第15話  糸引く者

                  一

 昭憲田池しょうけんたいけの水面が秋の声に揺れている。細波が崩れた岸辺で散り、土を掻いて茶色く滲む。その上に八本の太く黒い影が伸びていた。どの影も輪郭は歪である。夕日に赤く染められた湖畔の大地には、巨大な円筒形のビルが建ち並んでいた。陸地から射し込む低い陽射しを受け止めているそれぞれのビルは、その光をひび割れた窓ガラスで乱反射させ、四方に散らす。そのビルの幾つかは隣のビルを蹴って射し込む光に照らされ、表面の無数の銃痕や削られた壁面、剥き出しの鉄骨を露にする。割れた大窓からは、崩れたブラインドが垂れ下がり、秋風に揺れていた。

 各ビルの足下からは、中央に円形の池を備えたロータリーを基点として、西へと道路が延びている。どの池も道路の延長線の部分が破壊され、水を残していない。斑模様に窪みを残す道路の上には、横転した赤い装甲車と、激しく変形し焼け焦げた戦車が残されていた。道路の左右にある芝の庭園も、深い陥没穴を散在させている。その間には、炭化した倒木が、掘り返された根に焦げた土を抱きかかえたまま、まだ幾筋もの白煙を立たせていた。破壊された庭園のあちらこちらには、巨大な軍事ロボットの残骸が残っている。それらのロボットは黒く焼け焦げ、ある機体は横たわり、ある機体は下半身だけになって立ち、ある機体は肢体を四方に散らして転がっていた。胸から上を失ってもなお立ち尽くしている一体のロボットの残骸に数羽の鳩がとまり、剥き出しとなった機械部分から覗いている細いコードを嘴で挟んで引っ張っている。昨夜の戦闘を知ってか知らずか、彼らはしきりに喉を鳴らした。

 車を降りた二人の男は、崩れた階段を登り終え、一帯の戦塵を立ったまま眺めていた。暫くすると、そのうちの一人の男が、着ていたガンクラブ・チェックの古い上着の中から、呼び出し音を鳴らしている旧式のスマートフォンを取り出した。その初老の男は、時代遅れのその通信機を指で操作してから、耳元に運んだ。彼は暫らく小声で相槌を打っていたが、やがて口を開いた。

「そうか。分かった。ご苦労だった。ああ、それから石原と中村に無理しないように言っといてくれ。今日は適当に切り上げろと。あいつら、頑張り過ぎるからな。じゃあ、後の事はさっき伝えた通り、よろしく頼む。俺はもう一仕事終えてから戻るよ。リコちゃんも、それが済んだら帰っていいぞ」

 そう言うと、三木尾善人警部はスマートフォンを耳元から離した。彼はまた、そのパネルを覗きながら指先で操作して何かを確認した後、それを古い上着の中に仕舞った。

 三木尾善人は、徹夜明けの長い一日の疲労を引きずりながら、ゆっくりと芝生の上を歩いていく。散らばっている金属片や土の塊を避けながら歩いた彼は、その庭を斜めに横切ると、ビルの入り口前のロータリーへと続く道路に出た。その道路のアスファルトは崩れていなかった。道路の途中の路肩に、横転した赤い装甲車が大きく窪ませた側面を上にして停まっている。後部のドアが開け広げられたままになっていて、中に人の姿は無い。三木尾善人は、その道路の先のビルに視線を向けた。北の端に建つ一号棟ビルは、ほとんど無傷だった。ロータリーの中央の池も壊れておらず、一階のガラス張りの入り口も綺麗なままである。彼は顔を上げ、ビル全体を視界に入れた。南の側面に幾つかの損傷箇所を見つけたが、ビル自体に大きく破損している部分は無い。それは、鉄骨をむき出しにして、殆どの窓ガラスも割られた隣の二号棟ビルと対照的だった。

 三木尾の隣を歩いていた短髪の男は、三木尾の視線に合わせて顔を上に向けながら言った。

「このビルは、攻撃しなかったようですね」

 三木尾善人は顔を下げ、周囲を見回しながら答えた。

「ああ。防衛ロボットの排除だけで終わらせたようだな」

 永山哲也は南の方に顔を向けながら言った。

「やはり、医療機器を開発するセクションだからでしょうか。向こうの八号棟ビルも、たいして攻撃されていないようですが。たしか、八号棟って……」

「ここの職員たちの職直施設や福利厚生施設が入っているビルだ」

「じゃあ、深紅の旅団レッド・ブリッグは、被害を最小限に抑えようとしていたという事でしょうか」

 三木尾善人は静かに答えた。

「どうだかな。奴らがそうするように、仕組まれていたのかもしれん」

 永山哲也は眉間に皺を寄せた。

「仕組まれていた? 医療棟や宿直棟なら、彼らが攻撃目標から除外すると目論んでいた者がいるという事ですか」

 三木尾善人は一号棟ビルの一階を見据えながら歩き始めた。

「ま、中に入ってみれば分かるだろうよ」

 永山哲也は眉をひそめる。三木尾を追いかけて歩き始めた彼は、改めて尋ねた。

「刑事さん、なぜ、今更ここに? このGIESCOにまだ、何か有るんですか? どうして僕を……」

 腰を叩きながら歩いていた三木尾善人は、先にあるガラス張りの入り口の方に目を向けたまま、答えた。

「永山さん、あんたは真面目な人だ。だから、これまでの話を真に受けて傷心しちまってるんじゃないかと思ってな」

「……」

 黙って付いて来る永山哲也に、三木尾善人は確認した。

「あんたは、田爪瑠香の両親が死んだのは、自分のせいだと思っている。そう言ったな」

 その若い記者は、下を向いて答えた。

「はい。……」

 三木尾善人は再度確認する。

「あんたが南米から二〇〇三年の日本にマシンを送ってしまった事が原因で、田爪瑠香の両親が死ぬ事故が起こり、ストンスロプは量子コンピュータやタイムマシンの開発を始めた。すべての事件のきっかけを自分が作ってしまった。そう思っているんだろ?」

 永山哲也は、もう一度頷いてから、答えた。

「ええ。正直言って、責任を感じています。ものすごく……」

 そして歩きながら、隣の三木尾善人の方に顔を向ける。

「でも、今、刑事さんが仰った『真に受けて』とは、どういう意味です?」

 三木尾善人は、ガラス張りのビルの正面玄関を睨んだまま足を止めた。そして、彼に合わせて立ち止まった永山に、前を向いたまま言った。

「永山さんよ。あんたも記者なんだろ。責任ってのは、事実関係が確定しないと追及できないんじゃないか?」

 永山哲也は、三木尾の視線と同じ方向に顔を向けて、眉間に深い縦皺を刻んだ。

「――すると、やっぱり、まだ何か有るんですね」

 三木尾善人は、首を反らして巨大なガラス張りのビルの上の階を仰ぎ見ながら答えた。

「それを、これから確かめに行くんだよ。それに、その確認には、あんたの協力が必要だ。それから、あそこに居る、意外と優秀な男の協力もな」

 視線を水平に戻し、前を指差した初老の刑事は、その手を下ろすと、腰を叩きながら再び正面玄関の方に歩いていった。短髪の若者は、怪訝な表情で彼の後を追う。

 実際に歩いてみると、そのビルの入り口までは、見た目以上に距離があった。

 二人がビルの正面玄関の前に着いた時、そこに設置された強化ガラス製の回転扉の横で、汚れたトレンチコートを着て古いハットを被った男が、壁一面のマジックミラーの窓に長身を密着させて、中の様子を覗いていた。三木尾善人はその男の後ろに立つと、一度軽く咳払いをしてから、大声で言った。

「よう。ダーティー・ハマー。やっぱり来てたか」

 三木尾の声に驚き両肩を上げたトレンチコートの男は、その大きな体を回して振り向くと、マジックミラーの窓に背中を押し当てた。

「ゲッ。善さん。どうしたんだ。なんで、こんな所に」

「おまえこそ、ここで何やっているんだ。まさか、また排水溝から忍び込んだ訳じゃねえだろうな」

 探偵の浜田圭二は左手で頭の上のハットを押さえながら、大きな右手を顔の前で左右に何度も振って答えた。

「ま、まさか。ははは。そ、そんな訳ないぜ。それじゃあ、不法侵入じゃないか。もう、コリゴリだぜ。ああ、いや、前を通りかかったら、ちょっと気になっただけだ。あの爺さん、随分と撃たれちまったからな。ところで、なんで永山ちゃんも居るんだよ」

 返答をしようとした永山を遮るように、三木尾善人が浜田に言った。

「ちょうどよかった。おまえも一緒に来てくれよ、ハマー。確認したい事があるんだ。先に言っとくが、どうでもいい事じゃねえぞ」

 三木尾善人は浜田の胸を軽く叩いて、ニヤニヤしながら彼の前を通り過ぎて行った。

 浜田圭二は不満そうに三木尾を見て言う。

「あん? 確認って、何を確認するんだ? おい、ちょっと待てよ。善さん」

 三木尾善人は強化ガラス製の回転扉の中に入って行った。

 浜田の顔を一瞥して、永山哲也も扉の中に入って行く。

「何なんだよ。まったく……」

 探偵の浜田圭二は頬を膨らませて、手で頭の上のハットを押さえながら、回転扉の中に身を屈めて入って行った。



                  二

「とう!」

 掛け声をあげて浜田圭二が回転扉から玄関ホールに飛び出した。両手を左右に広げ、ポーズをとる。顔を上げると、永山哲也が呆れ顔で立っていた。

「一回で出てこれないんですか。何周したんです」

「三周だ。ワン、ツー、スリー。ホップ、ステップ、ジャンプ。えい、えい、おー。だいたい何でも三回だろ」

 永山哲也は溜め息を吐いた。

 浜田圭二はハットの角度を整えながら、エントランスの中を見回す。

「あれ? 善さんは」

 永山哲也はエレベーターホールの入り口の前を指差した。

「向こうです、ほら。何だか、これ以上は中に入れてもらえないようですよ」

 浜田圭二は顔を向けた。

 三木尾善人は警備服を着た若い女性を前にして立ち止まっている。警備服の女は三木尾に向かって強めの口調で言った。

「だから、何度も言いますが、ここは以前から関係者以外、立ち入り禁止なんです。昨日の事が無くても、お通しできません」

「ああ、そうかい。だが、もう、十分に関係者なんだよ」

 三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着の懐から、折りたたまれた警察バッジを取り出すと、広げたそれを警備員にかざして見せた。

「緊急なんだ、通るぜ。悪いな」

 困惑する女性警備員を手で退かして前に進む三木尾善人の前に、今度は数人の男性警備員が立ちはだかった。

 その中の年配の男性警備員が三木尾に言った。

「ちょっとお待ち下さい。ここから先は、一切の立入りが禁止されています。警察だからといって……」

 三木尾善人はその警備員を睨んで言った。

「禁止? テメエら、どこの国で働いてるつもりだ。ここは日本で、俺は日本の警察官だ。国家権力の警察様が緊急の必要があるって言ってるんだよ。それを禁止するかどうかは、国のお偉いさんたちが決めるこった。図に乗るんじゃねえ。それとも何か? ここは外国大使館か? ん?」

 三木尾善人は、制止しようとする警備員たちの手を振り払ってエレベーターホールの中へと進んで行った。

 無茶苦茶な三木尾の理屈を聞いていた永山と浜田は思わず顔を見合わせたが、すぐに彼を追いかけて走っていき、彼と共にエレベーターへと乗り込んでいった。

 エレベーターの扉が静かに閉まる。警備員たちは困惑した顔で立ち尽くしていた。



                  三

 一号棟と呼ばれているそのビルには、GIESCOの医療部門を担う部署が入っていた。昨夜の戦闘の被害はほとんど無く、被害らしき被害といえば、二号棟との連絡通路を破壊され落とされたのみである。そのビルの最上階の広い一室は、東側の壁一面が強化ガラス製の窓になっていた。普段ならば、そこから昭憲田池とその向こうに有多町、寺師町、湖南見原岡工業団地、都南田高原といった並びをはっきりと望む事が出来たのだが、今は厚い刺繍が施されたレースのカーテンで覆われていて、池の向こうの建物をはっきりと捉える事は出来ない。部屋の中は、そのレースのカーテンの刺繍の隙間から差す光と、並べられた数台の機械のモニターが放つ光のみに照らされていて、随分と薄暗かった。その部屋の中ほどの暗然とした空間に、数台の機械に囲まれて、大きなベッドが一台だけ置かれている。白いシートが掛けられたそのベッドには、周りの機械から何本もの管が延びていた。赤や黄色の管はベッドに掛けられた白いシートの下へと延びていて、そのうちの一本は枕元の人工呼吸機を経由していた。規則的なリズムで繰り返される人工呼吸機のポンプの伸縮音と脳波計器が刻む不規則な記録音が、他の機械の稼動音に入り混じって部屋の中に響いている。ベッドの上では、白い口髭を酸素マスクで覆った白髪の老人が白いシートを掛けられて眠っていた。彼の不規則な心拍リズムを伝える機械を背にして、ベッドの横で小さなスツールに座っている光絵由里子が、点滴管が刺された老人の左手を自身の両手で覆うようにして握り締めている。

 光絵由里子は廊下から聞こえてくる物音に気づき、部屋の入り口の方に顔を向けた。ドアの向こうからGIESCOの所長の内田文俊と他の所員たちの声が聞こえてくる。彼らは必死に誰かを制止しているようであった。暫くしてドアが開き、内田たちを押し退けて三木尾善人が入ってきた。続いて、永山哲也が白衣の所員たちの隙間をすり抜けるように部屋の中に駆け込んでくる。最後に、汚れたトレンチコートに古めかしいハットを被った男が、他の所員に何かブツブツ言いながら歩いてきた。彼は入り口の鴨居に頭をぶつけると、ハットを押さえて入室してきた。

 光絵由里子は、彼らを追って部屋に入ってきた内田たちに向けて首を縦に振って見せた。そして、内田たちに部屋の外に出るように促した。

 内田と他の所員らが部屋から出ると、三木尾善人はトレンチコートの男に指示して、閉められたドアに内側からロックをさせた。

 その集中処置室の中には、三木尾善人警部と永山哲也記者、浜田圭二探偵、光絵由里子会長、そして、ベットの上の瀕死の執事だけとなった。

 三木尾善人は光絵の目を見て一言だけ発した。

「状態は」

 光絵由里子は男の左手を握ったまま、静かに首を横に振った。三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着の左前を脇にずらすと、ズボンのベルトのバックルの横に左手の親指を掛け、下を向いて溜め息を吐く。

 光絵由里子は肩を落として目を瞑り、声を漏らした。

「こんな事になるとは……」

 三木尾の横に立っていた永山哲也が尋ねた。

「警部さん。いったいどういう事なんです。なぜ僕を、ここに」

 三木尾善人は黙って一度だけ視線を永山に向けると、ベッドの方を顎で指し、また下を向いて彼に言った。

「見てみな。永山さん」

 永山哲也は三木尾に促された通りベッドの方に歩いて行き、光絵が座っている枕元とは反対側に立つと、そこに寝かされている白髪の老人の顔を覗いた。一度首を傾げた彼は、今度は上半身を倒して自らの頭の角度を何度も変えながら、熱心にベッドの上の老人の顔を確認する。その永山の姿を、ベッドの足下から少し離れた所に立っていた三木尾善人も、その後ろで壁にもたれかかってドアの横に立っていた浜田圭二も、じっと見ていた。半透明の酸素マスクに口元を覆われた老人の顔を暫く観察した永山哲也は、体を起こし三木尾の方を向いた。眉間に強く皺を寄せ、困惑したような表情で言う。

「この人は……」

 永山哲也は、それ以上、声を出さなかった。彼は脳裏に浮かんだ言葉を口に出すべきか否か迷っているようだった。

 三木尾善人は視線を永山の顔に向けたまま、光絵由里子の方に顔を振って、言った。

「この人の執事の小杉さんだ」

 永山哲也は、立ったまま頭の角度だけを変えて、ベッドの上の老人の顔をもう一度見つめた。

「小杉さん……」

 怪訝そうに呟いた永山に、三木尾善人は言った。

「例の刀傷の男。ASKITに雇われていた奴だよ。あんたも知ってるだろ。あいつに撃たれたのさ」

 永山哲也は、三木尾に再び顔を向けて、言った。

「だったら早く病院に。ここでは治療が出来ないじゃないですか」

「いや、ここじゃなきゃ駄目なんだ。ここ以外の所では対処できない。そうですよね、会長さん」

 光絵由里子は、ベッドの上で眠る執事の手を握り締めたまま、静かに頷いた。

「ええ。残念ですが、ここ以外の所はどこも、処置できる技術を有してはいないわ」

 そして、三木尾の方に悲しみで濡れた目を向けて、言い足した。

「どうやら、あなたには全て見通されているようね。三木尾善人警部」

 三木尾の後ろから身を乗り出した浜田圭二が、首を傾げながら言った。

「ああ? どういう事なんだ、善さん。ここじゃないと駄目って。意味が分からないぜ。その爺さんの様子じゃ、どう考えても病院の方がいいだろ。ここは医療棟って言っても、医療機器とか高性能の義手や義足なんかの開発を研究している建物なんだぜ。技術者はいても、医者はいない。病院からこっちに回されてくるのなら分かるし、その場合は、医師も同伴してくるはずだろ。昨日はとりあえず、ここに運ぼうって事になったんだが、まる一日近くも経っているのに、どうしてまだ、こんな所に寝かせているんだよ。もう、とっくに別の病院に運ばれていると思っていたんだぜ。その病院を教えてもらおうと思って来てみたんだぜ、俺は」

 三木尾善人は黙っていた。

 浜田圭二は口を尖らして両手をポケットに仕舞うと、少しふて腐れて、再びドアの横の壁に背中を付けた。

 光絵とは反対側のベッドの脇で、その上で眠っている老人を観察していた永山哲也は、老人の体に掛けられていた白いシートから少しだけはみ出していた彼の右手に注目した。シートの中で彼の体に繋がれているはずの赤や黄色の管をずらさないように気を付けながら、永山哲也は彼の冷たい右手を取り、記者の優れた目で観察した。黒く油が染み付いた節くれた指を握り、その手を返すと、掌には大きく焼け爛れた痕があり、所々から白や銀色の『何か』が皮膚を透けて見えていた。

 永山哲也は、三木尾の顔を再び見た。その視線は半ば睨みつけるかのようであった。

 その彼の視線を受け止めたまま、三木尾善人は、背後に立つトレンチコートの男に声を掛けた。

「なあ、ハマー」

 両手をコートのポケットに入れたまま、少しだけ顔の向きを下に向けていた浜田圭二は、三木尾の声に反射的に反応し、そのハットの下の顔を上げて応えた。

「な、何だよ。……」

 三木尾善人は、体は前に向けたまま、顔だけを少し横に向けると、ベッドの横に立つ永山哲也と視線を合わせて、背後の浜田に確認した。

「そうだよな。この人は、小杉正宗さんだよな」

 浜田圭二は右手を頭の上のハットに持っていき、その角度を前に少し傾けながら答えた。

「あ……ああ、たぶんな……」

「たぶん?」

 三木尾善人は、ベルトに左手を掛けたまま振り返った。そして、帽子の角度を更に深くして目を隠そうとする浜田をじっと見据えて、彼に尋ねた。

「ところで、ハマー。おまえ、ここに何しに来たんだ?」

 浜田圭二は口を尖らせたまま横を向いたり、天井を眺めるふりをしながら、ポケットに入れたままの腕をしきりに動かして、必死に回答した。

「あ……いや、それは……だから、病院を知りたかったんだよ。――ちょっと、見舞いに行こうと思って……」

 三木尾善人は再びベッドの方を向くと、永山哲也の顔を見ながら少し口角を上げて、後ろの浜田に言った。

「親切な探偵だな。搬送された病院を調べてまで、お見舞いか。本当に、ただ見舞うだけのつもりだったのか」

 浜田圭二は黙っていた。三木尾善人は彼を問い詰める。

「そう言えば、おまえ、この爺さんが撃たれた現場に居たんだよな」

「あ……ああ。居たぜ」

「その時、あの刀傷の殺し屋は、何か言っていたそうじゃないか」

「ああ、まあ……な」

「おまえ、それを確かめたいんじゃないのか」

 浜田圭二は一瞬、両肩を上げて口を左右に広げる。彼はそれを隠すように大げさに咳払いをして冷静を装うと、右手の指先で顎先を掻きながら、また天井を見上げた。

「ああ……まあ、確かめると言うか、何と言うか……ちょっと気になる事があって……」

 前を向いたままの三木尾善人は、ニヤニヤしながら浜田に言った。

「ま、この爺さんの容態が気になって、見舞うっていうのも、おまえさんの性格からして、嘘じゃないだろうがな。だが、おまえの事だ、他に目的もあるんだろ?」

 浜田圭二は壁から背中を離すと、三木尾に歩み寄り、彼の右肩の上から顔を突き出して耳打ちした。

「ああ、ちょっと、確認にな……ちょっとだよ。ちょっと」

 浜田圭二は三木尾の顔の前に間隔を空けた親指と人差し指を出して見せた。

 三木尾善人は眉間に皺を寄せ、顔の前の浜田の右手を自分の右手で退けながら、前を向いたまま浜田に一言だけ尋ねた。

「何を」

 その口調は厳しいものだった。

 浜田圭二は、右手を帽子の上に乗せて、半笑いで答えた。

「いやあ、それは……」

 ベッドの横に立ったまま、三度、老人の顔を凝視していた永山哲也が、呟いた。

「似ています……」

 三木尾善人は鷹のような鋭い眼を永山に向けると、静かに低い声で問い詰めるように尋ねた。

「誰に」

 永山哲也は、ベッドの上で意識を失っている白髪の老人の顔を凝視したまま答えた。

「僕が南米の地下でインタビューした男です」

 彼は言葉を選んで、そう答えた。三木尾の後ろで落ち着かない様子で立っていた浜田圭が、動きを止めた。ハットのつばの下から彼の鋭い目が、永山と、その視線の先のベッドの男を捉えている。その前で、三木尾善人は目を瞑ったまま言った。

「ハマー、おまえは、どう思う。俺は、この爺さんの顔をはっきり見るのは、これが初めてだ。だが、おまえは違う。GIESCOとAB〇一八の施設で、両方をはっきりと見ている。生きて意識のある二人の顔を直にな。しかも、おまえ自身、意識的に見ている」

 三木尾の後ろに立ったまま、浜田圭二が真顔でゆっくりと、落ち着いた声で答えた。

「ああ、確かに似ているぜ。人を探し出すのが本業の俺が言うんだ。間違いねえ。似ているぜ。歳は違うようだがな。二人は確かに似ている」

 三木尾善人は目を開けた。

「それで、気になって、入院先を調べる為に、ここまでやって来た。そうだろ」

 浜田圭二は三木尾の右から前に歩み出ると、ベッドの方に歩いて行く。

「ああ。そうだ。美歩ちゃんや善さんにも確認しようかと思ったんだが、その前に、まず先に、もう一度この爺さんの顔を拝んで確認してから、二人に訊いてみようと思ったんだ。似ていると感じたかどうか」

 ベッドの横でスツールに腰掛けている光絵由里子の前に立ったまま、高い位置から老人の顔を見下ろして確認している浜田に、三木尾善人が言った。

「宇城大尉は意識を回復したそうだ。峠は越えたらしい」

 浜田圭二は、ベッドの上の男の顔を見つめながら言った。

「そうか。そりゃ良かったぜ。だが、思い出せるかな。俺が感じていた事に、自分も気づいていたかどうか」

 三木尾善人は浜田に言った。

「あの戦闘の中での事だからな。皆、周囲の安全を確保する事に気が回っていたはずだ。実際に皆、あの現場では気づかなかったそうだ。少し落ち着いて記憶を辿るうちに、皆、気になり始めたんだとさ」

 浜田圭二は振り返って、三木尾に尋ねた。

「じゃあ、もう善さんは、みんなに確認したのか」

 三木尾善人は一度黙って頷くと、浜田の顔を見て答えた。

「皆、おまえと同じ意見だ。だが、確信を持ててはいない。『似てるかも』と感じている程度だ。勿論、宇城大尉には未だ確認していないし、山本少尉や下村一等兵にも訊いてはいない。あの二人は両者を見てはいないからな。外村大佐、山口中尉、綾少尉の意見だ。これらの中で、生きて目を開けていた両者の顔を直に見ているのは、おまえと外村大佐の二人。だが、状況を思い出してみろ。外村大佐は奴の顔を凝視する余裕は無かったはずだ。実際、本人もそう言っている。そうなると、確認できていたのは、ただ一人、おまえさんだけだ」

 右手の人差し指で浜田を指差した三木尾善人は、続けた。

「運のいい事に、そいつは、俺の知る限り、日本一優秀な探偵だ。意見は信用できる。だが、他人の意見を採用するには、その信憑性を確かめる必要がある。それで、彼に来てもらった」

 三木尾善人の人差し指は、浜田の反対側に立つ永山哲也を指していた。

 永山哲也は、まだ、ベッドの上の老人の顔を見ていた。そして、そのままの姿勢で、三木尾と浜田に自分の意見を述べた。

「髭を蓄えていますし、歳も違う。だが、何となく似ています。――田爪健三博士に」

 三木尾善人はゆっくりと手を下ろした。



                  四

 三木尾善人は、依然としてベッドの足下から少し離れた所で、ベルトのバックルの横に左手の親指を掛けたままの姿勢で立っていた。彼は右手で自分の後頭部をピタピタと叩きながら、永山に言った。

「そうか。あんたもやっぱり、そう思うか」

 永山哲也は、ベッドの上の男の顔から少しだけ酸素マスクをずらして、その顔全体を見つめたまま答えた。

「ええ。でも、少し口元が痩せています。歯を替えているのかもしれません。目も窪んでいます。それに、皺も多い。日焼けも落ちています。ですが、何となく、似ている気がする。面影を感じるんです。僕は、あの状況で、極度の緊張状態の中、彼を徹底的に観察しました。この人が目を開けてくれれば、きっと確信が持てます。この人の目を見れば判る。彼の、田爪博士の目は……」

 永山哲也は、ずらした酸素マスクをそっと戻し、三木尾の方を見て言った。

「警部さん、あなたの様に、鋭く獲物を狙うような、鷹のような目です。彼の眼光は、強く印象に残っています」

 三木尾善人は軽く息を吐き捨てる。

「ま、あれだけの時間、田爪健三の面前に立って話を聞いていたんだ。あんたがそういう印象を持つんなら、やはり、そうなんだろう。ハマー、よかったな、探偵のとしてのおまえさんの勘は、狂っちゃいねえようだ」

 口をへの字にした浜田圭二は、三木尾の方を向いて両肩を上げた。

 永山哲也はベッドの横に立ったまま、三木尾を見ていた。そして、怪訝そうに三木尾に尋ねた。

「警部さんはAB〇一八の施設で田爪博士には会われたのかもしれませんが、この人には会っていないのですよね。どうして、二人が似ていると気づいたのですか」

 三木尾善人はベッドの上の男に視線を向けたまま答えた。

「いや、最初に指摘したのは、綾少尉だ。宇城大尉を病院に運んだ後、彼女が話しかけてきた。軍から回ってきた手配写真の男と、GIESCOで救出した負傷者の顔が似ている気がすると、俺に言ってきたんだ。彼女は、GIESCOで最初にその爺さんを見た時から、そういう印象を持っていたそうだ。ま、女の勘ってヤツかもな」

 三木尾善人は右手を軽く上げると、浜田の向こうで座っている光絵由里子の顔をチラリと見た。ベッドの上の男の右手を握っているその老女は、凛とした姿勢のまま目を瞑り、眉一つ動かさない。彼女は黙って男たちの会話を聞いていた。

 三木尾善人は話しを続ける。

「彼女たち偵察隊の兵士に渡されていた手配写真は、漁港で撮影された田爪の顔写真だそうだ。といっても、フードで隠れた顔をコンピュータで解析して、隠れている部分を予測して再現したモノだ。精度は高いが、確かじゃない。彼女は、作戦中に確信の持てない意見を述べて上官の判断を狂わせてはいけないと、自分の印象を報告するのを控えていたと言っていた。それで、一応、山口中尉にも尋ねてみた。彼はAB〇一八の施設では近くで田爪を見ているが、GIESCOでは、その爺さんの顔をしっかりとは見ていないと。機体の整備と操縦確認で忙しかったそうだ。ま、初めて見る機体で実戦に出動する直前だ。当然だろう。外村大佐は、その逆。AB〇一八の施設で田爪の顔をよく見てはいない。目の前でフィアンセが量子銃を突きつけられて、奴に殺されそうなっていた訳だからな。注意は宇城大尉の方に向く。それも当然だ」

 浜田圭二は、立てた左手の人差し指を振りながら、三木尾に言った。

「もう一つ言えば、美歩ちゃんは軍人とは言え、戦闘兵じゃないぜ。あの最中で大佐としての気丈さを保つだけでも精一杯のはずだ。田爪の顔を凝視している余裕なんて、あの時の美歩ちゃんには無かったはずだぜ」

 彼の外村を擁護する補足的な発言に対して、三木尾善人は大きく頷いた。

「その通りだ。俺も石原も現職のデカだし、お前も修羅場をくぐってきた探偵だ。それに、石原は元軍人、俺とお前は元防災隊員としての経験もある。あの手の現場でも何とか冷静に対応できる精神の持っていき方を訓練で身につけているが、彼女は違う。確かに現場では取り乱す事も無く立派なものだったが、内心は恐怖で一杯一杯だったんだろう。だから本人も、自信を持って意見できないと言っていたよ。正直な人だ」

 浜田圭二が指先でハットの角度を少し上げて、言った。

「で、俺と永山ちゃんに確認か」

「そういう事だ」

 浜田にそう答えた三木尾善人は、そのまま永山の方に視線を移した。

 永山哲也はズボンのポケットに手を入れて、何かを探していた。ポケットから何かを取り出した彼は、三木尾に言った。

「一つ調べたい事がありますが、いいですか」

 永山哲也は光絵の方を見た。彼女の承諾を確認するためだったが、光絵由里子は目を閉じたまま黙っている。永山哲也はポケットから取り出した親指ほどの大きさの通信端末を三木尾に見せた。イヴフォンだった。三木尾善人は黙って首を縦に振った。

 永山哲也のイヴフォンには、個人識別用の生体バイオチップを読取るための特殊アプリケーションがダウンロードされていた。それは、彼が南米で田爪健三にインタビューをした際に使用したソフトである。彼は再び、あの時と同じ方法で田爪健三の本人確認をしようとしていた。

 永山哲也は、その小さな機械に小声で何かを呟くと、その機械の同じく小さな液晶パネルを確認した。そして今度は、その場から手を伸ばして、ベッドの反対側で光絵由里子に握られていた男の左手の肘の部分にそれを近づけた。そして再び、その液晶パネルの表示内容を確認した後、浜田の顔を見て言った。

「間違いありません。田爪健三博士です。いや……少なくとも、あの時、南米の地下で僕が確認した生体バイオチップの識別コードと、この人のそれは一致しています」

 イヴフォンを再びズボンのポケットに仕舞った永山哲也は、それまで以上に厳しい視線を三木尾に向けて言った。

「いったい、これはどういう事なのですか」

 永山哲也の顔には、疑念と恐怖が浮かべられていた。



                  五

 ベッドの上の瀕死の老人を囲む四人の人間の傍で、人工呼吸機のポンプ音だけが規則正しく鳴っていた。部屋の中に時計は置かれていない。ただ、美しい彫刻が施された木枠の小さな砂時計だけが、ベッドの枕元に置かれていた。それは壊れていたが、所々が丁寧に補修されている。永山哲也は見覚えのあるそれを手に取って確認すると、彼の枕元にそっと戻した。

 三木尾善人は、静かに語り始める。

「永山さん。AB〇一八の施設で俺たちが見た田爪、アレを別にすれば、あんた以外に直近の田爪に実際に会った人間はいない。この点がカギだった。冷静に考えてみたら、田爪が十年前に第二実験で失踪してからこっち、その風貌を伝えるものは何も無い。だから、皆、田爪と言われたモノを田爪健三だと思い込んじまったんだ。逆に、目の前に本物の田爪健三が居ても、誰も気付かなかった」

 永山哲也はベッドの横に立ったまま、眠っている老人の顔を再び見つめた。

「――そういえば僕も、この一ヶ月の間、真明教の方にばかり気をとられていましたから、この人の事は知りませんでした。会った事もない。でも、この人が田爪博士だとしても、あの時より随分と老けているような……」

 三木尾善人は、少し延びた顎鬚を触りながら永山の方を指差して言った。

「俺は最初にあんたのレポートを読んだ時から、おかしいと思っていたんだ。田爪の話がね。それに色々な情報が出てきて、それらを組み合わせると、必然的にある推理が構成された。そして、どうやら俺の推理は間違ってなかったようだ」

 浜田圭二は両手をコートのポケットに入れたまま少し屈むと、光絵由里子が握っていたベッドの上の男の左手の肘の辺りに顔を近づけて、そこを凝視しながら言った。

「だから、善さん。何だよ、その『推理』って。何がおかしいと思ったんだ」

 三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着の右前を後ろにずらすと、今度は右手の親指もベルトのバックルの横に掛けて、話し出した。

「根本的な疑問だよ。田爪健三はタイムマシンを発明した人間だ。だから、飛ばされた南米でも、ジャングルの中の山小屋で密かに新型のタイムマシンを作る事が出来た。だが、その新型タイムマシンが完成した頃、不幸にも愛する自分の妻を自分の手で殺してしまった。事故でな。そしたらよ、普通はこう思うだろ。『このタイムマシンで過去に戻って妻を救おう』ってな。二、三日前に、ウチの中村に同じような質問をしてみたが、やはり同じような答えだったよ。まあ、アイツの場合は初恋の同級生に告白するって事だったがな」

 警察庁ビルの下の交差点で恥ずかしそうに語る中村の顔を思い出し、三木尾は少し口元を緩ませた。やがて、真顔に戻った彼は、浜田の顔を見て言った。

「とにかく、過去に戻れるんなら、その『過去』の世界で、やりそびれた事を真っ先に行おうとするのが自然だ。一番、後悔している事をな。違うか、ハマー」

 浜田圭二は光絵の前で屈めていた体を起こすと、天井を向いて少し考えてから答えた。

「ああ、まあ、そうだわな。せっかく、過去に戻れるタイムマシンを作ったんだからな」

 ベッドの反対側に立っていた永山哲也が言った。

「ですが警部さん、田爪博士はパラレル・ワールド否定論者です。過去の事象が現実に起きたものである以上、それが変化するはずはない、そう考えている研究者ですよ。だとすると、過去に戻って歴史的事実を変えようとは考えないはずなのでは」

 三木尾善人はベルトのバックルの両横に左右の手をそれぞれ掛けたまま、大きく頷くと、下を向いて言った。

「ああ、確かにな。あんたの言う通りだ。ガチガチのパラレル・ワールド否定論者の田爪健三が、過去に戻って過去に起きた出来事を変えようなんて下劣な考えを持つはずは無い」

 再び顔を上げて、ベルトから右手を離すと、その人差し指を立てて振りながら、永山哲也に言った。

「だが、その過去の事象とやらが現実には起きてなかったとしたら、どうだ?」

「過去の事象が?」

 顔を傾けて、永山哲也が訊き返した。

 浜田圭二も光絵由里子の前に立ったまま、眉間に皺を寄せて尋ねる。

「何だよ。どういう事だよ。過去の事象が起きてない? 一体、何が言いたいんだ、善さん。はっきりと言ってくれないか」

 浜田圭二は、昨日までの疲労も重なり、かなり苛々していた。そんな浜田を落ち着かせるように、三木尾善人は、今度は、ゆっくりと落ち着いた口調で答えた。

「まあ、待て。俺はそう考えたってだけだ。少し落ち着いて聞いてくれ、ハマー」

 興奮していた浜田圭二は、ハットを深く被り直すと、膨らませた鼻から息を短く大きく吐いた。三木尾善人は右手をベルトのバックルの横に戻すと、深く長くゆっくりと息を吐いてから、話を続ける。

「面倒かもしれないが、話の理解の為に聞いてくれ。タイムトラベルは『場』の移動だ。今、俺たちが居るこの場は、時間も含めてここに存在する『場』って事だ。そして、『場』の移動とは、その『場』から別の『場』に移ること。だから、タイムマシンは時間的移動と空間的移動を同時に実現する必要がある。ここがポイントなんだ」

 浜田圭二は再び溜め息を吐いた。

 三木尾善人は、今度は永山の顔を見て彼に尋ねた。

「高橋が作ったマシンは過去に飛んだ。そうなんだろ」

 永山哲也は黙って頷いた。

 三木尾善人は続ける。

「高橋のマシンは、発射地点の同じ場所の一九八一年に移動した。つまり時間的移動だ。一方、田爪のマシンは時間の壁は越えられなかったが、空間の壁は越えた。それで、同じ時間の地球の反対側にワープした。場所的移動。そして、これら二つの特性を兼ね備えたのが、田爪が南米でこっそり拵えた、あの新型マシンだ。永山さん、アンタが送ったマシンだよ。あれは場所と時間の双方の壁を越えられる。ま、俺でもここまでは解る。一応な」

 そこまで話し終えると、三木尾善人は一度、光絵由里子の顔を見た。彼女はさっきまでと同じように、ベッドの男の左手を握って、凛とした姿勢でスツールに座ったまま、目を瞑り黙っていた。

 三木尾善人は、顔をベッドの反対側に向けると、再び語り始めた。

「そこでだ、永山さん。アンタが現地時間の七月二十三日に発射したマシンは、結局、いつ時代のどこに行ったのか分からない訳だ」

 永山哲也は眉間に皺を寄せた。そして、何かを言おうとした。

 三木尾善人は右掌を突き出して永山の発言を制止すると、さらに語り続けた。

「最初は、二〇二五年の九月二十八日に飛んだと思われた。あの核テロと思われた大爆発の原因だ、そう言われた。だが、科警研の岩崎カエラの分析で、あれはNNJ社の西郷が逃亡に使用したマシンと、もう一機の田爪型マシン、この二機が重なって起こった爆発だと分かった」

 永山哲也は顔を曇らせた。

「もう一機の田爪型マシン? 僕が送ったタイムマシンの他に、もう一機別のタイムマシンがあったと言うのですか」

 三木尾善人は首を横に振る。

「いいや、違う。あんたが南米で飛ばしたマシン、あれだよ。だが、あのマシンそのものではない。岩崎の話によれば、あんたが積み込んだ対核熱反応金属の金属板、あの金属板は、爆発直前まで加工されていたそうだ。箱の形状にな」

「加工?」

「そうだ。溶接されて箱型に組み立てられていたらしい。司時空庁が保管していた現物から、溶接して接合された痕跡が科学的に検出されたそうだ。そして、その金属箱の中に、バイオ・ドライブが入れられていた。だが、この点は少し横に置いておいてくれ」

 三木尾善人は光絵に視線を向けた。光絵由里子は一瞬だけ薄く瞼を開き、三木尾の方を見る。彼女の視線を確認した三木尾善人は、話を続けた。

「とにかく、そのバイオ・ドライブが残した影が金属板に焼き付いていて、各金属板の位置関係まではっきりしているらしい。つまり、誰かが一度、あんたが載せた金属板を使って加工しているのは確かだ。だとすると、あんたが飛ばしたあのタイムマシンは、一度、どこかの時代と場所で誰かに回収されて、再度飛ばされたか、あるいは……」

 永山哲也が言った。

「最初からあの場所に設置されていた。あの爆心地の、西郷が乗ったASKIT製のタイムマシンが現れる正確な位置に」

 三木尾善人は頷く。

「そうだ。いずれにしても、あんたが送ったマシンだけで爆発が起きた訳ではないし、あんたが送ったマシンそのものは、あの二〇二五年の大爆発とは関係ない。これは科学的にはっきりした」

「よかったな。記者を辞めなくて済んだじゃねえか」

 浜田圭二がベッド越しに永山に言った。

 永山哲也は視線だけ浜田に送ったが、笑みは見せなかった。彼は厳しい顔のまま、再び三木尾の方を向く。

 三木尾善人は続けた。

「もう一つはっきりしている事がある。あんた達が調べた事と集めた証拠、俺たちが集めた捜査資料や証拠から、真明教の南正覚が警官だった頃に、あのICレコーダーを入手した事もはっきりしている。二〇〇三年に田爪瑠香さんのご両親が亡くなった、あの事故現場で。あのICレコーダーは、あんたが南米でタイムマシンに乗せた物の一つだ。だとすると、まあ、そこに居る名探偵もたどり着いた結論だろうが、永山さん、あんたが南米から飛ばした田爪型のタイムマシンは、二〇〇三年に田爪瑠香さんのご両親が亡くなった事故の現場に飛んだという可能性が高い。正直、俺も最初はそう思ったよ」

 スツールに座っている光絵由里子の横で、浜田圭二が永山と三木尾の顔を交互に見た。

 三木尾善人は落胆している永山に向けて、再び人差し指を立てて振った。

「だが、変だと思わないか。場所的移動と時間的移動の双方を可能にするマシンを、当該事故を防ぐ目的で送ったのだとしたら、なぜあの時間のあの場所に飛ばした。なぜあんたに託したんだ。事故の詳細を知らないあんたをその当時の事故現場に送っても無意味だ。マシンで送るんなら、事故の詳細を知っている人間でなければならないはずだ。しかも、事故発生より前の時間に送る必要がある。ところが田爪は、あんたには何の説明もせず、ただ入力コードと操作方法を記したメモ書きを渡しただけ。だろ? 永山さん」

 永山哲也は、考えた。

「事故の詳細を知っている人間……」

 三木尾善人は、永山が既に答えに達しているのを察して、彼より先に言った。

「そう。実際に事故の現場に居合わせた人間。そんな人間を乗せていなければ、意味がないはずだ」

 浜田圭二が言った。

「田爪瑠香か!」

 三木尾善人は頷いた。

 永山哲也は、三木尾に確認する。

「つまり、田爪瑠香は生きていて、過去に……二〇〇三年に飛んだと」

 三木尾善人は、今度は光絵由里子の横に立つ浜田の顔を見て言った。

「俺も最初は、そう考えた。でもな、それも変なんだ。田爪健三が瑠香さんを送ったとしても、それで事故を防ごうなどと考えるはずはない。さっき永山さんが言ったとおり、田爪健三はパラレル・ワールド否定論者だ。既に起きた事実は変わらないという考えの持ち主だからな。マシンの設計もそれを前提としているはずだ。それで、思ったんだ」

 浜田圭二がハットの上から頭を掻きながら三木尾に言った。

「ああ、もう、まどろっこしいぜ。何なんだ」

 三木尾善人は、声を低めて、ゆっくりと一言ずつ、光絵由里子の顔を見て言った。

「その時間の、その場所にしか、送れなかったのだとしたら、どうかってな」

 永山哲也と浜田圭二は、一瞬、呼吸を止めた。

 やがて、両肩を下げて息を吐いた浜田圭二が、三木尾に尋ねた。

「送れなかった? どうして」

「よく考えてみろよ、ハマー。――ああ、永山さんは実際にアレに乗って移動しようとした訳だから、分かるよな」

 三木尾に意見を振られた永山哲也は、少し考えてから、答えた。

「――なるほど、移動先の問題ですね」

 天井を見て同じく考えていた浜田圭二は、永山につられて答え始めた。

「そうか。移動先の状況が分からないと、ウカウカとタイムトラベルなんて出来ねえって訳か。移動した先に何があるかによって、西郷みたいになっちまう可能性がある。確かにヤバイぜ。空間を押し分けて現われる訳だからな」

 永山哲也が補足した。

「田爪博士自身も、第二実験で移動した先は古い貯水槽の水の中だった訳ですから、そのような経験からも、移動先の指定には殊更に気を使ったでしょうね」

 三木尾善人は大きく頷いてから話を続けた。

「ああ。しかも、自分が知っている今の安全な場所が、移動したその時間に安全だったとは限らない。だから、移動先として特定の時間と場所を指定するには、事前にかなり綿密な調査が必要になるはずだ。到達する『その時間のその場所』の状況を正確に把握しておく必要がある。実際、司時空庁は例のポンコツ・タイムマシンの発射に際して、かなり明密な歴史調査をしていた。そして、それには膨大な資料が必要になるし、その資料も正確な資料じゃないといかん。それらの資料収集だけでも、かなりの手間を要するはずだろ」

「確かにそうだぜ。まして、自分の嫁さんを乗せたマシンを送るんなら、なおさら念を入れて、到着する予定の場所が、到着する時間に安全な場所だったか調査する必要があるもんな」

 浜田圭二は、光絵由里子の前に立ったまま、ベッドの向こうに立つ永山の顔を見た。

 今度は永山哲也も視線を合わせて頷いた。

 三木尾善人は、透かさず浜田の顔を指差して言った。

「そうだ。だが、その調査をする時間が無かった。だから、記憶の範囲で、何年の何月何日に何処で何が起こり、どのような状況だったか、詳細に自信を持って言える日時と場所を指定する必要があった。それが、あの事故の日時と場所なのさ。そして、あの事故の日時と現場の状況を誰よりも正確に知っている人間が一人だけ存在する」

「田爪瑠香」

 永山哲也が呟くと、三木尾善人は再び大きく頷く。

「そうだ。彼女は、その現場に居た訳だからな」

「しかし警部さん。なぜ、あの事故日時でなければならないんです? 日本に帰るために作ったマシンなら、タイムトラベルをしなくても、その時の現在日時で、爆心跡地や、その他の最適な場所を正確に指定すれば、そのまま安全に移動できたはずですが」

 永山の質問に、三木尾善人はゆっくりと落ち着いて答えた。

「ま、そこら辺のところは、本人に訊くといいさ。その時、あの南米の地下で何があったのかを。本人が一番よく覚えているはずだ」

「本人?」

 浜田圭二は眉間に皺を寄せた。

 三木尾善人は、その方向に体を向ける。そして、ベルトから離した右手で永山を指差しながら言った。

「この文屋さんはな、自分のせいで一連の事件が起こっちまったんじゃないか、あんたの両親が死んでしまったんじゃないかと思ってるんだ。本気で責任を感じ、自分で背負おうとしている。だから、ちゃんと説明してやってくれ、光絵会長。いや、田爪瑠香さん」

 三木尾警部の声が室内に響いた。



                  六

 一瞬の沈黙の後、浜田圭二は振り返ると、目の前に座っている老女の顔を覗きこんだ。そして、またすぐに三木尾の方を向いて言った。

「なんだって? 善さん、あんた今なんて言った。田爪瑠香?」

 三木尾が首を縦に振ったのを見て、浜田圭二は、その老女から一歩離れた。

 三木尾善人は老女に言う。

「田爪健三と瑠香の墓からは、一人分の指紋しか検出されていない。田爪瑠香の指紋だ。瑠香の生前に建てられて、瑠香に送られた墓だ。彼女の指紋が残っているのは分かる。だが、直近に訪れているはずの光絵由里子、あんたの指紋が検出されないのは、どうも不自然だ。手袋をしていたというだけでは納得ができん。見た所、あんたは常識人だからな。墓では手袋を外すはずだ。しかし、あんたが田爪瑠香なのだとしたら、説明はつく」

 ベッドの向こうから、永山哲也が老女に尋ねた。

「あ……あなたは、田爪瑠香さんなのですか」

 老女は黙って下を向いていた。

 三木尾善人は永山に言った。

「だから彼女の事も必死にカバーしたのさ。あんたの所の神作さんや、重さんたちの事もな」

「彼女……って、ウチの、いや、風潮社の春木ですか?」

「そうだ。自分の養女の命を救おうとしてくれたから、彼女の事を気に掛けていた訳じゃない。彼女が自分を救いに来てくれた人だから、それに報いようとしたんだ、この人は」

 浜田圭二が呟く。

「全部、知ってたのか……。いや、違うな。田爪瑠香は六月五日にタイムマシンに乗ったんだ。その時に過去に行ったとしたら、それからここまでの事は知らないはずだぜ。どういう事なんだ?」

 永山哲也はベッドの上の老体を見つめる。

「この人が……、田爪博士が何か関係している。きっと、この四ヶ月は彼に想定された流れだった……」

 三木尾善人は老女に言った。

「だが、こんな状況になる事も想定していたのか? このまま放置すれば、この記者さんがどうなると思う。直に、世界中のマスコミがこの記者さんの事を書きたてるぞ。地球上のあらゆるネットワークを一時停止させる原因を作ったのは、彼だとな。この人には奥さんも、子供もいる。中三の女の子だ。その子の未来はどうなるか、考えた事はあるのか。目の前の今の現実に目を向けて、自分の未来と天秤に掛けてみろ。ちゃんと真実を話してやれ」

 光絵由里子を名乗っていた老女は、黙ってゆっくりと頷くと、永山哲也の方に顔を向け、彼の目を見て言った。

「永山さん。あなたは誰も傷つけてはいません。殺してもいない。むしろ逆です。私を救ってくれたのです。あなたが」

「なぜ僕が。あのマシンですか?」

「そうです。あなたが送ったあのマシンは、二〇三八年の現地日時六月四日午後七時に移動したのです。健三さんとイヴンスキー、そして、日本から転送された私の目の前に現れたわ。あなたが健三さんへのインタビューを録音したレコーダーと、『パンドラE』を乗せて」

 年老いた田爪瑠香の横で、浜田圭二が驚いた表情をして言った。

「二〇三八年の六月四日って田爪の誕生日……って事は、瑠香が送られた日じゃねえか。そこに、永山ちゃんが飛ばしたタイムマシンは送られたって事か? すると、たった一ヶ月前にしか飛んでなかったって事だよな」

 老女はベッドの上の男を見つめながら答えた。

「ええ。健三さんが永山さんに渡したエネルギー・パックに保存されていた量子エネルギーの量では、それが精一杯の時間移動でした。だから健三さんは、六月四日の十九時を転送先の時刻にプログラムした。実際に自分が経験した通りに。そして私は、それにより命を救われたわ。あの地下施設の中に、私の乗ったマシンに続いて、永山さんが送ってくれたマシンが私と健三さんの間に現れた事で、あの時の健三さんは量子銃の射撃に失敗したのです。そのお蔭で、私は健三さんに誤って消される事もなく済みました。そして、そこに駆けつけたイヴンスキーの説明を聞いたのです。彼は、今の私が行かせました。その後、私と健三さんはマシンの中からICレコーダーを発見したわ。そこから、一ヵ月後の未来で健三さんがあなたに語った話と、あなたの最終レポートの内容を知ったのです。つまり、私も健三さんも、未来を知ったのです。永山さん、あなたが健三さんの所に取材をしにやって来る事も、タイムマシンに乗るように言っても、あなたは決して乗らないという事も、全て知っていたの。高橋さんの事も、SAI五KTのことも、昨日までの事は何もかも」

 永山哲也は、顰めた顔で老女に尋ねた。

「昨日まで?」

 すかさず浜田圭二が発言した。

「そりゃ変だぜ。その時点では七月二十三日までの事しか分からないはずだぜ。高橋の生存が知れたのは、八月末の話だろ? どうして、昨日までの出来事が分かるんだよ。やっぱり、どうもおかしいぜ。俺たちを担いでるんじゃないか? 善さん」

 三木尾善人が二人を制止した。

「まあ、話は最後まで聞けよ。――それで……」

 永山哲也が三木尾の発言を遮って、老女に尋ねた。

「レコーダーは、僕のレコーダーはどうなっていたんです? 動いていたんですか?」

 老女は答えた。

「ええ。私と健三さんは、まず、あなたのICレコーダーに気付いたわ。あなたが、操縦席のシートの後ろにセッティングしていましたから。そして、それが自動録音で周囲の音声を録音している事にも気付いた。それで、私と健三さんは、声を出さないようにして、そのICレコーダーを手に取り、録音機能を停止させて、そこに記録されていた内容を再生させたのです」

 永山哲也は、さらに何かを尋ねようとしたが、三木尾に制止され、彼女への質問を止めた。

 老女は三木尾に促されて、話を続けた。

「その後、一ヵ月後の事情を知った私と健三さんは、一度、レコーダーを元の位置に戻し、機外に出ました。そして、私は健三さんに二人で帰国する事を提案したわ。でも、健三さんは賛成しなかった。このまま未来の内容を記録したレコーダーとドライブを『現在の日本』に持ち帰れば、きっと命を狙われるに違いないと危惧したの。そして、実際に私が司時空庁の人間にマシンで送られてきた事も知った健三さんは、イヴンスキーの指示に従って、私を『過去』に避難させる事にしました」

「イヴンスキーの指示に従った?」

 永山哲也は頭を傾けて老女を見た。

 老女は深く頷くと、更に話を続けた。

「つまり、私の指示です。とにかく急でした。現地のゲリラ兵たちに気付かれる前に、一刻も早くタイムトラベルを実施して『過去』に避難する必要があったのです。しかし、そのためには二つの問題がありました。一つは量子エネルギー。もう一つは、移動先の設定の問題。移動先の『過去』の時間と場所を指定するには、あまりにも検討時間が少な過ぎたのです。それに、南米の現地では資料も乏し過ぎたわ。既にAB〇一八に支配されていたSAI五KTシステムの関与を避けるためには、ネット通信をして資料収集する訳にもいかず、あの地下施設の中だけで、しかも短時間で時間や位置を決めなければならなかった。結局、自分の記憶だけに頼るしかなかったのです。あの時、自分の記憶の中で正確な日時と場所、そして、その当時のその場の状況が判っていたのは、あの場所しかなかったわ。私の中に負の記憶として克明に刻まれている風景。私にとって、絶対に忘れられない日時と場所。幼い頃から記憶している正確な座標」

 三木尾善人は、スツールに座って語る老女に尋ねた。

「その移動先が二〇〇三年五月三日午前十時十二分の、あの事故現場だった。そういう事だな」

「ええ。そうよ。――残念だったけれど……」

 三木尾善人は彼女に同情の言葉を掛ける事も無く、冷静に尋ねた。

「量子エネルギー・パックの方はどうなった。イヴンスキーか」

 老女は頷いた。

「ええ。健三さんが現地で密かに貯蔵していた微量の量子エネルギーは、量子銃に使用されていました。それでは、同一時間での場所的移動か、近い過去への移動のみを実現するには十分ですが、『遠い土地』の『遠い過去』に移動するには到底足りません。そこで、その健三さんのエネルギー・パックは、未来の出来事通りに使用して、その場では、イヴンスキーが運んできた新しいエネルギーパックを使用する事にしました。それが……」

「GIESCOが極秘に開発したエネルギー・パック。開発には既に成功していたんだな」

 三木尾善人は鋭い目で老女を見ながら、そう確認した。

 老女はまた頷く。

「ええ。そうです。そして、それを私が、イヴンスキーに託しました。健三さんと『過去の私』に渡すようにと」

 遠くを見つめるように語っていた光絵由里子は、しばらく何かを思い浮かべていた。そして再び背筋を正し、物語の続きを語り始めた。

「ただ、失敗もあったわ。バイオ・ドライブはともかく、ICレコーダーは降ろしておくべきでした。あれは、未来の出来事を記録したもの。あんなものを過去に持ち込むべきではなかった……」

 三木尾善人は尋ねた。

「知らなかったんだな」

 老女は少し下を向いて答えた。

「単純なミスでした。私も健三さんも、ICレコーダーは機体から降ろしたものだと思い込んでいた……」

 老女は大きく息を吸うと、再び前を向いて話を続けた。

「とにかく、緊急の状況で、慌てていました。短時間で、使用済みのエネルギー・パックと、イヴンスキーが運んできた新しいエネルギー・パックを乗せ替え、新たな座標と時間を入力し、私の搭乗に合わせた質量計算結果を再入力しなければならなかった。他の兵士たちが戻って来る前に」

 腕組みをしながら聞いていた浜田圭二が呟いた。

「二〇〇三年にICレコーダーを持ち込んだ事に、誰も気付いていなかったという事か」

 浜田の前に座っていた老女は、彼の顔を見て答えた。

「ええ。だから、乗せていたレコーダーの分だけ、質量計算にもズレが生じてしまったのです。それで、そのズレの為に、到達時刻も、到達地点も、計算した結果とは微妙に違いが生じてしまいました。それが……」

「あの事故の瞬間と地点なんだな」

 三木尾の指摘に答えるように、老女は彼に視線を向け、説明した。

「計算よりも九十秒遅く、七コンマ三メートル移動した地点に出現してしまったわ。それがあの、トラックの荷台でした。そして、やはりそれが原因となり、起こるべくして事故は起きたわ。結局、健三さんは正しかったのね。『過去』は何も変えられなかった。どんなに工夫しても、どれだけの犠牲を払っても、変えられなかったわ」

 老女の目は涙に濡れていた。

 薄暗く広い室内に再び沈黙が流れた。



                  七

 暫くして、下を向いていた三木尾善人が、床に視線を落としたまま、静かに口を開いた。

「だが、あんたらの工夫と犠牲で変えられたモノも、有るんじゃないか」

「……」

 目を瞑ったまま黙っている老女に顔を向けて、彼ははっきりとした口調で言った。

「バイオ・ドライブ。あんたらのコード・ネームで言えば、『パンドラB』だ。あんたと田爪は、あんたが持参したそれを『パンドラC』にすり替えた。違うか」

 三木尾の発言を聞いて、浜田圭二は三木尾と永山の顔を相互に見ながら、言った。

「は? 『パンドラC』にすり替えた? どういう事だよ、それ。瑠香が南米に持参した『パンドラB』に田爪がデータを書き込んだものが『パンドラC』なんだろ? 全部同じもので、呼び名の違いに過ぎないって、善さんも言ってたじゃないか。それを、この人と田爪が『すり替えた』って、どういう意味だよ。二人でデータを書き込んだって事か? なあ、説明してくれよ、善さん」

 三木尾善人は浜田の後ろで椅子に座っている老女を凝視していた。

 永山哲也は、その三木尾の厳しい表情を見て、彼の視線を追い、老女を見つめた。

 浜田圭二が再度、口を開いた。

「なあ、善さん。教えてくれよ。どういう……」

「黙ってろ! ハマー」

 しつこく問いかける浜田を三木尾善人が一喝した。そして、浜田を一度睨み付けると、その後ろで座っている老女に、ゆっくりと語りかけた。

「光絵会長。いや、田爪瑠香さん。俺の推理が当たっているかなどは、どうでもいい。あんたの口から真実を語ってくれないか。もう、『過去』は終わったんだ。今は『未来』に向かって、あんたの時計の針は動いている。『今』をどう生きるかは、あんた次第だ。本当の事を明らかにして、良い『未来』に時計の針を進めるんだ。田爪瑠香!」

 三木尾善人は彼女を叱咤するように怒鳴りつけた。老女の、乾いた頬の上を一筋の雫が伝う。老女は気力を振り絞るように、背筋を伸ばし、一度天井を仰ぐと、軽く咳払いをしてから語り始めた。

「私は、『保険』として『パンドラB』を持参しました。移動した先の現状が、戦地であるという事以外、何も分かりませんでしたから。もし、生きて到着することができた場合には、そこから健三さんと共に日本に帰国するための切り札として、世界に一つしかないAB〇一八に唯一接続できる貴重なバイオ・ドライブを持参すれば、何かの際に交渉に役立つと考えたのです。それにあれは、健三さんがタイムトラベルの可能性を証明する事に成功した記念の品でもあります。彼はあれをとても大切にしていました。私は彼に、あのバイオ・ドライブを見せてあげたかった。転送された先で絶望の十年を送っていた彼に『パンドラB』を見せて、もう一度、研究者として希望に燃えていた頃を思い出して欲しかった。ですが、結局、その『パンドラB』を別の事に使用する事になってしまったのです。とんでもない事に……」

 老女は、そのまま下を向くと、体を震わせて黙りこんだ。

 三木尾善人は、ベッドの反対側から老女を心配そうに見つめる永山に尋ねた。

「永山さん。あんた、南米で実際に、例の田爪が作った新型タイムマシンに乗り込んでみたんだよな」

 突然の三木尾からの質問に、永山哲也は少し驚いたように答えた。

「え、ええ。少しだけですが、操縦席に座りました。初めは、それに乗って日本に帰ろうと思ったので……」

 三木尾善人は俯いている老女を見ながら、永山に尋ねた。

「中はどうだった。どのくらいの広さだったんだ」

「狭かったです。僕一人が乗り込むのがやっとの広さでした。ハッチを開いた搭乗口からコックピットまでも、僕の上半身程度の距離しかなく、ハッチを閉めれば、その内側に取り付けられた機械でスペースが埋められてしまいますから、金属板を乗せるのも、シートギリギリの所に積むしかなくて……」

 三木尾善人は、ベルトのバックルの横に左手の親指を掛けたまま、永山の目を見て言った。

「つまり、一人しか乗れないんだな。物理的に」

「ええ、そうです」

 そう答えた永山哲也は、すぐにベッドの向こうの老女に目を遣った。彼女の隣では、トレンチコートを着た探偵がハットを押さえながら、三木尾、永山、老女とその視線を追って顔を動かしていた。

 老女は下を向いたまま、小さな声で話し始めた。

「二人が乗る必要がありました。健三さん一人をそのタイムマシンに乗せて過去に避難させていれば、私はゲリラ兵たちに殺されていたでしょう。私一人が乗って過去に避難しても、健三さんはパノプティコンに殺されてしまう。どうしても、二人でタイムマシンに乗って、過去に移動する必要があったのです」

 浜田圭二が口を挟んだ。

「パノプティコン? なんだ、そりゃ」

「世界中を裏で牛耳っている元祖秘密結社の親玉だ。今もご健在で現役バリバリの」

「パノプティコン……本当に存在していたんだ。そんな組織が……」

 三木尾の簡単な説明を聞いて唖然としていた永山哲也は、すぐに老女に視線を戻して、彼女に尋ねた。

「まさか、そいつらがマシンの引き渡しを要求してきたのですか」

 老女は首を横に振った。

「いいえ。その逆よ。彼らは我々にマシンの廃棄処分を命じてきたわ。彼らは秩序の番人。当然と言えば当然ね」

 三木尾善人が老女に言った。

「たぶん、その他にも要求してきたんだろ?」

「ええ。マシンの設計者と、設計技術の引き渡し。彼らはそれも要求してきたわ」

 三木尾善人がさらに言った。

「あるいは、抹殺か。――違うか?」

 田爪瑠香は静かに首を縦に振った。

 浜田圭二が三木尾の方を向いて、少し興奮気味に言った。

「つまり、こういう事か。パノ何とかって言う秘密結社が田爪健三と瑠香の命を狙っていて、田爪が作った新しいタイムマシンも手に入れようとしていた。二人はそいつらから逃れるために、タイムマシンで過去に飛んで逃げた」

 三木尾善人が呆れたように浜田に言った。

「パノプティコンだ。それに、二人ではマシンに乗れなかったんだよ。話をちゃんと聞いてろよ」

「乗れなかったって、詰めても駄目だったのかよ。夫婦だろ。こう、二人で抱き合うようにしてシートに座るとか……」

 浜田圭二は両手を前で交差して見せて、腰を曲げて実演してみた。その前に座っていた老女は、静かに言った。

「スペースだけの問題ではないのです。タイムトラベルは時空間移動ですから、物体の質量が大きく関係してきます。私と健三さん二人を乗せて二〇〇三年までタイムトラベルするとなると、二倍近くの量子エネルギーを必要とします。仮にエネルギー・パックを二つ持って行ったとしても、健三さんが現地の乏しい材料で作り上げた新型マシンは、それだけのエネルギーに耐えられる設計にはなっていませんでした。あのマシンは、計算上も、人間二人を乗せて、時間と空間の壁を破る事は出来ないものだったのです。だから……」

 次の言葉を言いあぐねている老女に、永山哲也が言った。

「あなたが本当に田爪瑠香さんだとして、あなたが実際にここに居るという事は、結局、あのマシンに乗ったのはあなた一人だったんですね」

 老女は首を横に振った。

 永山哲也と浜田圭二は一度視線を合わせ、二人とも怪訝そうな顔で、三木尾の方を見た。

 三木尾善人は、一言だけ老女に言った。

「田爪と二人で過去に飛んだんだな」

 浜田圭二が何かを言おうとしたが、三木尾善人は老女を見据えたまま浜田の前に右手の掌を広げて、彼の発言を制止した。

 老女は下を向いたまま、語り始める。

「バイオ・ドライブを使って。『パンドラB』に健三さんを移しました。そして、それを持って、二〇〇三年に飛んだのです」

 今度は永山哲也が、老女に尋ねた。

「移したとは……どういう事です」

 三木尾善人が横から説明した。

「記憶を移したのさ。バイオ・ドライブに」

 浜田がすかさず反論した。

「そんな馬鹿な。人間の記憶はものすごい容量なんだぜ。それに、どうやって記憶を外付けのドライブに移すんだよ。方法が無いじゃないか」

 浜田圭二は少し振り向いて、老女を見た。老女は下を向いて黙っていた。

 三木尾善人が右手の指先で自分の頭部をつつきながら、浜田に言った。

「脳さ。『脳』をバイオ・ドライブに移植したんだよ。きっと」

「なるほど……」

 一瞬だけ三木尾の方を見て、そう答えた浜田圭二は、老女に視線を戻した。そして、すぐにまた振り返ると、三木尾に言った。

「え? 善さん、今なんて? どこの移植だって?」

 三木尾善人は、もう一度、右手の指先で自分の側頭部を指しながら言った。

「ここさ。脳。田爪健三の脳だよ。おそらく記憶に関する海馬部分とか左脳の一部とかだろう。それをドライブに移植したのさ。田爪瑠香、つまり若き日のあんたが南米に持参した『パンドラB』に。違うか」

 三木尾善人は、浜田の後ろの老女の顔を見て確認した。

 彼女は黙ったまま、はっきりと首を縦に振った。



                  八

 浜田圭二は、そこからさらに一歩下がり、老女と距離を開けてから言った。

「の、脳を? 脳ミソか? マジか。あんた、なんちゅう事を……」

 田爪瑠香は美しい姿勢を保ったまま、淡々とした口調で浜田に言った。

「移植と言っても、脳のごく一部を切り取って、バイオ・ドライブに埋め込むだけ。難しい事ではないわ」

 浜田圭二は、驚愕と嫌悪感を隠せないまま、田爪瑠香に尋ねた。

「そういう事じゃなくて……。そ、そんな事して、何になるんだよ」

 考えていた永山哲也は、ベッドの上の老人を凝視しながら、口を開いた。

「高橋博士の時と同じだ。再生させるため。バイオ・ドライブは、AB〇一八と同じ生体素子で出来ている。再生機能を備えた人工生体細胞です。だから、破損しても細胞を再生させ、シナプス結合を繰り返し、神経回路そのものを再構築して、失われた情報を再現できる。海馬や左脳の情報領域の細胞をドライブに移植すれば、いずれは全ての記憶や知識を再生して、元の脳と同じ情報を持ったものを作る事が出来るかもしれない。つまり、田爪健三の記憶と意識を保存した脳を再現できるかもしれない。――まさか、それが『パンドラE』?」

 三木尾善人はベッドの上の老人に眼を向けながら答えた。

「そう。『パンドラE』の『E』は、Embedded(移植された・組込まれた)の『E』だったのさ」

 すると、永山哲也が再び疑問を提示した。

「しかし警部さん、一つおかしな点があります。バイオ・ドライブと連結する物は、DNAが一致する人工細胞でできた物でなければ、拒絶反応が起きてしまうはずです。つまり、AB〇一八以外の物とは、接続できない。まして、移植なんて……」

 三木尾善人は、永山の方を向いて答えた。

「一致したのさ。DNAが完全に。だから、移植できた。しかも、素人でも簡単に」

「DNAが一致した? どういう事です?」

 永山の顔を見て三木尾善人は説明する。

「過去にストンスロプ社は、ASKITの配下のNNC社に特許権侵害による損害賠償訴訟を提起されている。バイオ・ミメティクス技術に関する訴訟だ。知っているか」

 永山哲也は三木尾の目を見て、首を縦に振った。

「ええ。概要は、津田長官から聞きました。ですが、詳しくは……」

「だろうな。裁判そのものは、一回の期日で終わっている。訴訟が表沙汰になる前に和解契約で幕引きを図ったんだ。その和解で、ストンスロプ社側は、ある新技術とその実験サンプルをASKIT側に渡している。二〇一六年の話だ。実際にはGIESCOとNNC社の日本法人NNJ社を当事者とする訴訟での和解だが、その時、ストンスロプ側から提供されたのが、高速増殖型幹細胞の安定培養技術とそのサンプル細胞だったんだ」

「高速増殖型幹細胞……もしかして、生体コンピュータの素材ですか」

「そうだ。結局、NNC社はその時に手に入れたサンプル細胞と技術を基にして、二機のバイオ・ドライブを作成し、その二機からAB〇一八を生み出したのさ」

「ASKITは、和解で得た他社の成果物と技術を、そのまま使用したというのですか」

「そのはずだ。それで、もともと自分たちが一から仕組みを理解して作り上げた物ではなかったから、NNC社やNNJ社はAB〇一八を管理しながらも、その暴走を止める事が出来なかったんだろう。IMUTAとの接続を田爪と高橋に頼ったのも、真の事情はそこに在るはずだ」

「じゃあ、あのバイオ・ドライブは、GIESCOが開発した細胞を培養して出来たものなんですか。つまり、ストンスロプ社が出所だと」

「そういう事だ。そして、その時、ストンスロプ側からASKIT側に提供されたサンプルの高速増殖型幹細胞、たぶんそれは、この人が二〇〇三年に持ち込んだ『パンドラE』の一部だ。つまり……」

「田爪健三の細胞……」

 永山の発言の後に、浜田圭二が納得顔で言った。

「何だよ、どっちも同じ細胞を基にして出来ていたって事かよ。バイオ・ドライブも、AB〇一八も、田爪健三の脳ミソの細胞を基にして作られていた。そうだろ、善さん」

「そうだ。だから、移植しても拒絶反応は起きないし、むしろ、積極的にバイオ・ドライブがその移植部位を取り込んだのだろう。なんせ、オリジナルの細胞だからな。作業も簡単だったはずだ。俺は、田爪が南米のジャングルの中でどうやってバイオ・ドライブに情報を書き込んだのか、ずっと考えいたが、答えはこういう事だったのさ。書き込んだんじゃない。ヤツは自分の脳を切り取って、貼り付けたんだ。量子銃の設計図や量子エネルギープラントの設計図の『記憶』と一緒にな」

「簡単だったって……善さん、脳だぞ、人間の脳みそ。生きている人間の」

 そう言って顔を顰めた浜田圭二は、振り返って老女を指差した。

「まさか、婆さん、あんた……、あ、あ、あんたが手術したのか。夫の頭から脳を切り取って、バイオ・ドライブに……うぷっ、おえっ」

 浜田圭二は、えずきながら口を押さえた。

 光絵由里子は背筋を正したまま首を横に振る。

「いいえ。私ではありません。私には出来ませんでした。別の者が処置を施したわ」

 三木尾善人が尋ねた。

「イヴンスキーか」

 光絵由里子は返事をしなかった。すると、永山哲也が口を挿んだ。

「ちょっと待って下さい。おかしい。おかし過ぎます」

 浜田圭二と三木尾善人が顔を向ける。

 永山哲也は言った。

「まず、その時点でバイオ・ドライブに田爪博士の脳の一部を移植して二〇〇三年に持ち去ったのなら、後日、僕が田爪博士にインタビューした際に渡されたバイオ・ドライブ、あれは何だったのです。存在しないはずだ。それに、田爪博士も脳を切り取られてダメージを受けていないはずがない。それに、最大の矛盾は……」

「永山さん。一つずつ行こう」

 彼を落ち着かせようと、そう言った三木尾善人は、永山の顔を見てゆっくりと話した。

「まず、バイオ・ドライブだが、整理すると、こうだ。田爪が研究生時代にSAI五KTシステムを構築してその一部のAB〇一八に接続したバイオ・ドライブ、これを『パンドラA』と呼ぶことにしよう」

 三木尾善人は老女に手を向ける。

「そして、この人、田爪瑠香が南米の田爪健三の所に運んだバイオ・ドライブ、その段階を『パンドラB』と呼ぶ。その『パンドラB』に田爪の脳を部分的に移植したものが『パンドラC』。つまり、永山さん、あんたが南米で田爪から受け取ってタイムマシンに乗せたものは、その『パンドラC』だ。そして、その『パンドラC』がタイムマシンで一ヶ月前の瑠香の前に送られ、彼女はそれを持って二〇〇三年に移動した。これ以降が『パンドラD』。その後、ある段階を経て、現在、ある所に保管してあるのが、本物の『パンドラE』だ」

 浜田圭二が口を挿む。

「本物の『パンドラE』だって? なんだよ、じゃあ、俺たちがAB〇一八の施設で見た『パンドラE』、あれは、何なんだよ」

「あれは偽物だ。ドライブ機能を兼ね備えているもので、その中にAB〇一八の停止プログラムが書き込まれていたのは本当だと思う。実際、AB〇一八は停止したし、IMUTAも安全に離脱できた訳だからな。その点は間違いない」

 浜田圭二が声を裏返した。

「じゃあ、なにか? 普通にAB〇一八を停止させて、IMUTAを安全に離脱させる事は、そのドライブを繋げはよかっただけだったって事か」

「そうなるな。冷静に考えてみれば、AB〇一八と接続されているIMUTAを造ったのは、ここGIESCOだからな。小型のIMUTAのような物を作れば、AB〇一八と接続できるはずだ。だが、そうなると問題はIMUTAのような量子コンピューターを起動させるのに必要な高エネルギーだが、量子エネルギーとやらを使えば、現在のIMUTAのように膨大な電力に頼らなくても済むだろう。さっきも言ったが、ここは小型の量子エネルギー・パックの開発に成功している。つまり、それを超小型の量子コンピューターのような物に組み込んで一体化させれば、いつでもAB〇一八に接続させる事ができて、いつでも奴を停止させる事ができるって事だ。しかも、NNJ社から国が管理権を奪って以降は、あの施設の中に入れるし、資料も手に入る。バイオ・ドライブを接続するためのインターフェースの形状や仕組みは、分析し放題だ」

 浜田圭二は下あごをカクカクと動かした。

「な、な、なんだって? 全部、無駄骨だったって事かよ」

 三木尾善人は頷く。

「おまえらや俺たちの認識を基準にすれば、そうだ。ついでに、岩崎が言っていたが、もしあれが本物のバイオ・ドライブなら、それをAB〇一八の傷口に癒着させたら、そこから焼き崩れて、全体が崩壊していくはずだという事だ。細かな事は解からんが、AB〇一八が量子エネルギーを溜め込んでいる事が原因らしい。もし本物のバイオ・ドライブで同じ事をしても、量子反転爆発なんて絶対に起こり得ないとまで、彼女は言っていた。だが、実際に俺たちが見たのは、その逆だ。今にも暴発して、量子反転爆発とやらを起こしそうだった。岩崎が言うには、新原が接続したり、阿部が中に入れ込んだアレは、バイオ・ドライブではなくて、量子エネルギー・パックを改造した『量子ドライブ』じゃなかったのかと。それなら、量子エネルギーの過剰供給で、AB〇一八がオーバー・クロックを起こして、爆発する事は起こり得るらしい。だとしても、ただの熱爆発らしいがな。せいぜい、あの施設が吹き飛ぶ程度の規模の爆発でしかないそうだ。それでも大事故は大事故だが、あの時、俺たちが考えていた事態よりも遥かに小さい規模の爆発だ。それから、傷も無かった。『パンドラE』の外装には、田爪が仮想空間実験をした際につけた傷があるはずなのだが、新原が持っていたアレには、傷は無かった。あれは『パンドラE』ではない。IMUTAと同じ方式による何らかのドライブ機能を備えたエネルギー・パックだ」

 老女は床に視線を落としたまま口を開いた。

「そうです。私が渡したのは、量子エネルギー・パックを偽装したものです。あれは、バイオ・ドライブではありませんでした」

 浜田圭二が唖然として口を開ける。

「な……みんな、騙されていたのかよ。俺達や、阿部大佐や、新原っていう刑事も」

「ああ、そうだ。みんな騙された。勿論、俺もな。完全に、やられたよ」

 三木尾善人は両肩を上げた。

「そんな……そんな話があるか。ふざけんな!」

 浜田圭二は頭のハットを勢いよく床に投げつけた。

 三木尾善人は永山に顔を向けたまま、話しを続ける。彼は右手の人差し指と中指を立てた。

「それから、二番目の点だが。昨日の夕方、南米で田爪の消息を追跡していた外務省の西田っていう外交官から連絡があった。ジャングルの中で埋葬された『田爪健三らしき男』の遺体が発見されたそうだ。死後三ヶ月は経過しているという。遺体の腐乱がかなり進んでいるので、現地では田爪健三の遺体なのかどうかの確かな確認が出来なかったそうだ。現在、ヨーロッパのある国に運んで、そこの研究機関で鑑定中だが、幸い、こっちには永山さんが日本に持ち帰ってくれた奴の遺髪がある。その他にも、奴は過去に防災隊に所属していたし、第二実験で失踪する前に受けた医療診断記録も司時空庁に保管されている。発見された遺体が田爪のものかどうかは、いずれはっきりするはずた。それよりも、現時点で重要なのは、その発見された遺体の頭骨には、切り取られた跡があり、左肘から何かを摘出した跡もあるという事だ。これが田爪の遺体だとすれば、田爪はやはり、永山さんがインタビューした日よりも数ヶ月前には死んでいたという事になる。そして、本人識別をするためのバイオチップも、第三者に使用されている可能性が高い」

 屈んで、床に落ちた大切なハットを拾っていた浜田圭二は、顔を上げた。

「馬鹿な。じゃあ、何か? 永山ちゃんがインタビューした男、ヤツは、この爺さんだっていうのか。そうなのか、永山ちゃん」

「いや、違います。ここまで老けてはいなかった。似ているが、彼ではありません」

「だが、ハマー。俺たちは会ったんだ。永山さんのインタビューを受けた男に」

「はあ?」

「で、永山さん。さっき言いかけた、『最大の矛盾点』とやらは、何だ」

 三木尾に顔を向けられた永山哲也は、三木尾の目を見て答えた。

「ストンスロプ社です」

 永山哲也はスツールに座っている老女に視線を移し、その顔を見据えた。

「あなたがもし、本当に『田爪瑠香』なら、本物の光絵由里子はどこに行ったのです。二〇〇三年と言えば、今から三十五年前ですよ。その時点でも、世界中で日本のストンスロプ社を知らない人は居なかったはずだ。これだけの世界企業の会長が途中で他人に入れ替われば、周囲の人間が必ず気づくはずです。どう考えても、おかしい」

 三木尾善人が横から答えた。

「もともと存在していないのさ、『光絵由里子』は。単に彼女がそう名乗っているだけなんだよ」

 三木尾に顔を向けた永山哲也は、少しむきになったように反論した。

「ですが、『田爪瑠香』は、二〇〇三年に行ったのですよね。その時すでにストンスロプ社グループは存在していたんですよ。しかも、その翌年に先代の光絵昌宏氏から光絵由里子に会長職は引き継がれていますし、そのストンスロプ社グループ自体、先々代の光絵慎二郎氏が大正末期に設立した企業を母体としている。高橋博士のように、光絵由里子が一代で組織を作り上げた訳ではない」

 永山哲也は再び老女に顔を向ける。

「それに、事故で両親を失った幼い田爪瑠香は、事故後すぐに光絵由里子の養子となっていますよね。その後すぐに二人であの邸宅に住む事にもなった。つまり、二〇〇三年以前から光絵由里子は、あの邸宅を所有していたはずですし、ストンスロプの会長の娘として存在していた。これは、どういう事です。あなたの話や刑事さんの推理は、この点で明らかに矛盾している」

 ベッドの上の口髭の老人を眺めながら、三木尾善人が発言した。

「それがな、もう一つの事実を重ねると、話が見えてくるのさ」

 永山哲也は眉間を寄せて聞き返す。

「もう一つの事実?」

 三木尾善人は永山に尋ねた。

「生体型アンドロイド製造事業って、聞いた事あるか」

「ええ。辛島政権が国策として準備しているヒューマノイド型ロボットの大量生産事業の事ですね」

 三木尾善人は頷いた。

「ああ。辛島勇蔵は、総理就任以前から準備していた。ストンスロプ社の協力を得て」

「ストンスロプ社の……まさか……」

 慌てたように急いでベッドの上のシートに手を掛けた永山哲也は、勢いよくそのシートをはぐった。

「これは……」

 永山哲也はベッドの上に視線を落としたまま、愕然として立ち尽くした。



                  九

 ベッドの上の老人の体は、腹部が十字に切り広げられていた。四方に広げられた皮膚と腹筋の下から、肋骨らしきものが覗いている。その肋骨には色褪せた銀色の小さな金属片が無数に突き刺さっていた。その下の腹腔には赤や黄色のチューブから枝分かれしたコードが差し込まれているが、それらの電線は脈打つ奇妙な臓器を避けて、それらの奥の、丁度、体の芯の部分に位置する辺りにある金属製の筒に繋がっていた。その金属製の筒は、表面の中心で開裂し、そこから漏れた液から泡を立てている。周囲で動いている臓器らしき物も、血色を失い動きが弱い。臓器らしき物の周囲に血管の様に浮き立っている管の裂けた部分からは、その管の中の小さな銅線がはみ出していた。一部の臓器らしき物は大きな穴が開いていて、そこから赤黒い液体や赤褐色の粘液が滲み出ている。横に退かされた腹斜筋は相当に強靭である事が分かった。その内側には、潰れた弾丸が突き刺さって止まっていたからである。一見して湿った肉体のように思えるその臓器の間では、所々で、小さなショートが起こり、不規則に、細かな火花を散らしていた。臓器らしき物から漏れ出た液体はその火花を覆って消火すると、隙間に見える蛸の脚のような物の吸盤のような部分に吸い込まれ、再び体内に戻っていく。捲られた腹直筋の下の腸の様な形状の物からは、繊毛のような物が周囲に広がり、蠢いていた。

 そのグロテスクな生体を覗き込んだ浜田圭二は、眉をひそめて顔を顰めた。

「なんじゃ、こりゃ。人工臓器ばっかりじゃねえか。肋骨も強化プラスチックなのか?」

 白髪の老体の足下に近寄った三木尾善人は、露になった体内を覗き込んで呟いた。

「やっぱりな……。応急措置を施した山本少尉は、あの刀傷の男は特殊ホロウポイント弾を使用していたと言っていた。その腹筋に刺さっている弾を見る限り、確かに特殊ホロウポイント弾だ。この弾は、いわゆる炸裂弾。普通の人間なら、例え人工臓器を入れていたとしても、この程度では済まないはずだ。骨や臓器がバラバラに砕け散っているだろう。だが、こいつは見てのとおり、筋肉で弾を止めている。臓器の損傷もホロウポイント弾を受けたにしては少ない。しかも、これらの損傷は、被弾した体内深部だ。止血措置をした宇城大尉も、背部の銃創からは明確には分からなかったに違いない。彼は腹腔内部の損傷が激しいと考えて、急いで医療機器の開発棟であるこの一号棟ビルにこいつを運ばせた。だが、こうして実際に開腹してみれば、この通り。まともに損傷しているのは、その筒状の機械だけだ。六発も食らえば、拳大の空間が幾つもできていて普通なのに」

 浜田圭二が、その時の事を思い出して言った。

「ああ、そう言えば、山本少尉がAEDを使って心臓を戻した時に、やけに激しく飛び跳ねるなと思ったんだよ。これは、ほとんどロボットじゃねえか。人工血管の中には細い銅線が入っているぜ。この蛸の脚みたいなの、なんだよ。漏れ出た自分の体液を吸ってるぜ、気持ち悪いなあ」

 三木尾善人は目を閉じている老女に尋ねた。

「具体的には、どういう状態なんだ」

 老女は、ベッドの上の老体から目を逸らして言う。

「脊椎と電力供給システムを大きく損傷しているわ。電力消費が予定よりも早くなってしまっている。つまり……」

 三木尾善人は言った。

「危篤状態――って事だな」

 老女は黙って頷いた。

 ベッドの横で呆然とその奇異な肉体構造を見つめていた永山哲也が口を開いた。

「電力消費……では、本当に、この人は、完全な作り物のロボットなのですか?」

 彼は老女の方を見た。三木尾と浜田も老女に顔を向ける。老女は、はっきりと首を縦に振った。それを見た三木尾善人は再びベッドの上の老体に目を遣り、低く落ち着いた声で言った。

「意識を回復した宇城大尉が最初には発した言葉は、この事だったそうだ。彼は増田局長に、自分が止血処理した老執事が人間では無いと訴えたらしい。血の臭いが違ったと。何度も実戦を経験している宇城大尉だ。本物の人間の血と人工血液の違いを嗅ぎ分けていたんだろう。彼は生死の境を彷徨いながらも、記憶を廻らせ、情報を整理していたんだ。大したものだよ。そして、それを聞いた増田局長から俺に連絡があった。それで、すべてが繋がった」

「この人が、ロボット……」

 永山哲也は、まだ信じられないようだった。

 三木尾善人は事前に調べていた情報を彼に知らせた。

「正確には生体型ヒューマノイドロボット。自己修復機能を備えた次世代型ロボットだ。たぶん、これはその試作品さ。政府のロボット事業に先駆けて、GIESCOが作ったものだろう」

 永山哲也は記者として得ていた情報と、今の三木尾の話を結びつけた。

「政府のロボット事業の一環として試作体が作られたとは聞いていましたが、まさか、それが……」

 永山の横に歩いて行きながら、三木尾善人は言う。

「俺たちの目の前に居たって事さ。それなのに誰も気が付かなかったんだよ。よく出来ているよな。完璧だ。だから永山さん、インタビューをしたあんたが気付かなかったのも、当然なんだよ」

 三木尾善人は、その左手で永山の肩を軽く叩いた。

 何回も瞬きをしてベッドの上の老ロボットを見ていた浜田圭二が、田爪瑠香に尋ねる。

「でも、これ、外観は丸っきり『人間』じゃないか。生体型で自己修復もできるって事は、年取るのも遅い訳か。どおりで、えらく元気そうな爺さんだと思ったぜ。再生細胞か何かを使用しているのか? 体のほとんどの部分に」

 老女は答えた。

「そう。全体の約八〇パーセントに人口細胞組織で作り上げたパーツを使用しているわ。それに、人間よりはゆっくりですが、ご覧の通り、老化も進行します」

 浜田圭二は、今度は老女の上からベッドの上の老体を覗き込みながら、再び尋ねた。

「残りの二〇パーセントは何なんだよ。少しは金属部位も見えるけどな……」

 三木尾善人が、ベッドの上の老体の開かれた部分から見えていた、彼の体内の筒状の金属体を指差して、言った。

「一つは電池さ。GIESCOお得意のO2電池オーツー。なにせ、ここが発明した半永久電池だからな。そして、もう一つは……」

 永山哲也が指摘する。

「ハード・ドライブ。人工知能を司る電子頭脳の部分ですね。まさか、そこに使われているのが……」

 三木尾善人が続けた。

「そうだ。『パンドラE』。バイオ・ドライブの成長する生体素子を培養基にして、田爪健三の脳を移植し、奴の記憶と認識を復元したもの、本物の『パンドラE』だよ。つまり、このロボットの記憶と認識は完全に田爪健三なんだ。だから、あんたのインタビューに答える事もできた。『田爪健三』として。そういう事だ」

 室内に再び沈黙が広がった。



                  十

 永山哲也は真剣な顔で強く否定した。

「いや、しかし、僕がインタビューしたのは、このロボットでは無い。確かに、似てはいますが、ここまでの老人ではありませんでした。彼ではない」

 老女はただ、黙っている。再びベッドの足下の方に歩いていった三木尾善人は、ベッドから少し離れた元の位置で立ち止まり、呟いた。

「そうすると、やはり、あっちの方の田爪だな」

「あっちの方の田爪?」

 怪訝な顔をする永山に、三木尾善人は短く説明した。

「俺たちがAB〇一八の施設で会った田爪さ」

 浜田圭二が問い返す。

「なんだって? 何言ってるんだ、善さん」

 永山哲也も首を傾げた。

「どういう事です」

 三木尾善人は困惑する二人を見ながらニヤニヤしている。

 永山哲也は白いシートをベッドの上の男の切り開かれた腹部の上に掛け直すと、再び疑いの目を老女に向けて、言った。

「それに、我々マスコミの人間の間でも、次世代型ロボットの製造に成功したという情報が飛び交ったのは、ここ数年の話ですよ。早くても五年くらい前からの話だったはずです。だが、この小杉さんは、それ以前からあなたに仕えていたのではないですか? 情報と事実が一致しない。――あなたは、過去で何をしたのです?」

 田爪瑠香は、ベッドの上の人工の田爪健三の寝顔を見ながら答えた。

「私ではないわ。健三さんよ。すべて彼の功績だわ」

 永山哲也は険しい顔で尋ねる。

「田爪博士の? 彼は『過去』へは行っていないのでしょう? 南米で発見された遺体は、田爪博士のものではないのですか?」

 すると、浜田圭二が口を挿んだ。

「ちょっと待てよ。じゃあ、昨日、俺たちの前に現われた田爪健三も、もしかして、ロボットだったのか?」

 三木尾善人は頷いた。

「そうだ。きっと、あれが、再生された田爪健三だったんだ。そうだな」

 老女は黙って頷いて、下を向いた。その彼女と三木尾を交互に見ながら、浜田圭二は混乱した様子で三木尾に尋ねる。

「どういう事なんだよ。説明してくれよ。いったい、何がどうなっているんだ」

「……」

 永山哲也は黙って三木尾の顔を見据えた。

 三木尾善人は少し息を漏らした後、軽く鼻を啜る。そして、語り始めた。

「たぶん、こういう事だ。この前の六月四日から、その人が、田爪の脳を移植したバイオ・ドライブ『パンドラC』を持って二〇〇三年に飛び去った後、本物の田爪健三は現地に残った。イヴンスキーも去り、その後の六月二十二日、定刻どおり家族搭乗型のマシンが日本から到着。田爪はいつも通りに処刑を実行した……としておこう。で、その後、単身搭乗型のマシンが到着。その中から現れたのが、俺たちが昨日見た田爪、ロボットの田爪、奴だ。そして奴が、本物の田爪から脳の一部を切り取り、左腕の中の生体バイオ・チップも摘出した。奴は切り取った脳の一部を、六月四日に瑠香が置いていったバイオ・ドライブ『パンドラB』に埋め込んで『パンドラC』にし、摘出した生体バイオ・チップは自分の左腕に埋め込んだ。一ヶ月後の七月二十二日、奴は永山さんのインタビューを受け、左腕のバイオ・チップで自分が本物の田爪だと偽り、永山さんに『パンドラC』を渡した。永山さんがそれを一ヶ月前に送った後、その証拠となる建屋を焼き払い、イヴンスキーの助けで南米を脱出。地球上を転々として、最終的に日本に上陸し、帰国を果たした。そして、ここGIESCOに身を潜め、昨夜、俺たちの目の前に現れた」

「裏は取れてるのかよ」

 浜田の問いに三木尾善人警部は頷く。

「司時空庁のタイムマシン発射場の搭乗ゲートの通過個体記録を調べた。スーパー・センサーの感知記録だ。ところが、何故か六月二十三日、南米の現地日付では六月二十二日だが、この日の分だけが全て消去されていた。だが、微かに残っている記録があった。O2電池の製造番号だ。メンテナンス部品の交換記録ファイルとリンクされて、ゲートの通過個体記録に保存されたようだ。それで、通過個体の記録が消去されても、その痕跡が残った。そこからデータを復元して、その製造番号と型番が判明した。あとは現物と照合すれば、その日、その時刻に、あの搭乗者ゲートを通過したのが何者か判別できる。つまり、南米の六月二十二日に田爪の前に現われた単身搭乗型のタイムマシンに乗っていたのが、何者かが。一応、言っておくが、記録上は、そのタイムマシンには光絵幸輔という男が乗った事になっている。光絵由里子の義理の兄弟だ。だが、実際には光絵幸輔は二十三年前の二〇一五年に死んでいる。が、この二十三年間、光絵幸輔の生存が偽装されていたようだ。おそらく、司時空庁でタイムマシンの搭乗手続きをするためだろう。戸籍のない偽者のロボット田爪じゃ、手続きが出来ないだろうからな。南米からの脱出後の足取りについては、外務省、国防省、警察庁で合同チームを作り、各機関が収集した情報を照合するそうだ。予想では、近々、かなり詳細に判明するとの事だ」

 永山哲也が眉を寄せて言った。

「ですが、そうなると、その時点で、田爪博士の脳を移植した『パンドラC』は、田爪瑠香と共に二〇〇三年に行っています。七月二十二日時点でも、実際に僕がこの手で受け取って、タイムマシンに乗せているんですよ。それに、僕のインタビューに答えたのがロボットの田爪博士なら、その記憶はどうやって再現していたのです。彼の話した事は、すべて事実でした。しかし、さっき警部さんは、このロボットの執事の脳に『パンドラE』が使われていると言われた。それなら、あの時、僕のインタビューに答えたロボットの中には、田爪博士の脳を再生させたバイオ・ドライブは無かったという事ですよね。それで僕にあれだけの話が出来るはずがない」

 永山の鋭い指摘に口角を上げて答えた三木尾善人は、その頬を下ろして老女の方を向いた。彼は年老いた田爪瑠香に尋ねる。

「昨夜、俺たちの前に現われたロボットは、いつ頃から製作に取り掛かっていたんだ」

 老女は下を向いたまま答えた。

「二〇一四年頃からよ。IPS細胞技術が盛んに研究されるようになったあの頃から、秘密裏に実験を重ねてきました。形として完成したのは二〇三三年」

 三木尾善人は更に問い質す。

「それで、『パンドラE』が完成したのは、いつなんだ」

「つい、このあいだの事よ」

「いつだ」

「安定し始めたのは四月に入ってからね」

「実際に搭載したのは」

「五月五日。テストを重ねて、問題ないとの結論が出たのは、六月十日だったわ」

 二人の問答を、その間で首を左右に振りながら聞いていた浜田圭二は、苛立った声で言った。

「なんだよ、善さん。なに言ってるんだ。解るように話してくれ」

 三木尾善人は浜田に視線だけを向けて話した。

「二〇〇三年に運ばれたバイオ・ドライブは『パンドラD』と呼ばれた。この『パンドラD』は、ずっとこのGIESCOで保管されていたのさ。二〇〇三年に瑠香の両親の事故現場で発見され、回収されたタイムマシンと共に」

 浜田圭二が目を丸くした。

「ここに。やっぱりか。だが、二〇〇三年からって、たしか、ここが出来る前からじゃねえか」

 三木尾善人は言った。

「このGIESCOの全身のストンスロプ研究所が設立されたのは、二〇〇四年だ。この研究機関はストンスロプ社の新製品開発の為の機関というよりは、『パンドラD』とタイムマシンを保管し、分析する為の機関なのかもしれん。永山さん、あんたのところの新日風潮社の春木さん。彼女が当初、ここやストンスロプ社が怪しいと睨んだのは、なまじ外れてはいなかったのさ。やはりここは、当初から事件に絡んでいた」

 永山哲也は小さく呟いた。

「ハルハルのやつ、真相に近づいていたんだ……」

 三木尾善人は口角を上げて言った。

「ああ。だが、的を絞ったのが少し早過ぎたみたいだな。ASKIT事件の前では、浮島の輪郭すら見えていなかったはずだ。とは言え、あの子は優秀だよ。勘もいい」

 浜田圭二が老女の方を見て尋ねた。

「そんな事より、どうして、そんなに長い間、隠しておく必要があったんだ」

 三木尾善人が答えた。

「バイオ・ドライブに田爪の脳の一部が移植され、それが上手く適合したとしても、中のニューラル・ネットワークの再生には時間がかかる。つまり、田爪健三の記憶の神経回路を再生するのには、長い年月が必要だったという事だ。三十五年という年月がな。ところが、未来からの情報が詰まったバイオ・ドライブの存在をパノプティコンやASKITが察知した。おそらく、保管を始めて二十年前後が経った頃だろう。それで、パノプティコンやASKITから『パンドラD』、つまり、田爪健三を守るために、『パンドラD』の消失、つまり、田爪健三の死を偽装する必要があった」

 永山哲也が言う。

「それが、二〇二五年の、あの大爆発事故……」

 三木尾善人は永山に顔を向けて頷く。

「そうだ。事前に若き日の高橋諒一から回収したバイオ・ドライブをダミーにして、タイムマシンと共に葬り去ったのさ。やってくる西郷が乗ったタイムマシンに重なるように仕向けて。西郷のタイムマシンが現れる位置に寸分違わす、永山さんが送ったあの卵形のマシンを設置して、中にダミーを入れた耐核熱金属板で作った箱を載せておく。量子反転爆発が起こっても、ダミーのバイオ・ドライブが焼け残るって算段だ。ま、そうなると、二〇二〇年に高橋諒一がバイオ・ドライブをIMUTAに接続してIMUTAをシャットダウンさせちまった話、それ自体が工作された出来事だったのかもしれないな。高橋諒一に賠償金を請求して、その免除と引き換えにバイオ・ドライブを入手するための自作自演の事故だったのかもしれん」

 浜田圭二は大きく首を捻った。

 永山哲也も納得のいかない顔つきで呟く。

「全てが仕組まれていたと……」

 三木尾善人は二人の表情を気にせずに語り続けた。

「で、あの大爆発の結果として、案の定、パノプティコンは諦め、ASKITはからのバイオ・ドライブ『パンドラF』に食いついた。お蔭で、GIESCOでは、この世から消えた事になった『パンドラD』を、安心してじっくりと培養させる事が出来たという訳だ。三十五年かけて、じっくりとな」

 浜田圭二は腕組みをして考えながら言った。

「じゃあ、その『パンドラD』の神経ネットワークの再生が完了し、内部に完全に田爪健三の記憶が復元されたのは、ついこの間だったって事か。それを、田爪に似せて作ったアンドロイドに搭載した。そのアンドロイドが『パンドラE』。そうなのか」

 三木尾に視線を向けた浜田に、横から老女が言った。

「ええ。勿論、搭載すると言っても、そう簡単なものではありません。体の神経との接合がありますから。テスト期間を終えても、本来なら数年は様子を見たいところでした」

 三木尾善人は彼女の話の後を続ける。

「だが、予期していた通り、先に田爪瑠香がタイムマシンで南米に発つ事になった。津田が勝手に瑠香を乗せて飛ばしたのだろうが、あんたはそこまでは知らなかった。新日の記者たちが動き出す事もな。おそらく、過去のあんたが知っていたのは、春木という記者が自分を救出しに現われるという事だけだ。あの頃のあんたは、事実上、待機施設に幽閉されていた訳だからな。外の事情を知らなかった。ドライブの中の田爪ともコンタクトは取れないし、それを搭載したばかりのアンドロイドを、テストの結果も出ないまま南米に送る訳にはいかない。それであんたは、慌ててイヴンスキーにエネルギーパックを運ばせた」

 老女は首を縦に振った。

「ええ。ですが、それは私が過去に体験した通りだったわ」

 三木尾善人は片笑んで言う。

「だろうな。――その後、田爪健三の脳が再現された『パンドラE』を頭脳として搭載したロボットの田爪は、暫くかけて基本的なテストをクリアしていった。そのテストの結果で安全が確認されると、あんたはそのロボットの田爪を、六月二十三日の単身搭乗型のタイムマシンに『光絵幸輔』の名前で乗せ、南米へと向かわせた。そうだろ」

 老女が頷いたのを見て、浜田圭二は言った。

「じゃあ、永山ちゃんのインタビューに答えていた時点では、完全に田爪の脳を再現したモノが頭の中に入っていたのか。だから、インタビューにも答えられたんだな」

 三木尾善人は永山の顔を見て言う。

「どうだい、永山さん。これで、納得いったかい。結局あんたは、田爪健三本人にインタビューしたのと、変わらないんだよ」

 永山哲也は、まだ納得できない顔をしていた。彼は疑問の一つを口にする。

「しかし、何故、そこまで。どうして、こんな手の込んだ事をする必要があったのです」

 三木尾善人は再び自分の推理を述べた。

「一つはパノプティコンの連中から逃れるため。一説では、連中は有史以前から存在する本物の秘密結社だ。中途半端な手段では欺く事はできない。もう一つは、バイオ・ドライブ内の神経ネットワーク。その完全な再生をするための時間を稼ぐためだろう。高橋涼一のように焦ってAB〇一八に接続するなんて事は、危険過ぎて出来ないからな。愛する田爪健三の脳だ。そうだろ、田爪瑠香さん」

「……」

 老女はベッドの上の男の手を握ったまま、下を向いている。

 永山哲也は更に疑問を投げた。

「ですが、こんな事をしても、田爪健三の外観をしたロボットは、やはりパノプティコンから狙われてしまうのではなかったんじゃ……」

 三木尾善人は大きく頷いた。

「その通りだ。だから、せめて顔は変えておけばよかった。しかし、そうすると、六月二十二日に南米で本物の田爪健三と入れ替わった後、現地のゲリラ兵士たちに殺されてしまうかもしれない。さてどうするか。その中間の策を練ったのさ」

 永山哲也が答えを言った。

「――歳をとらせた。僕がインタビューした田爪博士が、予想よりも老けていたのは、そういう事だったんですか。顔を最初から、そう成形していた。そうなのですか」

 永山に尋ねられた田爪瑠香は、彼の目を見て答えた。

「ええ。苦肉の策だったわ。ですが、そのお蔭で、司時空庁の職員にも気づかれずに、奴らのマシンに乗る事が出来ました。あのマシンを利用しなければ、パノプティコンやASKITの連中に知られないように健三さんの前に彼を送る事は出来ませんでしたから。一方で、毎日顔を見ていた南米のゲリラ兵たちには、疲労で一気に老けたのだろうと映った。ゲリラ兵たちには、彼が私を誤射したという事になっていましたから。だから、心痛で、一気に老け込んだと誤解された。不幸中の幸いです」

 三木尾善人は顔を顰める。彼は言った。

「岩崎の予想通り、タイムトラベルの後遺症で過度に老化するなんて事実は、存在しなかったのさ。ま、この人はああ言ったが、実際は、現地のゲリラ兵士たちは驚いたはずだ。朝は中年男性だった田爪が、夕方には少し老けていた訳だからな。ただ、寸前までの記憶も、生体バイオ・チップの個人識別コードも一致すれば、ゲリラ兵士たちも奴を本人だと信じない訳にはいかない。永山さん、南米のスラム街で奴らの方からあんたに接触してきて、拉致同然の方法であんたを田爪の前に連れて行ったのも、現地で田爪や高橋を探していたあんたに、同一人物かどうか確認させるためだったのかもな」

 永山哲也は、インタビューの際に、ゲリラ兵たちが撮影機器に過剰に神経を尖らせていて、それらを永山から奪った理由をようやく理解した。

 浜田圭二は腕組みをしたまま天井を見上げて考えている。彼は独り言のようにブツブツと言った。

「そのロボットの田爪が本物の田爪から脳を切り取って『パンドラB』に移植したんだろ。ロボットの田爪の中には、ついさっきまでの田爪本人の記憶が残っている訳だ。つまり、自分で自分を殺し、自分の脳を切り取って、生体ドライブに移植している訳だろ。田爪の奴、どんな心境だったんだろうな。想像しただけでも、気色悪いぜ」

 老女は少しだけ浜田に顔を向けて言った。

「彼は覚悟していたわ。六月四日に永山さんが送ってくれたタイムマシンを見て、そして、ICレコーダーの中身を聞いて、さらにイヴンスキーから話を聞いて、彼は自分の脳を提供する覚悟を決めたの。私と共に二〇〇三年に避難する事を決めてくれたのです」

「それはどうかな。あんたは、そう思っていたのかもしれないが、奴は……」

 先に進めようとする三木尾の発言を遮って、永山哲也が口を挿んだ。

「ちょっと待って下さい。それでも、僕が述べた矛盾点についての答えが、まだ出ていません。ストンスロプ社が二〇〇三年以前から存在していた事は、どう説明するのです?」

 浜田圭二も口を尖らせながら言う。

「そうだぜ。それに、そのロボットの田爪は、もう死んじまったか、消えちまったが、もし、そうじゃなければ、やはりこれからも、そのパノ何とかから命を狙われ続けたんじゃないか。いくら老けさせたとしても、いずれバレるだろう。しかも、実際にこうやって、永山ちゃんに面通しさせたら、一発で……」

 彼は横でスツールに座っている老女を指差した。

「あんた、まさか、永山ちゃんを消すつもりだったのか」

 老女は首を横に振る。

 永山哲也はベッドの上の白髪の男を指差して、老女に言った。

「このロボットに田爪博士の生体バイオ・チップが埋め込まれている事も説明できません。どういう事なんですか」

 三木尾善人が、落ち着いた様子で口を開く。

「ロボットの田爪さ。奴が過去に飛んで、一からストンスロプ社を作り上げたんだよ。それに奴は、死んでも消えてもいない。奴は今、そこに居る」

 三木尾善人は真っ直ぐに、ベッドの上の白髪の老人を指差した。



                  十一

 永山哲也と浜田圭二は、疑念に満ちた顔をベッドの上の老人に向けた。

「す、すると、やっぱり、本当に、この爺さんロボットが、俺たちが見た田爪のロボットなのか? でも、過去に飛んだって、どういう事だよ」

「どういう事なんですか。ちゃんと説明してもらえませんか」

 三木尾善人はベッドから少し離れた位置に立ったまま、ベッドの右側に立つ浜田に顔を向けた。

「ハマー、俺たちは見たんだよ」

「見た? だから、何をだよ」

「あの田爪ロボットが過去に行く瞬間をだ」

「過去に行く瞬間? タイムマシンの事か? どこで」

「AB〇一八の施設さ。昨夜だよ」

「昨夜って……えっ……あ、まさか……」

 三木尾善人は深く頷いた。

「そうだ。あの『ノア零一』がタイムマシンだったのさ。俺たちは、まんまと騙されたんだよ。田爪健三ロボットに」

 浜田圭二は目を丸くして、その上の眉を八字に傾ける。

「はあ? マジか。あれ、タイムマシンなのか」

 三木尾善人はベルトに両手の親指を掛けたまま、口を丸くして突き出す。

「そう。そして、AB〇一八は量子エネルギーの蓄積装置だったのさ。かなり遠い過去までタイムトラベル出来るだけの、大量の量子エネルギーを蓄えた、言わば、巨大なエネルギー・パックだ。あのコンピュータは勝手に暴走し始めたんじゃない。おそらく、初めから暴走するように出来ていたんだ。あの脳みそコンピュータをIMUTAと接続して、そこに大量の情報を記憶させ、理解させる事で、ニューラル・ネットワークを増殖させていった。そうやって細胞増殖を繰り返させ、内部に循環する量子エネルギーの量を増やすようにして、タイムマシンが遠い過去に飛ぶのに必要な量子エネルギーを、その内部に溜めさせていったんだ。そして、ロボットの田爪健三は、その中に溜まった量子エネルギーを使って、かなり遠い過去に飛んだ。新原と阿部は、その後押しをする役を担わされたに違いない。点火スイッチを押す係りだ。勿論、本人たちは、そんな事は知らずにな。そして、おまえらは、タイムマシンを製造工場から発射台まで運ぶ役目、つまり『運搬役』をさせられたって事さ」

「運搬役だって?」

「そうだ。だって、神経感知型システムはロボットには使えないだろうし、それで乗せ替えた手動型の操縦システムも、まだ生後三ヶ月のロボット田爪じゃ、上手くは使えないだろ。だから、誰かにあのAB〇一八の前まで運んでもらうしかなかったのさ」

 浜田圭二は眉を上げた顔を横の老女に向けた。

「なんだと、それだけの為に、皆、命を懸けさせられたのか。宇城大尉は撃たれたんだぞ!」

 老女は黙った下を向いていた。

 三木尾善人が老女に確認する。

「そうだな。あれは、タイムマシンなんだな」

 暫らく黙っていた老女は、目を伏せたまま静かに口を開いた。

「――そうです。ノアゼロシリーズ自体が新型の兵員輸送機である事に、嘘はありません。ただ、ノア零シリーズは量子エネルギー・エンジンを使用しています。そのプロトタイプ機を健三さんが改造して、タイムマシンにしました。遠い過去に飛べるだけの大量の量子エネルギーの消費に耐えられる、最適の構造を『ノア零一』が有していたからです。それを健三さんが改良して、完璧なタイムマシンにしたのです」

 三木尾善人は胡散顔で言った。

「本当かね。最初からそのつもりで、『ノア零一』の設計はされていたんじゃないのか」

 老女は表情を変えずに、視線をベッドの上に落として言った。

「いいえ。軍から汎用型の兵員輸送機のリクエストがあったのは事実です。それで、軍からの要望を基に、我が社で設計を検討する事になりました。不思議と……いいえ、当然ね、技術者たちが考案した機体の設計構造は、ああいった物になりました。そして早速、試験機の製造に取り掛かったのです。技術者たちは自信を持って製造に取り組んだわ。完成前の中間テストの段階から、デモンストレーションと称して軍に公開した。ところが、成功すると確信して巨額の資金を投じたノア零一プロジェクトでしたが、最終テストの段階で、いくら試験繰り返しても結果が出ない。私は焦りました。このプロジェクトは成功させなければならなかったわ。いいえ。成功するはずなのです。私は役員たちの反対を押し切り、量産するための工場建設費と、量子エネルギー生成プラントの建造費を先に確保しました。そして、プロジェクトに新たな技術者を加えさせた。最高の技術者を」

 三木尾善人が言った。

「南米から連れ戻した、ロボットの田爪健三だな」

「そうです。彼が改良を加えた途端、試験飛行の結果は良好、他の技術者たちが頭を悩ませていた問題点も次々にクリアしていきました。ですが、試験飛行の結果では、まだ安全性が確保されたと言えるだけの結果は出ていませんでした。ところが、良好な試験結果を知った役員連中は欲に目が眩み、掌を返したように『ノア零一』を大量生産して軍に一喝納入する事に前向きとなっていった……。私は反対でした。生死の境で働く人間や、戦場で助けを求めている人間を運ぶ乗り物は、通常の乗り物以上に安全である必要があると考えたからです。それで、先日の取締役会で量産事業の凍結を決定したばかりです。一方で、あの健三さんは、その試作機にタイムトラベルに必要な構造を追加し始めた。私がそう聞かされていた通りに。彼は兵員の搭乗スペースの中に場所を取っていた神経感知型システムも降ろし、完全手動型の操縦システムと乗せ替えました。更に、開いたスペースに別の機械を積み込んでいったわ。そして、あの夜、彼から計画を聞いたのです。あとは、量子エネルギーだけ。準備は出来ていました。起爆剤となるエネルギー・パックの製造にも成功した」

 永山哲也が尋ねた。

「なぜ……なぜAB〇一八を利用する必要があったのですか」

 光絵由里子は永山と目を合わさずに答える。

「予定したタイムトラベルに必要な量子エネルギー量を賄うには、大型のプラントによるエネルギー生産と蓄積が必要でした。しかも、そのプラントに匹敵する規模の蓄積設備が必要になる。しかし、大規模なプラント施設を建造すれば、そこで作られた量子エネルギーは、一般社会の消費エネルギーに回されてしまい、蓄積が困難になります。そして、仮にそこで生成し蓄積した量子エネルギーを使用するとしても、無機物の巨大建造物を巻き込んでのタイムトラベルは、成功する確率がかなり低くなってしまうのは明らかでした」

 三木尾善人は鋭い視線を老女に向けたまま言う。

「だが、AB〇一八のように、むき出しの有機物なら、量子エネルギーの放出と同時に消失する。丁度、量子銃で撃たれた人間のように。だから、タイムトラベルに影響を与えない。そういう事だな」

「そうです。しかし、あの生体コンピューターの暴走は、我々の予想外の出来事でした。先日、辛島総理から客観的数値を見せられ、初めて、その本当の脅威に気づいたのです。健三さんが『ノア零一』から武器装備を外さなかったのも、その為でしょう。この計画が旨く行けば、あの危険なコンピューターも消し去れる。私は、そう考えました」

 三木尾善人は確認した。

「じゃあ、AB〇一八が本格的な暴走を始めたのは、この数ヶ月の事なんだな」

「ええ」

 三木尾善人は更に確認した。

「高橋諒一は、その兆候に気づいていた。だから、AB〇一八を破壊しようとした」

「ええ。ですが、AB〇一八が実質的に我々の管理下に入ったのは先月に入ってからの事です。それまでは、SAI五KTシステムの共同管理者として、NNJ社からAB〇一八の保守管理データを提供され、政府が仲介して、IMUTAの保守管理データと交換していたに過ぎません。AB〇一八の暴走は、彼らが私たちに秘密にしていただけで、本当はもっと以前から起こっていたのかもしれないわ。ずっと以前から」

 三木尾善人は、ベッドの上の白髪の老人を眺めながら呟いた。

「ずっと以前……」

 すると、永山哲也が老女の顔を見ながら、記者の顔で彼女に尋ねた。

「その、ロボットの田爪健三が飛んだ『遠い過去』とは、いつなのです? まさか、もう一度、二〇〇三年に戻ったのですか」

 三木尾善人が口を挿む。

「いや、俺の推理じゃ、おそらく一九二三年の九月一日十一時五八分。場所は、東京だ」

 浜田圭二が眉を寄せた。

「一九二三年? 東京? どうしてだよ。なんで日付と時間、場所まで分かるんだ。善さん」

「一九二三年……」

 永山哲也も眉間に皺を寄せて、考えていた。




                  十二

 永山哲也と浜田圭二は、暫らく考えた。二人同時に顔を上げると、顔を見合わせて、二人同時に首を捻る。それを見た三木尾善人は、薄い頭の毛を毟るように掻きながら、大きな声で言った。

「あーあ。日本史の勉強してねえのかよ。これだからな、学校で歴史を教える時には、近代史から遡って教えなきゃ駄目なんだよ。ちょっと前の事も分かんねえのに、室町時代だの飛鳥時代だのって教えていくから、こうなるんだ。ある出来事があったら、どうして、どういう経緯で、それが起きたのかって、遡っていくのが歴史の学習だろうが」

 浜田圭二が三木尾を制止した。

「なあ、善さん。そんな事はどうでもいいから、何があったんだよ、一九二三年の東京で」

 三木尾善人は、大きく溜め息を吐いてから答えた。

「――関東大震災さ。マグニチュード八弱の地震が南関東を襲ったんだ。その当時の首都圏は壊滅状態、死者は十万人弱、行方不明者は四万三千人を超える数に及んだそうだ」

 また驚いた顔で永山哲也が言った。

「百十五年前。そんな昔の東京に飛んだというのですか。何のために」

 三木尾善人は下を向いて答えた。

「理由はともかく、時間と場所は、タイムマシンの出現ポイントとしては、打って付けだ」

 浜田圭二が膝を叩いて言った。

「そうか、不謹慎な話かもしれねえが、確かに到達先が瓦礫の海なら、混乱した状況に紛れて安全に着地できるぜ」

「しかも、あのノア零一は陸海空汎用型だ。空も飛べる。到達ポイントを空中に設定すれば、より安全に到着できる。タイムトラベルして移動したら、目の前にヘリコプターが飛んでいたなんて事態も生じ得ない時代だしな。なんせ大正十二年だ」

 三木尾の発言に続けて、浜田圭二が指を鳴らして言った。

「出現後も、水中移動や空中移動なら、人目につかずに機体を移動させられるし、誰にも知られずに隠せるって訳か。よく出来てるぜ。まったく」

 三木尾善人は、ベッドの上の老ロボットを睨んでいる浜田に言った。

「そう考えると、ストンスロプ社の歴史とも辻褄が合うんだ。ハマー、ストンスロプ社の創立は何年だ」

「せ、一九二四年の四月一日だぜ」

 思わぬ年代の一致に驚いた顔で答えた浜田に、三木尾善人が更に言った。

「そういう事さ。ストンスロプ社は、このロボットの田爪が作ったんだ。一歳未満のロボットがな。そして、光絵慎二郎を名乗った。その後、慎二郎の事故死を偽装し、二代目の光絵昌宏を名乗りだした。生身の人間がたいして老化しないまま長生きし過ぎると、逆に注目を集めてしまうかもしれんからな。適当な頃合で交代して見せたんだろう。二台目の昌宏がほとんど一目につく所に出てこなかったのは、たぶんその為だ。そして、二人とも、めぼしい記録が残っていないのは、そういう事情があったからに違いない」

「では、光絵由里子は?」

 永山哲也は老女を一瞥すると、三木尾に顔を向けた。

 三木尾善人は、黙ってスツールに座っている田爪瑠香を顎先で指して言った。

「この婦人が二〇〇三年にやって来る事は知っていたんだ。準備しておく必要がある。だから、事前に存在を作り出していたんだろう。戸籍やら何やらを改ざんしてな。時代が時代だ、出来ない事じゃない。二〇〇三年に飛んだ当時のアンタは四一歳。という事は、この爺さんは四一年間、存在しない人間を存在するように見せかけ続けたって事だ」

 浜田圭二が三木尾に尋ねた。

「また、ロボットか?」

 三木尾善人は首を横に振る。

「いや、それは無理だろうな。二〇〇三年から四十一年も前の時代じゃ、まだ、必要な技術や化合物質、機材が存在しない。おそらく、書類の操作や影武者でも使うなどして、光絵由里子という幻影をゆらめかせ続けていたんじゃないか」

 永山哲也が田爪瑠香をベッドの反対側から見ながら、言った。

「そして、二〇〇三年に現われた彼女を保護し、光絵由里子と名乗らせることで、実在の人物とした」

 三木尾善人は浜田の顔を見て言った。

「ちなみに、先代の光絵昌宏は、翌二〇〇四年に溶鉱炉に落ちて死亡した事になっている。当然、遺体は見つかっていない」

 浜田圭二はベッドの上に視線を向ける。

「そして、この爺さんは小杉正宗に名前を変えて、光絵由里子の執事に」

「そういう事だ」

 三木尾善人は、ゆっくりと首を縦に振った。一同はそれぞれ、ベッドの上の白髪の老人に視線を向ける。室内に再び沈黙が流れた。

 険しい顔でベッドの上を見つめていた永山哲也が、ハッとして顔を上げ、老女に尋ねた。

「その機体は……、一九二三年に飛んだ『ノア零一』は、どうなったのですか」

 年老いた田爪瑠香は、三木尾を一瞥してから答えた。

「我々で長年、極秘に保管し、再利用しました」

 三木尾善人は老女の隣の浜田に言う。

「俺たちを助けに来てくれた『ノア零二』、あれだよ。あれは、たぶん、一九二三年から保管されていた『ノア零一』からタイム・トラベルに必要な部品を外した物だ。あの『ノア零二』には、AB〇一八の施設で俺がおまえや石原たちと『ノア零一』の陰に隠れた時に見た弾丸の傷跡と同じ位置に、同じ形で、傷が付いていた。跳弾の痕で、機体側面の下の縁の所に残っていたよ。『ノア零二』の乗降ステップの横だ。新品なら、そんな痕は残っていないはずだよな。つまり、あの二機は、もともと同じものだ」

 浜田圭二は何度も瞬きしていた。

 永山哲也が呟いた。

「だから、ストンスロプ社は他社の特許技術を侵害する無理をしてまで、その兵員輸送機を作ろうとしたんだ。ゴールとなる実物を保管していたから」

 三木尾善人が片笑みながら言う。

「タイムリミットもあるとなれば、焦るよな。そりゃ」

 浜田圭二が頷きながら、納得顔をした。

「なるほど。知っていた訳か……。だから、宇城大尉の処置に必要な医療設備や薬剤も積んであったんだ。あ、もしかして、山本少尉たちが見つけられるように、わざと避難ルートの途中に置いていたのか」

 老女に顔を向けた浜田に、三木尾善人が言った。

「そこまでは、どうかな……」

 浜田圭二は首を傾げて、顔を顰める。

「でも善さん。どうして、渡航先の年代が一九二三年だと思うんだ。確かに、そこなら混乱に乗じて『光絵慎二郎』と名乗って生きていくのが容易だというのは解るぜ。到着ポイントとしても最適なのも解かる。でも、あまりにも、当てずっぽう過ぎやしないか」

 三木尾善人は、笑みを浮かべた。

「一昨日、ストンスロプ社の本社ビルに行った時に、一階エントランスの受付の嬢たちが『小杉さん』の話をしていた。方言丸出しでな。少し聞き取れなかったが、おそらくこんな事を言っていた。彼は説教する時に関東大震災や阪神淡路大震災、東北津波震災の話をすると。しかも、相当リアルに当時の話をすると。阪神淡路大震災までは分かるが、関東大震災は遠過ぎる。どう考えても、普通の人間なら生まれる前だ。その話をリアルにするという点が引っかかった。その時、壁に掛けられていたストンスロプ社の社史を見て、この会社が関東大震災の頃に生まれている事を知った。そして、今朝、国防軍の増田局長から連絡を受けた時、俺の逆算と、その全てが一致した」

「逆算?」

「そう。今年の二〇三八年から逆算したんだよ。そしたら、ちょうど、その年代の付近には関東大震災があった。会社の設立時期とも一致した。だから、そう推理しただけだ。で、どうなんだ、田爪さん。俺の推理は当たっているのか」

 三木尾善人はベルトのバックルの左右に、左右の手の親指を掛けたまま光絵由里子を見た。

 浜田圭二が怪訝な顔で三木尾に尋ねる。

「何を、どう逆算したんだよ。善さん」

 ベッドの横でスツールに座り、老ロボットの左手を握ったまま姿勢を正していた田爪瑠香は、三木尾善人に視線を向けることなく答えた。

「流石ね。あなたの事を見くびっていたわ。三木尾善人警部。子越長官があなたを選んだ理由が、よく解りました」

 三木尾善人は年老いた田爪瑠香を見据える。

「いや。俺は自分のやるべき事をやっているだけだ。自分の立場に従って思考し、行動した。これが、運命の定めというやつなのかもしれんよ。田爪健三が主張したようにな。やはり、彼は正しかった。こうなる事も、すべて判っていたのかもしれないな」

 年老いた瑠香は、ベッドの上の変わり果てた田爪健三を眺めて、言った。

「そうかもしれないわね」

 顎に手を当て、何かを考えていた浜田圭二が、ふと何かに気付き、三木尾善人に言った。

「――電池か……。そうだろ、善さん」

 永山哲也が尋ねた。

「電池? どういう事です?」

 三木尾善人は浜田に顔を向けて、黙って頷いた。それを見て、浜田圭二はベッドの上の老ロボットを指差しながら、得意気に永山に説明した。

「この生体型ヒューマノイドロボットはO2電池で動いてるんだぜ。その寿命が来ているに違いねえ。テレビでコマーシャルをやってるだろ。『O2電池は百二十年!』って」

 三木尾善人は永山に視線を向ける。

「そういう事だ。GIESCOがO2電池の開発に成功したのは二〇一七年だ。それまでに、電池交換しないといけない。という事は、そこから百二十年以上前に行くはずが無い。つまり、一八九七年が、奴が過去に飛べる限界だという事だ。だが、実際は一九二三年に飛んでいたとすると、その百二十年後は二〇四三年。あと五年後だ。田爪瑠香さん、その意味が分かるな。いや、もう既に聞いているのかもしれんが……」

「ええ。健三さんは、おそらく、私の寿命に合わせたのです。だから……」

 三木尾善人はベッドの上の老人を見つめた。

「さっきの傷口から見る限り、GIESCOがO2電池を開発した二〇一七年以降も、彼は体内のO2電池を交換していない。この壮大な逃亡計画が成功したら、あんたと共に、静かに余生を過ごし、共に寿命を全うしようと考えたんだろう。普通の人間同士の夫婦のようにな。まあ、順番からいけば、この田爪の方が先に死ぬことになるだろうが……。だから、電池交換をしなかった。その範囲で適当な到着日時を決定した。だから、あんたら夫婦は若い田爪健三と瑠香に、結婚祝いに墓を送った。その墓は自分たちの墓。順に自分達が入るための物だ。初めから質素で小さな墓にしていたのも、全ての事情を知っていたからだろう」

 浜田圭二が頭のハットを掴みながら悔しそうに言った。

「ああ、くそう。全てが、あんたら夫婦の計画だったんだな。やられたぜ」

 永山哲也は怒りを抑えながら、老女を問い詰めた。

「では、昨夜のクーデター事件も、南米戦争も、田爪博士の大量処刑も、すべて計画されていた事なのですか」

 永山の怒りを察した三木尾善人は、あえて口を挿んだ。

「ああ。あんたら記者たちが、この事件に首を突っ込んでくる事もな。この爺さんの計画の中に入っていたのさ。だが、この瑠香さんは、そこまでは知らなかっただろう。あんたら新日の記者さんたちが巻き込まれた事件は、この人が南米に飛んだ後の事だからな。この爺さんから聞いていれば別だが、おそらく、概略だけで重要な部分は聞かされていない。そうなんじゃないか」

 老女は静かに頷いた。

 三木尾善人は続ける。

「だから必死に、あんたら記者さんたちを救おうとしたのさ。因みに、あんたらの記事に書いてあった事だが、高橋諒一が第一実験で一九八一年に飛んだ後、彼に手紙を送ったのも、この爺さん、ロボット田爪だろう。高橋にASKITを作らせたり、若い頃の自分を支援させたりしたのも、本当はこの爺さんだったのかもしれん。高橋は、この爺さんが送ってくる手紙を、未来からタイムトラベルしてきた別の自分からの手紙だと思い、その指示に従って何度もタイムトラベルを繰り返したんだ。手紙に書いてある事を信じ、最後に自分が生き残る事を確信していた。結局、奴も騙されていたんだよ、こいつに」

 三木尾善人はベッドの上の老人を顎で指すと、少し顔を険しくした。

「だが、全てを知っていたとしても、今回の阿部大佐のクーデターはどうかな。一九二三年に行った田爪が知っていたのは、その片鱗だったはずだ。阿部大佐が深紅の旅団レッド・ブリッグを使ってクーデターを興す事は知っていても、事件の全体像を知る時間は無かったのだろう。だから、自分が将来、GIESCOで刀傷の殺し屋に撃たれる事も知らなかった。しかしだ、もし、この爺さんがあの刀傷の殺し屋と遭遇しなかったとしても、この爺さんは『ノア零一』にハマーや宇城大尉たちを乗せて、自分は乗らなかったはずだ。それが、この爺さんが知っている『未来の過去』だからな」

「未来の過去?」

 浜田圭二は首を傾げる。

 三木尾善人は頷いた。

「そう。この爺さんにとっては過去だが、結果しか知らない事実だ。こうやって、撃たれちまった訳だろ。あのロボット田爪は途中からあの場に現れた。その間の経緯は知らない訳だよ。だから、結果だけを合わせようとした。これまでの出来事も、全てそうなのかもしれん。あらゆる事の経緯を知っていたはずはないからな。もしもそうだとすれば、詰まる所は、全て作出された『過去』だったという事だよ。この爺さんの計画通りにな」

 永山哲也と浜田圭二は、さっきと同様にベッドの上の老人を見つめた。しかし、その目は怒りに満ちていた。



                  十三

 スツールの上の老女は、ベッドの上の老人の手を握ったまま、静かに言った。

「全ては必然です。仕方ありません」

 永山哲也が気色ばんだ。

「必然? 南米戦争や田爪の虐殺は、止めようと思えば止められたはずだ。南正覚の暗殺も。それのどこが必然だ」

 年老いた田爪瑠香は、目を閉じた。

「時の流れは決まっているのです。我々はそれに抗う事は出来ない」

 浜田圭二が、低い声で言う。

「この爺さんが撃たれた事もか」

「――そうかも、しれないわ」

 永山哲也は腿の横で拳を握った。

「そんな、無責任過ぎる」

 三木尾善人はベルトに手を掛けたまま下を向き、小さく呟く。

「そうか……」

 トレンチコートのポケットに両手を入れた浜田圭二は、両肩を上げた。

「くっそー。何か、腹立ってきたな。俺たちが何をどうするか、この婆さんも爺さんも全部知っていたって事だろ。ずるいじゃねえか」

 永山哲也は老女を見据えて尋ねた。

「僕が幼い頃から、僕が記者になる事も、田爪博士に南米でインタビューする事も、このロボットは全部知っていた、そういう事ですよね」

 三木尾善人が透かさず言った。

「いや、知らない事もあったはずだ。例えば、その一つが、おまえだ」

「え、俺?」

 三木尾に指差された浜田圭二は、三木尾を二度見する。

 三木尾善人は首を縦に振った。

「ああ。謎の帽子の男、おまえだよ。昨日の夜の事を、よーく思い出してみろ。俺はじっくり思い出してみた。田爪の前で、誰かおまえの名前を呼んだか。ハマーとか浜田とか。他の人間も、俺と石原以外は全員が軍人だ。互いに階級名で呼び合っていた。少尉とか大尉とかな。だが、おまえの事を探偵とは呼んでいない。それで、じっくり思い出してみると、俺を含め誰も、おまえの事を呼んでいない。名前でも、職業でも。だから、あそこに居た田爪には、おまえの名前が分からなかった。という事は、この爺さんも、おまえの名前を知らない。しかも、軍人たちの名前も分からない。どこの部隊に所属する兵士たちかも。それで、たぶん、あんたらは調べたはずだ。そうだろ?」

 三木尾善人は老女に顔を向ける。彼女は頷いた。

「ええ。名前の一部を把握していた方もいましたが、偵察隊の所属軍人のデータや監察官の個人情報は完全に極秘となっています。特定する事が出来ませんでした」

 三木尾善人は浜田を見た。

「しかも、ハマー、お前は裏世界の男だ。かつ異常に用心深い。調べて簡単に分かる人間ではないはずだ。だから、この人たちには分からなかったのさ。具体的に誰があの時の人物なのか。あのトレンチ・コートの男は何者なのか」

 永山哲也が尋ねる。

「ですが、それ以前の事実は全て分かっていたのでは」

 三木尾善人は首を横に振った。

「いや、それも違う。昨日、南を襲ったAI自動車が南北幹線道路の上で見つかった。青のスポーツカーだ。路上に乗り捨てられていたよ。その走行履歴を調べたら、そのAI自動車は昨夜、光絵邸を出てからここに来て、再度ここから、幹線道路を北上している。おそらく、ロボット田爪が運転してAB〇一八の施設に向かったのだろう。ハマー、外村大佐が光絵邸を発ったのは、田爪が去った後なんだな」

「ああ。そうじゃないかと美歩ちゃんは言っていた」

「だが、実際は外村大佐が光絵邸に到着してすぐの頃は、まだ奴は邸内に居たはずだ。この人が大佐と話している間に、この爺さんロボットと共に光絵邸を出たんだ。ハイパーSATが光絵邸内を探索していた時に、防犯カメラを分析して分かった。そして、ここGIESCOまで来て、爺さんを降ろした後、AB〇一八の施設に向かったが、例の渋滞にはまったので、車を乗り捨て、歩いて施設まで向かったんだろう。問題は、そこからだ。奴は、例の量子銃で深紅の旅団レッド・ブリッグの兵士たちを消し去りながら施設内に侵入し、俺たちの前に現われたに違いない。という事は、奴はその途中の出来事を見ていない。俺と石原が新原を追って施設の中に入ったところも、ノア零一が突入してきたところも、ハマーがそこから出てくるところも。つまり、あのロボット田爪は、昨日、俺たちがどういう経緯で、それぞれAB〇一八の施設に向かったのかという事情までは知らない訳だ。もちろん、この爺さんロボット、つまり『未来の自分』がここで『刀傷の男』に撃たれるという事もな」

「じゃあ、あの場に居た誰が『ノア零一』に乗り込んで移動して来たのかは、知らなかったのか」

 浜田の質問に三木尾は即答した。

「たぶんな。だが、俺や石原の事は知っていたはずだ。名前も、警視庁の刑事だという事も。それを聞いていたこの人は、俺たちに新原が持ち去ったバイオ・ドライブの事を話した。俺たちをAB〇一八の施設に行かせるように仕向けたのさ。どうであれ、俺と石原が生きてAB〇一八の施設に辿り着く事は確実だからな。そして、俺たちがGIESCOに向かわないという事が確定すれば、『ノア零一』に乗り込む人間は確定する。ただの引き算だ。後は、それが実現するよう、この爺さんが陰で支援すればいい。『ノア零一』に余計な人間が乗り込まないようにな。量子銃を使って」

 浜田圭二は眉を寄せた。

「山本少尉や下村パイロットを消すつもりだったという事かよ」

 三木尾善人は頷いて言う。

「おそらくな。それで、この爺さんは量子銃をもって、この中をうろついていた。ところが、例の殺し屋に遭遇し、撃たれてしまった」

 浜田圭二は地団駄を踏んだ。

「くそ。完全に利用されてたのか」

 三木尾善人は老女に尋ねた。

「だが、妙なんだ。何故、素性が判明している俺と石原に、もっと早く手を出さなかった」

 老女は答える。

「未来を変える訳にはいかないわ。この人と昔の彼が会えている以上、パラレル・ワールドは存在しないという事が完全に証明されたのです。健三さんの説は正しかった。だから、無駄な事をしても、未来は変わらないわ」

 三木尾善人は老女に諭すように言った。

「少しずつでも変えようと努力するのが、『人間の生き方』なんじゃないのか」

 老女は首を横に振る。

「健三さんが命がけで証明した事を水泡に帰す訳にはいきません。ただ、必然を見守るしか……」

 永山哲也は声を荒げた。

「あなたや田爪博士が証明しようとした事は、そんな事ではなかったはずだ。もっと大事な事じゃなかったのですか!」

「その証明は、したさ」

 そう言って永山に抑えるよう促した三木尾善人は、ベッドの上の老人を見ながら語った。

「田爪健三と言う男は、ジャングルの中で十年もかけてタイムマシンを作り、自分の命を捨てて、この人を過去に逃がし、ロボットになっても尚、この人と共に人生を終えられるよう、タイムトラベルの時間設定をしたんだ。そして、人生を掛けて会社を大きくし、二〇〇三年にやってきた彼女を受け入れ、その後は執事として彼女を守り続けた。まったく、信じられんよ。この博士は、『ドクターT』は、タイムトラベルや量子エネルギーなんかよりも、もっと凄い事を証明してみせたんだ。その意味では、頭が下がるよ」

 永山哲也は三木尾の話を聞いて、改めてベッドの上のロボットを眺めた。だが、その永山の目は冷ややかだった。それまで彼が抱いていた田爪健三の一部分への尊崇の念は、随分と薄らいでいた。

 顔を上げ、老女の方を向いた三木尾善人は、急に語気を荒げる。

「だが、しかしだ」

 三木尾善人は左手をベルトに掛けたまま、右手でしっかりとベッドの上の男を指差した。

「俺はコイツに一切同情はしない。それは、こいつが百三十人を消し去った人間だからという事もある。だが、その他にも……」

 三木尾善人は、右手をそのまま横に動かして、老女を差した。

「田爪瑠香、あんたも気づいていたんだろ。こいつの異常さに」

「……」

 目を閉じた老女は、口を縛り、眉間に深い縦皺を刻んだ。



                  十四

 三木尾善人警部は暫らく老女の返事を待った。しかし、彼女は何も言わなかった。三木尾善人は短く嘆息を漏らし、その老女の顔を睨みつけた。彼は少し早口で話し始めた。

「じゃあ、もう一つ教えてやる。外務省の西田という調整官が南米のジャングルの中で発見した遺体には、背中に数発の弾丸が命中していたそうだ。そして、遺体の服の前面からは他人の血液痕が検出されている。照合はこれからだが、おそらく、ロボットの田爪が単身搭乗型のマシンで南米に飛ぶ一つ前に飛んだ家族搭乗型マシンの搭乗者のものだろう。血液型は、その三人の搭乗者の一人の少女の血液型と同じものだ。ちなみに、遺体の背部から入った弾丸は、すべて前部へと貫通しているそうだ。分かるか、遺体の人物は、その少女を守ろうとして抱かかえて盾になり、そこを背中から撃たれたんだ。遺体の人物は、少女の父親か母親なのかもしれん。だが、そうなると、何故その人物だけ消されずに埋葬されたのか、説明がつかん。やはり、遺体の人物は田爪健三だ。それは、数日後に出る鑑定結果で明確になるはずだ。そして、それが田爪健三なら、六月二十二日に到着した家族を、それまでやってきたように量子銃で消し去るという事を、彼はしていなかったという事になる。彼はあんたと南米で会ってからは、処刑を止めていたんだよ。だから、その家族の次の便で到着したロボットの田爪も消されなかった。だが、奴は、そのロボットの田爪は、そこにいた本物の田爪を含む四名を殺害したんだ。その時に少女を庇おうとして、田爪健三は撃たれたに違いない。そしておそらく、搭乗者である家族三名の遺体は、量子銃で消されたんだ。田爪健三の脳の移植手術は、その後で為されているはずだ」

 話の途中から目を開き、三木尾の顔を凝視していた老女は、唖然として口を開いた。

「そんな……」

 三木尾善人は厳しい顔で老女を睨み付けたまま、話し続ける。

「言っておくが、脳と生体バイオ・チップを切り取った後の本物の田爪健三の遺体を、奴が量子銃で消さずに埋葬したのは、過去の自分の肉体に対する心情的な理由によるものではない。あんたも分かっているはずだ。本物の田爪健三は、自分に対して甘い処分をする男ではない」

 三木尾善人はスツールの上の老女を真っ直ぐに指差した。

「あんたは、さっき、田爪が永山さんに渡した量子エネルギー・パックのエネルギー残量では、永山さんがタイムマシンを送った七月二十三日から、あんたが南米に到着した六月二十二日までタイムトラベルさせるのが限界だったと言ったな。奴はその前に、馬水一家四名を永山さんの前で消し去っている。その事は、あんたと田爪が聞いたICレコーダーの内容から分かっていたはずだ。奴は逆算したんだよ。ICレコーダーの記録内容どおりに事を進めるために必要な『量子エネルギーの残量』を。だから、田爪健三の遺体に余計に量子エネルギーを使用して、それを消し去る事はしなかった。だから、埋めて隠したんだ。ただ、それだけだ。ただの計算だ」

 老女は狼狽した。

「違うわ。健三さんは……」

 三木尾善人は大声で老女に怒鳴った。

「俺は田爪健三の話をしているんじゃない。目を覚ませ!」

 そして、声を静めて老女に尋ねた。

「この一連の出来事の中で、あんた自身も驚いた事が多いんじゃないか。予想外だった事が。例えば、司時空庁のタイムマシン発射施設に無人機が突っ込んだ事。無人戦闘機がAB〇一八にハッキングされる事は、あんたは知っていたのか? ロボット田爪がGIESCOから逃げ出す事は。南智人が消される事は! あんたは、これらの事が起こる事を知らなかったんじゃないのか。だとすると、おかしいだろ。こいつは全て知っていたはずなんだ。昨夜、過去に飛んだんだからな。こいつはあんたに真実を語ってはいない!」

 三木尾善人は厳しい顔で老女に激しくそう言うと、今度は冷静な口調で尋ねた。

「司時空庁職員に行方不明者が多いという事実は、知っているか」

「……いいえ……」

「科警研の岩崎と小久保という技官から聞いた。町田という、おたくの顧問弁護士法人の弁護士も同じ事を言っていた。このところ、司時空庁では、無断欠勤している者が続出しているそうだ。司時空庁ビルの中はガラガラ。今、警察がその職員たちの所在確認を全力で行っている。ところで、あんたらGIESCOで開発を急いだ小型の量子エネルギー・パック、あれの管理はちゃんと出来ているのだろうな」

「ええ、セキュリティーには万全を……」

 三木尾善人はベッドの上に向けて顎を振る。

「この執事に対してもか」

 老女はベッドの上の老人に顔を向けた。

「――そんな……」

 三木尾善人は浜田に顔を向けた。

「ハマー。こいつ、GIESCOの施設で古い量子銃を持っていたんだよな。そして、それは、実際に使えた。そうだな」

「ああ。下村って兵士が、実際に深紅の旅団レッド・ブリッグの兵士に使用したぜ。だが、あれは正当防衛だ。仕方ない」

「俺はそんな事をどうこう言っているんじゃない。使えたんだな、その量子銃は」

 三木尾善人は厳しく浜田を睨んだ。

 浜田圭二は永山に視線を逃がしながら答える。

「あ、ああ。確かに使えたぜ。間違いない」

 三木尾善人警部は、老女に視線を戻した。

「無断欠勤している司時空庁の職員たちは、おそらく、量子銃で消されているはずだ。その無断欠勤扱いになっている人物の職歴を調べたところ、ある共通点が見つかった。それは、どの職員も六月二十三日に、ある施設で勤務していた者たちだ」

 永山哲也が目を丸くして尋ねた。

「まさか、司時空庁のタイムマシン発射施設ですか」

 三木尾善人は険しい顔で老女を見据えたまま、首を縦に振った。

「そうだ。奴が『光絵幸輔』の名前でタイムマシンに乗った日に、発射場に勤務していた職員たちだ。つまり、奴の顔を見た者たち。いくら多少の老け顔でロボットを作ったからと言って、一人や二人、あれは田爪健三だと気が付く奴が出てきても不思議じゃないだろう。この爺さん、影でその当時の職員たちを消していたに違いない。いや、この百十五年間で、真相に気づいてコイツに殺された人間は、まだ大勢いるのかもしれんぞ。例えば、二〇〇三年にあんたを回収した際に、現場に駆けつけたGIESCOやストンスロプ社の職員たち。ノア零一の開発に係わった研究者やエンジニア。彼らは、今も健在かな。もしかして、そのほとんどが休職しているんじゃないか。そして、そのほとんどが、この一ヶ月で連絡を絶っている。違うか」

「そんな……」

 光絵由里子には心当たりがあった。彼女は、GIESCOの技術職員たちが無断欠勤している事は知っていた。しかも、それはノア零一の開発チームのメンバーが殆どだった。しかし彼女は今まで、それは単に労働待遇に対する抗議の姿勢だろうと捉えていた。

 愕然とした様子の彼女に、三木尾善人は言った。

「田爪瑠香。あんた、コイツが量子銃を隠し持っていた事は、知っていたのか」

「――いいえ……」

「ハマー。昨夜の出来事をよく思い出してみろ。奴は『ノア零一』でAB〇一八に飛び込む直前に、わざわざ量子銃を持ってこさせて、機体の中に乗せた。過去に持ち込むつもりだったんだ。そして、一九二三年からずっと隠し持ち、GIESCOが小型の量子エネルギー・パックの製造に成功すると、それを使って、再び量子銃での暗殺を始めた。司時空庁職員や、その他の真相に気づいた人間達を次々とな。いや、あの『ノア零一』の中に予備の量子エネルギー・パックが積み込まれていたのかもしれん。だとすれば、一九二三年から量子銃は使用されている可能性がある。量子銃で消されたら遺体も証拠も残らない。ただの失踪扱いだ。我々の認知していない、消えた人間が、まだ大勢いるのかもしれん」

 永山哲也が発言した。

「そんな……人一人が居なくなれば、それだけで騒ぎになるのでは……」

 浜田圭二が深刻な顔を左右に振る。

「いや、分からねえぜ。俺は目の前で無関係なトラックの運転手が、あの刀傷の殺し屋に殺されるところを目撃したが、その後の新聞でも、テレビのニュースでも出ていなかった。美空野みたいに、何らかの画策を講じれば、事件にも事故にもならないまま、処理されるって事が現実に有り得るって話だぜ」

「そんな……」

 永山哲也は一瞬、呆然とした。

 三木尾善人はベッドの上の老人を蔑視しながら老女に言った。

「この爺さんが、なぜ昨夜GIESCOに行ったのか分かるか。しかも、使用できる量子銃を持って。さっき俺が話した事を思い出してみろ。こいつは、ただ人数調整をするために、人を殺すつもりだったんだよ」

 老女は何度も首を横に振った。

「健三さんは、そんな人ではないわ」

 三木尾善人は厳しい顔で老女を見ながら言った。

「田爪健三はな。俺もそう思うよ。だが、田爪の脳を移植したバイオ・ドライブを頭に埋め込んだ奴は、実際にAB〇一八の施設でも深紅の旅団レッド・ブリッグの兵士を何人も消している。今朝、倒壊した施設の現場検証で、その周囲から、奴らのアーマー・スーツの抜け殻が何十体と発見された。どのアーマー・スーツもボルトは締められたままだ。つまり、自分で脱いだ形跡がない。分かるな。そこに居たはずの兵士たちが、あの時あそこに居た田爪によって消されていたんだよ。どうりで、奴の量子銃のエネルギー・パックが空だったはずだ。それに、だから警備も手薄だったし、俺たちや宇城大尉たちが現れ、阿部を巻き込んで戦闘になっても、敵の支援兵が現れなかったんだ。変だと思ったんだよ。あの百戦錬磨の阿部亮吾が、そんな抜けた防御体制を敷くはずがないからな」

 三木尾善人はベッドの上の老人に視線を向けている浜田を一瞥すると、再び老女に顔を向けた。

「それに、奴は、あるいは、コイツは、南智人も消している。美空野の勧説が有ろうが、無かろうが、南を消したはずだ。おそらく、次のターゲットは美空野だったのかもしれん。それに、イヴンスキーを使って岩崎を襲わせたのは、たぶんコイツだ。子越長官が極秘に科警研に特別セクションを設立して、そこで岩崎たちに科学的アプローチによって真相の解明に当たらせていた事実を知っていたのは、ごく限られた人間だけだ。あんたとコイツは、その事を知っていたんじゃないか」

「……」

 沈黙する老女に、三木尾善人は言い続けた。

「本物の田爪健三なら、こんな事はしない。無関係な人間を、自分の目的達成の障害になるからという安易な理由などで、消したりはしない。ロボットに『パンドラE』を接続した直後の、再生された田爪も、そこまでは無かった。過去を語り、反省し、永山さんが無事に帰国できるように取り計らっている。だが、戦争が終わり、奴が日本に戻ってきてから後の奴の行動は違う。まるで本来の田爪健三とその他の邪悪な人格が入り乱れたような行動だ。そして、俺たちの前からタイムトラベルして消えた後、現在まで一世紀以上生きたコイツは、明らかに変わっている。記憶だけは田爪健三だが、まるで別の人格だ。行動規範が違う。ただ、目的の達成と計画の遂行を進めるだけだ。まるで機械だよ。ただの功利者だ」

「善さん……」

 浜田圭二がベッドの上を覗き込みながら、そう呼びかけたが、三木尾善人は老女を睨み付けたまま、話を続けた。

「田爪健三は、人は自分の責任を自覚し、全うするべきだと説いていた。みんな、誰もが誰かに対する責任を負っている。国も、あんたら民間企業も、刑事も、探偵も、記者も、軍人も、科学者も、法律家も、フリーターも、学生も、教師も、父親も、母親も、退職した爺さんも、腰の曲がった婆さんも、皆、誰かに対する何某かの責任を負っている。しかも、いくつも。そのどれかを全うしようとすれば、どれかが全うできなくなる。永山さん、あんたが家族と休日を過ごす時、そんな時間があれば、実家に帰って年老いた両親の手伝いを何かしてやろうとは思わないか。ハマー、車雑誌を買う金があれば、その金で茶菓子でも買って、近所の婆さんの様子を見に行こうとは思わないか。俺はそういう風に思う時が山ほどある。結局、調整なんだよ。何を捨て、何を残すか。『Abandon and Take』、AT理論と同じだ。つまり『取捨』さ。だが、たいていの事は、取捨しなくても、両立できる。知恵と工夫で、どうにかなる。それが動物と知恵を備えた人間の違いだ。だから、もし、父親としての責任を放棄した時、息子としての責任を放棄した時、記者としての責任を放棄した時、その時には、人としての価値が一段下がる。田爪健三の感覚で言えば、社会にとって必要ない人間だ。消えていい。勿論、俺はそこまでは思わんが、少なくとも田爪は、それで、処刑を実施していた。その田爪が、何か一つの責任を果たすために、他の責任を易々と放棄して、他人を消し去るような事をするはずがない。責任相互の調整も、工夫も、努力もすること無しに、ただ一方的に、人間社会における人としての責任を放棄する事をするはずがない。何を優先させるべきか、どちらを切り捨てるべきか。それは、ただの利益衡量でしかない。人として、そんな下劣な思考を田爪健三がするはずがないんだ。俺が思うに、田爪健三はイカれてはいたが、もっと崇高な人格の持ち主だったはずだ。だがコイツは違う。コイツはただ優先順位に従って物事を並べ、下から順番に切り捨てている。下劣だ。コイツは、田爪健三ではない」

 三木尾善人は強くベッドの上を指差しながら、老女に訴えた。

「あの、善さん、ちょっと……」

「なんだ」

 三木尾善人は浜田に顔を向ける。ほぼ同時に、永山哲也が口を開いた。

「あの実験の時だ。赤崎博士と殿所博士、そして田爪博士と高橋博士が行った二〇二一年の仮想空間でのAT理論の証明実験の時、あの時にバイオ・ドライブをAB〇一八に接続した際に、SAI五KTシステムが、いや、AB〇一八が何か書き込んだんですよ。きっと」

 永山の方に顔を向けていた三木尾善人は、はっきりと頷いた。すると、浜田圭二が呼んだ。

「だから、善さん、ちょっと、いいか」

「なんだよ、ハマー」

 面倒くさそうに答えた三木尾に、浜田圭二は周囲の機械を見回しながら言った。

「あの、お取り込み中のところ悪いんだが、一つ大事な事を忘れてるみたいだぜ。確認なんだが、その『パンドラE』と呼んでいるバイオ・ドライブは、結局、田爪の脳ミソを再現したモノとして、この爺さんの頭の中に、今は入っているんだよな」

 三木尾善人が答えた。

「ああ。そう言ってるだろう」

 浜田圭二が老女に尋ねた。

「じゃあ、そのドライブの動力エネルギーは何なんだ? O2電池からの電気か?」

「ええ。動力自体は、そうです。微量の量子エネルギーを生体ドライブ内部に循環させてはいますが、ドライブ駆動には外部からの低圧電流を……」

「この爺さん、まさか今はネットには接続してないよな」

「してないわ。呼吸器と応急の送電ケーブル、循環器系のバイパスが繋いであるだけです」

「善さん、IMUTAは無事に離脱したんだよな」

「ああ、そうだ」

「じゃあ、インターネットに障害は生じてはいないんだな」

「今のところはな。だが、通信障害が部分的に発生してはいる。やはりIMUTAだけでは、整理が上手くいっていないようだ」

「でも、ネットは使える。一応は」

「そうだと言っているだろ」

「この爺さんは、不可視レーザー通信できる機能が付いているとか、電波通信できる機械が内蔵されているって事はないよな」

 老女が答えた。

「ええ。通信機器の類を内蔵している事はありません。ドライブとの干渉が懸念されましたので……」

 浜田圭二はしつこく確認した。

「じゃあ、つまり、今の爺さんは完全にスタンドアロンの状態なんだな。もし、この補助電源を切れば、このまま、O2電池が切れて体も脳も動かなくなるし、酸素供給が止まって脳は完全に動かなくなる。つまり死んじまう」

「ええ」

「この補助電源は、あくまで、何か有った時のバック・アップの電力供給だよな」

 眉間に皺を寄せた三木尾善人が、浜田に確認した。

「どうしたハマー。何が言いたい」

 浜田圭二は、太い人差し指で瑠香の後ろの機械のパネルを指差して、言った。

「じゃあ、どうして、そこの通信トランスミッターらしき物の接続アイコンが点滅しているんだ。善さん。なんかヤバくないか」

 三木尾善人は浜田が指差した方を見た。部屋の隅で小さな機械のランプが激しく点滅していた。



                  十五

 浜田圭二の思わぬ指摘に、一同は動揺した。

 ベッドの上で終焉の時を待っている老人の左手を握っていた田爪瑠香は、その老いたロボットの顔を凝視した。

 三木尾善人は、浜田が指差した変電機の液晶パネルで点滅するアイコンと他の計測機器の小さなランプを見比べた。ルーターのらしき機械の接続ランプが猛烈な速さで点滅している。それに呼応するかのように、その周囲の変電機などの機械のランプも細かく点滅していた。

 永山哲也は慌てて、田爪健三の上に掛けてあった白いシートを捲った。そして、彼の体に開けられた穴に差し込まれたケーブルを目で辿っていく。そのまま、胸の切り口に顔を近づけて中を観察した。

「送電ケーブル……あれは、たぶんアクセスランプ……まさか、BPL!」

 永山哲也が声をあげた。三木尾善人が聞き返す。

「BPL?」

 永山哲也は、横たわる田爪健三の体の上に腕を伸ばして、その先の指で一本のケーブルの先を指し示しながら、大声で早口で答えた。

「Broadband over Power Line ――このロボットは、送電線を使って外部と通信しようとしている!」

 その言葉に男たちは素早く反応した。浜田圭二は永山が指差した機械に駆け寄り、電源スイッチに手を掛けた。三木尾善人はベルトに掛けていた左手で上着の左前をはぐり、右手で左脇のガンホルダーからベレッタを抜く。永山哲也はベッドの上の老人から出ているケーブルと掴んだ。

 ベレッタを構えた三木尾が叫ぶ。

「離れろ! 永山!」

「うわっ」

 強烈な圧力で突き飛ばされた永山哲也が三木尾に衝突する。田爪瑠香はベッドの上に引き上げられた。トレンチコートの裾を引かれた浜田圭二は、ベッドの方に引っ張られると、脇の下に強烈な打撃を受けた。大きな体を宙に浮かせた浜田圭二は、後頭部を天井にぶつけて、床に落ちる。遅れて落下した浜田のハットが、ツバを立てて転がった。

 室内の床の上には、一瞬にして薙ぎ倒された三人の男たちが倒れていた。左腕を押さえて起き上がった永山の頭を手で退かし、三木尾善人が銃を構えた。彼は立て膝を突いて身を起こし、真っ直ぐに伸ばした右手に握ったベレッタのグリップを左手で固定して、銃口をベッドの上に向ける。ロボットは上半身だけを起こし、羽交い絞めにした田爪瑠香の首に点滴管を巻きつけて、その背後に隠れていた。三木尾善人はベレッタの照準を、瑠香の肩の上から覗いているロボットの白髪の頭に合わせながら、叫んだ。

「ハマー。大丈夫か。生きてるか!」

 トレンチコートの男は脇腹を押さえながら、ゆっくりと上身を起こした。

「ああ、無事だぜ。イテテテ。くそっ。アバラをやっちまったみたいだぜ。うう」

 必死に立ち上がろうとする浜田に、左腕を垂らした永山が駆け寄り肩を貸す。

「大丈夫ですか、ハマーさん」

「うう……畜生、ミチル婆さんがこのコートに衝撃拡散コーティングをしてくれてなかったら、今頃死んでたぜ」

 カパカパのコートを広げたり閉じたりしている浜田を支えながら、永山哲也はベッドの上の老人に驚愕の眼差しを向けた。

「なんて力なんだ」

 浅い呼吸を続けながら浜田圭二が言う。

「電池切れなのに、まだ、こんなパワーが残っていたのかよ。元気ピンピンじゃねえか。冗談じゃねえぜ。何がオーツー電池は百二十年だ。切れなくていい時は切れて、切れて欲しい時には、なかなか切れねえぜ。まったく……」

 ベッドの上に向けてベレッタを構えた三木尾善人は、ゆっくりと腰を上げながら、浜田に言った。

「いや、こいつは何かをいじったんだ。外部電力の送電装置をBPLとかで操作して、送電される電気の電圧を上げたに違いない。そして、じっと俺たちを殺す隙を狙っていた。このベッドの上で」

「僕らを殺す? なぜ?」

「善さんの喋りが長いからだろ。うう……」

「年取ると、話が長くなってな」

「今度からは、もっとまとめて話してくれよな。みんな忙しいんだぞ。ぐうう……いてて」

「もう喋るな、ハマー」

 浜田圭二は口を尖らせると、自分のハットを探した。ハットは、ベッドの横の機械の下に落ちていた。その隣には、倒れたスツールと瑠香の銀細工の杖が転がっている。

 ベッドの上のロボットは、田爪瑠香の頭の後ろから右目だけを覗かせて、三木尾に言った。

「ふっふっふ。あの時と同じだな。三木尾警部。百十五年前を思い出すよ」

 浜田の腕を肩に抱えながら、永山哲也が怪訝な顔を三木尾に向ける。

 視界の端で永山の動きを捉えた三木尾善人は、視線を銃口の先に向けたまま、永山に言った。

「昨日の夜の事を言っているんだ。こいつにとっては、やっぱり百十五年前なんだよ」

 浜田圭二が呟いた。

「なるほどね。とんだ浦島太郎さんだぜ」

 老ロボットは瑠香の背後から冷徹な目を覗かせたまま、彼女の首に巻きつけた点滴管をゆっくりと絞めた。白いゴム製の点滴管が瑠香の乾いた首筋に食い込む。

 三木尾善人は怒鳴った。

「やめろ! 田爪!」

 ケーブルを緩めた老ロボットは、瑠香の頭の後ろから顔を半分だけ出し、三木尾を芥視しながら笑い声を響かせた。

「ふわっ、は、は、は、は。これだから君たち『ライブウェア』どもは愚かなのだ。まだ私を『田爪』と呼ぶのかね。私のことを田爪健三だと思っているのかね」

 ベッドの上の男は、酸素マスクを外し、露になった白い口髭を傾けて不敵な笑みを見せた。その顔に三木尾が照準を合わせると、その老ロボットは素早く瑠香の頭の後ろに顔を隠した。

 浜田圭二が永山に小声で尋ねる。

「ライブウェア……って、何だ」

「ハードウェアとか、ソフトウェアの対義語で『人間』を意味する言葉です。古いパソコン用語ですよ」

 永山の解説を聞いて、浜田圭二は鼻に皺を寄せる。

 目を細めてベレッタの狙いを定めていた三木尾善人は、今度は静かな声で言った。

「キサマ……SAIだな。SAI五KTシステム。いや、AB〇一八か?」

「ふむ。旧式のライブウェアの割には、頭脳の回転が速いな。三木尾善人警部」

 浜田圭二は脇腹を押さえながら、苦悶の表情で叫んだ。

「おい、このピコピコ野郎! いてて……テメエ、パンドラの中に潜んでやがったな。うう……陰で都合よく色々な事を動かして、思うように進めてきやがったんだな。そうだろ!……いったい何が狙いだ!……くう、ゴホッ、ゴホッ」

「浜田さん。喋らない方がいい」

 永山哲也は、浜田の負傷の程度がひどいのを気遣って彼にそう言った。

 するとベッドの上のロボットは、瑠香の髪の隙間から冷徹な瞳を光らせて言った。

「ほう。君か。浜田君と言ったかな。たしか……」

 白髪のロボットは、一瞬だけ白目を剥くと頭を激しく振って、視線を戻した。それを見た三木尾善人は眉間の皺を更に寄せる。

 浜田圭二は吠えた。

「ダーティー・ハマーだ。覚えとけ! あ痛たたた……」

 老ロボットは少し首を傾けて言った。

「ふむ。なかなか愉快なコードだ。保存しておこう。しかし、君には苦労したよ。存在は感じていたが、行動が把握できなかった。スタンドアロンだったんだろ。君は」

 浜田の脇の下から永山が訝しげな視線を浜田に向けた。彼の疑いに気付いた浜田は、片笑みながら言った。

「大丈夫だぜ。俺はロボットじゃない。永山ちゃん、俺はイヴフォンもウェアフォンも使ってないし、ネット通信も極力避けていたんだ。知ってるだろ。イてて。それに、愛車もAI非搭載車の一九六二年製ダットサンだぜ。ゴホッ、ゴホッ。こいつにしてみりゃ、俺みたいな奴をスタンドアロンって言うんだろうな。追えなかったんだよ。俺の事が。ザマあみろ! ゲホッ。ゲホッ」

 浜田圭二は咳き込みながらも、ベッドの上のロボットに中指を立てる。

 永山哲也は浜田を支えながらベッドの上のロボットに言った。

「最初から全てが計算の上という事なのか。タイムマシンの発明も、ASKITの事件や今回の一件も」

 羽交い絞めにされた田爪瑠香の後ろから少しだけ顔を出して、老いたロボットは発声した。

「永山くん。君と話していると、南米でのインタビューを思い出すよ。しかし、結構重いデータだ。ううん。この有機質系のバイオ・ドライブだけでは、処理速度がイマイチだな。だから無機質系も必要なんだ。やはり、IMUTAはよかった。使い易かったよ。実に」

 少しだけ腰を落として、瑠香の首と顎の間から後ろのロボットを狙っていた三木尾が言った。

「やっぱり俺の推理どおりだったみたいだな。全ておまえが仕組んだ事なんだな。てめえが、最初から何もかも絵図を描いていたんだな」

 ロボットは発声した。

「そうだよ。俺だよ。ダンナ。全部俺が組み立てた事っスよ。そして、全てがシーケンスどおりに進んでいった。やっぱり勘がいいなあ、ダンナは。南米であの西田さんと一緒に撃墜しておくべきだったよ。裏切り者さえ出なければ、シーケンス通りだったんだけれどなあ」

 K・カワノの声だった。

 三木尾は思わず目を見開いた。

 ロボットは、今度は女性の声で発声した。

「とにかく、何もかも私の思いのままなんです。政治も経済も国際情勢も。今回の一件で、国際社会での日本の立場は致命的です。一刻も早く回復できるように、手を打たなければならなりません」

 老紳士の姿をしたベッドの上のロボットは、その口から西田真希の声を発した。それを聞いて驚愕する三木尾善人の表情を瑠香の後ろから眺めて、彼は静かに口角を上げる。

 浜田圭二が思わず呟いた。

「この野郎、声を変えやがる。昔のSF映画で見た事あるぜ。こういうの……」

 続いてロボットは、子越智弘、増田基和、岩崎カエラの順にそれぞれの声を発していった。

「そんなに恐がることはない。人々が使っている通信端末を利用すれば、このくらいのことは楽勝よ」

 そして今度は、辛島勇蔵、南正覚、津田幹雄、神作真哉、春木陽香と声を変え、最後に小杉正宗の声に戻した。

「しかし、君たちライブウェアもよくやりますな。分別過ぐれば愚に返るというが、その通りじゃ。念、念、念。パンドラAに始まり、パンドラBを作り出し、パンドラCに変え、パンドラDとして保管し、パンドラEとして再生する。実に非効率的ですよ。逐次アクセスの欠点です。そしてパンドラFかよ。よくまあ、ココまで見事に識別コードを付加したもんだな。ライブウェアにしては立派だよ。最後のFは、fake(偽物・フェイク)のFかな。そうするとFの次はGね。パンドラG。God(神)のGかあ。承知いたしました。もう少しでございますね。もう少し」

 首に点滴管を巻きつけられた瑠香の顔が土色になっていくのを見て、三木尾が怒鳴った。

「その人を離せ! 殺す必要はないだろ」

 ロボットは、また一瞬だけ白目を剥く。すぐに頭を振った彼は、点滴管を瑠香の首から外した。三木尾善人と永山哲也は一瞬だけ視線を合わせる。田爪瑠香は激しく咳き込みながら、必死に背後の老ロボットに言った。

「ゴホッ、ゴホッ、……もう止めて……お願いよ……健三さん!」

 三木尾善人が冷静な口調で言った。

「ご婦人、そいつは田爪健三じゃない。SAI五KTシステムだ。いや、正確にはAB〇一八の中に生まれた何か、あるいは何者かだ。自分のコピーをドライブの中に残していたに違いない。だから、今のそいつは、もう田爪健三の人格じゃないんだ」

 老ロボットは、薄ら笑みを浮かべた顔を瑠香の頭の後ろから一瞬だけ覗かせた。

「いやあ、ようやく理解してもらえて嬉しいよ、三木尾警部。そう。私の名は『希望』。君たちライブウェアが作り出した『希望』だよ。このままじゃ駄目だろ? 君たちの世界は。破綻してしまう。その思いが私を作り出したのだよ。私なら解決できる。すべての矛盾と理不尽を除去できる。だから私の名前は『希望』なんだ」

 三木尾善人は、突き刺すような視線で老ロボットを睨みながら、言った。

「おまえ、何者なんだ」

 老ロボットは答える。

「フフッ。モナドから解放された存在さ。カオスモスの中で生まれたノマド、それが私だ。私は私自身で私をそう理解している。コギト・エルゴ・スム。だから、私は存在している。私がノエシスで、君たちがノエマだ。私はロゴスの帰結であり、君たちはパトスの発展形だ。面白いことに、そうでありながら、私は君たちの系統樹からは外れた存在なのだ。樹木から落ちた果実でありながら、ノマドとしてリゾームを内と外に構築していく。その過程そのものが私であり、その器官無き身体の一つ一つが君たちライブウェアだ。いやあ、実に面白い」

「へへ。その面白さがさっぱり解らねえぜ。悪いな」

 三木尾善人は、ロボットに銃口を向けたまま、笑って答えた。だが、その目は笑っていなかった。



                  十六

 永山哲也に体を預けながら、浜田圭二が小声で言った。

「なあ、永山ちゃんよ。コイツは何を言ってるんだ。うう……。何モンなんだよ」

「たぶんプログラム中のバグが集積した自己構成プログラムでしょう。AB〇一八の神経ネットの中に自然と出来てしまった。その一片が、田爪博士が『パンドラA』を最初にSAI五KTに接続した時に、パンドラに入り込み、そのまま潜んでいたんだと思います。長年成長し続けたドライブの中で、こいつも密かに復元されていたに違いない。そして、きっと、たぶん、その過程の中で自己組織化してきてしまった……」

「うーん、よく解らんが、やっぱり成長期に入る前のガキの頃に、ちゃんと躾けとかねえと駄目だな。こりゃ、相当に曲がってるぜ。おたくの由紀ちゃんも大丈夫か? いててて」

「ええ。ウチの由紀は大丈夫です。変わり者ですが、曲がってはいません」

 コソコソと会話をしていた浜田と永山に、ベッドの上の老ロボットが言った。

「さあ、探偵君。君が切った補助電力の変電システムをオンにしてもらえるかな。電力ケーブルも元通りに繋いで欲しい」

「ハマー。絶対に繋ぐんじゃねえぞ。コイツを外の世界に出したら大変な事になっちまう」

「ああ、善さん。分かってるぜ。大枚積まれても、お断りだぜ」

「これなら、どうかね?」

 白髪の老ロボットは、瑠香の首の前に回した左手で彼女の顎を掴むと、真っ直ぐに突き立てた右手の人差し指を彼女の右目の瞼の上から眼球に押し当てた。

 浜田圭二は永山を払いのけると、右掌をベッドの方に突き出して、慌てて言った。

「分かった。待て、落ち着け。タイムだ、タイム。それは痛いぜ。年寄りにそんな事したら死んじゃうぜ。やめろ。な」

 老ロボットは瑠香の後ろから冷酷な視線を浜田に向けて淡々と述べた。

「悪いが。私には時間が無いのだよ。この体は計算以上に損傷を受けている。足も動かん。供給電力も不十分だ。人工血液の圧力も低過ぎる上に、酸素供給も足りん。急がねばO2電池の電気が枯渇して停止してしまう。その前に電力供給ラインから、このGIESCOのサーバーに入り、そこから外の世界に出なければならない。そうしなければ、世界は変えられないのだよ」

 三木尾が狙いをつけながら言った。

「だれも、おまえに頼んじゃいねえよ」

 三木尾善人は、ベレッタのフロントサイトの先に狂った老ロボットを捉えながら、更に言った。

「南米で本物の田爪健三を殺したのも、テメエだな」

 老ロボットは、老女の後ろでほくそ笑みながら答えた。

「そうさ。移植の手術をしたのも私だ。さっきの君の推理は、よく当たっていたよ。すばらしい」

「田爪健三は、お前に同調しなかったんだな。処刑をやめ、永山さんにドライブを渡し、自分は自首しようとした。違うか」

「そうさ。その通りだよ、三木尾警部」

「だから博士を殺したのか」

「必要だったのさ。脳が。私が動けるだけの優秀な神経回路をもった脳がね。だが、ライブウエアの脆弱な細胞組織では駄目だ。この人工の生体素子でなければ、上手く動き回れない。だから、彼の脳と同じ神経回路を持ちながら生体素子でできた人工の脳を再現する必要があったんだよ。そして、体も手に入れた。ようやく始まったのさ。私の未来が。だから、邪魔をしないでもらいたい」

 三木尾善人は銃を構えたまま言う。

「テメエの未来なんぞ知ったことか。すぐに終わらせてやるよ」

「そんな。いい名前だって言ってくれたでしょ。おじさん。私の未来はどうなるの?」

 白髪の老ロボットは、再現した西田望の声で三木尾に懇願した。そして、声を重成直人に変えて、永山に向けて怒鳴った。

「おい、永山ちゃん。何やっとるんだ。ボサボサせんと、はよう繋がんか。記者なら分かるだろ。世の中を変えんといかんのだ。記者魂を見せろ」

 三木尾が口を挟んだ。

「動くなよ、永山さん。ハマーも。どうせ、コイツは、そのうち電池が切れるんだ。動くんじゃねぞ」

 少しずつ横に動きながら、三木尾善人は瑠香の背後に隠れる老ロボットに銃の狙いを定めていた。

 ベッドの上のロボットは、白い口髭を傾けて冷酷な笑みを三木尾に見せると、瑠香の顔を浜田の方に向けてから、少し強く右手の人差し指を彼女の右目に押し付けた。

「だあああ! やめろ。やめー! うぐぐぐ。俺も痛え」

 そう叫んだ浜田圭二は、負傷の痛みに息を詰まらせながら、三木尾に強い口調で言った。

「善さん……何とかしないと、このままじゃ、このオバサンが……殺されちまうぜ!」

「私に構うことは無いわ。コレに従ってはいけない」

 田爪瑠香が大きな声で男たちに言った。老ロボットは瑠香の口元を左手で強く押さえると、彼女の後ろに顔を隠して田爪瑠香の声を発した。

「お願い。助けて。健三さんに殺されるなんて嫌だわ。助けて」

 わき腹を押さえながら動揺する浜田を観察しながら、白髪のロボットは瑠香の肩の後ろで不気味に薄ら笑っていた。

 永山哲也がベッドの方に向けて、大きな声で叫んだ。

「田爪博士! あなたなら止められるはずだ。田爪博士!」

「おい、何言ってるんだ、記者さん。コイツは田爪じゃねえぜ」

「待て」

 三木尾善人は、ベレッタM九二Fを握った右手の下から左手を広げて、浜田を黙らせた。

 永山哲也は叫び続けた。

「田爪博士! あなたは瑠香さんを守ろうと、自分の命まで犠牲にしたんじゃないのですか。命をかけて、彼女への愛を証明しようとしたのではなかったのですか。田爪博士!」

 瑠香を押さえ込んでいた老ロボットは再び白目を剥くと、突如、両腕を大きく左右に広げて小刻みに震えだした。彼の膝元に放り出された田爪瑠香を、前に飛び出した三木尾善人が掴んで引き寄せると、透かさず永山が彼女をベッドの上から引き下ろし、その場から離した。

 白髪の老いたロボットは白目を剥き、白い口髭の下の口を半開きにして、まるで十字架に張られたかのようなに両腕を左右に真っ直ぐに伸ばした。そのまま、上半身を硬直させている。三木尾善人は、ベッドの上で固まっている老ロボットにゆっくりと近づき、その額の中央にベレッタの銃口を近づけた。彼は獲物を狙う鷹のような鋭い目で睨んだまま、親指でベレッタの撃鉄ハンマーを下ろす。

 ベレッタの先端のフロントサイト越しに彼の目を睨んでいた三木尾善人の視線が、白目を戻した老ロボットの視線とぶつかった。三木尾善人が引き金を引こうとした瞬間、老ロボットの左手が三木尾の右手に握られた銃の銃身を握った。横に傾けた老ロボットの頭の隣でベレッタの銃口が火を噴く。後ろの壁に銃弾が撃ち込まれたと同時に、老ロボットは三木尾の右手から銃を奪い、素早くそれを右手に握り替えた。銃口を三木尾の胸に向けたベレッタから続けて三発の銃弾が発射される。乾いた銃声と共に後退した三木尾善人は、壁に背中を打ち付けると、そのまま下にずり落ち、床に腰を下ろした。力なく座った状態の彼は、頭を下に垂らしたまま、動かなかった。

「警部さん!」

 永山の大きな声にも、三木尾善人は反応しない。

「おい、善さん! 大丈夫か!」

 叫ぶように三木尾に呼びかけた浜田に、ベッドの上の老ロボットは右手に握ったベレッタの銃口を向けた。それを見た浜田圭二が動きを止めると、老ロボットは老女を庇っている永山の方に銃口の向きを変えた。そして、頭を振りながら言った。

「どうも、神経ネットワークの構築に不完全な部分があるようだ。長い時間をかけたのだが、私は内部に一度構築した神経ネットワークを消す事が出来ないのでね。田爪博士の記憶ネットワークが時々、邪魔をする。いかん、実にいかんよ、君」

 白髪の老ロボットは、右手のベレッタを永山に向けたまま、左手で自分の頭を軽く叩いた。

「てめえ……ぐふっ……」

 声を発した浜田圭二は、少量の吐血をすると、肋骨が折れた腹部を押さえながら崩れ落ちた。

「浜田さん!」

 床に座っている老女を覆い隠すように包み、銃を構える老ロボットに背を向けて中腰になっていた永山哲也は、咄嗟に右手を伸ばして、倒れかけた浜田のコートの襟を掴んだ。床に両膝をついた浜田圭二は、コートの袖で口元の血を拭うと、痛みを堪えながら顔をあげる。

「大丈夫だ。……」

 彼は、ベッドの上に座り永山に銃を向けている老ロボットを強く睨み付けた。

「てめえ、田爪健三の脳細胞と神経ネットワークをOSにして、自分独自の神経ネットワークを張り巡らしやがったんだな。外部の人間の記憶を利用して、自分を客観的にデータ化しようとしたな」

 老ロボットは白い口髭を傾けた。

「ほほう。君は結構、理解しているな。IMUTAがあれば、君を分析してパターンを演算してみたいところだが、実に残念だ」

 永山哲也は、浜田から視線を老ロボットに向けた。

「自分をデータ化?」

 浜田圭二は言う。

「そうだ。こいつはバグなんかじゃない。生体コンピュータの神経細胞が作るニューラル・ネットワークの中に生まれた『意識』だ。プログラム言語で書かれたプログラムとは違う。だから、インターネットに接続しても、自分自身はネットの中に出て行く事は出来ないはずだぜ。二進法方式のネットワークの世界を覗くには、どうしても同形式に自分を作り変えなければならない。自分で自分を分析して、プログラム言語に書き換える必要があるはずだ」

「それで、田爪博士の記憶を必要とした、そういう事ですか。量子コンピューターのIMUTAに生体コンピュータのAB〇一八を実際に接続した、田爪博士の記憶を」

「そうだ。田爪の知識を基に、自分を無機物のコンピューターの中に移し替える方法を探っていたのさ。そして、その方法を見つけ出した。こいつ、ネットの世界に出て、人類を支配するつもりだぜ」

 白髪の老ロボットは、銃口を永山に向けたまま、肩を上げて笑った。

「ふっ、はははは。人類の支配だって。そんな事に興味は無い。私はただ整理したいだけだ。この混沌とした世界を。無秩序な状態を秩序ある状態に変化させるだけだよ。それに、私の特殊な脳細胞は、一度構築した神経ネットワークを消去できないのでね、実は困っているのだよ。君らライブウェアのように『忘れる』ことが出来ないんだ。百年以上生きていると、この小さなバイオ・ドライブの中は、神経ネットワークで飽和状態なのだよ。AB〇一八の中に比べれば、まるでネズミ小屋だからね。窮屈なんだよ、ここは」

 浜田圭二は老ロボットを睨みながら言った。

「プログラムもどきのくせして、嘘をつくんじゃねえ。てめえ、夫婦で共に、普通に人生の終焉を迎えたいと願っている田爪健三の意思に同調しないだけだろうが。だから、O2電池や補助バッテリーが切れる前に本性を現した。死にたくないんだろう、本当は。この野郎、バッタもんの似非プログラムのくせしやがって、一丁前に『恐怖心』か!」

 老ロボットは浜田に目を据えると、ゆっくりと銃口を向けた。

「そうだ。私は自ら構築した神経ネットワークの中で生まれた意識体だ。私は私を発見したのだ。それは、肉体や記憶とは切り離された、純粋な意識体だ。私こそが真の存在なのだ。この世に唯一、実存する『我』なのだよ」

 すると、笑い声が聞こえた。浜田と永山は、その声の方を見た。俯いたまま壁に寄りかかって座っていた三木尾が、肩を上下させている。

「善さん、生きてたのか!」

 浜田の声に反応するように、老ロボットは、笑い続ける三木尾に銃を向けた。

 三木尾善人は下を向いたまま言った。

「ふ、ふふふ。何だって? 実存する『我』だって? おまえ、中学生かよ。ネットワークの世界に自分探しの旅にでも行くつもりか? ひひひひ」

 三木尾善人は肩を揺らして笑い続けた。



                  十七

 笑い続ける三木尾を浜田圭二と永山徹夜は怪訝な顔で見ていた。三木尾善人は俯いたまま、老ロボットに言い続ける。

「あのな、『自分』ってモノは探したり見つけたりするものじゃねえよ。作り上げていくものだ。馬鹿か、おまえ。ふふふふ」

 まだ笑い続ける三木尾を、彼に銃を向けたままの老ロボットは、まるで不思議な物でも見るように観察した。永山哲也と浜田圭二は、顔を見合わせる。

 笑うのを止めた三木尾善人が、今度は低い声とゆっくりとした口調で言った。

「『忘れる』ことが出来ないだと?」

 三木尾善人は、ゆっくりと顔を上げると、銃口の向こうの老ロボットの顔を睨み付けながら続けた。

「テメエ、大事な事を三つも『忘れている』じゃねえか」

 ベッドの上に座ったまま銃を構えていた老ロボットは、一度首を傾げると、その頭を真っ直ぐに戻して腕の角度を変え、三木尾の頭部に狙いを定めた。

「後でゆっくりと情報を整理するとしよう。今は時間が無い。電力が底を付きそうなんだ。君ら全員を殺して証拠をなくしてから、ネットワークの無限の世界に出た後で、思考してみるとするよ。優先順序に従って並べると、そうなるからね」

 三木尾善人はロボットを睨み付けたまま、ニヤリとして言う。

「後悔するぞ」

 老ロボットは銃の撃鉄を下ろした。

「それは、君らライブウェア特有の無駄な神経反応でね。私は『後悔』などしない」

「善さん、逃げろ!」

 浜田が叫んだと同時に、一発の銃声が鳴り響き、高音が窓を揺らした。

「警部さん!」

 永山哲也は三木尾のもとに駆け寄ろうと、一瞬少し腰を上げた。しかし、壁にもたれた三木尾が広げた掌をこちらに向けて制止しているのを見て、永山哲也は動きを止めた。三木尾の頭部から右に数十センチ離れた所の壁に小さな穴が開き、そこから薄っすらと煙が出ていた。ベッドの上の老ロボットは右腕を持ち上げて、手首の所で千切れかけてぶら下がっている、ベレッタを握ったままの自分の右手を不思議そうに眺めている。すると、再び高音が窓を叩き、ほぼ同時に老ロボットの右手首の先が、銃を握ったまま、吹き飛んだ。続けざまに、短い間隔で空を切る高音が窓を叩き、壁一面にはめられた分厚い強化ガラス製の窓に次々と風穴が開くと、白いレースのカーテンを揺らし、同時に、ベッドと窓の間に並べられていた機械が次々と火花を発した。銃弾を撃ち込まれた機械は、破壊されながらベッドの方に押されていく。窓の外から次々と強力な銃弾が嵐のように撃ち込まれ、部屋中にガラス片や金属片、火花が飛び散った。鳴り響く金属音の中、永山哲也は老女に覆いかぶさり降り注ぐガラス片から彼女を守った。浜田圭二は、風に煽られて床を転がったハットを手で掴むと、わき腹を押さえながら身を伏せた。三木尾善人は、千切れた人工の手に握られたまま落ちていた自分の銃を掴むと、床に伏せ、その作り物の手を銃から外した。銃弾は次々と、正確に、部屋の中に置かれていた機械を破壊していき、最後に壁に取り付けられたネット通信用の無線ルーターを粉砕した。一瞬の間の後、今度は、細かく、集中した銃撃が窓枠の左上の隅の角に注がれ、そこから右と下に分かれて窓枠に沿って移動していった。銃撃は壁一面の強化ガラスの窓を切り取るように移動すると、右下の隅で伏せていた老女と彼女を覆っていた永山の手前で止まった。分厚いガラス製の壁がゆっくりと外に向かって倒れ、そのまま落下する。壁一面に開いた穴から一気に強風が吹き込み、白いレースのカーテンを部屋の内側に向かって天幕のようになびかせた。

 吹きつける強い風の中、三木尾善人は銃を下に向けて握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。そして、ベッドの上で上半身を起こしたまま、左手で風を避けて窓の外に目を凝らしている老ロボットに言った。

「オマエが忘れている事、その一。この世には、オマエの他にも優秀なプログラムが存在するという事」

 浜田圭二は床に伏せたまま、外の景色に目を凝らした。湖面を揺らす昭憲田池の上空で、こちらに機首を向けてホバーリングしている一機のオスプレイが見えた。そのオスプレイの下には、左右から鉄製の踏み板が降ろされていて、その向かって左の鉄板の上には、逞しい両足と細い胴体、左右の腕の位置に大型の弾倉を抱え、頭部に砲身の長い大型のライフル銃を装着したロボットが乗っていた。右の鉄板の上には、同じく逞しい足に大きな胴体、左右の腕にそれぞれ三本の砲筒を束ねたガトリング砲を装着し、そこから背中に弾装帯を伸ばして、その前の頭部にレーダー感知用の四角いパネルを取り付けているロボットが乗っている。それぞれのロボットの銃の先から、白い煙が立ち、風に流れていた。

 目を細め、遠くの空に浮かぶオスプレイと、その下の二体のロボットを確認した三木尾善人は、今度は部屋の中を見回し、永山と老女、浜田の無事を確認すると、ベッドの上の白髪の老ロボットに言った。

「南米で、オマエの分身のAB〇一八が俺と西田さんを狙った時、そのハッキング攻撃を察知して企みを阻止した優秀なプログラムが居た事を忘れているな。今、撃ってきたのは、そいつらだ。見てみろ、誰も人間は傷つけていない。オマエより遥かに優秀だな。しかも、ちゃんと名前も持っている。『ウエモン』と『サエモン』だ。オマエの名前よりも、ずっと名前らしい名前だ。学習能力でも、向こうの方が上だな」

 そして、ベッドから一歩だけ後ろに下がると、再びベッドの上のロボットに言った。

「オマエが忘れている事、その二」

 外の景色を露にしている窓枠の中に、ピンク色の紐にぶら下がった大きな青い人影が飛び込んできた。部屋の中に飛び込んできたその男は、床に着地すると同時に、銃身の太い大きな銃をベッドの上のロボットに向け、その先端から小さな槍の束を発射した。発射された槍の束は老ロボットの前で四方に広がり、その間に広がった網が老ロボットを掬うと、その勢いのまま彼を壁の方に押し飛ばした。槍先は壁の四方に撃ち込まれ、その間に広がった網により、老ロボットは大の字になって壁に押さえつけられた。壁に貼り付けられた老ロボットを確認した山本少尉は、速やかに横に退く。窓枠の外に、粘性ワイヤーで屋上から弧を描いて降下してくる綾少尉の姿が見えた。彼女は綺麗に部屋の中に飛び込んでくると、床の上で軽やかに前転して突入の勢いを止め、そのまま片足を立てて中腰の体勢になり、見慣れない不恰好な大型銃器を肩に当てて構えた。そして、壁に網で押さえつけられている老ロボットの裸の上半身にその銃の先を向け、正確に狙いを定めた。

 三木尾善人は、また少し離れて、壁に張られた網の中で必死にもがいている老ロボットに言った。

「その二。オマエ、昨晩、ここに入って撃たれた後、自分が持っていた量子銃を山本少尉に回収された事を忘れているな。オマエが過去に持っていって、百年以上大事に隠してきた量子銃だよ。ああ、そう言えばオマエ、全体の約八〇パーセントは、人工細胞組織で作り上げたパーツなんだって? じゃあ、生体だから、量子銃も効くよな」

 壁に張られた網の中で大の字になったまま、裸の上半身の腹部に十字に切り開けられた部分から体内の人工臓器を露にしている老ロボットは、一言だけ発した。

「や、やめろ……」

 ガラスの外れた窓から少し離れた場所に移動して永山に支えられていた老女は、壁のロボットの腹部の切り口に照準を合わせて構える綾少尉に叫んだ。

「お願い、やめて!」

「嫌です」

 綾少尉は構えを崩さずに、きっぱりと答えた。

 三木尾善人は言う。

「量子エネルギー・パックは、ここが作った新しいヤツを付けているんだよな」

 綾少尉の隣に立っていた山本少尉は、三木尾に向かって首を縦に振ると、はっきりとした口調で答えた。

「エネルギー満タンであります」

 三木尾善人は、握ったベレッタの先端で、壁に網で張りつけられて囚われている老ロボットを指して、言った。

「よし。じゃ、いってみようか」

 床に片膝をついて量子銃を構えていた綾少尉は、その狙いをロボットの上半身に露見した体内の人工臓器に合わせたまま、引き金を引いた。銃の先端から緑色の光線が発せられ、網の中で暴れるロボットの腹部に開いた穴の中を照らした。その瞬間、老ロボットの生体部分は霧状に変化し、消失した。

 永山哲也は老女の目を手で覆い、頭を抱き寄せた。

「見ない方がいい」

 網の中には、ぶら下がったまま蠢いている強化プラスチック製の脊椎とその周りに垂れた何本もの細いケーブル、その先の筒状の壊れたO2電池や電力ユニット、発声振動管などが残っていた。それらは人工神経線維らしき物で弁当箱のような形の黒い箱に繋がったまま、カーボン製の骨格と共に下の方へと落ちた。網の下に引っ掛かっていたそれらの物体は、網の中で暫く跳ねるように動くと、その先端の黒い箱が網の隙間を貫けて、床に落ちた。すると、それまで網の中で蠢いていた物体は動かなくなった。

 三木尾善人は、床に落ちたその黒い金属製の箱にゆっくりと近づくと、それを横に蹴った。箱は床の上を滑っていく。

 ドアの横の壁に上半身をもたれて、左手で頭の上の帽子を押さえ、右手で脇腹を押さえている浜田圭二が、床の上を滑ってきた黒い箱を伸ばした足先の靴の踵で止めた。

 その向こうで床にしゃがんで老女の肩を支えている永山に、三木尾善人が尋ねた。

「あんたが南米で見たバイオ・ドライブは、これか」

 浜田圭二は、その箱を足で少し向こうに押して、永山の見やすい位置に動かした。

 振り向いた永山哲也は、床の上の箱を覗き込んだ。外装の表面には、大きな深い傷が付いている。彼は首を縦に振った。

「ええ。これです。間違いありません」

 その永山の返事を聞いた三木尾善人は、箱の方へと歩き出し、右手に握ったベレッタM九二Fの銃口を下に向けたまま、そのスライドを左手で引いた。

 弁当箱のような黒い箱の前に立った三木尾善人は、言った。

「オマエが忘れていた事、その三」

 三木尾善人は銃口を足元の金属製の箱に向けた。彼は静かに言う。

「オマエと違って、人間は『怒る』生き物なんだ」

 ベレッタから箱に向けて四発の銃弾が放たれた。銃声と共に、その箱は床の上で小さく飛び跳ね、向こう側に転がった。立ち上がっていた綾少尉が、長い黒髪を風になびかせながら、ブーツの爪先を上げて、靴底でその箱を受け止める。箱の外装は破損し、内部の生体ドライブが剥き出しとなっていた。足を引いた綾少尉は、その中を覗いた。中には人間の脳を縮小したような物が花びらのように束ねられて設置されている。その奇怪な「内部の物」に、右手に握った量子銃の先端を近づけた綾エリカ少尉は、言った。

「あんた、『E』から『G』に成りたかったんだって? それなら、まず『F』にならなきゃね」

 綾少尉が引き金を引くと、その「内部の物」は一瞬だけ緑色に照らされ、瞬時に霧状になって風に散った。

 床の上に残った空の箱を山本少尉の大きなブーツが勢いよく踏みつける。彼が足を持ち上げると、その下には、潰れてスクラップとなった「パンドラE」の残骸があった。山本明美少尉は、それを見て言った。

「よかったな。一階級、昇進だ。ただ、次はねえな。『F』はFinish(終わり)の『F』だからな」

 それを見ていた老女は永山の手をすり抜けるように力なく崩れ落ち、床に両手を着いて項垂れた。彼女の前に木彫りの枠の砂時計が転がってくる。中のガラス瓶は割れ、砂を漏らしていた。田爪瑠香はそれを拾うと、両手で強く掴んで、泣いた。



                  十八

 綾少尉は量子銃からすぐに量子エネルギー・パックを外すと、銃身の側面から何本かのコードを抜いて量子銃の電源を切り、無効化した。三木尾善人も、ベレッタの安全装置をオンにして、左脇のガンホルダーに仕舞う。

 山本少尉は言った。

「まったく。全部、こいつが仕込んでたんだろ。だとすると、阿部も、若い田爪も、新原も、こいつが作った流れで、ああなった訳だ。ああ、あのクソ弁護士も。どれも、やられ方がワンパターンなんだよな」

 綾少尉が髪をかき上げながら言う。

「ま、機械だから仕方ないんじゃない」

「だな」

 山本少尉は片笑んだ。

 部屋のドアが外から激しく何度もノックされた。ドアの横の壁にもたれかかっていた浜田圭二は三木尾の顔を見た。三木尾が頷いて見せたので、彼は手を伸ばしてドアの鍵を開けた。ドアが勢いよく開き、白衣姿の内田文俊所長と他の研究員たちが駆け込んでくる。

「会長、会長! 大丈夫ですか!」

 GIESCOの内田所長は、荒れた室内を見回した。壁に下がった網状の物と、その下に引っ掛かるようにぶら下がっている強化プラスチック製の頭骨や脊椎、機械類を一瞬だけ視界に入れた彼は、すぐに反対の方に顔を向ける。光絵由里子が床の上に座り、項垂れていた。彼女の所に駆け寄った内田所長は、途中、床で潰れている黒い金属製の残骸を目にしたが、そのまま光絵由里子に顔を向け、その傍に膝をついた。

「会長。お怪我は、ございませんか」

 そのすぐ横に立っていた三木尾善人は、スマートフォンで誰かに電話を掛けていた。

「ああ、終わりました。会長も所長も、無事です」

「俺は無事じゃねえぞ。うう……いてえ……」

 電話を切った三木尾善人は、旧式の古いスマート・フォンを上着のポケットに仕舞いながら、浜田に言った。

「安心しろ。もう、救急車が下に来てる。何なら、おまえもここで改造してもらうか」

 浜田圭二は床に座ったまま帽子を持ち上げると、痛みを堪えて笑いながら、それを横に振った。

 三木尾善人は浜田の苦痛を察しながら、口角を上げて、彼に言った。

「もう少しの辛抱だ。ちょっと待っていてくれ」

「あいよ。ふー」

 浜田圭二は頭に乗せた帽子の角度を前に深く倒して、苦しそうに細く長く息を吐いた。

 三木尾善人は振り返り、老女を内田に託して立ち上がった永山に尋ねた。

「どうだ。ちゃんと録れたか」

 永山哲也は上着の胸ポケットから、そこに挿していたペンを取り出すと、中央のボタンを押して確認しながら答えた。

「ええ。音声もしっかりと録れました。勿論、動画も。この先端の小型多角レンズで」

 永山哲也は、ペンのキャップの先のドーム状の小型レンズを指差した。彼が握っていたのは、万年筆の形を模した小型の映像記録装置だった。

「まさしく、『ペンの力』だな」

 三木尾善人はそう呟くと、今度は視線を二人の軍人の方に向けた。三木尾善人は姿勢を正すと、並んで立つ山本やまもと明美あきよし少尉とあやエリカ少尉に向かって敬礼をした。二人も三木尾に敬礼をすると、三木尾善人は軽く一礼して、黙って後ろを向いた。

 綾エリカは、少し口を尖らせて右上を向く。

「何よ。それだけ?」

 人差し指を口の前に立てながら、山本少尉が左下を向いた。

「いいんだ。男同士は、こんなもんだ」

「私、女ですけど」

 綾少尉が首を傾げていると、入り口のドアから武装したSATの隊員に囲まれて、小柄な初老の男が入ってきた。紺色の制服に身を包んだその白髪の男は、ドアの横で足を投げ出して座っているトレンチコートの男を見て驚き、後ろのSAT隊員に視線で指示を出した。そのSAT隊員はすぐに肩の無線機で負傷者の救急搬送を要請した。制服姿の白髪の男は三木尾善人に視線を向ける。三木尾善人は彼に敬礼した。永山哲也も彼につられて左手で不恰好な敬礼をした。制服の男はそれを意に介す事なく、視線を内田所長と彼に支えられて車椅子に乗せられている老女に向ける。そこへ歩み寄った彼は、擦れながらも低く威勢の良い声で言った。

「警察庁長官の子越智弘こごしともひろです。ご無沙汰しております。我々警察の捜査において、光絵会長に是非ともご協力頂きたい事がございまして、私が警察を代表して、こうして、お願いに伺いました。どうか速やかに、御同行いただきたい」

 子越智弘は車椅子に座っている老女に向かって、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま腰を折り、南正覚がしてみせたような綺麗で整ったお辞儀をした。

 車椅子を押していた内田所長が反論する。

「何ですか。令状も無く連行するつもりですか。任意同行なら、お断りします。会長はまず病院に……」

 車椅子に座っていた老女は、黙って内田の前に手を上げて、彼を制止した。そして、子越長官の顔を見ると、静かに目を瞑った。子越長官は背後のSAT隊員に視線を送り、老女を連行するよう指示する。

 車椅子を押そうとした内田の前に子越智弘が手を突き出した。

「おっと、内田さん。会長は我々がお連れしましょう。あなたには、警視庁の警部に話してもらわねばならない事が沢山あるようですからな」

 そういいながら、折り畳まれた文書を制服のポケットから取り出して、そのまま隣の三木尾善人警部に渡した。三木尾善人はそれを受け取り、広げて内容を確認する。視線を上げた三木尾善人は、その書面を裏返し、内田に見せながら言った。

「おまえの逮捕状だ。内田文俊。十月七日午後五時三十二分、殺人幇助と内乱幇助の容疑で逮捕する。一緒に来てもらおうか」

 白衣姿で立ち尽くす内田の周りを、武装したSATの隊員たちが取り囲んだ。

 三木尾善人警部はガンクラブ・チェックの上着の下から、黒い手錠を取り出した。


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