答えた。

「ほう……。それは光栄だね。しかし、残念なことに私は忙しいんだ。だから、君との時間を無駄にしている暇はないんだよ」

男は肩をすくめた。

「それは失礼しました。では、単刀直入に言いますけど、あなたのやってることって間違ってませんか?」

ぼくは男に向かって訊いた。

「……それで?」

男は言った。

「いや、それだけだよ」

ぼくは男の顔を見た。相変わらず表情がない。ぼくは思った。……本当にこれだけか? この人はいったい何を考えてこんなことを言い出したんだろう? ぼくはもう一度訊ねてみた。

「えっと……、もうちょっと詳しく教えてもらえませんか?」

「そうですね……。簡単に説明すると、私たちの意識というのは、人間の身体の外にあって、普段は目に見えないような状態で漂っていて、必要に応じて情報交換を行うようなものだと考えてください」

「なるほど……」

「それで、例えば、あなたの記憶の中に保存されている情報を他の誰かと共有したいと思った時、あなたはその人に向かって『私の記憶を共有してくれ』って言うでしょう? すると、その人は、自分の中に保存されていたあなたの記憶を自分の外に出力して、それが相手の方へ流れ込んでいきます。そして、その受け取った側の方は、今度はその記憶を使って何か別のことをやり始めるという感じです」

「うーん……。なんかよく分からないけど、とにかく、僕と君の間でなら、お互いの思考や感情といったものが共有されるということですか?」

「はい、そういうことです。でも、これだと少し分かりにくいかもしれないので、もっと分かりやすく説明しますね。つまり、私とあなたの心の間にパスが通っていると考えて下さい。そして、あなたはそのパスを使って、私の心を覗くことができます。」

「えっ?」

ぼくは思わずそう言った。

「ああ、ごめんなさい。言葉足らずでしたね。私が言いたかったのは、私とあなたの精神は繋がっているということなんです。例えば、今の私はこんなことを考えています。『今、私はとても幸せです』。……どうですか? 伝わりましたか?」「えっ? あっ、はい……。伝わってきました……」

「良かったです」

そう言うと彼女は笑った。

彼女の笑顔はまるで天使のようだった。

「あなたは今、『何言ってんだこいつ?』と思いましたよね? つまり、それが私の伝えたかったことです。ちなみに、先ほど、私とあなたの精神は繋がってるとお伝えしましたけど、正確に言えば違います。あなたの心の中には、もう一人の人格が存在しています。まぁ、これは、実際に体験してみないと分からないと思いますよ」

彼女はそう言うと、ぼくの目の前で指をパチンッ! と鳴らした。すると次の瞬間、世界が変わった。まず目に入ったのは、白い天井だった。次に見えたのは、ベッドの上で寝ているぼくの姿だった。

そして最後に聞こえたのは……。

「どうですか? これが本当の私です」

ぼくの視界の中に現れた女性はそう言った。しかし、ぼくの意識は女性の声を聞いていなかった。女性の姿が変わっていたのだ。服装が違うだけではない。顔つきまで違っていた。今の彼女は、まるで別人のようだった。

「私はあなたと同じよ」

今度は確かに聞こえた。彼女の声だった。

「同じ?」

「えぇ。あなたの想像通りだと思うわ」

ぼくの予想通り?……一体どういうことだ?

「分からないみたいね。じゃあ、分かりやすく説明してあげる。つまり、私達は『記憶』というデータバンクを持っているのよ。そして、それを閲覧することで、自分の過去に起こった出来事を見ることができる。それができるのは、私の場合、一日に一度きり。でも、それは同時に、私達が自分の本当の姿を確認できる唯一の機会でもある。なぜなら、その時だけは、私は自分の中にもう一人の人格を持つことができるから」

そう言って、彼女は微笑んだ。しかし、ぼくはその言葉の意味がよく分からなかった。

「……えっと、それってどういう意味?」

「私が見ている世界とあなたが見ている世界の仕組みが違うということ。私の目に見える景色はあなたのものとは違って見えるの。例えば、ほら……見て!」彼女が指差す先には、一輪の花があった。

僕はその花を見て、すぐに彼女の言いたいことがわかったような気がした。

彼女は僕とは違う世界を見ていたんだ。

僕の目の前に広がるこの青い空は、彼女にとっては真っ黒な色をしているらしい。

「だからね、私はいつも思うのよ」

そう言って彼女は、まるで太陽のような眩しい笑顔を浮かべた。僕は彼女に見惚れてしまいそうになったけど、なんとか堪えて、彼女の言葉の続きを待った。

「私達の世界はとても狭いのかもしれないって……」

彼女は少し寂しげな表情になった後、再び太陽の笑みを見せた。僕達は、お互いの目をしっかりと合わせ、そして同時に口を開いた。

『でも、』

『それでもいいじゃない!』

僕達の視線は絡まり合い、そして解け合った。その時、僕の頬を一筋の涙が流れ落ちた。しかし、何故だか不思議と悲しくはなかった。むしろ、温かな気持ちに包まれていた。

僕は、そっと彼女の体を引き寄せた。そして、静かに唇を重ねた。

「……愛してます」

「私もよ」

僕らは再び抱き締めあった。しばらくして、彼女は口を開いた。

「あなたは、これからどうするつもりなの?」

「そうですね……まずは、この世界のことを見てみたいと思います」

「じゃあ、一緒に行きましょう。きっと楽しいわよ」

「えっ? いいんですか?」

「もちろんよ。それに、私はもう行く場所なんてないしね」

「分かりました。よろしくお願いします」

男はそう言って、電話を切った。

「これで、やっと終わりか……。本当に長かったなぁ」

男は呟く。そして、大きなため息をつく。

男はずっと一人で戦ってきた。

しかし、それももうすぐ終わる。

これから、彼は新しい一歩を踏み出すことになるだろう。

男の人生は始まったばかりなのだ。

その日、私は、ある男性と会っていた。

彼と会うのは二度目である。

前回会った時に、私と彼の間で交わされた会話の内容は、ほとんど覚えていない。ただ、その時の私の気分と彼が発した言葉だけは記憶に残っている。

「あなたは、自分の人生をどう思いますか?」

それが、私が彼に尋ねた質問の内容だったと思う。それに対し、彼はこう答えていたはずだ。

「僕の人生なんて大したものじゃないですよ。特にこれといった特徴も無いし、面白い話だってできないし。でも、僕はこの人生が気に入っていますよ。辛いことや悲しいことがあっても、それでもやっぱり楽しいですからね。きっと、僕みたいな人間にとっては、こういう生き方が一番合っているんだと思います。……それにしても、あなたの方は大変ですね。色々と苦労なさっていらっしゃるようですし」

私は、それに対して、「えぇ、まぁ……」と曖昧に答えるしかなかった。

それから、少しの間、沈黙が続いた。

「……つまり、あなたは、こう言いたいわけね」彼女は言った。「わたしは、あなたのことをずっと誤解していたって。……いや、あるいは、勘違いしていたというべきかしら?」

「どうなんでしょう? ぼく自身は、そうは思ってませんけど。……ただ、まぁ、あなたにとっては、そういうことになるかもしれませんね」

「でも、それならどうして?……どうして、そんな嘘をついたの?」

彼女は少し悲しげな表情を浮かべて言った。ぼくは黙ったまま何も答えられなかった。彼女が言う通り、確かにぼくは嘘をついていた。いや、正確には本当のことを言えなかったと言うべきだろうか。ぼくは、自分の口から真実を話すことができなかった。ぼくは、自分の気持ちを彼女に告げることができなくなっていた。ぼくの告白を聞いた彼女の顔を見たくなかったからだ。ぼくは、ただ一言、「ごめん」と謝ることしかできなかった。

それから一ヶ月ほど経ったある日のこと。ぼくはいつものように自分の部屋にいた。机の上には参考書やノートや教科書などが散らばっていて、床の上は漫画や雑誌やゲームなどで足の踏み場もないくらいになっている。

その時、突然、部屋の扉が開かれたかと思うと、姉さんが部屋に入ってきた。そして、そのまま勢いよくベッドの中に飛び込んでくると、ぼくの腕にしがみついて来た。

「ちょっと! いきなりどうしたんだよ?」

ぼくは驚いて尋ねた。すると、姉さんは言った。

「だって、あたしは、あんたが、あたしの弟であることを知っているもの」

そうか……。そういうことだったのか。

姉さんは、ずっと前から知っていたんだ。

いや、ひょっとしたら、もっと前かもしれない。ぼくがまだ幼い頃には、もう既に気付いていたのかもしれない。

どうして、そのことを言わなかったのだろう? なぜ黙っていたのだろう? と、ぼくは思った。

でも、すぐに分かった。そんなことを聞いても仕方がないからだ。それに、もしも聞いたとしても、答えてくれるかどうか分からないし……。きっと、姉さんのことだから、教えてくれないだろうな。うん。

ぼくは、自分のことを思い出した。そうだ。ぼくは、ぼくのことを知らなかった。ぼくは、今まで、自分が誰であるのか分からないまま生きてきた。そして、これから先、一生の間、自分が何者か知ることができないまま生きていかなければならないのだ。ぼくは、自分の名前すら覚えていなかった。ぼくは、自分が誰かさえ分かっていなかった。ぼくは、自分の年齢さえも分かってはいなかった。ぼくは、ぼくが何者であるのかを全く知らずにいた。しかし、それでいいのではないかと思う。なぜならば、それが今のぼくにとっては自然な状態なのだから。

「さてと」

ぼくは呟いた。

「そろそろ行こうか?」

「うん」

彼女は言った。

「分かったわよ」

彼女は立ち上がる。そして、ぼくらは歩き出した。

「ねぇ」

彼女が言う。

「わたしたち、本当にこれで良かったのかな? やっぱり、他にもっと良い方法があったんじゃない?」

彼女はそう言った。確かに、そういう考え方もあるかもしれない。でも、ぼくはこう思うんだ。結局のところ、自分がやりたいことをやった方が、後々後悔しないんじゃないかなってね。自分の人生なんだからさ。……まぁ、これはあくまでぼくの意見だけど。人は、なぜ生きるのか? それは、自分の人生を精一杯生き抜くためだと思います。もちろん、それだけじゃないんだけど。

そして、もう一つ。人は、生まれてきた意味を知りたいと思う生き物なのです。つまり、人生の意味を探し求めて生きているのですね。でも、それって当たり前のことですよね。だって、自分が生まれた理由って分からないし、それに、生まれた理由なんて分かったとしても、それが必ずしも人生の目的にはならないでしょうし。例えば、誰かを愛することとか、何かを成し遂げることとか、あるいは生きることに全く関係がないかもしれないし。

でも、そういう風に考えてると、どうしようもなく不安になるのです。なぜ、この世に生を受けたのか? そして、これから先、何のために生きていくのか? 何のために存在しているのか? 何のために生まれたのか? 何の役に立つために生まれて……。……あれっ!? ちょっと待った!「わたし」って何だろ……。そういえば、「わたし」って何なんだ? とまぁ、こんな感じで、いつも哲学的なことを考えてしまうのです。だからと言って、別に哲学的思考をしているというわけではありません。ただ単純に、ぼくは知りたいだけです。この世界について。そして、自分のことについて。まぁ、とにかく、ぼくはこういう性格なのでしょうがないです。ちなみに、このエッセイのタイトルである『ぼく』というのは、『わたし』のことを指しています。あとは、もう説明しなくても分かると思いますが、一人称小説ということです。

「ここまでをまとめてごらん?」

「えぇー、人は、生まれた時からすでに死ぬ運命を背負っており、死ぬまで生きるしかない。人間は、生まれる前の存在については知る由もないが、死ぬ瞬間だけは知ることができる。自分の存在意義について考えたりするのは無意味なこと。人は、生まれた時点で既に死んでいる。人が誰かを殺す理由は様々あるが、その人自身が殺したいと願って殺すことはない。自分の心の中が分かったとしても、それを他人に伝えることは不可能。なぜなら、それは脳内で起きている出来事だから。ぼくらの体は原子で構成されている……?」

俺はクタクタな様子で答えた。

「よろしい。次に行こうか」

まだ行くのか……というか答えはなんでもいいんじゃないか……?神様の一人語りがまた始まる。

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