第3話 郷愁論は、もはや通用しない・・・

 筋道を通して怒りをぶち曲げたZ青年は、トイレに行ってきますと言って、しばらくの間、席を外した。


 山崎良三指導員が、ふと窓の外に目をやった。

 彼には霊感があるというわけではないが、知人には、霊感の強い人物が何人かいた。噂に聞く「幽霊」に、彼は遭遇した。あの男子児童から聞いたのと、ほぼ同じ年恰好の親子連れだった。子どもは、5歳ぐらい。母親は、年の頃にして30歳前後。彼の妻よりも、幾分若いように思われた。

 彼女は息子を促し、親子そろって山崎指導員に頭を下げた。

 彼女の顔が、それまでと打って変わって、少し悲しそうになったように見えた。

 それとともに、男の子が、今にも泣きそうな表情になった。

 彼女は再び山崎指導員に頭を下げ、息子を連れて、ブランコと滑り台のある園庭へと歩いて去っていった。


 Z青年は、トイレから戻ってきた。

「必要なことは申し上げました。これ以上の長居は無用です。あなた方とお話し続けても、おそらく埒があくこともないでしょう。それでは、失礼いたします」

「まあそう言わずに、飯でも食って帰ったらよかろうに」

 尾沢指導員の言葉を、彼は途中で遮った。

「そんなことをしに来たのではありません! きちんとした話ができない以上、時間の無駄です。飯でも食って報告がてらに与太話でもして・・・、そんな気休めにもならんことに割く時間など、私には無駄以外の何物でもありません。それでは、失礼いたします」

 Z青年は、帰り際の玄関で、こんなことを述べた。


 そうそう、50周年の冊子で、山上(敬子・元保母)先生が書かれていましたね。森川一郎園長の時代の話。森川園長は、報告と称してよつ葉園を訪れた卒園生に、やれ辛抱せいだの、もう少し頑張ってみられぇのへちまの、そんなことを述べておられたそうですな。

 そんな手法が今でも、この私にも、そのまま通用するとでもお思いか?

 その頃の卒園生の皆さんには通用したかもしれませんが、私には、そんな泣き落としの出来損いのような手法など通用しませんよ。

 そんなくだらん郷愁論が使えると思ったら、大きな間違いです。

 よくよく、御賢察願います。


 両指導員とも、その言葉には何一つ返す言葉を選びきれなかったという。

 かくしてZ少年は、自転車に乗ってよつ葉園を去っていった。


・・・・・・


 山崎指導員は、彼が自転車に乗って去り行く光景を窓越しにじっと見ていた。

 幽霊の少年が、去り行く青年に声をかけていた。

 山崎氏には、そのときばかりは、空耳なのか、男の子の声が聞こえた。母親は、微笑をたたえつつ、息子とともに、去り行く青年の姿を見送っていた。だが彼には、その声が届いている様子はなかった。そればかりじゃない。母子の存在さえ、気づいている様子もなかった。彼女は、山崎指導員に対して、少し悲しそうな表情を見せつつも、息子とともに頭を下げて、彼の後を追うように、よつ葉園を去っていった。


 尾沢康男指導員も、幽霊の話を聞かされていた。

 本気で信じていたわけではないが、話を聞くたびに洒落になっていない雰囲気を感じ始めていた。

 彼は1979年にO文理大学を卒業後「新卒」で養護施設よつ葉園に就職した、いうなら生え抜きの児童指導員。

 お化けとか幽霊とか、そういうことに特別興味があったわけではない。

 だからと言って、大槻園長ほど「非科学的だ」と言って切り捨ててしまう合理主義者でもない。


 お化け、なぁ・・・、本当にいるのかな?


 それが彼の偽らざる思いであった。彼の妻は大学の同期生であったが、彼女もまた、よつ葉園で時折聞かされる「お化け騒動」に興味を持った。


 Z少年がよつ葉園を去った後、尾沢康男指導員は自宅である職員住宅に戻った。

 妻はすでに食事の支度をしてくれていた。

 その日の食事中、彼の妻は、このところ噂となっている母子の話をした。


 何と、彼が事務所に仕事のため出掛けた後、一家の住む職員住宅の前に現れたというではないか。

 まだ夕方の5時を少し回った頃。

 住宅の外に洗濯物を干しているとき、その親子連れがやってきて、彼女に、にっこり笑って挨拶をしたのだという。

 他の園児や職員らの視界には入らない場所であった。

 男の子が元気よく挨拶した。母親は、にっこり笑って彼女に頭を下げたという。

 3歳になる娘が、男の子に手を振った。男の子も、にっこり笑って手を振った。

 尾沢氏は妻の話を聞いてびっくりはしたが、特にそれを問題視もしなかった。


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