第7話 岡山空襲とよつ葉園
1990(平成2)年3月某日 よつ葉園園長室
1990年3月のある日、年度末の事務処理のため、大槻園長は夜遅くまで園長室で執務をしていた。古村武志事務長はじめ事務職員も、すべて帰宅していた。
時刻は午後8時過ぎ。夕方にいったん自宅に戻って食事を済ませ、再び管理棟の園長室に戻って、執務にいそしんだ。事務所には、もう誰もいない。電話当番は、当直の保母と児童指導員が各自の担当する寮の電話で対応してくれている。こちらから何も電話に出る必要はないし、自分のもとに、こんな時間に電話がかかってくることなど、まずない。
彼は給湯室に行き、沸かしてあったポットの湯を使ってインスタントコーヒーを淹れて園長室に持ち帰り、執務用のデスクに腰かけて、一服していた。
トントントン
こんな時間に、誰か用事でもあるのか?
事務室の入口ドアは、すでに鍵をかけている。誰かが入ってくる余地などない。とりあえず、気のせいだろうと思って、コーヒーを一口飲み、目の前の書類を一通、決裁した。かくして、未決の案件が一つ、既決となった。
トントントン
再び、ノック音がドアの向こうから響いた。
おかしいなぁ?
改めて一口コーヒーを口にし、デスク前のチェアーに深く腰掛けた。
両腕をひじ掛けに置いて、一息ついた。
トントントン・・・「ごめんくださいませ」
今度は、ノック音だけではなく、若い女性の声がした。今どきの女性の声とは少し違うような気がする。意を決し、彼はドアの向こうに向けて声をかけた。
「どうぞ、お入りください」
「夜分に申し訳ありません。失礼いたします」
ドアが開くとともに、若い女性と5歳ぐらいの男の子が入ってきた。平静を装いつつ、大槻園長は、二人を招き入れ、ソファに腰かけさせた。
彼は、コーヒーのマグカップをもって、母子の前のソファに腰かけた。
この二人が、噂に聞く「幽霊」なのだろうか?
「どちらさまですか?」
大槻園長の問いかけに答えたのは、母親のほうだった。
「名乗るほどの者ではございません。この子は息子であって息子ではありません。私は、何と申しましょうか、この子の「継母」なのです」
「そうですか。あなたたちが、よつ葉園に出てくる「幽霊」さん、ですかな?」
彼女は「幽霊」という言葉に特に感情を表わさず、淡々と述べた。
「世間では、そう申すのでしょう。何と申しましょうか、幽霊でもお化けでも、結構でございます。実際、そのようなものですから・・・」
何と申しましょうか・・・。
1945年生まれの大槻園長の子どもの頃の娯楽は、何といっても野球。岡山県西部の田舎町で育った彼は、ラジオ中継やたまに行く映画館、それと、毎月発行される雑誌で、野球の中継を見たり聞いたり読んだりして、野球というスポーツに親しんでいった。赤バットの川上哲治選手のファンになったのがきっかけで、彼は巨人ファンになった。そんな彼が子どもの頃ラジオ放送や始まりたてのテレビ放送でよく耳にした言葉が、まさに、その言葉だった。元松竹ロビンス監督で、評論家としても名高かった小西徳郎氏の口癖であった。その言葉を、彼は思い出した。
そうでしたか。
それで、この子とあなたはなぜうちに?
そのお姿からして、私が生れる前の方ではと、うちの職員や子どもらから聞くたびに思っておりましたが・・・。
「ええ、園長先生のおっしゃるとおりです。私の夫は、先の大戦で戦死しました。夫の前妻も、夫が戦死する前に病死していました。私は、夫の前妻の遠縁の者です。夫と結婚したのも束の間、夫は再び出征し、戦死してしまいました。かくいう私たちも、あなたがお生まれになった昭和20年の岡山空襲で・・・」
大槻園長の質問に、女性は、静かに答えた。彼は、黙って聞いていた。
女性は、感極まったのか、言葉が続かない。
・・・・・・
「何も、無理にお話しいただかなくても結構です。しかし、あなた方は、このよつ葉園と、何か御縁がおありだったのでしょうか?」
「はい。この子を、よつ葉園に預けたらどうかと言われたことがありました。よつ葉園さんは建物が軍に接収され、確か御津方面だったと思いますが、疎開されていますね。せめてこの子だけでも疎開させていたら、こんなことにならずに済んだのではないかと思う反面、この子が戦災孤児になってしまうのも、不憫でして・・・」
彼女は、空襲の日のことを、当時生れて間もなかった大槻園長相手に、淡々と語り続けた。感極まって泣き出したくなるのを、彼女は必死でこらえているようだ。
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