第14話  くだらない奴

                一

 毛足の長い絨毯を敷き詰めた広い廊下を、左目を金色に光らせた美空野朋広弁護士が速足で歩いてくる。

「ああ。分かっている。その点は訴訟の場で明確にするよ。こんな事が認められなければ、何のための国家賠償制度なんだ。そうだろ」

 彼は視界に浮かぶ制服姿の男の向こうに人影を見つけた。所長室の大きな両開きのドアの前に、薄型の立体パソコンを小脇に抱えた町田梅子が立っている。

「所長。お話しが……」

 立ち止まった美空野朋広は右手を挙げて町田を制止し、イヴフォンでの通話を続けた。

「ああ。分かっている。もし、奴らが君の所に来ても、私が行くまで何も喋るな。いいな」

 町田梅子は口を閉じ、扉を塞ぐようにその前に立ったまま、美空野の通話が終わるのを待った。

 美空野朋広は宙を見上げて話す。

「大丈夫だ。心配はいらん。君の権利は私が守ってやる」

 鼻をクンクンと動かした町田梅子は、眉間に皺を寄せると、ドアの前から退いた。

 美空野朋広は立ち止まったまま俯き、表情を険しくする。

「こっちは昼食を摂る時間も無かったんだ。無理を言うな。じゃあ、切るぞ」

 ネクタイに留めたイヴフォンのスイッチを押しながら、美空野朋広は顔を上げ、苦笑いを浮かべた。

「いやあ、大変な事になったな。今朝から携帯が鳴りっぱなしだ。ニュースは見たかね」

「はい」

 両開きの重厚なドアを中央から勢いよく左右に押し開けた美空野朋広は、後ろをついてくる町田に顔を向けながら、部屋の奥の執務机へと歩いて行く。

「軍の内部抗争だかクーデターだか知らんが、そのせいで、ウチの依頼人の研究施設がめちゃくちゃじゃないか。ストンスロプの損害額も半端なものではないぞ。君、急ぎ損害額を算出してくれるかね。概算でどれくらい……ああ、まただ」

 立ち止まった美空野朋広は、再び下を向いてイヴフォンのスイッチを押した。

「はい、弁護士の美空野です。――ああ、どうも。いやいや、大変な事になっているようですな。――ええ。ですが、ご心配なく。だからこそ私が適当な価格で買わせていただこうと申し上げているんです。それなら安心でしょう。これ以上の損失は生じませんし、余計なゴタゴタに巻き込まれる事も無い。――ええ。それは全て私が引き受けますよ。あ、少々お待ちを」

 美空野朋広は視界の隅で町田を探しながら言った。

「町田君。例のアキナガ・メガネとの和解の事だが、しばらく棚上げだ。今は、それどころでは……」

 彼の視界の隅に、応接ソファーに座っている二人の男の姿が捉えられた。美空野朋広は表情を変える。

「誰だね。君達は」

 ネクタイからイヴフォンを外した美空野朋広は、厳しい顔で二人の男を睨み付けた。男たちはソファーから腰を上げる。左腕を三角巾で首に吊った長身の中年男が、一礼した。

「私は……ゴホッ。ゴホッ。うう……いてて」

 男は左肩を押さえると、顔を顰めながら、名刺を差し出した。

「失礼。こういう者です。見ての通り、怪我した上に、ちょっと、喉の調子も悪くて」

 受け取った名刺に目を通した美空野朋広は、眉間に皺を寄せる。イヴフォンを再びネクタイに留めた彼は、快闊な声で通話に戻った。

「ああ、すみません。ちょっと急用が入りまして。後ほど、こちらから掛け直します。申し訳ない。失礼」

 ネクタイからイヴフォンを外した美空野朋広は、もう一度、その名刺を確認した。名刺には、「新日ネット新聞社社会部 記者 神作真哉」と記されている。美空野朋広は神作の顔を一瞥すると、町田の方を向いて厳しい口調で言った。

「君。どういう事かね。今はまだ、マスコミの取材を受けられる状況ではない事くらい、分かっているだろう。私のオフィスに勝手に通すとは……」

「いや、違うぜ。俺たちが勝手に入ってきたのさ。その先生は、何も悪くないぜ」

 美空野朋広は声のした方に顔を向けた。両開きのドアの横で、目深にハットを被った、汚れたトレンチコートを着た男が左右のポケットに手を入れて、壁にもたれて立っている。

 美空野朋広は反射的に尋ねた。

「おたくは?」

 男は右手の人差し指で軽くハットを上げた。

「浜田圭二。探偵だ。裏の世界じゃ、人は俺をダーティー・ハマーと呼んでいる。あんたも弁護士なら、聞き覚えがあるかもしれんが……」

「いや。知らんな」

 そう答えて神作の方を向いた美空野朋広は、その隣の若い男を指差した。

「ああ、たしか、あんたは……」

「永山です。同じく新日ネットの」

 一瞬だけ眉を動かした美空野朋広は、急に笑顔を作って、二人にソファーに座るよう手で示すと、自分もその向かいのソファーへと移動し、腰を下ろした。

「そうですか。で、そんな有名な記者さんが、どういうご用件で。申し訳ないが、取材ならば御遠慮いただきたい。生憎、顧問先の会社が緊急事態でしてね。まあ、昨日、あんな事が起きたばかりだ。ご理解ください。私も、これから早速、依頼人の本社の方に出向かねば……」

 神作真哉はパタパタと右手を振る。

「いえ。取材じゃないんです。ゴホッ。ゴホッ。永山」

 美空野朋広は永山に顔を向けた。

 永山哲也は肩越しに後ろを親指で示した。

「彼の件で」

 こちらに浜田圭二が悠然と歩いてくる。

 永山哲也は美空野の顔を見据えて話した。

「先日、ウチから彼に、真明教団の内部の写真を撮ってくるよう依頼したのですが、どうも彼、教団の許可無く撮影をしたようなので、その写真の返却をと思いまして。こちらが教団の顧問弁護士さんとして紛争処理の窓口となっていらっしゃると伺ったものですから」

 浜田圭二は永山の後ろで背中を向け、ソファーの背もたれに腰を載せた。

 美空野朋広は、その彼の背中を指差した。

「君か、例の不法侵入者は」

 浜田圭二は右手でハットを掴んで少し持ち上げると、ニヤリと片笑んだ横顔を見せて、再びハットを頭に載せた。

 美空野朋広は浜田の背中を睨みつけたまま短く嘆息を漏らし、ソファーの背もたれに身を倒す。彼は、応接テーブルの横で立体パソコンを持ったまま立っている町田梅子を軽く指差した。

「その件なら、この町田弁護士に任せてある。あとは、こちらの先生に話して……」

 神作真哉が美空野の発言を遮った。

「いやね、この馬鹿、随分といろいろなモノを撮影してきていましてね。内容が内容だけに、これは所長先生に直接お渡した方がよいと思いましてね」

「馬鹿とは何だよ。神作。俺はよ、少しでも、おまえの力になってやろうと思って……」

 口を尖らせて不満そうに言う浜田に、神作真哉は歯を剥いた。

「ワンッワンッ。ウー。しー。黙れ。お座り!」

 その間に、永山哲也は大きく引き伸ばした数枚の写真を応接テーブルの上に並べた。美空野朋広はソファーの背もたれに身を倒したまま写真を見回していたが、一枚の写真に目を留めると、背もたれから身を起こして、その写真に手を伸ばした。

「これは……」

 持ち上げた写真に顔を近づけている美空野に、永山哲也が尋ねた。

「そこに写っている、祭壇の上の白木の箱、大事に飾ってありますよね。見た事はありますよね」

 美空野朋広は黙って写真を覗いていた。町田梅子は美空野の顔を凝視している。神作と永山も美空野の表情を観察しながら、答えを待った。

 美空野朋広は写真をテーブルの上に放り投げると、再びソファーの背もたれに身を倒し、落ち着いた声を発した。

「ああ。――それで?」

 永山哲也は彼の答えを予測していたように、すぐに口を開く。

「これ、亡くなった南智人の息子、南英章くんの為に再生された『人造心臓』が入っているんですよ。結局、英章くんの病状に間に合わず、使われなかったものです。ご存知でしたか」

「いいや」

「毎年十月五日には、南正覚は、総本山で特別の祝詞を捧げていたでしょう。十月五日は南英章の命日なんです。一昨日も一生懸命に祈りを捧げていましたよ。あの総本山の立派な祭壇で」

 そう言った永山の顔を睨みつけるように見据えて、美空野朋広は大きな声で言う。

「そうですか。それは、知らずに悪い事をしましたな。せめて線香の一本でも手向ければよかったかな」

 町田梅子が口を挿んだ。

「もし、英章さんが生きていれば、私と同い年です。だから正覚さんは……」

「そうかね」

 美空野朋広は町田を睨みつけて発言を止めた。そして、そのまま永山に厳しい視線を向ける。

「それで、それがどうしたと言うんだ。私がウチの町田先生を担当させた事が、何か問題ですかな。依頼人の亡くなった息子さんと同い年の弁護士を担当させた事が、何か法に触れるとでも?」

「いや、そうではないんです。問題なのは、その隣に写っているモノでしてね。それを拡大した写真が、これです」

 永山哲也は上着のポケットから、別の写真を取り出して美空野に差し出した。美空野朋広は顰め面で背もたれから体を起こし、写真を受け取る。写真を見て更に表情を険しくした美空野を見据えながら、永山哲也は大きな声で言った。

「どこかで見たなあって思ったんですよ。これ、僕のICレコーダーですよね。このシール、南米に出かける前に、娘が貼ってくれたやつですから」

 隣の神作真哉も、大きな声でわざとらしく驚いてみせる。

「あら? そのシール、今、中学生に人気のキャラクター『イノウエ君』じゃねえか。日本を発つ前に、空港で俺に見せてくれたもんなあ。でも、おかしいなあ。変だよなあ。おまえ、それ、南米でタイムマシンに乗せたんじゃなかったっけ」

 永山哲也は大袈裟に頷いた。

「ええ。乗せましたよ。音声データは前もってコピーして、現地から本社に送りましたけど、タイムマシンの移動の瞬間を記録しようと思って、マシンの中にリアルタイム・データ送信の状態でセッティングして、発射させました。あれっ。そうか、どうして真明教団が持っているんだろう。ねえ、先生」

 永山哲也はテーブル越しに美空野の顔を覗き込む。

 美空野朋広は写真を握ったまま、永山を睨み返した。

「それは、何かね。私を脅しているのかね。どうして彼らが、このレコーダーを手にしているのかなど、私は知らんよ。それに、そもそも、君らの話が本当かも分からない。このシールも、市販の物だろう。教団の人間が買って貼った物かもしれんじゃないか。下手な芝居は、よしたまえ」

 永山哲也と神作真哉は顔を見合わせる。

 美空野朋広は神作に顔を向けると、彼を睨みつけて言った。

「ところで、さっきのは、いったい、どういう趣旨の発言かね。何か、ご請求されるモノでも、あるのですかな」

 神作真哉は顔の前で右手を振りながら首を振った。

「いやいや、とんでもない。我々は、真っ当な新聞社ですから。それでですがね、本人の承諾無く撮った画像を、許可無く掲載する事は出来ないんですよ。ウチの会社の方針で。なにせ、真っ当な新聞社なもので。ですから、こうして、教団の代理人である弁護士法人に出向いて、改めて、その画像の掲載の許可をお願いしに伺ったという訳です」

 永山哲也が付け足した。

「その弁護士法人の代表弁護士であり、南智人個人の顧問弁護士でもあられる、美空野先生にね」

 美空野朋広は顔を顰めた。

「ん? どういう事ですかな。この画像を『返却』しに来られたのですか、それとも、掲載の『許可』を取りに来られたのですか。どちらなのです?」

 永山哲也と神作真哉は再び顔を見合わせて、少し首を傾げる。彼らには、美空野の発言内容が、どうも非常識に感じられた。彼らの常識では、この順序が礼儀であったが、美空野はそれらを分離させ並立させている。

 美空野朋広は論理的に切り替えした気で、得意気な顔をしていた。

 すると、町田梅子が神作と永山に淡々と説明し始めた。

「情報自体は、所有権の対象にはなりませんし、その画像情報がプリントされた印刷物としての『文書』は、そちらの所有物ですから、本来、『返却』が問題になる事はありません。掲載については……」

 美空野朋広は手を上げて町田を制止する。

「ま、とにかく、軽々にお答えは出来ませんな。私は『代理人』ですから。『本人』である依頼人の意向を確認してから、正式にお答えしましょう。それまでは、掲載を保留して下さい。とりあえず、この画像は預かっておきましょう。ネガ・データもいただけますかな」

「レコーダーを教団が保有していた事情は?」

 しつこく尋ねる永山に、美空野朋広は癇声を上げた。

「だから、知らんと言ったでしょう。もう、いいですかな。忙しいものでね。画像データを置いて、お帰り下さい」

 ソファーから立ち上がった美空野に、浜田圭二が背中を向けたまま言った。

「これから、もっと忙しくなるかもしれないぜ。あるいは、恐ろしく暇になるか」

 美空野朋広はソファーの前に立ったまま、浜田の背中を指差した。

「君には、怪我をした教団信者への損害賠償をしっかりと履行してもらいましょう。あ、そうそう、住居侵入罪と傷害罪については、犯人不詳のまま刑事告訴をしたんだったよね、町田先生。あれ、容疑者が判明したと告訴内容の変更をしておいてもらえますか」

「その件ですが、こちらの浜田さんのお話では、傷害については全て正当防衛だと」

「ま、それは、こちらの方の主張でしょう。我々は、被害者の代理人ですからね。加害者の言い分に、いちいち耳を傾けてはいられませんよ」

 そう言った美空野朋広は、永山を見下ろしながら片笑む。

「ただ、この画像のネガ・データを提出していただければ、告訴の取り下げを検討する事も考えてもいいですがね」

 町田梅子は真っ直ぐに美空野の顔を見て、意見を述べた。

「教団が敷地内の防犯カメラの動画情報を開示していただければ、真実が明らかになります。当事者の主張が食い違っている以上、動画の内容を確認するまで、一旦は告訴を取り下げるべきだと思います」

 美空野朋広は町田に不機嫌そうな顔を向けた。

「でも、住居侵入罪の成立は明らかでしょう。こうして自白しているんだから」

 神作真哉が口を挿む。

「それについてはですね、緊急避難という奴じゃないですかね。なあ、ハマッチ」

「緊急避難? 馬鹿な。何を言っているんだね」

 美空野朋広は、新聞記者の法律判断を鼻で笑った。普段の神作真哉なら、その他人を馬鹿にしたような態度に憤慨し、美空野に食って掛かったところだったが、今日の神作真哉は静かだった。

「自己または他人の生命、身体、自由または財産を守るためにした行為は、違法性が阻却されるんじゃなかったでしたっけ。永山、違ったかな」

 立ったままの美空野朋広は、大きな声で笑う。

「ははは。それはね、『現在の危険』が要件になっているんですよ。つまりね、現に自分か他者の法益が侵害されているか、その差し迫った危険が存在しなければならん訳です。新聞記者なら、もっと勉強してもらいたいものですな。それに、そもそも誰の権利が危険に晒されたというのです? あなた、その時、誰かに命でも狙われましたか?」

 神作真哉は言う。

「国民ですよ。この国の全国民」

「国民? ――話にならんな。具体性が無い。とにかく、帰って下さい。これ以上、お話しする事は無い」

 美空野朋広は記者たちに背を向けた。前を通って執務机の方に行こうとする美空野に、町田梅子が言った。

「当日、入信された信者の方々の財産権は、どうでしょうか。法により保護されるべきものだと思量しますが。特定の国民ですので、当然、具体性もあります」

 足を止めた美空野朋広は、顰めた顔を町田に向ける。

「信者? 町田先生、どうしたのかね。何を言っているんだ」

 永山哲也は、ソファーに座ったまま美空野を見上げて言った。

「僕はあの日、英田えた町の教団施設に行ったんですよ。他の入信希望者に混じって。いやあ、参りましたよ。あの変な機械、チーンって鳴るやつ。あれに、電子マネーカードを差し込まされて、半ば脅迫まがいに寄付させられそうになりました。あ、キャップ、その時に支払わされた相談料、とりあえずの補填、頼みますよ。自腹で払ったんですから」

「ゴホッ。ゴホッ。そんな事は後にしろ!」

 小声でそう答えた神作真哉は、美空野に顔を向ける。

「とにかく、その日、俺たちの依頼に従って教団の近くで張り込んでいたハマッチ……いや、この浜田探偵は、たまたま、ウチの永山が施設に入って行くのを目撃した。このままでは中で永山が真明教の連中にボッタクられ……いや、失礼……財産を詐取または恐喝されてしまう。そう思った浜田探偵は、それを直ちに阻止するために、やむを得ず教団の敷地に入った。そしたら、信者達が襲ってきた。そういう事だろ?」

 神作真哉はソファーの背もたれに右肘を載せて、浜田の顔を覗く。浜田圭二は頬を掻きながら、口を濁した。

「あ……まあ……ええと、そう、かな。そうだった気もしないような、するような……」

「ワンッ! ウー!」

 歯を剥いて浜田を睨み付けている神作の隣で、永山哲也が振り返って言った。

「ですよね。浜田さん」

 浜田圭二は小声で答える。

「ああ……そうだ。そのとおりだぜ。ゴホン」

 永山哲也は前を向き直し、美空野に言った。

「ね。具体的に危険が逼迫している」

 美空野朋広は声を荒げた。

「それは君の説明じゃないか。そんな詭弁が通用するか! だいたい、『詐取』とか『恐喝』とは何ですか。大手の新聞社の記者が、何を根拠に、そんないい加減な事を。私の依頼人を侮辱するのも、いい加減にしたまえ」

 美空野の横から、町田梅子が滔滔と述べる。

「相手方を錯誤に陥れる故意、及び、財物を領得する故意があれば、詐欺罪が成立する可能性はあります。ICレコーダーによって未来の出来事を知っていたにもかかわらず、それを秘して、あたかも自己の予知能力による予言の成就の如く偽り、個別の信者に対し、個別具体的なデタラメの予言を呈して、実質的にその報酬として『お布施』と称する対価を交付させようとしたのであれば、詐欺罪の構成要件を充足する可能性は大きいのではないでしょうか。南正覚の発言内容によっては、恐喝罪の構成要件に該当する可能性もあります。そして、そうであれば、浜田氏の行為は緊急避難に該当する事も十分に考えられる。不正な法益侵害行為から被害者を守ろうして、無断で住居内に侵入したのであれば。つまり、住居侵入罪が不成立である場合も考え得るという事です。かかる無罪である蓋然性がある状況で、調査可能な客観資料を確認しないまま、捜査機関に対し特定個人を名指しして、教団を被疑者とする刑事告訴を維持することは、もって当該被告訴人に心理的圧迫を加え続けることになり、それは刑事訴訟法の意図するところではない。また、実施可能な調査と手続きの変更を怠り、他人に心的苦痛をもたらす事は、信義側にも反するばかりか、違法性のある民事上の不法行為であるとも言えなくもない。従って、本件刑事告発は速やかに取り下げたうえで、再度、防犯カメラの動画等から事実関係を詳細に調査し、明らかになった真実に基づいた法的結論に従うべきである。私は法曹として、そう判断します」

 町田梅子は、そうきっぱりと断言した。

 町田からの思わぬ側面攻撃に、美空野朋広は困惑した。

「君……ちょっと待ちたまえ。これは、どういう事かね。私をからかっているのか」

 神作真哉がソファーの背もたれに右肘を載せたまま言った。

「反論できないみたいだな」

 永山哲也が頷く。

「ですね。よかったですね、浜田さん。取り下げてくれるそうです」

「なにを勝手に……」

 眉を寄せる美空野に、浜田圭二はトレンチコートの内ポケットに自分の右手を入れて見せた。

「あんた、教団が集めたその金を、ゴッソリ……だろ?」

 美空野朋広は浜田を強く睨みつけて、声を荒げた。

「私は正当な報酬を得て、彼らの代理人弁護士として活動しているだけだ。何を言っているんだ。ふざけるな」

 永山哲也が質問する。

「じゃあ、司時空庁のタイムマシンで南米に飛んでいった人間が、皆、その全財産あるいは、その一部……といっても相当な額ですが、それらを真明教団に寄付していたのは、どういう事なんです? この搭乗者リストにある人間、ほとんど全員が、一度はこちらに、法律相談に訪れていますよね。しかも、その法律相談を受けた担当弁護士は、すべて美空野先生、あなただ」

 永山哲也は美空野をしっかりと指差した。横から神作真哉が、背もたれに凭れたまま補足する。

「ご遺族の方に取材に行きましたらね、どの遺族の方も、タイムマシンに搭乗した故人は生前に美空野先生に勧められて、真明教団の南正覚に予言提示をお願いしに行ったと言うんですよ。そして、教団の予言に従って、タイムマシンに乗ることを決めたんだそうで」

「知らんよ、そんな事。タイムマシンの搭乗者がここへ来たのは、法律相談をする為だ。私が真明教への入信を勧めた事実など無い」

 永山哲也は即座に反論した。

「でも、どの搭乗者の方も、ここに相談に来たその日か次の日には、南正覚を訪ねています。それまで一度も、真明教の『し』の字も口にしたことも無い人でさえも。全員が、ここに来て、先生と面談をした直後に真明教の教団施設を訪れています。これ、明白な事実ですよ。偶然にしては、ちょっと出来過ぎじゃないですかね」

 神作真哉が大きな声で言った。

「そりゃあ、相談した側の人間にしてみたら、相談した弁護士先生に勧められれば、行くしかないよな。行きたくなくても。先生の機嫌を損ねて、法律手続きをちゃんとやってもらえなかったらと考えちまうもんな。普通の素人の一般人は。例えそれが、どんな大金持ちでもな」

 永山哲也は、横で立っている町田に顔を向けた。

「あ、町田先生。たしか、タイムマシンに乗ると、タイムトラベル法とかで、法的には、時空間移動の開始と同時に失踪宣告扱いに近い状態になるんですよね。つまり、渡航者は、法律上は死んだことになって、残された家族に対する『相続』が開始する」

「ええ。そうです」

 美空野朋広は即答した町田の顔を睨み付けた。町田梅子は横を向いて澄ましている。

 神作真哉が自分の膝を大袈裟に叩いた。

「じゃあ、その相続手続きをしなけりゃならん訳だ。遺産分割協議して、株や不動産の名義変更とか、銀行預金の分配とか。皆、競争入札を勝ち抜いてタイムマシンの搭乗権を取得できるくらいの金持ち連中だからなあ。半端な小金持ちではないし、その相続手続きも複雑。時には訴訟や調停にも発展する。これ、先生にお願いすると、相当な割合で報酬金を支払わないといけないんですよね。ええと、着手金が二十パーセントで、成功報酬が三十パーセントでしたっけ。相続財産価格の」

 浜田圭二が続けた。

「全部で五十パーセント。ボリ過ぎだぜ。いくらなんでも」

 神作真哉は美空野の顔を見据えたまま、言い続けた。

「先生に相談に行った人間が、真明教団に回されて、そこでタイムマシンに乗るよう勧められる。で、教団に財産を寄付。そして、司時空庁に申し込んでタイムマシンに乗る。教団に寄付された財産は、結局その何割かが、教団の顧問報酬として、この弁護士法人に入る。ま、事実上のキックバックか紹介料。更になんと、こちらの弁護士法人から先生に、役員報酬が支払われる。教団は教団で、南正覚個人に対し給与を支払う。そんで、南の個人財産から先生に、南個人の弁護士として、また別個に顧問料が支払われる。一方で、教団に寄付されなかった財産は、相続の対象となる。残された遺族の依頼で、または被相続人、つまりタイムマシンの搭乗者の指定による遺言執行者として、先生が働く。そんで、またまた報酬を得る。いやあ、儲かりまんなあ」

 神作真哉は首を捻りながら、皮肉っぽく言う。

 美空野朋広は大きく溜め息を吐いて見せた。

「はあー。――馬鹿馬鹿しい。もっと、ちゃんと調べてから言って欲しいものだね。それに、仮に君らの言う通りだとしても、だから何だと言うのかね。全て正当な業務報酬だ。弁護士としてのね。依頼者も納得している」

 神作真哉は天井を見上げて言った。

「さーて、本当に納得してるんですかね」

 永山哲也も片眉を上げて言った。

「まあ、報酬が高過ぎる点はともかく、弁護士として仕事をされている訳ですから、その点では、『正当な報酬』ですね。確かに。でも……」

 女性の声が続きを述べた。

「相続の開始原因自体を自ら惹起させているとしたら、それは『正当』とはいえない。正当な行為に基づかない弁護士活動は、やはり、その業務の正、不正に関わらず、『正当』とは言えない。ならば、その報酬取得も正当性を失う」

「町田君。さっきから君は、何なんだね。これは、何の茶番だ。不愉快だよ、君!」

 憤慨して見せる美空野の顔を直視しながら、町田梅子は言った。

「ご存知だったんですよね。司時空庁のタイムマシンが、実はタイムトラベルに失敗していて、南米戦線の地下に転送されてしまっている事も、それが到着するとすぐに、搭乗者が田爪健三に処刑されるという事も。何もかも、ずっと前から。それにもかかわらず、人々を誘導して、司時空庁のタイムマシンに乗るように仕向けていた」

「何を言っているのだね。いい加減にしないか」

 美空野朋広は、強く自分を睨みつける町田を宥めるように、今度は少し穏やかな口調で言った。

 神作真哉が、ソファーの背もたれに載せた右手で美空野を指差す。今度の彼は、真剣な顔と攻撃的な口調だった。

「真明教団の設立に関する法律手続きをしたのは、あんただよな。その頃から、ICレコーダーの存在を知っていたんじゃないか。その記録内容も。つまり、教団が設立された二〇二三年当時から、その六年後に司時空庁という新機関がタイムマシンで民間人の転送事業を開始する事も、その結末も、全て知っていた。知っていて、あえて富裕層の人間をタイムマシンに乗せるべく画策した。そうだろ」

「馬鹿な。どこに、そんな証拠が……」

「証拠なら有るぜ」

 その力強い声と共に、両開きの重厚なドアが外から左右に勢いよく押し開けられた。三人の男たちがゆっくりと歩いて入ってくる。汚れたスーツ姿の石原宗太郎刑事は、左手で松葉杖を突いていた。ネクタイを外した中村明史刑事は、首にギプスをはめ、スーツの下のワイシャツに胸のコルセットの影を浮かせている。二人の前を歩く三木尾善人刑事は、相変わらず綻びたガンクラブ・チェックの上着姿だった。

 三人は美空野に狙いを定めるかのように彼の顔を見据えながら、ゆっくりと歩いて来た。



                  二

 三人の刑事たちは応接ソファーの近くに来ると、立ち止まった。町田梅子は少し横に退く。美空野朋広は三人の顔を見回した。

「なんだね。また、君たちか」

 溜め息を吐いた美空野朋広は、三木尾に言う。

「そうだ。丁度よかったよ、刑事さん。今、この人たちに言いがかりを付けられていてね。仕事に行こうにも行けない。威力業務妨害だ。何とかしてくれないか」

 三木尾善人は怒鳴る。

「とぼけるな。何が『言いがかり』でい!」

 そして、美空野の顔を睨み付けたまま、部下に指示した。

「おい石原。聞かせてやれ」

 松葉杖に凭れた石原宗太郎は傷だらけのスーツの内ポケットに右手を入れると、中からICレコーダーを取り出した。スイッチを入れ、顔の横に上げて美空野に見せる。

 ICレコーダーのスピーカーから、はっきりとした肉声が響いた。

『まあ、そう心配するな。いつものように俺に任せておけ。上手くいくさ。何なら、今夜これからでも、研究所に彼が居るかどうか確認に行ってこよう。警察に引き渡すかは別にしても、彼の居場所が分かるだけでも、安心だろう?』

『ああ、頼むぞよ』

『もし、俺の予想通り、あそこに彼が居るなら、警察には見つけられんだろうし、彼も簡単には外に出られないはずだ。ただ、会長が彼を始末してしまうかもしれんな。彼は会長の養女を殺した男だからな。普通に考えれば、放ってはおかんだろう。だが、不謹慎なのを承知で、あえて言えば、客観的にはその方が教団にとっては都合がいい。そうだろ?』

「こ、これは……」

 狼狽した顔を見せる美空野に、三木尾善人は言った。

「そう。テメエの声だよな。もう一人は死んだ南智人。勿論、声紋解析もバッチリ済んでいるぜ。なあ、中村」

「はい。あ痛たた。――科警研から、声の周波数の波形がほぼ完全に一致したと報告がありました。九十九点九九九パーセント、美空野弁護士と南智人の声だという事です」

 美空野朋広はICレコーダーを仕舞った石原や、胸を押さえている中村の顔を見て、最後に三木尾に視線を向けた。

「と、盗聴していたのか?」

 三木尾善人は片笑みながら、問い返した。

「今の会話だけでも、殺人犯田爪健三に係る犯人蔵匿の罪と、未必の故意による同人の殺人未遂の罪で十分に立件可能だと思うが、どう思う? 弁護士の美空野先生よ」

 一瞬だけ沈黙した美空野朋広は、下を向いて肩を振るわせ始めた。

「ふ……はっはっは」

 顔を上げた彼は三木尾に言う。

「威勢よく乗り込んで来て、何を言い出すかと思えば。今の会話だけで立件だって? 殺人未遂? それでは聞くが、実行の着手は何時なのだね。まさか、謀議だけで逮捕するつもりかね。無理だよ、警部。それに、盗聴は違法じゃないか。違法収集証拠には証拠能力が認められない事くらい、知っているだろう。それじゃあ、令状も出ないよ」

「じゃあ、これは何だ」

 三木尾善人は上着のポケットから取り出した書面を広げて、美空野の顔の前に突き出した。

「弁護士のテメエなら見慣れているだろうが、テメエの逮捕を国家が許可した事を示す正式文書だ。穴が開くまで、よーく目を通しやがれ。刑事訴訟法に則った正真正銘の『逮捕状』だぜ!」

「な……そんな、馬鹿な。容疑は……」

 三木尾に握られたままの逮捕状を両手で掴んだ美空野朋広は、それに顔を近づけて記載内容に目を通した。

「詐欺罪、背任罪、犯人蔵匿幇助、殺人未遂……殺人の共同正犯に殺人教唆と幇助だと? それに、内乱等幇助に内乱陰謀罪まで……馬鹿げている!」

 美空野朋広は三木尾に逮捕状を押し返す。

 三木尾善人は令状を折り畳みながら言った。

「弁護士だから知ってるよな。被疑事実をまとめて一通の逮捕状にしてやってるんだ。おたくの人権への配慮は最大限にしているぜ。今、警視庁捜査一課と二課の合同チームが総力をあげて、下の全フロアを家宅捜査中だ。勿論、金下都ゴールデン・ダウンタウン区にあるお前の自宅と、高層ビル街にある『ハリーカイ・ヒルズ』マンションの別荘もな」

「な……なんだって」

 唖然とした美空野朋広は、慌てて窓に駆け寄った。窓から下を覗くと、赤色灯を回したパトカーが何十台も美空野法律事務所ビルを囲んでいる。

 三木尾善人が美空野の背中に向けて言った。

「一応知らせておくが、マンションの方も、ちゃんと捜索差押許可状を裁判所が出してくれたよ。いくら小彩の名義になっていても、あれだけ通い詰めていれば、当然だがな」

 町田梅子は鼻に皺を寄せて、拳を握る。

「やっぱり、買ってもらってたのね。あの香水女!」

 ソファーの背もたれから腰を上げた浜田圭二が、トレンチコートのポケットに両手を入れたまま、窓辺で立ち尽くす美空野の近くまで歩いて行き、彼に耳打ちした。

「なあ、あの奥さん、ヤバイんじゃないか。日中、男漁りばっかりしているじゃないか。もっと大事にしてやれよ。一昨日に俺が電話を借りた時も、昼真っから、こんな短いキャミソール着て……ムグッ」

 美空野朋広は浜田の顔を押して、速足で自分の執務机に向かった。

「弾圧だ……国家権力による人権弾圧だ。町田君、すぐに弁護士組合に連絡するんだ」

「弁護士組合には、もう連絡しました。了承を得て、弁護士管理機構にも連絡済みです」

「そうか、それは……なに? どういう事だ。町田君!」

 足を止めて振り返った美空野に、町田梅子は言った。

「一両日中に、弁護士管理機構の懲戒委員会で、あなたについての懲罰会議が開かれるそうです。また、本日中には、緊急の法曹三者代表者会議が開かれるとも聞いています。おそらく、あなたの法曹資格そのものの剥奪の件で」

 美空野朋広は顔を紅潮させ、強く町田を指差しながら、速足で戻ってきた。

「ど、どうしてだ! 町田君! 君、自分の言っている事が分かっているのか!」

 浜田圭二が美空野の前に手を出して彼を止める。

「分かってるよ、この先生は。ちゃんとな」

 町田梅子は美空野の顔を見据えたまま、はっきりと頷いた。

「ええ。私、始動しましたから」

 美空野朋広は顔を顰める。

「始動?」

 町田梅子は毅然として答えた。

「はい。ですから、ゴチでいかせてもらいます。手加減はしません」

 中村明史刑事が石原刑事に小声で言う。

「先輩……たぶん『ガチ』の事ですよね」

「ああ、たぶんな。でも、あの先生、目がマジだから、少し黙って聞いていようぜ」

 美空野朋広は首を斜めにして町田に言った。

「懲戒委員会だって? 弁護士が被疑者にされたら、すぐに懲戒なのかね。不当な逮捕状だというのに。そんな馬鹿な話があるか」

 町田梅子は首を横に振る。

「いえ。別件です。私の方で独自に報告させてもらいました」

「別件? 何の事だね」

 始動した町田梅子は、美空野朋広に攻撃を開始する。

「まず、フィンガロテル。フィンガロテル社を通じて、ダクテルロッジ社の株式を取得しようと画策されたのですよね。ついでに、ていうか最終的にステムメイル社の株式も。見え見えです。最初から気づいてました」

 美空野朋広は一蹴した。

「フン。何を言い出すかと思えば、あの事件かね。まったく、何を馬鹿な事を言っているんだ。フィンガロテル社もダクテルロッジ社も、ウチが顧問を務めている会社じゃないか」

「だから、問題なんでしょ。弁護士は、顧問契約先と利害関係を有してはならない。違いましたっけ」

「解釈の問題だろう。私は、フィンガロテル社とダクテルロッジ社を救うために……」

「あなたに指示された通りに私が動いていたら、将来的には確実に両会社は倒産します。救う事になりますかね。結局、最終的な狙いは、相手方の大手広告会社ステムメイル社の株。違いますか」

「ふふん。君は何を言っているんだね。私が指示しただと。君の担当じゃないか。私は知らんよ」

 町田梅子は静かに息を吐いてから言った。

「そう言うと思ってました。大丈夫です。昨日、今日の分までブチキレましたから。それくらいで、腹を立てる事はありません。牟田さんに呼吸法も習いましたし」

「いったい、何を言ってるんだ、君は」

「では、次の話をしましょう」

 町田梅子は不敵な笑みを浮かべて、獲物を睨み付けた。



                  三

 少し間を空けてから、町田梅子は厳しい顔で美空野に言った。

「野田めぐみさんです。会ってきました」

 美空野朋広は思わず口を開ける。

「あ……まさか、こんな時にかね」

「ええ。言ったじゃないですか。フットワークは軽い方なので」

 美空野朋広は慌てて左腕の金の腕時計を確認すると、すぐに部屋の掛け時計に目を向けた。

 町田梅子は泰然と構えている。

「何を驚かれているんです? 小彩おざいさんから報告が無かったからですか。残念でしたね。彼女のパソコン、昨日、牟田さんがお茶をこぼしちゃいまして。昨夜、総務部で預かってもらって、修理の手配をお願いしました。あ、そうか。ここって、捜索中でしたね。じゃあ、もう、警視庁に押収されちゃってますね。仕方ないですわね」

 美空野朋広が何か言おうと口を開くと、町田梅子は大きな声で言った。

「あ、そういえば、彼女、さっき逮捕されたそうですよ。警視庁の飲食店フロアの高級店の中で。私は今朝、私が一昨日に警視庁に提出した真明教の告訴状の誤字の訂正に行くよう、彼女に頼んだんです。申し訳ないなあと思って、弁護士組合からもらった官庁ビル内の飲食店クーポンを分けてあげました。彼女、喜んで行ってくれたのはいいのですが、早速今日、その足で飲食店街フロアの高級イタリア料理店に行ってクーポン券を使ったみたいですね。しかも、仕事中なのに、そのままお昼過ぎまでコース料理を満喫。嫌ですねえ、若い子のサボり癖とか贅沢癖って。誰がそんな癖をつけちゃったんだろ」

 町田梅子は冷ややかな視線を美空野に送る。

 三木尾善人が口を挿んだ。

「ま、お蔭で、こっちは楽だったがな。ああ、すまん。続けてくれ」

 町田梅子は話を続ける。

「で、私はその間に、善谷市に行って、野田めぐみさんと会ってきました。確かに、ご病気との事で入院中でしたが、見た感じは、全然お元気そうでしたね。入院先は、なんと、善谷市の市立病院。しかも、主治医は、亡くなった野田光さんの死亡診断書を書いた、あの川添正一郎医師」

 美空野朋広は急に笑顔を作って、何度も頷いた。

「そう……そうなんだよ。言ってなかったかな。だから、うちの弁護士法人で彼女を支援しようと……」

 町田梅子は大きく首を左右に振った。

「いーえ。ぜーんぜん。聞いてませーん。彼女、言ってましたよ。親切な弁護士さんが現れて、葬儀の手配などをしてくれたと。で、その親切な弁護士さんに顔色が悪いと言われて、川添医師に診てもらうように勧められて、診察してもらったら、脳に腫瘍があるので、急いで入院しろって言われたと。なんでしたっけ、きっと夫の野田光さんが、あの世から君の体の危険を知らせてくれたんだよ、だったかなあ。そんな事を言われたと、彼女が言っていました。いやあ、感動的な話ですねえ。交通事故で亡くなった方の遺族の所に駆けつけて、葬儀の手配までしてあげて、その遺族の体調まで気遣って医師を紹介したうえに、励ましの言葉まで。できた弁護士もいるものだなあって思って、正直、驚いちゃいました」

 町田梅子は、うろたえる美空野の顔を見据えて、更に続ける。

「でも、もっと驚いた事があります。先生が個人顧問を引き受けている川添萬知子さん、川添正一郎医師の奥さんなんですって? 現地の市役所で戸籍証明情報を取得して、ちゃんと確認しました。ローヤー・プログラムで教わったように。それから、もう一つ、驚いた事が。野田光さんが最初に運ばれた堀井外科医院って、近々、廃業するんですって? それも、結構な負債額を抱えて。こちら、ウチの顧問契約先なんですよね」

「あ、いや……確かにそうだが……」

 口籠っている美空野を余所に、町田梅子は薄型の立体パソコンを胸の前で水平に抱え、それを操作し始めた。

「これを見て下さい」

 立体パソコンの上にホログラフィー画像で立体的に町の一画が再現された。道路の上にはトラックが停止していて、横にはガードレールが延びている。立体映像のトラックに指先で軽く触れて、それをスローモーションで動かした町田梅子は、美空野に言った。

「堀井外科医院の前のガードレールの傷跡や、ブレーキ痕などの現場情報と、事故車両が地下高速のゲートを通過した際に都が採取した3Dデータ、そして、事故当時の積載荷物の記録、これらの情報を基にして、野田光さんの事故を再現したシミュレーション動画です。かなり信用度が高いそうです。ですよね、警部」

 三木尾善人が頷く。

「ああ、科警研の岩崎っていうピカイチの技官が、シュミレーションセンターの大型コンピューターと世界一優秀な人工知能プログラムを二機も使って再現したモノだ。これ以上のモノはねえよ」

 町田梅子は美空野に顔を向ける。

「だそうです。これによれば、運転席に掛かる垂直重力が、亡くなった野田光さん一人の体重では、整合しないそうなんです。つまり、あの四トントラックには、もう一人だれか乗っていたか、何か他の物も乗せられていた可能性がある。しかも、ブレーキ痕も妙でしてね。ぶつかってから、踏んでいる。変ですよね。野田光さんは、脳溢血で意識を失っていたはずなのに。あのー、もしかして、この事故、偽装事故なんじゃないですか」

 胡散顔で目を細める町田に、美空野朋広は言った。

「何だね。私が保険金詐欺にでも加担したと言いたいのかね。馬鹿か、君は」

 町田梅子は反撃する。

「では訊きますが、野田めぐみさんの前に現われたのは、あなたですよね。葬儀の手配をされたのも。どうして、あんなに急いで、野田光さんのご遺体を火葬しなければならなかったのですか。しかも、わざわざ、あなたが動いて」

「そりゃ、野田めぐみの具合が悪かったから……」

「でも、私には善谷市と地域医療機関組合相手に訴訟を提起しろと言われましたよね。であれば、野田光さんのご遺体は、重要な証拠になるはずじゃないですか。火葬するのを数日遅らせてでも、第三者の信頼できる医療機関で遺体検証記録をとっておくべきだったのでは。それをしなかったのは、遺体を検査されると、何かマズイことがあったからではないですか」

 美空野朋広はニヤニヤしながら人差し指を振る。

「君は質問の仕方が下手だねえ。それじゃ、法廷では闘えんよ」

 町田梅子は冷静に対処した。

「いえ、ご心配なく。今は面倒くさいので、端折っているだけですから。じゃあ、さらに端折って、結論に……」

 町田梅子は横を向いた。

「浜田さん。地下高速で、四トントラックの運転手が『刀傷の殺し屋』に殺されるところを目撃したんですよね」

 浜田圭二は真顔でしっかりと頷いた。

 町田梅子は、立体パソコンを操作してホログラフィー画像を切り替え、今度はトラックの詳細な再現映像を宙に浮かべる。立体画像の端に軽く触れてゆっくりとそのトラックを回した町田梅子は、浜田に確認した。

「それ、もしかして、これと同じ柄のトラックじゃなかったですか。これ、新都急行の四トントラックの立体画像ですけど」

 美空野朋広は震える指で町田を指差した。

「君……いつの間に、そんなものを入手したんだ。新都急行は、一昨日、トラックを全て売却処分したはずだ」

 町田梅子は片笑んで答える。

「残念でした。売れ残っていた四トントラックが、臨海物流発進地域のトラック用駐車場に停めたままになっていたんです。それを今朝、これで、撮影してきました」

 町田梅子は上着のポケットから取り出したビューキャッチを見せた。

 美空野朋広は顔を顰める。

「今朝だって? 君は善谷市に行ったんじゃ……」

「その前です。フットワークは軽いって言ったじゃないですか。部下のアピールはちゃんと記憶に留めといてくれないと。ま、もう、部下じゃないつもりですけど」

 そう言って、仕舞い掛けたそのメガネ型の撮影機器をもう一度、美空野に見せる。

「あ、それから一応、これ、アキナガ・メガネ社の商品です。ああ、便利で使いやすっ」

 大きな声でそう言った町田梅子は、ビューキャッチをポケットに戻して浜田の方を向いた。

「それで、浜田さん。どうですか。これと同じ外観でした?」

「ああ、そうだ。間違いねえ」

「それは、いつの話です?」

「十月四日月曜の午後一時から二時の間だ。正確な時間は、地下高速の保安カメラが記録しているから、秒単位まで分かるぜ。その記録も、軍と警察が押さえているはずだ。な、善さん」

 三木尾善人は黙って首を縦に振った。

 町田梅子はホログラフィー画像を消した立体パソコンを応接テーブルの上に置いて、再び美空野を見据えた。

「野田光さんが亡くなったのも、十月四日です。川添医師の作成した書類によれば、死亡確認時間は、午後六時過ぎとなっていますが、『確認した』時間ですからね。実際に死んだ時間とは限らない。まあ、川添医師の死亡確認ですから、そもそも当てになりませんけど」

 美空野朋広は語気を強めた。

「なぜだね。医師が作成した、立派な死亡確認書じゃないか」

 威圧的な彼の指摘を、町田梅子は一蹴した。

「立派だから、不自然なんですよ。休日を返上して駆けつけた医師が、急遽作成した割には、細部まで丁寧に記載されていて、出来過ぎている」

「そんな事……」

「あ、そうだ。川添医師って、地元じゃ有名なヤブ医者なんですって? 医療ミスも一回や二回ではない。でもなぜか、毎回上手く揉み消されてしまう。ああ、そう言えば、この弁護士法人の代表者も、そういうのが得意だわ。ですよね、美空野弁護士」

「君は上司に向かって……一体、誰が君を拾ってやったと思っているんだ」

 美空野朋広は頬を引き攣らせながら、町田を強く指差した。

 町田梅子は動じない。

「私の推理は、こうです。誰かに殺害された野田光さんの頭部の死因を隠すため、交通事故を偽装して堀井外科医院に遺体を運び、堀井研一医師に開頭させた。警視庁の目から離すために、管轄外である隣県の善谷市まで運んだ。周囲の注意を逸らすために、私に善谷市と地域医療機関組合に対する訴えを提起させようとした。そして……」

 町田梅子は美空野の目をしっかりと見据えて、声を低める。

「口封じのために、野田めぐみさんまで、殺害しようとしている」

 美空野朋広は顔の前で大きく手を一振りした。

「君は恐ろしい女だなあ。なんておぞましい事を考えるんだ。信じられん」

 町田梅子は淡々とした口調で続けた。

「野田めぐみさんは、現在、都内の大学病院で再検査を受けてもらっています。牟田さんが付き添ってくれています。もちろん、警察の方も。今のところ、脳内に何の異常も発見されていないそうです」

 三木尾善人が告げる。

「川添正一郎は地元の警察が身柄を押さえた。今、こっちに移送中だ。堀井研一は、既に取調べ中。素直に全部話しているよ。あの歳だからな。テメエも諦めろ、美空野。死体損壊罪に犯人隠避、この二つは確実だ。あとは殺人未遂。ま、教唆じゃなくて、共同正犯だな、こりゃ。時機に追加の逮捕令状が出るだろうから、それ読めや」

 町田梅子は厳しい顔と口調で美空野に言った。

「まだ、野田めぐみさんには本当の事は話していません。真実を知ったら、彼女がどれ程悲しむか、あなたは考えた事がありますか」

 一歩後ろに下がった美空野朋広は、役者のように両手を広げた。

「証拠は。私が関与したという証拠は、どこにあるんだ。新都急行はウチの顧問契約先だぞ。そこの従業員が事故で亡くなって、その遺族を支援して、何が問題なんだ。私は弁護士じゃないか。堀井と川添の医療ミスを弁護士の私に被せられては、かなわんよ」

 呆れ顔をした石原宗太郎が、小声で呟いた。

「まだ言うかね。ったく……」

 そこに居た一同は皆、美空野朋広を白眼視した。



                  四

 町田梅子は短く溜め息を吐くと、次の攻撃を開始する。

「では、ストンスロプ社はどうです?」

 美空野朋広は眉をひそめた。

「なに、今度はストンスロプかね。いい加減にしたまえ、町田君」

 町田梅子は直球を投じた。

「あなたは初めから、自分の依頼人であるストンスロプ社を乗っ取るつもりだったのですよね」

「町田君。私は弁護士だぞ。どうして私が依頼人を……」

「ええ、そうですね。確かに弁護士です。でも、最低の弁護士です」

「君……」

 町田を睨みつけて発言しようとした美空野に、三木尾善人が言った。

「テメエのところに相談に来た渡航者達は、そのほとんどがストンスロプ社の株式を保有していたそうだな。だから、タイムトラベル法で相続が開始すれば、残された相続人にストンスロプの株式は移転することになる。ところが、株を引き継いだ相続人たちは、たいていは、俺よりもずっと年上の老人か、子供だ。活発な株取引なんてしない。まあ、あえてそういう人間が相続するように小細工したのかもしれんが、とにかく、彼らは、一部上場会社の公開株式を取得しても、何もしない。ただ持っているだけ。しかも、配当が来れば余計に持っておきたくなるわな」

 美空野が三木尾に言い返そうとすると、浜田圭二がハットの角度を直しながら、吐き捨てるように言った。

「どうせ、相続人たちに、今は売るなとか、持っとけってアドバイスしてたんだろ。あんた」

 浜田に抗議しようとした美空野に、町田梅子が攻撃を仕掛ける。

「この弁護士法人で引き受けた全ての相続案件のうち、あなたが担当したものと、先日私が担当した水枡さんの案件は、どれもタイムトラベル法による相続に関するもので、すべて故人の縁故を頼って、こちらに相談に来られた方々でした。それで、調べてみたら、他にも、渡航者の相続人について、紛争になっていない相続手続きのみの事案も、ウチで多く引き受けている。そして、その相続財産目録には、どれも、ストンスロプ社の株式が記載されています。ていうか、ストンスロプ株を保有している人で、ウチと関係のあった人は皆、タイムマシンに乗っています。そして、残された家族が、ウチで相続手続をしている。という事は、事件に関与した弁護士として、あなたは、渡航者が保有していたストンスロプ社の株が、誰にどれだけ移転したか、全て正確に把握していたはずです」

 ソファーに座って背もたれに身を倒したまま、神作真哉が言った。

「俺たち、取材して回ったんだけどさ、実際にあんた、相続人の人たちに、一流企業の株だから将来のために持っとけとか、年金の代わりになるとか、いろいろ言っているみたいじゃないか」

 三木尾善人が続ける。

「その相続人たちが保有している株式、それを全部あわせると……石原、ストンスロプ社の発行済株式総数の何パーセントだったかな」

「六十二パーセントです」

 三木尾善人は両肩を上げた。

「おお、恐いねえ。もうすぐで、定款変更だって出来ちまう割合じゃねえか。その全部を一人が手に入れるとしたら、世界のストンスロプ社グループは、事実上そいつのモノだ。でも、いくら金持ちのテメエでも、流石に、これだけの量の一部上場株式を購入する事は、不可能だよな。天文学的な額の金が必要になるもんな」

「当然だ。そんな事、出来るはずがない」

 憮然として答えた美空野に、三木尾善人は言う。

「だが、昨日の騒乱でストンスロプ株の市場価格はどうなった? 今朝の新聞では、ストンスロプ社の株価はガタ落ちだ。一時的とはいえ、数日中には、紙くず同然の価格になる。そんな時に、以前に相談した弁護士が適当な値段で買い取ってやると連絡してくれば、ストンスロプ株を保有している相続人たちは、皆、二つ返事で売るよな。保有を勧めた責任をとるとか何とか言って、誠実そうに言ってくれば、なおさらだ。買ってもらって、テメエに感謝までしてしまう」

 浜田圭二がハットの下から横目で美空野を見て指摘した。

「あんたにしてみれば、大儲けだぜ。馬鹿みたいな安値で、超一流企業の株式を大量に入手できるんだもんな。株の事はよくは知らないけどよ、たしかこの場合、誰とも競争せずに、株の売主と直接取引になるんだろ。しかも、言い値で買える。株を牛耳った挙句、その会社の顧問弁護士まで務めているとなれば、最終的にストンスロプ社は、実質的にあんたの物みたいな事になるな。あとは、じっくりと株価が回復するのを待てばいい」

 三木尾善人が更に付け足した。

「ASKITは壊滅。深紅の旅団レッド・ブリッグの決起で国防軍は弱体化。ネオ・アスキットも駆逐されれば、国家機関には、ストンスロプ社の影響力だけが残る。テメエのストンスロプ社のな」

 美空野朋広は強い口調で打ち消した。

「馬鹿馬鹿しい。何を言っているんだ」

 石原宗太郎が松葉杖に凭れて、左の袖の破れた部分から出た糸を抜きながら言う。

「まあ、仮に昨夜のクーデターが成功していたとしても、ネオ・アスキットに情報を流して貢献していたあんたは、次の統治下では、それなりに優遇される。つまり、どっちに転んでも、あんたにしてみれば、『おいしい』って訳だ。フッ」

 石原が吹き飛ばした糸くずを鼻の前から払った中村明史は、美空野を見据えて言った。

「だが、一つだけ障害があった。共犯者である真明教の南正覚だ。教団の赤字経営に苦しんでいた南は、話には乗ってきたが、戦争や内乱を起こす事には同意しなかった。それに、口止めの対価として、高額の分け前を要求される惧れもある。だから、田爪に消させたんだな。口封じのために」

 美空野朋広は若い中村の方に顔を突き出した。

「はあ? 私と南が共犯? 馬鹿言っちゃ困る。彼は唯の依頼人だ。そうだろ、町田君」

 町田梅子は返事をせずに、逆に問い質した。

「三木尾警部の指摘については、どう反論されるおつもりですか」

 美空野朋広は見下したように三木尾を見ながら、あざけり笑う。

「ふん。相手になどしておらんよ。話にならんじゃないか。君も、退職前に係長程度までしか上がれなかった人間の言う事に、いちいち振り回されていてはいけないよ」

 町田梅子は肩を落とし、強く溜め息を吐いた。

「まったく……あなたは人としても、最低です」

「ちょっと待ちたまえ。町田君。君は、自分のボスである私を侮辱するのかね」

 町田に詰め寄る美空野を再び浜田が止める。

 三木尾善人は項垂れて、呆れ顔を左右に振っていた。

 永山哲也がソファーの背もたれに肘を載せて、三木尾に苛々した顔を向ける。

「ああ、もう。警部さん。そろそろ、教えてあげましょうよ。可哀想になってきた」

 美空野朋広は、自分の事を小馬鹿にしたような発言をした若い記者に怫然とした顔を向けた。その顔に永山はポケットから取り出した物を向ける。

「これですよ。これ」

 永山哲也は、さっき町田がテーブルの上に置いた立体パソコンを神作の前にずらすと、イヴフォンを握った両手をテーブルの上に置いていじりながら話した。

「お盆過ぎでしたかね、ようやく司時空庁から返してもらえた、僕のイヴフォンです。南米に持参したやつ。司時空庁もいろいろ、ゴチャゴチャ有りましたからね。押収品の返却が遅れたみたいなんですよ。しかも、せっかく返却されたと思ったら、一日でO2電池が切れちゃいましたし」

 永山哲也は、隣で右手だけでホログラフィー・キーボードを打っている神作の方を気に掛けながら、ゆっくりと話した。

「それで、手許に戻ってきた、このイヴフォンをサービス・ショップに持っていって、中のO2電池を入れ替えてもらったんです。保障期間中でしたからね。で、例の事件が終わって暫らくした頃に、これが返ってきたんですよ。さっそく再起動して、それを使って、ある事をしてみたら、あらビックリ。――いいですか、キャップ」

 永山哲也は神作の前の立体パソコンを覗いた。

 神作真哉はホログラフィーのアイコンをタップしながら答えた。

「ちょっと待て。今回はマジで左手が使えないんだ。だから、俺の立体パソコンを持ってくれば……よし。いいぞ。準備オーケー」

 永山哲也は美空野の顔を見ると、イヴフォンを持ち上げた。

「いきますよ。よく聞いていて下さいよ」

 永山哲也は美空野に見えるようにして、胸の前でイヴフォンのスイッチを押す。一同は沈黙した。何も音がしない。浜田圭二と三木尾善人と石原宗太郎は、怪訝な顔を見合わせた。

 中村明史が永山に耳打ちする。

「僕らには聞こえてませんよ。永山さんの聴覚野に直接届いているんですから」

「ああ、そうか。すみません」

 中村に一礼した永山哲也は、立ち上がると、美空野の胸元にそのイヴフォンを近づけて、彼の目が赤く光るのを待った。迷惑そうな顔で頭を後ろに引いていた美空野朋広は、左目を赤く光らせると、顔を顰めた。

「なんなんだ、まったく……」

 永山が差し出したイヴフォンは美空野の脳に信号を送り、彼の聴覚に奇妙な声を届けていた。

『念、念、念、念……どうか、教祖様が早くお戻りになられますように。宇宙の神様。どうか、教祖様を一日も早くお戻し下さい。念、念、念……』

 イヴフォンを引いた永山哲也は、ソファーに戻ると、腰を下ろしながら言った。

「ね。たぶんそれ、真明教の信者さんの声です。生放送。画像は何も見えてませんよね。音声だけですが……」

 美空野朋広は視線を逸らす。

 町田梅子が美空野を睨みつけて、透かさず指摘した。

「見えていたのね。記憶にある人間の声なら、イヴフォンが記憶映像を増幅処理して、あなたの視覚野にはっきりと映し出しますからね。聞こえてきたのは、英田えた町の首都圏施設本部に居る、知っている信者の声だったんですね」

 状況が瞭然と理解できない美空野朋広は、顔を顰めたまま首を捻った。

 永山哲也は言う。

「なるほど、そうですか。いや、でも、相手はイヴフォンやウェアフォンを使っている訳ではないんですよ。で、僕は通話ボタンを押しただけです。そして、こっちのパソコンのデータファイル。そろそろ届いているはずです。キャップ、再生して下さい」

 神作真哉は受信した電子メールに添付された音声データを展開した。立体パソコンのスピーカーから声が聞こえる。今度は、そこに居る全員に聞こえた。

『念、念、念、念……どうか、教祖様が早くお戻りになられますように。宇宙の神様。どうか、教祖様を一日も早くお戻し下さい。念、念、念……』

 美空野朋広が眉間に皺を寄せる。

 永山哲也は言った。

「さっきの頭の中で聞こえた生放送の音声ファイルです。同じだったでしょ」

 浜田圭二が顎を触りながら言う。

「これは……ああ、あの小太り姉ちゃんの声だな」

 美空野朋広は眼球を左右にキョロキョロと動かしながら呟いた。

「どうなっているんだ」

 永山哲也と神作真哉は、応接ソファーの上で顔を見合わせて、ニヤリと笑った。

 永山哲也は、困惑した様子の美空野朋広に説明する。

「さっき言ったでしょう。と言いますか、記事としても前から随分と出回っている事ですけど。僕が南米からタイムマシンを発射させた時、ICレコーダーをリアルタイム・データ送信の状態でマシンの中にセッティングして、発射させたって。レコーダーが拾った音声は、レコーダー自身にも保存されると同時に、圧縮データ化されて、レコーダーと同期させた、このイヴフォンに飛ぶんです。このイヴフォンは、受け取った圧縮音声データを多次元暗号化して、衛星回線を使って二ギガバイトずつ、電子メール方式で、今は会社に置いてあるキャップのパソコンに自動転送する。今回は、この町田先生のパソコンに転送されるように再設定しました。イヴフォンは、衛星回線の高次元ネットワークを使用していますから、地球上の何処からでも、理論上は、データを送れる。問題は、あのICレコーダーと、このイヴフォンです。ICレコーダーは、本来は通信機ではないので、そう遠くまでは信号を送れない。このICレコーダーを製造した日高電気に問い合わせて確認しました。拡散型の不可視レーザー通信方式を使用しているのだそうです。ウチの会社のオフィスでは、樹英田町の教団施設の音は拾えませんでした。だけど、このイヴフォンを樹英田町の教団施設の近くに持って行くと、聞こえたんですよ。信者さん達や、南正覚さんや、あなたの声が」

 永山哲也は美空野をはっきりと指差した。そのまま、言う。

「警部さん。信者さんたちは、今、どこにいるんでしたっけ」

 三木尾善人は窓の方を指差した。

「樹英田町だ。教団施設は警察が包囲している。あんたのICレコーダーもそこだ。間違いない」

 美空野朋広は眉を上げた。

「だったら、おかしいじゃないか。どうして、ここで音が拾えるんだ。あのICレコーダーの近くじゃないと、信号を拾えないんだろ。なぜ、ここにあるイヴフォンで、信号を拾えるんだ」

 三木尾善人が鋭い視線を美空野に向ける。

「『あの』? 『あのICレコーダー』だって? 話の中の言葉を示したり、写真に写っている物を示す『その』ではなくて、『あの』だと? まるで、見た事あるような言いぶりだな」

「あ……いや……」

 美空野朋広は返事に窮した。

 三木尾善人は言う。

「まあ、いい。仕組みを教えてやるよ。――先生方、カモーン」

 三木尾善人は両開きのドアの方に大きな声で呼びかけた。両開きのドアを右と左にそれぞれ開けて、白衣姿の男女が入ってきた。



                  五

 抜群のプロポーションの女が、白衣のポケットに両手を入れたまま、姿勢よくモデル気取りで歩いてくる。ヒールの音を鳴らしながら颯爽と歩く女の横を、若い白衣姿の男は、女の方に視線を送りながら呆れ顔で歩いていた。女は、つんと澄まして美空野の前まで歩いてくると、立ち止まり、少しポーズを取る。そして、白衣をなびかせてクルリと振り返り、今度は白衣から両手を出して、キャットウォークで三木尾の後ろへと歩いていった。

 一緒に歩いて来た男と、神作真哉、浜田圭二は眉間を摘まみ、俯く。石原宗太郎刑事と中村明史刑事は顔を見合わせていた。

 三木尾善人は片笑みながら美空野に言う。

「紹介するよ。警察庁、科学警察研究所の凄腕技官、岩崎カエラ先生と、小久保友矢先生だ。さっきのトラック事故の解析をした先生たちだよ。例の量子銃の謎も、彼女たちが解明した」

 斜に構えた岩崎カエラは、肩に載った髪を後ろに払うと、目を細くして言う。

「陳腐なトリックで真実を隠そうと思っても無駄よ。あの程度の偽装工作の解明なら朝飯前だわ。モーニングコーヒーを飲みながらでも、見破れるわね」

 そして、すらりとした長い右手をさっと伸ばして、美空野を指差した。

「科学の前を悪事に素通りさせやしない。私は科警研の岩崎カエラよ!」

 美空野朋広は唖然としている。

 岩崎カエラは、きまったと言わんばかりに、満足気な顔をしていた。

 三木尾善人が岩崎の右肩を叩いて言う。

「彼女と、この小久保先生が、樹英田町からでもここまで信号が届くようにしてくれたんだ。なあ、岩崎……」

 三木尾善人が視界から消えた岩崎を探すと、彼女は右肩を押さえて床にうずくまっていた。

「う……く……善さん、ここ、縫ってるのよ。撃たれたのよ、私……」

「ああ、そうだったな。すまん、すまん」

 駆け寄った小久保友矢が岩崎に肩を貸して立たせた。泣きそうな顔の岩崎を見て、神作真哉と浜田圭二は溜め息を吐く。

 顔を上げた三木尾善人は、浜田に言った。

「ハマー、例の物を貸してやれ」

 浜田圭二はコートの中のスーツのポケットからサングラスを取り出すと、美空野に差し出した。

 三木尾善人は言う。

「特殊な偏光サングラスだそうだ。掛けて、窓の外をよく見てみな」

 美空野朋広は浜田から受け取ったサングラスを持って窓辺に歩み寄り、言われた通りに掛けて、窓の外の景色を覗いた。

「な、なんだ、これは……」

 美空野法律事務所ビルの最上階にある所長室の窓から見える有多町の官庁ビル街には、無数の赤い光線が網の目のように張り巡らされていた。光線は高いビルとビルの間を絶妙な角度で抜け、その奥の低いビルの屋上で何かに中継されて角度を変えている。美空野朋広は窓に駆け寄り、サングラスを手で支えたまま窓に頬を付けて、その複雑に織り込まれた編み物のような光線の帯の先を探した。赤い光の帯は、向こうの繁華街を越えて、その奥の田園地帯の上を通り、遠くに微かに見える住宅街の中の一点に集中している。美空野朋広は振り向いて、室内を見回した。赤い光線は窓の外から何本も室内に直進していて、部屋の中のあちこちに置かれた小さな箱に繋がっていた。その小さな箱からは、周囲に球状に薄い赤い光が膨らんでいて、丁度、応接ソファーの近くで重なっている。

 外したサングラスを放り投げて、自分の執務机の上に置かれている小さな箱に駆け寄った美空野朋広は、それを手にとって眺め回した。

 右肩を押さえたまま、岩崎カエラが言った。

「それは、不可視レーザー光線の中継機よ。国防軍だけじゃなくて、警察の特殊部隊も、不可視レーザーによる直接通信を使用しているの。それを、この天才小久保君が、永山さんのICレコーダーから発せられている不可視レーザー光の波長に合わせて調整してくれた。拡散型の光を受信して、直進光線に変えて飛ばし、街中に設置した中継機で何度も反射させて、その機械に届ける。そこまでの光の角度と中継機の設置場所の計算は、二機の有能な人工知能プログラムたちが楽しそうにやってくれたわ。そして、その小久保君お手製の最終中継機が、また元通りの拡散型不可視レーザー光に変えて、その永山さんのイヴフォンがそれを受信する。どう、すごいでしょ」

 美空野朋広は部屋の中を見回し、窓の外も何度も見た。不可視レーザーは、全く見えなかった。その間に、浜田圭二が岩崎に尋ねる。

「おまえは、何をしたんだよ」

 岩崎カエラは自慢顔で答えた。

「発案したのは私よ。ふふん」

 神作真哉がソファーから身を反り出して言う。

「また、他人にやらせたのか、おまえ」

 岩崎カエラは口を尖らせた。

「ちょ……あのね、神作君。科学っていうのは……うあっ、く……くく……」

 三木尾善人が岩崎の肩を叩くと、岩崎カエラは肩を押さえて、再びうずくまった。

 三木尾善人は言う。

「なんと言っても、こちらの岩崎先生は、警察組織内では人気ナンバーワンの人だからな。警官という警官が、そりゃあ、もう、皆二つ返事どころが飛び付く勢いで協力してくれたよ。昨日の市街戦でヘトヘトのSATの隊員たちも、渋滞の交通整理でクタクタの交通課の警官たちも、皆、中継機の設置に協力してくれた。お蔭で、実に短時間で準備ができたという訳だ。もちろん、仕切ってくれたのは、この二人だ。昨夜から徹夜なのにな。――いや、ホントに、あれだけの活躍の後で疲れただろうに、よくやってくれた」

 岩崎カエラは肩を押さえながら言う。

「だったら、もっと優しくできないかな。どうして傷口を叩くのよ」

 永山哲也が口を挿んだ。

「あの……警部さん、そろそろ話を戻しても……」

「ああ、そうだったな。すまん、すまん」

 永山哲也は再び美空野の顔を見据えて言った。

「とにかく、こうやって実演できるようにしてもらった訳ですが、もう分かったでしょう。あのICレコーダーが拾った音を、僕のこのイヴフォンでリアルタイムで聞けて、且つ、キャップのパソコンにデータとして保存される。そういう事ですよ」

 ソファーの背もたれに身を倒していた神作真哉は、美空野を指差した。

「要するに、バレてんだよ。全部」

 中継機を落とした美空野朋広は、執務机の角に手をついて、愕然と項垂れた。

「全部……全部を聞かれていたというのか……」

 永山哲也はあっさりと答える。

「ええ。そうですね。全部、筒抜けです。残念ながら。南正覚さんは、あのレコーダーと桐の箱だけは、大事に持ち歩いていたみたいですからね。肌身離さず」

 美空野朋広は口を開けて言葉を失っていた。

 永山哲也はイヴフォンを仕舞いながら言う。

「例の事件で、津田長官たちに拉致される前の日だったかな。妻の実家に挨拶に言ったんですよ。自宅軟禁されちゃって、心配掛けましたからね。それが、樹英田町の教団施設の近くなんです。その実家で、その日戻ってきたばかりのイヴフォンのスイッチを入れてみたら、聞こえてきたんですよ。例の奇妙なお経が。念、念、念って」

 神作真哉が言った。

「いや、驚いたのは、こっちだよ。別れた女房と娘がアパートに掃除しに来てくれていたんだが、娘に説教している最中に突然、このパソコンから、南正覚の声が響いてくるんだからな。初めは何なのか分からなくてね。故障だと思ったよ。困った、困った」

 永山哲也が続ける。

「で、このイヴフォンの電池が切れちゃったんで、僕もその時は、ただの混信か何かだろうと思って、そのまま電池交換に出しちゃったんです。まあ、ほら、百二十年もつって言われているO2電池が切れるなんて、滅多にないでしょ。販売店に持って行ったら、メーカー預かりになっちゃって。だから、気にもしてませんでしたし、キャップにも話してなかったんですよ。だけど、数日後に帰ってきた電池を入れ替えたイヴフォンでも、通話スイッチを入れるとやっぱり聞こえる。しかも、通話できないし。ところが、すぐに元通りに使えるようになるんです。で、思い出したんですよ。南米でタイムマシンに乗せた時に、ICレコーダーと僕のイヴフォンを『同期させた』って事を。あっちは二〇二五年の爆発で蒸発したと思ってましたから、バイオ・ドライブの方にばかり気が行っていて、正直、忘れていました。今の音声が聞こえるという事は、地球上のどこかに、運よく僕のICレコーダーが残っていて、それは近くにある。しかも、聞こえたり聞こえなかったりするって事は、ICレコーダーは頻繁に移動している。内容からして真明教だという事は、すぐに分かりました。だけど、そのICレコーダーが真明教施設のどこにあるのかが分からない。そこで、キャップの親友の名探偵さんの力を借りる事にしたんです」

 神作真哉が更に続けた。

「やがて、声の主が南正覚だと特定できた。しかも、美空野先生、あんたの声も。そして、あんたと南の会話を聞いているうちに、あんたらの悪事が段々と分かってきた」

 神作真哉は強く美空野を睨み付けた。

 永山哲也は淡々と話を続ける。

「とにかく、ICレコーダーを持って移動する南正覚を追いかける必要がありましたから、ずっと彼を追っていたんです。ところが、彼は、国内は勿論、世界中の教団施設を回るお布施集めの旅に出掛けちゃって。こっちは、ほら、例の田爪博士のインタビューの一件で、さすがに海外は無理でしょ。しかも、南正覚が、いつ帰国したのかも分からない。どうも、正覚さん、引きこもっていたみたいですしね。で、キャップと二人で千穂倉山の中腹に古い民家を借りて、山の裏手から谷の向こうの総本山とか言う施設をこっそりと『取材』させてもらいながら、十月五日には必ず戻ってくるであろう南正覚を待っていたという訳です。勿論、樹英田町の施設と往復しながら。とにかく、正覚さんの居場所が掴めなくて、困りました」

 浜田圭二が口を挿んだ。

「そこで、俺の登場さ。ま、アンダー・カバーって奴だな」

「ちょっと、おまえは黙っとけ」

 三木尾に言われて、浜田は口を尖らせた。

 神作真哉は美空野に当たる。

「まったく。このお蔭で、ウチは家庭崩壊の二歩手前まで行ったんだぞ。俺も永山も、娘の事で大変だったんだからな。おまけに、風邪までひいちまったじゃねえか。馬鹿野郎」

「あんたの家庭は、もう崩壊したんでしょ」

「主任」

 小久保に注意されて、岩崎カエラは口を閉じた。

 神作真哉は言う。

「形じゃねえよ、家族は」

 三木尾善人はニヤリとしながら、静かに頷いた。

 永山哲也も神作に頷くと、再び美空野に顔を向けた。

「一昨晩は、南正覚さんをずっと追っていました。樹英田町から千穂倉山の総本山施設まで移動して、再び、樹英田町の首都圏施設本部に戻り、その後、あなたと料亭『心路桜』で密会。ICレコーダーは施設本部に置いていたようなので、僕は妻の実家に行って、音声データを受信し続けて、後は、この浜田探偵とバトンタッチ。しっかり、あなたと正覚さんが食事をしているところを写真に収めてもらいましたよ。ほら」

 永山哲也は、和室の個室で料理を並べたテーブルを隔てて対座している美空野と南が写っている写真を上着のポケットから取り出すと、美空野に見せた。

 浜田圭二が言う。

「昭憲田池からボートに乗って撮影してやったんだぞ。しかも、あんな夜中に。大物女優が主演する映画じゃあるまいし、今時、そんな撮影する奴がいるか? 感謝しろよ」

 永山哲也は浜田に口角を上げて見せてから、美空野に言った。

「あとの細かい事は、浜田探偵がいろいろと調べてくれましてね。全部の裏取りが完了したので、さあ、あとは、記事にするか、警察に知らせるか。会社の上役や同僚たちと相談して、稟議した結果、先に警察に知らせる事になった。ところが、連絡しようとした矢先、GIESCOやAB〇一八の施設、市街地のあちこちで軍同士の戦闘が始まったので、これはイカンと思って、昨日わざわざ山荘まで来てくれた、こちらの警部さんに連絡したという訳です」

 三木尾善人は顰め面をして永山に言った。

「俺たち警察に最初から出してくれていればよ。一人死なずに済んだんだぞ。分かってんのか」

 永山哲也は両手を上げて答えた。

「でも、南さんの件までは、僕らも分かりませんでしたよ。まさか、彼が南さんを裏切って、田爪博士に彼を殺させようとしている事は、ここから聞こえてくる内容からは分かりませんでしたから。それに、クーデターの件までは……」

 小久保友矢は岩崎に目を遣る。岩崎カエラは涙を溜めた目で、美空野の顔を睨みつけていた。

 三木尾善人は岩崎の顔を一瞥してから、永山に言う。

「まあ、それも、そうだな。こいつが南の前で、その事を口にするはずもねえか。レコーダーは南が持っていた訳だからな」

 それを聞いた美空野朋広は、再び勢いを取り戻した。

「そうだ。私が依頼人と会話しているだけの事で、どうして私が殺人の容疑をかけられねばならないんだ。私は田爪に南を殺せなどとは指示していないぞ。それに、内乱の事も知らん。だいたい、どういう理屈で、私が殺人罪や詐欺罪などに問われないといけないんだ。まったく、呆れてモノも言えんよ」

「じゃあ、ちょっと黙ってな」

 浜田圭二がそう言ったが、美空野朋広は口を閉じなかった。

「南を消したのも、タイムマシンの搭乗者たちを消したのも、田爪健三じゃないか。全部、田爪がやった事だ。私は田爪健三とは面識が無いんだぞ。どうやって行為を共同するんだ。まして、何もしていない私が、どうして実行正犯として名指しされなければならん!」

 石原宗太郎が松葉杖に凭れて項垂れる。

「まったく……逮捕状を読めよ。警部、逮捕状を貸して下さい。俺が読み上げますから」

 美空野朋広は声を荒げた。

「私は、私を訴追する必要があるという結論に至った理屈を尋ねているんだ。被疑事実の要旨を訊いているんじゃない」

 岩崎カエラは拳を握り締めて前に出た。小久保友矢が彼女を押さえて止める。

 三木尾善人は石原に手を上げて、読み上げの必要が無い旨を合図すると、横を向いた。

「町田先生。あんたから、この馬鹿に教えてやったらいい」

 皆の視線が新人弁護士の町田梅子に集まった。

 それまでずっと美空野を見据えていた町田梅子は、眉間に強く皺を寄せて答えた。

「居るのを忘れられてるのかと思ってました。また出番がもらえて良かったです。さっきから見てて、ゴチで頭にきてますから」

 町田梅子は足を開いて立ったまま、顔を赤くして美空野を真っ直ぐに睨みつけていた。赤く火照った彼女の襟元と額からは、薄く湯気が立っていた。



                  六

 町田梅子は、再攻撃を開始した。

「事実関係が、先ほど三木尾警部たちが説明された通りなら、こうなります。まず、あなたは、タイムマシンに乗って渡航した人が、到着先で田爪健三に殺害されるという事を知りながら、南智人と共同して、人々をタイムマシンに乗せています。タイムマシンに乗って出発すれば、死という結果が発生する事をあなたは知っていた訳です。実際、客観的にも、そうなっている。つまり、人をタイムマシンに乗せる行為自体が、殺人の実行行為だと評価できる訳です。南との共犯性については、論じる必要は無いでしょう。あなたも弁護士ですから。そして、結果も発生している。つまり、殺人既遂。自己の行為と結果の発生を認識されていたようですから、主観的構成要件、つまり、『故意』が認められる。したがって、殺人罪の構成要件は全て充足します。違法性阻却事由も責任阻却事由もない。つまり、ガッツリ殺人罪です」

 美空野朋広は反論する。

「本人たちの意思で、タイムマシンに乗ったんだぞ。私が無理矢理に乗せた訳ではない」

 町田梅子は素早く再反論した。

「渡航者たちは、田爪に処刑される事を認識してタイムマシンに乗ったのでしょうか。違いますよね。そんな事は一切予測していない。実際、自己の生存を前提に、渡航先の時代での生活に必要な物を積んで、渡航しています。タイムマシンでの渡航が、処刑場への片道路線だと知っていたら、誰も乗っていないでしょう。あなたは南と共同で人々を欺網し、タイムマシンに乗せたのです。欺網が積極的発言に限られない事も、ご存知ですよね。タイムマシンで渡航した人々が渡航の申し込みを司時空庁にする前に、あなたと度々面談している事実、あなたから南正覚を紹介されていた事実、南正覚が彼らにタイムマシンでの渡航を勧めていた事実は、明らかとなっています。あなたと南がそれについて打ち合わせていた事も、先ほど実演されたとおり、神作さんのパソコンに全て記録されている。あなたが、百三十人もの人々の殺害に関与したことは、明白です」

 反論を考えている美空野に、町田梅子は追撃する。

「それに、あなたは、渡航者に対し、タイムトラベル法に定める生存権中断、つまり、『法律上の死亡』となる事を理由として、事前の相続対策をするように勧めている。この点で、必要の無い財産処分をさせている訳ですから、私は詐欺罪が成立すると考えます」

 美空野朋広は言い返した。

「タイムトラベル法による生存権中断は、渡航者の渡航先での生死とは関係ないじゃないか。タイムマシンで出発して、この時代から居なくなれば、この時代に残された家族のために、渡航者の死が法律上擬制されて、相続が開始する制度だろ。彼らは、自分がタイムマシンに乗る事は認識していたんだぞ。だから、事前の相続対策にも取り掛かったんだ。それを弁護士として支援して、どうして詐欺罪かね。では訊くが、彼らのタイムトラベルが成功していたら、同じ事をした私は、やはり詐欺罪なのかね? 違うだろ。タイムマシンで出発して、この時代から消えるという点は同じだし、その点を渡航者が認識していた点も同じじゃないか。どうして、渡航者が渡航先で死んでいたら、私が急に詐欺罪に問われる事になるのかね。どうだね」

 町田梅子は落ち着いた表情で頷いた。

「そうですね。渡航者たちがこの時代から居なくなるという点は、確かに同じです。つまり、渡航した人々は、この時代を中心に見れば、自殺を選択したに等しい。ですが、それは司時空庁のタイムマシンがタイムトラベルに成功していればの話です。しかし実際には、彼らが乗ったタイムマシンは、全て、南米の戦地に場所的移動をしていたに過ぎない。この時代から居なくなった訳ではないのです。南米側の受け取り地点である田爪の施設を攻撃して制圧するなどすれば、渡航者を救出することができ、その渡航者は『この時代に生存している状態で』帰国できたはずです。それなら、本来、相続手続きをする必要は無い。あなたは、司時空庁が飛ばした全てのタイムマシンが、南米に場所的移動をしているだけに過ぎない事を知りながら、つまり、彼らがこの時代から消えていなくなる訳ではない事を知りながら、それを秘し、南と共に彼らを騙し、タイムマシンに乗ることを選択させ、タイムトラベルが成功する事を前提とする財産処分をさせている。あなたはタイムトラベル法の生存権中断の制度を欺網の道具として利用して、する必要のない相続対策を、それと知りながら、遺言や死因贈与契約という形で、依頼人である渡航者たちにやらせているのです。しかも、どの方の遺言書も、死因贈与契約書も、フォーマットは同じです。文面もほぼ同じ。ストンスロプ社の株式のみを別枠にして、あなたと面識がある人間に移転させる内容になっている点も同じ。つまり、あなたは財産移転について、依頼人を誘導している。形式的には彼らが自発的に作成した遺言書や死因贈与契約書となっていますが、その作成意思は、あなたの欺網行為により惹起させられたものであり、あなたに誘導された作成行為であることは明らかです。あなたの欺網行為により、結果として人々は死に、あなたがさせた財産処分行為の通りに財産移転が生じている。言うまでもなく、その欺網行為と財産処分行為の間に因果関係がある。欺網は意図的ですし、財物を交付させる意思も明らか。だとすれば、詐欺罪が成立するのではないですかね」

 美空野朋広は執務机の前で貧乏揺すりを始めた。彼は落ち着かない様子で町田に人差し指を振る。

「君は、よくそれで弁護士がやっていられるなあ。呆れるよ。もう、反論する気にも、なれん。こんな馬鹿馬鹿しい議論に付き合うつもりは……」

 町田梅子は攻撃の手を緩めない。彼女は続けた。

「最後に、背任罪です。あなたはストンスロプ社の顧問弁護士法人の代表者として、ストンスロプ社のために、その法的利益を守り、代理人として事務を処理する義務を負っていますよね。そのあなたが、自己の利益を図り、かつ、第三者をしてストンスロプ社に甚大な損害を生じさせる目的で、その任務に背いて、守秘すべきストンスロプ社の内部情報を第三者に漏洩し、結果として、ストンスロプ株を暴落させ、同社に財産上の損害を生じさせている。私が知る限り、これは背任罪のはずですが、違いますかね」

 美空野朋広は興奮したようすで否定する。

「馬鹿な。株式の額面に変化は無いじゃないか。市場価値が一時的に下がっただけだろ。株の保有者に文句を言われるのなら、まだ分かるが、ストンスロプ社は株式を発行している主体じゃないか。資金の回収は株の発行の際に、引受人の払込みにより終了している。もう金はストンスロプに入っているのだよ。それに、ストンスロプ株の保有者が被った損失は、相場の下落によるものだろ。市場取引とはそういうものだし、株式を手に入れた者も、その事は了解の上で取得しているはずだ。何が『財産上の損害』だ。まったく」

 町田梅子は溜め息を吐くと、美空野に言った。

「やはり株の事しか頭に無いのですね。ストンスロプ社が今回被った損害は、株式の評価損だけではありません。破壊されたGIESCOの研究棟、IMUTAの保守設備、その他、怪我をした警備員たちへの治療費支出、契約破棄となった事業、他にもまだ多種多様に挙げられますし、これからも増えるでしょう。ちなみに、ストンスロプ社自身も、未消却の自社株式を保有しています。ご存知でしょう。それに、株式について額面を基準にするのなら、会社の金を違法に貸し付けて、回収不能な不良債権を意図的に作出した役員であっても、背任罪に問えない事になります。額面上は、債権額相当の債権として帳簿に上がっているのですから。その数字だけを見て損害が発生していないとすれば、実質的に回収不可能な貸付を乱発した取締役などを、法で処罰できません。これでは、背任罪を規定した意味がありません。実務書にも記載されていますが、背任罪における被害者の財産減少は、法的評価額ではなく、経済的見地に基づいた実質的評価額によるべきだというのが通説です。もちろん、実務でも。つまり、基準とするのは市場価値。あなた、間違えていますよ。もう少し、本を読まれないといけませんわね。ホホホホ」

 町田梅子は口を丸く尖らせて、奇妙に笑って見せた。からかうような町田の態度に、美空野朋広は唇を噛んだ。

「ぬ……く……この……」

 三木尾善人が言った。

「こてんぱんだなあ、美空野。ああ、それからな、一応、俺からも教えといてやるが、事実関係なら、あの小彩おさいっていう事務員がだいたい認めたよ。今も取調室で、色々ペラペラと喋っているそうだ。あんたとの『不適切な関係』もな」

 町田梅子はニヤリとしてから言った。

「私からは、以上です。内乱罪の成立容疑の説明については、警部にお任せします。でも、その前に一言だけ……」

 深く息を吸った町田梅子は、美空野を強く指差して、それまで溜め込んでいた鬱憤を一気にぶちまけた。

「あんた、私に担当させた相続事件について、あの香水女に、裁判所から私に送られてきた調停調書データや当事者間でまとまった遺産分割協議データのコピーを、自分のパソコンにも送るように指示していたんでしょ。私の動向を探るため、私のパソコンをハッキングさせたりもしていた。裏でコソコソコソコソコソコソコソコソ、二人して、よくもやってくれたわね。しかも、私に、詐欺まがいの和解契約を締結させようとしたり、不適法な仮差押えの申立てをさせたり、死体損壊罪の隠蔽の片棒を担がせようとしたり、平林のお婆ちゃんから大金を騙し取ろうとさせたり。どうせ、何かが問題になった時には、さっきみたいに私に全部かぶせるつもりだったんでしょ。残念だけど、全部お見通しなのよ。頭にきたわ。拾ってやったのは自分だあ? 私はね、前の事務所でも、セクハラ弁護士と大喧嘩してやめた女なのよ。忘れていたかしら。拾った弁護士が私で不運だったわね。次からは今まで通り、ゴルフのスウィング練習ばかりしている、ボーッとした馬鹿弁護士でも拾うのね。今回の私はゴチよ。全て法廷で証言する用意は出来ているわ。必要なら、あんたの好きな損害賠償請求訴訟も提起してあげる。ばっちり証明して、ガッツリふんだくってみせるわよ。覚悟しときなさい。あんたにいじめられた牟田さんの分も、あんたに騙された被害者たちの分も、根こそぎ回収してやるから。それと、一応、アドバイスしておきますけどね、女性にプレゼントするなら、香水はやめた方がいいわよ。あんたにも香が残るし、奥さんにもバレるから。女の嗅覚は鋭いんだからね。気をつけなさいよ、この陰湿変態強欲色ボケ弁護士!」

 背伸びして顔を突き出した茶髪の新人弁護士は、姿勢を戻して気を落ち着かせると、静かに言った。

「以上。 はい、一言終わり」

 美空野朋広は腰を執務机に押し付けて、固まっていた。



                  七

 動揺して身動き出来ない様子の美空野朋広に、浜田圭二が言った。

「悪い事は、するもんじゃねえなあ」

 我に帰った美空野朋広は、振り返ると机の上の立体電話機に手を伸ばした。電話機から子機を外した彼は、そのボタンを押し始めた。

「こんな馬鹿な話があるか。この私を逮捕だと? 私を誰だと思っているんだ!」

 美空野朋広は子機を耳に当てて暫らく待ったが、眉間に皺を寄せて子機を耳から下ろすと、再びボタンを押し直しながら、苛立ちを露にした。

「くそ。こんな時に。どうして出ないんだ」

 三木尾善人がニヤニヤしながら言う。

「どうした。誰にかけてる」

 美空野朋広は子機を耳に当てながら、三木尾を見て鼻で笑う。

「ふん。私はね、君らとは持ち合わせている人脈が違うのだよ。それが今に分かる。――くそ、出ないな。何をしているんだ。ゴルフか……」

 美空野が懸命にボタンを押している間に、神作真哉は壁際に置かれているテレビにリモコンの先を向けていた。スイッチを入れた神作真哉は、ホログラフィー画面に映し出されたニュース映像を右手で指差して、美空野に言う。

「もしかして、今かけてるのは、この人か」

 テレビでは、大きな和風の門の前に立つ報道陣を背後に、リポーターがマイクを握っていた。

『ええ、首都地検特捜部の係官たちが再び有働前総理の自宅に、続々と入っていきます。ええ、現在、有働前総理の自宅前から中継しています。今朝早く、首都地検特捜部が有働前総理大臣の自宅に家宅捜査に入ってから、すでに六時間近くが経過しています。昨夜のクーデター未遂事件と関係があるのかは、今のところ不明ですが……あ、出てきました。今、有働武雄前総理が出てきました。手錠を掛けられています! 逮捕! 有働前総理の逮捕です! ええ、スーツ姿です。厳しい表情ですが、整った身形で非常に、堂々としています。――え? 何? それ本当か。――ええ、只今、入手した情報によりますと、有働前総理を連れているのは、警視庁公安部特調……特別調査課の刑事たちのようです。ええ、特別調査課は有働前総理が総理大臣在職中に設置した治安調査部門で、国会でも度々、議論の対象となっていましたが、今、有働前総理は、その公安部特別調査課によって連行されています。実に皮肉な結末です。それから、首都地検と警視庁が足並みをそろえるというのは、実に異例で……あ、今、首都地検の車に乗り込みました。やはり、身柄は首都地検に移される模様です。車が報道陣に囲まれています。おい、ちょっと、どいてくれ! うわ、人が多過ぎて……』

 記者たちに揉みくちゃにされる記者の姿で映像は終わり、スタジオに切り替わる。その直前、一瞬だけ、赤上明警部の姿が映った。神作真哉は口角を上げて、テレビのスイッチを消す。

「そんな……」

 美空野朋広は子機を落として、呆然と立ち尽くしていた。

 石原宗太郎が口髭を触りながら言う。

「あらら。頼みの綱が切れちまったみたいだな」

 中村明史も言った。

「もう、この事務所も終わりだな。こりゃ」

 美空野朋広は町田梅子を睨みつけると、強く彼女を指差した。

「町田君。君は、自分のやっている事が分かっているのかね。君は、自分のボスを売ったのだぞ。警察権力に。そんな事をした弁護士を、どこかの事務所が雇ってくれると思うかね。君は、弁護士としては、もう終わりだぞ。それでもいいのか。考え直したまえ」

 丁度その時、両開きのドアの片方が静かに開き、オーバー・チェック柄のスーツを着た男が入ってきた。彼は悠然と歩きながら言う。

「いや、美空野さん。ご心配には及びませんよ。彼女はウチの事務所で引き取ります。ウチも手が足りないところでしたんでね。彼女のような、信頼できる有能な弁護士が来てくれると助かります」

「おまえ……」

 美空野朋広は、現れた時吉浩一弁護士を睨み付けた。ツカツカと美空野の前に歩いて来た町田梅子は、彼の執務机の上に汚い字で書かれた辞表を叩きつけるように激しく置くと、美空野に言った。

「時吉先生の事務所で、一から勉強し直させてもらおうと思っています。いろいろと、思考を修正する必要もありそうですので」

 戻っていく町田の背中を指差しながら、美空野朋広は剣幕を変えた。

「町田君……君は……そういう事か。相手方に寝返ったのか。事務所を裏切ったんだな。弁護士として一番やってはいけない事じゃないか!」

 三木尾善人の怒号が響く。

「馬鹿言ってんじゃねえよ。どっちにしても、テメエは逮捕されたんだよ。内乱の予備と陰謀でな!」

 美空野朋広は大声で叫んだ。

「私は、クーデターには関与してはいない!」

 三木尾善人は更に大声で怒鳴る。

「今更、シラ切ってんじゃねえ!」

 その退職前の老人とは思えないほどの大声に、美空野朋広は驚き、後ろに仰け反った。

 三木尾善人は美空野を鷹のような目で睨みつけながら、低く静かな声で言った。

「阿部に深紅の旅団レッド・ブリッグを動かすよう仕向けたのは、テメエだろう。調達局の津留と通じて」

 石原宗太郎が美空野に言う。

「諦めなって。津留栄又とか言う奴は、もう、軍規監視局が逮捕したそうだぜ。あそこには、外村監察官っていう優秀で立派な監察官がいるからな。今頃、取調室で搾られてるぜえ。全部吐くのも、時間の問題だな、こりゃ。ねえ、善さん」

 三木尾善人は美空野を睨んだまま頷いた。

「ああ。テメエがストンスロプ社の内部情報を津留に流していた事は掴んでいる。ノア零一の納入情報も、IMUTAがAB〇一八から離脱したがっている事も、そして、『パンドラE』の事も、顧問弁護士としてテメエが入手した情報を、全て津留に流していた。違うか」

 美空野朋広は、尚も首を横に振った。

「だからと言って、私がクーデターに関与したという事にはならん。私は関係ない!」

 三木尾善人は美空野を見据えたまま、不敵な笑いを浮かべた。彼は語り始める。

「どうかな。阿部や南の行動には、不自然な点がいくつかある。阿部亮吾は初めから、田爪を狙っていた。瑠香の墓を監視させたり、坂口というスパイを使って警察をコソコソ調べさせたりしてな。それに、『パンドラE』の奪取についても、新原に指示を出していた。つまり、『パンドラE』と田爪を使って、AB〇一八を支配下に置き、IMUTAと共にSAI五KTシステムの完全支配を目論んでいた訳だ。その阿部の部隊に秘密裏に武器の供給をしていたのが、調達局の津留だ。では、この二人がターゲットをSAI五KTシステムに絞ったのは何故だ。それは、AB〇一八が暴走しているという事を知っていたからだ。『パンドラE』を使って、その隙を突けば、AB〇一八とこの国の統治を手中に収められると考えた。ところがだ、IMUTAがAB〇一八から離脱しようと試みながらも、AB〇一八によってシステムへと引き戻されていた事実、つまり、システム全体が暴走するAB〇一八によって事実上支配されているという事は、ストンスロプ社、その中でも光絵会長とGIESCOの極一部の連中しか知らなかったはずだ。司時空庁の津田たちでさえも、その事実には気付いてはいなかった。勿論、俺たち警察もな。その他に事態に気付いてる人物がいたとすれば、考えられるのは、ASKITの高橋だけだ。それを、今から一ヶ月ほど前に、ここにいる文屋さんたちが命がけで取材して、我々国民に知らせようとしてくれた。しかし、何者かにより、取材記録は盗み出され、結局、国民が知り得たのは、SAI五KTのシステム不調で、IMUTAがダウンを繰り返している、という表面的事実と推論だけだ。つまり昨晩までは、AB〇一八が暴走している事実は、一部の者以外、誰も確定的には知らなかったはずなんだよ。それなのに、どうして阿部たちは、ASKIT襲撃の直後から、行動を開始しているんだ。外村監察官の捜査によれば、今回の戦闘で使用された深紅の旅団レッド・ブリッグの武器弾薬は、丁度その頃から調達されて、奴らが駐留する多久実第二基地に不正に貯め込まれてきたものだそうだ。そうなると、AB〇一八の暴走を関係者以外の誰も知らないはずの時分から、阿部と津留は、それを襲撃し占拠するための武器弾薬類を準備していた事になる。不自然だ」

 三木尾善人は、人差し指を立てる。

「そして、もう一つ不自然なのが、奴らが田爪健三を追っていたという点だ。田爪健三の生存の事実は、ついこの間、外務省の西田という調整官が南米の現地で真相を見抜くまでは、日本国内の誰もが予想だにしなかったはずだ。二〇二八年の第二実験以来、ずっと田爪は過去に行って別の時間軸の上に居ると思われていて、そこの永山さんが南米で発見した後も、その後すぐに死んだと思われていた。勿論、レコーダーの内容を聞いた人間も、田爪は死んだと思うはずだ。つまり、南正覚も。田爪健三の生存を知っていたのは、国内ではおそらく、ただ一人。光絵会長だけ。彼女は二〇〇三年にやって来たタイムマシンを見つけている。その後、現在に至るまでにタイムマシンが現実化すると、第二実験以来、消えた田爪が地球上のどこかでタイムマシンを製造しているという確信を持っていたはずだ。そして、光絵会長はその事を誰にも秘密にしていた。以前から、陰でパノプティコンという秘密結社を利用して、イヴンスキーという国際犯罪者に田爪の居所を探させていたんだ。こっそりとな。だから誰にも言わずに隠していた。いや、言えなかったのだろう。つまり、彼女以外は誰も田爪の生存と日本への帰国は知らなかったはずなんだ。それなのに阿部は、坂口や部隊の者を使って、田爪の居所を探していた。GIESCOに突っ込ませた赤鬼の部隊も、田爪を探し出して確保させる為だったようだ。まるで田爪が生きている事を知っているかのようだ。いや、どれも田爪の生存が前提となる作戦だ。そうなると、少なくともASKIT掃討作戦の直後から準備を始めていた阿部や津留は、田爪の生存を我々よりも、ずっと前から知っていたという事になる」

 下を向いた三木尾善人は、立てた人差し指を振りながら言った。

「まだ不自然な事があるぞ。真明教のハッキングだ。奴らはGIESCOにハッキングをかけて、『パンドラE』の在り処を探し出そうと必死だった。このハッキングも、ASKIT襲撃事件の直後からだ。ところがだ、南は二〇〇三年の事故現場から、永山さんのレコーダーを盗み出している。つまり、その中の田爪や永山さんの発言内容から、二〇三八年からタイムマシンがやって来た事も、量子銃や量子エネルギープラントの設計図を記録したバイオ・ドライブがマシンに積まれていた事も、全て知っていたはずだ。それなのに南は、教団設立後も、バイオ・ドライブもタイムマシンも探そうとはしなかった。理由は簡単だ。奴は、それらに関心が無かったのだろう。予言を利用して宗教団体を作り、金を集め、医療や福祉に貢献する。偽の予言で人々を騙して金を集めた点は、決して肯定する事は出来んが、社会貢献が奴の犯罪の目的で、実際に奴がそれらを実践してきたのも事実だ。高度な科学技術は専門家に任せ、世の中に普及させようと考えていたとしても、不思議ではない。だが、その南が、一ヶ月くらい前から、急に『パンドラE』を探し始めた。欲に目が眩んだと言えば、そこまでだが、奴は、教団が赤字であるにもかかわらず、南米の戦争難民の救済や、国内の医療法人や学校法人に金を回している。俺には、奴が物欲で動いたとは思えん。どうも不自然だ。南が『パンドラE』の探索に取り掛かったのは、それが世の中の為になると考えたからじゃないのか。もしかしたら、それを使えば、AB〇一八の暴走を止められると、誰かに吹き込まれたのかもしれん」

 三木尾善人は美空野を睨みつける。視線を逸らした美空野に向けて、三木尾善人は続けた。

「南正覚については、もう一つ。南は何かに怯えるように、自分の身の回りの物を全て防弾仕様にしていた。おそらく第一は、田爪の報復を恐れての事だろうが、その南は、テメエとの会話の中で、田爪健三が殺される事までは望んでいない節の発言をしている。これは、人類の救済に田爪の力と『パンドラE』が必要だと思っていたからではないか。そう考えれば、辻褄が合う。ウチが集めた情報によれば、防弾ガラスとボディーガードに囲まれていた南は、消された当日、一人で繁華街のネイルサロンに行こうとしていた。信者の女性に並ばせて予約までさせてな。俺の考えはこうだ。南智人は、自分の命を狙うかもしれない田爪の居所を明確に知り、田爪がその時、どこに居るかを把握していたから、安心して、一人で出かけた。という事は、その居所は、田爪が簡単には出られない場所だ。そして、田爪健三は、実際にGIESCOに幽閉されていた。つまり、南は田爪健三が確実にGIESCOに居る事を、知っていた。勿論、その事は、テメエとの会話の記録から明らかになったがな。ところが実際には、田爪健三はGIESCOから逃亡し、南の前に現われた。南正覚は、さぞ驚いたと思うぜ」

 三木尾善人は、美空野の執務机の角に腰を載せると、机の隅に置かれている飾り箱に目を向けた。彼は再び美空野を見て、言う。

「ちなみに、『パンドラE』というコード・ネームだが、光絵会長によれば、この『パンドラ・コード』は、二〇二〇年頃にストンスロプ社が高橋諒一から、もう一台のバイオ・ドライブを取得した頃からGIESCO内で使用されるようになった、識別用のコード・ネームらしい。南がレコーダーを手に入れたのが二〇〇三年、予言を始めたのが二〇二一年あたり、そして真明教団設立が二〇二三年。南が『パンドラE』を探し出したのが、二〇三八年、ついこの前からだ。南は、『パンドラE』が、自分が見たタイムマシンに乗せられていたバイオ・ドライブの事だとは、知らなかったんじゃないか。誰かが、その事実を知らせるまでは」

 三木尾の凝視に押されたかのように一歩下がった美空野を見据えながら、三木尾善人は話し続ける。

「つまり、AB〇一八の暴走の事実と田爪健三の生存、居所、そして『パンドラE』の正体を、阿部と津留、そして南に知らせた奴がいる。だとすれば、そいつは光絵会長の周囲の人物で、隠蔽されていた極秘事項についての情報を入手する事ができ、かつ、バイオ・ドライブの存在を以前から知っている者。そうなると、容疑者となる人物は、限られてくるよな」

 三木尾善人は机の角から腰を上げ、美空野の前にゆっくり歩いて行く。

「ところで、ストンスロプ社の顧問弁護士法人の所長で、南正覚の顧問弁護士でもある美空野先生よ。あんた、南との会話のとおり、実際に、一昨日の晩に、GIESCOに行っているな。田爪健三が姿を消し、南智人が肉体を消す前の日の晩に。GIESCO館内の哨戒システムの監視記録によれば、その夜、テメエは館内に入ると、真っ直ぐに八号棟のシャワー室に向かっているが、監視カメラの設置されていないシャワー室に何故、直行する必要があった。まさか、風呂に入りに、わざわざ世界一の研究施設まで車をとばした訳じゃないだろう」

「いや……それは、特別な用があって……」

 三木尾善人は美空野の発言に被せて言った。

「田爪だ。田爪健三に会うためだ。GIESCOの二号棟に幽閉されていた田爪は、毎晩、同時刻に監視員の親切で、共に別の棟に移動していた。シャワーを浴びるために。それが八号棟の当直ブロックだ。テメエは、それを知っていたんだ。だから、八号棟のシャワー室に直行した。違うか」

「何故、私が……田爪博士がそこに居た事を知っているんだ。私は、別の人間を探しに行っただけだ」

 三木尾善人は美空野に詰め寄った。

「じゃあ、それは誰だ。あん? どうした、言ってみろよ」

「ああ、いや、それはだな……」

 美空野に顔を近づけた三木尾善人は、大声で怒鳴った。

「人がテメエの悪事を苦労して調べ上げて、推理してやってるんだ。黙って聞け!」

 部屋中に怒声を響かせた後、三木尾善人は美空野から顔を離し、横を向いて再び語り始めた。

「おそらくテメエは、何らかの事情で、ストンスロプ社内に『パンドラE』というモノが存在する事を知った。予てからストンスロプ社を手に入れる事を狙っていたテメエは、それが何かを調べた。そして、AB〇一八の暴走の事実を知り、『パンドラE』は、その制御装置だと考え、そのように津留と阿部にも情報提供した。だから奴らは『パンドラE』を使って、AB〇一八をコントロールしようと計画したんだ。それから、顧問弁護士としてストンスロプ社の会計資料を見る事が出来たテメエは、GIESCOが急に新型兵員輸送機『ノア零一』の改良を進めている事、そして、既にエネルギーパックの開発に成功していた事実に気付いた。おそらく、匿名の研究員一人の増員も。それが田爪健三だと気付いたテメエは、田爪の生存を南正覚に知らせ、恐怖心を煽り、その南を使って、『パンドラE』の所在を探らせた。おそらく、その見返りは、田爪の所在を南に知らせてやる事だったんだろう。その後、南が『パンドラE』の所在について見当をつけた事を知ったテメエは、用済みとなった南を田爪に殺させ、『パンドラE』の所在場所を阿部と津留、あるいはネオ・アスキットの連中に知らせた」

 美空野朋広は強く反発する。

「ネオ・アスキットなど知らん。それに、どうして、南を殺させる必要があるんだ。私の依頼人だぞ」

 三木尾善人は美空野の作り顔を一瞥して鼻で笑うと、再び語り始めた。

「例のICレコーダーに保存されていた未来の出来事は、もはや過去になっている。だから南正覚は、もう予言が出来ない。さらに、司時空庁のタイムトラベル事業も凍結。おまけに南米で難民救済の為に散財した教団は、多額の借金を抱え赤字経営続きで先が無い。顧問報酬の支払いも滞り気味。つまり、もう南智人に利用価値は無い。テメエは、そう考えた。そこで、南が田爪の復讐を恐れていたのを知っていたテメエは、シャワー室で田爪に、『瑠香のタイムマシンでの渡航は、真明教の南正覚により仕組まれたものだった』とでも吹き込んだんだろう。そういう事を知らせれば、田爪なら南を抹殺するはずだと、テメエは予測したんだ。そして、田爪がテメエの予想通りに南を消して雲隠れすると、今度は津留に、田爪の失踪が千載一遇のチャンスであるかのように偽り、AB〇一八の占拠と『パンドラE』の回収を勧説して、決起するよう焚きつけた。津留は阿部にAB〇一八への出動を指示し、阿部は新原に『パンドラE』の回収を命じた。まあ、テメエとしては、このクーデターが成功しようが失敗しようが、どっちでも良かったんだろうがな。成功すれば、津留や阿部の統治下となる世界で、それなりの地位を確保できる。もし失敗しても、あの阿部亮吾の事だ。自決する事は必至だと踏んだんだ。仮に津留が逮捕されても、自分が弁護してやればいい。恩も売れるし金も入る。そして、ストンスロプ社の顧問弁護士として、事後処理に奔走すれば、それなりに一儲けできる。おまけに、ストンスロプ株まで安値で買い取れる。最終的には、ストンスロプ社はテメエの手中に入る。そして、また、金儲けができる。まあ、テメエが考える事なんざ、どうせ、その程度の事だろうよ」

 鼻で笑った三木尾善人は、美空野に軽蔑的な視線を向けた。

 美空野朋広は額に無数の玉汗を浮かべながら、目を泳がせていた。



                  八

 神作真哉がソファーに凭れたまま、隣の永山に言った。

「見ろよ、永山。あいつ、汗すげえな。警部さんの推理、ドンピシャだったんじゃねえの」

 その後ろで小久保友矢が、荒れ狂う狼のような顔で前に出ようとする岩崎を必死に抱き押さえていた。

 美空野朋広は足を震わせながら、強く何度も三木尾を指差した。

「す、すべて君の推理と憶測じゃないか。証拠があるのか、証拠が」

 石原宗太郎が松葉杖に体重を掛けながら言う。

「だから、その証拠を探すために、今、下で家宅捜査をしているんじゃねえか。いいか。警察が本気を出せばな、大概のことは判るんだぞ。何もかもな。腹くくっとけよ」

 三木尾善人は目線だけ美空野に向けて話した。

「ちなみに、ここまで来ると、ネオ・アスキットというもの自体が、組織として実在していたのかさえ、疑わしいな。視点を変えれば、全てテメエを経由した情報伝達だもんな。発信元が別に存在するとしても、テメエが絡んでいるのは確かだ。ちなみに、阿部も津留も、新原も、自分がネオ・アスキットの頭領だとは思っていなかった。津留も新原も、そういう組織が存在する事を前提に、その一員として動いていた。だが、公安も国防省の情報局も、その組織の正体を解明できていない。もし、実在しない組織なら、警察や軍が必死に調べても、実態が掴めないというのも当然だ。本当は、テメエが津留や阿部、新原、南を動かす為の作り話なのかもしれねえな」

「何を馬鹿な。私が動かしていただと? 私ではない!」

「じゃあ、誰か他にいるのか?」

「津留局長も南も、私の唯の依頼人ではないか。南とは多少の深い繋がりがあった事は認めよう。確かに、ストンスロプ社の違法行為も懸念はしていた。だが、私はそれを摘発する為に動いていただけだ。それに、その事と、津留局長や阿部大佐が起こしたクーデターと何の関係があるんだ。新原という人物など、知りもしないよ。依頼人の個々の犯罪行為を顧問弁護士に擦り付けられては、たまったものではない。まして、ネオ・アスキットなどと、私といったい何の関係があると言うんだ!」

「新原を知らないだと。あいつは、ストンスロプ社の件でテメエに苦情を申し立てられたと言っていたぞ。真明教の件でも」

「いや、それは……」

 石原宗太郎が美空野に尋ねた。

「お前の自宅で、今ウチの捜査チームが何を探していると思う」

 三木尾善人が知らせた。

「花だよ。あるいは、極微量の花粉。あの刀傷の男が持っていた、花さ」

 神作真哉と永山哲也は顔を見合わせた。

 神作真哉は永山に言う。

「刀傷の男って、アイツか?」

「ええ、たぶん。捕まったのですかね。ようやく」

 浜田圭二が言った。

「死んだぜ。GIESCOで。あっけ無くな」

 岩崎カエラが鼻を膨らませて美空野を睨みながら神作に知らせる。

「今、警視庁の科捜研が検視解剖しているわ。遺体の損傷が、かなり激しいけど、彼の所持品の中に、この花があった」

 彼女は白衣のポケットからビニール袋に入れられた青い花を取り出し、神作に見せてから、美空野の方に突き出すように提示した。

 石原宗太郎が美空野を睨みながら言う。

「ジニアって言う花らしいな。鑑識の奴らが言っていたが、その中でも、この色は随分と珍しい品種らしいぜ。そう何処にでも咲いているものではないそうだ。そんなんだろ、カエラさん」

 岩崎カエラは小久保に後ろから押さえられたまま、必死に冷静に答えた。

「ええ。ウチの植物の専門家の話では、色素配列を人為的に再構成させた合成品種だそうよ。値段も高く、市場にはあまり出回っていない。元は白の品種らしいけど、先日調べた植物DNAの配列も、かなり特殊なものだったわ。広い幅の温度差に対応できるように改良されている。それに、繁殖力も強い。外観はジニアだけど、ジニアとは言えないわね。遺伝子的には、ほとんど雑草に近い。要するに、あんたと同じね」

 岩崎カエラは美空野を指差した。

 石原宗太郎が言う。

「そう言えば、そこの探偵さんが言っていたが、あんた、新志楼中学に毎年、花の苗を寄贈してるんだって? なんでも、それ、珍しい花らしいじゃねえか。生徒さんたちが頑張ってくれて、今も葉路原丘公園の花壇に植えてあるんだよな。品種改良型のジニアが。どうした。顔色が悪いぞ、ポマード親父」

 浜田圭二が後に続ける。

「昔、刀傷の男が犯行現場に置いていった花と、新志楼中学の生徒さんが俺に投げつけた花、つまり、あんたが自宅で栽培してたって言う、その寄贈した花の苗、この二つの植物DNAを鑑定してもらったぜ。俺に惚れているこの女にな」

 浜田圭二に指差された岩崎カエラが挙手をする。

「はい、そこ訂正。誰が惚れてんのよ」

 浜田圭二はハットを少し下げた。

「まあ、そんな事はどうでもいい……」

「よくないわよ。あのね、変な誤解を生むような事は……」

「ゴホン、ゴホン」

 三木尾善人が大きく咳払いをした。岩崎カエラは口を尖らせて黙る。彼女はやっと落ち着いたようだった。

 彼女を見て片笑んだ浜田圭二は、美空野に顔を向けて話を続けた。

「とにかく、これらの花の植物DNAは全て一致した。完全に。美空野先生よお、あいつ撃たれる前に言ってたぜ。『次の再就職先が決まったばかり』だってな。まさか、それって先生の事じゃないよなあ。神作たちの会社から取材記録を盗んだのって、あの刀傷野郎だろ? マズイもんなあ、あの記事が世間に出回っちゃあ。AB〇一八が時の流れを影で操っているかもしれないっていう記事だったんだろ」

 永山哲也は浜田の方を見て大きく頷く。

 神作真哉が小声で永山に言った。

「あれ、やっぱり、あいつの仕業だったんだな」

 浜田圭二は美空野に言う。

「そんな事が世に知れたら、SAI五KTシステムのもう一つのスーパーコンピュータを作ったGIESCOに、絶対にとばっちりが来るもんなあ。NNJ社もNNC社も事実上倒産したからねえ。世間の批判はGIESCOに集中する。後は先生の大口顧問先であるストンスロプ社がバチかぶりだ。へたすりゃ大型倒産。買い集める予定のストンスロプ株は、本当に紙切れになってしまう。そうなると、これ、入ってこないよねえ」

 浜田圭二は、指先を擦り合わせて見せた。明らかに金銭を数える仕草だ。

 美空野朋広は強く首を横に振った。

「し、知らんぞ。知らん、知らん。全部、でっち上げだ。私は、そ、そんな花、見た事も無い! にょ、女房だ。私の妻が、どこかに勝手に寄贈して……」

 三木尾善人は大きく溜め息を吐くと、ソファーに座っている神作と永山に視線を送った。

 視線を受け止めた永山哲也も大きく溜め息を漏らす。

「はあ、仕方ないですね……」

 神作真哉は立体パソコンを操作しながら呟いた。

「できたら、避けたかったんだが……」

 立体パソコンから光が放たれた。空中にホログラフィーが投影される。制服姿の女子中学生が両足を肩幅に開き、右の拳を天に突き立てていた。

『たらららラッタラー。永山由紀氏、降臨! うわっ』

 由紀が押し飛ばされて横に消える。画像が一時乱れた後で、右腕を腰の横に構え、左手を右肩の方に真っ直ぐ伸ばしてポーズをとった、左右に三つ編みを垂らした女子中学生のホログラフィー画像が投影された。

『朝美氏、参上。シャキーン!』

 ソファーに座っている二人の父親は、項垂れた。ホログラフィー画像に横から飛び込んできた由紀の姿が一瞬だけ映ると、二人の姿が混ざり合って、ぐにゃぐにゃの粘土のような形になる。

『わ、ちょっと、由紀。ホログラフィー通信は一人ずつだって』

『合成合体星人、ユキアサミン! ぐにょろろろ』

 神作真哉が言った。

「おい、大事な話をしてるんだ。ちゃんとしろ」

 横から立体パソコンの前に顔を出した永山哲也が言う。

「由紀はちょっと退いてろ。まず、朝美ちゃんからだ」

 宙に浮いた粘土のような物体は笑う。

『くくくく、パパと由紀のお父さんが合体してる。ピカソの絵みたいになってますぞ。くくく』

『オジサン二人の合成映像。ひひひひ、うける、死ぬー』

 神作真哉と永山哲也は顔を見合わせた。ソファーの後ろで岩崎カエラが軽く吹き出す。

 永山哲也は、ばつが悪そうにして立体パソコンを応接テーブルの端に移動させると、ホログラフィー通信用のカメラが横に向くように置いて、マイク部分に顔を近づけた。

「朝美ちゃん、例のコスプレ遠足の時に植えた花の苗、あれを学校に寄贈してくれた人の顔は分かるんだよね」

 由紀が退き、ホログラフィー画像ではっきりと映し出された制服姿の山野朝美は、背筋を正して敬礼した。

『は。勿論であります。校長室の隣の応接室と、そこからちょっと行った先の反省室に、知らないオジサンが校長先生に花の苗を渡している写真が飾ってあるのを見た事があるであります。自分は、この前、応接室の中で国防省の総務三連発の人たちに長い時間怒られまくったでありますから、その写真はよーく見ているであります! 由紀氏も自分と同じく、反省室の常連でありますので、そのオジサンの顔はよーく目に焼きついて……』

「もう、いいから。――とにかく、その人の顔は見れば分かるんだね」

『は。ばっちり分かりますです。はい』

 永山哲也は三木尾に顔を向ける。

 三木尾善人は美空野に、顎で立体パソコンの前を指した。

「ほら、早くその前に立て」

 美空野朋広は躊躇して動かない。

 石原宗太郎が彼に言う。

「どうせ写真があるなら、同じ事だろうが。『面通し』くらい、さっさと終わらせてくれよ」

 浜田圭二が美空野の背中を押して突き飛ばした。

「行け、オラ!」

 美空野朋広は躓きかけてヨタヨタと前に出ると、応接テーブルの上の立体パソコンの前で立ち止まった。目の前で浮かんでいる山野朝美のホログラフィー画像が腕組みをする。

『お、映りましたぞ。――うーん……んん……んんん……事件の鍵は、ここに……』

 山野朝美は口をへの字に引き垂れて、眉を寄せている。

 神作真哉が言った。

「遊んでないで、さっさと答えろ。どうなんだ」

 山野朝美はポンと両手を叩くと、真っ直ぐに前を指差した。

『間違いない。このオジサンだ。私たち善良な中学生に、都営の公園の花壇整備作業をさせて、無賃労働させたのは、このオジサンです。ね、由紀。交代、交代』

 ホログラフィー画像が一瞬乱れ、再び永山由紀の姿が投影される。

『いやあ、どうも、どうも。本日はお日柄もよろしく……ああ! ホントだ。このオジサンだ。私たちか弱い中学生に炎天下で農作業させて、都から感謝状とかを貰ったりしてんのに、生徒たちにジュースもアイスも奢ってくれない、けちんぼオジサンだ。この人です、この人!』

 浜田圭二はニヤニヤしながら下を向く。

 時吉浩一は呆れ顔で首を横に振った。その隣で、町田梅子は怪訝な顔で、ホログラフィー画像を見つめている。

 永山由紀と山野朝美は、交替でホログラフィー画像に映し出されると、美空野の方に向かって、スキップして見せたり、頭の上で手を振りながら舌を出したり、お尻を向けて叩いて見せたりしていた。

 永山哲也は立体パソコンのスイッチを押して、ホログラフィー通信を切った。モンキーダンスを踊る山野朝美の姿が停止し、消える。ソファーの背もたれに凭れて、両肘を背もたれの上に載せた神作真哉は、天井を見上げて何度も瞬きした。永山哲也も安堵したように、大きく息を吐く。岩崎カエラは必死に笑いを堪えていた。

 石原宗太郎が松葉杖に凭れて、隣の中村に耳打ちする。

「制服でよかったな。また、この前みたいな変なコスプレで投影されたらどうしようかと思ったよ」

 中村明史も小声で答える。

「ホントですね。後の裁判で証言時の精神状態が問題になるかもしれませんからね」

「ていうか、お父さん二人と善さんが気絶したかもな」

「ですね」

 若い刑事二人はニヤニヤと笑っていた。



                  九

 美空野朋広は周りを囲まれたまま、黙っていた。

 三木尾善人が美空野を指差す。

「テメエ、随分と前から、あの刀傷の男と繋がりがあったんだな。奴が以前、ASKITに雇われていた鼠だという事は、公安当局も掴んでいるようだ。まさか、ASKITを動かしたのも、テメエじゃねえだろうな」

 美空野朋広は精一杯に作り笑顔を浮かべながら、顔の前で手を振った。

「そ、そ、そんな馬鹿な。出来る訳ないだろう、そんな事……」

 浜田圭二が言った。

「じゃあ、俺の親父はどうだ。まさか裏でおまえが……」

「ハマッチ」

 岩崎に呼ばれて、浜田は足を止めた。岩崎カエラは浜田に真顔を見せて、首を横に振る。浜田圭二は深く息を吐いてハットを下げた。

 美空野朋広は声を震わせながら言う。

「し、知らん、知らん、知らん。私は何も知らんぞ」

 三木尾善人は美空野の目を見たまま言った。

「そうかい。だが、一つだけ言っておこう。あの刀傷の男はかなりの凄腕で、どんなセキュリティーも突破して、何処にでも侵入し、その痕跡は、自分が置いた切り花以外は何も残さないらしい。だが、奴が痕跡を残さないとしても、奴と接触した人間は、奴に痕跡を残していないのかね」

 中村明史が首のギプスを少し整えてから言った。

「GIESCOに残されていた彼のAI自動車が押収されました。派手な黄緑色で、外装は二〇一〇年代のスポーツカー。さっきカエラさんが見せた花も、その車内に残されていた物です。その車のAIの保存データから、その自動車の移動記録が解析されたんですよ。これまで、ここの事務所を、その車と、彼が所有する他のAIスポーツカーが頻繁に訪れていた事が分かっています」

 美空野朋広は汗を流しながら反論した。

「そ、それは、その車が、その時、そこを通ったと言う事の証明でしかない。誰が乗っていたかまでは、分からんじゃないか」

 石原宗太郎が舌打ちした。

「チッ。往生際の悪い奴だな。今時のAI自動車は、全て生体認証式のバイオ・キーだろ。ドアロックもエンジンスタートも。全部、記録に残ってるんだよ。指紋と表皮DNAの即時識別情報がさ。誰がドアを開けて、誰が運転していたか、ばっちり特定できる訳よ。場所も時間も。分かる?」

 中村明史が続ける。

「何台所有していても、各AI自動車内の保存情報は、所有している全車両間で共有されますから、全て分かるんですよ。ご存知ありませんでしたかね」

 時吉浩一弁護士が石原と中村に言った。

「他人に運転ばかりさせているから、知らないんですよ。この人」

 美空野朋広は論理的に切り返そうと、必死になった。

「だとしても、証明できるのは、その刀傷の男が、その車で私の自宅や事務所の傍まで来たという事実に過ぎんじゃないか。車を近くに停めて、別の場所に行ったのかもしれんだろ。それだけで……」

 三木尾善人が呟いた。

「自宅の話はしてないがな」

 ハッとしたような顔を三木尾に向けた美空野に、中村明史が淡々と話した。

「それと、その車の記録を追いかけて、彼の活動拠点というか、セーフハウスというか、要は、奴が持っていた幾つかの寝床の場所が判明したんです。全国に点在していました。AI自動車も、他にも何台も所有していたようです。この数日で、そのうち二台を潰しているようですが、残りは全て押収しました。無登録の車両も数台含まれています。これから、警視庁の科捜研が徹底的に分析しますよ。それから、先ほど、それぞれの地元の県警が全国の奴の寝床に一斉家宅捜索に入ったばかりですが、彼はその場所の一つに、これまでの依頼人との会話や受けた指示、盗み出した資料などのコピーを、全て電子データにして保管していたようです。丁寧に整理して。データには複雑パスワードによる高度なロックが掛けられていましたが、こちらの二人の先生たちが、あっさりと解読してくれました。さすがです」

 岩崎カエラは白衣のポケットに手を入れて、つんと澄まして顎を上げる。

 中村明史は話を続けた。

「つまり、我々警察としては、彼のこれまでの犯行に関する一部始終の記録情報を入手できた訳です。十年分近くあるそうですので、細かな内容の解析には少し時間が掛かると思いますが。おそらく、あなたとの会話や、あなたからの指示書の類も出てくるはずです」

 石原宗太郎が大きな声で言う。

「ありゃー。パシリを使うんなら、もう少しズボラな奴にしとくんだったな。あいつ、侵入した場所に、自分が侵入したぞっていう目印を残していくタイプだもんね。自己顕示欲丸出し。諜報に成功した記録をコレクションにして保管していても、不自然じゃないよな」

 美空野朋広は顔を顰めて呟いた。

「あの馬鹿……」

 浜田圭二が耳の後ろに手を立てて、美空野に向ける。

「はい? 今、何か言いました? 聞こえたぜ。『あの馬鹿』だって?」

 神作真哉が言った。

「知ってるんじゃねえか」

 隣の永山哲也が美空野を蔑視しながら神作に言う。

「こりゃ、終わりましたね。アウトですね。完全に」

「何も言っとらんよ」

 美空野朋広が白々しくそう言うと、町田梅子が高く右手を上げた。

「はい。私、証言しまーす。今、確かにこの人は、『あの馬鹿』と呟きました。この耳で、確かに聞きました。間違いないです」

 神作真哉が呆れ顔で美空野に言った。

「それにしても、あの野郎、几帳面というか、丁寧というか。ウチの会社に潜り込んだ時も、花以外には何にも痕跡を残さないんからな。ま、それくらい細心の注意を払う奴だから、高度のセキュリティーを破って、何処にでも侵入できたんだろうけど。そりゃ、そういう奴なら、依頼人との会話や記録を残しておくよな。万が一の保険として」

 三木尾善人はベルトに左右の手の親指を掛けて立ちながら言った。

「ま、それ以外にも今日の、ここやテメエの自宅の捜索で、一連の事件についてのテメエの教唆と指示を客観的に証明する物証が完璧に揃うはずだ。法廷で事実関係を争うのは諦めた方がいい。そうなると、後は……」

 彼は町田の方を見る。

 町田梅子は一度、時吉と目を合わせた。時吉浩一が頷く。町田梅子は美空野の方を向いて、彼に滔滔と述べた。

「争えるとすれば、法律解釈の部分だけだと思いますが、裁判所がどの学説を採用したとしても、全ての公訴事実について、検察官の訴因判断どおりの有罪判決が出るのではないでしょうか。これで一つでも無罪が成立する可能性があるなら、検察官の能力の問題か、法の正義は無いという事になってしまいますが、そういった事は無いはずですから。そうなると、後は量刑の問題ですが、本件の場合、法定減刑を論じる意味はあまり在りませんし、情状を求めるに足る事実が存在しない以上、酌量減刑も見込めませんね。したがって、検察官の求刑通りの判決が下される可能性が大きい。どう見ても、どの起訴された各犯罪行為についても、その法定刑のうち最高刑を持って臨むべき事件でしょうから、最終的に、その法定刑の最も重いものという事になります。訴因となる犯罪の中に内乱罪が含まれている以上、量刑についてこれ以上考察しても意味がありませんね。内乱罪の最高刑は、『死刑』ですから。この言葉を口にするのは最後にしますが、一応、言っておきます。私は個人的に、それが『妥当な結論』だと思っています。あくまで、直感的な感想ですが」

 そう、はっきりと述べた町田梅子は時吉浩一の顔を見た。時吉浩一は黙って深く頷く。

 三木尾善人は、諭すように美空野に言った。

「探していた『パンドラE』は、テメエにとっては、本当に『パンドラの箱』になっちまったな。但し、箱の中に『希望』は残っちゃいないがな。『E』は、やっぱりEND(エンド)の『E』だったって事さ」

 下を向いて拳を握り、歯軋りをしながら立ち尽くしていた美空野朋広は、三木尾の発言を聞いて、ふと、顔を上げた。

「――パンドラの箱か」

 美空野朋広は姿勢を正し、大股で執務机の方に歩いて行く。三木尾を押し退けて先に進み、机の前に立った彼は、机の隅に置かれていた飾り箱を持ち上げると、振り向いた。

「そうかね。では、私も『パンドラの箱』を開けるとしよう。反対証拠として物証を準備してある。それが、これだ。今、ここで皆さんに提示するよ。暴論を説くのは、それを見てからにしてくれるかね、諸君」

 浜田圭二が首を傾げる。

「物証?」

 美空野朋広は笑みを浮かべながら頷いた。

「そうだ。国家権力は恐ろしい。信用ならん。こんな事もあろうかと思ってね、私も保険として用意しておいたんだ。自分の無罪を証明する物をね。それを見れば、君たちも私の逮捕を断念せざるを得ないだろう」

 美空野朋広は飾り箱を高く掲げて言う。

「それは、この中に入っている。津留局長から入手したものだ。これで私の無罪を証明できるはずだ。町田君、君も弁護士だ。こっちへ来て、中を確認したまえ」

「嫌です。どうせ、奥さんの誕生日にプレゼントする予定だった変態グッズなんでしょ」

 美空野朋広は町田を見据えて言った。

「何を言っているんだ。ちゃんと中を確認して、法曹としての君の意見を聞かせてもらえんかね」

「なら、僕が確認しましょう。僕も弁護士ですから」

 そう言って前に出た時吉に、美空野朋広は広げた手を突き出して制止した。

「いいや、駄目だ。この事務所に勤務している町田君でないと、判らないものだからね」

 町田梅子は時吉の前に出ると、美空野の方に歩いていった。

「やめとけ、先生」

 浜田圭二が忠告する。

 町田梅子は首を横に振った。

「いいえ。一応、逃げるのも、しゃくですから」

 小久保友矢は少し前に出て、さり気なく岩崎の盾になった。石原宗太郎と中村明史は視線を合わせると、上着の裾に手を掛ける。三木尾善人が二人に視線を送り、小さく首を横に振った。浜田圭二は歩いていく町田を目で追いながら、眉を曇らせる。

 美空野朋広は町田梅子が前に来て立ち止まると、後ろを向いて執務机の上に飾り箱を置いた。そして、町田に手招きする。町田梅子は美空野の隣に移動して、その飾り箱を覗き込もうとした。その時、美空野朋広は素早く町田の首に腕を回し、彼女を羽交い絞めにして振り返った。彼の右手には黒い拳銃が握られていた。



                  十

 時吉浩一が反射的に叫んだ。

「町田先生!」

 町田の薄茶色の髪の上から頭に拳銃を押し当てた美空野朋広は、町田の首に腕を回して後ろから拘束したまま、勝ち誇ったような顔で言った。

「そう、これが、私が用意していた保険だ」

 浜田圭二がハットを少し下ろして俯きながら呟く。

「ほらな。言わんこっちゃない」

 岩崎カエラは髪をかき上げながら、嘆息を漏らした。

「はあ。やっぱ、悪者って、やる事が同じね。ワンパターン」

 町田梅子は美空野に首を掴まれたまま、背後の美空野に言った。

「変態グッズじゃなかったのね。でも、やっぱり最低……」

 神作真哉が深刻な顔をして隣の永山に言う。

「おい、ちょっとコレ、やばいんじゃないか。あれ、本物の銃だよな」

「ですね。それに、この状況だと、やっぱり、撮影とか無理ですよね。キャップ……」

「だな。また、スクープを逃したな。どうする、うえにょが怒るぞ。まあ、いいけど」

「ノンさんにも叱られるんじゃ……」

「そっちは、よくねえな……」

 ソファーで座ったままの二人と、立ち尽くしている周囲の人間を見回して、美空野朋広は鼻で笑った。

「町田君。常に、あらゆる事態を想定して準備する事が出来なければ、この世界では生き残れんぞ。私にとっては、これも想定の範囲内だ」

 三木尾善人はそっぽを向いて言った。

「それは、どうだろうな。その辺でやめといた方がいいんじゃないか」

 美空野朋広は拳銃を町田の側頭部に押し付けたまま、三木尾を睨み付ける。

「やめる? どうして。――警部。あんた、若い頃に司法試験を諦めたんだってな。噂には聞いているよ。それで警察官に転身したんだって? 私は違うぞ。諦めなかった。何が何でもの思いで、弁護士になった。多額の借財をして、ロースクールに通ってな。そして、苦労して借金を返し、ようやく、今のこの地位にまで登りつめたんだ。財も築いた。私はまだ諦めんぞ。どんな困難とも戦える。君とは違うのだよ。その違いが何か分かるかね」

「知らんよ」

 三木尾善人は耳に小指を入れて掻きながら答えた。

 美空野朋広は、したり顔で言う。

「動機だよ。私には、明確な動機がある。具体的な動機がな。そこが君たちとは違う。だから、諦めん。これからも闘ってやるぞ。どんな困難とも闘う。どんな権力ともな。最高裁とも、日弁連とも。もちろん、警察や検察ともだ。私は権力には屈しないぞ! 闘いをやめたりはしない。こうして闘い続けるんだ!」

 浜田圭二がハットを被り直しながら言った。

「なあ。そういう類の発言は、もっと自分が優勢になってからした方がいいぞ。見てみろ、町田先生、怒っちゃってるじゃないか。そりゃ、そうだよな。あんたが無実の証拠だっていうから、確認しにあんたの近くに行ったのに、そのあんたからこんな目に遭わされたんじゃ、たまったものじゃない。怒るよな、そりゃ」

 人質になった町田梅子は鼻を膨らまし、茹で蛸のように顔を紅潮させている。額からは湯気が立っていた。

「こんのお……ゴチよ、ゴチで切れたわ。他人の善意に拳銃で答えるたあ、どういう事よ! あなた。絶対に訴えてやるから、覚えてなさいよ。刑事裁判の判決が出る前に、民事でボコボコにしてやる!」

「ふっ。それは楽しみだよ。だが、私と共に逃げる事になる君が、どうやって裁判を起こすのだね」

 岩崎カエラが白衣に付いた毛玉を取りながら言った。

「あんた、もう、ただの略取犯ね。人質事件じゃない、これ。この犯罪者」

 美空野朋広は堂々とした態度で言い放った。

「これは正当防衛だ。自分の権利を守るためのな。許容された範囲の自力救済だよ。犯罪ではない」

 そして、羽交い絞めにした町田ごと石原と中村の方を向いて、大声で叫んだ。

「刑事共は三人とも、持っている銃を捨てるんだ。早く! それから、ヘリを呼べ! 何をしている!」

 石原宗太郎が松葉杖に凭れたまま、面倒くさそうに尋ねた。

「ヘリでどこに行くんだよ」

「海外だ。不当な国家権力が及ばない海外に出れば、私を支援してくれる人間は、いくらでもいる。私は、グローバルなレベルで人脈を持っているんだ。私は諦めん。海の向こうから闘うぞ。そして、必ず帰って来る。勝者としてな」

 三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着のポケットに、ゆっくりと手を入れた。透かさず、美空野朋広が三木尾に銃を向ける。三木尾善人はポケットからゆっくりと旧式のスマートフォンを取り出して、溜め息を付いた。

「はあ。おめでたい奴だな。ちょっと待ってろ」

 美空野朋広は再び町田の頭に銃を押し当てて、口角を上げる。

「よーし、いいぞ。素直じゃないか。ヘリの燃料は満タンにしろ。国防軍の戦闘ヘリだ。それがいい。どこにでも着陸できるはずだからな。リムジンタイプなら完璧……」

 彼は、三木尾善人から目の前にスマートフォンを突き出されて、口を止めた。三木尾が握るスマートフォンの画面には、スーツ姿の女性が映っている。それは、今時珍しいテレビ電話だった。目をパチクリとさせている美空野朋広に、画面の中のその女性は言った。

『どうも。外務省の西田と言います。話は先ほどから全て聞かせていただきました。こちらも同時並行で国家としての外交対処を進めさせていただきましたので、そのつもりで。既に各方面への連絡は済んでいます。表、裏、あらゆる方面に。一応、ご忠告ですが、残忍な殺され方を望まないのであれば、国外には出ない事をお勧めします。それが、今の国際社会の現状ですので』

 美空野朋広は画面に映っている西田真希に怒鳴った。

「な、なんだ、君は。が、外務省? 公務員なのに、私を脅しているのかね」

 画面の西田真希は、小さなスマートフォンの中から美空野を見据えて、はっきりとした口調で言った。

『訊かないと分かりませんか。そのつもりですが』

「……」

 美空野朋広は言葉を失った。こめかみから汗が垂れ、顎に伝う。

 三木尾善人はニヤニヤしながらスマートフォンをポケットに戻して、美空野に言った。

「西田さんは優秀な調整官でね。各国の首脳や軍事関係者、諜報機関と、まあ、いろいろな方面からの信頼が厚い人だ。当然、人脈も広い。グローバルなレベルで。とにかく、情報はかなり確かでディープだから、忠告は聞いておいた方がいいぞ。もう、海外はやめとけ。たぶん、この数十分の間に、テメエの首には、かなり高額な賞金が懸けられているはずだ」

 悔しそうに歯を食い縛り、頬を引き攣らせた美空野朋広は、銃口を石原と中村の前の床に向けると、唸り声を上げて引き金を引いた。黒い拳銃が火を噴き、石原の靴の前の床に着弾する。美空野朋広は発砲の反動で後ろによろめいた。逃げようとした町田に掴まるようにして姿勢を保つと、彼女を引き寄せて、再び銃口を向けると、大声で怒鳴った。

「いいから早くヘリを用意しろ! なんなら、今この場で、この女を撃ち殺して、そっちの白衣の女を人質にしてもいいんだぞ!」

 引き金に指を掛けた美空野朋広は、血走らせた目で室内の人間たちを見回した。



                  十一

 次の人質候補に名前が挙がった岩崎カエラは、自分に視線を向けた皆の顔を見回して、慌てて顔の前で手をパタパタと振った。

 首にギプスをはめている中村明史が肩ごと回して美空野の方を向くと、彼に言う。

「あ、それ、やめといた方がいいですよ。カエラさんを人質にしたら、日本中の警察関係者から本気で命を狙われますから。絶対に無事では済みませんって。本当です」

 隣の石原宗太郎が憮然とした顔で美空野に言った。

「ていうか、危ねえだろ。こっちは松葉杖なんだよ。避けられねえじゃねえか。狙うんなら、こっちを狙えよ。撃たれ役なんだから」

「なんで」

 自分を指差した石原に中村明史は鋭く突っ込む。

 三木尾善人が頭を掻きながら言った。

「ようやく、撃ってくれたか。待ってたんだよ。ま、これでようやく、こっちも手が出せる。じゃあ、いよいよ真打の登場だな。おーい、少尉い」

 綾エリカ少尉がドアを強く蹴り開けて入ってきた。コバルト・ブルーの甲冑姿の彼女は、両手で握ったグロッグ〇三八・マークⅡの銃口を下に向けて、速足で歩いてくる。

 三木尾善人は綾少尉に言った。

「もう、いいぞ。好きにしろ」

 美空野朋広は顔を顰める。

「好きにだと? 君に何の権利……」

 銃声がたて続けに鳴り響く。綾少尉は躊躇なく六発の弾丸を放った。美空野朋広は勢いよく後方に引っくり返る。前に倒れ込むようにして離れた町田梅子は、驚いた顔で綾と美空野を交互に見た後、自分の体中を触って被弾していないかを確かめた。どこにも怪我は無かった。その横を綾少尉がスタスタと歩いていく。

 執務机の前に倒れている美空野の前に立った綾エリカ少尉は、両手で拳銃を構えたまま鬼のような形相で美空野を睨みつけている。

「おまえのせいで、みんな……」

 歯を食い縛り、肩を震わせ、涙目で拳銃を構える彼女の横に浜田圭二が駆け寄ってきて、綾の手を握り、そっと下ろした。

「全部、当たってる。これ以上撃つと、本当に死んじまうぞ。もういい、終わったんだ。もういい」

 綾エリカは両手でグロッグを握ったまま、肩を震わせて泣き崩れた。長い黒髪に隠れた彼女の顔から、大粒の涙が床に落ちる。

 その後ろで目をパチクリとさせていた町田梅子は、床に座っている綾に怒鳴った。

「こんな至近距離で、なにマジ撃ちしてんのよ、危ないわね!」

 綾の肩を支えて立たせた浜田圭二が少し振り向いて、町田に言った。

「大丈夫だ。この人は国防軍では最高の兵士さんだ。外しはしない」

 床の上の美空野朋広は、ピクリと動くと、大きく咳込んだ。

「うう……ゴホッ、ゴホッ、ゴホ……」

 胸を押さえて身を丸めている彼の横に、石原宗太郎刑事と中村明史刑事が歩いてくる。

 石原宗太郎は足下の美空野を見下ろして言った。

「軍規監視局の監察官が調達局の津留栄又をしょっ引いたと言っただろう。装備品の銃器が一丁消えている事は分かってるんだよ。軍規監視局をなめてんのか、ボケ」

 美空野の横にしゃがんだ中村明史は言う。

「これも想定の範囲内だったか?」

 そして、三木尾警部の顔を見た。三木尾善人は黙って頷く。中村明史刑事は腰の後ろに手を回すと、手錠を取り出して、厳しい顔で美空野に言った。

「美空野朋広、略取未遂の現行犯で逮捕する。さあ、両手を出せ!」

 中村明史は美空野に手錠を掛けた。

 床に転がった黒い拳銃を拾い上げた岩崎カエラが、中村に立たされている美空野に言った。

「ふーん。ワルサーのPXXかあ。このてのマニアックな銃はね、そのお姉ちゃんみたいな、超一流の軍人さんが使う物なのよ。あんたみたいな素人には似合わないの。スパイ映画の見過ぎじゃないの? ばーか」

 小久保友矢が岩崎を宥める。

「主任、もう、そのくらいで……」

「そうね。はい、小久保君、今週の分析対象。この銃がどれくらい危険な凶器か、徹底的に分析して、ここにいた全員が撃たれる可能性があった事を科学的に証明しましょう。そしたら、こいつに殺人未遂罪もプラスだから。ムフフフ」

 岩崎からワルサーを受け取った小久保友矢は、その銃の弾倉を抜いてビニール袋に入れながら、口を尖らせた。

「とほほほ。少しは休ませて下さいよ……」

 その後ろを、肩を落として俯いた美空野朋広が、中村明史刑事に腕を掴まれて歩いていく。石原宗太郎は美空野の背中に冷ややか視線を送りながら、顎鬚を撫でた。

「刑事実務を知らないのかね。逮捕状の執行に、こんなに時間を掛ける訳ないだろ。期待通り警官に向けて発砲してくれちゃって。気付けっつうの」

 横に来た浜田圭二が、涙を拭いている綾少尉に聞こえるように言った。

「ま、これで現行犯逮捕だから、事実関係は争えないよな。ありゃ、おしまいだ。綾少尉がお仕置きのゴム弾を六発も食らわせてくれたし、スッとしたぜ」

 石原宗太郎が浜田に耳打ちする。

「誰にも言うなよ」

 浜田圭二は頷いた。

 両開きのドアの前に移動していた三木尾善人は、中村に連れられて美空野が歩いてくると、そのドアを開けた。ドアの向こうには大勢の警官が待機していた。美空野朋広は驚いた顔をして前を通り過ぎていく。

 彼に、三木尾善人は静かな声で言い捨てた。

「テメエの動機なんぞ、所詮は『カネ』だろ」

 押さえていた扉から手を離した三木尾善人は、美空野に背を向けて部屋の中に戻る。鑑識課の警官たちが後に続いて部屋に入ってきた。後の指揮を岩崎と小久保に託した三木尾善人は、松葉杖を突いて歩いてくる石原宗太郎と顔を見合わせると、黙って頷いた。彼は石原と歩調を合わせてゆっくりと歩きながら、部屋の外へと出て行った。

 鑑識の写真のフラッシュがあちこちで焚かれる中、応接ソファーの上の神作真哉と永山哲也は銃声に驚いたままの姿勢で、肩と両足を上げて固まっていた。

 何度も瞬きしながら、神作真哉が永山に言う。

「やっぱ、女って、キレると、恐いな」

「そ、そうですね」

 二人は揃って生唾を飲んだ。

 美空野法律事務所ビルの所長室の中は、現場検証を進める警察官たちが慌しく動いていた。



                  十二

 美空野法律事務所ビルの前の歩道は、報道記者やカメラマンたちでごった返していた。中村刑事に腕を掴まれた美空野朋広が姿を現すと、報道陣のカメラからのフラッシュが一斉に彼を照らした。

 マイクを握った人気のニュース・キャスター藤崎莉央花が、興奮した様子でカメラに向かってリポートをする。

「出てきました。今、捜査官に連れられて、美空野朋広弁護士が姿を現しました。手には手錠がはめられています。一連の不正内乱の首謀者が、ついに捕まりました。国民の安堵の声が聞こえてくるようです」

 両手を前で繋がれた美空野朋広に、周囲を囲んだ記者たちが質問を浴びせた。

「美空野弁護士! 一言お願いします。逮捕された、ご感想は!」

 美空野朋広はカメラの位置を確認すると、そこに向かって叫んだ。

「権力の横暴だあ。私は撃たれたぞお。ここを映してくれ。撃たれたんだ」

 大げさに自分の胸を指差す美空野の腕を掴んで、三木尾善人が路上のパトカーへと連れて行く。

「ゴム弾じゃねえか。早く、来い」

 移動する美空野の姿を追って、再び一斉にフラッシュが点滅した。群集の中で立てた脚立に跨り、一眼レフのカメラを顔の前で構えている、新日風潮社の専属カメラマン勇一松頼斗は、溜め息を漏らしながら呟いた。

「はああ、三木尾警部、今日もシブいわ。最高。ウズウズしちゃう。石原ちゃんもワイルドね。あら気の毒に、脚を撃たれたのね。きゃっ、私の中村ちゃんだ。ギプスが可愛いじゃないの。むふふふ」

 勇一松が載っている脚立を支えている春木陽香は、記者たちの間を歩いて行く三木尾善人を見て、口を開けた。

「ああ、あの人、刑事さんだったんだ。やっぱり、あの占い師のお婆ちゃんの言った事、当たってたのかあ……ウプッ」

 彼女は脚立から手を放し、頬を膨らました口を押さえる。空気を飲み込んだ春木陽香は、脚立に額を当てて凭れた。

「うう、頭痛い。気持ち悪い。二日酔いだ……」

 脚立の上から勇一松頼斗が裏返った声で怒鳴った。

「ちょっと、ハルハル! 何やってるのよ。脚立をしっかり握ってなさいよ! スクープよ! スクープ! 気合入れなさい! リベンジするんでしょ!」

 背中を丸めて脚立を握った春木陽香は、むしろ脚立に支えられている状態だった。

「すみませんライトさん……昨日、飲み過ぎて……ウプッ」

 春木陽香は口を押さえる。勇一松頼斗はカメラを覗きながら、レンズを美空野に向けてシャッターを切っている。

「いいわね、しっかり支えときなさいよ。天才ふぉーとグラフィック・アーティストの私が最高のワンショットを撮ってあげるから。これで、あんたのリベンジも……」

「ウプッ……オエエ……」

「そう、オエエってリベン……ちょっと、それリバースじゃない! 何やってるのよ、ハルハル。もう、汚いわねえ」

 口を拭きながら、春木陽香は涙目で呟く。

「はー、はー。占い師のお婆ちゃんが言ってた『全てを戻す』って、この事かあ。ウプッ、オエエー……」

 春木陽香は決壊したダムのように、吐しゃ物を放出した。蒼白の顔で彼女は嘔吐を続ける。脚立の上で美空野に向けてカメラのレンズを絞りシャッターを切りながら、勇一松頼斗は言った。

「いい、ハルハル。スクープ写真は、巻頭、見開き、カラー掲載なのよ。いい加減な写真は撮れないわ。芸術的なショットを……臭っ。ちょっと! ハルハル! こんな時に、全開でスープ出してどうするのよ。私が言ってるのはスクープ……危ない! あんたね、ちゃんと脚立を支えときなさいよ! 怪我でもしたら……ああ! こらっ、新人、前に出るな! 邪魔でしょ! 生意気ねえ、何よ、あいつ。それは私の獲物なのよ! 退きなさい! ユナユナ!」

 長身の若い女がカメラを構えて群集から前に飛び出した。ジーンズの長い脚を広げて腰を下げ、絶妙なアングルで美空野の表情を捉える。湯名原佑奈は素早くシャッターを押すと、再び立ち上がって群衆の中に戻っていった。



                  十三

 美空野法律事務所の前の路肩には、何台もの警察車両が縦列で停まっている。通行止めさせて確保された一番外側の車線に、窓を鉄網で覆われた紺色の大型バスが何台も入ってきて、次々に停車した。バスの列の先頭で停車した黒いAI自動車から制服姿の二人の軍人が降りてくる。二人は姿勢よく歩いてくると、美空野を連れてやってきた三木尾警部と石原刑事、中村刑事の前で立ち止まった。

 三木尾善人警部は制服姿の二人に向けて敬礼をする。

「昨日の内乱の首謀者と思われる男を逮捕しました」

 国防省の軍規監視局局長である森寛常行監察官も敬礼して答える。

「お疲れ様です。我々も、逮捕した昨晩の反乱の実行犯たちを、これから警視庁に移送するところです」

 三木尾善人は眉を寄せた。

「警視庁へ? 国防軍兵士の犯罪者は、監察官の職務範囲では?」

 森寛の隣で敬礼していた外村美歩監察官が答えた。

「国防省の判断です。今回の場合、国防軍対反乱軍の戦闘ですから、実際に引き金を引いた『実行正犯』達については、戦闘当事者である我々より、第三者機関に捜査を委ねた方が、捜査の公正の観点から適切であると。私も監察官として、そう思います」

 三木尾善人は頷いた。

 中村明史はギプスに載った頭を肩ごと左右に動かして並んだ移送用のバスを見回しながら、尋ねた。

「も、もしかして、これ、全員ですか」

「いいえ。彼らは投降した十七師団の兵の一部です。残りは順次、移送する予定です」

 森寛常行がそう答えると、石原宗太郎がしかめ面で三木尾に尋ねた。

「一個師団全員を一人ずつ取り調べるんですか。警視庁の人員だけで」

「仕方ねえだろ、仕事なんだから」

 三木尾善人は不機嫌そうに答えた。

 外村美歩は申し訳無さそうに言った。

「お手数をおかけします。ですが、十七師団所属兵の全員が軍規違反をしたり犯罪を犯した訳ではありません。どうも部隊の全員が動いた訳ではないようです。それに、決起に参加した兵士たちも、その半数以上が、そちら方やあの記者さんたちの呼びかけに応じて、戦闘現場では警察と協力して市民の救助に当たっています。実際に処分を下す必要があるのは、阿部大佐からの命令にかこつけて、必要以上の破壊活動や攻撃行動をとった者たちや、命令外の動きをした者たちになると思いますから、そう多くはないと思います。我々も捜査にはできる限りの協力をさせていただきますから、よろしくお願いします」

 外村美歩は深々と頭を下げた。

 中村明史はもう一度ギプスで固定された首を肩ごと動かして、並んで停まるバスを見回した。どのバスにも、赤いシャツを来た屈強そうな兵士たちが詰め込まれるように乗せられている。彼は呟いた。

「ああ、こりゃあ、来年まで休み無いな……」

 三木尾善人は若い刑事たちに言った。

「それでも、やるんだよ。それが法治国家だろうが。俺たちは司法官憲なんだ」

 石原と中村は顔を見合わせて項垂れる。

 森寛常行が言った。

「我々の方でも、全国の地方支局から応援を呼んで資料をまとめさせます。出来るだけお手間をとらせないようにしますから、どうかよろしくお願いします」

 三木尾善人が尋ねた。

「では、津留栄又も、ウチの方で」

 森寛常行は厳しい顔で手を振った。

「いやいや。実行正犯ではないですからね、彼には、まず私たち軍規監視局が、しっかりと灸を据えます。ま、最終的には、通常裁判所に特別起訴となるでしょうが」

「そうですか」

「実は、結構、奴の取調べをするのが楽しみでね。フッフッフ。津留め、覚悟しておけ」

 森寛常行は肩を回した。そして、美空野を一瞥すると、彼を指差して言った。

「あ、そうだ。その男の移送でしたな」

「ええ。宜しくお願いします」

 そう言った三木尾善人は中村に首を振った。ドアを開けたバスの前に、中村明史が美空野を連れて行く。美空野朋広はバスの前で足を突っ張って止まり、刑事たちに言った。

「おい、待て、待て。これに私も乗るのか。彼らと一緒に」

 森寛常行が言う。

「当たり前だろ。昨日の戦闘で、どれだけ国費を浪費したと思ってるんだ。経費削減だよ」

 松葉杖を突きながら近づいてきた石原宗太郎は、バスの窓に視線を送りながら、美空野に耳打ちした。

「みんな、お前さんに利用された国防軍屈指の猛者たちだ。きっと事情が分かったんだろうな。見ろ、お前を睨む、あの目。おお、恐い、恐い」

 中村明史がバスを見回して言う。

「これだけの人数ですから、きっと勾留場も刑務所も相部屋でしょうね。皆さんと一緒に。大変ですねえ」

 三木尾善人が最後に言った。

「なんせ、あの深紅の旅団レッド・ブリッグの連中だからな。ま、気をつけろよ。いろいろと」

 美空野朋広は血相を変えた。

「冗談じゃない。私は乗らんぞ。断固拒否する」

 子供ように駄々をこねる美空野に、石原宗太郎が呆れ顔で言った。

「ふざけてるんじゃねえよ。選べる立場か」

「何と言われても乗らんぞ。絶対に」

 三木尾善人がニヤニヤしながら美空野に言う。

「あらゆる事態を想定して、準備しているんじゃなかったのか?」

 美空野朋広は激しく首を横に振った。

「こ、これは想定外だ。三木尾警部、さっきは悪かった。少し言い過ぎた。お願いだから、別にしてくれ。頼む」

「どんな困難とでも闘うんだろ。しっかり頑張れよ」

 三木尾善人がそう一蹴すると、石原宗太郎が美空野の肩を叩いた。

「これから暫く一緒に暮らす、ムショの同期生たちだ。ちゃんと挨拶するんだぞ」

「そんな……嫌だ。やめてくれ! お願いします! 別の車にして下さい」

 中村の背広にしがみ付いて懇願する美空野のスーツの襟を森寛常行が掴む。

「さっさと乗れ、ホラッ!」

 美空野朋広は、森寛と駆けつけた憲兵に両脇を抱えられて、バスの中に引っ張られていく。ドアの端にしがみ付いて、彼は必死に叫んだ。

「うわあ、やめてくれ。助けてくれ。――ああ、町田君。助けてくれ。これは人権侵害だ。拷問だあ」

 町田梅子は黙って中指を立てた。

 美空野朋広は、町田の隣にいる派手なスーツの男に訴える。

「時吉先生。君は弁護士だろ。何とかしてくれ」

「あんたも弁護士じゃないか」

 時吉浩一は冷たく突き放した。美空野朋広は作り笑顔で頷く。

「そう、そう。僕も弁護士、君も弁護士。仲間だ。ほら」

 彼は襟の金バッヂを引っ張って見せた。美空野の醜態を撮影していた報道カメラマンたちが、警官たちの規制を振り払って集まってきて、周囲を取り囲み始めた。混乱する状況に眉を寄せた時吉浩一は、頭を掻きながら言った。

「ったく、そういう事じゃないんだが……。仕方がない。あと二人、乗れますかね」

 森寛常行は答える。

「ええ。まあ、何とか。立ったままになりますが……」

「じゃあ、私と町田先生も乗せてください。警視庁まで行きますので」

 美空野朋広は時吉に手を合わせた。

「おお、有り難う。助かるよ。やはり、仲間だなあ」

「いいえ。あなたと仲間になったつもりはありません」

 時吉浩一は美空野の背中を押して、一緒にバスに乗り込んでいく。外村と視線を合わせた町田梅子も、仕方なさそうに後に続いた。美空野朋広はへつらうような笑みを作りながら、背後の時吉に言った。

「そう言わずに、弁護の方も頼むよ。ね、時吉先生」

 ステップを上がった所で手すりに掴まった時吉浩一は、空いている補助席を町田に譲ると、通路に立ったままの美空野に、きっぱりとした口調で答えた。

「お断りです。僕と町田先生は、あなたが有罪である事を証明する為に、警視庁に証言しに行くんですよ。さっきの発砲の状況とか。そのあなたの弁護が出来る訳ないでしょう。法律的に。ついでだから、乗せてもらうだけですよ。ま、あなたが、この人たちに殺されないように、一応、注意はしておきますがね。何かあっても、あなたを守れる自信は無いですな。僕は文科系なんで」

「そんな……」

 愕然とする美空野を無視して、時吉は運転席の方を向いた。

「じゃあ、すみません。ドア閉めてください」

 バスのドアがゆっくりと閉まった。バスの中から町田梅子が外村美歩に小さく手を振る。外村美歩も腰の横で小さく手を振って応えた。

 紺色の移送用のバスは、先頭車両から順に走り始め、並んで警視庁ビルの方へと進んでいった。



                  十四

 バスを見送った森寛常行監察官は、振り返ると、三木尾に敬礼した。

「では、我々はこれで。これから御庁で手続きをしてきますので、引渡し後の事は宜しくお願いします。本当に、国防軍兵の愚行でそちらの手を煩わす事になってしまい、申し訳ありません」

 手を下ろした森寛常行軍規監視局局長は、頭を深々と下げた。並んで、外村美歩も腰を折る。三木尾善人は手を振りながら言った。

「やめてください。カメラもありますから。それは、上の連中同士がする事でしょう。我々は一公務員だ。仕事ですよ、仕事」

 森寛常行局長は、松葉杖を突く石原とギプスをしている中村に視線を送る。

「いや、部下さんたちにも怪我をさせてしまった。同じ軍人として、謝らせてください」

 再度、頭を下げようとした森寛の肩を押さえて、三木尾善人が小声で言った。

「よせって。負傷手当を会計課から騙し取っているのがバレるだろ。こいつら、昼飯のうどん代を浮かせようとしているだけだ」

 石原宗太郎が項垂れる。

「善さん、それにしては演出がリアル過ぎます。ていうか、負傷手当って、うどん一杯分も出ないし。ああ、でも、中村のはウソですよ。こいつ、これで冬の寒さの乗り切ろうとしているだけですから」

「乗り切れますか! ギプスをマフラー代わりにしてる人なんて、見たこと無いでしょ。だいたい、この首じゃ、うどんも食べられないし」

「俺が食わせてやるから、はい、あーんって……」

「なんで、髭面のオッサンに食べさせもらわんといかんのです。食欲が失せます」

「あと、こいつ、真面目そうな顔して変な趣味があって、こうやってワイシャツの下にブラを身につけている変態で……」

 石原宗太郎は中村の上着をはぐって外村に見せる。石原の手を払った中村明史が口を尖らせた。

「これはコルセットですよ。コルセット。多少大袈裟にしとかないと、先輩に松葉杖の代わりにされますからね。防衛策です」

「なんだ、俺の杖になる為に体を固定してくれてんのか、わりいな」

 石原宗太郎は中村に肩を回すと、体重を掛けた。中村明史は顔を全力で顰める。

「ちょっ、重い。しかも、汗臭いし」

 外村美歩がクスクスと笑う。

 呆れ顔で二人を見ていた三木尾善人警部は、森寛に顔を向けた。

「ああ、それから、局長さん」

「はい、何でしょう」

「さっき聞いた話では、あの隊長さん、たしか宇城大尉といったかな、病院の方で無事に峠を越えたそうです。意識も明瞭になってきたらしい」

「そうですか。――よかった」

 森寛常行局長は息を吐き、安堵の笑みを浮かべた。外村美歩は滲み出る涙が零れるのを抑えている。そんな外村を一瞥して、三木尾善人は森寛に言った。

「ああ、それでなんだが、局長さん……」

 三木尾善人は指先で頬を掻きながら、目線で外村を示した。森寛常行は三木尾の視線の先に顔を向けて外村を見ると、再び三木尾に顔を向ける。怪訝な顔をしている森寛に、三木尾善人はわざとらしく咳払いをした。眉間に皺を寄せて考えていた森寛常行は、ハッとして声をあげる。

「……あっ」

 森寛常行局長は、外村の方を向いて言った。

「外村君、君は、もう帰っていいよ。昨日も大変だったし、今朝からずっと、通常時間外の勤務になっているじゃないか。後は私がやっとくから」

「しかし、まだ津留局長の尋問が……」

 眉を寄せる外村に、森寛常行は顔の前で手を振って答えた。

「ああ、いいの、いいの。どうせ、あいつ、口なんか割りゃしない。長期戦、長期戦。ああいう奴にかぎってね、こんな時はダンマリを決め込むんだよ。ね、警部」

 三木尾善人は頷くと、外村に言った。

「せっかく上司が、そう言って下さっているんだ、遠慮するなよ。超過勤務なんだろ?」

 石原宗太郎が松葉杖に凭れたまま、顔を外村の前に突き出して言った。

「行ってやれよ。大尉も喜ぶぞ」

 外村美歩は森寛の顔を再度見た。森寛常行局長は微笑んで頷く。外村美歩は、そのまま、視線を奥に向けた。街路樹の横のガードレールに腰を載せて座っている綾エリカ少尉と目が合った。外村美歩は目を伏せる。

 三木尾善人が首を伸ばして周囲を見回しながら言った。

「空いてるパトカーはねえかな。中村、おまえ、覆パトの運転できるか」

 中村明史は自分の首のギプスを指差した。

「無理です。横を向けませんから」

「まったく。じゃあ、石原、おまえは……」

 石原宗太郎は左脚を前に上げる。

「どう見ても無理でしょ。アクセルは踏めても、ブレーキが踏めませんよ」

「先輩、ブレーキも右足です」

「ああ、そっか。じゃ、俺が送りますよ。すぐそこに停めてますから、どうぞ。後ろの席に中村用のチャイルドシートが乗せてありますから、その横に乗って下さい」

 中村明史が付け足した。

「ああ、トランクの中は見ないでくださいね。先輩が隠しているエッチな本が沢山……痛っ」

 中村を叩いた石原宗太郎は言う。

「勤務中にセクハラするんじゃねえよ。監察官さんだぞ」

「そう言う先輩は、監察官は、嫌いだって……うぐっ……ボディーは反則ですよ、先輩。うう……」

 外村美歩は遠慮顔で言った。

「あの……自分で行きますので、大丈夫です」

 三木尾善人は、報道関係者や警察官たちでごった返している周囲を見回しながら、外村に言った。

「大丈夫じゃないだろ。そんな目立つ制服じゃ、マスコミに追い掛け回されるぞ。しかし、どうしてこんなに大勢のマスコミが……。規制できなかったのかね」

 曇らせた顔でキョロキョロと辺りを見回す三木尾に、石原宗太郎が言った。

「仕方ありませんよ。新日社だけ特別扱いする訳にはいきませんからね」

「石原も大人になったねえ。じゃあ、そのポケットの中のおしゃぶり、もう捨てていいぞ」

 三木尾にからかわれた石原を指差しながら、中村明史は声を潜めて笑った。

 三木尾善人は向こうの高い位置で点滅している赤色灯を見ながら、石原に言う。

「なんだ、救急車も来てるのか。誰か怪我人でも出たのか?」

 背伸びをした石原宗太郎が、長身を生かして先を覗く。

「ウチの人間じゃないみたいですね。運ばれてるのは……記者みたいですよ」

 森寛常行局長が外村に言った。

「僕が送っていけるといいんだけどね……」

 外村美歩は首を横に振る。

「いえ、局長は、移送した兵士たちの引渡し手続きがありますから。――やっぱり、私も、それが済んでからにします」

 三木尾善人が言った。

「いや、一時でも早く行ってやれ。その方がいい。何とかパトカーを手配……お、丁度いいのがいたな」

 向こうから、記者たちを押し退ける若い男の巡査たちに囲まれて、岩崎カエラと小久保友矢が歩いて来た。

 三木尾善人は手を振った。

「おーい、岩崎。こっちだ。こっち」

「ん? 善さん、まだ居たの。何やってるのかしら、あんな所で」

 岩崎カエラは少しカメラを意識しながら、白衣姿で颯爽と歩いてくる。三木尾たちの前にやってきて、さっきと同じように澄まし顔でポーズを取ろうとした岩崎に三木尾善人が言う。

「ババアが無理すると、腰を痛めるぞ」

「失礼ね、誰がクソババアよ!」

「盛るな。――で、どうだ。上の方は終わったか」

「ええ。ばっちり。これで、言い訳は出来ないわね」

「そうか。ところで、おまえ、車で来てたよな。どこに停めてる」

「ええと。ほら、あそこ」

 岩崎カエラは、先の路肩を指差した。赤いAIポルシェが前後を軽武装パトカーに、横を黒塗りのバンに囲まれて止まっている。三木尾善人はニヤリとして言った。

「悪いが、この外村監察官を病院まで送ってくれないか。例の大尉さんが運ばれた大学病院だ。おまえの所のすぐ近くだろ」

 岩崎カエラはあっさりと答えた。

「うん、いいけど。どうせ肩の包帯を取り替えに行かないといけないし。でも、善さんたちは、どうするの」

「こっちは、まだ仕事がある。とにかく、急いでいるんだ。頼む。外村監察官、あの赤い車だ。たぶん、前後の軽武装パトカーと横のマルボウの車両が他の車を全部退かして、最短時間で移動させてくれるはずだ。ほら、行った、行った」

 外村美歩は三木尾たちに向かって深々と頭を下げると、再度森寛に一礼してから、岩崎たちと共に赤いAIポルシェの方に歩いて行った。

 森寛常行が三木尾に言う。

「いろいろとお気遣いいただき、有難うございます」

「なあに。若者の未来を応援してやるのも、年寄りの仕事でしょう」

「もう一仕事、あるようですな」

 そう言われて、三木尾善人は片眉を上げた。そして、目の前の中年男の監察官の目をじっと見る。

 森寛常行は言った。

「だから、ここまで大袈裟な事をされたのでしょ」

 三木尾善人は片笑んで、鼻から息を吐いた。

 森寛常行は姿勢を正した。

「では、私はこれで。警視庁ビルで手続を終えたら、先に検察庁に回ります。警察庁には、その後で。後ほど、またお会いしましょう」

 再度敬礼をした森寛常行に三木尾善人も敬礼する。手を下げた森寛常行局長は言った。

「どうかご無事で。ご健闘を祈ります」

 一礼して、森寛常行は去って行った。

 少し離れた所に立っていた石原宗太郎は、右手だけを上げて伸びをしながら言う。

「さってと。じゃあ、俺たちも帰って、調書作りに励みますか。まずは、ここから押収した証拠品の仕分けだな。中村は、細かいヤツな。俺は、楽に終わるヤツ」

「ちょっと、先輩。どうして、いつも楽しようとするんですか。いつも、それですよね。昨日だって、どうして僕が撃たれ役なんです? 至近距離だったんですよ!」

「だから、俺の言うとおり、防弾着の重ね着していて良かっただろ? やっぱ、恋愛経験と防弾着は重ねといた方がいいよな。うん。うん」

「うんうんじゃないですよ。胸骨にヒビが入っているんですからね。それに、頭に当たってたら、死んでるでしょうが!」

 二人の近くに歩いてきた三木尾善人が言った。

「AIガンは、警察用にプログラムされてんだ。頭部は狙えないんだよ」

 中村明史は少し驚いた顔をしていた。

「へえ、そうなんですか……あ、じゃあ、先輩も警部も、新原がAIガン持っていた事を知っていたんですか」

 二人は口を揃えて言う。

「いや、知らんかった」

「ええ!」

 目を丸くしている中村の肩を石原が叩く。

「ラッキーだったなあ、お前。また次も頼むな」

「次? いや、ちょっと待って下さいよ。それ、どういう事ですか。ちょっと、先輩!」

 松葉杖を突きながら向こうに歩いて行く石原を、中村明史は追いかけて行った。



                  十五

 綾エリカは路肩のジープの横で、ガードレールに腰を載せて座っている。戦闘服姿の彼女は長い黒髪を風に揺らし、美空野法律事務所ビルの前の人だかりを見つめていた。彼女のコバルト・ブルーの肩の鎧を山本明美少尉の大きな手が掴む。

「お疲れい!」

 綾エリカは少し下を向いて、小さく答えた。

「お疲れ」

 綾の隣に腰を下ろした山本少尉は、片笑みながら綾に言った。

「ゴム弾を使ったんだって? 訓練用の。やさしいねえ」

 綾エリカは前髪をかき上げながら呟く。

「実弾を撃ち込んでやればよかった……」

 小さく笑った山本少尉は、少し間を空けてから、遠くを見て言った。

「大尉、峠を越したみたいだな」

「そうね」

「後で、一緒に見舞いにでも行くか。クソ面白い立体ゲームでも、差し入れてやろうぜ」

「うん……」

 綾エリカは下を向き、髪で隠れた顔を小さく振って小声で答えた。

 山本少尉が綾の顔を覗き込んで言う。

「どうした。元気ねえな」

 綾エリカは下を向いたまま答えた。

「――やめとこうかな。病室に行くの……」

「そうか……」

 静かにそう言った山本少尉は、前を向いたまま、ボソリと言う。

「なあ、綾。――その髪、切るなよ」

「――? なんで?」

 綾エリカは顔を上げた。

 山本少尉は頬を掻きながら言う。

「あ、いや。女は……その……そういう時は、髪を切るとか言うじゃないか。なんか……よく、聞くよなあ、そういう話」

「……」

 綾エリカは山本の横顔をじっと見つめていた。

 山本少尉は綾の視線を気にしながら、顔を向けずに話した。

「ああ、いや、せっかく綺麗な髪だからさ。なんか、もったいないなと。いや、切らないなら、いいんだ。別に、俺は構わん。今のままの綾エリカの方が、可愛いと思う。うん。絶対に」

 落ち着かない様子の山本少尉を見て、綾エリカはクスリと笑った。前を向いた彼女は、歩道の上に視線を落として髪をかき上げる。

「ねえ、山本。今度、デートしよっか。二人で」

 二人の腕時計が細かく振動し、兵士たちに招集の合図を送った。二人とも左腕を上げる。綾少尉はガードレールから腰を上げた。山本少尉は腕時計から照射されたホログラフィー画像で指令内容を確認しながら頷く。

「ああ、そうだな。デー……なに? デート? マジか?」

 驚いた顔を向けた山本に軽くウインクした綾エリカ少尉は、ガードレールに手を突いて飛び越えながら言った。

「昨日、助けに来てくれた、お礼よ。ほら、急いで。行くわよ」

 綾少尉はジープの助手席に乗り込むと、ダッシュボードのパネルを操作して、届いた指令を再確認する。山本少尉はガッツポーズをすると、勢いよくガードレールを飛び越えて、顔をほころばせながらジープの運転席へと回ってきた。

「よっしゃあ、どんな作戦でも、バッチリ決めてやるぜ!」

 嬉しそうに運転席に座って電気エンジンのスタート・ボタンを押す山本を見て、綾エリカは口角を上げた。彼女は通りの先を指差す。

「よーし、出発進行。目標は国防省ビル第三地上待機場。アクセル5で前進せよ」

「了解しましたあ!」

 山本少尉は元気よく答えると、ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。

 二人を乗せたジープは、警察車両の間を抜けて、有多町の中心部へと走って行った。



                  十六

 記者達の群れから少し離れた所で、新日ネット新聞社の二人の記者が立っていた。神作真哉と永山哲也は、深刻そうな顔で話し込んでいる。そこへ、三木尾善人警部が歩いて来た。彼は、神作の肩の包帯を見て言う。

「傷は大丈夫か」

 神作真哉は自分の肩を見ながら答えた。

「ああ。いや、流れ弾が少し、かすっただけですから。それに、こっちの腕には、前に偽物のギプス巻いていましたからね。新聞記者って言う他人にモノを伝える仕事なのに嘘をついたバチが当たったんですよ。嘘から出た真ちゃんって奴ですな、こりゃ」

 三木尾善人は口角をあげると、その頬を下ろして神作の顔を見た。

「しかし、あの戦乱の中をよく警視庁ビルまで来てくれた。あんたが、あの音声データを届けてくれたおかげで、真相を知る事が出来たし、捜査の方も随分と短縮できた。本当に助かったよ」

 神作真哉は右手を振る。

「いやいや。市民の義務を果たしただけですよ。ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」

 苦しそうに咳込む神作を見て、三木尾善人は心配そうな顔で言った。

「咳が酷いようだな。一度、ちゃんと診てもらったらどうだ」

「ゴホッ、ゴホッ……大丈夫です。ストレスと疲労で免疫力が落ちているだけでしょうから。ゴホッ、ゴホッ……」

 神作の体調を案じながら彼を見ていた三木尾善人は、ふと周囲を見回しながら尋ねた。

「ところで、ハマーは?」

「ああ、あいつは何処かに消えましたよ。まったく、また余計に暴れて警察に迷惑をかけやがったのに」

 三木尾善人は一笑して頷いた。

「まあいいさ。どれも正当防衛と犯人逮捕への協力だ。こっちで適当に処理しとくよ」

 神作真哉は顔を顰める。

「いいや。たまには厳しくやって下さい。俺も岩崎も、毎度毎度、随分と心配させられてるんですから」

 三木尾善人は笑った。笑いながら、さっきから会話に入ってこない永山に視線を向ける。彼は笑っていなかった。三木尾善人は真顔に戻って、思案顔をしている永山に尋ねた。

「どうした、永山さん。随分と元気がねえな。今日のこれは、大スクープだろうに」

 永山哲也は神妙な面持ちで首を横に振った。

「いいえ。結局、僕が発射させたタイムマシンで、田爪瑠香のご両親とトラックの運転手、計三人の命が失われたんです。とても喜べません。それに、一連の事件の発端にもなってしまった訳ですから……」

 神作真哉が永山を気遣う。

「そう気にするな。お前が悪い訳じゃないだろうが。時間も場所も、設定したのはお前じゃないんだから。それに、悪い奴をみんな捕まえる事が出来たんだ。そう考えろよ。ね、警部」

 三木尾善人は首を縦には振らなかった。彼は心痛の種を口にする。

「あとは、イヴンスキーか。一番厄介なのが残ったな……」

「あの……」

 そう言って口籠っている永山哲也に、三木尾善人は鋭い視線を向けた。

「なんだ」

 永山哲也は三木尾が思ったとおり、的を射た質問をしてきた。

「光絵会長がイヴンスキーを動かしたのは、僕が南米入りする前からなんですよね」

「そうだ」

「その頃はまだ、国内では、田爪博士は第二実験で過去に行ったか、死んだと思われていた時期ですよね。なのに、どうして光絵会長は、彼をイヴンスキーに探させたんでしょう。そもそも、二〇〇三年にタイムマシンを見つけた光絵会長は、それがどうして、高橋博士ではなく、田爪博士の製造したマシンだと気づいたのでしょうか。この頃になって、イヴンスキーを動かしてまで田爪博士を探し始めたという事は、何か、田爪博士が生きているという確信を得たからなのでしょうかね」

「……」

 三木尾善人は黙っていた。永山が指摘した事は、三木尾自身も疑問に思っていた事だった。彼は永山の顔を凝視した。

 永山哲也は話を続ける。

「それに、田爪博士を発見後も、GIESCOで匿っていたというのも気になります。やっぱり、阿部大佐や津留たちや、外国の情報機関などから守るためだったんでしょうか」

「自分の養女を殺した男の事をか?」

 神作真哉が眉間に深く皺を刻んで、そう言った。確かに、それは不自然だった。三木尾善人も刑事として、その点が気になっていた。

 神作真哉は独りで頷きながら言う。

「ああ、分かった。AB〇一八の暴走を止めさせる目的があったからだろう。田爪健三が頼みの綱だった訳だからな。外国に連れて行かれたんじゃ、マズイからじゃないか」

 永山哲也は神作に顔を向ける。

「いや、でもですよ。そもそも、そのAB〇一八が『時の流れを支配している』っていう証拠が無いじゃないですか。高橋博士が言っていた事にしても、検証のしようがない。AB〇一八が神経ネットワークを過剰拡大させて演算速度を上げていたのは事実なのでしょうけど、果たして本当に、事物の流れまで支配していたと言えるかどうか。もし、ウチで記事にするにしても、その点は慎重に書かないといけませんよね。何でもかんでも、AB〇一八のせいに出来てしまいますからね。下手な記事を書くと、社会が大混乱しますよ。きっと」

 神作真哉は右手で顎を触りながら、眉を寄せた。

「うーん、確かになあ……。あれ無ければ、これ無しの因果関係ってやつは、無限に繋がっているからな。自分に都合の悪い出来事は、全部、AB〇一八の演算結果でそうなったんだと言い出す奴が、大勢出てくるかもな。確かに不味いな、それは……」

 永山哲也は三木尾に顔を向ける。

「さっき警部が言っていた、ネオ・アスキットは実在しないのではないかという話を聞いて、考えたんです。もし、AB〇一八が単に演算速度を過剰に加速させているだけで、『時の流れを支配している』なんて話は、事実として存在しなかったとしたら、どうかと。田爪博士を匿う必要は無かったという事ですよね。わざわざ、南米から連れてくる必要もない。AB〇一八が防衛行動に出て、多少の難儀は在ったとしても、最終的に、破壊するとか停止させる事が出来ない訳ではないでしょうから。成長しているとはいえ、所詮は機械ですからね」

 三木尾善人は黙って、厳しい顔を永山に向けていた。

 横で考えていた神作真哉が、空を仰ぎながら言う。

「まあ、そうだな。でも、誰もが既に『時の流れ』がAB〇一八に支配されていると考えていたのだとしたら、どうだよ。やっぱ、田爪の奴とバイオ・ドライブが必要だと考えるんじゃないか」

 永山哲也は再び神作に顔を向けると、人差し指を振った。

「いや、だから、そこですよ。本当に、誰もがそう考えていたんですかね。何の根拠も証拠も無いのに。これ、おかしくないですか?」

 そして、彼はもう一度、三木尾の方を向いた。

「それに、田爪博士は、僕に会う前にイヴンスキーと接触してAB〇一八の暴走の事実を知っていたというのなら、どうしてすぐに、タイムマシンを使って、移動しなかったのでしょう。一瞬で、日本に移動出来たはずなのに。その点も、どうも、気にかかるんですよね」

 険しい表情のまま何も答えない三木尾善人に何かを察した永山哲也は、真剣な顔で言った。

「警部。何か、ご存じの事はありませんか。僕らも記者として、社会を混乱させる記事は書けません。この点は明確になるまで取材して、正確な記事を書かないといけないので、何か情報をお持ちなら、教えて下さい。それに僕には、あのタイムマシンを発射させてしまった僕には、それを調べて記事にする責任があります」

 三木尾善人は、その機知に富んだ若い新聞記者の目をじっと見据えた。

 そこへ、カメラマンの勇一松頼斗が走ってきた。彼は大きく手を振りながら慌てている。

「真ちゃん、真ちゃん。大変よ、ハルハルが……」

 三人の前で止まった勇一松頼斗は、胸を押さえて呼吸を整えてから言った。

「ああ、三木尾警部、どうも……」

 神作真哉が眉を寄せて尋ねる。

「ハルハルがどうした」

「倒れたの。吐き過ぎて、意識を失っちゃった。今、救急車に乗せたところ。昨日、飲み慣れないお酒をガブ飲みしたみたいなのよ」

 神作真哉は顰め面で口を大きく開けた。

「はあ? ゴホッ、ゴホッ……何やってんだ、あいつ。酒は全く駄目だろうが」

 永山哲也も驚いた顔で言った。

「その状態で、昨日、あんなに活躍したんですか?」

 勇一松頼斗は頷いてから答える。

「なんか、アルコールの即効分解薬を飲んだんですって。しかも、また、お酒で」

 神作真哉が荒く言い捨てた。

「意味ねえじゃねえか。馬鹿だな、あいつ。――で、どこだ。あの救急車か」

「ええ。私は会社にこの写真を届けないといけないから、真ちゃんか哲ちゃんが付いて行ってあげて。ユナユナだけじゃ、心もとないから」

 永山哲也は、勇一松が首に掛けている一眼レフカメラを指差しながら尋ねた。

「ネット送信できないんですか? それ、リアルタイム送信機能付きのカメラですよね」

「ここにマスコミのほぼ全社が来てるのよ。フリーのカメラマンも。画像送信用のネット領域は、みんなが送った画像情報で大混雑よ。送信に時間が掛かってしょうがないの。直接持って行った方が早いわ」

 神作真哉は周囲を見回してから、勇一松が説明した事情を理解した。彼は言う。

「仕方ねえなあ……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」

 すると、三木尾善人警部が口を開いた。

「永山さんよ。ちょっと付き合ってくれないか。――神作さん。後輩さんを借りるぞ」

 永山哲也と神作真哉は顔を見合わせた。

 永山哲也は怪訝な顔で三木尾に尋ねる。

「僕だけですか」

 三木尾善人は、永山の上着の胸ポケットを指差しながら言った。

「ああ。あんたの、その責任ある『ペンの力』が必要なんだ」

 そして、三人に背を向けると、彼は路肩に停めた車の方に歩いていった。

「ペンの力?」

 永山哲也は、自分の上着の胸ポケットから覗いている万年筆の頭を見ながら、そう呟いた。神作真哉は三木尾の方に頭を傾けて、永山に行くように促した。頷いた永山哲也は、怪訝な顔で三木尾の後を追った。

 二人は、路肩に停めた黒い覆面パトカーの方へと歩いて行った。



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