第13話  三木尾善人・再び

                  一

 黒いAIセダンが、アスファルトで丁寧に舗装された山道を走っている。ライトが照らす先には、左右を木々で覆われた緩やかな勾配の上り坂が延々と続いていた。さっきまで降り続いていた雨は小降りになっていた。運転席でハンドルを握る中村明史刑事は、きちんと締めたネクタイを少し緩め、後部座席の二人に気付かれないように小さく息を吐く。暑さに耐えかねた彼は、バックミラーに映る新原管理官の視線を気にしながら、エアコンのボタンにそっと手を伸ばした。新原管理官は横を向き、窓から見える新首都の夜景に視線を送っていた。中村明史はエアコンの温度を少し下げた。

「ん?」

 助手席の後ろの席に座っていた三木尾善人警部が顔を顰めた。

 中村明史は慌てて言う。

「あ、すみません。暑かったので、温度を下げました。寒いですか」

 三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着の中に手を入れながら答えた。

「いや、構わん。こっちだ」

 彼は上着の中から、振動を続ける旧式のスマートフォンを取り出した。

 中村明史は安堵したように肩を下ろし、ワイシャツの胸元を摘まんで軽く扇ぎながら、前を向く。九十九つづら折の坂道の曲がり角はまだ先だった。黒いAIセダンは光絵邸へと続く坂道を上っていく。

 三木尾が見慣れない古い端末の上で指先を何度もタップさせたり、滑らせたりしているのを見て、隣の新原管理官は眉を寄せた。

「何をやってるんだ」

 三木尾善人はスマートフォンを操作しながら答えた。

「いえ、メールですよ」

「メール? 随分と旧式の端末だな」

 三木尾が液晶画面にいちいち指先で触れているのを見て、管理官の新原海介は首を捻った。

 三木尾善人は片笑みながら言う。

「管理官のお歳だと、ご存じないでしょう。スマホって言いましてね、タッチパネルだとか、大容量だとか言って、昔は随分と流行ったんですよ。まあ、今のネット情報は容量が大き過ぎて対応できませんから、もっぱら、電話と文字メール送受信用の通信機で使ってます」

「不便じゃないのか」

「私の世代には、これで十分ですよ。お釣が出るくらいです」

 三木尾善人はスマホを傾けて、隣の新原に見せた。丁度その時、画面に若い女の画像が映った。胸元を大きく開けた赤い髪の女は、鼻と耳にピアスをしている。三木尾善人は画像の女を二度見して、隣の若い上司に顔を向けた。新原海介は腕組みをしたまま三木尾のスマホを覗き込み、ニヤニヤしている。

 三木尾善人はメールを開封しながら気まずそうに言った。

「娘ですよ、娘。――なんなんだ、仕事中に……」

 メールの本文を表示させる。

 ―― 父さんの書斎のチェアー、痛みきて藁半紙でた。使わないで、ママのマイ・チェアー使う。父さんは、今夜は椅子無しで読書して。頑張ってね。ハートマーク ――

 メールを読んだ三木尾善人は顔を顰めて首を傾げた。暫らく考えて、ようやく文意を察した三木尾善人は、更に顔を顰める。

「ああ? 人の書斎の椅子をぶっ壊したのか。ったく、立ったまま読めっていうのかよ。宿題忘れた小学生か、俺は」

 三木尾の手に握られたスマホの画面を横目で確認しながら、新原管理官は尋ねた。

「何か、緊急かね」

「いえ。大した用ではありません。娘からのメールです。どうやら、私の書斎の椅子を壊したようで」

「正直にメールしてくるとは、可愛いじゃないか」

「正直なのは、いい事なんですがね。こいつがまた、無類のコンピュータ『オタク』でして。あ、『オタク』って、分かりますかね?」

「ああ。だが、君も現場に居る時と違って、家庭では『良き父』なのだな」

 三木尾善人はスマホを上着のポケットに仕舞いながら答えた。

「まあ、何とかやっていますよ」

 新原管理官は口角を上げると、横を向いた。新首都の夜景が眼下に小さくなっている。

 三人を乗せた黒塗りのAIセダンは、坂を上り終えて平坦な道に出た。外灯に照らされた芝の庭の横を通り、コスモスを揺らしている花壇に沿って敷かれた車道の上を走る。

 三木尾善人は運転席の方に手を伸ばして指差した。

「おい、中村。そこだ、そこの角を曲がれ。あの池の前に停めろ」

 中村明史は言われたとおりにハンドルを切る。AIセダンの覆面パトカーは大理石で囲まれた池の前に差し掛かった。

「よし、この辺で停めろ」

 中村明史はブレーキを踏む。振り返った彼は三木尾に尋ねた。

「もう少し向こうまで行きましょうか。雨も降ってますし、階段の手前までは行けるみたいですよ」

 三木尾善人はフロントガラスの向こうを覗きながら答える。

「いや、ここでいい。どうせ小雨だ。それに、出迎えに来てくれるみたいだからな」

 中村明史は前を向き、三木尾の視線の先を覗いた。長く上まで続く御影石の階段を、スーツ姿の大柄な男が下りてくる。

 三木尾善人は目を凝らしながら言った。

「おうおう、随分とイカツイ警備員が居るじゃねえか」

 運転席のシートに手を掛けて、フロントガラスから階段の上を覗いていた新原海介が眉を寄せた。

「ガードロイドまで居るぞ……」

 三木尾善人は目を細めて凝らす。

「ですな。あれは、軍が導入している防衛用ロボットですかね。一体だけかあ……」

 新原海介は眉を曇らせた。

「ということは、やはり、中に田爪が蔵匿されているという事か」

「さあ、どうですかね」

 中村明史が三木尾に尋ねる。

「どうします? 警部」

 三木尾善人は後部ドアを開けて、外に足を降ろした。中村がシートベルトを外すと、車外から中に頭を入れた三木尾善人が言った。

「中村。お前は残れ。下の門の所まで戻って、石原と特殊部隊の連中が来るのを待つんだ。合流したら、ここまで案内してやれ。こうも敷地が広いと、奴ら、迷子になりかねんからな。捜査の手法はいつもどおり慎重にいこう」

 一瞬だけ間を空けた中村明史は、三木尾の目を見て頷く。

「了解しました」

 頷いて返した三木尾善人は外に出た。

 新原管理官が降りるとドアを閉めて階段に顔を向ける。

「そんじゃ、行きますか」

 ガンクラブ・チェックの上着姿の老刑事は、屈強そうな警備員が下りてくる階段の方へと歩いていった。



                  二

 三木尾善人と新原海介が大理石の池の横を通って階段の前まで来ると、その前にスーツ姿の体格の良い男が立ち塞がった。男は鋭い眼光で三木尾を睨み、低い籠り声で言う。

「何者だ」

 三木尾善人は男を睨み返して怒鳴る。

「何者だじゃねえよ。テメエこそ、何者だ」

 男は、一歩前に出た三木尾の胸を押さえると、低い声で冷静に答えた。

「ここの警備を依頼された者だ。誰も通すなと言われている。帰ってもらおう」

 新原海介が警察バッジを見せた。

「我々は警視庁の者だ。通したまえ」

 眉をひそめた男は、耳に装着したイヤホンマイクに手を添えて、仲間に連絡した。三木尾善人は、階段をゆっくりと下りてくる護衛用のロボットに目を遣った。その二足歩行型のロボットは人の背丈ほどの大きさで、体格も目の前の男と変わらない。ただ違うのは、腕が四本付いている事だった。それらの腕には武器は持たされていない。三木尾善人は安堵した。

 無線で仲間からの返事を聞いた男は、新原の顔を見て言う。

「令状を見せろという事ですが」

 新原海介は胸を張って答えた。

「それは無い。光絵会長に会って話を聞きたいだけだ。緊急なのだよ」

「そういう事なら、お通しできませんな。お帰りください」

 三木尾善人は男が言い終わらないうちに、男の横を素通りして階段に足を掛けた。振り返った男は、三木尾の肩を掴む。

「おい、今夜は面会謝絶なんだよ。とっとと帰って……」

 三木尾善人は自分の肩を掴んだ男の腕を取ると、そのまま男を背負い投げた。男は宙を舞い、薔薇の植え込みの中に落ちる。

「おい、三木尾君!」

 慌てる新原の前を通り、少し屈んだ三木尾善人は、立ち上がろうとした男の顎に右の拳で一撃を食らわした。男はそのまま地面に倒れる。三木尾善人は右手を振りながら吐き捨てた。

「いま、猛烈に機嫌が悪いんだ! 絡むんじゃねえ!」

 三木尾善人が振り返ると、目の前に四本腕のロボットが立っていた。ロボットは昆虫の複眼のような大きな目の顔を三木尾に近づける。

「やんのか、コラ」

 三木尾善人はロボットに眼を飛ばした。ロボットは左右の手で三木尾の左右の腕を掴むと、余った二本の手で三木尾のガンクラブ・チェックの上着の襟を掴んだ。右手で左前をはぐって、左手で脇のガンホルダーから拳銃を奪う。ロボットのリズムのよい動きに、思わず動作を目で追っていた三木尾善人は、ハッとして抵抗を始めた。ロボットの足を蹴り払おうと彼が右脚を上げた瞬間、ロボットは三木尾から奪ったベレッタを放り投げると同時に、三木尾も放り投げた。

「うお」

 三木尾善人は、さっき背負い投げた男とは逆の方向に飛ばされ、躑躅つつじの植え込みの中に落ちた。腰を押さえながら彼が立ち上がると、ロボットは細い首を奇妙な角度で曲げて振り向き、その後で体をこちらに向ける。三木尾善人は腰の後ろを押さえて痛みに耐えながら、そのロボットに抗議した。

「あイタタタ。何だ、何だ。軍事用ロボのくせして、非戦闘員に手を出すのかよ」

 ゆっくりと歩いてきたロボットは、三木尾の前で立ち止まると、合成された声を発する。

『ブキヲステテ、スワリナサイ。クリカエシマス。ブキヲステテ、スワリナサイ』

「武器って、これか?」

 三木尾善人は、携帯していた警棒を腰の後ろから取り出すと、それを一振りした。チタン製の警棒が長く延びる。警棒を構えた三木尾善人は、ロボットを見据えて不敵な笑みを浮かべた。すると、ロボットは四本の腕のうち左右の一本ずつを曲げて胸の前で交差させてから、素早く左右に伸ばした。各腕の先から金属製の棒が飛び出して伸びる。その棒は固そうで長い。

 三木尾善人は腰を低くして警棒を構えたまま、こめかみから汗を垂らした。

「おっと、マジか……二天一流。この時代に宮本武蔵かよ。ていうか、四本腕は反則だろ!」

 ロボットは左右の警棒を振り回しながら、余った二本の腕で三木尾に掴みかかってきた。

 三木尾善人は自分の短い警棒でロボットの腕を打ち払い、襲いかかるロボットの警棒を避けた。そのつもりだった。しかし、気が付けば彼は警棒を奪い取られ、両手を掴まれて、首の下にロボットの腕の警棒の先を突き付けられていた。次の瞬間、二発の銃声と共にロボットが横に押された。三木尾から手を放したロボットの胸部に、更に三発の銃弾が撃ち込まれる。ロボットは階段の上に勢いよく倒れた。少し身を屈めた三木尾善人は、眉を八字にした顔で横を向く。新原海介が両手で拳銃を構えていた。銃口から白い煙が筋を立てている。

 三木尾善人は眉をひそめると、警棒を拾い、息を吐いた。

「ふう。助かったよ」

 すると、ロボットが立ち上がった。ロボットは平衡器官を破壊されたようで、階段の上でよろけて尻餅を突き、前に倒れる。何とか四本の腕を動かして立ち上がろうとしているロボットを見ながら、三木尾善人は憐憫を顔に浮かべた。溜め息を漏らして振り向いた三木尾善人は、植え込みの中からベレッタを拾うと、上着の中のガンホルダーに戻しながら新原に顔を向ける。

「それは……」

 新原海介は握っていた拳銃の角度を変えて三木尾に見せた。普通のオートマチック式拳銃よりも銃身が大きく、スライド部分の左右に何か機械が付いている。新原海介は自慢顔で言った。

「新しく支給された新型自動照準式拳銃。通称、『AIガン』だ」

 三木尾善人は横を向いて小声で吐き捨てる。

「チッ。子越の奴、もう支給しやがったのか」

「子越長官が、どうかしたのかね」

「ああ、いえ、別に」

 新原に手を振った三木尾善人は、撃たれたロボットをもう一度見てから、再度、新原に尋ねた。

「それで、貫通弾を使っているんですか」

「ああ、そうだ。鋼鉄貫通式でないと、ロボット連中には太刀打ちできんからな」

「ちょっと、貸して下さい」

 新原から受け取ったAIガンをまじまじと見回した三木尾善人は、その最新式の銃を握ったまま、起き上がろうと苦労しているロボットの背後に回った。AIガンを握った腕を上げ、銃口をロボットの背中に向ける。AIガンの銃尾の小さなランプが黄色く光っている。少し角度を変えると青くなったり、赤くなったりする。三木尾善人は一度銃を引いて、怪訝な顔でそれを観察し直してから、再びその銃でロボットの背中を狙った。プラスチック製のカバーの部分に照準を合わせると、銃尾のランプが青く光る。三木尾善人は引き金を引いた。背中のカバーを撃ち抜かれたロボットは、ピタリと動きを止めた。そのまま、バランスを崩して前に倒れた。

 歩いてきた新原に三木尾善人は言う。

「大抵のロボットはね、運動機能系統の基盤を狙えば、普通の弾でも一発で大丈夫なんですよ。その部分は、通常は背中部分にあって、プラスチックカバーで覆われています。いざという時の為に、安全対策として強制的に機能停止させる事が出来るようになっているんだそうです」

「詳しいな」

「先日、南米で、もっとでかくて本格的な戦闘ロボットが暴れましてね。その時に仕入れた知識です。この銃、自動で照準を微調整するんでしょ。だったら、普通の弾でそこを狙えばいい。こんな物騒な弾を使うから、ほら、フレームが熱で歪んで、ガタガタだ」

 三木尾善人はAIガンのスライドを引いて中を新原に見せると、それを彼に返した。

 AIガンを受け取りながら、新原海介は感心した顔で言った。

「銃にも詳しいんだな」

「まあね。昔、先輩から教えてもらった知識なんで」

 片笑んだ三木尾善人は、AIガンを背広の中のガンホルダーに戻そうとした新原に言った。

「ああ、ついでに、管理官。撃つ時は、もっと、こう低く構えた方がいいですよ。弾が相手に垂直に当たるようにした方がいい。狙う時は必ず、ここだ」

 新原の胸の中心を指先で突いた三木尾善人は、背を向けて階段を上り始めた。新原海介は三木尾に教えられた通りに両手で構え、腰を落として銃口を三木尾の背中に向けてみる。

 三木尾善人は立ち止まって振り向いた。新原海介は慌てて銃を下ろす。

 三木尾善人は、新原が握っているAIガンを指差して言った。

「それから、それ、もう弾倉が空ですから、装填しておいた方がいいですよ。ああ、次に装填する時は通常弾にした方がいい。貫通弾を使うと、それ以上の発射威力に耐えられなくて、銃口が割れるか、たぶん弾詰まりで暴発します……ああ、くそ。また降ってきやがった」

 三木尾善人は空を見上げた。大粒の水滴が次々と落ちてくる。彼は再び背を向けて、階段を上っていった。

「そ、そうか。分かった」

 AIガンから空の弾倉を引き出した新原海介は、ポケットから通常弾の弾倉を取り出すと、それを装填し、最新式のその拳銃を背広の中のガンホルダーに丁寧に戻した。彼は倒れているロボットと警備員を見回すと、遠くで鳴った雷の音に眉を寄せた。新原海介は階段を駆け上がっていく。

 雨は再び強く降り始めた。



                  三

 ストンスロプ社の会長・光絵由里子の執務室のドアが激しく開けられた。

「邪魔するよ。警察だ」

 三木尾善人はズカズカと中に入っていく。光絵由里子は高い背もたれの木製の肘掛け椅子に座っていた。その前には、同じように背もたれの高い、赤い椅子が二脚、光絵の椅子と鼎座する形で置かれている。

 膝の前に立てた杖の銀細工の頭を握ったまま、光絵由里子は言った。

「今日は、随分と客人が多いわね」

 三木尾善人は赤い椅子を見て言う。

「おや。どうやら、先客でもあったようだな」

 その二脚の椅子のうちの一脚の背もたれが水滴で濡れている。それに気付いた三木尾善人は一瞬、眉間に皺を寄せた。

 新原海介が光絵に警察バッジを見せながら言う。

「警視庁捜査一課管理官の新原です。こちらは三木尾警部。会長に緊急でお伺いしたい案件がありましてね。夜分に失礼とは存じましたが、ご了承下さい」

 光絵由里子は目を瞑り、静かに抗議した。

「警備員を投げ飛ばして、ガードロイドも破壊して、挙句に他人の邸宅に勝手に上がりこんでくるとは、警察も随分と乱暴になったものね」

 三木尾善人が反論する。

「警察ではなく、警察官に問題があるんですよ。昔からでしょ」

 目を開けた光絵由里子は、視線を初老の刑事に向けた。

「面白いわね。あなたが三木尾善人警部ね。噂には聞いています。随分と優秀な刑事さんだとか」

 三木尾善人は赤い椅子に腰を下ろしながら答えた。

「ええ。優秀過ぎて、定年前の今じゃ、係長ですよ。泣けてきますね」

 腰を押さえながら、椅子の温もりを確かめる。椅子は冷たかった。

 光絵由里子は椅子の上で姿勢を正したまま新原に顔を向けた。

「それで、緊急の案件とは」

 新原海介は赤い椅子の間に立ち、正面から光絵を見据えて言った。

「田爪健三。彼を追っています。何かご存知なのでは」

 三木尾善人は両膝の上に両肘を乗せ、前屈みになって光絵を睨みながら言う。

「ていうか、量子銃とかいう危険な光線兵器を持ち歩いている殺人鬼を探しているんだ。奴はどこに居る」

 光絵由里子は毅然とした表情を作って問い返した。

「田爪博士は、南米で死んだのでは?」

 新原海介は顔を曇らせる。

「会長。我々は、既に多くの事実を把握しているのです。ご存知なのですよね。彼の居所を。正直に教えていただけませんか」

「……」

 沈黙する光絵に三木尾善人が言う。

「もう復讐は十分だろう。あんたは目的を達成した。これ以上、犠牲者を出す必要は無いはずだ。放っておけば、田爪は他にもり始めるぞ。奴はどこだ」

 光絵由里子は三木尾に顔を向けた。

「犠牲者? どういう事です」

 三木尾善人と新原海介は、顔を見合わせる。

 光絵由里子は新原の方を見て、強い口調で尋ねた。

「誰が、いったい誰が犠牲になったというのです。量子銃が使用されたのですか」

 新原海介は答えた。

「民間人が一人、文字通り消されました。まだ、マスコミへは発表されていませんが、我々は田爪の犯行だと考えています」

「そんな……」

 一瞬呆然とした光絵由里子は、すぐに新原に視線を向けた。

「その、犠牲者の名は……」

「南智人。真明教の教祖、南正覚です。今朝、彼の車で、抜け殻状態の彼の衣類が発見されました。まだ断定はできませんが、量子銃が使われたものと思われます。おそらく、街の監視カメラのどこかに、田爪の犯行の様子が映っているはずです」

「これで分かったろう。奴はあんた等に制御できるような人間じゃないんだ。奴は自分の正義で他者を裁く。奴の信条に沿わない人間を消していたら、この国の半分の人間は消されちまうぞ。奴は今、どこにいるんだ」

 光絵由里子は杖を握ったまま、床に視線を落とした。

「違う……。違うのです」

「何が」

 三木尾善人は厳しい顔で尋ねた。

 新原海介は説得口調で言う。

「会長。正直に話して下さい。彼の逮捕も重要だが、それよりも、危険な量子銃の回収を急ぐ必要があるのですよ。あんなモノが悪人の手にでも渡ったら、大変な事になるのですよ。お分かりでしょう」

「おそらく、世界中の軍関係者や地下マフィアが奴の居所を探しているはずだ。いや、奴じゃない。奴が持っている量子銃の所在を」

「それに、例のバイオ・ドライブ。それも田爪が持っているんじゃないですか」

 そう言った新原を一瞥して、三木尾善人は少しだけ口調を穏やかにした。

「会長さん。あんた、騙されていたんだよ。あの田爪は、もう、あんたの娘さんを消した事を後悔していた時の田爪じゃないんだ。ただの殺人鬼だよ。実は、あんたは、その事をもう分かっているんだろ」

 新原海介は三木尾に続けて言った。

「彼はどこですか。あなたもこれ以上、罪を重ねる必要はない。犯人蔵匿は犯罪です。刑法犯なのですよ。いずれにしても我々は、ここにも、お宅の本社にも家宅捜査をかける準備を整えています。もし、あなたが今ここで話していただけないのなら、直ぐにでも踏み込むように指示を出すつもりです。勿論、ちゃんと家宅捜索許可状を携えてね。そうなれば、ストンスロプ社グループ全体としても相当に社会的ダメージを被るのでは」

 高圧的な物腰で光絵に迫る新原に険しい顔を向けた三木尾善人は、再び光絵に顔を向けて、耳打ちするように小さな声で言った。

「とにかく、事情だけでも話してもらいたい。我々も協力できる事は協力する。もう、あんた一人で抱え込むことはない」

 三木尾善人は光絵の目を見ながら、今度は注意深く、語りかけた。

「悪事を働いた奴には、俺たち警察がちゃんと責任を取らせる。それは俺たちが背負っている『国家』としての責任だ。請け負うよ」

 三木尾の目を見ながら、光絵由里子は口を開く。

「彼は……」

 視線を三木尾から離した光絵由里子は、目を瞑って答えた。

「健三さんは……田爪健三博士は、もう、ここには居ないわ。今頃はGIESCOに着いているでしょう」

 新原海介はすぐに上着の襟を少し持ち上げ、内側の小型マイクに口元を近づけた。

「ハイパーSAT。聞こえるか。新原だ」

 彼は無線で指示を伝える。

「GIESCOだ。田爪健三はGIESCOに居る。繰り返す。田爪健三はGIESCOに居る。直ちに出動して身柄を押さえろ。武器の使用はこの私が許可する」

 三木尾善人は顰めた顔を新原に向けると、再び光絵の方を向いて、彼女に尋ねた。

「奴は、まだ量子銃を持っているのか」

「ええ」

 新原海介は早口で通信を続ける。

「聞け、ハイパーSAT。奴は量子銃を携帯している。接近する際には十分に注意しろ」

 その間に、三木尾善人は小声で光絵に尋ねた。

「会長。奴は、田爪健三は何をしにGIESCOへ行ったんだ」

「ある重要な仕事のためです」

「重要な仕事? なんですか、それは」

 会話に割り込んできた新原に光絵由里子は言った。

「頭の黒い鼠に話す内容ではないわ」

 一瞬眉を寄せた三木尾善人は、自分のガンクラブ・チェックの上着の袖を鼻に近づける。

「ん。臭うかな。こいつは俺のお気に入りでね。汚れていて悪かったですな」

 新原海介は光絵の顔を見据えて尋ねた。

「それで。バイオ・ドライブはどこです?」

 光絵由里子は瞼を閉じたまま小さく嘆息を漏らすと、横の執務机を顎で指した。

「その机の上にあるわ。先ほど、田爪博士が置いていきました」

「どれだ……」

 新原海介は執務机に駆け寄った。机の上を見回した彼は、その隅に置かれていた小さな弁当箱のような形の黒い金属製の箱を手に取った。

「これか」

 光絵由里子は顔を向けずに頷く。

「そう。それが本物のバイオ・ドライブ」

 三木尾善人は新原が握っている黒い箱に目を遣り、眉間に皺を寄せると、光絵に顔を向けた。

「あんらが『パンドラE』と呼んでいたものは、これの事ですか」

 光絵由里子は、ゆっくりと首を縦に振った。

「ええ。それが、パンドラの箱よ」

 三木尾善人は顔を曇らせる。

 外で雷鳴が響いた。窓には雨が激しく打ち付けていた。



                  四

 新原海介は手に持った黒い箱を丹念に見回した。中央で何か光る物が蠢いている。箱の側面で口を開けている奇妙なインターフェースを眺めながら、彼は光絵に尋ねた。

「ところで、『パンドラE』の『E』は、どういう意味があるのです。何かの略なのですか」

 光絵由里子は首を横に振った。

「いいえ。個体を識別するための、ただの便法に過ぎないわ」

「識別?」

「ええ。そのバイオ・ドライブは、時間の中を移動したために、同次元に同じバイオ・ドライブが存在する時期もありました。また、状況によって、中のデータ内容が変わっています。だから、それぞれを『時期的な段階』に分けて識別するために、我々が使用していたコード・ネーム、それが『パンドラ・シリーズ』」

「つまり、一つのドライブを段階別にABCDEに分けて呼んでいたということか」

「ええ」

 新原海介は頭を掻いた。

「ううん。よく分からんが、三木尾君、どういう事なんだね」

「私に訊かれてもね……」

 そう言った三木尾善人は、改めて光絵に申し入れた。

「詳しく説明してくれないか」

 光絵由里子は暫らく間を空けてから、返事をする。

「いいでしょう。呼称の違いには意味が無いと思いますが、お話ししましょう」

 彼女は新原の顔を見て尋ねた。

「もともと、バイオ・ドライブは二台あったという事は、ご存知かしら」

「いや。二台だって? もう一台あるのかね、三木尾君」

「だから、俺に訊くなって」

 そう言った三木尾善人は、光絵の顔を一瞥すると、新原管理官に言った。

「でも、科警研の岩崎は、当初からドライブが二台存在した可能性を示唆していました。ああ、すみません。報告書が、まだでしたね」

「どうして、そんな重要な事を……」

 三木尾を睨み付けた新原海介は、黒い箱を握ったまま再び光絵の前に歩いてくると、立ったまま彼女を見据えて言った。

「それで。その、もう一台のバイオ・ドライブは、どこにあるのです」

 三木尾善人は椅子に腰掛けたまま、手を振った。

「まあ、そう焦らんでも。話を聞きましょうよ。管理官」

 新原海介は厳しい顔で三木尾を睨みつけると、語り始めた光絵由里子に視線を向けた。

「二〇一八年に、あの生体バイオ・コンピュータ『AB〇一八』を開発したNNC社は、それ以前に試作機として、小型の生体型記憶装置、つまりバイオ・ドライブを二台、作成していたのです。そして、その二台のバイオ・ドライブのそれぞれから抽出されたDNAを配合して生まれた個体を細胞増殖させたものが、AB〇一八」

 三木尾善人は新原の手の中の黒い箱を見ながら言う。

「なるほど。バイコンのアダムとイブって訳か。AB〇一八の方が親かと思いきや、実は子供だったという事だな。いや、コピーか……。いずれにしても、DNAが適合する。だから接続にも拒絶反応が出ないという事か」

 光絵由里子は頷いた。

 新原海介は話を促す。

「それで、バイオ・ドライブは」

 光絵由里子は続けた。

「その始祖とも言える二台のバイオ・ドライブのうちの一台が、赤崎教授を経て、若き日の田爪健三に渡った。それをGIESCOでは『パンドラA』と呼んでいます。ちなみに、『A』はancestor(原種・祖型)のAよ」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて、上着の中に手を入れた。

 少し身構えた新原海介は彼に何か言おうとしたが、三木尾が取り出したのが古いスマートフォンだったので、新原は口を閉じた。

 三木尾善人はパネルにタッチして辞書機能を立ち上げる。和英辞書で光絵が言った単語を検索しながら、彼女の話に耳を傾けた。

 光絵由里子は語り続ける。

「その後、田爪博士たちは『パンドラA』を使って、二〇二一年に仮想空間での時空間逆送実験に成功した。しかし、驚くべきは、その実験の前提となった事実です。それまで不可能とされていた有機物のコンピュータAB〇一八と無機物のコンピュータIMUTAの結合を、田爪博士が、いとも簡単にやってのけたのです。そして彼は、結合させて完成したSAI五KTシステムを使って、完全な仮想空間を再現し、その中で時空間逆送実験を行った。その際にデータのアップロードとバック・アップのダウンロードのために『パンドラA』がAB〇一八に接続されたのです。一時的に」

 三木尾善人はスマホの辞書を見ながら言った。

「要するに、一時メモリーとして使ったんだな。そして、その接続の時に、何かが起こった」

「ええ。おそらく」

 頷いた光絵由里子は、続きを話した。

「何らかの原因で、SAI五KTシステム全体をAB〇一八が乗っ取る事となってしまいました。そして、その悪影響が、接続されたバイオ・ドライブにも感染したのです。私達はそう仮定しています。そこで、この時点からの同じバイオ・ドライブを『パンドラB』として区別する必要が生じました。『B』は、birth。新生」

 顔を上げた三木尾善人は、光絵の顔を見据えて言った。

「なるほどな。このところのSAI五KTシステムの異常は、やはりAB〇一八が原因って訳か。そして、その鍵が、その『パンドラB』の中にある」

「そういう事ね。今となっては……」

「何が生まれたんだ」

 三木尾の問いに光絵由里子は素直に答えた。

「おそらく、新種のマルウェアよ。それも、オリジナルのセマフォ・プログラム。GIESCOの研究員の予想では、セグメンテーションページングを独自応用した排他制御プログラムの可能性が高いという事です。あるいは、連続的に生じるジョセフソン効果を利用してバースト誤りを偽装し、それによって、仮想セグメントを構築させようとする……」

 三木尾善人は光絵の顔の前に手を広げる。

「ちょっと待て、解るように説明してくれ」

 光絵由里子は少し溜め息を吐いてから説明し直した。

「つまり……乗っ取りプログラムです。マルチタスクシステムの隙を突いて、自分を優位の状態にする。そして、常にマスター・システムの地位に就き続ける」

「要するに、接続相手を強制的に制御するプログラムか……そんなものが、ドライブの中に書き込まれてしまったのか」

「そのたねのようなものです。その種を、AB〇一八は自らのニューラル・ネットワークで更に発展させ……」

 新原海介が話を元の軌道に戻した。

「で。『パンドラB』はどうなったのですか。バイオ・ドライブは」

「その『パンドラB』は、田爪博士から私の娘、瑠香へとプレゼントされました。実験成功の記念品として」

 三木尾善人が推理を交えて事情を話し、光絵に確認する。

「田爪が第二実験で消息を絶った後、司時空庁が飛ばしているタイムマシンの欠陥を見抜いた娘さんは、『パンドラB』がタイムマシンの制御に利用できるのではないかと考えた。いや、夫の田爪健三の実力を知っていた彼女は、田爪なら『パンドラB』を使って、完璧なタイムマシンを作れると信じていた。だから、それを田爪に渡そうと、司時空庁の欠陥タイムマシンに乗った訳か。連中の勧めに応じるふりをして。気の毒に……」

 光絵由里子は静かに首を横に振った。

「どう言う理由かは私には分かりません。でも、娘は実際に、それを南米まで運んだのよ。自らの命と引き換えにして」

「だが結局、田爪健三は、娘さんが運んだ『パンドラB』に量子銃や量子エネルギープラントの設計図や実験データ等の情報を書き込んだ訳だな。そして、そのドライブを記者の永山に託し、彼がタイムマシンに乗せて二〇〇三年に送った。まあ、年代は偶然だったか、もしくは、田爪の設定ミスかもしれんが」

 そう話す三木尾の目を見て、光絵由里子は頷いた。

「ええ。その通りよ。そして、この時に南米で田爪博士が情報を書き込んだ以降のドライブを『パンドラC』と呼ぶ事にしました。『C』は、completion(完成)だけれど、私に言わせれば、complaint(不平の種)の『C』ね。まったく、随分と面倒な情報を書き込んでくれたわ」

 三木尾善人はスマートフォンの辞書で単語を検索しながら、光絵に尋ねた。

「それで、二〇〇三年に送られた後、その『パンドラC』は、どうなったんだ」

「二〇〇三年に到達したドライブは、更にこの時点から別個体として識別されます。それが『パンドラD』。時を飛び越えて、その時代に存在しないはずの技術や知識が出現したのです。明確に識別しなければなりません。お分かりね。『D』はdanger(危険・脅威)の『D』」

「それで」

 三木尾善人は彼女に話を続けさせた。

「我々が回収し、GIESCOの前身のストンスロプ研究所が解析に取り掛かったのですが、結局、何も分かりませんでした。その当時は、それが一体何なのかすら、解明できなかったわ」

 床に視線を落として語っていた光絵由里子は、再び目を瞑り、話を続けた。

「その後、今の体制となったGIESCOで『パンドラD』の重要性がようやく解ってきました。二〇一八年にNNC社がAB〇一八の開発に成功し、翌年にはGIESCOがIMUTAの開発に成功した。そして、二〇二〇年に田爪博士が両者を繋いで、SAI五KTシステムを完成させた。推論ではありましが、その時になってようやく、我々は『パンドラD』がバイオ・ドライブである事を認識したのです。ですが、まだ、真の価値には気付いませんでした。その利用価値に……。そして、今、それを利用すべき時が来たのです」

 三木尾善人は光絵に鋭い視線を送った。

「制御チップとして使うんだな。暴走するAB〇一八の言わば生みの親であるバイオ・ドライブは、唯一、AB〇一八に拒絶されることなくダイレクトに接続でき、情報を送受信できる周辺機器だ。そのドライブに『乗っ取りウイルス』が潜伏しているなら、そのウイルスを利用して、AB〇一八を乗っ取ってしまえばいい。そういう事か」

 目を開けた光絵由里子は、三木尾に視線だけを向けて答えた。

「そうです。流石ね、警部さん」

 そして新原の顔を見て言う。

「ドライブの価値がはっきりした時点からの個体を、我々は新たなコードネームをもって識別する事にしました」

 新原海介は自分が持っている黒い箱を見つめながら呟いた。

「それが、『パンドラE』か……」

 光絵由里子は言う。

「その『E』は、enter(侵入)の『E』。これで、AB〇一八を制御できるかもしれない。誰かが、それをAB〇一八に接続し、あの中に制御プログラムを侵入させなければなりません。その期待の意味を込めたのです」

 三木尾善人は真剣な顔で光絵に尋ねた。

「あのスーパー・コンピューターの中で、いったい何が起こっているんだ」

 光絵由里子は険しい顔を三木尾に向けた。

「AB〇一八は、無限の神経ネットワークを作り出しています。時間の壁を超えて、演算処理を行っているのです。このままでは、いずれ、人間の支配領域を超えてしまう。クラマトゥン博士の計算によれば、既に実行可能な人類の演算速度の限界は超えています。そして、我々人類が知りうる理論上の物理的限界すら何らかの方法で超えてしまう。それも、早ければ約一ヵ月後に。そうなると、完全に『時の流れ』をあの機械に支配されてしまうわ。我々人類は、何も手を打てなくなる」

 両膝の上に両肘を載せたまま、前に項垂れた三木尾善人は、気を取り直したように顔を上げて言った。

「そうかい。じゃあ、そういった大事は、政府の手にゆだねるとしよう。そんな事よりも、重要なのは……」

 新原海介が口を挿む。

「もう一台のバイオ・ドライブだ」

 三木尾善人は溜め息を漏らすと、顔を横に振った。

「――世界中が血眼になって探している、最先端の科学技術の結晶を詰め込んだバイオ・ドライブが、実は二〇〇三年から二〇三八年現在まで、ずっとGIESCOに保管されていたって訳か。聞いて呆れるぜ」

 新原海介が光絵に尋ねた。

「それでは、会長たちは、今までの事態を事前に何もかも知っていたという事ですか。いや、それだけじゃない。田爪が永山のインタビューで語っていた東北震災や九州豪雨の事も事前に……」

 彼の質問が終わらないうちに、三木尾善人が新原に言った。

「いや、それは無いですね。ストンスロプ社、というかGIESCOが二〇〇三年に手に入れたのは、タイムマシンと、中を見る事が出来ないバイオ・ドライブだ。ああ、あと永山が乗せた耐核熱金属板。それらからは、未来の出来事までは分からない。未来の出来事を記録していたのはレコーダーの方だ。永山と田爪の会話を収録したICレコーダー。そして、そのレコーダーは、二〇〇三年の事故当時、警官として現場に居合わせた南が、その場から持ち去っている。だから、このご婦人は、本当に未来の事は何も知らなかったのでしょうよ」

 光絵由里子は驚いた顔を三木尾に向けた。

「南……真明教団の南正覚のことですか。量子銃で犠牲になったという……」

 三木尾善人は頷く。

「ええ」

 光絵由里子は唖然とした顔で呟いた。

「彼がレコーダーを……。それは初耳だわ。まさか、その為に田爪博士に……」

 三木尾善人は冷静に光絵に答えた。

「いや、それはまだ、断定は出来ません。ですが、おそらく関係があるでしょうな。それに、これも推測だが、真明教の連中がGIESCOにハッキングを仕掛けていたのも、奴らが『パンドラE』の存在を知っていたからでしょう。奴らは未来から届いたバイオ・ドライブの存在も、それをストンスロプ社が隠している事も知っていたんだ」

 そして、新原の方を向いて言った。

「逆の言い方をすれば、こちらの方々は、レコーダーの情報が無いから、『パンドラE』の中身が何なのか知り得なかった。ついこの間、永山記者による田爪へのインタビューの中身が公開されるまではね」

 少し考えた新原海介は頷いた。

「そうか……やはりGIESCOは、『パンドラE』に書き込まれている情報を引き出す技術を持っていなかったという事か。では、未だに量子銃の設計データや量子エネルギープラントの設計データは、誰も手に入れられてはいない訳だな」

「そういう事ですよ。情報を引き出せなかったんです。通常の無機物インターフェースでは、バイオ・ドライブに拒絶反応が出てしまい、接続できない。当然、IMUTAもそうだ。ならば生体同士、AB〇一八に接続すれば簡単に情報を引き出せただろうが、ASKITの実質的支配下にあるAB〇一八に、あんたらは近づけなかった」

 三木尾善人は光絵を軽く指差した。光絵由里子は黙って頷く。それを見た新原が言った。

「では、辛島総理がASKITの掃討作戦を実行したのは……」

 三木尾善人は光絵を見たまま新原に答えた。

「おそらく、こちらの会長さんの差し金でしょうね。そうすれば、AB〇一八は、何らかの形で政府の実質的管理下に入り、その結果、政府に顔が利くストンスロプ社は、手許の『パンドラE』を自由に接続できるようになる。だが、一つだけ大きな問題があった」

「大きな問題? バイオ・ドライブにかね」

 新原海介は手元の黒い箱と光絵の間で視線を往復させた。

 三木尾善人は新原に言う。

「いえ。たぶん、自信が無かったんですよ。GIESCOの連中には。未知のウイルスが潜伏している『パンドラE』をAB〇一八に接続しても、本当にAB〇一八を制御できるのか。だって、中の情報が分からない訳だから。それで、どうしても、AB〇一八に『パンドラE』を接続する前に、中の情報を引き出して確認する必要があった。だから、天才科学者、田爪健三を必要とした。なんせ、生体であるAB〇一八と、金属の塊のIMUTAの結合に成功した唯一の科学者だからな。普通のパソコンを使って中のデータを引き出せるかもしれない。ま、実際に奴は、南米のジャングルの中に居る時に、何らかの方法で、バイオ・ドライブに書き込みを行っている訳だが。それで、イヴンスキーとか言うゴースト・クラスの国際犯罪者を使ってまで、血眼になって田爪の所在を探索したんでしょう。で、おそらくその最中に、現地で永山という記者が田爪を探しているという情報を得た」

 三木尾善人は厳しい顔を光絵由里子に向けた。

「あんたらはイヴンスキーを使って、永山に先回りして田爪に接触した。日本で起きている事態と事の緊急性を理解した田爪は、あんたらに協力すると約束し、その後、永山のインタビューで自分の罪を独白するに至った。あとはイヴンスキーが田爪の死を偽装し、奴を日本国内に連れ込んだ。そこまで準備が整えば、あとは邪魔者を排除すればいい。それで、辛島総理を動かして、ASKITを掃討させた。そういう事だろ」

 光絵由里子は首を横に振る。

「イヴンスキーを手配したのは、パノプティコンの連中よ。彼らは以前から『パンドラE』に強く関心を寄せていたわ。ですが、決して積極的に動こうとはしなかった。事態を観察し、分析し、巧妙に手を回して、物事を整理する。それが連中のやり方です。そうやって何千年も前から、世界の秩序を裏で管理してきたのよ。この世界で起こってきた歴史的事件の多くは……」

 三木尾善人は光絵の話を止めた。

「パノプティコンの解説は、今はいい。それで、その腰の重い秘密結社の親玉が、どうして急に動き出したんだ」

「おそらく、対抗していた新興勢力のASKITが、そのうちに壊滅する事を確信したのでしょう。辛島総理がASKITの拠点島を深紅の旅団レッド・ブリッグに襲撃させようと検討していた事を知った彼らは、本格的に『パンドラE』を開く方法を探し始めたわ。連中にとっては『確実さ』が命題なのです。ASKITが壊滅した後なら、確実に『パンドラE』を手中にできる。つまり、AB〇一八を制御してSAI五KTシステムを管理できるわ。確実に。それで、『パンドラE』を開く術を知っている田爪博士をイヴンスキーに探させたのでしょう。確実に『パンドラE』をAB〇一八に接続し、中の情報を引き出すために。既に『パンドラE』を所持していた我々は、田爪博士の捜索という点では、彼らと利害が一致します。それで、彼らと手を組む事にしました。でも結局、我々は彼らに利用されたに過ぎないようね」

 三木尾善人は苦笑いしながら首を傾げた。

「さて、それはどうかな。利用していたのは、会長の方かもな。娘さんを消し去った男を捜したくなるのも、当然と言えば、当然だ」

 光絵由里子は視線を床に落としたまま、虚ろな目で答えた。

「復讐。確かに、それも考えたわ。ですが、今では、そんな事を言っていられなくなりました。AB〇一八の演算速度は日々、理論上の限界値を超え続けている。これ以上の加速化が進めば……」

 新原海介が再び口を挿む。

「そうすると、もう一台の方は。最初の二台のバイオ・ドライブのうちの、もう一台。そっちの話は、どうなったのです。やはり、殿所教授を経由して高橋諒一に」

「ええ。そちらは『パンドラF』と呼んでいます。そして、その『パンドラF』が高橋博士の人生を狂わす原因ともなった……」

 悲しげに眉を寄せた光絵由里子は、語り続けた。

「実際には、一九八一年に飛んだもう一人の高橋諒一に唆されてやった事なのでしょうが、若き日の高橋諒一は、殿所教授が保管していたバイオ・ドライブを密かに持ち出し、当時完成したばかりのIMUTAに、我々に無断で接続しようとしたのです」

 三木尾善人がスマートフォンを上着に仕舞いながら、光絵に確認する。

「二〇二〇年辺りの話だな。科警研の岩崎が、その当時の記事を探し出してきたよ。たしか、ここへの遷都計画が密かに動き出した頃だ」

「そうね」

 そう返事をした光絵由里子は、続きを話した。

「周知のとおり、IMUTAは我々が開発した量子コンピュータ。生体型のハードとは親和性を持たないわ。残念な事に、高橋博士は、その齟齬を埋められるだけの科学的才能を持ち合わせてはいませんでした。案の定、彼の無理なドライブ接続によって、IMUTAはフリーズし、大事となってしまったのです」

「だが、頃は二回目の東京オリンピック真っ最中だ。五輪のニュースに隠れて、大きくは報じられなかった。いや、あんたらが隠蔽したのかもしれんがな」

 光絵由里子は三木尾の指摘に返事をしなかった。彼女は新原の顔を見て話す。

「とにかく。その事故によって我々ストンスロプ社全体が受けた損害は甚大なものでした。ですが、我々は、高橋博士に損害の賠償を求める事はしませんでした。彼が所持していたバイオ・ドライブを、研究の為にGIESCOに提供してもらう事で、和解が成立したのです」

 三木尾善人が床を見たまま光絵に言った。

「本当は、膨大な額の賠償金を高橋に請求して、その支払いの免除を餌に、バイオ・ドライブの提供を迫ったんだろ。なんせ、ライバル会社のNNC社が作ったAB〇一八を解析する格好の材料だからな。違うか」

「双方が納得の上での、科学の発展のための建設的な妥協よ。未来のためのね」

 三木尾善人は首を傾げると、光絵由里子に言った。

「それで、『パンドラF』を手に入れてみたら、あら、びっくり。手元の『パンドラE』と、ほぼ同じものだったという訳だな」

「そうです。その時から、我々は、自分たちが保管していた未来からの贈り物が、未知のデータが入ったバイオ・ドライブであると確信したのです。その後、新日社が永山記者による田爪博士へのインタビューの内容を公開した時点で、ようやく、真相を理解しました。我々が各時点のバイオ・ドライブに識別コードを付して、その足跡を整理する事にしたのは、それからの事です」

 新原海介は眉間に皺を刻む。

「それで、もう一つのバイオ・ドライブ……その『パンドラF』の方は、今、どこにあるのです。GIESCOですか」

 光絵由里子は目を瞑り、首を左右に振った。

「いいえ。無いわ。もう、この世には」

「無いだって? 廃棄してしまったのですか。そんな貴重なものを」

「燃え尽きてしまったのよ。あの爆発事故で」

「爆発事故?」

 顔を顰めている新原に三木尾善人が説明した。

「あの核爆発事件ですよ。二〇二五年の大爆発事故。あの時、現場で防災隊に発見されたのが、その『高橋が提供したドライブ』なのでしょう。つまり、パンドラF」

 光絵由里子は口角を上げた。

「さすがに、勘が鋭いようね」

 そして、ゆっくりと頷く。

「そう。あの時の実験場に、二〇三八年、つまり先日のASKITの拠点島の襲撃の際に、『過去』へと逃げた西郷が乗ったタイムマシンが、突如として現われたのです」

 三木尾善人が後を続けた。

「そして、そこに在った『もう一機のタイムマシン』と衝突したか、重なって出現してしまい、大爆発を起こした。その『もう一機のタイムマシン』というのが、南米で記者の永山が二〇三八年から二〇〇三年に送っちまったマシンだな。田爪健三が廃材を集めて開発したオリジナルのタイムマシン。ああ、これも科警研の岩崎の分析の受け売りです」

 三木尾善人は新原に顔を向ける。

 新原海介は、三木尾を指差しながら確認した。

「それは、その、君が二〇〇三年の交通事故の現場に出現したと言っていた、あのマシンの事かね。田爪瑠香の両親が死んだ、あの事故現場の」

 光絵由里子が彼に代わって答えた。

「そうよ。全て警部さんの言う通り。あのタイムマシンは、二〇〇三年の事故現場で我々が回収し、GIESCOで保管され、ずっと研究されていました。技術を解析するために。O2電池も新式のロボット技術も、全て、あのマシンの技術解析の過程で、それからヒントを得て、我が社が作り出したものよ」

「GIESCOも、新技術の開発だの発明だの言っていたが、要は、ただのカンニングだったって事ですよ。真明教の南正覚と同じ」

 新原にそう言った三木尾善人は、両肩を上げた。

 光絵由里子は淡々と話を続ける。

「最終的には、マシンの全ての技術を解析し尽す事が、我々の目標でした。しかし、GIESCOによって技術解析がされ尽くすと、今度は、そこから予想された定理や公式の真偽を確かめる必要が出てきました。そのタイムマシンを基に、我が社が発明した多方面に渡る新技術は、既に世界中のあらゆるモノ、人に利用、応用されています。その基になった未来の科学技術を我々は真に理解しているのか、それを確認する事も、企業としての責任です。その為には、一刻も早く、そのタイムマシンを本来どおり起動させ、通常通り安全に使用する事ができるか確かめなければならなかったわ。我々の理解が正しいものであれば、あのマシンを安全に迅速に起動させる事が出来るはずです。我が社が田爪博士と高橋博士のプロトタイプ・タイムマシン発射の初期実験を支援してきたのも、その実証性を確認するためでした。そして、二〇二五年のあの日、田爪博士が未来から送ったタイムマシンを密かに起動させようと、実験場に運んだのです。当日は、安全と秘密保護の観点から、実験施設の全ての職員に休暇を取らせ、試験場を無人にして、遠隔操作で起動実験を実施する事になりました。取り仕切ったのは、現GIESCO所長の内田博士です。そして、実験を数分後に控えたその矢先、西郷が乗った別のマシンがそこへ現われました。突如として、そこへ。そして、あの大惨事となったのです。勿論、全ての事が、今になり解った事で、当時は爆発の原因すら解明できなかったのですが……」

 眉間に皺を寄せて聞いていた三木尾善人は、彼女の話が終わらないうちに話し始めた。

「じゃあ、準備していた、その実験機……ああ、つまり、二〇〇三年に回収したマシンの方に、『パンドラF』を乗せていたのか」

「ええ。制御用のメインコンピュータとして代用しようと考えたのよ。二〇二五年当時は、あれだけの論理演算ができる小型の集積回路は、まだ存在しなかったわ」

「どうやって、繋いだんだ」

「機体に、接続用のインターフェースらしきものが設置されていました。原理は解明できなかったけれど、バイオ・ドライブのインターフェースである事は解っていた。そして、実際に接続自体は出来たのです。それ故なおさら、その起動可能性を確かめる必要があったのです」

 新原海介が怪訝な顔で尋ねた。

「しかし、その時点でGIESCOには『パンドラE』が保管されていたのでしょう。それなら、そのインターフェースに『パンドラE』を接続すれば、その中のデータも取り出せたのでは? あなた方がタイムマシンを回収した二〇〇三年以降なら、それが可能だったはずですが。あなたの話によれば、少なくとも二〇二〇年頃からは、『パンドラE』がバイオ・ドライブである事には、気づいていたのでしょう」

 光絵由里子は落ち着いた様子で答える。

「『パンドラE』は、未来から届いた、この世に一つしかないドライブなのです。しかも、その時点では中にデータが書き込まれているかさえ、不明でした。未来から届いた、全く未知のドライブなのです。その使用には、慎重に慎重を重ねるのが当然でしょう」

 三木尾善人が補足的に意見を述べた。

「なるほどな。ろくに解析も出来ていない未知の乗り物から飛び出したインターフェースに繋いだ途端に、中のデータが消えましたじゃ、洒落にならんからな。代用品でリハーサルをする必要はあるわな。そりゃ」

 光絵由里子は頷く。

「ええ。それに、GIESCOの科学者たちの計算では、当時、あのタイムマシンを再起動させる為には、膨大なエネルギーを必要とするとの事でした。まだ、量子エネルギーのコントロールと蓄積技術を手にするに至っていなかった我々は、それに代わるエネルギーとして電力を使用することにしました。しかし、電力だけであのマシンを動かすとなると、年間の国内消費電力量の約半分に相当する電気量を、一瞬で消費してしまうのです。折りしも、国内の電力供給量に不足が生じていた時期に、そんな実験は簡単には出来ませんでした。なんとか政治家を動かして、必要な電力供給を確保し、ようやく起動実験に取り掛かれるようになったのが、二〇二五年なのです。そして、万一の事を考えて、実験には『パンドラF』を使用する事にしました。警部さんの言うとおり、リハーサルね。さらに、万一の事態が起こっても、『パンドラF』を確実に回収して分析できるようにと、二〇〇三年にドライブと共にタイムマシンに乗せられて送られてきた未来の金属で『パンドラF』を覆う事にしたのです」

 三木尾善人の鋭い視線が光絵に向けられる。

「耐核熱金属か。永山が自分の代わりの『重石』としてタイムマシンに積み込んだ」

 新原海介も光絵に言った。

「ところが、起動させる前に、西郷が乗ったタイムマシンが現われ、重なり、量子反転爆発を誘発して大爆発が起きてしまった。そして、防災隊が爆発現場から、その焼け残った『パンドラF』を回収し、それが司時空庁に渡った。という事ですね」

「ええ。でも、その後、ASKITの連中が司時空庁から盗み出して、自分達でAB〇一八に接続してしまったわ」

 三木尾善人は光絵の顔を見据えて言う。

「その時にAB〇一八が、また何かを書き込んだ訳だ。その『パンドラF』に」

 光絵由里子は首を縦に振った。

「おそらく、タイムマシンや量子銃、量子エネルギープラント等の偽の設計図や、架空の実験データでしょう。我々と同様に、悪知恵の働く奴だわ。そして、AB〇一八の演算どおり、西郷は偽のデータが書き込まれている『パンドラF』を持って、二〇二五年に逃亡を図ったのです。高橋博士が作ったタイムマシンで」

「二〇二五年に現われた、そのタイムマシンは、そのまま、あんたらが実験準備の為に設置していた、二〇〇三年に回収したタイムマシンと重なって爆発。それにより、西郷が握っていた『パンドラF』は蒸発か……」

 三木尾がそう続けると、新原海介は光絵に顔を向けた。

「じゃあ、そのAB〇一八が捏造した偽のデータに、ASKITも司時空庁も振り回されていたというのかね。すると、『F』というのは……」

 光絵由里子は口角を上げて答える。

「fake(捏造)の『F』。――笑えないジョークね」

 光絵由里子は静かに片笑んだ。

 三木尾善人も苦笑いしながら、静かに首を横に振った。



                  四

 椅子から腰を上げた三木尾善人警部は、室内を見回した。

「さてと……そんじゃ、どうしますかな」

 上司に指示を求めるように、新原に顔を向ける。新原海介は何かを言おうとした。その時、入り口のドアが蹴破られ、防弾性の白い甲冑を身にまとった武装警官が突入してきた。肩で構えた小銃を新原と三木尾に向けて、荒声を上げる。

「よし。全員動くな。警察だ。両手を上げろ!」

 武装警官を押し退けて前に出てきた石原宗太郎が、慌てて叫んだ。

「待て待て待てっ! 警部だ。三木尾警部と新原管理官。銃を下ろせ」

 その後ろから中村明史が駆けつける。

「警部、ご無事でしたか……」

 武装警官たちは銃口を床に向けた。

 石原宗太郎がスーツに載った雨粒を払いながら言った。

「いやあ、遅くなりました。善さん、すみませんね、ハイパーSATの奴ら、血の気が多くて……」

 三木尾善人警部は鼻に皺を寄せた。

「いや、ちょっと早過ぎたくらいだな」

「え? なぜです?」

 意を得ない顔をしている中村の隣で、石原宗太郎が室内を見回しながら三木尾たちに尋ねた。

「で、田爪の奴はどこですか」

 三木尾善人は怪訝な顔を石原に向けた。

「なんだ。聞いてなかったのか。GIESCOだとよ」

「GIESCO? 居ないんですか、ここに」

 三木尾善人は椅子に端然として腰掛けている光絵を見ながら言った。

「ああ、光絵会長が本当の事を言っていればの話だが、ま、嘘じゃないだろうよ。今頃、ハイパーSATの別働隊が身柄を押さえているだろうぜ。ね、管理官」

 室内の探索を始めたハイパーSATの隊員たちを見ていた新原海介は、少し慌てて答える。

「あ、ああ。そうだな」

 石原宗太郎は新原を一瞥した後、濡れている頭を掻きながら言った。

「いやあ、しかし、警部。内心、焦りましたよ。だって、入り口に気絶したガードマンと撃たれたガードロイドが転がっているんですもん。お二人とも、無事でよかったです」

「部下にこんなに心配されるとは、有り難いねえ」

 三木尾善人は両肩を上げた。

 中村明史が三木尾に尋ねる。

「田爪が居ないと分かったのに、ここで何してたんです?」

「いやな、そちらの会長さんから、例のバイオ・ドライブについての、信憑性がありそうで、なさそうな説明を聞いていたんだよ。ああ、これがそのドライブだ。『パンドラE』」

 三木尾善人は新原が握っていた黒い箱を指差した。

 石原宗太郎が視線を向ける。

「それですか。意外と小さいんですね」

 新原から手渡された黒い箱を、中村明史は天井のシャンデリアに翳して細かく観察した。

「これが『パンドラE』かあ……」

「やりましたね、善さん。コラッ。中村、俺にも見せろ」

 石原宗太郎は中村に駆け寄った。

 三木尾善人は自分の後頭部を叩きながら顔を顰める。

「さて、どうしたものかな……」

 黒い箱を石原に渡した中村明史が尋ねた。

「何か問題ですか?」

 三木尾善人は再度、その黒い箱を指差した。

「そいつを普通の証拠品と同様に扱っていいものかと思ってなあ。なんせ、そいつを繋げば、AB〇一八を完全に制御できちまうかもしれないという代物だ。外交問題の火種にもなりかねんだろう。世界の覇権を握れるかもしれないんだぞ。その箱で。そんな重要物件が、そのまま警視庁の証拠品庫に直行って訳にもいかんだろう。――ねえ、新原管理官」

「そうだな。だが、その前に先ず、そのドライブが本物の『パンドラE』なのかを調べる必要があるな」

「それも、そうですな」

 三木尾善人が頷くと、新原海介は言った。

「科警研で早急に分析してもらうべきだろう」

「ですね」

 三木尾善人は石原と目を合わせる。

 新原海介は石原の前に手を出した。

「貸したまえ。私が科警研に持って行こう。三木尾警部。念のため君たちは、ハイパーSATの隊員達と邸内の捜索を行ってくれ。彼女が嘘を言っているかもしれん。この屋敷の中に田爪が潜んでいないか、くまなく調べて確認するんだ」

「了解しました。じゃあ、中村。お前、運転してさし上げろ。雨も降ってきたようだし、時間も時間だ。夜道を警護も付けずに、こんな重要物件を管理官一人に運んでいただく訳にはいかん。おまえ、つい先日に科警研に行ったばかりだから、道も分かるだろう。ここからなら、三十分はかからんはずだ。それから、管理官」

「なんだ」

 三木尾善人は、椅子の上で目を瞑って沈黙を守っている老女を一瞥した。

「光絵会長は、どうしましょう」

「そうだな……」

 新原管理官が思案していると、三木尾善人が提案した。

「とりあえず、『任意』という事で、本庁でもう一度、お話をお伺いしますか。犯人蔵匿と証拠隠滅の疑いもありますし」

「そうだな。そうしてくれ」

 新原の了解を得て、三木尾善人はすぐに部下たちに指示を出した。

「じゃあ、石原。お前、光絵会長を車まで頼む。ああ、杖をついていらっしゃるからな、段差には注意してさし上げろよ」

「はい。了解です」

「ほら、中村。ボサッとしてないで、さっさと車を準備しないか。最後まで気を抜くな。気合入れろ、気合」

 中村明史刑事は口を尖らせて首を前に出すと、廊下へと出て行った。新原管理官が上着のポケットに黒い箱を無理して押し込みながら、後をついて行く。彼を目で追っていた石原宗太郎は、光絵由里子が椅子から腰を上げと、彼女が立ち上がるのを丁寧に補助した。

 三木尾善人は室内を見回してから、口の左右に手を添えて、大声で叫ぶ。

「それでは、ハイパーSATの皆さーん。これより、手分けして邸内の捜索を開始しまーす。デコボコの見慣れない銃器を持った、白髪頭の科学者らしき人物を見かけたら、躊躇せずに逮捕しましょう」

 三木尾善人は光絵の執務机の後ろに回り、その下を覗いたり、カーテンの裏を確認したりし始めた。



                  五

 降りしきる雨の中、黒いAIセダンがワイパーを早く動かしながら、東西幹線道路の整備された路上を走っている。その黒い覆面パトカーは赤色灯を回していなかった。周囲に車が走っていないからだ。閑散としている夜の幹線道路を見回しながら運転していた中村明史刑事は、大交差点の向こうに明るく揺らめく光りを見つけた。彼は目を凝らしながら、後ろの席に座っている新原管理官に言う。

「あれ、何でしょうね。火事かな。だから通行止めになっているんですかね。通行車両がやけに少ないですもんね」

「そうかもしれんな」

 後部座席の新原海介は、素っ気なく答えた。

 無線機に手を伸ばした中村明史は、右の方にも光源がある事に気付き、そちらを望んだ。

「向こうも、何か煙が立ってますね。昭憲田池の方角ですよね……」

「中村君……と、言ったかな」

 無線機から手を離した中村明史は、バックミラーを見ながら答えた。

「はい。何でしょう」

「科警研まで、あと、どの位かね」

「そうですね……。この辺からですと、あと二十分か三十分ってところでしょうか。随分と道が空いてますし」

「そうか」

 そう答えた新原海介は、上着の中に手を入れたり、ズボンの左右のポケットの中を漁り始めた。

 バックミラーで新原の様子を伺っていた中村明史刑事が尋ねる。

「どうか、されました?」

「ああ、いや。言われてみれば、確かに三木尾警部の言う通りだと思ってね。この『パンドラE』は、国際的にも注目されている重要物件だ。相手が、いくら身内の科警研だからと言って、そのまま裸で手渡しという訳にもいかんだろう。何かに入れておかんと、体裁が悪い。規則にも反するしな」

「そうですね……」

「証拠品保管用の袋があったはずなんだが、どうやら、忘れてきたみたいなんだ。君、持っていないか」

「あ、いいえ。ここには。後ろのトランクになら、一式揃えてあるはずですけど……」

「そうか。では、ちょっと、車を停めてくれるか。トランクを開けてくれ。私が取ってこよう」

 中村明史刑事はブレーキを踏んで車の速度を落とし、ウインカーを点滅させてハンドルを切った。黒いAIセダンは路肩に寄り、遮音壁に近い位置で停止した。

 中村明史刑事はトランクを開けると、ハザードランプを点滅させ、急いでシートベルトを外す。

「あ、自分が取りに行きます。外は雨が降ってますので。少々、お待ち下さい」

 ドアを開けた中村明史刑事は、どしゃ降りの雨の中に飛び出すと、小走りで車の後ろに回った。

 閑散とした夜道に、連続してアスファルトを叩く雨音と、規則正しく繰り返すハザードランプの点滅音が響く。フロントランプを点けたまま路肩に止まっている黒いAIセダンの後ろで、トランクに上半身を入れ、中村明史刑事が懸命に中を探っていた。

 ドアが閉まる音がして、水溜りを踏みしめる足音が近づいてくる。

 雨の中、車から降りてきた新原海介は、中村に言った。

「どうだね。有ったかね」

 中村明史刑事は腰を折ってトランクの中を覗きながら答える。

「あ、管理官。濡れますから、どうぞ車内でお待ち下さい。――たしか、ちょうどいいサイズの袋が有ったんですよ。ええと……ああ、有りました。これです、これ。この位の大きさで、丁度……」

 中村明史刑事は、取り出したビニール袋を持って身を起こした。袋を新原に見せた姿勢で動きを止める。新原海介はAIガンを握り、その銃口を真っ直ぐに中村に向けていた。

 彼はニヤリとして頷く。

「うん。丁度いいよ」

 夜の幹線道路に一発の銃声が響いた。トランクの前から小柄な人影が飛ばされて、遮音壁に衝突する。胸を至近距離から撃たれた中村明史刑事は、雨水を浮かせたアスファルトの上に倒れた。新原海介はトランクのカバーを閉め、運転席へと向かう。横たわったまま動かない中村の顔を繰り返し照らしていたハザードランプの点滅が止まった。

 黒いAIセダンは水飛沫を立てながら走り去っていく。

 冷たい夜の雨は、いつまでも降り続いていた。



                  六

 巨大なコンピューター施設の周囲を、武装した赤い装甲兵たちが取り囲んでいる。手に大型の機関砲を抱えた彼らは、雨に打たれながら、バイオ・コンピューター「AB〇一八」を収めているビルを背にして、哨戒任務に当たっていた。

 バイオミメティクス(生体模倣技術)を駆使して製造された生体型の巨大コンピューター「AB〇一八」は、東西南北に建っている大きな四つのビルの中心に建つコンクリート建ての頑丈なビルの中に設置されていた。厳重なセキュリティーを幾つも通り、中央制御室に向かった新原海介は、額に汗を浮かべながら、最後の鋼鉄製のドアを開ける。中は吹き抜けの大きな空間だった。遥か上の天井は透過式のスクリーン・ガラスになっていて、日中は自然光を入れられるようになっている。今はそのスクリーンに満天の夜空を映し出し、平穏を演出していた。新原海介は壁のスイッチを操作し、その映像を白一色に変えた。下が明るく照らされる。広い室内には左右に制御パネルを並べた机が何列も並んでいて、まるで宇宙ロケットの打ち上げを監視する管制室のようであった。新原海介は濡れた髪を拭いながら、周囲を見回す。人は誰もいなかった。制御パネルの机の奥に、吹き抜けの天井の下から隠れる形で向こうに突き出した広い空間がある。そのロビーの奥には、周囲を頑丈そうな強化コンクリート壁で覆われた格納庫のような部屋が設置されていた。大型旅客機なら一機が丸ごと入るであろう大きさのその部屋には、人間の脳のような外観の巨大な生体コンピューター「AB〇一八」が設置されていた。その薄ピンク色のグロテスクな体の表面から何本ものケーブルを四方に張り、太い血管のような管を脈打たせながら、鼓動のような音を響かせている。制御パネルを並べた机と机の間をAB〇一八まで真っ直ぐに延びる通路の上を、新原海介は緊張した面持ちで歩いて行った。

 AB〇一八の前に広がるロビーのような空間の前で立ち止まった新原海介は、改めて周囲を見回した。左右に螺旋階段が設置されていて、壁に沿って高い位置で制御フロアを一周しているバルコニーに繋がっている。そこにも誰も居ない。片笑んだ新原海介は、AB〇一八の前に横一列に何台も並べられている腰高の機械に目を凝らした。機械の上には幾つものスイッチやボタン、レバー、ダイヤルが並び、操作が複雑そうであった。新原海介は右に顔を向ける。右の螺旋階段の手前に、一つだけ家庭用冷蔵庫ほどの大きさの機械が、ぽつりと置かれていた。その機械の背後からは制御フロアの方とAB〇一八の方にケーブルが何本も伸びている。彼はその中の一際太いケーブルを目で辿った。ケーブルはAB〇一八の方に伸びていて、その巨大な体の下に隠れている。彼はもう一度、その冷蔵庫のような機械に目を戻した。表面に並んだ幾つものボタンの前に、上部の中央から太いケーブルがぶら下がっていて、その先端には、液体を入れたカバーが取り付けられていた。

「あれか……」

 新原海介は、その機械に駆け寄った。

 上着のポケットから、証拠品保管用のビニール袋に入れた黒い箱を取り出す。震える手でビニール袋から黒い箱を取り出した新原海介は、機械の前に垂れ下がったケーブルを掴み、先端のカバーごと持ち上げた。

「これを、このパンドラEに接続すれば、AB〇一八を制御できる。そう言っていたな。どこだ。どこに繋ぐんだ?」

 新原海介は黒い箱の側面を見回した。下の辺の側面に奇妙な接続口が見える。長方形の穴の奥には、花の雄しべのような金属ピンが何本も立っていた。新原海介は、握ったケーブルからカバーを外した。カバーとケーブルの先端の間に、緩い粘液が糸を引いて伸びる。ケーブルの先端には長方形の金属ソケットが飛び出していて、その中を覗くと、人間のへそのようなものが三つ並んでいた。

「これか? なんだ、このインターフェース。こんなもの見た事ないぞ」

 新原海介は、そのケーブルの先端の突起を黒い箱の側面の接続口に恐る恐る当てた。サイズは適合している。彼はそれを奥まで強く押し込んだ。手元の黒い箱の中で何かが蠢くような感触が、反対の手に握ってるケーブルまで伝わる。目の前の冷蔵庫のような機械が内部でファンを回す音を鳴らし始め、表面に並んだ幾つもの小さなランプがそれぞれに点滅し始めた。

「よし。よし、いいぞ。順調だ。これで、AB〇一八は我々のものだ。SAI五KTシステムは、我々のものだ。世界は、私のものだ。わっはっはっは」

 新原海介が点滅するランプのうちの一つを見つめながら高笑いをしていると、突如、そのランプが消えた。その他のランプも順次に消えていき、全てのランプが消える。機械から低い音と排気音が鳴り、急に静かになった。

「な、なんだ。どうした。どうなってるんだ。これで、いいのか?」

 黒い箱を握ったまま、数歩後ろに下がって機械から離れた新原海介は、AB〇一八に顔を向ける。

 AB〇一八がさっきまで鳴らしていた鼓動のような作動音が聞こえない。表面の太い血管のような管の伸縮が小さくなり、その脈打つような動きも止めている。

 その広い空間は急に静かになった。新原海介はAB〇一八と、停止した機械を交互に見ながら、生唾を飲む。手に握った黒い箱とそこから伸びているケーブルを見つめながら、彼は自分に言い聞かせるように言った。

「まあ、いい。後は、彼ら深紅の旅団レッド・ブリッグの科学班がやってくれるはずだ。落ち着け。落ち着くんだ。AB〇一八さえ手に入れば、後は全て、我々の思い通りなんだ。それに、この『パンドラE』の中の情報を引き出す事が出来れば、量子銃や量子エネルギープラントの本当の設計図も手に入る。接続は出来たんだ。問題ない。大丈夫だ……」

 暫らくそこに立ったまま考えていた新原海介は、肩を上下させ始めた。

「ふっ。ふ、ふ、ふ。貢献した。新原海介は革命に貢献したぞ。これでいい。これでいいんだ。ネオ・アスキット万歳! 新秩序、万歳!」

 新原海介は高らかに両手を上げる。彼は独り笑みながら、胸の前で強く拳を握り締めた。すると、背後から拍手が聞こえた。新原海介は振り向く。制御パネルの机の間の通路を、二人の男がゆっくりと歩いてきた。ガンクラブ・チェックの上着の男が手を叩くのをやめて、片笑みながら言う。

「はい。ご苦労様でした。いやあ、なんだか、めでたいですねえ。随分と」

「み、三木尾警部!」

 新原海介はケーブルに繋がれた黒い箱を慌てて背後に隠すと、つかえながら言った。

「ど、ど、どうしたんだね。こんな所まで。石原君も」

 三木尾善人警部は新原の真似をしながら言う。

「か、か、管理官こそ、こんな所で何をなさっているんです?」

 石原宗太郎が新原を指差しながら言った。

「あれえ? 管理官、背中から、なんか変なケーブルが出てますよ」

 少し振り返った新原海介は、手に持っていたケーブルの先の黒い箱を前に出す。

「ああ、いや、こ、これはだな……」

 三木尾善人が目を大きくしながら言った。

「あれれ? それ、さっき押収した『パンドラE』じゃないですか?」

「あ、いや、これはだな……科警研に持っていく前に、一度、本物かどうかを確かめようと……」

 三木尾善人は顔を傾ける。

「本物かどうかを科警研に確かめさせる前に、更にここで、本物かどうかを確かめるんですか? さすが管理官殿。念が入ってますなあ」

 新原海介は額に玉汗を浮き立たせながら頷いた。

「そうだ。何事も、慎重過ぎるに越した事は無いと思ってな。なんと言っても、外交上も重要な物件であるから……」

 石原宗太郎がニヤニヤしながら尋ねた。

「そういえば管理官、さっき何か、万歳みたいなポーズをとっていませんでしたっけ」

 新原海介は眼を左右に動かしながら考えた。

「あ、いや、あれはだな……ちょっとした柔軟体操だよ。この頃、肩がどうも……」

 彼は大袈裟に肩を回して見せた。

 三木尾善人は周囲をキョロキョロと見回しながら言う。

「それに、周りは真っ赤な鎧の兵隊さんに囲まれていましたけど、何かありました? あの人たち、たしか、深紅の旅団レッド・ブリッグの兵士ですよね。あの有名な」

 新原海介は目を泳がせた。

「あ、その……警護だよ。警護。この施設は重要なんだ。だから、軍の方に守らせている。治安警備活動の一環だよ」

「今日だけですか?」

 そう尋ねた石原に顔を向けて、新原海介は何度も頷いた。

「あ、ああ。警察と軍の連携確認の訓練だ。前にも彼らが、ここの警備をした事があっただろう。例のASKIT事件の裏で」

 三木尾善人は頭を掻く。

「知りませんなあ。我々は、下っ端警官なんで」

 新原海介は少し胸を張ると、ほんの少しだけ顎を上げて、威厳を作って見せた。

「そうか、知らんか。これは、上層部からの命令なんだ。君たちのような下の者は、知らんでもいいんだ。政治的な事は、我々、官僚が……」

 三木尾善人はポンと手を叩くと、納得したように頷きながら言う。

「ああ、それで『新原管理官の部下だ』と伝えたら、すんなり中に入れてくれたんですね。深紅の旅団レッド・ブリッグにまで顔が利くとは、流石は警察官僚。すごいですなあ」

「うん……まあ、それ程では無いがね。何なら、彼らに言って、君達にこの施設の中の案内を……」

 調子に乗る新原に三木尾善人は怒号をぶつけた。

「やかましい! このスカポンタン! てめえは『赤ずきんちゃん』の狼か! もう、バレてんだよ! てめえ、ネオ・アスキットの一員だな? つい今さっきも、世界は私のものだあ、わっはっはって、分っかりやすい自己主張してたじゃねえか。思いっきり悪役面で。全部見てたんだぞ!」

 隣の石原宗太郎刑事が言う。

「管理官が他の兵士に顔パスで、ここに入っていく所も。ま、おかげで俺たちも便乗できましたが」

 新原海介は二人の顔を交互に見ながら言った。

「つ、つけていたのか」

 石原宗太郎が首を縦に振る。

「ええ。管理官が中村を撃つところも、バッチリ撮影させてもらいました。車載カメラで」

 三木尾善人が付け加える。

「動画データは、もう本庁と警察庁に送ったからな。今頃、上層部はひっくり返っているぜ。現役の警察官僚が、現場の刑事を至近距離から、バンッだからな」

「心配しなくても、中村は今頃、病院で絆創膏でも貼ってもらっていますよ。だから、殺人未遂止まりなんで、少しは刑が軽くなるかも、ですね」

 口をパクパクとさせている新原に、三木尾善人が片笑みながら言った。

「中村の奴、今時にしては珍しく律儀でね」

「律儀?」

「上の言う事は、ちゃんと聞く奴なんですよ。特に先輩の言う事は。なあ、石原」

 頷いた石原宗太郎は、新原を睨みつける。

「甲一七七式防弾具。この前支給された、新型の防弾チョッキですよ。あいつ、俺が言った通り、本当に二枚、重ね着していたみたいで。拡散した衝撃で気は失ったみたいですが、かすり傷で済んだみたいですよ。念のため、病院には行かせましたがね」

 三木尾善人は片眉を上げて見せた。

「ね、律儀な奴でしょ。ああ、そうだ。あいつ、胸のポケットに入れていた新品の小型端末が壊れたって怒ってましたよ。警察に戻って、万一あんたの席が残っていたら、ちゃんと中村の人事評価してやってくださいよ。それと、端末の弁償も。――まあ、無理か。これじゃ、あんた、刑務所だもんな。警察に席が残っているかどころの話じゃないかあ」

 三木尾善人は額を押さえながら、ロビーの上の天井を仰いだ。すると、新原の笑い声が聞こえてきた。

「ふっふっふっふ。はっはっはっは。警察だって? 席が残っているかだと? そんな事は、もう、どうでもよいのだよ。見たまえ」

 新原海介は手に持った黒い箱を、繋がれたケーブルを引っ張って持ち上げる。

「たった今、この『パンドラE』はAB〇一八に接続した。今更、どうする事もできんぞ。この国は我々が支配する。我々、『ネオ・アスキット』が支配するのだよ。秩序も、経済も、時の流れさえも。何もかもだ。我々が統治者だ。裁くのは我々だ。さあ、どうするかね。わっはっはっは」

 新原海介は胸を張って大声で笑った。

 三木尾善人は興ざめた様子で石原に頭を寄せる。

「なあ、石原。どうして悪者って、追い込まれると笑うのかね」

「さあ。そういう奴だから、追い込まれるんじゃないですか。そう言えば、前にもこう言う奴が……」

 話し込んでいる二人を見て、新原海介は声を荒げた。

「何をごちゃごちゃ言っているんだ。覚悟は決まったのかね」

 三木尾善人警部が更に大きな声を上げた。

「うるせえよ。『どうするか』だと? テメエを逮捕するに決まっているだろうが。そっちこそ覚悟しろよ、コラッ!」

 三木尾の怒声に新原海介は首を竦める。

 石原宗太郎が片耳を小指で掃除しながら言った。

「あーあ。とうとう警部を本気で怒らしちゃいましたね。知りませんよ。管理官殿」

 三木尾善人は新原を見据えて、彼の方に指を向けた。

「新原。後ろの馬鹿でかい脳ミソ君を良く見てみろ。脈が動いてないだろ。どんどん、血色も悪くなっているぜ。ほら。今のあんたと同じだ」

 新原海介は振り返った。AB〇一八は、その体表を土色に変えていた。鼓動も停止したままである。精気を失った生体コンピューターを目の前にして、新原海介は呆然と立ち尽くした。

「そんな……なぜだ。どうしてだ。どうなっているんだ、これは」

 三木尾善人が彼に答えを教える。

「今、仮死状態なんだよ。そのAB〇一八は」

「仮死状態だって? そんな馬鹿な。どうして」

 新原海介は振り返り、すがる様な目で三木尾を見た。

 三木尾善は新原を指差す。

「あんたが止めたんだよ。そのバイオ・ドライブで」

「なに。どういう事だ」

 三木尾善人は新原が手元の黒い箱と、そこから伸びるケーブルの先の機械を見比べている間に、石原に小声で尋ねた。

「石原。あと何分だ」

「残り、十五分を切ってます。来ますかね。ホントに」

「信じてみるさ」

 顔を向けた新原海介は、苛立った様子で三木尾を指差した。

「どういう事かと、訊いているんだ」

 三木尾善人は教え顔で新原管理官に言った。

「あんた、『バッファ』って、知っているか。コンピュータがデータドライブやプリンターなんかと遣り取りをする際に、転送されるデータを一時的に保管しておく装置、アレだ。『緩衝』って意味だよ。まあ、機能的には、キャッシュ・メモリなんかと似たようなものだな。解かるか」

「あ、ああ。馬鹿にするな。それが、どうした」

「このAB〇一八は、地下の神経ケーブルでIMUTAに繋がれている。IMUTAからは常時、膨大な量のデータが送られてきている。そうなると、それを受け取るのに、そいつにも『バッファ』が必要になるはずだ。ところが、このAB〇一八には、そういった装置が設けられていない。ていうか、必要ない。なぜか。受け取った情報を全て永遠に記憶し、無限に保存して忘れないマシンだからだ。それに、計算で答えを導くのではなく、経験から答えを予測するんだ。直感的に。つまり、人間でいうところの『勘』だ。その補助として、IMUTAを使って演算する。神経ケーブルで直感的に操作して。IMUTAが計算して、AB〇一八が思考する。直感で」

 新原海介は眉間を寄せる。

「それが、『バッファー』と何の関係があるんだ」

「バッファーじゃなくて、『バッファ』。あのな、高次元インターネットやハイパーインターネット、多次元衛星インターネット等に接続されているのは、IMUTAの方だ。世界中の情報がIMUTAを経由して、このAB〇一八に送られてきている。こいつは、それを全て受けとめる事ができるんだよ。死んだ高橋諒一によれば、こいつは内部細胞分裂を繰り返し、永遠に成長する。ニューロン細胞を増殖させ、情報の量だけシナプス結合を作り出す。しかも、活動エネルギーには、量子エネルギーを使用している。それは、こいつの中を循環しているかぎり、尽きる事はない。無限だ。だから、IMUTAから送られてくる世界中のデータを全て蓄積し、自己の経験とする事ができる。『バッファ』なんて緩衝帯は、わざわざ必要ない」

 そう言った三木尾善人は、ズボンのベルトのバックルの左右に左右の手の親指を掛けて、停止しているAB〇一八を見上げた。

「だが、必要ないだけで、あって困るもんじゃない。こいつにしてみれば、頭の中がパンパンだろうからな。少しでもスペースが広がれば、それに越した事はないはずだ。誰だって、楽はしたいさ。AB〇一八は、あんたが接続した、そのバイオ・ドライブを『バッファ』として使用してみようとしたのさ。なんて言ったって、常時、演算速度の世界記録を更新し続けているヤツだからな。ちょっと疲れていたのかもな。楽しようと考えた。そのドライブを自己の領域として取り込み、中にシナプス結合を形成して、ニューラル・ネットワークを少しでも拡大しようとした」

 新原海介は険しい顔で尋ねた。

「そ、それで、どうして、こうなるのだね」

 石原宗太郎が面倒くさそうに言う。

「ですからね。体積がほんの少し大きくなった分、本体に物理的に余裕が出来たって事ですよ」

 隣から三木尾が石原に言った。

「敬語は、もう、いいだろう」

「あ、そうですね。つい、癖で」

 三木尾善人は新原に顔を向ける。

「とにかく、その物理的に出来た隙間に、別な新たなニューラル・ネットワークを作り出したとしたら、どうなると思う。シナプス結合の連鎖の種を蒔いたとしたら」

「シナプス結合の連鎖の種?」

 三木尾善人は新原に理解の為の道標を与えた。

「このAB〇一八は、既存の神経ネットワークから次に繋がるシナプス結合を、IMUTAを使って演算して予測する事ができる。そうやって、忘れた事を思い出すらしい。そこに、偽の神経ネットワークの基を、ほんの少し混ぜてみたら、どうなると思う」

 新原海介は考えながら発言する。

「AB〇一八は、従来の神経ネットワークとは別に、その新たな神経ネットワークの方も増殖させていき……」

「そしたら?」

「――互いの神経ネットワークが、お互いに分析しあい、そして……やがて、自己矛盾に達する……」

 三木尾善人は頷いた。

「そ。つまり、無限のコンピュータに限界を作り出した訳だ。こいつが自分で。要は、今こいつは、もう限界だと思い込んでいるんだよ」

 新原海介は改めてAB〇一八を見た。

「だから、自らジャットダウンしたというのか。休息するために……。そんな馬鹿な」

 三木尾善人は新原に言った。

「本当は、まだまだ現役バリバリで行けるはずなのに、自分の中で自分を分析し出したものだから、猛烈に悩みだした訳だ。世界記録レベルの演算処理速度で。そんで、物理的な『時間』の速度の限界ギリギリの所で、もう駄目だと諦めた。人間と似たようなものだな。よくいるだろ、『自分探しの旅』に出ちゃう奴。自分なんて、見つけられるはずないのにな」

 話を聞きながら思考を回らせていた新原海介は、AB〇一八を見つめながら言った。

「まさか……そんな。それでは、このAB〇一八を欺いて、自らに対してバッファオーバーフロー攻撃をするように仕向けたというのか」

 三木尾善人は一度手を叩いてから新原を指差した。

「おお。知ってるじゃねえか。そう、そう。バッファオーバーフロー攻撃を模倣したんだ。本来は、ソフトウェアのセキュリティーホールを突く、サイバー攻撃の一種だが、それを、このAB〇一八に自分でやらせたんだよ。自分自身に対して」

 三木尾を一瞥した新原海介は、唖然とした顔で停止したAB〇一八の巨体を見つめていた。

 三木尾善人はそんな新原を見て、ニヤリと片笑んでいた。



                  七

 立ち尽くす新原の背中を見ながら、三木尾善人は静かに前に出た。石原宗太郎も前に出て三木尾と視線を合わせる。二人は頷き合うと、新原の手に握られている黒い箱に視線を移して、彼に向かおうとした。その時、新原海介は振り返った。二人は足を止める。

「ちょっと待て、ネットワークの種を蒔いたと言ったな。まさか、それが……」

 立ち止まった三木尾善人は、新原の手の黒い箱を指差した。

「だから、そのバイオ・ドライブに入っていたって事さ。田爪健三がしっかりとこねて丸めた、毒饅頭がな。こいつは、見事にそれに食いついたって訳」

 隣で止まった石原宗太郎も新原に言う。

「天才が作った傑作プログラムに、天下のAB〇一八が騙されたって事だよ」

「なぜだ……」

 新原海介はケーブルを接続した黒い箱を見つめながら、そう呟いた。顔を上げた彼は強く言う。

「なぜだ! この『パンドラE』には、田爪健三が書き込んだ量子プラントや量子銃の本当の設計図が入っているはず。さらには、制御プログラムさえも。さらに、その他にも、ウイルスを仕込んでいたというのか。それなら、AB〇一八が気付いたはずだ。SAI五KTシステムのファイヤーウォールは完璧なはずだろ!」

 三木尾善人は舌を出した。

「べー。残念でした。ファイヤーウォールの役目を担っていたのは、IMUTAの方なんだよ。だから、このAB〇一八に直接何かを接続する時は、よほど慎重に調べてからじゃないと、駄目なんだ。見た目と同様に、中身も丸裸だからな、こいつ」

 三木尾善人は新原の向こうのAB〇一八を指差した。その隣で石原宗太郎が両肩を上げる。

「それに、田爪が書き込んだプログラムは、もともと、そのAB〇一八が自分で作ったプログラムに手を加えたものだから、さすがのスーパーコンピュータも騙されちゃったんだな、きっと」

 三木尾善人は新原を見据えて言った。

「そいつを接続するのは、中の情報をもっとよく調べてからにするんだったな。あ、でも無理か。AB〇一八に繋がないと、そのドライブの中にどんな情報が入っているか、覗けない訳だからなあ」

 石原宗太郎は額を掻きながら言った。

「ああ、そうか。今、外にいる深紅の旅団レッド・ブリッグの科学班だったら、もしかしたら、運よく、そのドライブに書き込まれている情報が、囮の情報である可能性に気付いたかもなあ。なんか、大げさな機械で、いろいろ調べてさ。でも、安心しな。どうせ無理だって。田爪には勝てねえよ。分かる訳が無い。もし、怒られたら、そう言えよ。どうせ誰も分からなかったはずだ、俺は無過失だあってな。ま、赤鬼さん達が許してくれればの話だけど、どうかねえ。怒るだろうなあ、みんな。ああ、俺も軍隊にいたからさ、分かるんだけど、作戦をパーにした奴に対する制裁は、すごいからね。みんな本気だし、いろんな方法を知ってるし、道具も揃ってるし」

 新原海介は顔面を蒼白にする。黒い箱を震える手で握っている新原を指差して、三木尾善人がからかう様に言う。

「おい、どうした? 顔色悪いぞ。お父さんの大切な盆栽を壊したガキみたいな顔になってるぞ」

 石原宗太郎が三木尾に顔を向けた。

「ボンサイ? 何ですか、それ」

 石原を見て顰めた三木尾善人は、再び新原の方を向いて言い直した。

「パパの宝物のフィギュアを壊したガキみたいになってるぞ。――これで、いいか」

「なるほど……」

 石原宗太郎は頷く。

 新原海介は黒い箱を両手で握りしめて項垂れた。

「私は、大失態を犯してしまったというのか。この私が……」

「今頃気付いたか」

 石原宗太郎は呆れ顔で呟く。

 三木尾善人が頭を掻きながら新原に言った。

「だいたいさ、光絵会長の説明を聞いていた時に、いろいろ疑問に思わなかったのか? あんたも、一応、警察官だろ。例えば、事態を知っているはずの田爪健三は、この二カ月ちょっとの間、GIESCOで何をしていたんだとかさ。ああ、これ、警察官なら気付くべき疑問点その一ね」

「ほら。警部殿の講義だ。ちゃんと聞いときな」

 そう言った石原の隣で、三木尾善人は得意顔で話した。

「ま、俺の推理じゃあ、おそらく、何もしていない。その『パンドラE』への何かの書き込み自体は、南米にいた時分に終えているはずだ。では、IMUTAやAB〇一八に何かをしていたか。そんな事実は無い。夜な夜な、巷で気に入らない奴を消滅させていたか。いいや、今朝まで量子銃の被害者は出ていない。つまり、田爪健三は何もしていない。ただ隠れていたんだ。それなのに、今になって、光絵邸に姿を現したり、街で宗教家を消し去ったり、今日になって急に動き出した。という事はだ、田爪の奴は時間を稼いでいたんだよ。奴にとっては玩具同然のGIESCOの開発品なんかをいじりながら。おそらく、何かを待っていたに違いない。そして、たぶん、それは俺やあんたが現れる事だ。このタイミングで」

「タイミング?」

 聞き返した新原に答えずに、三木尾善人は話を進める。

「次、警察官なら気付くべき疑問点その二。このAB〇一八が限界点を突破するまで、残り約一ヶ月というのなら、なぜ、さっさと自分たちで『パンドラE』を接続しないんだ。どうだ? このくらいは、考えただろう」

 新原海介は憮然とした表情で、戸惑いながら首を縦に振った。

「あ……ああ。それくらいは、私だって疑問に思っていた……ぞ」

「嘘言え。じゃあ、その答えは」

「あ、ええと……たぶん、このAB〇一八が予測演算して、接続の邪魔をするからだろう。だから、接続できなかった」

 三木尾善人は自分の頭の上で掌を起こした。

「ピンポーン。正解。そのとおり。意外といけるじゃねえか。いいねえ」

 新原を指差した三木尾善人は、更に話を続ける。

「じゃあ、これはどうだ。疑問点その三。GIESCOは、二〇二五年の爆発の後、どうして速やかに『パンドラF』を司時空庁から回収しなかったんだ。司時空庁長官の津田を推薦したのは光絵会長だ。だったら、一言声を掛ければ簡単にGIESCOで回収できたんじゃないか。何故、放置したんだ」

 新原海介は口を尖らせて答えた。

「そ、それは、防災隊に回収されて司時空庁に移ったという事を会長が知らなかったからだろう」

「そうかもな。でも、本当は知っていたとしたら? その可能性は、あるよな」

「そ、それは……中が空っぽだからだろう。何の価値も無いものだ」

 三木尾善人は顔の前で両手を交差させる。

「ブー。不正解。タイムマシンの起動実験に使用した制御コンピュータだぞ。爆発で実験が実施できなかったとしても、その爆発の分析資料としては十分な価値を有しているはずだろう。ちゃんと考えろ」

 石原宗太郎が野次を飛ばす。

「空っぽなのは、あんたの頭の中だろう」

「な、なんだと! 石原、貴様……」

 気色ばんだ新原に三木尾善人は透かさず言った。

「答えは簡単。たぶん囮だ。パノプティコンやASKITの目を『パンドラE』から逸らす為。そして、AB〇一八からもな。つまり、それだけ『パンドラE』は重要って事だ」

 握っている黒い箱を見つめる新原に、三木尾善人は言った。

「それから、疑問点その四。あんたが今、手に持っているその黒い箱は、会長が『パンドラF』を犠牲にしてまで守ろうとした、ものすごく重要な物なのに、どうして、あんな書斎机の隅に無防備に置いてあったんだ? 酔っ払って帰ってきたお父さんがぶら下げてきた、お鮨のお土産じゃあるまいし。いいか、それ、人類の運命を左右するほどの、重要な情報が入っている、文字通り『重要物件』なんだぞ。そんな物を、田爪も田爪だが、会長も会長だ。あんな所に、転ばしておくかね、普通。あれじゃ、あたかも、誰か持って行って下さいと言っているかのようじゃねえか」

 三木尾の話を聞きながら、新原海介は三木尾の顔と手の黒い箱の間で、視線を往復させた。三木尾が話し終えると、彼はその黒い箱を再度顔に近づけて、周囲を見回す。

 三木尾善人は石原に小声で言った。

「もう少し延ばした方がいいか」

「ええ。お願いします」

 三木尾善人は更に新原に言う。

「まだ有るぞ。疑問点その五……」

「もういい! わかった」

 新原海介は三木尾の方に掌を突き出した。

 それでも、三木尾善人は新原の顔を見据えて言い続ける。

「疑問点その五。それは、ユー。お前だよ」

 新原を強く指差した三木尾善人警部は、鋭い視線で彼を睨み付けた。

「この警察官僚で、もしかしたら地下組織の一員かもしれない怪しい男は、『パンドラE』を狙っているのではないか。ものすごく、ものすごく、怪しいぞ。警官なら、誰でも、そう思うわい!」

「ど、どうして……」

 困惑した顔をする新原に、三木尾善人は言った。

「どうして? おまえ、バイオ・ドライブ、バイオ・ドライブって言い過ぎなんだよ。何回、バイオ・ドライブの事を尋ねてんだ。分かりやすい奴だな。僕はバイオ・ドライブを狙ってますって言わんばかりだったぞ」

「……」

 両目を左右に動かして狼狽する新原に、三木尾善人はたたみ掛けた。

「もっと言うたろか」

 三木尾善人は頭を掻きながら顔を顰めて話した。

「会長は、いくつかヒントも出していただろうが。『面倒な情報を書き込んだ』とか、『我々と同様に悪知恵が働く』だとか。それに、『パンドラ・コード』とかも、アルファベットでABCDE。それぞれ、何らかの英単語の頭文字だ。そこで、警察官僚なら、もっと別の英単語を連想してほしかったね。例えば『A』、abduction(誘拐)とかさ。他にも、ええと……ちょっと待てよ」

 三木尾善人は上着のポケットから古いスマートフォンを取り出し、辞書アプリを開いて検索する。

「ああ、assumed(偽装・見せかけの)ってのがあるじゃないか。『B』は、bastard(ニセモノ・粗悪品)。『C』は、colorable(もっともらしい・偽りの)。『D』、disguise(変装させる・偽装させる)。ひとつ跳んで『F』、false(虚偽を述べる・嘘をつく)。どれも、『偽りの』って内容の意味をもつ単語だ。『E』以外はな。会長も言っていたろ、呼称の違いに意味は無いと。じゃあ、その『パンドラE』の『E』は何か。スマホの辞書で引いてみると、ええと……、ensnare、entangle、entrap……どれも『陥れる』とか『ひっかける』という意味がある。罠に」

 三木尾善人はニヤリとした顔で新原を睨みながら、そのスマートフォンをポケットに仕舞った。新原海介は言葉を失っている。

 三木尾善人は彼に言った。

「つまり、最初から仕組まれた『罠』だったんだよ。あんたを利用して、超高速で予測演算するAB〇一八を欺き、停止させるための。会長は、こうも言っていたぞ。『パンドラE』の『E』はEND(終わり・終焉)の『E』、『F』は、fable(作り話・ウソ)の『F』だと。意外と面白い人だよな、あの婆さん」

 新原海介は黒い箱を握った手を震わせながら呟くように言った。

「そんな……では、この『パンドラE』は、田爪健三がAB〇一八の停止プログラムを仕込んだ餌だったという事か。誰かに、このタイミングで奪わせて、接続させる事を目的とした」

 新原の小さな声を、耳に手を翳して聞き取った三木尾善人は、半分呆れ顔で彼に言った。

「だから、さっきも言ったろ。このAB〇一八が自分で作ったウイルスを、田爪がこっそり加工したんだよ。その天才コンピュータにバレないように、こっそりとな。自分が作ったプログラムなら、こいつも受け入れるわな。すんなりと。いやあ、やっぱり天才だな、あいつ」

 石原宗太郎が駄目押しする。

「そんな偽装プログラムを仕込んでおいたバイオ・ドライブを、あんたが見事にAB〇一八に繋いでくれたってわけ。奴の予測演算を掻い潜って。いやあ、お見事、お見事。そんで、はい、お疲れ」

 新原海介は手を叩いている石原を睨み付けた。

「私を利用したのか」

 三木尾善人が言う。

「悪く思わないでくれ。AB〇一八の予測演算の網をすり抜けるには、誰もが認識しない前提を立てる必要があった。つまり、誰もが予想しない人物が、予想外に『パンドラE』を持ち出してくれる方がいい。誰が『頭の黒い鼠』なのかが分からない以上、予測を立てようが無い。それが狙いだった。と、光絵会長は言っていたぞ。ま、俺は判っていたがな」

 再び目を泳がせている新原に、三木尾善人は厳しい視線を向けた。

「ちなみに、『頭の黒い鼠』ってのは、警察風に言えば、『横領犯』だな。つまり、大事な証拠品を自分の物にしちゃった、あんたの事。まあ、ムショに入ったら、辞書でも引いて調べてみな。白黒液晶パネルの旧式で良かったら、俺のお古の電子辞書を差し入れてやるよ」

 新原海介は両手で黒い箱を強く掴むと、腰を折って地団駄を踏んだ。

「く、くう……くそ。くそ。くそ。馬鹿にしやがって」

 三木尾善人はすぐに隣の石原に顔を向ける。

「石原。あと何分だ」

「七分ちょいです。急がないと、再起動が始まります」

「そうか。やべえな。援軍はまだか。いつ来るんだ」

「ホントに来るんですかね。総理直轄の精鋭部隊とやら」

「とにかく、完全にシャットダウンが終わるまで、奴に、あのケーブルだけは抜かせるなよ。マジで『end』になっちまう。奴のシャットダウン中にケーブルを抜けば、抑制機能が解除されて、即時に再起動が始まるらしいからな。そうなれば、自分の勘違いに気付いたAB〇一八は、リフレッシュ休暇で元気百倍。前よりもパワーアップして、えらい事になる。光絵会長は、そんな感じの事を言っていたな」

「ええ。シャットダウンの完了までに必要な時間は、約二十分だとか。あと残り……六分半ってところです」

「時計を見るな。気付かれるぞ」

「すみません。でも、シャットダウン後は、九十秒以内にドライブを外して、その後でAB〇一八本体も破壊しないといけないんですよね。でないと、やはり再起動が始まる。こんなでかい脳ミソを破壊するって、俺達の拳銃だけじゃ、無理ですよ」

「だから、軍隊さんの援軍を待ってるんじゃねえか。それに、外は深紅の旅団レッド・ブリッグに囲まれている。中に入った俺たちが、こいつを逮捕するのが目的だという事を知られたら、一巻の終わりだぞ」

 三木尾善人と石原宗太郎がヒソヒソと話していると、新原海介は顔を上げた。

「いつだ。いつから、私の事を疑っていた。答えたまえ、三木尾警部!」

 新原に指差された三木尾善人は、面倒くさそうに答えた。

「あのな、おまえ、昨日の朝、俺たちがストンスロプ社ビルまで光絵会長に会いに行った時の事を覚えてるか。あの時、帰ってきた俺たちにおまえは何て言った? 美空野弁護士から抗議の電話が来た事をあげて、おまえはこう言ったんだぞ。『もうGIESCOの線は断たれたよ』ってな。ストンスロプ社なら分かるが、どうしてそこの研究機関のGIESCOに限定するんだ? 変だろ。あの時点で俺たちはまだ、GIESCOに的を絞ってはいなかったのに。あの時から疑ってたんだよ。あ、コイツ、何か一枚噛んでやがるなって」

 新原海介は瞬きをしながら口を開けて、言葉を探していた。

 続けて石原宗太郎が言う。

「そもそも、あんた、怪しいニオイがプンプンし過ぎじゃないか。消臭剤をかけたくなるくらいにな」

 新原海介は石原に怒鳴りつけた。

「な、なんだと。失礼な。それが上司に向かって言う言葉か!」

 石原宗太郎は下を向いて溜め息を吐いた。そして気だるそうに顔を上げる。

「あーあ。まだ、警察官僚のつもりでいるのか、あんた」

 三木尾善人が小声で石原に言った。

「いいぞ。引き伸ばせ。奴がドライブから手を離したら、一気に押さえるぞ」

「了解」

 小声でそう答えた石原宗太郎は、新原を指差した。

「だいたい、光絵由里子の邸宅に踏み込もうって事自体がおかしいだろ。科学者の田爪を探すんなら、普通、まず研究機関のGIESCOの方じゃないか」

 三木尾善人が更に指摘する。

「それにな、俺にもいろいろな知り合いがいてな。先日の俺名義の偽の電子指示書。あれを作ったのが誰か、調べてもらったんだよ。そしたら、あんたのパソコンのIPアドレスに行き着いた。あれ、有形偽造だよな。電子的公文書偽造。重罪じゃないか。だから、警部の権限で正当に捜査した。そしたら、驚きだ。自分の上司がネオ・アスキットの中核メンバーときてる。それで、ちょっと小芝居してみたって訳よ」

「高速を飛ばして本庁に戻る時には、警部はもう、あんたの正体を見破っていたんだぞ。ネオ・アスキットの存在もな。どうだ、おそれいったか。この七三分け!」

 声を張った石原に三木尾善人が小声で言った。

「それ、余計だ。刺激するな」

「すみません」

 三木尾善人が自分の後頭部を叩きながら、新原に言う。

「ま、確信をもったのは、あんたがネオ・アスキットの一員だという情報を『信頼できる筋』から得た時だがな」

 新原海介は首を傾げた。

「信頼できる筋? い、いつだ。それは何者だ」

「光絵邸に着いた頃かな。俺の友人が、丁寧に偽装メールで知らせてきてくれた」

 記憶を探った新原海介は、目を丸くした。

「まさか、あのメールか」

 三木尾善人は再びスマートフォンを取り出して、さっきのメールを開きながら答えた。

「そ。一応言っておくが、俺の娘は、あんなにブサイクでもケバくもねえぞ。それに、俺の家の書斎には椅子はねえ。畳派だからな。つまり、あのメールの前後の文はヒントだ。――ああ、あった。これだ。ええと……」

 三木尾善人は目を細めてメールの本文を大きな声で読み上げる。

「父さんの書斎のチェアー、痛みきて藁半紙でた。使わないで、ママのマイ・チェアー使う。父さんは、今夜は椅子無しで読書して。頑張ってね。ハートマーク」

 彼は首を傾げてから言った。

「意味分かんねえよな。椅子無しで頑張れ。変だと思わなかったのか。俺は思ったぜ。だから『チェアー』を抜いて、読んでみた。前後の文を無視して平仮名にすると、こうなる」

 三木尾善人は咳払いをしてから、該当箇所をもう一度読む。

「いたみきて、わらばんしでた、つかわないで ままのまい、つかう」

 彼はニヤリとして言った。

「逆さに読むと、こうだ。『うかつ、いまのままでいな、わかつたで、しんばらわ、てきみたい』……迂闊。今のままで居な。判ったで。新原は敵みたい。――つまり、あんたが怪しいから、迂闊に動くな、気をつけろっていう『暗号』だ」

 得意気な顔で胸を張ってスマートフォンを仕舞う三木尾善人に、石原宗太郎が小声で尋ねた。

「暗号ですか、それ……」

「うるさい。表現の自由だ。いいんだ」

 新原海介は歯軋りをする。

「くっそお。あの時か……」

 石原宗太郎は新原を見て首を傾げると、隣の三木尾に言った。

「『後悔、先に立たず』ですな」

 三木尾善人は両肩を上げて答える。

 新原海介は恨みに満ちた目で三木尾を睨み付けた。

「よくも、この私の横で白々しくも芝居を打ってくれたな」

 三木尾善人は顎を上に振った。

「お互い様だろうが。あんた、ハイパーSATに連絡なんか入れてないだろ。連絡する芝居をしてたんだろ。な、石原」

 石原宗太郎は大きく頷いた。

「はい。無線でも電話でも、『GIESCOに向かえ』なんて指示は来ていませんでした。待機を命じられた残りのハイパーSAT、そのまま、まだ本庁で待機を続けていますからね。俺も、光絵邸で善さんに会って、初めて『田爪がGIESCOに居る』事を知りましたよ」

 三木尾善人は新原を指差す。

「あんた、あの時、いったい誰に連絡していたんだ? もしかして、深紅の旅団レッド・ブリッグの連中か?」

 石原宗太郎が険しい顔で言う。

「警部を騙せる訳ねえだろ。この馬鹿」

 新原海介は涙目になって唸った。

「くうう。全て、お見通しだったという訳か。負けたのか。この新原海介が負けたというのか。キャリア組の私が、ノンキャリの、ただのヒラ刑事たちの罠にはまって……」

 疲れた様子の三木尾善人は、下を向いて呟いた。

「そう、落ち込むなって。長官に負けたと思えば、気も楽だろうが」

 新原海介は再び目を丸くする。

「長官? 子越長官か」

 三木尾善人は面倒くさそうに頷いた。

「ああ。昨日のホログラフィー通信で長官が言っていた事を、よーく思い出してみろ。たぶん、長官は初めからテメエのことが怪しいと思ってたんだよ。だから、バイオ・ドライブの捜査権を、あえてテメエに振り分けたのさ」

 新原海介は強く拳を握り締めた。

「くっそおおお。あの、狸おやじめえええ」

 三木尾善人は言った。

「俺と子越は、いわゆる『刎頚の交わり』って奴だからな。どんな会話をしても、ちゃんと分かってるんだよ。お互いに。年寄りをナメちゃいかんぜ」

「フンケイ?」

 石原宗太郎が眉を寄せて三木尾の顔を見た。

 三木尾善人は、小声で石原に言う。

「おまえ、管理職になるのは遠そうだな……」

 石原宗太郎は新原を顎で指した。

「こいつが管理職になれたんですから、俺だってそのうち……ていうか、フンケイって、なに系ですか?」

 三木尾善人は息を吐いて項垂れる。

 新原海介は愕然とした顔で膝を床についた。

「私は、騙されていた……キャリア官僚の私が……」

 三木尾善人が声を荒げる。

「テメエ、こっちは大事な部下を一人、撃たれているんだ。キャリアがどうした。知った事か! 相応の覚悟はしとけよ。きっちり、けじめをつけさせるからな」

 床に両手をついて四つん這いになった新原海介は、背中を振るわせ始めた。

「ふっ。ふ、ふ、ふ。しかし、この私を欺くとは、見事だ。完敗だよ。大したものだな、君は。これは、まったく、本当に、完敗だ、完敗。はっ、は、は、は。ひー、ひっ、ひ、ひ、ひ」

 石原宗太郎が眉をひそめる。

「また笑い出した。気色悪い」

 三木尾善人が言った。

「もう、壊れたな。よし。今だ石原、いくぞ。押さえるぞ。三、二……」

 その時、一発の銃声が鳴り響いた。三木尾善人と石原宗太郎は反射的に身を低くする。太く低く大きな声が響いた。

「敵の勝利に感心している場合か。新原。立て!」

 三木尾善人と石原宗太郎は拳銃を抜いた。二人は声がした左のバルコニーの方に銃を向けて構える。そこには、深紅のアーマースーツと赤いマントに身を包んだ中年の男が立っていた。男は拳銃を握った手を下ろすと、いかめしい顔を二人に向ける。そして、太い声を響かせた。

「何者だ」

 三木尾善人は両手で銃を構えたまま答える。

「俺たちは警察だ。警視庁の捜査一課だ」

 深紅の鎧の男は、口を引き垂れて頷いた。

「そうか。――私は、国防陸軍第十七師団、師団長の阿部亮吾である。深紅の旅団レッド・ブリッグの司令官だ。現時点で我々は政府と戦闘状態にある。警視庁を名乗るという事は、政府側の人間、つまり我々の敵と捉えてよいのだな」

 三木尾と石原の背後に、赤いアーマースーツとヘルメット、マスクで全身を覆った兵士たちが駆けつけ、二人の背後に並んだ。

 三木尾善人は、上の阿部に狙いを定めたまま尋ねる。

「阿部亮吾。あの、阿部亮吾か」

 バルコニーの上の男は厳然として二人を見下ろしたまま、しっかりと頷いた。

「そう。その阿部亮吾だよ」

 赤い装甲兵たちは、二人の背中に大型の機関銃を向けた。



                  八

 三木尾善人と石原宗太郎は、一瞬視線を合わせた。背後は完全に囲まれ、銃で狙われている。拳銃を構えたままの二人は、バルコニーの上の阿部大佐の剥き出しの頭部に狙いを定めていた。

 阿部亮吾は悠然と立ったまま、自分に銃口を向けている三木尾の拳銃に目を凝らして言う。

「ほう。ベレッタM九二Fか。随分と使い込んでいるようだな。手入れも行き届いているようだ」

 そして、石原の拳銃に視線を移す。

「そっちは、コルト四五オートマチック。ガバメントの復刻バージョンだな。シングルアクション、シングルカラム。実にバランスが取れた、いい銃だ。気に入った」

 阿部亮吾は拳銃を握った手を上げた。

「私のは……」

 三木尾善人と石原宗太郎が身構える。阿部亮吾は拳銃の銃口を真上に向けて、その一回り大きな銃を二人に見せた。

「IMIデザート・イーグル、タイプセブン。五十口径のリアルアクション・エクスプレス弾を使用している。三十五口径マグナムの三倍、四四マグナムなら二倍の威力だ」

 三木尾善人と石原宗太郎は再び顔を見合わせた。それは、今、二人が使っている拳銃で太刀打ち出来る武器ではなかった。

 片笑んだ阿部亮吾は、その頬を下ろすと、上から二人を見据えて静かに言った。

「銃を捨てたまえ。遊ぶつもりは無い」

 そして銃を握った手を静かに下ろすと、反対の手で手信号を送った。三木尾と石原の背後から赤い装甲兵達の足音と間接のモーター音が近づいてくる。石原宗太郎は背後に注意しながら、阿部の頭部に狙いを定めた。すると、横にいた三木尾善人が引き金の部分に指を掛けたまま、銃のグリップを手から放し、そのままそれを床に置いた。石原宗太郎は銃を上に向けて構えたまま叫んだ。

「善さん!」

 三木尾善人は石原に諭すように言う。

「石原。諦めろ。こいつら、完全武装しているうえに、殺しのプロだ。勝ち目は無い」

「……。くそっ!」

 銃を下ろした石原宗太郎は、悔しそうな顔でそれを床に置いた。

 新原海介が安堵した顔を上げる。

「阿部司令官。助かった」

 三木尾善人は両手を上げながら、装甲兵たちが近づいてくる間に、小声で早口で言った。

「石原。残り時間は」

 石原宗太郎は両手を上げる途中、胸の前で一瞬だけ人差し指と中指を立てた。

 新原海介が大声で笑う。

「はっはっはっは。どうだね。三木尾君」

 彼はケーブルが繋がれたままの黒い箱を床に置いたまま、笑いながら立ち上がった。

 三木尾善人と石原宗太郎は、再び一瞬だけ視線を合わせる。

 新原海介は勝ち誇った顔で言った。

「やはり、最後まで気合は入れておかないと、いけないね。これで君たちは、もう終わりだ。いずれにしても、このドライブのお陰でAB〇一八の暴走は止まった。後は彼らの手でリプログラムして、我々の支配下に置く。この世界と共にね。実に『パンドラ』様様だよ。『パンドラE』だろうが、『パンドラF』だろうが、どちらでもよい。『F』は、fable(作り話・ウソ)の『F』だって? 三木尾君、fableという言葉には、『伝説』とか『神話』という意味もあるという事は知っていたかね。我々は、今夜ここで、まさに伝説となるのだよ。この国に革命を起こした、勝者としてね。そして、その次の段階に入るのだ。『G』さ。このドライブは、私にとっては、まさに『パンドラG』だ。『G』はGod(神)の『G』さ。はっはっはっは」

 装甲兵から背中に機関銃を突きつけられて両手を上げていた三木尾善人は、新原を睨みつけながら、吐き捨てるように言った。

「座布団が欲しいのか、テメエ」

 石原宗太郎は三木尾を一瞥して首を傾げる。

 新原海介は三木尾を無視して、上のバルコニーに立つ阿部大佐に顔を向けた。

「司令官。やりましたよ。ついに、SAI五KTシステムを掌握しました。司令官の指示にはありませんでしたが、この私の咄嗟の判断で……ヒッ」

 銃声と共に新原の足下に火花が散った。床に大きな穴が開く。

 阿部亮吾は拳銃を新原に向けたまま言った。

「誰が、ドライブをAB〇一八に接続しろと言った。私は『ドライブを確保しろ』とだけ命じたはずだ。接続まで命じた覚えはない」

「しかし、私は作戦に貢献をしようと……」

「命令の実行ではない『貢献』など、無い! 作戦においては、司令官の命令は絶対だ!」

 そう一喝した阿部亮吾は、上のバルコニーから新原に冷ややかな視線を送った。

「だいたい、貴様が脇にぶら提げている、その立派な拳銃は何だ。何故、それを抜いて、その刑事たちと戦わなかった。AI・ガンを飾りか玩具だとでも思っているのか! 腰抜けが!」

「そんな……」

 当惑する新原に、石原宗太郎が両手を上げたまま小さな声で言う。

「やーい。叱られてやんの」

 阿部亮吾は新原を厳しい顔で睨みつけた。

「貴様が無計画にシステムを一時停止させた事で、IMUTAに多次元衛星ネットワークでリンクしている我が軍の電子機器は、全ての量子暗号通信が遮断される結果となった。GIESCOで敵と交戦している我が部隊の兵士たちは、メインコンピュータとの接続を断たれたのだぞ。目隠しをして戦っているのも同然だ。彼らを援護するために、ここの配置要員を大幅に割いて、GIESCOに移動させねばならなくなった。一体、これのどこが『貢献』だ!」

 三木尾善人は石原と顔を見合わせて言った。

「GIESCOは、どうなっているんだ?」

「さあ」

 首を捻った石原宗太郎は、唇を動かさないようにして三木尾に言った。

「善さん、もう少しです」

 阿部亮吾はバルコニーの上から新原を叱咤し続ける。

「私は貴様に、『パンドラE』を手に入れろと命じたはずだ。我々の科学部隊が分析して、安全性を確認してから、適切な処置の下で接続するはずだったのだ。それを、貴様、勝手な事をしおって……」

 阿部亮吾は再び銃口を新原に向けた。

 新原海介は床に伏せて土下座する。

「ヒッ。お許し下さい。司令官閣下殿」

 石原宗太郎は視線だけを腕時計に向けながら、爪先で床を小さく叩いて、三木尾にタイムリミットを知らせた。

「五、四、三……」

 背後の赤い装甲兵の一人が叫んだ。

「司令官! こいつら、何か企んでいます」

 その声と同時に、AB〇一八の前に並んでいた機械のランプが一斉に消え、ロビーの電灯と制御フロアの吹き抜けの上のスクリーンパネルの照明が消えた。一瞬で室内が暗闇に包まれる。新原の声だけが響いた。

「なんだ、どうしたんだ。何も見えないぞ」

 そして再びスクリーンパネルが白く光り、下の制御フロアを照らすと、続いてロビーの電灯が点いた。

 新原海介は周囲を見回した後、二人の刑事を指差した。

「何を、君たちは何をしたんだ」

 三木尾善人が答える。

「だから、俺たちじゃねえよ。おまえだよ」

 新原海介は刑事達の後ろの装甲兵たちを一瞥すると、脇からAIガンを抜いて、声を荒げた。

「うるさい。言え。何をした」

 三木尾善人は両手を上げたまま、片眉を上げた。

 AIガンを三木尾に向けて構えた新原海介は、したり顔を作って言った。

「よし。そうか。もう、騙されんぞ。君も防弾チョッキを着ているんだな。だから、この銃にも動じない訳か。ならば……」

 AIガンから弾倉を引き出した新原海介は、それを放り投げ、上着のポケットから取り出した新しい弾倉をAIガンに装填し直した。

 三木尾善人が目を瞑る。

「ああ、やめてけれ。それは、まずい」

 新原海介は再びAIガンの銃口を三木尾に向けて言った。

「今度のは鋼鉄貫通弾だ。さっきロボットに使ったから、威力は知っているな。中村にもこれを使っておけばよかったと、後悔しているよ」

 石原宗太郎が床の黒い箱を睨みながら呟く。

「あと九十秒。来い。早く来てくれ」

 石原の視線を追って黒い箱に視線を移した新原海介は、それを拾うと、石原にAIガンを向けた。

「何を仕組んだ。さあ、正直に言うんだ」

 石原宗太郎が舌打ちする。すると、阿部亮吾がバルコニーの上から叫んだ。

「うろたえるな。新原。これは、サスペンド後のハイバネーションに過ぎん。レジューム機能によりリスタートが始まる前に、補助システムが診断ルーチンを開始する。おそらくは九十秒前後。その後はAB〇一八が再び目を覚ます。そして、この数分の仮死状態で失われたニューロン細胞を再生させ、ニューラル・ネットワークの自己修復を始める。そうすれば、何もかも、元通りだ」

 三木尾善人と石原宗太郎は、阿部の口から続けて発せられたコンピューター用語を聞いて、顔を見合わせた。阿部亮吾は驚いた顔をしている二人の刑事を見下ろして、片笑んだ。

「抑制タスクが解除されるためのトリガーが、どれに設定してあるのか不明だったものでね。いらぬ罠が、ダブルトラップで仕掛けてあるかもしれん。様子を伺わせてもらったよ」

 三木尾善人が項垂れる。

「くそ。バレてんのかよ」

 阿部亮吾はニヤリとして刑事たちを見据えた。

「君たちにしてみれば、この停止している時間内にAB〇一八を破壊したいところだろうが、そうはいかん。今度は我々が、時間を稼がせてもらおう」

 すると、装甲兵の一人がバルコニーの上の阿部に大きな声で報告した。

「無線連絡あり。大佐。IMUTAが独自に再起動を開始しました。予定より早いです」

 阿部亮吾は顔を険しくする。

「何だと。何故、このAB〇一八より先にIMUTAが。――おのれ。パノプティコンの仕業か。フラクタルの連中を使ったな。IMUTAを離脱させるつもりだ」

 一瞬だけ間を空けた阿部亮吾は、すぐに指令を発した。

「ここに配置した科学部隊と戦闘員の一ユニットを、IMUTAの管理施設に向かわせろ。それから、神経ケーブルの防衛は維持するんだ。ラインを崩すな。今、攻撃されては、まずい」

 装甲兵の一人が具申する。

「大佐。お言葉ですが、先程、ここの兵員を割いてGIESCOの仲間の応援に向かわせたばかりです。これ以上兵士を出せば、防陣体制を維持できません。この施設の守りが薄くなります」

 阿部亮吾は下の兵士に怒鳴りつけた。

「馬鹿者! SAI五KTシステムは、結局の所、マスター・スレイブ・システムなのだ。マスター・マシンのAB〇一八だけでは、意味が無い。IMUTAの離脱は、何としても阻止せねばならん。兵を向かわせるのだ」

 今度は別の装甲兵が叫んだ。

「索敵班より報告! 警察のハイパーSATがIMUTAの施設方面に進行中。部隊の規模は中級。移動速度レベルはアクセル・ファイブ!」

 阿部亮吾は歯軋りする。

「辛島総理め……」

 彼は下の装甲兵たちに尋ねた。

「GIESCOにいる歩兵部隊は、救出できたのか」

「いいえ。まだです」

「何をしている。敵は四十名足らずだろう。一個中隊程度を蹴散らすのに、何をもたもたしているんだ」

「それが、なかなか手強い相手のようでして」

「どこの部隊か」

「情報局の偵察隊です。その中の精鋭部隊のようです。指揮は、あの増田情報局長がとっています」

「増田学校だな。辛島勇蔵、こちらが考えていたより、決断が早かったか……」

 再び思案した阿部亮吾は、装甲兵たちに次々と指令を発した。

「ここの兵員数は最小限にして、主力部隊をIMUTAに移動させろ。第一、第二防衛ラインは解除だ。第三ラインから第五ラインまでを維持。第二ラインに展開している部隊を、大至急GIESCOの仲間の救出に向かわせるんだ。第一ラインの部隊は、IMUTAに直行。こちらからの部隊と合流後、敵を殲滅し、速やかに目標を奪還せよ」

 装甲兵たちは左腕の端末で阿部大佐からの指示を外の味方に送る。

 一人の装甲兵がバルコニーの上の阿部に顔を向けて尋ねた。

「GIESCOから、こちらに向かっているという敵は、どうしますか」

「蝿に構っている暇は無い。地下トンネルに追い込んであるのだ、姿を見せたら、戦車から熱戦放射爆弾を撃ち込んで、迎え撃てばいい。新型機と言っても、所詮は兵員輸送機だ。我々の敵ではない」

「了解」

 遣り取りを聞いていた三木尾善人は、小声で石原に言った。

「やばいな。石原。援軍が来れそうにないぞ」

「そうみたいですね。どうします」

「とりあえず、あの『パンドラE』からケーブルを引き抜いておくんだ。AB〇一八のニューラル・ネットワークの再生を、大幅に遅らせる事が出来るらしいからな」

「ですね。で、どうやります?」

「俺が注意を引く。合図したら、お前が行け」

「了解です」

 三木尾善人は、通信に気を取られている装甲兵たちに注意を払い、隙を伺う。一瞬の隙を見つけた彼は、背中に当てられていた機関銃を払い、その重そうな鎧姿の兵士に体当たりした。

「そりゃ」

 バランスを崩した装甲兵と共に、三木尾善人は倒れこんだ。石原宗太郎は背後の兵士の機関銃を蹴り飛ばすと、ケーブルに繋がれた黒い箱を持っている新原の方に駆け出す。

 三木尾善人が叫んだ。

「今だ、石原。抜け!」

 それと同時に銃声が鳴った。

「ぐあっ」

 石原宗太郎は、左脚を撃たれて床に倒れる。

「石原!」

 立ち上がった三木尾に周囲から機関銃の銃口が向けられ、彼は制圧された。石原宗太郎は左の膝を抱えて床で転がっている。

 バルコニーの上から拳銃を構えたまま、阿部亮吾が言った。

「無駄だよ。刑事さんたち」

 拳銃を下ろした阿部亮吾は、身を屈めている新原に言う。

「新原。そのバイオ・ドライブの神経コネクターからケーブルを抜かれないように、見張っておけ。今、それを外されると、AB〇一八は、ニューラル・ネットワークを再現する手掛かりを失う。そうなると、再生に数ヶ月は掛かってしまうからな」

「はい。閣下」

 三木尾善人は装甲兵に取り押さえられながら、必死に呼びかけた。

「石原! 大丈夫か!」

 石原宗太郎は左膝を押さえて、歯を食い縛っている。

「ぐうう。くそ。あの野郎……」

 阿部亮吾は言った。

「心配は要らんよ、三木尾警部。彼は、かすり傷だ。死にはしない」

 石原宗太郎はバルコニーの阿部大佐を睨み付けた。

「かすり傷だとお。思いっきり当たってるじゃねえか。くそっ、痛てえ」

 阿部亮吾は拳銃を腰に戻しながら、片笑んで見せた。

「なるべく出血しないで済むよう、狙ったのだがね」

 その時、AB〇一八の前に並べられている機械がランプを点滅させ始めた。それを見た阿部亮吾は鼻から大きく息を吐く。

「さて。時間切れのようだな。メインフレームが再起動を開始した。いよいよだな」

 阿部亮吾は厳しい表情でAB〇一八を凝視していた。




                  九

 巨大なスペースに格納されている生体型のコンピューターは、再起動を開始した。その前に並べられた機械が激しくアクセスランプを点滅させ、次第に作動音を大きくしていく。AB〇一八は再び鼓動のような音を発し、表面の血管のような管が脈打ち始めた。背後から装甲兵に羽交い絞めにされた三木尾善人は唇を噛み、両脇を抱えられて右脚だけで立たされた石原宗太郎は、歯軋りをする。

 すると、等間隔で打っていたAB〇一八の脈の間隔が長くなり、弱くなった。前の機械のランプの点滅も遅くなり、端から順に消えていく。AB〇一八は鼓動を止め、その前の機械も鈍い音を立てて次々に停止した。再び精気を失ったAB〇一八と完全に停止した手前の機械を見回した新原海介は、困惑した顔を左の上に向ける。

「閣下、どうなっているんです」

 阿部亮吾は頬を振るわせた。

「おのれ……やはり、先に立ち上がったIMUTAがプラグインを拒絶しているのか。あるいは、この機に乗じて、フラクタルの奴らが何か妨害をしているか……」

 三木尾善人は停止した巨大コンピューターを見ながら言った。

「AB〇一八も、ここまで育ってしまうと、自分一人だけでは立ち上がりきらんという訳か」

「へへ。もう少し、ダイエットさせとくべきだったな。あんまり肥り過ぎて、こっちにも逃げられたか」

 石原宗太郎が阿部大佐に小指を立てて見せた。

 三木尾を羽交い絞めにしていた装甲兵が通信に気付いて手を放し、阿部大佐に報告した。

「大佐! 第五防衛ライン指揮所より入電。地下ケーブルに浸水! 防水シールドが強制作動しているとのことです。一部で神経ケーブルに損傷を与えている模様」

「なんだと。ケーブルは傷つけるなと言ったはずだ。まさか、戦車隊の奴ら、通常砲弾を使ったのか」

「いえ。敵機はトンネル外に移動した模様。現在、探索中です」

 阿部亮吾は荒声を上げる。

「小型の輸送機など、どうでも良いわ! シャーク・ヘリでも使って、さっさと見つけさせろ。それより神経ケーブルだ。何故、神経ケーブルに損傷が生じたのだ」

「は。おそらく、設計上の瑕疵により、強制閉塞中の防水扉が、神経ケーブルを挟み込んでいると思われます」

「ならば、そのポイントに大至急、兵を向かわせろ。直ちに障害を除去させるのだ」

「了解」

 阿部亮吾は他の装甲兵に顔を向けた。

「IMUTAの方は、どうなった。出せ」

 阿部に指示された装甲兵は、左腕の端末を操作して阿部大佐に無線を中継して飛ばす。阿部大佐のイヤホンマイクから、市街地で作戦に従事している味方の声が聞こえてきた。

『こちらユニット・フォー。只今、ハイパーSATと交戦中! 四国防衛師団、九州防衛師団から派遣された連隊が敵に加わっています。くそ。北海道防衛師団の機械化中隊も現われました。敵の兵力は増大中。繰り返す。敵の兵力は増大中! これでは、歯が立ちま……』

 阿部亮吾は耳のイヤホンマイクに手を添えて叫んだ。

「おい。どうした。少佐!」

 装甲兵の一人が大きな声で阿部に叫ぶ。

「ジャミングです。敵に妨害電波で無線通信を遮断されました。GIESCOに居る部隊とも通信が出来ません。敵は、かなり広範囲で高レベル・ジャミングを実行しています。多久実基地とも通信不能」

 阿部亮吾は顔を曇らせた。

「馬鹿な。多久実基地ともだと? 新首都全域で通信妨害か。有り得ん。不可能だ」

『それが、できちゃうんですねー。この俺様なら』

 ロビーの天井のスピーカーから、ボイスチェンジャーで高く加工された声が聞こえてきた。

 阿部亮吾は耳のイヤホンマイクを押さえながら言う。

「なに。誰だ、貴様!」

 天井のスピーカーと、阿部大佐のイヤホンマイク、他の装甲兵たちのヘルメットの中のスピーカーから、浮かれた調子の声が響いてくる。

『はい、はい。よくぞ訊いて下さいました。無色透明、人畜無害。時に冷たく、時に熱く。熱しやすく冷めやすい……じゃなかった。形無きこと、流れる水の如し。天才ハッカー『アクア・K』様の参上でございます』

 阿部亮吾は眉間に皺を刻んだ。

「ハッカーだと?」

 そして、すぐに耳のイヤホンマイクを押さえて、指示を出した。

「索敵班。コイツの位置を特定しろ。索敵……索敵、聞こえるか!」

 阿部大佐のイヤホンマイクからは、雑音しか聞こえなかった。装甲兵の一人がヘルメットを外して肉声で直接、阿部大佐に叫んだ。

「駄目です、大佐。無線中継システムをジャックされています。兵員同士の通信が出来ません!」

「くそ!」

 阿部亮吾はバルコニーの手すりを強く叩くと、耳のイヤホンマイクを押さえて、介入してきたハッカーに叫んだ。

「貴様、何者だ。フラクタルの一員か!」

 アクア・Kの高い声が返ってくる。

『うんにゃ。違いまーす。ま、フラちゃん達とは、多少友達になったけどね。だから今、こうして手分けして、いろいろやっているって訳。いやあ、それにしてもSAI五KTシステムが動いていないと、まあ、やり易い。やり易い』

 イヤホンマイクを外した阿部亮吾は、下の装甲兵たちに叫んだ。

「仮想空間の防衛は、どうなっている! サイバー部隊は何をやっているんだ!」

 三木尾善人がバルコニーを見上げて言った。

「無駄だよ。こいつは、手配レベルでプラチナ・クラスにリストアップされている、超ど級のハッカーだ。一国の軍隊の専門武官ごときが探したって、見つけられやしねえよ」

 スピーカーの声は、興奮した様子で言葉を並べた。

『ドキューン、ドキューンの超ど級、なんてね。あれ……ウケてねえな……。警部殿、大丈夫ですか。タンコブできてますよ。そこの赤い兵隊さん達も、年寄りはもっと大事に扱わなきゃあ。あらら、部下の刑事さんも撃たれたのね。痛そうだねえ』

 装甲兵たちは一斉に散開し、ロビーと制御フロアの中を探索し始めた。

「何処だ。何処から見ている」

 バルコニーの手すりから身を乗り出して下を見回す阿部大佐に、新原海介がロビーの隅を指差して叫んだ。

「閣下、おそらく、あのカメラです!」

 新原が指し示した監視カメラは、AB〇一八を格納しているスペースに向けられている。阿部亮吾は新原に怒鳴った。

「馬鹿者! あの角度からは、ここは見えん」

 スピーカーから声が返ってくる。

『それが、見えちゃってるんですねー。もー丸見え。きゃっ。その冷蔵庫みたいな機械からさ、微弱電流が発するパルスが部屋中に広がっている訳よ。それとチンダル現象から逆算して、ズレを修正すれば、皆さんの位置も、だいたいの体勢も分かるって訳。まあ、レーダーみたいなものですな。あはははは』

「ズレを修正するだと?」

 阿部亮吾はバルコニーの上からロビーを見回した。新原海介は、ケーブルを中継している冷蔵庫のような機械の横に駆け寄り、阿部大佐の顔を見る。阿部大佐は頷いた。新原海介は、その機械の電源スイッチを探すと、それをオフにする。機械が停止した。それを見た三木尾善人は、大きな声で叫んだ。

「おまえさ、もっと分かり易い暗号は考えられなかったのかよ。すっげー苦労したじゃねえか」

 スピーカーから高い声が返ってくる。

『あっらー。あれくらいの暗号の解読に手間取るとは、善さんも焼きが回りましたねえ』

「おまえの暗号が無理矢理すぎるんだろう。なんだアレ。小学生か、おまえ」

『失礼だなあ。そっちにレベルを合わせたんでしょうが』

「で、どうなんだ、AB〇一八は。完全に止まってるのか?」

『ええ、そうですね。ここから見る限り、爆睡してますね、こりゃ』

 会話を聞いていた新原海介は、ケーブルに繋がれたままの黒い箱を脇に挿んでAIガンを両手で構えると、それで天井の隅の監視カメラを狙った。AIガンの自動照準機能が作動し、銃尾のランプが青く光る。新原海介は引き金を引いた。銃弾はカメラの横の、ロビーの壁と天井の角に穴を開けた。新原海介はAIガンの青ランプを確認してから、もう一度引き金を引く。やはり弾は的のカメラを外れ、向こうの壁に当たった。

「?」

 新原海介はAIガンを見ながら首を捻る。

 アクア・Kの高い声が響く。

『はっずれい。ざーんねーんでーしたー』

「くそ」

 ケーブルに繋がれた黒い箱を手に持ち直した新原海介は、反対の手でAIガンを真っ直ぐに構えて天井の監視カメラを狙ったまま、苛立ったように前に歩いた。黒い箱を持った手をAIガンに添えて、監視カメラに照準を合わせる。

 阿部亮吾がバルコニーから叫んだ。

「やめろ、新原! 撃つな!」

 新原海介が歩きながら引き金を引こうとした時、突如として握っていたAIガンが下に押し付けられ、爆発した。

「うわっ」

 激しい爆発音と共に、黒い箱から伸びていたケーブルは千切れた。アクア・Kの声が響く。

『ビンゴー!』

 阿部亮吾が叫んだ。

「馬鹿が! 質量バリアだ!」

 倒れていた新原海介は、床に落ちた黒い箱を慌てて拾おうとする。

「ああ、ドライブが、私の『パンドラG』が……」

 彼は床の上の黒い箱を掴もうとしたが、掴めない。新原海介は、右手を持ち上げて見た。親指と薬指と小指だけが立っていて、親指と薬指の間から赤い液体がリズムよく噴出している。

「あれ、指が無い。私の指が無いぞ。人差し指と中指が……。ぎゃあああ」

 新原海介は右手を庇って、床の上で七転八倒した。

 三木尾善人が顰め面で言う。

「だから俺は、AI銃の導入に反対したんだよ。人工知能への干渉要因が、街中では多過ぎるんだ。質量バリアはその代表じゃねえか。それに、その銃はフレームがイカレてるって言っただろうに。貫通弾は、もう無理だから使うなって。聞いてなかったのか」

「うあああ。痛い。痛い。痛い。指が、指があああ」

 苦しみ悶えながら転げ回る新原を見て、阿部亮吾は舌打ちする。

「ちっ。愚か者が……」

 スピーカーから、ふざけた調子の声が響いた。

『じゃあ、警部さん。あっしも、そろそろ、おいとまさせてもらいますよ。もうすぐ、タイム・リミットなんで。バースト転送とマルチプレクス転送を交互にやるのって、長く持たないんですよ。足がつく前に退散いたしやす。後は自分たちで頑張って下さいよ。まだまだ、希望有りですからね。そんじゃ、失礼しまらっきょ』

 短い雑音の後、音は消えた。フロアの中には新原の悲鳴だけが響いている。

 三木尾善人は困り顔で呟いた。

「Kの奴……散らかすだけ、散らかして行きやがった。この状況で、どうやって頑張れって言うんだよ、まったく……」

 短く溜め息を漏らした三木尾善人は、顔を上げ、バルコニーの上を見上げた。

「さあ、どうする。阿部さんよ。これで、AB〇一八の再生も当分は見込めないぜ。IMUTAも押さえられちまったみたいだしな。SAI五KTシステムの乗っ取りは、もう諦めた方がいいんじゃないか」

 下を向いてバルコニーの手すりを握り締めていた阿部亮吾は、顔を上げた。その顔には三木尾を引きこなすような目つきと、余裕の笑みを浮かべている。手すりから手を放した阿部亮吾は、真っ直ぐに三木尾を指差して言った。

「君は、何も分かっていないようだな」

 指差された三木尾善人は、阿部大佐の阿修羅のような顔を強く睨み返した。



                  十

 阿部亮吾は悠然とした足取りで螺旋階段を下りてくる。散開した兵士たちは制御パネルを並べた机の下に敵が隠れていないか探索を続けた。三木尾善人警部は横に立つ赤い装甲兵から機関銃を突きつけられたまま、阿部大佐を説得し続ける。

「大佐。もう諦めろ。AB〇一八は再起動に失敗している。それに、いくら大佐が率いる深紅の旅団レッド・ブリッグだと言っても、国防軍の大半を相手に勝利するのは無理だろ。もう、終わりだ。終わりにしろ」

 階段を回り終えた阿部亮吾は、一度マントを翻すと、ロビーの床をゆっくりと歩きながら呟いた。

「辛島勇蔵。たしかに歴代総理の中では、骨のある男だと買ってはいたが、まさか、ここまで覚悟していたとはとは思わなかった。しかも、予想以上に手回しがいい」

 床でうずくまり、出血する右手を押さえている新原の前に立った阿部亮吾は、三木尾に視線を向けて言う。

「周辺諸国への外交上の連絡調整や機械化兵団の出動準備の時間、しかも、遠方の部隊から派兵されているという事を考えても、遅くとも数日前には対応に取り掛かっていたという事か……。どうやら我々は、当初から彼の掌の上で動いていたのかもしれんな。私は彼を甘く見ていたようだ」

 三木尾善人は言った。

「そんな事より、早くそいつを止血してやれ。出血死するぞ」

 新原海介は唇を震わせながら阿部にすがりつき、懇願した。

「た、助けて。指が、指が……」

 阿部亮吾は厳しい顔を新原に向け、静かに言った。

「指を失ったくらいで、命乞いか」

 阿部亮吾は赤い鋼鉄のブーツで新原を蹴り飛ばした。三木尾善人が叫ぶ。

「やめろ、阿部!」

「これを見ろ」

 阿部良吾はマントの中から取り出した赤い金属片を三木尾の前に放り投げた。三木尾善人は、足下に転がった金属片に目を遣る。深紅に塗装された文庫本ほどの大きさの金属片は、表面を黒く焦がし、亀裂が入っていた。

 阿部亮吾は言う。

「GIESCOで敵の砲弾に散った、私の部下のアーマー・スーツの破片だ」

 阿部亮吾は床にうずくまったまま体を震わせている新原に顔を向けた。

「私の部下たちは皆、この作戦に命を懸けている。死を覚悟で、決起に賛同してくれたのだ。たかが指の一本や二本など、肢体を散らして死んでいった兵士の苦痛に比べれば、どうという事は無いわ!」

 阿部の大きな激声に新原海介は腰を抜かす。

 そんな彼に阿部亮吾は冷たい視線を送った。

「貴様の勝手な行動で、作戦にどれだけ支障が出たと思っているのだ。償いはしてもらうぞ」

 赤いマントを翻した阿部亮吾は、腰に手を掛けた。拳銃を抜くような素振りを見せる阿部を見て、新原海介は力の抜けた足を床の上で滑らせる。

 三木尾善人が血相を変えた。

「待て、阿部! 阿部大佐。やめるんだ!」

 阿部亮吾は腰の後ろから外した薄い楕円形の箱を新原の前に放り投げた。救命キットが入ったパックだった。彼は新原を睨みつけて言った。

「貴様の処分は後だ。さっさと止血しろ。貴様の汚れた血など、見たくもない」

 新原海介は救命キット・パックに飛びつくと、血に濡れた左手で必死にそれを開いた。

 阿部亮吾は三木尾に機関銃を向けていた装甲兵に指示して、新原の措置に当たらせる。

 新原海介は阿部に何度も頭を下げた。

「あ、有り難うございます。有り難うございます」

 マントを翻し三木尾の方を向いた阿部亮吾は、彼の前にゆっくりと歩いてくる。少し距離を置いて立ち止まった鎧姿の阿部亮吾は、三木尾に尋ねた。

「警部。歳は幾つだ」

「六十四になった。それが、どうした」

「そうか。私は五十六だ」

 一度下を向いた阿部亮吾は、顔を上げて吐き出すように言った。

「六十四か……。第二次ベビーブームの世代かな。すると警部は、この国が栄えていた頃を知っている訳か。羨ましい。この国のバブル経済とやらが崩壊した頃は、私は小学校生になったばかりの子供だった。やっと物心ついた頃だ。卒業する前には阪神淡路大震災があった。そこで親を失ってね。大きなテロもあったな。中学を卒業する頃には、この国は本格的で長い不況に突入していた。高校を卒業し、食うために旧自衛隊に入隊した。そして、すぐに、アメリカで同時多発テロが発生した」

 遠くを見つめながら暫らく間を置いた彼は、静かに語り続けた。

「二十二の頃に、初めて戦場に足を踏み入れたよ。イラクだ。東北三陸沖地震の津波被災者救出任務に就いた時は、二十九だった。三十の時に、旧自衛隊から分離された防災隊に行くか、再編成された国防軍に進むか岐路に立たされたが、結局、軍人の道を選んだ。三十七で中央アジア戦線に派遣され、四十四から二年間、南米戦争に従軍。二〇三二年の博多五輪の年に、この一七師団を任され、対馬やアフリカで任務に就いた」

 阿部亮吾は三木尾との間に距離を置いたまま再び歩き始め、ゆっくりと三木尾の後ろの制御フロアの方に回っていった。

「その後は、多くの極秘任務を遂行してきた。そして、数々の戦場や被災地で、多くの『死』を見た。軍人も民間人も。実に多くの人間の『死』を。すべて脳裏に焼きついている。人間は、実に無力だ。そして、残酷だ。この二つの要素が並立する限り、罪も無い無数の命が犠牲となる。なぜなら、人間は他の動物と同様に『争う』生き物だからだ。『無力』と『残酷』がぶつかれば、常に『残酷』が勝つ」

 三木尾の横を通り過ぎながら、彼は言う。

「団塊ジュニア世代の警部なら、実感しているはずだ。いつ何時も、常に競わされてきた世代だからな。そして、常に経済成長の踏み台にされてきた」

 彼は制御パネルの机の間の通路を三木尾に背を向けて歩いて行く。

「パソコン、OS、携帯電話。薄型テレビにスマートフォン。カーナビ、ハイブリット自動車、AI自動車。タブレット端末、立体テレビ、O2電池、ウェアラブル・フォンにイヴフォン。そして、質量バリア」

 立ち止まった阿部亮吾は、腰から素早く拳銃を抜くと、制御パネルの机の上の機械を撃ち抜いた。机の上の機械が火花を散らして破壊されると、AB〇一八の前を覆っていた質量バリアが解除される。バリアが作り出していた微妙に質量を増加させた透明の膜が消え、そこに光の屈折で滝のように下に流れて見えていた空気中の塵が、流れを止めて空中に浮遊した。

 阿部亮吾は拳銃を腰に戻しながら語り続けた。

「随分と買わされたものだ。いや、買わされただけではない。大学入試、センター試験、医学部定員拡大、法科大学院、社会人専用大学、インターネット大学院。増税と社会保険料の値上げ。搾られ、煽られ、競わされ。違うかね」

 振り返った阿部大佐に、三木尾善人は首を縦に振って答えた。

「ああ。確かにな。年齢の節目節目に合わせてな。ありがたい事だぜ。まったく……」

 横を向いて短く溜め息を吐いた三木尾善人は、阿部大佐に視線を戻し、厳しい顔で言う。

「それで」

 阿部大佐は立ち止まったまま三木尾に尋ねた。

「何故だと思う。何故、無力な民は、これらの残酷な罠にはまるのか。考えた事はあるかね」

「知らんよ。答えは」

 阿部亮吾は眉間に皺を寄せて言う。

「ツールだよ。ツールを欲しがるからだ。人間には本能というものがある。その一つが、攻撃本能だ。裏返せば、防衛本能。この二者は本質的には同じだ。それらは、生存の欲求から生じている。人は脳のどこかで自然に、生き残りたいと願っている。では、生き残るためには、どうしなければならないか」

「他者の排除か」

「いや、違うな。それでは、自分が社会から排除されてしまう」

 三木尾善人は阿部大佐の顔を見据えた。阿部の主張の一部には、彼にも同調できる部分があった。三木尾善人は阿部大佐の答えを待つ。阿部亮吾大佐は制御フロアの中心に立ったまま、自らの考えを述べた。

「他者よりも優位に立つ事だ。それが『攻撃』の目的でもあり、『防御』の方法でもある。そして、『競争』の正体だ。その『競争』を勝ち抜くためには、他者よりもより有利なツールを手にする必要がある。だから人間は、より便利で強力なツールを欲する。他者よりも優位に立てるツールを」

 天井のスクリーン・ガラスからの白光に照らされて立つ阿部亮吾は、指を折り始めた。

「学歴、成績、地位、身分、経歴に肩書き……。ツールは物だけではないし、その呼び名も様々だ。それらを求めて、人々は競い合う。だが、国民誰もが当たり前のように利用し、当たり前のように恩恵を受けているツールがある。人々はそれを求め、自分たちのために他者にちらつかせ、自らの地位や利益を保持しようとする。無意識のうちに。――そう、無意識だ。知らず知らずのうちに、ツールを求め、競い合い、勝とうとする。実に愚かだ」

 三木尾善人は問う。

「何が言いたい」

 阿部亮吾は自分の胸の分厚い超合金製の鎧を叩いて答えた。

「我々なのだよ。そのツールは」

 三木尾善人は眉間に深い皺を寄せた。



                  十一

 阿部亮吾はフロア内の周囲の出入り口ドアを溶接して閉じている装甲兵たちを見回しながら語った。

「我々、『深紅の旅団レッド・ブリッグ』と呼ばれる国防陸軍第十七師団は、本来、極秘の部隊として、国防の最後の砦となるべく温存されるはずだった。最新鋭の機械化兵器と精鋭たちで構成され、アジア最強の部隊として、この国の防衛に資するはずだったのだ。ところが現実には、どうだ。我々が実際に従事してきた任務は、国防に名を借りた、海兵隊紛いのオペレーションばかりだ。単なる『攻撃』だ。この最先端技術を結集した超合金のアーマー・スーツに身を包んだ我々は、貧弱な武器で陳腐な抵抗をする敵の兵士たちを蹴散らし、徹底的に攻撃して全滅させてきた。背を向けて逃げまどう敵兵も容赦なく抹殺した。そう、それが任務だからだ。そして、世界は我々を恐れた」

 三木尾善人は薄い髪の毛を撫で上げながら、苦笑いを浮かべて頷く。

「だろうな。今や、泣く子も黙る深紅の旅団レッド・ブリッグだもんな」

 そんな三木尾に阿部亮吾は再び尋ねた。

「我々がなぜ、深紅の旅団レッド・ブリッグなどと呼ばれているか、分かるかね」

 ドアを内側から溶接している深紅のアーマースーツの装甲兵たちの背中を見回しながら、三木尾善人は答えた。

「赤い装甲兵。おまえの率いる『師団』のチームカラーが赤だからだろ」

 阿部亮吾は腰に手を当てて下を向き、笑う。

「フッフッフッ。『師団』か。確かに我々は、組織上は『師団』として位置づけられてはいるが、内部には混成旅団一個を有するのみだ。通常の軍隊では、一個師団の内部には三個か四個の旅団が構成されている。我々は一個の旅団のみで構成されながらも、その外枠に師団という飾りの組織階層を与えられているのだ。それは、政府の連中が秘密裏に我々を使う際に、手続上、我々が動き易くする為の便法だと言われてはいるが、本当のところは違う。国防軍のどの師団にも属さない別個独立の部隊として組織付けたかっただけだ。秘密裏に軍事行動をとる我々を動かす以上、法的リスクを回避する措置をとっておく必要がある。そのために、独立の師団として位置づける必要があった。我々は、事実上の海兵隊だ。敵を襲い、壊滅させる。それが指名だ。そんな危険な部隊を、どの師団も受け入れなかったというのも、実際のところだろう。結局、我々は疎外された部隊なのだよ」

 三木尾善人は首を傾けた。

「へえ。『トカゲの尻尾切り』のためか。でも、同情はしないね。あんたらは、明らかに他の国防軍兵士たちとは違う。装備も実力も、実績も、質も。それは、事実だろう」

「確かにな……」

 三木尾から視線を逸らしてそう答えた阿部亮吾は、少し間を開けた後、再び語り始めた。

「ところで、『旅団』は英語では『brigade(ブリゲード)』だが、その略語が『Brig(ブリッグ)』だ。君の言うとおり、我々はアーマー・スーツを深紅にペインティングしているから、深紅の旅団レッド・ブリッグと呼ばれる。そのとおりだ。だが、『Brig(ブリッグ)』には他の意味もある。軍艦内の監禁室や営倉の事だ」

「あんたらが、空の師団という檻の中に入れられて、別扱いされているから、そういう蔑称の意味で呼ばれている、そう言いたいのか」

 三木尾の問いに阿部亮吾は首を横に振って答えた。

「いや。君は分かっていないな。我々の部隊の兵士たちはな、私のような身寄りの無い、孤独な人間ばかりなのだよ。家族も居ない、金も無い、軍に進むしか道が無かった、そういう人間ばかりだ。それに、軍の中で問題を起こした人間も多い。犯罪ではない。作戦上の失敗や上司への反抗だ。だが、話を聞けば、現場の兵士には皆、正当な理由がある。責任を押し付けられたのだよ。そして、懲戒で不名誉除隊となるか、十七師団に行くかを迫られた者たちなのだ。大抵の兵士は、後者を選択する。どの兵士も国防軍で戦闘技術の修得のみに明け暮れていた者たちだ。一般社会で生きていく術などは修得していない。つまり、皆、行き場が無いのだよ。ここで働くしか道が無い。だから、どんな危険な任務でも、どんなに無理な作戦でも、文句も言わず実行してきたのだ。いや、文句など言えるはずがない。断れば、すぐに除隊だからな。それに、これだけ多くの人間を殺してきたんだ。今更、普通に外の世界では生きていけない」

 阿部亮吾は哀しげな目で、そう語った。赤い装甲兵達は、レーザー溶接の光に照らされた顔を少し阿部大佐に向けた。

 阿部亮吾大佐は語り続ける。

「要するに、我々には、選択肢が無いのだよ。だから前進するしかない。回避も後退も無しだ。弾丸の嵐の中でも、炎の海の中でも、仲間の死体の上でさえも、前に足を進めなければならない。それしか選択肢が無い。これが我々の部隊の本当の姿さ。組織上も外部に囲われ、選択肢も与えられず、ただ命令に従うのみ。ツールだよ。ただの道具さ。軍も政府も国民も、我々を人間だとは思っていない。我々は、箱の中に仕舞い込まれ、必要な時だけ取り出される、ただの道具なのだ。まるで、営倉の中の囚人兵のようにな。そして、実際に、そんな我々を営倉の中の囚人兵のようだと小馬鹿にした連中がいた。我々が『深紅の旅団レッド・ブリッグ』などと呼ばれるのには、そういった事情がある」

 三木尾善人は少しだけ憐憫を顔に浮かべて、阿部大佐に言った。

「でも、もう、そいつらを見返してやったじゃないか。あんたらは、実際に『アジア最強の部隊』と言われるまでになった。数々の実戦で、そう言われるに相応しい戦歴も挙げているだろ。あのASKITの拠点島だって壊滅させた。立派だよ、立派。今更、こんな事をしなくしても……」

 阿部亮吾は強く反論する。

「違う。その結果、この国は何を得た。我々が命懸けで働いた結果、この国が得たものは何だ。アフリカからは石油。南米からは鉱物。その他の地域と国からも、天然ガスに食料、工業製品にカネ。政治家や役人どもは、我々の派遣をちらつかせ、相手国と交渉し、利権を勝ち取る。平和外交だと? その裏側で、いったい何人の人間が命を失っていると思っているのだ。これの何処が平和国家か。何が平和憲法か。専守防衛とは聞いて呆れるばかりだ。我々が命令に従い、とってきた行動の結果、この国が、この国の国民が、いったいどれだけの危険に晒されていると思っているのだ。どれくらいの数の国が、この国を仮想敵国に想定していると思う。刃先と銃口と核ミサイルの先端を向けているのだよ、この国に。それなのに、まだ、平和の為だとか現実的対処だとかと詭弁を並べ立てて、我々を動かそうとする政治家が大勢いるのだ。国民も、それを後押しする。なぜか。それは勝ちたいからだ。得たいからだ。政治家も評論家も国民も、皆同じだ。常に他者よりも優位に立つ事ばかり考えている。国民の多くは、その事に疑問すら持たない。幼い頃より、そう刷り込まれてきているからな。学校で、地域で。いや、親、子、孫へと受け継がれてさえいる。劣後に置かれた他者の事など考えもしない。優位に立つ事の責任など、何も念頭に無い。ただ勝ちたい。それだけだ。それが、この国が掲げる『平和』の正体だ。昭和の大戦で先人が残した遺文など、皆、とうに忘れてしまっている」

「……」

 三木尾善人は黙っていた。

 阿部亮吾は続ける。

「アジア最強の機械化兵団……いや、我々だけでは無い、今や、戦闘専門の集団となった『国防軍』という強力なツールを得たこの国は、他国に対して優位に立つために、そのツールを使用したがるのだ。人間の本能の総体である『国家』というものが、またも愚行を繰り返しているのだよ」

 阿部大佐がそこまで言うと、三木尾善人は阿部に目を据えて言った。

「だから、決起したというのか。まさか、あんた……」

 阿部亮吾は深く首を縦に振った。

「そうだ。我々の真の狙いは、この国の武装解除である。ネオ・アスキットの連中などは、どうでもよいのだ。いや、むしろ奴らとは逆だ。この国がツールを捨てれば、競う事を止めざるを得ない。平和と共存を実現する真の平和国家へと変われるはずだ。その為には、我々が人柱となり、この国の統治を……」

 凄まじい爆音が鳴り響いた。制御フロアが暗転する。装甲兵たちは反射的にレーザーバーナーを投げ捨てた。天井から割れたスクリーン・ガラスの大きな破片が落ちてくる。続いて、強烈な竜巻がフロアの前後に巻き立った。ガラスの破片が床に落下するよりも先に、フロアの中の機械や机を巻き上げる。前後に並んで立つ竜巻は次第に太くなり、上から黒い鋼鉄の乗り物がゆっくりと降下してきた。天井に口径の大きな四門の大砲を束ねたその乗り物は、前後させた屋根板で機体の前後の竜巻に掴まりながら下りてくる。新型の兵員輸送機「ノア零一」は、防弾性の強化ゴムタイヤをフロアの床に押し付けて、着地した。竜巻が消え、宙に舞った机やガラス片が落ちてくる。

 鳴り続ける衝突音や破壊音の中、三木尾善人は頭を抱えてロビーの隅に走った。

「ようやく来たな。援軍が……ていうか、なんちゅう搭乗の仕方なんじゃ!」

 ボヤキながら走った彼は、床に落ちていた自分と石原の拳銃を拾うと、左膝を押さえて床に伏せていた石原の所に駆けつけた。

「石原、立て!」

 三木尾善人は石原に肩を貸す。二人は身を低くして移動し、机や機械やガラス板が降り続ける隙に、壁際に倒れている机の影に身を隠した。

「大丈夫か」

 三木尾に尋ねられた石原宗太郎は、膝を押さえながら答えた。

「な訳ないでしょ。忘れられてんのかと思いましたよ。くそー。すげー痛てえのに、あの野郎、新原に指の一本や二本とか言い出すから、痛いって言えなかったんですよ。無茶苦茶言いやがって、あの野郎! イタタタ」

「我慢しろ。奴の言うとおり、弾はカスっているだけだし、出血も少ない。それに、やっと援軍の到着だ。中から特殊部隊か何かの奴らが大勢出てきて、こいつらをパパッとやっつけてくれるはずだ」

 三木尾から受け取った自分のコルト・ガバメントから弾倉を抜いて装填を確認した石原宗太郎は、スライドを引きながら言った。

「でも、奴の演説もいい所だったんですけどね……」

 机の角から頭を出して先を覗いていた三木尾善人は、ベレッタのスライドを引いて石原に答える。

「続きは、取調室で聞かせてやるよ。さあ、つかまれ。走れるか」

 ノア零一は屋根板を前と後ろからスライドさせて格納すると、瓦礫を押し退けて前進して、滅茶苦茶になった吹き抜けのフロアから突き出しているロビー部分へと車体を進めた。

 瓦礫の中から立ち上がった赤いアーマースーツの装甲兵達は、一斉に大きな機関銃を構える。兵士の一人が叫んだ。

「撃て撃て。あの輸送機を、あの場から一寸たりとも動かすな! 大佐をお守りしろ!」

 赤い装甲兵たちは一斉にノア零一に向かって射撃を開始した。ロビーの中央で斜めに停車したノア零一の黒い装甲に黄色い火花が無数に散る。側面機関砲が角度を変え、凄まじい速度で火を噴いた。装甲兵の一人が吹き飛ばされた。予期せぬ応射に、赤い装甲兵たちは一斉に身を低くする。溶接をしていない正面入り口の前に移動した装甲兵たちは、指揮官の指示に従って態勢を組み直し、再び攻撃を開始した。フロアの中を閃光が飛び交う。



                  十二

 突如始まった銃撃戦に、三木尾善人と石原宗太郎は机の影に隠れたまま、動けずにいた。石原宗太郎は装甲兵たちの位置を確認しながら、唇を噛む。三木尾善人は、天から舞い降りてきた黒い機体までの距離を確認していた。二人からノア零一までは、そう遠くはないが、その間を銃弾の嵐が塞いでいる。三木尾善人は舌打ちして腰を低くした。

 すると、その黒い機体の背面の壁がゆっくりと斜めに倒れ始めた。

 三木尾善人は背を合わせていた石原の肩を叩いて言う。

「よし、よし。味方の兵士が出てくるぞ。もう、安心だ」

 石原宗太郎も機体の方に顔を向けた。機体の後部ハッチがゆっくりと倒れ、水平に近づく。

 三木尾善人は声を上げた。

「覚悟しろよ、赤鬼ども。国防軍の精鋭部隊のご登場だ!」

 機体の中からトレンチコート姿にハットを被った浜田圭二が外に出てきた。彼は机の角に隠れている三木尾を見つけると、ハットを手で押さえながら、指差した。

「あれ? 善さんじゃねえか。何してんだ、こんな所で。うお、危ねえ!」

 浜田の前を銃弾が横切る。三木尾善人は顔を顰めた。

「ハマー? なんで、お前なんだよ?」

 浜田のトレンチコートの襟を掴んだ宇城大尉が浜田を機内に引き入れて怒鳴った。

「どけ、邪魔だ! 中に居ろ!」

 石原宗太郎が目を白黒させて言う。

「なんだ、なんだ。超合金のアーマー・スーツ相手にトレンチコートですか?」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せた。

「空から装甲車が降ってきたと思ったら、中から出てきたのは、日本一ふざけている探偵か……いや、大丈夫だ。そんなはずはない。見間違いだ。歳のせいだ」

 三木尾善人は目頭を掴んで頭を振った。

 激しい銃撃戦は続いている。

 ノア零一の中で、綾少尉が側面機関砲の小銃モニターの前で発射グリップを握っていた。腰を落として左右のグリップを右に左に倒しながら、射撃を続ける。機関砲の発射音と共に天井から響いていた弾倉帯が流れる音が、カラカラと空回りする音に変わった。綾少尉が強く舌打ちする。

「ちッ。大尉。弾切れです。すみません!」

 後部ハッチの隅に身を隠しながらマシンガンで射撃を続けていた宇城大尉が叫んだ。

「外に出て散開するぞ。ここでの篭城戦はまずい! 俺が前に出て援護する。綾は、あの民間人を安全な場所へ移動させろ!」

「了解!」

 綾少尉はマシンガンを構えると、宇城と呼吸を合わせて外に飛び出した。

 赤い装甲兵たちは、ノア零一からの側面機関砲の射撃が終わると、積み重なった机の影から身を出して立ち上がり、大型の機関銃を据銃したまま一歩ずつ前進を始めた。銃弾がアーマースーツを叩き火花を散らす。それでも、装甲兵達は悠然と構えて射撃しながら歩き続けた。

 装甲兵たちに向けて、コルトガバメントで数発を打ち続けた石原宗太郎は、すぐに机の影に身を隠した。机の隅を装甲兵たちからの強烈な銃撃が襲う。石原宗太郎は負傷した左足を引き摺りながら、机の中央に寄った。

「くそ。無視かよ。全然、効かねえじゃねえか」

 反対側の机の角から中央に移動してきた三木尾善人が言う。

「無駄だ、石原。俺たちの銃じゃ、奴らの鎧には歯が立たん」

 石原宗太郎は素早く机から頭を出して敵の接近を確認すると、身を隠してから三木尾に言った。

「でも、トレンチ・コートじゃ、もっと役に立たないでしょ」

「確かにそうだが、奴の他にも……」

 三木尾善人は床に伏せると、机の横を這って移動して、もう一度机の角に行き、そこから頭を出してノア零一の方を確認した。開いた後部ハッチから濃紺の戦闘服の上にコバルト・ブルーの鎧を装備した兵士が飛び出してきて、マシンガンを撃ちながら機体の側面へと移動していく。それを見た三木尾善人は、後ろの石原に手招きしながら知らせた。

「ほら見ろ、石原。専門職のご登場だ。きっと、あの後から、完全武装の兵士が、ドバーと一気に出てくるぞ。もう安心だ」

 最初の兵士に続いて、同じコバルト・ブルーの鎧に身を包んだ髪の長い女兵士が飛び出してきて、横に構えてマシンガンを撃ちながら、こちらに走ってきた。

 三木尾の後ろに移動した石原宗太郎は、三木尾の背中の上に圧し掛かって同じ方向を覗いてみる。

 機体の側面の前で机の陰に隠れて射撃を続けていた宇城大尉がこちらを向いて、叫んだ。

「お二人さん! そこは、危ないぞ。もう少し、後ろに下がれ!」

 駆け込んできた綾少尉が二人の横で立ち止まると、マシンガンを撃ちながら叫ぶ。

「頭さげて!」

 身を低くしながら再び机の中央まで移動した二人の刑事は、二人から少し離れて立ったまま、飛んでくる弾丸の中で凄まじい射撃を続けている女性を見て、唖然とする。

 もう一度、机から頭を一瞬だけ出して周囲を見回した石原宗太郎が、机の陰に頭を戻してから言った。

「何だ? たった二人だけかよ。しかも女の兵士って。他にいないのか」

 綾少尉は肩でマシンガンを構えて撃ちながら答えた。

「お生憎さま。他はみんな、生理休暇中よ! コノお! さがれっ!」

 機関銃を撃ちながら接近してきていた赤い装甲兵は、顔面を覆う防弾マスクに綾少尉から集中砲火を浴びて、その場に倒れた。

 机に身を隠したまま、三木尾善人は顰め面で口を開ける。

「はあ? 生理休暇あ?」

 素早く机の隅に身を隠した綾少尉は、マシンガンの側面のスイッチを切り替えながらタイミングを計ると、瞬時に腰を上げて机の上に上身を出し、今度は一発ずつ丁寧に、装甲兵の顔面を射撃した。彼女は引き金を引いて肩で振動を受け止めながら三木尾に答える。

「安心して! 私たちの方が、弾丸よりも怖いらしいから。私一人くらいが……丁度……いい……はずよ! コノお! さがれったら!」

 マシンガンを連射モードに切り替えた綾少尉は、再び猛烈な射撃を開始する。

 ノア零一の後部ハッチの隅から、制服姿の女性が手を振りながら叫んだ。

「警部! 早く、こっちへ!」

 机から頭を出して覗いた石原が目を丸くする。

「あ、あの女、今朝の軍規監視局の……?」

 机の陰に身を戻した綾少尉は、マシンガンの弾倉を入替えながら石原に言った。

「知り合い?」

 石原の隣から三木尾善人が答える。

「商売敵みたいなもんだよ」

 綾少尉は眉を寄せた。

「何者なの?」

「警視庁の三木尾だ。こっちが石原。足を撃たれてる」

 石原の足を一瞥した綾少尉は、石原に言った。

「走れる? あの輸送機のところまで」

 火花を散らす銃撃に身を縮めながら、石原宗太郎は頷いた。

「ああ。やってみる」

 綾少尉は喉のレーザー通信機に手を添えて叫んだ。

「大尉。手榴弾を使います!」

 宇城大尉が返す。

「待て!」

 銃撃を中断して身を低くした宇城大尉は、ノア零一の側面を叩いて叫んだ。

「美歩、奥に居ろ! 山口中尉、ハッチを閉めてくれ! これでは敵に丸見えだ」

 綾少尉は苛立った顔でマシンガンを構え直した。

「もう。こんな時に!」

「どうした?」

 三木尾善人が尋ねると、立ち上がって銃撃を再開した綾少尉が怒鳴る。

「なんでもない!」

 ノア零一の後部ハッチがゆっくりと上がっていく。綾少尉はその遅い動きに苛立ちながら射撃を続けた。赤い装甲兵たちは、超合金製のアーマースーツで弾丸を跳ね返しながら、少しずつ前に進んで機関銃を撃つ。近い距離から撃ち込まれた徹甲弾は、三木尾と石原が隠れていた机を簡単に貫通し、大きな穴を開けた。三木尾と石原は慌てて床に伏せる。綾少尉は壁の方に飛んで、大きな機械の陰に身を隠した。それを見ていた浜田圭二が斜めに立ち上がったハッチと壁の隙間から外に飛び出した。キャビンの奥にさがっていた外村美歩が叫ぶ。

「オジさん!」

 浜田圭二は飛び交う銃弾の中で半開きのハッチを押し上げて強引に閉めると、銃撃を続けている宇城の背中に向かって叫んだ。

「閉めたぞ!」

 ノア零一の角を銃弾が襲った。浜田圭二はハットを押さえて、慌てて機体の下に飛び込む。宇城大尉は机の残骸を盾にして隠れ、喉のレーザー通信機に手を当てた。

「よし。綾少尉、いいぞ! 投げろ!」

 機械の陰から応射していた綾少尉が叫ぶ。

「了解!」

 綾少尉は腰から平たい円形の手榴弾を取り外すと、遠くに投げた。機械の陰に隠れて刑事達に叫ぶ。

「伏せて!」

 既に床に伏せていた二人の刑事は顔を見合わせた。慌ててその顔を床に付け、両腕で頭を覆う。

 激しい爆発の後、黒煙が当たりに広がった。宇城大尉は素早く机の残骸から体を出すと、ノア零一を背にして射撃を開始し、敵を引きつける。綾少尉が機械の陰から飛び出して射撃を開始しながら、叫んだ。

「今よ! 走って!」

 三木尾善人と石原宗太郎は急いで立ち上がると、ノア零一の方に全力で走った。綾エリカ少尉が援護射撃を続ける。宇城大尉もノア零一の側面の前で、装甲兵の間接を狙って射撃を続けた。二人の刑事たちは、ノア零一の反対側の側面に隠れた。

 機体の側面に背をつけた三木尾善人警部は、額の汗を拭いながら言った。

「無事か、石原」

「ええ。警部こそ……ああ! コイツ!」

 石原宗太郎は、自分の隣で膝を抱えて座っている背広姿の男に気付いた。新原海介だった。彼は石原と三木尾に包帯が巻かれた右手を上げる。

「やあ。君たち……」

 自分の膝に目をやった石原宗太郎は、新原の顔面に拳を打ち込んだ。新原海介は顔を押さえて、うずくまる。

 三木尾善人が眉を寄せて石原に言った。

「撃ったのは、そいつじゃないだろう」

「いいんですよ。似たようなものです」

「うお! 危ねえ!」

 機体の下から浜田圭二が出てきた。汚れたカパカパのトレンチコートを引き摺って這って出てきた浜田圭二は、起き上がると三木尾に言った。

「善さん、そこ、危ねえぞ」

 三木尾善人は顰める。

「あ? おまえがなんで……」

 浜田の忠告どおり、三木尾が背を当てていたノア零一の側面の隅に火花か散った。三木尾善人は慌てて石原を押して、機体の前の方に移動する。そこへ、マシンガンを撃ちながら綾少尉が駆け込んで来た。ハットを頭に載せた浜田圭二が、後ろに下がりながら言う。

「お疲れ」

 綾少尉は機体の角から射撃しながら答える。

「疲れてない! ていうか、ありがと!」

 浜田圭二は手を一振りして応えた。

 三木尾善人と石原宗太郎は顔を見合わせる。綾少尉は長い黒髪を舞わせて機体の陰に身を隠すと、座っている三人の警察官たちに叫んだ。

「三人とも、もっと奥に隠れて! 跳弾にやられるわよ!」

「ちょうだん?」

 首を傾げている新原に三木尾善人が怒鳴った。

「跳ね返った弾だよ。見てみろ」

 三木尾善人は機体の側面の下の縁を指差した。そこには深い溝が斜めに刻まれていた。

「弾が跳ね返った痕だ。奴ら、相当に強力な弾を使っている。こんな弾に当たったら、いくら跳弾でも、今度は指だけじゃ済まんぞ」

 機体の隅で屈んで向こうの様子を伺っていた綾少尉が、コバルト・ブルーの背中を向けたまま言った。

「そういう事」

 ノア零一の反対側の側面の前で連射を続けていた宇城のマシンガンの弾が切れた。宇城大尉は素早くグリップ部分の拳銃をマシンガン本体から外し、それで射撃を続ける。ノア零一の側面を銃弾が叩き、激しく火花が散った。宇城大尉は床に伏せて銃撃をかわす。

 宇城の銃声が変化した事に気付いた綾少尉は、ブーツの横から予備の弾倉を取り外すと、機体の下を滑らせて宇城に送った。床に伏せていた宇城は、滑ってきた弾倉を手で掴むと、機体の下を覗いた。綾少尉が少しだけ顔を出して言う。

「無駄撃ちは駄目ですよ」

 綾エリカはウインクした。宇城大尉はニヤリとしてマシンガンの本体を取ると、綾に言った。

「サンキュウ。助かった」

 マシンガンの本体に弾倉を装填した宇城大尉は、その本体に拳銃を再装着すると、再び立ち上がり、マシンガンで銃撃を再開する。

 綾少尉は元気よく機体の隅から飛び出すと、マシンガンを肩で構えて銃撃を始め、宇城を援護した。

 敵の赤い装甲兵たちは、銃弾を弾き飛ばしながら、少しずつ前進してくる。綾少尉は、横に移動しながら角度を変えて撃ってくる一人の赤い装甲兵に気付いた。彼からの銃撃をかわし、機体の側面に身を投じる。ノア零一の後部ハッチに激しく火花が散った。背中を地に当てて滑りながらマシンガンを単発モードに切り替えた綾少尉は、寝転んだままその赤い装甲兵の膝関節を狙う。彼女が引き金を引くと、マシンガンから一発だけ銃弾が放たれ、それは的のアーマースーツの膝関節の隙間から入り、兵士の膝を撃ち抜いた。膝を落として座りこんだその装甲兵は、そのままの姿勢で機関銃を撃ち続ける。綾少尉は素早く連射モードに切り替えたマシンガンで、その装甲兵の顔面を狙って連射した。顔の防弾マスクから猛烈に火花を散らしたその赤い装甲兵は、衝撃で気を失い、床に倒れた。綾少尉は前髪をかき上げながら立ち上がる。すると、再び機体の角に火花が散った。反射的に身を屈めた綾少尉は、応射しながら叫ぶ。

「まったく! 相変わらず、しつこいわね! 大尉、どうします?」

 射撃を止めて身を隠した宇城大尉は決断した。

「やむを得ん。中尉、機体の角度を変えられるか」

 ノア零一の操縦席で身構えていた山口中尉が返事をする。

「おう。どうしたらいい」

「時計回りに四十五度だ。たのむ」

「了解。ドリフトなら、得意だぜ! 綾少尉、危ないぜ。どいてな」

 機体の側面に身を隠した綾少尉は、ノア零一の側面を強く叩いて叫んだ。

「みんな、これが動くわよ。離れて!」

 機体の側面に背を当てていた三木尾と石原が慌ててそこから離れる。もたもたしている新原の襟を石原宗太郎が掴んだ。

「お前も、来い」

 ノア零一は車輪を激しく回転させ煙を立たせると、一気に時計回りに回転した。機体の正面を敵の赤い装甲兵たちの隊列に向ける。

 冷蔵庫のような機械の陰に飛び込んだ宇城大尉は、素早く身を起こすと、指示を発した。

「よし。中尉、射撃を命ずる。標的は敵の装甲歩兵六名。バルカン砲で、一気に撃ち払え!」

「了解した」

 山口中尉は照準モニターを睨んで発射ボタンに親指を添えると、呟いた。

「本意じゃねえが、仕方ねえ。悪く思うなよ」

 中尉はボタンを押した。

 ノア零一の屋根に積んである四門の大砲が回転しながら火を噴き、猛烈な勢いで弾丸を発射する。立ち並んでいた赤いアーマースーツ姿の兵士たちは、まるで刈り取られる稲穂のように呆気なく薙ぎ倒されていった。



                  十三

 机が整然と並ぶ制御フロアだった空間は、滅茶苦茶に壊れ、瓦礫が散乱していた。逆様に重なった机、破壊された機械の間に、赤いアーマースーツの兵士たちが横たわっている。

 スクリーン・ガラスの破片をブーツで踏みしめながら、マシンガンを構えた綾少尉が倒れている赤い装甲兵たちを一人ずつ足で押して、生死を確認して回る。

 フロアの中央では、倒れた机や機械を押し退けながら、ノア零一が宇城大尉の誘導に従ってゆっくりとバックしていた。

「よし。ストップだ。その辺りでいい」

 ノア零一は機体の正面をAB〇一八に向けて停止した。宇城大尉は機体の前に移動して指示を発する。

「中尉、武器の最終チェックを頼む。綾少尉、こっちに来て中尉を手伝ってくれ」

 停止したAB〇一八は、静かに沈黙を続けていた。時折、そのグロテスクな巨体の表面を緑色の稲妻が舐めていく。三木尾善人はその前に立ち、眉間に皺を寄せてそれを眺めていた。背後から女性の声がする。

「三木尾警部。それに石原警部補まで。どうして、あなた達が……」

 三木尾善人は振り返った。軍の制服姿の外村美歩監察官が歩いてくる。三木尾善人は部屋の隅で疲れたように座っている新原を指差した。

「いや、あいつを逮捕しに来たんだが、えらい目にあったよ。それにしても、奇遇だな。あんたこそ、どうしてコレに」

 三木尾が指差したノア零一に顔を向けながら、外村美歩は言う。

「私は、阿部大佐の逮捕に。彼らは、私のバック・アップと、総理からの匿名で、これを破壊しに」

 外村美歩はランダムに放電を繰り返しているAB〇一八に険しい視線を送った。

 床に腰を下ろして浜田に左膝の傷の処置をしてもらっていた石原宗太郎が、胡散顔を外村に向けて言った。

「やっぱり、軍が絡んでいたんだな」

 石原の膝に包帯を締め終えた浜田圭二が言う。

「これで、よしっと。そら、立ちな、刑事さん」

「どうも」

 浜田に一礼して立ち上がった石原宗太郎は、不機嫌そうな顔をしていた。彼は冷ややかな視線を外村に向ける。三木尾善人は石原の肩を叩くと、床の上で救命キット・ボックスに道具を仕舞っている浜田に顔を向けた。

「それで、お前さんは、何でいるんだ」

 探偵の浜田圭二は、頭のハットを少し傾けて片笑んだ。

「ふ。危険が俺を呼んでいたからさ」

 三木尾善人警部は項垂れた。

「また、余計な事に首を突っ込んだのか」

「違うって。ちょっとした仕事でね、GIESCOに潜り込んだら、何だか、この人たちと一緒に、これに乗る事になっちゃって……」

 三木尾善人は顰め面で口を開けた。

「ああ? ふざけてんのか。お前の、その『ちょっと』の目安は、どんだけなんだ」

「ふざけて撃たれるかよ。撃たれたんだぜ。ここ。ほらっ」

 浜田圭二はトレンチコートの左胸の焦げた穴を指差す。

 三木尾善人はそれを横目で見て言った。

「素人が動き回るからだろ。そのうち本当に危ない目にあうぞ」

 立ち上がった浜田圭二は、三木尾に顔を突き出した。

「ここ数日、そればかりなんですがね。俺の『危ない』の目安は、普通に学校で理科の実験する時の『危ない』と同じだぜ。その基準で言っても、何度も『危ない』目に遭ったんですけどね。善さんにも連絡あったでしょ。九八ツール・モータースのオッチャンから。愛車が撃たれて刺されて、ベコベコになっちまったんだぞ。どうして、すぐに動いてくれなかったんだよ。その後も何度も、マジで死にそうになったんだ。車で空を飛んだり。実際、この人たちが助けてくれなかったら、今頃、死んでいたんだからな」

 三木尾善人は頭を掻いた。

「俺だって、いろいろ忙しいんだよ。こんな大事件なんだぞ」

「あんた、プロのデカだろうが。もう少し、いろいろと想定しろよ。ハマーが危ないんじゃないか、とかさ。自分が危ない目に遭っていて、どうするんだよ」

 三木尾善人は浜田の胸を指先で押しながら言った。

「俺ももうすぐ定年だがな、今まで、犯人を逮捕にしに行って、アーマースーツを着た軍人に囲まれた事なんか、ねえよ。そんなの想定するか」

「お二人さん。もめるのは後だ」

 マシンガンを肩に掛けた宇城影介大尉が割って入った。彼は三木尾警部の前に立つと、敬礼して言った。

「国防省下特務偵察隊、第一小隊長の宇城影介大尉です。向こうにいる女性が、同じ小隊の綾少尉。それから、今、運転席から降りてきたのが、国防省付特務航空士の山口中尉です。軍規監視局の外村大佐の事は、ご存知なのですね」

「ええ。今朝、お会いしました。改めまして、警視庁捜査一課、警部の三木尾です」

 三木尾善人が敬礼すると、その隣で長身の若い男が軽く敬礼した。

「同じく警部補の石原です」

 向こうから背広の男が敬礼する。

「管理官の新原だ」

「お前は、いいんだよ」

 三木尾善人と石原宗太郎は声を揃えて怒鳴った。続いてトレンチコートの男が言う。

「浜田圭二だ。裏の世界じゃ、人は俺をダーティー・ハマーと……」

「どうでもいいよ。黙ってろ」

 三木尾善人が浜田の口上を妨げる。浜田圭二は口を尖らせた。その隣で、外村美歩監察官はキョロキョロと周囲を見回していた。

「阿部大佐は、何処に」

 三木尾善人も周囲を見回す。

「あれ、そういえば、何処に行ったんだ。なかなか、面白い奴だったのにな。逃げやがったか。畜生、傷害の現行犯じゃねえか……」

 石原宗太郎が左足を引き摺りながら新原の方に歩いていき、彼に言った。

「おい。阿部は、何処に行った。逃げたのか」

「知らんよ。弁護士が来るまで、私は何も喋らんぞ」

「こいつ……」

 横を向いて口を閉ざした新原を、石原宗太郎は強く睨み付けた。外村美歩は辺りを見回しながらロビーの隅へと歩いて行く。彼女の背中に視線を向けていた宇城大尉は、腕時計に目を遣ると、すぐに三木尾警部の方に顔を向けた。

「状況を説明して下さい。時間がない」

 三木尾善人は宇城の方を向いて答えた。

「ああ。――簡単に言うと、あの管理官が実はネオ・アスキットという地下組織のメンバーで、くすねたバイオ・ドライブをAB〇一八に接続したんだ。それで、そのドライブに田爪が仕込んでいたウイルスが効いて、AB〇一八は一時停止。今、お目覚めの最中だ。さっきの赤鬼たちの会話から察するに、おたくらの仲間と、ウチのハイパーSATがIMUTAを死守しているようだ。どうやら、今、こうしている最中に、IMUTAをこいつから離脱させているらしい」

「そうですか。一応は、我々のプラン通りです」

 宇城の返事を聞いた三木尾善人は、戻ってきた石原と顔を見合わせた。

 宇城大尉は深刻な顔で言う。

「ですが、敵と共に何者かが、この辺り一帯に高レベルのジャミングを掛けていて、仲間との通信が遮断されています。ここに来る途中に空から見た限りでは、我々の仲間の部隊がここに近づいてはいますが、敵の守りが相当に堅く、足止めを食わされている。苦戦しているようです。いずれは突破するでしょうが……」

 石原と再び視線を合わせた三木尾善人は、何かを言おうとした石原を制止して、口を開いた。

「つまり、応援の到着には時間がかかる。そういう事ですな」

 宇城大尉は頷く。

「ええ。しかし、ここを占拠していた敵の大半は、その防衛前線に出ているようです。先ほどの戦闘の際も、支援兵が出てこない。という事は、今、ここの敵の兵力は相当に手薄になっている。第三者のジャミングのおかげで、我々の事が本体に伝わっていないのでしょう。この状況なら、今のうちに、急ぎ任務を実行しなければなりません。本来なら、皆さんの救出を優先すべきところなのですが、どうか、ご協力下さい」

 振り返った石原宗太郎がAB〇一八を見上げながら呟いた。

「こいつを破壊するには、今が最大のチャンスって訳か」

 宇城大尉は三木尾の目を見て、黙って頷いた。すると、そのAB〇一八にバルカン砲を向けて停止しているノア零一の屋根の上から、山口中尉が報告した。

「いやあ、大尉。駄目ですね。訳の分からん配線が多過ぎて……今も、急に、レギュレーターがイカレちまった。それに、さっきの赤蟻どもの銃撃で、バルカン砲のチェーンベルトがやられちまったようだ。なんとか撃てない事はないが、安全性は請負えませんな」

 宇城大尉は眉を寄せる。

「そうか。綾少尉。ミサイルの方は」

 屋根の上から軽やかに飛び降りて着地した綾エリカ少尉は、長い黒髪をかき上げながら答えた。

「大丈夫です。ロベルト短距離ミサイルが四発、使えます」

 宇城大尉は、ノア零一のバルカン方の横に設置されたミサイルを見上げながら言った。

「バルカン砲で撃った傷口に、ロベルト・ミサイルを撃ち込んで、深部を焼き尽くす。それしかないか……」

「そうは、させん」

 男の太い声が響いた。全員が声の方に顔を向ける。AB〇一八の前に、外村を羽交い絞めにした深紅のアーマースーツ姿の男が立っていた。阿部亮吾だった。彼は、人質にした外村のこめかみに大きな拳銃を押し当てている。宇城大尉と綾少尉はマシンガンを、三木尾善人と石原宗太郎はそれぞれの拳銃を即座に構えた。

 宇城大尉と浜田圭二が叫ぶ。

「美歩!」

「美歩ちゃん!」

 阿部亮吾は外村の首の前に回している手に黒い箱を持っていた。彼は三木尾を睨み付けながら言う。

「私が逃げただと。この阿部亮吾、逃げも隠れもせん! さあ、全員、武器を捨てろ」

 三木尾善人はベレッタを構えたまま言った。

「阿部。お前さんも軍人だろ。状況をよく見ろ。もう終わりだ。悪あがきはよせ!」

 宇城大尉もマシンガンを構えたまま言う。

「大佐。銃を降ろして下さい。もう、あなたに勝機は無い」

 三木尾善人が怒鳴った。

「諦めろ。阿部!」

 阿部亮吾は鼻で笑う。

「諦めろ? やはり、君は何も分かっていないのだな」

 三木尾善人は肩を上げて、阿部大佐の頭部に狙いを定めた。三木尾のベレッタの銃口を睨み付けながら、阿部亮吾は言う。

「諦めているのだよ。初めから。この国にも。世界にも。君らの事もな」

 後方からマシンガンで狙いを定めていた綾少尉が叫んだ。

「阿部大佐! オペレーションを停止させて下さい! これ以上、味方同士で戦わせる必要はないはずです!」

 阿部亮吾は聞き入れなかった。彼は言う。

「無理だな。我々は後退しない。私の部下の中には、影腹を切ってこの戦いに臨んでいる者もいる。何を隠そう、この私もそうだ」

 外村に腕を回したまま肩の横に退かせた阿部良吾は、自分の腹部を晒した。深紅のアーマースーツの腰と胴体の接合部分から、その鎧の色と同じ色の液体が染み出している。石原宗太郎は驚愕した。

「こ、こいつ、腹を掻き切っていやがる。鎧の隙間から血が……」

 三木尾善人は瞬きをしないで阿部に狙いを定めたまま、石原に言った。

「精神力のある奴が、本気だって事だ。気を抜くな、石原」

 阿部亮吾は再び外村を体の前に引き寄せて言った。

「しかし、さすがは増田が指揮する偵察隊だな。そんな玩具のような輸送機で、よくここまで来れたものだ。褒めてやる。貴様が宇城か。名前は聞いているぞ。ここまで優秀なら、私の部隊に引き抜いておくべきだったかな」

 阿部亮吾は宇城に視線を送って口角を上げた。

 宇城大尉は阿部に向けてマシンガンを構えたまま、彼を見据えて言う。

「大佐。そのAB〇一八は危険なのです。近い将来、わが国の、いや、我々人類の脅威となる。今のうちに破壊しておかねばならんのです」

 阿部亮吾はノア零一の上のミサイルに目を遣って、頷いた。

「なるほど。この距離からロベルト短距離ミサイルで破壊するプランか。フン、甘いな」

「甘い?」

 宇城大尉が聞き返すと、阿部亮吾は血色を無くし始めた顔を宇城に向けた。

「ああ。知ってのとおり、このAB〇一八は量子エネルギーを循環利用している。半永久的に停止する事はない。その量子エネルギーは物理的粒子を利用したエネルギーではあるが、可燃性のガスや液体ではないから、ミサイルで攻撃しても、それに着火して必要以上の大爆発を起こす事は無い。そう考えたか。だがな……」

 阿部亮吾は外村のこめかみに当てていた拳銃の銃口を、反対の手に握っている黒い箱に押し当てて、引き金を引いた。顔を逸らした外村の横で、銃弾は音を立てて黒い箱を貫通する。阿部亮吾は外村の首に回した手に握った黒い箱を持ち上げた。外村の首が赤い腕で吊り上げられる。阿部亮吾は拳銃を握った腕を曲げて素早く肘を上げると、耳の横で後方に向けて一発を放った。彼はまた素早く銃を戻し、外村の頭に向ける。彼の後方のAB〇一八は、被弾した箇所から薄茶色の粘液を漏らしながら、強い緑色の光を発し始めた。表面を走る稲妻の速度が一段と速くなる。阿部亮吾は全員の顔を見据えて、苦しそうな声で言った。

「この傷口に、この破損したドライブを投げ込んだら、どうなると思う」

 浜田圭二が阿部に握られている黒い箱と、彼の背後の放電を繰り返しているAB〇一八を見比べながら呟いた。

「ど、どうなるんだ?」

 三木尾善人がベレッタを構えたまま、静かに答える。

「たぶん。やばい……」

 マシンガンの銃身に頭を添えた宇城大尉が言った。

「おそらく、同一のDNAを持つ成長体同士が接触した状態で自己修復しようと人工細胞を活性化させれば、互いに互いを取り込もうとするはずだ。共食いをし合うように」

 三木尾善人が阿部を睨みながら言った。

「いや、系譜からいえば、ドライブが親でバイコンは子だからな。互いに反発しあうか、引き合うか。あるいは、その両方」

 浜田圭二が確認した。

「いずれにしても、その部分で、急激にシナプス結合を繰り返すんだよな……」

 首に回された阿部の腕を掴みながら、外村美歩が言った。

「その結果、現在AB〇一八に滞留している量子エネルギーは、その一点に集中する……まさか……」

 三木尾善人が、その先を口にした。

「量子反転爆発……」

 一同は固まったまま沈黙した。



                  十四

 ノア〇一八の上に立っていた山口中尉が声を上げる。

「なんだって? 量子反転爆発って、二〇二五年の大爆発の原因となった、あれかよ」

 浜田圭二が身構えたまま、ゆっくりと言う。

「やばいぜ、それ。マジで」

 阿部亮吾は蒼白の顔で片笑んだ。

「ようやく、理解したようだな。諸君」

 宇城大尉が叫んだ。

「やめるんだ! 阿部大佐! この新首都圏で、そんな事をしたら、一般市民にどれだけの被害が出ると思っているのですか!」

 阿部亮吾は宇城を睨んだ。

「そんな事は承知の上だ。だがな、二〇二五年の爆発を思い出してみるがいい。タイムトラベル後の残量分の量子エネルギーしかなかったタイムマシンでさえ、あの規模の爆発だ。この体格に十分に量子エネルギーを貯め込んだ、このAB〇一八が爆発したら、どのくらいの規模の爆発になるだろうな」

 綾少尉がマシンガンで阿部の頭部に狙いをつけたまま呟いた。

「日本の国土のほとんどは、消えて無くなってしまう……」

 山口中尉がノア零一の上から叫んだ。

「それどころか、地球上のほとんどの沿岸部の都市は、爆発が生んだ津波で壊滅状態になっちまうぞ!」

 外村美歩は背後の阿部に必死に訴えた。

「阿部大佐。そんな事をして何になるというのですか。馬鹿な事はやめて下さい!」

 阿部亮吾は朦朧としながらも、厳しい目つきで言う。

「こうでもしなければ、分かるまい。自分達がいかに危険なツールを所持していたのかという事がな。そして、その反省と墓標の上に、この国は三度、再建されるのだ。その時初めて、この国は、真に平和国家として生まれ変わるのだよ」

 三木尾善人警部が怒鳴った。

「馬鹿野郎。そんな事をしてみろ。下手すりゃ、世界大戦が始まっちまうぞ。二〇二五年の爆発で世界がどうなったか、思い出してみろ」

 阿部亮吾は即答した。

「その時は、その時だ」

「大佐!」

 そう叫んだ宇城大尉の顔を見ながら、阿部亮吾は語る。

「我々が新憲法を手にして、間もなく四半世紀が経とうとしている。今こそ、この国の国民が、歴代の憲法を通じて、その真意をどれだけ理解してきたのかが問われるべき時なのだ。新たな再生で、三度、平和国家の樹立を目指すか、それとも、それを捨て去るのか」

 三木尾善人が声を荒げた。

「阿部! 暴力を使って築いた平和なんぞ、長続きはしねえぞ。クーデターや選挙ボイコットで政権交代した国が、どういう末路を歩んだか、お前も見てきただろう。癖が悪くなるんだよ。国民の。刀や銃で家は建てられねえ。お前もよく考えろ、阿部!」

 続いて宇城大尉が説得した。

「大佐。平和は誰もが望んでいます。それは、あなたが一番解っているはずだ」

 阿部亮吾は一度しっかりと頷いてから言った。

「では、試してみようではないか」

「やめて……」

 そう言った外村を前に突き飛ばした阿部亮吾は、素早く振り向いて、黒い箱をAB〇一八の傷口の中に押し当てた。背中に宇城と綾からの銃撃を受けながら、彼はその黒い箱をAB〇一八の中に押し込む。

「美歩ちゃん!」

 床に倒れ込んだ外村を浜田が受け止めた。

 阿部亮吾は横の機械に凭れた。宇城大尉も綾少尉も、三木尾警部も石原刑事も、銃を下ろす。彼らは激しく放電を繰り返すAB〇一八を呆然と見上げていた。

「そんな……」

 山口中尉はノア零一の上で膝を突いて脱力した。

 黒い箱はAB〇一八の深部に飲み込まれていく。AB〇一八は急速に神経細胞の再生を始め、傷口の内部から強い緑色の光を放ち始めた。横の機械に凭れてAB〇一八を見つめながら、阿部亮吾は蒼白の顔に笑みを浮かべた。

「よおし。いいぞ。取り込め。飲み込んでしまえ……」

「なんて事を……」

 外村美歩は愕然とする。

 阿部亮吾は力を振り絞って立ち上がると、振り向いた。腰の鎧の繋ぎ目から血が滴り落ちる。彼は歯を食い縛り、目を剥いて叫んだ。

「新日本国憲法、万歳! 平和国家、万歳!」

 阿部亮吾は自分のこめかみに拳銃の先を押し当てた。三木尾善人が叫ぶ。

「やめろ! 阿部!」

 鬼神のような顔で引き金を引こうとした阿部の顔を緑色の光が照らした。その瞬間、彼は塵となって消えた。その場に深紅のアーマースーツが崩れ落ち、マントが宙に浮く。大きな拳銃が床に転がった。溜まっているはずの血液さえも残さずに、乾いた状態で抜け殻となった赤い胴鎧が真っ直ぐに立って倒れ、落ちた赤いマントがゆっくりとそれを包む。

 三木尾善人は呆然として言う。

「な、なんだ。何が起こった」

 石原宗太郎も瞬きしながら言った。

「消え……ましたね……」

 宇城大尉の声が響いた。

「くそ、量子銃だ。身を隠せ!」

 浜田圭二は外村の腕を掴んで、横に倒れている機械の隅に一緒に身を隠した。綾少尉はノア零一の後方に身を隠す。石原宗太郎はノア零一の側面に背中を当てて張り付いた。ノア零一の屋根の上で山口中尉が伏せる。宇城大尉と三木尾善人は背中合わせに立って銃を構えたまま、周囲を見回す。

「大尉!」

「善さん、こっちに」

 綾少尉と石原宗太郎が、それぞれ叫んだ。宇城大尉は綾少尉に、三木尾善人は石原に、その場に留まるように合図する。二人は銃を構えたまま注意深く周囲を見回した。

「隠れて!」

 身を乗り出して叫ぶ外村を浜田が掴んで引き戻す。

「下手に出ると、消されちまうぞ。あれはマジでヤバイ」

 浜田がそう言った後で、宇城大尉が全員に向けて叫んだ。

「物陰から出るな! 皮膚の一部にでも照射されたら、消し飛ぶぞ」

 浜田圭二は体に隠した外村美歩を自分のトレンチコートで覆うと、彼女の頭にハットを深く被せた。

 ノア零一の前方から足音が聞こえてくる。三木尾善人と宇城大尉はその方向に銃を向けた。宇城大尉が横に移動し、三木尾と距離を開ける。

 どこからともなく現れたスーツ姿の白髪の男が、ノア零一の前をゆっくりと歩いて横切った。手には不恰好な形状の大きな銃器を抱えている。

 三木尾善人はその男にベレッタの銃口を向けて構えたまま言う。

「田爪……田爪健三だな」

 男は三木尾に顔を向けることも無く、悠然とAB〇一八の前まで歩いて行き、床に転がった深紅のアーマースーツの前でこちらに背を向けたまま立ち止まった。

 宇城大尉が男の背中に狙いを定めながら叫ぶ。

「動くな田爪! 国防軍だ! その銃を床に置くんだ。振り向けば、撃つぞ!」

 田爪健三はゆっくりと振り返った。誰も引き金を引かない。引けなかった。彼はその事情を理解していた。

 田爪健三は宇城に視線を向けて言う。

「ほう。そうかね。では、このAB〇一八の爆発は、いったい誰が止めるのだね」

「くっ」

 宇城大尉は鼻に皺を寄せる。石原宗太郎はノア零一の側面に肩を当てて、陰から田爪を狙った。田爪健三はその石原の方に視線を向ける。それに気付いた三木尾善人が、田爪と石原を結ぶ直線上に移動した。石原宗太郎は眉を寄せる。彼には分かっていた。三木尾善人は量子銃の光線の盾になって石原を守ろうとしていた。

 綾少尉が足音を殺して、石原と反対側の機体側面に回る。田爪健三はその微かな音を聞き取り、一瞬だけ量子銃の銃口をそちらの方に向けた。宇城大尉がマシンガンを構えた肩に力を入れる。田爪健三は銃口を綾に向けたまま、視線を宇城に向けて言った。

「心配はいらん。君の仲間を消すつもりは無い。君たちもだ」

 彼は量子銃の銃口をノア零一の上から覗いていた山口中尉に向けた。そして次に、部屋の隅で背を向けて逃げようとしていた新原に量子銃を向けると、厳しい顔で言った。

「そこの君は、分からんがね」

 視線を向けた新原海介は、田爪健三が量子銃を向けて睨んでいるのを見て、頭を両手で覆った。

「ヒッ! どうかお助けください。御慈悲を……」

 新原海介はその場に跪くと、田爪に向けて手を合わせて懇願した。田爪健三は新原に軽蔑的な眼差しを向けると、嘲笑して背を向ける。彼は足下に転がっている赤い鎧を見回しながら言った。

深紅の旅団レッド・ブリッグか。南米でも何度か噂を耳にした事があったが、こんな小物が大将であったとはね。無駄な決起に費やす金と時間と労力があれば、世界のどこかで助けを必要としている人々の下に、なぜ駆けつけてやらん。どうせ、無断出撃なのだろう?」

 田爪健三は宇城に顔を向ける。

 三木尾善人が透かさず田爪に声を掛けた。

「田爪。警察だ。とにかく、その物騒な銃を床に置くんだ」

 田爪健三は振り返り、三木尾に量子銃を向ける。

「何故だね。君らは置かないのに。だいたい、この量子銃は、私が持っているからこそ、意味があるのだ。どうせ君らでは、使いこなせまい」

 三木尾善人は田爪に銃口を向けたまま、すぐに言い返した。

「その意味が、大問題なんだよ。こっちにとっては」

 目を大きくして驚いてみせた田爪健三は、片笑む。

「ふふ。君、なかなか面白い男だな。いやいや、久しぶりだ。面白い男に出会ったのは、永山君以来だよ」

 三木尾善人は田爪に目を据えて言う。

「南も面白かったか」

 田爪健三は首を横に振った。

「いや。彼は実に不愉快な男だったよ。君が警察官なのなら、後日に明らかにしてくれるのだろう。期待しているよ」

 左足を引き摺りながらコルト・ガバメントを構えて三木尾の横に出てきた石原宗太郎が、苛立った顔で言った。

「いいから、その銃を置けっつうの」

 田爪健三は石原の足を一瞥して、彼に言う。

「君、足を怪我した状態では、踏ん張りも効かんだろう。無茶をするな。ところで、時間が無いのだが、どうするのかね。これをこのまま、放置するつもりかね」

 AB〇一八の放電は一段と激しくなっていた。深部から漏れている緑色の光も、さっきよりも強くなっている。ノア零一の上からその様子を確認していた山口中尉が、宇城に言った。

「大尉。博士に止めてもらった方がいいんじゃないですか。彼じゃないと無理なんでしょ」

 宇城大尉は田爪に視線を向けたまま、依然としてマシンガンを構えている。

 田爪健三はゆっくりと宇城の方に歩いてきた。宇城大尉が身構える。田爪健三は口角を上げて話しながら歩いた。

「しかし、君達も随分と健闘したようだな。あのIMUTAの離脱を私抜きで実現するとは。すばらしい。実にすばらしい功績だ。感心したよ。いや、本当の話だ」

 彼は宇城大尉の前を素通りすると、綾少尉の方を向いて立ち止まり、量子銃を向けた。綾少尉は実に怪訝そうな顔をしていた。マシンガンを構える腕にも力が入っていない。田爪健三はそんな彼女の顔を見て、穏やかに尋ねた。

「これを動かしたのは、誰だね」

 綾の後ろのノア零一の上から、山口中尉が顔を覗かせた。

「俺だよ。俺。悪いか!」

 上を見上げた田爪健三は、銃口を綾に向けたまま山口に言った。

「私は、操縦できたのは誰かを尋ねただけだ。それを否定してはおらんよ」

 彼は一度、ノア零一を見回してから、再び機体の上の山口に顔を向けた。

「それで……どうだったかね。操縦の方は。やり易かったかね。ん?」

 山口中尉は憮然として答える。

「ああ、まあ、俺ならなんとかって感じだ」

 田爪健三は満足そうな顔で頷いた。

「そうかね。神経感知型システムを外したので、多少の心配はあったのだが、よいパイロットが持ってきてくれて、助かったよ。礼を言おう。実を言うと、私と、あの神経感知型システムとは、どうも相性が悪くてね」

 田爪を銃口で追っていた三木尾善人は眉を深くひそめた。彼が何かを言おうとした時、浜田圭二の大きな声がした。彼はトレンチコートの中に外村を包んだまま、AB〇一八を睨んでいた。

「おい、おい。なんか、バチバチいってきたぞ。大丈夫かよ。やばそうだぜ」

 AB〇一八は血管のような管を膨らませ、内部から亀裂音とも破裂音とも言い難い奇妙な音を鳴らしながら、激しく放電を続けていた。

 田爪健三は平然とした顔で言う。

「ああ、心配はいらん。爆発する前は、そんなものだ」

「なんだって?」

 三木尾善人は田爪とAB〇一八を交互に見た。他の者たちもそうしたが、その殆どの視線は、明らかに異常なAB〇一八で止まった。そして皆、恐怖と焦りを顔に浮かべた。

 そんな三木尾たちの顔を見回していた田爪健三は、落ち着いた様子で静かに言った。

「大丈夫だ。時間は在る」

 田爪健三は口角を上げた。



                  十五

 石原宗太郎はAB〇一八を見つめながら、小声で三木尾に言った。

「この男、若い頃から遅刻魔だったとかじゃないですよね」

「ああ、中村が、いつもこんな感じだからな。遅刻魔はいつも時間が在ると余裕こく。だから遅刻するんだ。しかし、これ、どうする……」

「いや、俺に訊かれても。こんな物、どうしようも……」

「やっぱり、こいつに止めさせるしか、ないよな」

 二人がコソコソと話していると、田爪健三は白髪をかき上げながら綾の方を見て言った。

「ところで。ここに来る途中で、深紅の旅団レッド・ブリッグの兵隊達が数名、こちらに移動しようとしていたが、警戒しなくてよいのかね? 後ろのドアを溶接していないようだが……」

 それを聞いて顔を曇らせた宇城大尉は、田爪に向けてマシンガンを構えたまま頭を傾けて、綾少尉に哨戒につくよう合図した。綾少尉は田爪を一瞥すると、フロアの入り口のドアに向けて駆けていく。

 宇城大尉は田爪に銃口を向けたまま、彼に尋ねた。

「どうやって、爆発を止める」

 田爪健三は宇城に背を向けたまま頷いた。

「方法はある。だが、その前に。君たちは、そのノア零一の火器で、このAB〇一八を攻撃するつもりだったのかね」

「そうだ」

 宇城が答えると、田爪健三は鼻で笑った。

 三木尾善人が険しい顔で言う。

「なに笑ってんだ。なんか問題でもあるのか」

 田爪健三は言った。

「相変わらず、凡人は無駄が多い」

 宇城大尉が尋ねる。

「どういう事だ。今の状況で撃ち込んでも、爆発は止められないのか」

 田爪健三は首を横に振った。

「それはいかん。いかんよ君。爆発を早めるだけだ。それに、こうなる前にミサイルを使っていたとしても、何の解決にもならないのだよ」

 三木尾善人が厳しい顔で言う。

「解るように説明しろ」

 田爪健三は三木尾の顔を見据えて深くゆっくりと頷いた。

「よろしい。いいかね、このAB〇一八は、生体細胞で出来ている。だから、怪我をしても再生する。仮に、ミサイルで粉微塵にしたとしても、破片が一片でも残れば、それから再生させる事が可能だ。勿論、ニューラル・ネットワークも再生されるから、結局、元の情報を持ったAB〇一八が再現される。高橋君が破損したドライブを再生させたようにね。時間はそれなりに、かかるだろうが」

 三木尾善人と宇城大尉は視線を合わせた。石原宗太郎も怪訝な顔をして聞いている。浜田圭二は眉間に皺を寄せて深刻そうな顔をしていた。それらを見た田爪健三は言った。

「おやおや、誰かが、それをするだろうという事は考えなかったのかね。政府の誰かや、裏の世界の者ども、あるいは影の秘密結社。誰であれ、世界中の何者かが、このAB〇一八を再生させる事を」

 宇城大尉は田爪を睨んだまま言う。

「だったら、焼き尽くせばいい」

 田爪健三は振り向き、宇城に顔を向けた。

「どうやって。こんな巨大なナマモノをかね。何日かかると思う。その際の悪臭や煙で、近所迷惑だろう。それに、ダラダラと時間を掛けて焼却していては、この生体コンピュータの再生の方が焼却の速度を追い越してしまうかもしれん。焼却熱を自己の再生エネルギーにしてしまいかねんからね。したがって、やるんだったら、短期間で一気に焼いてしまわねばならん。しかし、だからと言って、強力な弾薬を使えば、必ず断片が飛び散る。AB〇一八の肉片がね。それらを全て回収する自身はあるのかね? 仮に完全に焼却するために、高エネルギーの強力な爆弾を使用するとしても、この新首都市街地の真ん中では限度があるだろう。一方で、中途半端な熱エネルギーでは、かえって肉片の飛散範囲を広げてしまうだけだ。それに、もし何者かが、その断片を回収し、密かに培養して再生させたとしたら、最悪の場合、回収された断片の数だけ、AB〇一八が復元されてしまうのだよ。いくつもね。恐ろしい事だ。実に恐ろしい」

 宇城大尉は冷静に尋ねた。

「では、どうするんだ。方法は」

 三木尾善人が口を挿む。

「それよりも先ず、この量子反転爆発を阻止する方法は」

 田爪健三はAB〇一八を見上げながら二人に答えた。

「同じだ。この爆発を止める方法が、結局、このAB〇一八を永久に完全に完璧に、この世から消し去る方法になる。これを使うのだよ。この量子エネルギーを。まさに、『毒をもって毒を制す』だ」

 田爪健三は、抱えていた量子銃を持ち上げて見せた。

 浜田圭二が焦りと苛立ちをぶつけた。

「早く要点を言えよ。爆発しちまうだろうが!」

 田爪健三は浜田に顔を向ける。

「では、結論から言おう。凝縮される量子エネルギーに、重ねる形で、別の量子エネルギーを加えれば、その中和反応によって……」

 二発の銃声が響いた。田爪健三が突き飛ばされたように後ろに倒れる。三木尾善人が叫んだ。

「田爪!」

 新原海介が床に倒れた田爪に駆け寄り、彼の手から量子銃を奪った。左手に阿部のIMIデザート・イーグルを握ったまま、包帯をした右手で量子銃を抱えた新原海介は、その阿部の拳銃を脇に挟むと、量子銃の銃口を三木尾に向けた。彼は高らかに笑う。

「はっはっは。田爪健三、討ち取ったりぃぃぃ!」

 新原海介は三木尾に量子銃を向けたまま、宇城の方を向いて注意しながら、その前を歩いていく。石原宗太郎が銃を構えたまま言う。

「この、新原。てめえ……」

 三木尾の横も通って前に出た新原海介は、外村をトレンチコートに包んで座っている浜田に量子銃を向けて、勝ち誇ったように言った。

「はっはっは。ようしっ。誰も動くなよ。量子銃だ。動くと、消すぞ」

 外村美歩は浜田が被せたハットを外し、立ち上がろうとした。三木尾の横でコルト・ガバメントを構えていた石原が外村に掌を突き出して制止する。新原海介は浜田と外村に量子銃を突きつけたまま、言った。

「そら。全員、銃を捨てろ。ほら、早く。この二人を消しちゃうぞ!」

 マシンガンを構えたまま宇城大尉が叫ぶ。

「やめろ!」

 新原海介は怒鳴った。

「だったら早く銃を捨てたまえ! 石原、おまえもだ」

「このクソ野郎が……」

 石原宗太郎は渋々と拳銃を下げて、床に置いた。三木尾善人と宇城影介も武器を床に置く。新原海介は満足気な顔で言った。

「ようし、いいぞ。三人とも、さがれ。全員、両手を上げるんだ!」

 そして、ノア零一の上に顔を向けて叫んだ。

「そこに隠れているパイロット。妙な動きをするなよ。ここから見えるように、両手を上げるんだ」

 手を上げながら、三木尾善人が小声で石原に言った。

「畜生、あの銃はヤバイな……」

 石原宗太郎は黙って頷く。

 浜田圭二が外村と共にゆっくりと立ち上がりながら呟いた。

「ヤバイ奴がヤバイ銃を持っちまった。ヤバイの二乗だぜ」

 新原海介は怒鳴る。

「女あ、いつまでコートの中に隠れているんだ。横に出ろ!」

 外村美歩は新原を睨み付けたまま、浜田のトレンチコートから外に出た。新原海介は外村美歩に量子銃の銃口を向けた。そして、両手を上げて立っている三木尾をチラリと見て、声高に笑う。

「わっはっはっは。どうだ、三木尾君。やはり、勝つのは私だったな」

 三木尾善人は溜め息を吐いてから新原に言った。

「この爆発をどうするつもりだ。このままでは、大爆発を起こすぞ。おまえも警官の端くれだろうが。よく考えろ。無関係な一般人を巻き込むつもりか」

 新原海介は外村の顔を見据えたまま答えた。

「考えたよ。警察官としてな。だから撃ったんだ。田爪は犯罪者だからな。それに奴は、量子エネルギーを加えれば中和されるとか何とか言っていた。要は、この銃で、あの臨界点を撃てばいい訳だ。いや、照射かな。ピカッとな。簡単だ。その前に、君ら全員が消えてくれれば、証拠は何も残らん。爆発を止め、AB〇一八を消滅させれば、私は国家の、いや、人類の危機を救った英雄だ。どうだ。いいだろう」

 石原宗太郎が呆れ顔で言い捨てた。

「アホが。それでよく官僚になれたな。そう、上手くいくか」

 新原海介は量子銃を石原に向けた。

「なんだと。石原、君は上司に対する口の利き方がなっとらんよ」

 そして石原に量子銃を向けたまま、三木尾の前を歩いて横切った。石原の前で立ち止まった新原海介は、銃口を向けたまま言う。

「よーし。まずは君からだ。消してやる。さっきは、よくも殴ってくれたな。覚悟したまえ。いくぞ……」

 新原海介は量子銃の引き金に掛けた薬指に力を入れた。

 三木尾善人が叫ぶ。

「やめろ、新原!」

 石原宗太郎を顔を背けて目を瞑った。

 新原海介は何度も引き金を引く。

「あれ。何だ、出ないぞ。くそ……」

 量子銃での照射を諦めた新原海介は、脇に挟んだ拳銃を左手で握った。

「じゃあ、こっちの銃で……」

 大きな拳銃を構え、石原に銃口を向ける。

 一発の乾いた銃声が鳴り響いた。額の中央に穴を開けた新原海介は、両目を寄せて後頭部から血飛沫を散らし、直立したまま床に倒れる。

 フロアの入り口ドアの前でマシンガンを肩に構えた綾少尉が、一言呟いた。

「ウザイのよ。あんた」

 石原宗太郎は両手を上げたまま右目を開く。足下には額を撃ち抜かれた新原が倒れていた。石原宗太郎は言う。

「あれ? 死んだ?」

 三木尾善人が手を下ろしながら頷いた。

「ああ。死んだな、こりゃ。確実だ」

 宇城大尉は大きく息を吐くと、マシンガンを持って歩いてくる綾少尉に視線を送り頷いた。綾少尉は得意気な顔で前髪をかき上げる。宇城大尉は外村に目を向けた。安堵した外村美歩は、胸を押さえて腰を曲げていた。浜田圭二が隣で支えている。

「うう……」

 うめき声がした方向に顔を向けた宇城大尉は、そこへ駆け寄った。

「田爪博士。しっかり!」

 床に仰向けで倒れている田爪の横に肩膝をついて座り、胸の傷口を覗きこむ。すると、背後から浜田圭二がハットを手で押さえながら覗きこんで言った。

「大丈夫だ、急所は外れている。応急処置で何とかなるかもしれん」

 宇城大尉は横に退いて、処置を浜田に任せた。三木尾善人は新原の遺体の手から量子銃を離すと、それを持って田爪のところに駆けつける。石原宗太郎は放電を繰り返しているAB〇一八を一瞥してから、左足を引き摺って田爪のところに向かった。外村美歩が彼に肩を貸す。ノア零一の上から降りてきた山口中尉は、急いでコックピットに乗り込み、そこから狭い通路を通って後部の空間へと移動した。

 皆が床に倒れている田爪を囲んでいる。宇城大尉は眉間に深い縦皺を刻んでいた。駆けつけた綾少尉も田爪健三を見て眉を寄せる。彼女はそのまま、じっと田爪の顔を見つめた。

 浜田圭二が立ち上がりながら言った。

「上着を脱がせといてくれ、救命キットを取ってくる」

 田爪健三は浜田のズボンの裾を掴んだ。

「待て……私の事は、いい。それより、爆発を止めなければ……」

 量子銃を手に持った三木尾善人が言った。

「何言っているんだ。処置が先だろ。AB〇一八は、この銃の使い方を教えてくれれば、俺が撃つ」

 田爪健三は苦しそうな顔で三木尾の方を指差した。

「その量子銃は……」

 三木尾は握っていた量子銃に顔を向ける。

 田爪健三が苦しそうな顔で言った。

「その量子銃は、もう使えない。エネルギーパックが……空だ」

 救命措置用の大きなケースを抱えてきた山口中尉が、それを浜田に渡した。

 三木尾善人は顰めた顔で言う。

「なんだって? じゃあ、どうするんだ?」

 田爪健三は、声を絞り出して言った。

「私を……私をノア零一のコックピットへ」

 宇城大尉は一度綾少尉を顔を見合わせた後、田爪に尋ねる。

「ノアに? どうする気だ」

 田爪健三は、地響きのような音を立て始めたAB〇一八を指差した。

「急げ……時間が無い」

 救命キットの箱を床に置いた浜田圭二が田爪の肩に手を回して体を起こした。一度首を傾げた彼は、田爪の腕を自分の首に掛けながら言う。

「おい、手を貸してくれ」

 宇城大尉が反対側の腕を取って自分の肩に載せ、浜田と共に田爪を立たせた。浜田と視線を合わせた宇城大尉は、すぐに床に視線を落とし、眉間に皺を寄せた。

 山口中尉はボヤキながらノア零一のコックピットに走っていく。

「まったく、どうなってるんだ。時間が有るって言ったり、無いって言ったり」

 三木尾善人は立ったまま、その量子銃を見つめていた。



                  十六

 マシンガンを腰の前で抱えた綾少尉がフロアの入り口ドアの前に立って哨戒している。他の者は、AB〇一八の正面に停まっているノア零一の周囲に居た。

 宇城大尉が田爪健三をノア零一の操縦席に座らせている。

「これで、いいのか?」

 田爪健三は、ぐったりとした様子で答えた。

「ああ。すまない……」

 宇城大尉は隣に立っている浜田と顔を見合わせる。田爪健三は浅い呼吸を続けながら言った。

「このノア零一は、今日の、この日の為に……私が改良した。兵員の搭乗スペースに積んであるのは……」

 田爪健三はシートに凭れて首を倒した。歩いてきた三木尾善人警部が駆けつけて叫ぶ。

「おい! しっかりしろ。田爪!」

 三木尾の声に反応して目を開けた田爪健三は、再び語り始めた。

「後ろに積んであるのは、小型の量子エネルギー・プラントだ。そして、このノア零一自体が、いわば量子砲弾なのだよ。このまま、あれに突っ込めば、AB〇一八を消失させる事ができる」

 浜田圭二が眉間に皺を寄せて言った。

「特攻するってのか。馬鹿言うな」

 田爪健三は苦しそうな顔で続けた。

「構造は、私が第二実験で南米にワープしたマシンと、ほぼ同じだ。奴を掴んで、別空間に移動する」

 三木尾善人が聞き返した。

「別空間にだと? 何処に行くつもりだ」

 田爪健三は片笑んで答える。

「分からんよ。遠い宇宙の果てかもしれんな……子供の頃の夢が、やっと叶えられる」

 宇城大尉が顔を曇らせた。

「ちょっと待て。別の都市にでも現われたら、どうするんだ」

 田爪健三は右の後ろに顔を向けて、宇城の目を見て明言した。

「それは無い。AB〇一八の蓄えている量子エネルギーの総量を考えれば、どう概算しても、太陽系の外には出てしまう……」

 胸の傷口を押さえた田爪健三は、操縦ハンドルに凭れかかった。

「田爪!」

 三木尾善人が叫ぶと、田爪健三はハンドルを握ったまま言った。

「――それには、誰かが乗って、この複雑なアクセル・ペダルを操作せねばならん」

 石原に肩を貸して、少し離れた位置に立っていた外村美歩は、田爪の様子を見ながら呟いた。

「田爪健三……この人、まさか……」

 石原宗太郎が言う。

「ああ。自分でケツを拭くつもりらしい。――ああ、いや、これは失礼」

「……」

 外村美歩は黙って操縦席の田爪に視線を向けていた。

 田爪健三はハンドルに凭れてうつ伏せたまま言う。

「その量子銃も中に入れてくれ。それは、この世界に残していてはいかんものだ」

 三木尾善人は一瞬躊躇したが、量子銃の引き金を引いて何も反応しない事を確認した彼は、それを田爪に渡した。

 三木尾の後ろから覗いていた山口中尉が言った。

「他に方法があるだろう。何も命を犠牲にする必要は無い」

 身を屈めて量子銃を助手席の方に移した田爪健三は、ハンドルに額を乗せたまま言った。

「いいのだ。いずれにしても、私は長くは無い。それに、罪人だ。極刑に値する罪人なのだよ。これは相応の報いだ。――悪いが、そこのスイッチを押してくれ……左に回しながら、押すのだ」

 三木尾善人は田爪に指示された通り、スイッチを押した。

「これか。押すぞ。回しながらだな」

 三木尾の背中の上から、浜田圭二が中を覗き込む。浜田の背中を邪魔そうにして中を見ていた山口中尉は、浜田を人睨みして機体の前に回った。石原と外村の前を不機嫌そうな顔で通っていく山口中尉に、外村が尋ねる。

「どうしたの、ヤマケンさん」

 一瞬だけ目があった機内の田爪から視線を外して、山口中尉は外村の方を向いた。

「あのトレンチコートのおっさんが邪魔で、よく見えねえんだよ。助手席側から見るよ」

 山口健士中尉は不機嫌そうに助手席の方へと回っていった。

 田爪健三はハンドルに持たれたままダッシュボードの下を覗き込み、頷いた。

「それでいい。そこの計測パネルの下を、開けてくれ。力いっぱい引けば、外れるはずだ」

 浜田圭二が手を伸ばす。

「ここか。ふん」

 浜田圭二はパネルの下のプラスチック製のカバーを外した。

 助手席側に回った山口中尉は、スライド式のドアを開けようとしたが、ロックが掛かっていて開かない。彼は仕方なくステップに足を掛けて、小さな窓から中を覗いた。ハンドルに凭れてうつ伏せている田爪の横から浜田が覗きこんでいる。その下にガンクラブ・チェックの上着の背中が見えていた。

 三木尾善人は上から圧し掛かる浜田を重そうに退けながら、田爪に尋ねた。

「それで、次は、どうするんだ」

 田爪健三は、カバーを外した部分を指差す。

「奥に、小さなレバーがあるはずだ。どうだ。見えるかね」

 その部分を覗きこんだ三木尾善人は言った。

「ああ。あった。あれだな」

 三木尾善人は機械の奥に手を伸ばした。助手席側の窓の向こうで、山口中尉が首を横に振っている。三木尾善人は声を上げて、手を引いた。

「熱っ! あっちちち」

 三木尾善人は手を振った。

 田爪健三は言う。

「やはり、そんなに熱くなっていたかね。すまなかった」

 綾少尉は助手席側からステップに足を載せて中を覗き込んでいる山口中尉を見て、そちらの方に歩いてきた。彼女は山口に尋ねる。

「中尉、何か問題ですか」

 山口中尉はステップから飛び降りると、綾少尉に言った。

「いや、あの田爪の野郎が何やら秘密の仕掛けをしてたみたいだから、中を見てみたいんだけどよ、あの刑事さんとトレンチコートが邪魔で、よく見えねえんだよ。どうせ、見納めだから、よく機構を知っておきてえんだけどなあ」

 綾少尉は首を傾げた。

「見納め?」

「ああ。田爪の奴、どうやら、こいつであの生体コンピューターに特攻するつもりらしいぜ。これで別空間に持っていくんだと」

「特攻? 田爪がですか?」

 山口中尉は小声で言った。

「罪滅ぼしみたいな事を言っていたぞ。自分が行くのが最適だって」

 綾少尉は眉間に皺を寄せて、ノア零一を見回していた。もう一度首を傾げた綾少尉は、山口の横を通って歩いていった。彼女はマシンガンを山口に渡す。

「すみません。見張りを交替してください。ちょっと、話をしてきます」

 山口中尉はマシンガンを受け取ると、ノア零一の前を回って歩いて行く綾と部屋の出入り口のドアを交互に見て言った。

「見張りって、俺、上官じゃないの? 中尉だぞ」

 山口中尉は渋々顔でドアの方まで歩いていった。

 綾少尉は、フロントガラスの向こうでハンドルに凭れて俯いている田爪に目を遣りながら、ノア零一の前を回っていった。外村と石原の前を通り過ぎ、浜田の後ろで立ち止まった彼女は、開いたスライド式のドアに手を掛けて中の様子に注意を払っている宇城に声をかけた。

「大尉。少しお話が……」

 その時、山口中尉の声が響いた。

「一人入ってるぞ、そっちだ!」

 赤いアーマースーツの装甲兵の姿が綾の視界に入った。その装甲兵は宇城の先で機関銃をこちらに向けて構えている。綾エリカは叫んだ。

「危ない!」

 それより先にマシンガンを構えていた宇城大尉は、綾の前に盾になるように移動して発砲しながら、その赤い装甲兵からの銃撃を胸部に受けた。宇城を撃った装甲兵に、横から山口が射撃する。撃たれた宇城大尉は三木尾と浜田の上に倒れ込んで、そのまま横に崩れ落ちた。駆け出した綾エリカは宇城が持ち上げたマシンガンを掴むと、それを構えて前に出た。外村美歩が石原の手を払って宇城の所に駆けつける。綾少尉は、山口に向けて発砲しているその赤い装甲兵に向けてマシンガンを構えた。

「このおお! よくも大尉を!」

 綾エリカは鬼のような形相で引き金を引いた。防弾マスクとヘルメットの片側に綾からの猛烈な銃撃を集中的に浴びたその装甲兵は、首を横に細かく揺らしながら頭部の片面から凄まじい火花を散らして横に押し倒された。

 床の上の宇城の横に膝をついた外村美歩は、血相を掛けえ声を上げる。

「影介! 目を開けて! 影介! オジさん、影介が!」

 浜田圭二は慌てて横にしゃがみ込む。

「くそっ、また怪我人か! 少尉、救命キットだ」

 走って戻ってきた綾少尉は、急いで腿から救命キットの薄いボックスを外すと、浜田に渡した。

 浜田圭二はそれを外村に渡すと、胸と腹部に穴を開けている宇城のコバルト・ブルーの鎧を外そうとする。

「畜生、この防具、どうやって外すんだ!」

「退いて!」

 浜田の手を払って、綾少尉が宇城に跨った。彼女は手際よく宇城の鎧を外す。宇城大尉は胸と腹から大量に出血していた。

「うう……」

「大尉! しっかりして下さい。大尉!」

 うめき声をあげる宇城に綾少尉が呼びかけた。向こうから山口中尉が叫ぶ。

「くそ。また、赤蟻どもがやって来たぞ。綾少尉!」

 入り口付近からマシンガンの発砲音が響いた。石原宗太郎が足を引き摺りながら山口の応援に駆けていく。彼は途中に落ちていた赤い装甲兵の大きな機関銃を拾って、重そうに肩に構えた。

「中尉、退け、邪魔だ!」

 石原宗太郎は歯を食い縛りながら、アーマースーツを装着した機械化歩兵用の大型機関銃を撃つ。射撃の反動で、石原の上半身が激しく振動した。石原宗太郎は唸り声を上げながら、揺れる銃身を支え続けた。廊下から進攻して来ていた赤い装甲兵たちは、先頭の兵士が鋼鉄貫通弾で撃ち抜かれた事を知ると、慌てて角に身を隠した。入り口のドアの左右から、山口と石原が銃撃を続け、赤い兵士たちの進攻を食い止める。

「大尉! 大尉、しっかり!」

 止血処置を続ける浜田の隣で、綾少尉は宇城に叫び続けた。宇城大尉は腰から外した小さな筒状の小型装置を綾に渡す。彼は力を振り絞って声を出した。

「綾少尉……停戦信号だ。信号弾を撃て。全員を退避させるんだ……お前も……」

 宇城大尉は血を吐くと、意識を失った。

 外村美歩が叫ぶ。

「影介! 影介! 目を開けて!」

 綾少尉も強く呼びかける。

「大尉! 大尉!」

 フロアの入り口の所から山口中尉が怒鳴った。

「少尉! 戦闘中だ! しっかりしろ! 戦線に戻れ!」

 ハッとした綾少尉は、腕の鎧で涙を拭って、立ち上がった。筒状の小型装置をマシンガンの先端に装着しながら、綾少尉は長い黒髪を左右に揺らして、山口たちの所へと走っていく。

 ノア零一のコックピットでは、田爪の膝の横で、三木尾善人が苦悶の顔をしていた。

「くそ、駄目だ。熱いな」

 ハンカチを巻いた手をダッシュボードの下の穴から出した三木尾善人は、煙を立てているハンカチを急いで外して、パタパタと振る。田爪健三は右手を伸ばして言った。

「私がやろう」

「いや、無理だろ。熱いぞ」

 穴の中に手を入れた田爪健三は、その奥にある熱せられたレバーを掴んだ。

「ぐううう」

 肉が焼ける音と臭いがする。田爪健三は歯を食い縛ってレバーを引き、すぐに手を出した。煙を上げている右手を庇いながら、三木尾に言う。

「よし。上の赤いコードを左の穴に挿し直してくれ」

 三木尾善人は、背後での宇城の様子を気にしながら、赤いコードを掴んだ。

「これか」

 三木尾善人は言われたとおりに、その先端のプラグを穴に挿し込む。

 田爪健三は頷いた。

「そうだ。それでいい」

 操縦パネルの計器盤の下から、ホログラフィー・キーボードが投影された。

 田爪健三は言う。

「すまない。起動コードを入力してくれないか。この手では、無理のようだ」

「分かった。コードは何だ」

「エル……ユー……ケー……エー……」

 ホログラフィー・キーボードのアルファベットに触れながら、三木尾善人は呟いた。

「博士、あんた……」

 入力を終えると、操縦パネルの奥から奇妙な高音が響いてきて、機体が微妙に揺れ始めた。

 田爪健三は虚ろな目をしながら言った。

「刑事さん。光絵会長に……義母様に伝えてくれ。申し訳……なかったと……」

「分かった……おい! しっかりしろ!」

 三木尾善人はハンドルに額をつけて倒れ込んだ田爪の肩を揺すった。

 田爪健三は顔をあげる。

「大丈夫だ。後は、何とか……しよう。なるべく、離れていなさい。光が強烈だ。――目に注意して……」

「わかった。もう喋るな」

「消失後は、そこに質量の歪が生じる。急激だから、一瞬……そこに気流が集中するはずだ。この大きさなら、相当なものになるだろう。おそらく、その際の気圧の変化で、この建物は倒壊してしまう。出来るだけ早く、脱出した方がいい」

「そうするよ」

 頷いた三木尾善人に田爪健三は言った。

「幸運を祈る……」

 三木尾善人は田爪の目を睨んだ。

「あんたもな。また、どこかで会おう」

 田爪健三は片頬を上げて、短く笑った。

 三木尾善人は操縦席から体を出すと、スライド式のドアを激しく閉めた。



                  十七

「こちら、ブラボー・スリー。ユニット・イレブン聞こえるか。ユニット・イレブン!」

 AB〇一八の制御フロアに続く廊下の角に身を隠していた赤いアーマースーツの兵士が、ヘルメットの中の通信機で仲間に呼びかけていた。返事は返ってこない。その男は隣の兵士に言った。

「くそ。駄目だな。まだ通信が回復していない」

「畜生、どうなってるんだ。作戦と全然違うじゃないか」

 そこへ、小さなロケット弾が飛んできた。

「くそ!」

 一人が床に伏せた。もう一人の赤い装甲兵は、壁に突き刺さった筒状の機械弾を指差して言った。

「違う。通信弾だ。爆裂弾じゃない」

 起き上がった装甲兵は、壁に突き刺さったまま点滅している筒状の装置を見ながら、横の装甲兵に尋ねた。

「光点滅式の信号か? モールス信号だな。始めの方は停戦要求だろ。後の方は何て内容だ?」

「あの点滅は……至急……脱出……せよ……だと?」

「いや、阿部師団長を救出せねば。敵に捕縛されたのかもしれん」

「まさか、あの阿部大佐が。それより、もう我々の指令本部は陥落しているんだぞ。大佐も、ご存知のはずだが……」

「いや、さっきの中の様子だと、もしかしたら、大佐もやられたのかもしれんぞ。それに、あれを見ろ」

 その装甲兵は壁の角からフロアの奥を指差した。もう一人の装甲兵が角から兜を出して先を覗く。彼の視界には、フロアの奥のロビーの向こうで、放電しながら緑色に光を放っているAB〇一八の姿が映った。

「なんだ、あれは。爆発するのか」

「だから、敵もビビッて、停戦信号弾を撃ってきたんだろうよ。なんか、やばそうだぜ。どうする」

「くそ。退避だ。急いで、この建物から退避するぞ。巻き添えは御免だからな」

「その前に、手榴弾だ。入り口を崩して塞いでおこう」

 その装甲兵の提案に、もう一人の装甲兵は戸惑った。

 提案した装甲兵は言う。

「奴らが生き残っていたら、後々、いろいろと面倒だろ。早くやれ」

「そうだな。分かった」

 腰から手榴弾を外した赤い装甲兵は、それをフロアの入り口に向けて投げ込んだ。

 フロアの入り口で左右に分かれて様子を伺っていた綾少尉と山口中尉、石原刑事の間に、黒いアイスホッケーのパックの様な物が転がってきた。綾少尉が叫ぶ。

「手榴弾! 退避!」

 全員が慌てて物陰に飛び込んだ。手榴弾が爆発する。爆風と振動がフロアを揺らした。粉塵が舞い、入り口の上の壁が崩れ落ちる。

 ノア零一の角から三木尾善人警部が叫んだ。

「石原!」

 粉塵が舞う中、瓦礫の山が音を立てて盛り上がり、石原宗太郎が咳き込みながら立ち上がった。

「ゲホッ。ゲホッ。はーい、ここです。ここ。ったく、何なんだ、あいつら。ゲホッ、ゴホッ……」

 続いて綾少尉が立ち上がる。最後に山口中尉が、机を退かして立ち上がった。三木尾善人は安堵の息を吐いた。すると、横のノア零一がゆっくりと前に動き始めた。床に倒れている宇城の処置に当たっていた浜田と外村に三木尾が叫ぶ。

「全員、離れるんだ。なるべく遠くに」

 外村美歩が三木尾に言った。

「手を貸して。影介を」

 三木尾善人が宇城の近くに駆けつけると、上半身を裸にした宇城の両脇を抱えた浜田圭二が叫んだ。

「善さん、足を持ってくれ!」

「分かった」

 三木尾善人は宇城の両足を持って、彼を運びながら観察する。丁寧に止血処置が施され、出血が抑えられていた。三木尾善人は浜田の顔に目を遣った。浜田圭二は宇城大尉の両脇を抱えながら、必死に呼びかけていた。

「しっかりしろよ。死ぬなよ。大尉!」

 宇城を物陰に隠した三木尾善人は、浜田と外村にも隠れるように指示すると、戻ってくる石原たちに叫んだ。

「全員、何かに身を隠せ。気圧の変化で、突風が吹くようだ。それから、光を見るな。目をやられるぞ!」

 ノア零一は次第に高音を発し始めた。石原宗太郎と綾少尉、山口中尉は再び物陰に身を隠す。ノア零一は細かく振動して、一瞬だけ後ろに下がった後、撃ち出される弾丸のように、AB〇一八に向かって真っ直ぐに飛び出した。そのままAB〇一八の巨体に突入すると、強い緑色の光を周囲に放ち、轟音を響かせる。その光は空中の一点に向かって吸い込まれていき、ノア零一もAB〇一八も、消えた。フロアの中で凄まじい突風が舞い、巻き上げられた瓦礫が、AB〇一八を格納していたスペースの方に流されていく。フロアやロビーの壁面に幾つもの亀裂が走った。暫らくして風が止み、静かになる。

 ハットを手で押さえて頭を持ち上げた浜田圭二は、周囲を見回した。

「どうなった。消えたのか。全て……」

 床に伏せていた三木尾善人は、腰を叩きながら立ち上がる。

「ああ、そうみたいだな。本当に、どっかに連れて行きやがった」

 隠れていた綾少尉と山口中尉がそれぞれ出てきた。二人が無事だった事を確認した三木尾善人は、床に寝かされている宇城大尉に目を向ける。深刻な顔で横に座っている外村美歩監察官に、三木尾善人は尋ねた。

「大丈夫か」

 外村美歩は黙って頷く。宇城の横に浜田圭二が腰を下ろした。彼は傷口を覗き込んで言う。

「くそ、血が止まらないな。止血テープはこれが最後だ。ここにある応急処置用の道具だけじゃ、どうにもできん」

 三木尾善人も浜田の横に腰を下ろた。

「肺を撃たれたのか」

「ああ。左右の肺を貫通している。血が溜まるぞ。挿管器具も無いし、腹に停まっている弾も取り出さないと。早く病院に運んだ方がいい」

 外村美歩は目に涙を溜めていた。

 三木尾善人は周囲を見回す。

「そう言われてもなあ。どこから出ろって言うんだよ」

 綾少尉が歩いてきた。彼女は眉を寄せて浜田に尋ねた。

「大尉の具合は……」

「はっきり言って、重症だ。止血テープは残ってないか。出血も酷いんだ」

 綾少尉は首を横に振った。

「さっき渡した救命キットと大尉の救命キットで全部です」

 浜田圭二は呟く。

「くっそー。さっき、山口中尉が持ってきてくれた大きな救命キットのボックスにも、工具みたいな物しか入ってなかったぞ。兵員輸送機なら、医療キットを入れとけってんだよ、まったく……」

 三木尾善人は眉間に深い縦皺を刻む。

 綾少尉は立ったまま、下を向いて小さな声で言った。

「すみません……。私が気を抜いたばかりに……」

 立ち上がった三木尾善人は、綾少尉の肩を叩いた。そして、向こうから石原に肩を貸して歩いてくる山口中尉を見つけると、彼に尋ねた。

「中尉さん、あんた、パイロットだろ。着水に備えた携帯酸素ボンベは持ってないか」

「有るぞ。持ってる」

 山口中尉は革のジャンパーの中に手を入れると、肩の辺りから細い缶を取り出して、三木尾に投げた。

 三木尾善人は受け取ったその酸素ボンベを浜田に渡す。

「無いよりはマシだろう。肺の血を抜いて、そいつで酸素を送れば、時間を稼げるはずだ」

 浜田圭二は救命キットの中から注射器を探しながら答えた。

「そうだな。さっき俺に使った注射器があるはずだが……」

 歩いて来た石原宗太郎が言った。

「いや、善さん。そうのんびりともしていられないようですよ。ほら」

 石原宗太郎はロビーの上を指差した。三木尾善人は顔を向ける。壁面が音を立てて、少しずつ崩れていた。三木尾善人は周囲を見回して舌打ちした。

「チッ。田爪の言った通りだ。崩れてきやがった。この調子じゃ、すぐに建物全体が崩れるな……。退避路は」

 石原宗太郎は崩れ落ちた入り口ドアの辺りを親指で肩越しに示した。

「ご覧の通り、塞がれています。他のドアは溶接されてますし、八方塞がりですね」

 三木尾善人は険しい顔で言う。

「このままじゃ、生き埋めだな。なんとか、ここから脱出しないと」

 その時、綾少尉が口の前に人差し指を立てた。

「シッ。静かに。聞こえる? この音」

 強い風の音が近づいてきた。全員が上を見上げる。上空からの突風と共に、サーチライトが下を照らした。綾少尉は上から降下してくる光源に向けてマシンガンを構える。手を翳して光源を覗いていた外村美歩が言った。

「ノア零一?」

 二本の竜巻に掴まって下りてくる黒い機体を見上げた石原宗太郎は言った。

「なんだ。もう帰ってきたのか。早過ぎるだろ」

 石原宗太郎は拳銃を抜いて上に構える。

 三木尾善人も拳銃を抜いてスライドを引きながら言った。

「やっぱり、どこか近くに移動しただけだったか……」

 目の左右に両手を立てて上を覗いていた山口中尉が叫んだ。

「いや、違うぞ。あれは、別の機体だ。車輪の数が違う。昇降口も側面になっている。俺達が乗ってきた、さっきの機体じゃねえ!」

 浜田圭二は外村美歩と顔を見合わせた。

「小杉の爺さんが言っていた、もう一機の方か?」

 サーチライトが宇城を照らす。

 綾少尉がマシンガンを構えたまま叫んだ。

「みんな隠れて! 敵かもしれない」

 石原宗太郎は真上にコルト・ガバメントを構えながら言った。

「畜生、また新手かよ。どうする。中尉」

 山口中尉はマシンガンを握ったまま答えた。

「とにかく、身を隠せ。パイロットからは丸見えのはずだ」

「隠せって言われても、どこに……」

 石原宗太郎が左右を見回すと、降下してくる黒い機体から、オレンジ色の光線が板状に照射された。光の板は、フロアの端の方から満遍なく床の上を舐めて移動していく。

 綾少尉が叫んだ。

「レーザースキャン! 索敵している! 攻撃してくるわよ、気をつけて!」

 その時、三木尾のガンクラブ・チェックの上着の中から、場違いな軽快な音楽か鳴った。

「わ、びっくりした。なんだ、こんな時に……」

 三木尾善人はベレッタを持ち替えると、慌てて上着のポケットから旧式のスマートフォンを取り出した。彼はとりあえずそれを耳に当てる。

 聞き覚えのある声が聞こえた。

『あ、ようやく繋がった。もしもし、三木尾警部さんの携帯ですか? 新日ネット新聞の永山です。今日はどうも。あの、今、お電話……』

 三木尾善人は上にベレッタを構えたまま答えた。

「ああ、そうだ。今、忙しい!」

『やっぱり。何度かけても電話が繋がらないので、参りました。通信自体が駄目みたいなんですよね。ウチにはコンピューターに詳しい永峰っていう子がいるんですけど、その子の裏技で、何とか衛星ネット何とかコネクトで電話してるんですよ。だいぶ前にウチの神作が警視庁に向かったんですが、街の中も大変な事になっているようなので、無事にたどり着けるているかどうか……。ああ、すみません。ちょっと慌てていて。実は警部さんに緊急にお話し……』

 三木尾善人は近づいてくる黒い機体に銃を向けたまま、通話相手の永山に言った。

「いいか、文屋さん、よく聞くんだ。今すぐ、この電話を切って、一一〇番しろ。AB〇一八の施設に、刑事と軍人と探偵と重症の怪我人がいて、今、ものすごくヤバイ状況だ。軍隊でもハイパーSATでも防災隊でも戦隊ヒーローでも何でもいいから、大至急、送るように伝えてくれ。いいな!」

『は、はい? AB〇一八? 何でそんな所に警部さんが……』

 三木尾善人は電話を切って、スマートフォンをポケットに仕舞った。そのポケットに赤い点か光っている。その点から伸びる細い光線は黒い機体の底から発せられていた。同じように、綾少尉にも、山口中尉にも、石原刑事にも、浜田探偵にも、外村監察官にも、床の上の宇城大尉にも、赤いレーザー光線が照射されている。

 三木尾善人は、自分の胸の辺りに移動したレーザー光線を見ながら言った。

「くそ、何だ。こりゃ」

 綾少尉は空中の機体をマシンガンで狙いながら、険しい顔で叫んだ。

「こっちの人数と位置をスキャンして、捕捉したのよ。ロックオンされたの、私たち全員が! 覚悟して、一斉に撃ってくるわよ」

 浜田圭二がこめかみに汗を垂らす。

「やべえぜ。今回はマジで、やられちゃうパターンだぜ……」

 三木尾善人は諦め顔で銃を上に構えた。



                  十八

 兵士と刑事たちは銃を構えたまま身構えた。探偵は生唾を飲む。監察官は意識を失っている恋人の上に覆いかぶさり、彼を庇った。

 黒い機体の側面のドアが横にスライドして開き、中からマシンガンを構えた兵士が身を乗り出す。彼は機内に向かって叫んだ。

「よし、他に敵はいない! 機体を着地させろ!」

 その紺碧の戦闘服の大男は、着地する機体の中から大声で叫んだ。

「綾! 無事か! 大尉!」

「山本?」

 綾少尉は、突風に髪を舞わせながら目を細めた。機体の車輪が地に着くより先に飛び降りてきた山本少尉は、綾に駆け寄った。

「綾! 無事だったか。よかった」

 綾少尉は慌てて三木尾と石原に叫ぶ。

「撃たないで! 味方よ!」

 山本少尉は言った。

「安心しろ。敵は、ほぼ征圧した。GIESCOの中を移動中に、この『ノア零二』を見つけたんだ。量産型の試作機で、ノア零一の簡易版だとさ。中も広いぜ。詰めれば二十人は乗れ……」

 彼の発言の途中から綾少尉が口を開いた。

「大尉が撃たれたの」

「なに」

 綾が指差した方向に走った山本少尉は、床に倒れている宇城大尉を見て言った。

「奴らの鋼鉄弾が当たったのか。畜生!」

 外村美歩が頷く。

 山本少尉は近くにいた浜田に言った。

「とにかく、中に運ぼう。あの中なら、緊急治療用の救命機材もバッチリ揃っている」

 山本少尉は浜田と二人で宇城を担ぎ上げ、着地した「ノア零二」の中に運んだ。外村美歩も続いて乗り込み、綾少尉と浜田圭二も乗り込んだ。機体を見回しながら、山口中尉が呟く。

「操縦は誰が……」

 操縦席のドアが開いて若いパイロットが降りてきた。

「師匠! 無事でしたか」

 見習いパイロットの下村剛だった。山口中尉は愁眉を開く。

「下村! おまえ、この野郎! よく生きてたなあ。この馬鹿やろうが!」

 そして、機体を改めて見ながら言った。

「よく、一人でコイツを飛ばせたな」

「これ、神経感知型システム搭載機なんですよ。結構簡単に飛ばせました。音は、結構しますけどね。コツさえ分かれば、意外と楽勝、楽勝」

「調子に乗るな。空をなめるなと言ってるだろう」

 立ち話をしている二人に、三木尾に肩を借りながら歩く石原宗太郎が言った。

「おいおい、パイロット同士で再会を祝っている場合じゃないぞ。はやく上昇しないと、壁が崩れてくる」

 三木尾善人が機内の宇城を視線で指しながら、パイロットたちに言った。

「こっちは急ぎの用件を抱えてるんだ。早くしろ」

 三木尾善人は石原を支えて、その黒い機体に乗り込んだ。ステップに足を掛ける際、石原の左足に注意を払う。機体の下の縁に視線を送りながら、三木尾善人は眉間に皺を寄せた。そして、石原と共に機内に乗り込んでいく。

 三木尾善人は壁際の席に石原を座らせた。その後、注意深く室内を見回す。中は広かった。左右の壁際に搭乗用のドアを隔てて長椅子が設置されている。長椅子は、詰めれば大人が十人は座れる長さだ。つまり、山本少尉が言うとおり、最大で二十人、間に立って乗る人間を入れれば、二十五人くらいは乗せられるはずである。一個小隊を輸送できる、正に兵員輸送機と言うに相応しいものだった。今は、その向かい合わせに置かれた長椅子の間のスペースに、天井から処置台が下ろされていた。その上には宇城大尉が寝かされている。山口中尉が外から搭乗口のドアを閉じた。三木尾善人は石原の隣の席に腰を下ろし、溜め息を漏らした。

「やれやれ、また、最新飛行機で空の上か。勘弁してくれよ……」

 三木尾善人はシートベルトをはめた。

 コックピットの助手席に座った山口中尉が言う。

「よし。じゃあ、副機長は俺だな。下村機長。しっかり頼むぞ」

「了解しました。操縦支援、宜しくお願いします」

「おう。任せろ!」

 石原宗太郎がコックビットとの隔壁を強く叩く。

「どうでもいいから、はやく飛べよ。お二人さん。崩れるぞ!」

 処置台の周りには、浜田圭二と山本少尉、綾少尉、外村監察官が立っていた。

 浜田圭二は宇城の胸と腹から止血テープを剥がしながら叫んだ。

「人工血液はあるか。血圧保持用の!」

 綾少尉が壁際の座席の上の戸棚から人工血液を探した。浜田圭二は頭からハットを脱いで放り投げると、山本少尉に指示を出した。

「デカイの。点滴の用意を頼む」

「わかった」

 山本少尉はすぐに取り掛かった。

 その時、機体が上昇し始め、室内灯が消えた。

 浜田圭二が叫ぶ。

「ライト点けてくれ。ライト!」

 処置台の上のスポットライトが点灯し、宇城の傷口を照らす。

 浜田圭二は手を出して綾に言った。

「ガーゼ! 止血剤も、もっとくれ!」

 綾少尉がガーゼを渡す。山本少尉は棚から取り出した小瓶を浜田に差し出した。

「これか」

「違う。合成タンパク質系のヤツだ。黄色い蓋の。再生促進剤と書いてないか」

「こっちね」

 外村美歩が別の戸棚から取り出した瓶の蓋を外して、浜田に渡した。浜田圭二はそれを宇城の傷口に塗りこんでいく。点滴の準備をしながら、山本少尉がコックピットに向けて叫んだ。

「おい! もっと安定して飛ばせんのか!」

「やってますよ。やってます!」

 無数に配線を伸ばしたヘルメットを被っている下村剛は、必死な形相で操縦ハンドルを握りながら、それを細かく左右に動かしている。

 崩れて次々に落下してくる壁のコンクリート塊を避けながら、ノア零二は上昇していった。三木尾善人は首を竦めて、シートの背当てを強く握り締めている。揺れる機体の中で浜田圭二は処置を続けた。

「美歩ちゃん、ここを押さえとくんだ。強く」

 浜田が指示した腹部の銃創を外村美歩はガーゼで強く押さえた。重ねた両手の下から温かい血が漏れ出てくる。

 外村美歩は宇城の顔を見つめながら、祈るように呟いた。

「影介……頑張って」

 降り注ぐコンクリートの量が増えてくる。機体の天井を何かが強く何度も叩いた。ノア零二は、瓦礫を巻き上げながら、上昇を続けた。

 浜田圭二は横に立っている綾少尉に、袋から取り出した太い注射器を手渡した。

「こいつを、左胸の傷口の横に刺せ。肺の中に溜まった血を抜くんだ」

 浜田圭二は続けて山本に指示を出す。

「挿管器具を貸してくれ。酸素の準備も。念のため人工呼吸にする」

 綾エリカは注射器を握ったまま、躊躇していた。

 浜田圭二は山本から受け取った挿管器具を持って宇城の口を開きながら綾に言った。

「早くしろ。そのままだと、彼は自分の血で溺死するぞ!」

「でも……」

 綾エリカには刺せなかった。それは医療行為に自信が無かったからでない。彼女には、宇城に針を刺す事は出来なかった。

 浜田圭二が怒鳴る。

「ここで死なせるつもりか! 綾少尉!」

 点滴の針を宇城の腕に刺し終えた山本少尉は、困惑して固まっている綾の顔を覗いた。彼女は、子供のような幼い顔に戻っていた。

「貸しなさい!」

 外村美歩が血だらけの手で綾から注射器を取り上げた。彼女は傷口の横から針を刺す。綾エリカは目を瞑って顔を背けた。

 浜田圭二は外村に冷静に指示を発した。

「よし。チューブを繋いで、出てきた血を、そのパックに溜めるんだ。よし。挿管したぞ。酸素チューブ」

 浜田が出した手の上に山本少尉が機体の天井から伸びたホースの先を載せる。浜田圭二は、それを宇城の口から出ている管に繋いだ。

 丁度その頃、ノア零二は崩れ落ちる瓦礫の雨をくぐり抜け、雨降る夜空へと飛び出した。前後に白い竜巻を立たせて空中に浮かぶノア零二は、倒壊するAB〇一八施設の粉塵を背後に、北へと飛行していく。

 水平飛行になって落ち着いた機内で、宇城の処置を終えた浜田圭二は、額の汗を拭った。

「ふう。あとは、こいつを胸の心臓のあたりに貼るんだ。額にも。計測データが残るから、病院での手術の際に役立つはずだ」

 浜田圭二は身体データの総合計測機を綾少尉に渡した。綾少尉は少し落ち込んだ様子でその小型の機械を受け取り、コードの先のパットを宇城の体に貼っていった。

 山本少尉がコックピットに向かって叫ぶ。

「おい。下村! すぐに病院に向かえ。どこでもいいから、強制着陸するんだ。全速で飛ばせよ!」

「分かりました。了解です」

 下村剛は操縦ハンドルを強く引いた。

 石原宗太郎は隅の席でコックピットとの隔壁に凭れながら、処置台の上の宇城を見ていた。心拍計が確かな鼓動を伝えている。

 石原宗太郎は隣の三木尾に言った。

「たいした男だなあ。普通なら死んでますよね。やっぱ、軍人の精神力は違いますね」

「おまえだって、元軍人だろうが。それに彼の場合は、もう一つ理由があるだろ」

「もう一つ?」

 三木尾善人警部は、宇城の手を握っている外村の方に視線を向けて言った。

「愛だよ。愛」

 石原宗太郎は片眉を上げて頷く。処置台の上の宇城影介が僅かに外村美歩の手を握り返した。外村美歩は彼の手を再度、強く握る。

 血の付いた手を消毒シートで拭きながら、浜田圭二が歩いてきた。彼は石原と三木尾が座っている席の向かいの椅子に腰を下ろす。三木尾善人がハットを投げた。浜田圭二はそれを受け取り、頭に載せた。三木尾善人が片笑みながら言った。

「それにしても、ハマー。おまえ、すごいな。石原の怪我の処置といい、この軍人さんの処置といい。いつ、こんな技術を身につけたんだ?」

 浜田圭二はハットを傾けながら答えた。

「基本的には防災隊だぜ。『昔とった何とか』っていうヤツさ。善さんだって、その口だろ?」

「いや。俺は輸送隊だったからな。それに、随分と前の話だ、いろいろ忘れちまったよ」

「俺だって、そうだぜ。でも、親父が撃たれた時、目の前で血を流している親父を救えなかった。だから、その後は独学で一から勉強し直したんだ。ま、探偵には必要な知識だしな。いろいろ勉強したぜ」

「そうか……」

 三木尾善人は浜田の目を見て、静かにそう答えた。

 石原宗太郎は、浜田の物語に関心を寄せながら、彼の顔を凝視していた。

 三木尾善人は、トレンチコートの胸の穴に指を入れている浜田に尋ねた。

「ところで、ハマー。お前の依頼人は誰なんだ」

 浜田圭二は背もたれに身を倒すと、足を組んで首を横に振った。

「いいや。それは、言えませんね。『男』浜田圭二。口が裂けても依頼人の事だけは、話せません」

 三木尾善人はニヤリと片笑んで答えた。彼はそれ以上尋ねなかった。その時、また、三木尾のスマートフォンが着信音を鳴らした。ガンクラブ・チェックの上着のポケットに手を入れる三木尾に、石原宗太郎が言った。

「善さん。その着信音、何とかならんのですか。現場の緊張感が一瞬でふっ飛ぶじゃないですか」

「いいだろ、別に。聞き分けられるようにしてるんだから」

 三木尾善人は口を尖らせてポケットから古いスマートフォンを取り出すと、表面のパネルに軽く触れてから耳に当てた。

「俺だ」

『ああ、やっと繋がった。善さん? 無事なの?』

「ああ、なんだ、岩崎か」

『今、どこなの? 心配したわよ。 外は大変な事になっているし』

『ああ、こっちも大変な事になっていたよ。AB〇一八の施設が倒壊して、そこからようやっと脱出したところだ』

 岩崎カエラの返事は、意外にも冷静なものだった。

『分かってる。今、復帰したばかりの衛星画像で施設の状況を確認してる。じゃあ、この中に居たのね。丁度ね、ウエモンとサエモンに、状況を分析させていたところなの。よほど大きなエネルギーだったみたいね」

 スマートフォンを耳から離した三木尾善人は、怪訝な顔で石原に尋ねた。

「石原、ウエモンとサエモンって、何だ?」

 石原宗太郎は隔壁に凭れたまま、首を捻る。

「さあ……入隊した警察犬とか」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて、スマートフォンを耳に戻した。

 岩崎カエラは言う。

『とにかく、質量空間に中規模の消失部が発生したのは、こっちでも分かったわ。建物から脱出できたって事は、今その近くに居るのよね。上空に、北に移動している未登録機があるそうだけど、把握してる? そこから見えないかしら』

「北?……ああ、たぶん、今、俺達が乗っているのが、それだ」

『え? そうなの? じゃあ、その機体で脱出したのね』

「そうだ。間一髪だった」

『あの発生した空間は、なに?』

「空間……ああ、マシンのワープの事か」

『マシンのワープ? 何なのよ、それ』

 三木尾善人は処置台の上の宇城大尉に視線を移して言った。

「そんな事より、俺たちを助けに来てくれた軍人さんが一名、撃たれて重症なんだ。左右の肺を撃たれていて、腹にも一発食らってる。大至急、治療が必要だ。銃創処置に長けた病院に向かいたい。こっちの位置を確認しているなら、航空管制センターに連絡して、負傷者を運んでいると伝えてくれ。通信をリンクしてもらえると、飛行ナビゲートがスムーズに行くと思う」

 通話しながら、三木尾善人は綾少尉にコックピットを指差して指示を出した。綾少尉はコックピットに向かう。隔壁の間が広く開いていて、すぐに通れた。

 スマートフォンから岩崎カエラの返事が聞こえた。

『分かったわ。そっちの機と通信をリンクするように手配する。――リコちゃん、お願い』

 電話の向こうで村田リコの返事が聞こえた。

 岩崎カエラは三木尾に尋ねる。

『他のみんなは? 中村くんと石原くんは、無事なの? 新原管理官も戻ってないみたいだけど』

「中村は病院だ。大事無い。石原はリアルに脚を撃たれたが、軽症だ」

 隣から石原宗太郎が言った。

「どこが軽症なんですか。リアルアクション・エクスプレス弾がかすったんですよ。リアルに」

 石原を制止した三木尾善人は、通話を続ける。

「それと、国防軍の兵士が戦闘で多数死んだ。瓦礫の下に生存者がいるかもしれん。救助を防災隊に要請してくれ」

『ええ。それは、もう動いている。周囲の反乱兵も、正規軍に制圧されて投降しているみたいだから、もう現地に入れると思うわ。あ、今、防災隊のレスキュー・チームが向かってるって』

「そうか。ああ、それから、新原は死亡。こっちの正当防衛だ」

『え、新原管理官が? 正当防衛? どういう事?』

「あと、国防軍の阿部……ええと……」

 コックピットから顔を出した綾少尉が小声で言った。

「亮吾です。阿部亮吾大佐。第十七師団の師団長です」

 三木尾善人は綾に頷くと、岩崎に言う。

「第十七師団の師団長の阿部亮吾大佐が消失。例の量子銃でやられた」

『十七師団の師団長の阿部ね。小久保君、メモして。ああ、やってるわね。――ええ! 量子銃ですって!』

 岩崎の大声に、顔を顰めてスマートフォンから耳を離した三木尾善人は、再び耳にそれを当てて岩崎に説明した。

「その阿部という軍人が、AB〇一八の傷口に例のバイオ・ドライブを融合させて、量子反転爆発を誘発させようとしたんだ。それを阻止するために、新型マシンで突っ込んで、AB〇一八ごと宇宙の果てにワープさせた――らしい。とにかく、その影響で建物が倒壊したんだ。そっちで観測したのは、そのワープの時の何かだ。でも、いったいどうやって、観測したんだ?」

『ああ、それはね、ウエモンとサエモンが……』

 スマートフォンのマイクを手で覆った三木尾善人は、石原に小声で言う。

「こんな時に、警察犬か? 違うだろ」

「知りませんよ。じゃあ、腹話術の人形の名前じゃ……」

 岩崎カエラの声がした。

『聞いてる? こっちでね、質量の歪みを、電波網の乱れから逆算したのよ。妨害電波の出所を探っていたの。そしたら偶然、そこの質量の歪みを発見した。今、私は警視庁の通信センターの電波管理室に居るわ。ようやく通信が復旧して、今は衛星画像も見えてる。でも、変ね。生体コンピュータにバイオ・ドライブを融合させても、量子反転爆発なんて起こらないはずだけど……』

 三木尾善人は顔に皺を寄せて大きな声を出した。

「ああ? そうなのか」

『ええ。そんな事をしたら、神経素子が集中的に交錯して、そこに量子エネルギーが集中するはずだから、AB〇一八が傷口を再生しようすればするほど、その部分で過剰に熱エネルギーが発生してしまうはずなのよ。そしたら、また、そこの部分が炎症を起こすか、焼き切れてしまう。要は火傷みたいなものね。その傷を再生しようとして、また熱が集中する。そして、その熱で、また火傷。それの繰り返しになるのよ。つまり、そこから徐々に崩壊してしまうはずなんだけど……。そうよね、小久保君……そうだって』

 三木尾善人は困惑した顔で通話した。

「だが、田爪の話では……」

『田爪? 田爪博士に会ったの? 逮捕したの?』

「いや。さっき話したAB〇一八を連れて、どっかにワープしたマシン。あれに、田爪健三が乗っていた。奴が特攻して、俺たちを助けてくれたんだ。俺たち、人類をな」

『……』

「奴は結局、本気でAB〇一八を葬るつもりでいたような事を言っていたが、俺としては、どうも……おい、岩崎、聞いているのか。岩崎……もしもーし。――あれ、切れた。何なんだ、またウンコか? あいつ、腹の調子でも悪いのかな」

 三木尾善人は首を傾げながらスマートフォンを仕舞った。

 処置台の横に座っていた山本少尉が前に歩いてきて、コックピットを覗いている綾少尉に尋ねた。

「綾、どうだ」

「今から、降下するそうよ。近くの大学病院に降りれるって」

 山本少尉はガッツポーズをする。

「よし! 山口中尉、頼みます! 下村も、頼んだぞ!」

 コックピットから山口中尉の声が返ってきた。

「任せとけ」

 処置台の方に移動した浜田圭二が宇城に語りかける。

「頑張れよ、大尉さん。もうすぐ病院だ」

「影介……」

 外村美歩は宇城の手を両手で強く包んだ。その様子を、コックピットから出てきた綾少尉はじっと見つめていた。その横で、椅子に座って腕組みをしている三木尾善人警部が、眉間に深い皺を寄せて目を瞑っている。

 石原宗太郎が尋ねた。

「どうしたんです? 善さん。浮かない顔して」

「いやな。ちょっと、今の岩崎の話が、気になってな」

「カエラさんの話?……ウエモンとサエモンですか。もしかして、新発売のアイスの名前か何か……」

「いや、違うんだ。石原。このあいだの国税庁の資料、本庁に戻ったら、もう一度見せてくれ」

「はい。了解で……え、ちょっと待って下さいよ。今から病院に行くんですよ。俺も治療があるじゃないですか、ここ」

 石原宗太郎は自分の膝を強く指差す。

 三木尾善人はそこを一瞥してから言った。

「勿論、それが済んでからだ」

「ですか。なら、よかっ……ええ? まだ働くんですか。勘弁してくださいよ。こんなに頑張ったのに」

 石原宗太郎は額に手を当てる。

 三木尾善人は自分の膝を叩いて言った。

「こんなに頑張ったからこそ、最後で本ボシを取り逃がす訳にはいかんだろ。急がないとな」

「本ボシ?」

 石原宗太郎は怪訝な顔をした。

 三木尾善人は頷いてから言う。

「どうも、俺達は担がれたっぽいな。その前に、ちょっと交通整理だ。くだらん奴は、さっさとパクっちまおう」

「くだらん奴? 誰です?」

 首を傾げて尋ねる石原に、三木尾善人は片笑んで答えた。

「くだらん奴は、くだらん奴さ」

「はあ?」

 石原宗太郎は何度も首を傾げていた。三木尾善人は鋭い目つきで、小さな窓から外を眺めていた。

 ノア零二は、山多区桜森町の大学病院の屋上に降下していく。屋上には既に救急スタッフが待機していて、機体の着地を待ち構えていた。



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