第11話  三木尾善人

                   一

 男は苛々していた。一見、手すりの棒の上に腰を乗せるようにして凭れていたが、紙の手提げ袋を手首に掛けた彼の右手は、しがみ付くように金属の手すりを強く握り締めている。左手では、人差し指と中指の先でその金属の棒の表面を小刻みに叩きながら、残りの指でしっかりと棒を掴んでいた。内壁に金メッキの手すりを備えたその小部屋は、周囲の三方の壁がガラス張りになっていて、外の景色が丸見えである。頭を傾けて窓から下を覗くと、吹き抜けの下の一階フロアが小さくなって見えた。男は身震いして顔を小部屋の中に向ける。その小部屋の中には多数の人間が犇いて立っていた。皆、整った髪に地味目のスーツ姿で、襟には赤い徽章が輝いている。分厚い鞄を提げた者、両手をズボンのポケットに入れた者、胸元にタブレット型の端末を抱えた者など様々であったが、その誰もが険しく威圧的な眼差しをしていた。隣の者に笑みを見せることもなく、皆が出口の方を見つめ、この部屋から一歩出たら始まる熾烈な競争に備えている。男は白髪交じりの頭をもたげ、その狭いガラス張りの部屋の上部に目を遣った。天窓からは、ビルの吹き抜け部分に蓋をしているガラスの屋根を通過した朝日の断片が降り注いでいる。男は眉をひそめて視線を出入り口の鴨居の部分に移した。そこにデジタル表示された数字は、次々に変化して数値を大きくしていく。そして、ようやく三桁になった。不快な重みが彼の体に圧し掛かり、ビルの吹き抜けの内壁に沿って上昇していた小部屋が停止する。出入り口の扉が左右に開いた。扉の向こうの広い廊下には、スーツ姿の男女が速足で闊歩している。小さなガラス張りの小部屋に詰め込まれていた人々が、その出入り口から廊下の方に雪崩を打って出ていった。廊下に出た人々は、それぞれの目的地に向かって早足で歩き出す。最後に出てきた男は、皺の寄ったガンクラブチェックの上着の上から腰を叩きながら、ゆっくりと歩き始めた。

「まったく。なんで、エレベーターまでガラス張りにすんだよ。あっちじゃ、こんなおっかねえエレベーターはなかったぜ。せっかく絶叫マシンみたいなオスプレイから解放されて無事に帰って来たってのに、なんで職場のエレベーターがこれなんだよ。こちとら、命を晒して宮仕えする警察官なんですよ。ちったあ、職員の労働環境をなんとかしろっての」

 紙袋を提げた三木尾善人みきおよしと警部は、ぶつぶつと独り言を繰り返しながら、警視庁の捜査一課各班の部屋が居並ぶ長い廊下を歩いた。若い刑事たちが彼を追い越して歩いて行く。少し疲れた顔で歩く三木尾警部を快闊な声が背後から呼び止めた。

「あれ? ぜんさん?」

 三木尾善人は少し振り向いた。長身でがっちりとした体格のスーツ姿の若い男が、口髭を触りながら歩いてくる。三木尾善人は軽く手を上げた。

「おう、石原」

 石原宗太郎いしはらそうたろう警部補は、少し速度を上げて歩いてきた。彼はいつものとおり黒いスーツの中の白いワイシャツの襟元の釦をはずし、細めのネクタイを弛めて絞めている。相変わらず髪は無造作な短髪で、口の周りにはわざと無精髭を生やし、肌も焼けて黒い。いかにも「ワイルドな男」を演出している奴だ。

 大股で歩いてきた石原宗太郎は、すぐに三木尾に追いついた。三木尾の横に並んで歩きながら、彼は言う。

「おはようございます。――なんだ、もう帰って来たんですか。ずいぶん早かったですね」

 石原の眉尻に貼られた絆創膏を一瞥した三木尾善人は、前を見て歩きながら返した。

「なんだは無いだろう。係長様のお帰りだぞ。それより、その傷はどうした?」

 石原宗太郎は人差し指で絆創膏の上を掻きながら答える。

「いやあ、街でビラを配っていた宗教団体の信者と機捜隊の若いのが揉めてましてね。運悪くその前を通りかかった俺と中村が応援に入ったら、とばっちりをくらったんですよ。はは。いやあ、ついてない」

 笑って答えた石原に、三木尾善人は真顔で尋ねた。

「――宗教団体って、もしかして、真明教か」

 石原宗太郎は三木尾の真剣な顔を見ることなくガラス製のドアのノブに手を掛けると、「捜査第一課特命捜査対策室第五係」という長々とした表記が貼られたそのドアを開けながら言った。

「ええ。そうです。おはようさん。警部殿のご帰還だ」

 内側に開けられたドアを押さえている石原の前を通って、三木尾善人はその狭い部屋に入っていく。部屋の中には女性の事務官が一人いるだけだった。三木尾善人は、眉間に皺を寄せて背後の石原に尋ねる。

「中村は。大事無かったか」

 石原宗太郎は、ドアを閉めながら答えた。

「ああん。あいつは大丈夫、大丈夫。やる気だけは一人前なんですがね、相変わらずで。ほらね、今日も遅刻だ」

 狭い部屋の中には、真新しいデスクが四つ置かれていた。各机の上には最新式のパソコンが並べられ、壁には少ない資料を雑然と並べたスチール製の本棚が置かれている。その反対側の壁には大きなホワイトボードが掛けられていて、その表面に何枚もの写真や図面、印刷物が貼り付けられていた。突き当たりの窓から朝日が斜めに射している。

 この小部屋は、三木尾善人達の専従捜査のために空けられた部屋であった。元は、このフロアの備品置き場として使われていた部屋であったので、捜査班室としては少し手狭であったが、綺麗に塗り替えられた白い壁と、最新式の電子カーテンや自然光照明、小型の3Dプリンターに立体パソコンモニター、真新しい資料棚に洒落た色の花瓶のお蔭で、何とかその特命捜査対策室としての体裁を保っていた。花瓶に花は無かった。

 警視庁捜査一課第五強行犯捜査部門の特別捜査第一係で未解決事件の継続捜査をしながら無事に定年を迎える予定であった三木尾善人警部に、警察庁長官の子越智弘こごしともひろから田爪健三博士失踪事件についての特別捜査の特命が下ったのは、九月の末の事であった。南米から八月初旬に帰国した新日ネット新聞社の記者・永山哲也ながやまてつやが司時空庁に拘束された後、警察と外務省は、それぞれ職員を現地に派遣したが、その後に新日社の記者たちによりタイムマシンの欠陥が明らかにされ、それと並行してASKIT事件が起こると、政府の各機関は田爪健三の所在調査を形式的な報告によって終了させ、田爪健三は公式には死亡した事になった。しかし、外務省の調整官・西田真希にしだまきの調査により田爪生存の可能性が浮上すると、内閣総理大臣・辛島勇蔵からしまゆうぞうの命を受けた子越長官は警視総監に命じて、警視庁の捜査一課の特命捜査対策室に新たに第五係を設けさせ、田爪健三の生死の再確認と事件の真相究明に当たらせた。その責任者として白羽の矢が立ったのが、定年退職を控えた警部・三木尾みきお善人よしとであった。三木尾善人は、子越智弘長官から直接に正式辞令を受けた日の翌日、九月二十八日に宮崎新国際空港から南米連邦のカヤオ国際空港に向った。南米の凄惨な戦闘状況をニュースで知っていた三木尾善人は、科警研の技官岩崎カエラから事前に得た情報を基に調査を速やかに了して、とんぼ返りで帰国する予定であった。しかし、現地で西田調整官から田爪健三が生存している可能性と、既に南米を脱出していると考えられる事実を知らされ、それらが自身の刑事としての勘と重なったため、彼はこの件の捜査を続け、大量殺人犯である田爪健三を追う事に決めた。日程をランダムに変更しながら周囲の目を欺き、現地での捜査を終えた三木尾善人は、週末になんとか日本に帰国する事ができた。そして今日、十月四日月曜日に、いつも通り平然と登庁したのである。

 捜査第一課特命捜査対策室第五係には三木尾善人の他に二人の刑事が配属されていた。一人は石原宗太郎いしはらそうたろう警部補で、もう一人が中村明史なかむらあきふみ巡査である。石原宗太郎は三十九歳の肉体派刑事で、国防軍を退役後に警察官となり、刑事となってからは捜査一課第二強行犯捜査の殺人犯捜査第一係に所属していた現場エリートだった。中村明史は製薬会社研究室に勤務後、有名大学の薬学部を卒業して警察に入庁した頭脳派の二十九歳である。彼は捜査一課の刑事になったばかりで、彼の教育係りに当てられていた石原と共に、特命対策室第五係に移動となっていた。二人は以前、三木尾の下で捜査に関わった事があり、その際の働きを三木尾に評価され、彼の推薦で今回の特命捜査の担当捜査官に抜擢されたのである。

 部屋の奥の窓の近くでポットのお湯を急須に注していた制服姿の若い女が、部屋に入ってきた三木尾を見て、高い声をあげた。

「きゃー。警部。もう帰ってきちゃたんですか」

 愛らしい顔立ちをしたその女性事務官・村田むらたリコは二十六歳の才女である。彼女も以前の事件で三木尾の目に止まり、彼の推薦によって、この特命対策室第五係に配属されていた。

 三木尾善人は自分の机の前に来ると、座り慣れない真新しい椅子を引きながら言った。

「なんだ、なんだ。どいつもこいつも。もう少しサボってくりゃあ良かったな。ほら、お土産だ」

 三木尾善人は、提げていた紙袋を向かいの席の石原に差し出した。石原宗太郎は脱いだ上着を椅子の背もたれに放り投げて、それを受け取る。

 湯飲みにお茶を注ぎながら、事務官の村田リコは言った。

「失礼しました。でも、こんなに早くお戻りなられるとは思ってなかったので」

 石原宗太郎はワイシャツの袖を捲くりながら、椅子の上に置いた紙袋の中身を覗きこんで言う。

「お土産ねえ……。電話では、帰国の予定が延びたって言ってましたよね。なのに今朝、予定を繰り上げて登庁ですか。いつ、こっちに着いたんです?」

 三木尾善人は、村田から渡された湯のみを受け取りながら答えた。

「金曜だ」

 石原宗太郎は椅子から紙袋を降ろして床に置き、その椅子に腰を下ろしながら言う。

「金曜日っていうと、十月一日……って、確か善さんの……」

「ああ。自分の誕生日くらいは日本で迎えたくてな。慌てて帰ってきた。熱ッ!」

 村田リコの入れたお茶の熱さに思わず湯飲みを口元から離した三木尾を見て、石原宗太郎は笑いながら村田に言った。

「警部は熱いの駄目なんだって。おじいちゃんには、優しくしようね」

「はーい」

 背中で軽々しく答えた村田を驚いた顔で見ながら、三木尾善人は何度も石原を指差した。

「あのな。今どき、六十四歳は爺さんじゃないんだよ。定年まであと一年あるんだからな。分かってるな、石原」

 石原宗太郎は指を折って何かを数えた。そして、「お土産」が入った紙袋を斜め向かいの席の村田に渡しながら、向かいの席の三木尾に言う。

「了解です、警部殿。――それより、帰国予定を今週末まで延ばしといて、先週末には帰国していたって事は、こっちに連絡を入れた後で、すぐに向こうを発ったって事でしょ。つまり、何か向こうで、ヤバイ情報を掴んだって事ですよね。帰国情報を撹乱しないといけない程に重要な」

 三木尾善人は、片方の眉を上げて見せた。

「新日の記者と同じ轍を踏む訳にはいかんからな」

 そこに若い男の声が響いた。

「おはようございます。すみません。遅くなりました」

 派手なネクタイを締めた若い男が、部屋の中に駆け込んでくる。入り口の前の席から石原宗太郎が怒鳴った。

「おっせーよ。おまえ、なに月曜早々から遅刻してんだよ。下っ端が一番最後にご出勤って、何考えてんだ、この野郎」

 石原の前で立ち止まった中村明史刑事は、頭の寝癖を直しながら言った。

「すみません、先輩。先週、三木尾警部から言われた宿題を土日でもう一度調べ直していたら、寝るのが遅くなってしまって。いやあ、でも警部、先週の木曜日に帰ってくる予定が今週末に延びたんですよね。よっしゃ、ラッキーです。だいたい、こんなの三日で調べろって、警部も無理言い過ぎですよね。金曜までじゃ、絶対に無理でしたよ。せっかくの週末をぜーんぶ犠牲にしても、やっとでしたからね。僕、二晩も徹夜したんですよ。でも、だいたい判りました。警部が帰ってくるのは今週末でしょ。って事は、あと五日ありますからね。楽勝ですよ。楽勝。この前の事件みたいにガンガン捜査して、この五日でパッと解決しちゃいましょうよ。帰ってきた警部をギャフンと言わせて……って、警部! あれ? 帰ってたんですか?」

 椅子にふんぞり返って腕組みをしている三木尾に気付いた中村明史は、コソコソと石原の後ろを通って、その隣の席にそっと座った。頭の後ろで手を組んだ石原宗太郎が言った。

「どうした、中村刑事。パッと解決するんじゃなかったのか?」

 中村明史は、ばつが悪そうに首を竦めると、何度も小さく頭を下げた。

「すみません。冗談です。冗談。警部、おはようございます」

 三木尾善人は目を細めて、ボソリと言う。

「遅刻すんなよ」

 中村明史はもう一度頭を下げた。

「はい……。すみません」

 中村にコーヒーを持ってきた村田リコが、中村の耳元で囁く。

「遅刻すんなよ」

 口を尖らせて村田を睨んでいた中村の隣で、石原宗太郎が頭の後ろで手を組んだまま三木尾に尋ねた。

「で、善さん。南米はどうだったんですか」

「どうもこうもねえよ。死にかけた」

「死にかけた?」

 怪訝そうな顔を斜めにして石原宗太郎が思わず聞き返す。湯飲みのお茶に再度挑んだ三木尾善人は、敗北を認めながら答えた。

「熱ッ。こりゃ、まだ飲めねえな。――ああ。まあ、死にかけたってのは、ちょっと大げさだがな。簡単に説明すると、こういう事だ。まず、リムジンオスプレイに乗ってジャングルの上を飛んでいた時に、地上のゲリラ共から地対空ミサイルで集中攻撃を受けた。その後、空港に着いたら着いたで、そのリムジンオスプレイに積んでいた米軍の戦闘ロボットが暴走して、危うく大型特殊機関砲の対戦車鋼鉄弾で蜂の巣にされるところだった。あと、スラム街で聞き込みしていたら、レーザーナイフを振り回す現地のギャング共に襲撃された」

 三木尾善人は平然とした顔で説明する。

 石原宗太郎は頭の後ろで手を組んだまま、顔を引き攣らせて笑みを作った。

「ははは……。そ、それは、十分に死にかけてますね。お疲れ様でした」

 部屋の奥で、石原から渡された紙袋の中を見ていた村田リコが声をあげた。

「あれえ。これ、なんですか?」

 三木尾善人は、椅子に凭れたまま言う。

「今話した暴走した護衛ロボットから取り外したハードディスクだ。AI(人工知能)の『メイン何とか』らしい。中村、悪いがこれを科警研の岩崎のところまで届けてくれないか。大至急、深層レベルまで解析して欲しいんだ」

 村田リコが両頬を膨らませて言った。

「なーんだ。お土産じゃなかったんだ。期待したのに」

 村田から紙袋を受け取った中村明史は、袋の中身を覗きながら三木尾に尋ねた。

「暴走したロボットのハードディスクが田爪の件と何か関係があるんですか?」

「単に壊れて暴走したんなら、関係ねえよ。ま、とにかく急いで届けてくれ。岩崎には、後で俺の方から連絡を入れておく」

 そう言うと、三木尾善人は湯飲みのお茶を飲むのを諦めて、机の隅に移動させた。そして、机の上に重ねられた書類や封筒、データカードの山に目を遣り、眉間に皺を寄せる。

 二〇三八年になっても無くならない無用な紙文書や、それが形を変えただけの不必要な電子媒体は、幼き頃の三木尾善人の未来への予想を大きく裏切っていた。今、老いた三木尾善人は、その恨みを込めて荒っぽく書類を振り分けていく。

 向かい側の席の石原宗太郎は机の上に片肘をついて、立体パソコンのホログラフィー・キーボードを操作していた。彼は、宙に浮いた平面ホログラフィーモニターを見ながら、三木尾に尋ねる。

「田爪健三の方はどうなったんです? 死骸か何か見つけましたか?」

 三木尾善人は、封筒を振り分けながら答えた。

「いや。遺体はまだだ。だが、きっと見つからんな。奴さんは生きてるぜ。しかも、俺の読みじゃ、とっくに日本に帰国している」

 石原宗太郎は眉間に皺を寄せて、ホログラフィーの横に顔を出した。

「日本に? どういう事です?」

 書類を振り分けていた三木尾善人は、石原の顔を一瞥すると、思い出したように自分の旧型のパソコンに電源を入れて、再び手に持った封筒の宛名を読み始めた。

 石原宗太郎は首を傾げて、ホログラフィーのモニターに視線を戻す。

 三木尾善人は封筒を振り分けながら言った。

「先に西田さんから届いたデータの解析は済んだか?」

 石原宗太郎が、下を指差しながら答えた。

「ええ。今、鑑識で映像の解析をやってもらっています」

 そして、立体パソコンの上に浮かんだホログラフィーのアイコンに触れて鑑識からのデータを展開し、その内容を三木尾に報告した。

「ええと、先週の金曜までの段階で解析できたのは……やっぱり、善さんの見立てどおり、例の建屋に向った車両は二台で、前の車に三人、後ろの車に四人。合計七人が乗っていたと断定できるそうです。人相は、覆面等で覆っているために不明。放火に使用した道具も、火炎放射器で間違い無いと。爆発の方は、原因解析にはもう少し時間が掛かるそうですが、使用された爆発物の種類は特定できるはずだと言っていました。あ、それから、例の謎の外国人の映像。立体化解析をした結果、全部、同一人物で間違いないという事です。こいつ、何者なんです?」

 三木尾善人は、手に持った封筒を見ながら、起動したパソコンに繋いだ自前の旧式キーボードをリズムよく叩いて、その後で石原に言った。

「お化けだよ。お化け」

「お化け? いい加減にして下さいよ。入管のデータベースに繋いで『顔検索』したら、国家安全保障局の追跡マークが出てきましたよ。氏名不詳なのに。どういう事なんです?」

 溜め息を吐いた三木尾善人はパソコンのキーを叩くのを止めて、石原を一睨みしてから再び封筒を振り分け始めた。

 石原の隣の席でコーヒーを啜りながら、悠長に机上の立体パソコンを指紋認証で起動させていた中村明史が口を挿んだ。

「クァンタム・ガンは? 量子銃は見つかったんですか?」

 三木尾善人は、書類を振り分けている手を止めて、中村の方を見て答えた。

「いや。田爪が向こうで大量生産したレプリカの量子銃の方は、南米連邦政府に回収されて保管されている。それを米国やらクンタム社が引き渡すように主張して、裁判で争っているそうだが、オリジナルの方は見つかっちゃいない。たぶん、田爪が日本に持ち込んでいるな」

 石原宗太郎が再びホログラフィー・モニターの横に顔を出した。

「それ、ヤバイじゃないですか」

 三木尾善人は、手に持っていたダイレクトメールの封筒を何度も裏返して宛名と差出人を確認しながら答えた。

「ああ、ヤバイ。かなりヤバイ。だから、急がねえとな。んん? なんだこりゃ」

 三木尾善人は、手に持ったダイレクトメールの封筒を二つに破り、横の赤いゴミ箱に捨てた。するとゴミ箱の中から突然、軽快な音楽と声が聞こえてきた。

『ごんがりアツアツの焼き立てピザはいかが。人気のご当地ピザもあるよ。今月の一押しは香川県産のうどん粉を使用した『うどんピザ』。さあ君も、ハイパーネットにアクセスして今すぐ注文だ!』

 隣の席で村田リコが声を殺して笑う。

 石原宗太郎は、不機嫌そうにゴミ箱を睨みつけている三木尾善人に言った。

「それ、今流行りの『喋る封筒』です。破ると、その圧力に反応して音が出る封筒なんですよ。発音性の電子線が編み込まれてるんです。あ、燃えないゴミで捨てた方がいいみたいですよ。下の総務課、そういうのに煩いですから」

「分かってるよ。ったく、何なんだよ……」

 石原のからかったような口調に若干の苛立ちを覚えた三木尾善人は、眉間に皺を寄せて椅子から腰を上げた。赤いゴミ箱から投げ入れた封筒を拾うと、青いゴミ箱に入れ直す。戻ってきて机に荒っぽく腰を下ろした三木尾善人は、隅に置いた湯飲み茶碗に手を伸ばして言った。

「何で封筒や手紙が喋るんだよ。文字で書く意味ねえじゃねえか。次から次へと要らん物を発明しやがって。アチッ。まだ熱いな、これ。まったく、新式の耐熱陶器って、いつまでたっても冷めねえなあ。くそ!」

 自分に支給された最新式パソコンの起動を終えた中村明史が、また口を挿んだ。

「視覚に障害がある人たちには、すごく便利なものなんですよ。ところで、田爪が入国しているかもしれないって事は、捜査の手順としては、まずは指名手配の手続きですよね」

 三木尾善人は、首を横に振った。

「いや、それは出来ん。まず、田爪は公式には死んだ事になっている。それに、長官がわざわざ俺達を集めて、ここで極秘に捜査をさせている理由を考えてみろ。大っぴらに指名手配なんぞできるかよ。警察の中でも、動けるのは俺達だけなんだぞ」

 石原宗太郎が自分の湯のみに口をつけながら、目線だけを三木尾に向けた。

「極秘捜査命令の理由って、どうせ外交上の理由とか政治的な理由とかなんでしょ。俺達には関係ないですよ」

 三木尾善人は石原に顔を向ける。

「捜査するなと言ってるんじゃないんだ。奴は百三十人もの人間を消し去ったクソ野郎だ。絶対に逃がす訳にはいかん。だが、秘密裏に迅速に逮捕しなきゃならんようだ。そういう事情がある。勿論、奴が大人しくお縄に掛かってくれればの話だが……。ま、場合によっては、実力行使もやむを得ないかもしれんがな」

 三木尾善人は、着古したガンクラブチェックの上着の左側を広げて、ガンホルダーに挿し込まれた銀色のベレッタM九二Fを石原に見せた。

 真顔になった石原宗太郎が、三木尾に尋ねた。

「で、その量子銃とやらに対応できる防弾チョッキみたいな物でもあるんですか?」

「無い。向こうに行く前に、科警研で岩崎から聞いたんだが、直接に体の一部に光線が当たっただけで、その生体は全て分子レベルに分解されちまうらしい。つまり、光線が皮膚に当たったら、即消滅だ。ま、チョッキを着ないよりはマシかもしれんが、どこまで意味があるやら」

 石原宗太郎は、椅子の背もたれに大きく仰け反ると、天井を向いたまま溜め息を吐いた。

「はあ……たぶん、あんまり意味無いな。なあ中村、おまえ、これから科警研に行くんだろ? 俺の防弾チョッキを貸してやるから、二枚着て行けよ。どうせ、俺使わないから、お前に貸すわ」

 隣の石原に顔を向けた中村明史は、口を尖らせて言った。

「何すか、それ。重たいだけじゃないですか」

「遅刻した罰だ。先輩の愛情を無視するのか?」

「どこが愛情なんですか。せっかく制服から解放されてスーツで仕事できるのに、なんであんなゴテゴテしたもの二枚も中に着込まないといけないんです。防弾チョッキの重ね着ルックなんて聞いたこと無いですよ」

「いいから、早く行けよ」

 石原に促されて椅子から立ち上がった中村を三木尾善人が呼び止めた。

「ああ、ちょっと待て。中村。調べとけって言ってたアレ、簡単に報告してから、行ってくれ」

「あ、はい。分かりました」

 椅子に腰を戻した中村明史は、ホログラフィー・キーボードの上で指を動かしながら、立体パソコンの上に文書ファイルが入ったボックスのホログラフィー映像を幾つか浮かせた。それに触れるようにして、ボックスの中の文書の縁を指先で送りながら彼は言う。

「少々お待ち下さい。確か、ここに、ええっと……」

 一つの文書のところで指先を止めた彼は、その文書データをボックスから引き出して平面表示させると、満足そうに呟いた。

「よし」

 中村明史は宙に浮いた文書画像に顔を近づけて、それを読み始める。

「ええ、まず、事件関係者から。高橋諒一、発見時の年齢は推定九十五歳、量子物理学者。二〇二七年九月十七日に、当時の国家時間空間転送実験管理局が実施した転送実験、いわゆる『第一実験』で行方不明となる。当時の年齢は三十八歳。近日明らかになったのは、実際には彼は一九八一年十月二十八日十九時十三分前後に渡航していて、その後に秘密結社ASKITを設立。フランス本社のNNC社や、その日本法人NNJ社の他、数百社を束ね、それらを通じて世界中の技術特許を掌握した。ASKITは科学技術そのものを掌握し、最終的に国家を支配する事を繰り返し、最後は日本に触手を伸ばすも、失敗。今年二〇三八年八月二十四日、太平洋上の彼らの拠点島を我が国の国防軍部隊が襲撃した事により、組織は事実上壊滅。その際、高橋諒一はNNJ社の社長の西郷京斗五十五歳により殺害される」

 中村明史は、少し溜め息を吐いた後で、資料の朗読を続けた。

「次に田爪健三、四十九歳。同じく量子物理学者。高橋の同僚で、二〇二八年三月三一日の『第二実験』で転送。実験は失敗し、彼も行方不明となったが、実際には同実験により田爪は、同時刻の南米の戦闘区域内に転送されていた。つまり、タイムトラベルに失敗。しかし、失敗の事実を確認できなかった政府は、その後、司時空庁を設立し、田爪型マシンによるタイムトラベル事業を開始した。同事業による全ての渡航者は、毎回、同時刻の田爪の到達ポイントと同じ地点にワープしていたに過ぎなかったが、司時空庁は、その後十年に渡り、民間人を送り続けた。そして、送られた民間人は毎回、田爪健三により抹殺されていた。その際に使用された凶器が『クァンタム・ガン』。いわゆる量子銃である。田爪健三の生存が最後に確認されたのは、今年の七月二十三日、新日ネット新聞社の永山哲也記者によるインタビューの時で……」

 痺れを切らした石原宗太郎が、中村に耳打ちした。

「あのな、そこまでは俺も善さんも分かってるんだよ。善さんが出張する前にみんなで資料を読んだじゃないか」

「あ、そうですね。すみません」

 三木尾善人は、中村の説明を黙って聞いていた。彼が今説明した事は三木尾も十分に承知していた事実であったが、彼がどこまで理解しているかを確認する意味で三木尾善人は中村がまとめた文書の朗読を聞いていた。そして、中村が事実を十分に把握している事を確認できたので、三木尾善人は彼に次の質問をした。

「宿題は? 調べたのか」

「田爪の縁戚関係ですね。ええと、まず、田爪健三が幼い頃に父は死亡しています。その後は、母一人子一人で育ったようです。その母親も田爪が大学生の時に病死しています。その他の親戚縁者とは、もともと疎遠であった模様です」

 三木尾善人はさらに質問した。

「リストはあるのか?」

「親戚関係ですか?」

 三木尾善人は黙って頷く。

 中村明史は、再び立体パネルの前に表示されたボックスの中を探り始めた。

「ええと……あった、これです。今、プリントアウトします」

 すると直ぐに、三木尾善人の机の上の縦型プリンターから数枚の印刷物が音を立てて出てきた。三木尾善人は、その文書を手に取ると、素早く全ての枚数に目を通した。そして、机の上に立てて上下させ揃えると、隣の席の村田に渡してから言った。

「リコちゃん。ここにある各人の住所地を管轄する県警にデータを送って、この人達の警護に当たってくれるよう協力をお願いしてくれ。万一、不審な何者かが現れたら、こっちに早急に連絡を入れるようにとも付け加えといてくれよ」

 書類に表示されたリストに目を通しながら、村田リコが不満そうに言った。

「えー。これ全部ですか?」

 石原宗太郎は、中村のパソコンから自分のパソコンに転送された同じリストをホログラフィー画面のモニターで見ながら、村田に言った。

「やさしい中村刑事が都道府県別に整理してくれているじゃないか。あとは、リコちゃんの魅力で県警の縄張り意識を崩せれば、完璧だ」

 村田リコは、渋々の返事をした。

「はーい。わかりましたー」

 三木尾善人が付け加える。

「まだ田爪が生きている事は言わなくていい。だが、逃亡者が潜伏するとすれば、親族関係の所っていう線もあるからな。そういう事を踏まえて頼むよ、リコちゃん」

 そして、中村の方に顔を向けた。

「それで、田爪のカミさんの方は、どこまで分かったんだ」

「はい。田爪瑠香たづめるか、四一歳。元国家時間空間転送実験管理局研究助手で……」

「経歴はいいから、『出』を知りたいんだ」

「ああ、はい。ええっと……」

 少し慌てた中村明史は、ホログラフィー表示された文書を指先で何枚も捲り、一つの文書データのところで止めて、その内容を説明し始めた。

「田爪と結婚する前の旧姓は『光絵みつえ』。その前は『西藤』です。二〇〇三年に交通事故で両親は死亡。当時、西藤瑠香は六歳。その後、光絵由里子みつえゆりこと養子縁組が成立。ご存知の通り、あのストンスロプ社の会長の光絵由里子です。他に実の兄弟姉妹は無し。光絵由里子は結婚していませんので、瑠香に父親、法定血族関係の兄弟姉妹もいません。その他、瑠香が死亡した時点では、叔父、叔母、従兄弟などは一切存在しません。つまり、田爪瑠香には光絵由里子以外の親族らしい親族が居ません」

 三木尾善人が直ぐに指摘した。

「十五歳未満での縁組なら代諾縁組だろ。誰が代諾したんだ?」

 三木尾の質問の趣旨を察した中村が、即答した。

「当時、瑠香の法定代理人として西藤家の祖父母が代諾してます。その祖父母も二十年前と二十五年前に、それぞれ他界。ちなみに未成年縁組についての家庭裁判所の許可も問題なく下りています」

 説明をしていた中村の隣で、石原宗太郎が顎の無精髭を触りながら言った。

「まあ、あの大財閥の令嬢の養女にって話だからな。まさに『リアル玉の輿』ってヤツだよな。手続きもホイホイ進めたんだろうね。そんで、その他の血縁は、逆に知らぬふりって事だろ。やっかみだよ。やっかみ」

 石原の顔を一瞥した三木尾善人は、再び中村に質問した。

「田爪瑠香には、他に親しい親戚はいないって事か」

「そうなりますね。光絵家は代々子宝に恵まれなかったようですしね。先代の光絵昌宏みつえまさひろも養子ですし、由里子も昌宏の養子です。ちなみに、あまり公にはなっていませんが、昌宏は二〇〇四年に事故死しています。だから、もう話は聞けませんね」

「事故死?」

 三木尾善人は思わず少し高い声を出した。

 中村明史は頷く。

「ええ。あまり仕事には熱心でなかったのか、昌宏は表にはほとんど出てきていない人物なんですが、二〇〇四年にストンスロプ製鉄の工場に一人で視察に行って、溶鉱炉にボチャン。転落したそうです。その事実も後日、工場の警備記録や監視カメラの映像で分かったそうですけどね」

 隣から、顔を顰めた石原宗太郎が言った。

「ドジな奴だなあ。そりゃ、公にはできないよな」

 斜め前の中村に三木尾善人は真剣な顔で尋ねた。

「その昌宏の先代、ストンスロプ社の創業者、光絵慎二郎みつえしんじろうだったかな、たしか、彼も事故死じゃなかったか?」

「いえ、慎二郎の場合は、正確には遭難ですね。趣味で操縦していたセスナ機が太平洋上で消息を絶ったまま見つからなかったようです。事故かどうかは未だに不明のまま」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて一度だけ首を傾げた。

 ホログラフィー文書を覗き込んでいた中村明史が、少し大きな声で付け足した。

「ああ、そうだ。先代の昌宏には、由里子の前に養子にした男が居ます。つまり、光絵由里子には義理の兄が居ます。名前は、ええと、光絵幸輔みつえこうすけ。この幸輔は、六月のタイムマシンに搭乗してますね。それで、タイムトラベル法により死亡扱いとなってます。まあ、実際に死んでいる訳ですが……」

 石原宗太郎が尋ねた。

「単身機か」

「はい。最後から三番目、単身機でいうと最後から二番目の便になります」

 三木尾善人が眉間の皺を更に深くして言った。

「七月に飛ぶはずだった最後の単身機は、発射直前で急遽中止になって、搭乗予定だったアキナガメガネの社長さんがブースカ言ってたアレだろ? って事は、つまり、実際に飛んだ単身機としては最後の便だな」

 中村明史は深く頷いた。

 石原宗太郎が言う。

「じゃあ、光絵由里子は、身内で二人も犠牲になってるのかよ。しかも、次の後継者として育てた養子が二人とも」

 石原の指摘に反応するように、中村明史は準備していた資料データファイルを開きながら答えた。

「そうですね。ただ、光絵幸輔と光絵由里子がどこまで交流があったかは分かりません」

「というと?」

 三木尾の問いかけに、中村明史は頭を掻きながら答えた。

「この光絵幸輔って男、山篭りでもしていたんですかね。地方のとんでもない田舎町の更なる山奥に住所があって、そこから住所を動かした形跡がないんですよ。まあ、ストンスロプの株の十パーセント近くを保有していた人物ですし、実際の銀行預金も桁違いの額ですから、金には困らなかったでしょうが。まるで世捨て人ですよね……」

 石原宗太郎が吐き捨てるように言った。

「金持ちのする事は、どうせ俺達には理解できねえよ。世捨て人になっても、腐るほど銭が入ってくるんだろうからな。いいご身分だぜ。タイムトラベルも、世捨て人を極めようとした挙句なんじゃねえの」

 椅子にふんぞり返った石原に厳しい視線を一度送ってから、三木尾善人がもう一度中村に尋ねた。

「その男も社会参加していた形跡が無いのか」

「社会参加も何も、戸籍があるだけで、運転免許を取った事もパスポートを取得した事も無いんですよ。ああ、この点は昌宏も慎二郎も由里子も同じです。ま、慎二郎はセスナの免許を唯一取得していますけどね。これって変じゃないですか」

 髪の毛先をいじりながら、三木尾の隣の席で話を聞いていた村田リコが意見を述べた。

「そうかなあ。金持ちって、全部他人にやってもらうでしょ。運転は運転手さんに、身の回りのことはメイドさんに、法律手続きは顧問弁護士にって。だから、自分で何もする必要が無いから、免許とか資格とか要らないんじゃないかしら」

 中村明史が口を尖らせて言った。

「まあ、そうかもしれないけど……でも、運転免許くらい取るんじゃないかなあ」

「お金持ちには、お金持ちの感覚ってのがあるのよ。ね、警部」

 友達感覚で接してくる二十代の女性に驚いた顔で、三木尾善人は答えた。

「どうかねえ。俺は金持ちじゃねえから、分かんねえよ。それより、単身機に搭乗したのは、その光絵幸輔って人物本人なんだな」

 中村明史は慌ててホログラフィー・キーボードの上で指先を動かしながら答えた。

「すみません。そこまでは確認が取れていません。司時空庁のサーバーは、例のASKITアスキット事件以来、裁判所命令でシャットダウンされていますから、ここからは接続できなくて」

 三木尾善人が手を振りながら答えた。

「ああ、いや、いいんだ。本論じゃない。どっちにせよ、法的には死んでいるんだな」

 中村明史は首を縦に振る。

 隣の石原宗太郎が言った。

「じゃあ、結局、田爪には自分の血族以外で親戚っていうと、義理の母親の光絵由里子しかいない訳か。でも、奴が光絵の婆さんの所に転がり込みますかね。事故とは言え、光絵由里子の養女の瑠香を殺しちまったんですよ。しかも、由里子の義理の兄貴も殺している訳でしょ」

 向かい側の席から石原に尋ねられた三木尾善人は、腕組みをしながら答えた。

「いや、俺は別の事情でストンスロプ社に狙いをつけているんだ」

「別の事情……」

 体を傾けた石原宗太郎は、ホログラフィー画像の向こうの三木尾の顔を見た。三木尾の眉間には皺が寄っていた。

 三木尾善人は言う。

「とにかく、当初は田爪の遺体の引き取り先を知るために、中村に田爪の親戚関係を調べてもらっていたんだが、今は状況が違う。これなら奴の追跡に使えるだけの情報だ。中村、よく短期間でここまで情報を集めたな。立派、立派」

 中村明史は頭を掻きながら、向いに座る村田の方を見て誇らしげに言った。

「いやあ、そうですか。結構、頑張りましたからね、僕」

 石原宗太郎は無精髭を触りながら、向かいに座る三木尾に尋ねた。

「別の事情って何ですか。ストンスロプ社が何か絡んでいるんですか?」

 三木尾善人は腕組をしたまま答える。

「ああ、たぶんな。ま、俺の推理だよ、推理。詳細は中村が戻ったら、昼飯でも食いながら話そう。それより中村、科警研の方を急いでくれ。それから石原、おまえは真明教についてのデータを集めてくれないか」

 石原宗太郎は左右の眉を上げた。

「は? 真明教?」

「ああ。いや、向こうでちょっと気になる話を耳にしてな。お前らが揉めた一件とは関係ない。とにかく、資料を集めてくれ。それから、リコちゃん。このホワイトボードの田爪の写真やら何やら、外しといてくれるか。全部整理しといてくれると助かる」

「じゃあ、僕、行ってきます」

 三木尾から託された紙袋を提げて、中村明史が再び立ち上がった。すると、また三木尾が彼を呼び止めた。

「ああ、ちょっと待て。お前、ASKIT事件についても、調べて整理してあるんだよな」

 中村明史は、待ってましたと言わんばかりに答えた。

「はい。もう、そっちの方が大変でしたよ。あれだけの大事件でしたからね。資料が多いのなんのって。土日寝ないで資料を読んだんですから。しかし、ご安心下さい、警部。ちゃんと概略を報告書にまとめておきました」

「そうか。悪かったな。それで、その報告書ってのは、どこだ」

 振り分けられた封筒や記憶媒体の小山を除けて机の上を探す三木尾に、中村明史は石原の後ろから指差しながら言った。

「警部の机の……その左の……それです」

 三木尾善人が中村の指し示したファイルを持ち上げると、その下から一枚の名刺が落ちてきた。三木尾善人は床に落ちた名刺を拾うと、それを声にして読んだ。

「ん? 警視庁刑事部捜査第一課特命捜査対策室管理官……警視、新原海介しんばらかいすけ。かいすけ? 変な名前だな。まさか、親戚にサザエとかワカメとか居ねえよな」

 石原宗太郎は飛び上がるようにして立ち上がると、額に手を当てて大声で三木尾に言った。

「ああ! しまった。忘れてました。それ、先週、善さんが出発した後に入れ替わりで着任した新任の管理官です。善さんは出張中でしたから、俺がそう説明したら、だったら名刺だけ置いとけと言われて。挨拶に来いって事じゃないですかね」

 三木尾善人は両手で名刺を持ったまま暫くそれを眺めていたが、その名刺を机上に置いて一言だけ発した。

「そうか」

 三木尾善人は中村が徹夜で作ったファイルを広げて、中の文書の頁を捲る。

 中村明史は石原の後ろから、その様子を不安な様子で見ていた。三木尾善人はその報告書の頁を次々と捲りながら、読んでいった。暫く読み進めた彼は、椅子の背凭れに背中を当てると、石原の後ろで立っている中村の顔を見て言った。

「うん。よく出来てるな。後でちゃんと読んでおくよ。そんでな、中村。お前、戻ったらGIESCOジエスコと、例のスパコン。スーパーコンピュータ、ええっと……」

 自分の頭を軽く叩きながら記憶を探っている三木尾に石原宗太郎が言った。

SAI五KTサイ・ファイブ・ケーティーシステム」

 三木尾善人は、石原を無視して中村に言った。

「それについても、資料集めて、こんな感じでまとめてくれないか。簡単でいい」

 中村明史は眉を寄せて頷いた。

「ええ。またですか。まさか……」

「今日中だ。できるだろ?」

 中村明史は思い出したように言った。

「いや、でも、SAI五KTシステムでしたら、それを構成してるAB〇一八エービーゼロイチハチIMUTAイムタについての情報を、一応まとめておきましたけど。その報告書の真ん中くらいの頁だったと思います」

「おお! そうか、そうか。そりゃあ助かる」

 三木尾善人は手に持ったファイルを再び開いて頁を捲りながら、中村に言った。

「じゃあ、GIESCOの方を頼んだぞ」

 中村明史は、諦めたように答えた。

「了解です。では、科捜研に行ってきます」

「そっちじゃねえよ。科警研だよ。そこの特別鑑定室の岩崎カエラ。お前も知ってるだろ」

「ああ、カエラさんですね。すみません。あんまり寝てないもんで。じゃあ、とにかく科警研に行ってきます」

 中村明史は、項垂れてトボトボと部屋から出て行った。

 彼の背中を見ていた石原宗太郎が、熱いお茶を飲みながら言った。

「大丈夫ですかね、あいつ。相当に疲れてるみたいですよ」

 三木尾善人は黙って中村が作った資料を引き出しに仕舞うと、その他の振り分けた書類の小山をまとめて赤いゴミ箱に投じた。隣の席の村田リコが、椅子から立ち上がった三木尾に尋ねる。

「警部も何処かに行かれるんですか?」

 三木尾善人は、窓と反対側の大通りの方角を指差して言った。

「ちょっと、お向かいさんに顔を出してくるよ」

 石原宗太郎が尋ねた。

「サッチョウですか」

「ああ。いくら同級生とはいえ、子越は警察庁の長官だからな。ちゃんと報告には行かないとな」

 石原宗太郎が三木尾に言った。

「分かりますけど、管理官の所にも挨拶に行っておいた方がいいんじゃないですか。あんまり性格の良さそうな人じゃなかったですよ。ねえ、リコちゃん」

 村田リコは大きく頷いてから言った。

「ほんと。ミスター官僚って感じ。いかにも僕はエリートだあって言わんばかりの態度で、嫌なおじさんです。はあ、これから、あんな人の下で働くのかあ……」

 しょんぼりと下を向いた村田に、石原宗太郎が言った。

「どうせ、ここの監視のための臨時の人事なんだろうから、そう長くはいないよ」

 そして、再びホログラフィー画像のモニターの横から顔を出して、三木尾に言った。

「でも、あの手のタイプはプライドが高いから、善さんみたいな年上の部下には何かと難癖つけてくるかもしれませんよ。挨拶だけは行っておいた方がいいんじゃないですかね」

 三木尾善人は腰を叩きながら言った。

「そうか。ま、戻ったら行くよ。まずは長官に報告する事が先だ。物事には順序ってのがあるからな」

 彼は自分の上着のポケットに入れたままにしていたメモ書きに気付いて、それを取り出した。そのメモを村田に渡しながら言う。

「ああ、それから、リコちゃん。そこの整理が終わったら、この人物の情報を警察庁のデータベースで検索してもらえるかな。他の似たような名前でも。たぶん、そろそろ、外務省経由で入ってきた外国の情報機関からのデータが追加されている頃なんだ」

 村田リコは三木尾から渡されたメモ書きを開くと、そこにアルファベットで書かれた名前を読み上げた。

「ん? ミック・オー・イヴンスキー……誰ですか、この人」

 三木尾善人は、少し屈んで村田に耳打ちする。

「それを調べて欲しいんだよ。そいつが何者で、何処から来たヤツなのかを知りたいんだ」

 三木尾善人は姿勢を戻すと、部屋の出入り口に歩いていった。石原の横を通りながら言う。

「石原は真明教の事、よろしく。じゃあ、ちょっと行ってくる」

 古びたガンクラブチェックの上着に身を包んだ老兵は、重たいガラスのドアを引いて開けると、腰を叩きながら廊下へと出ていった。



                  二

 三木尾善人は、警察庁ビルの最上階にある広い部屋に置かれた応接ソファーに座っていた。彼は室内を見回す。床は丁寧に磨かれていた。遠くの方に大きな執務机が置いてあり、その向こうに革張りの椅子の黒い大きな背凭れが見えている。椅子の向こうには、壁一面の多機能モニターが設置されていて、そこに世界地図が表示されていた。横の壁一面を覆った本棚には、黒に金字で印刷された法令集と判例集の背表紙が、装飾タイルのように均一に並んでいる。本棚の端の方には、口を開けたゴルフバッグが立ててあり、そこからクラブの束が頭を出していた。

 反対側の壁の奥の方で、重厚な木彫りのドアが自動で左右に開き、その向こうから、制服姿の痩せた小柄な初老の男が腰の後ろで両手を組んで入ってきた。白髪の少ない髪を綺麗に七三に分け、黒縁の分厚い眼鏡を掛けたその男は、眼鏡の奥の厳しい眼でその広い部屋を見回すと、数人掛けの応接ソファーの真ん中に腰を下ろしていた三木尾を確認した。白髪の男は、日焼けした顔に笑みを浮かべると、挨拶代わりに右手を挙げる。彼はゆっくりと応接ソファーの所まで歩いてきた。

 三木尾善人はソファーから立ち上がり、彼に敬礼する。

「警視庁刑事部捜査一課特捜第五係、三木尾善人警部、南米捜査のご報告に参りました」

 上座に据えられた一人掛けのソファーに座り、左右の肘掛に両手を乗せた小柄な男性は、右手を広げて三木尾に言った。

「待たせて悪かった。楽にしたまえ」

 男に促され、三木尾善人はソファーに座った。するとそこへ、制服姿の若い女性がお茶を運んできた。女性は茶托に乗せられた茶碗を三木尾と上座の男性の前にそれぞれ置くと、礼儀正しくお辞儀をして去っていった。その女性に男が言った。

「ああ君、暫く誰も入れんように。いいね」

 女性は静かに頷くと、再度一礼して退室していった。

 女性の退室を確認してから、警察庁長官の子越智弘こごしともひろは表情を崩した。

「いやあ、三木尾君。ご苦労だった。いろいろ大変だったようだが、無事に帰って来られて何よりだ。私もホッとしたよ」

 三木尾善人は、肩眉を上げて湯飲み茶碗の蓋を開けながら答えた。

「もう向こうでの私の行動を……。さすがは長官、お耳が早い」

 子越智弘は、自分の前に置かれた茶碗を机の端に動かしながら答えた。

「んん? まあな、外務省の官僚仲間から一応の報告は届いている。だが、私は、三木尾君、君の所見を聞きたいのだよ。で、どうだった。田爪の方は」

 三木尾善人は警戒しながら湯飲みの縁に口を当て、一口だけお茶を啜ってみた。その温度は適度な温さであったので、安心して二口目を多めに飲む。湯飲みを置いた三木尾善人は、子越長官に報告した。

「田爪は生きていますね。現地で得た情報からは、少なくとも田爪健三が死んだという事実は証明できない。反対に、生きている可能性を示す状況証拠は次々に出てきます」

 子越智弘は顔を曇らせた。

「そうかね。どうやら、外務省の情報局から聞いている事とは間逆の結論のようだな。その君の意見は、外部には出してないだろうね」

「ええ。ただ、ウチの若いのが入管の顔認証システムのデータに検索を掛けたようで、おそらくNSA、国家安全保障局に検索データが行っているかもしれません」

「ふむ。あそこは公安関係者の『寄合い所』みたいなモノだからな。NSAから何処に情報が散ったか知れんな。誰の顔を検索にかけたんだ。田爪か」

「いえ。そのブローカーらしき男です。ミック・オー・イヴンスキーという人物はご存知で?」

「ああ。聞いている。たしか、以前から警察庁がインターポールに国際手配を依頼している人物だ。謎の人物だと聞いていたが、日本に居るのか」

 三木尾善人は険しい顔で首を縦に振った。

「おそらく。田爪を連れ出したのは、奴でしょう」

 子越智弘は額を押さえて息を吐く。

「ふう……。参ったな。やっかいな奴が絡んだものだ。それで、捕まえられそうかね」

「どちらを」

「勿論、田爪健三だよ。イヴンスキーなど、どうでもよい。必要なのは田爪だ」

「長官は、どこまでご存知で」

「何をだね」

 三木尾善人は子越の目を見て言う。

「軍の事です。そして、GIESCOジエスコ

 子越智弘は眉間に縦皺を刻んだ。

SAI五KTサイ・ファイブ・ケーティーシステムの事か。誰から聞いた」

「……」

 黙って目を見る三木尾に、子越智弘は片笑んで言った。

「言えんか。まあ、いい。だから君を信用している」

 子越智弘は椅子に深く背を倒すと、語り始めた。

「とにかく、AB〇一八に対するIMUTAの拒絶が激しいようだ。SAI五KTシステムが完全な形で稼動しなければ、我が国の防衛、経済、インフラ管理に支障が生じてしまう。辛島総理が、財政立て直し政策の『次の矢』だと言っている生体型ヒューマノイドロボット生産事業にも大きな影響が出る。そして、システムの修復には、田爪健三の力が必要だ」

 三木尾善人は眉を寄せた。

「それで、私を南米に行かせたのですか。田爪が生きている事実を炙り出させるために」

 子越智弘は背もたれから体を起こし、前に倒した。

「いや、そうじゃない。私と君の仲じゃないか。下手な勘繰り合いは止そう。各省庁が送った前の調査官や、ウチが送った捜査官どもは、こぞって田爪の死は間違いないと確信している。だが、もし本当にそうなら、何故、軍やGIESCOが動く。おかしいだろ」

「軍やGIESCO? 両者は既に動いているのですか?」

 子越智弘は首を縦に振った。

「ああ。君は、国防軍の第十七師団、通称、『深紅の旅団レッド・ブリッグ』が決起に失敗しているのは知っているかね」

「決起? いいえ。土日の新聞やニュースで、深紅の旅団レッド・ブリッグが演習中の移動の際にマシントラブルを起こしたという事は知っていますが。もしかして、『決起』とは、その事ですか」

「うむ。まだ断定は出来んが、そういう事のようだ。そこを取り仕切っている阿部亮吾あべりょうごという軍人が、先週の土曜に、深紅の旅団レッド・ブリッグ全軍を率いて命令外の出撃をしようとし、失敗した。どうも、それが真実のようだ」

「では、本当に軍の一部が決起しようとしたというのですか? 若手政治家の主張は、マスコミ向けの政治的パフォーマンスだと思っていましたが……」

 眉間に深く皺を刻んだ三木尾善人は、子越に尋ねた。

「長官。そもそも、そのレッドブリッグというは何者達なのです? ニュースはともかく、ネット新聞でも概略しか報じられていませんが」

 再び背凭れに身を倒した子越智弘は、厳しい顔で説明した。

「国防陸軍第十七師団。政府が極秘に配備していた機械化特殊部隊だよ。例のASKITアスキットの拠点島を襲撃した事で、その存在が明らかになった。その後改めて公開された政府情報によれば、最新式の機械化武装をした歩兵団と戦車隊、航空支援部隊、電子科学部隊、整備部隊などで構成された、単独の混成旅団だそうだ。県境の多久実第二基地、あそこに集中配備されている」

「新首都のそんな近くに……」

 溜め息を漏らした三木尾を子越智弘は軽く指差した。

「君もニュースで知っているだろうが、先月の臨時国会では、野党連合から散々に、『赤鬼』だの『血の軍団』だのと揶揄されて、批判の的とされていた連中だ。今回の騒動で、今週から開かれる予定の臨時軍事審査会では、間違いなく深紅の旅団レッド・ブリッグの解体か維持かが議論となるだろう。そして、現内閣の軍に対する文民統制能力が問われる。辛島からしま政権にとっては、とんだ火種となったようだ」

「与党内からも、次の選挙を睨んで、辛島政権批判の声が上がっていますからね。今の深紅の旅団レッド・ブリッグは、辛島総理にとって、ちょっとしたお荷物って訳ですか」

 子越智弘は首を横に振る。

「いいや、そうとも言えん。政府は必死に部隊を存続させる方向で押し切ろうとしている。ASKITの掃討作戦に深紅の旅団レッド・ブリッグを使用したのも、彼らの存在を嗅ぎつけた野党勢力からの追求を封じ、逆に国民の支持を得る為の布石だという見方もある。実際に、ASKIT掃討の直後に深紅の旅団レッド・ブリッグの存在と概要が報じられると、彼らは英雄視され、現政権の支持率も急上昇した。辛島総理としては、改革に急進力を得たという事になる訳だ。国防陸軍内に密かに第十七師団を追加構成したのは、辛島総理直々の命令があったからだそうだからな。辛島勇蔵の先見の明が、大いにアピールされた訳だよ」

 三木尾善人はうんじ顔で話を聞いてから、話題を変えた。

「ところで、以前から気になっていたのですが、奴らは『師団』なのに、なぜ『深紅の旅団レッド・ブリッグ』と呼ばれるんです? たしか、師団の下に旅団、その下に連隊の順ですよね。組織構成としては」

「うむ。内部に赤くカラーリングされた戦闘歩兵旅団を一つしか構成していないので、深紅の『旅団』と呼ばれているが、現実には師団規模の作戦に従事してきたようだ。つまり、一騎当千の実力を備えた連中だという事だな。アフリカ戦線で孤立したフランスの外人部隊を救出した日本の軍隊が、実は深紅の旅団レッド・ブリッグだった訳だが、あの規模の戦闘にしては少な過ぎる兵員数で救出作戦を成功させてみせたのは、それだけの実力があるからだと思われる。よほどの精鋭部隊なのだろう」

 三木尾善人は顔を顰めた。

「その実力派の精鋭集団が『出撃』に失敗したのですか?」

 子越智弘は真顔で答える。

「そうだ。報道にあるとおり、失敗の理由はマシントラブルのようだが、気になるのは動機だ。出撃の目的だよ」

 三木尾善人もソファーの背凭れに背中を当てる。

「気になるようでしたら、内乱未遂の容疑で捜査できるのでは?」

「いいや。緊急出動の訓練の為の軍事演習だったと言われれば、それまでだ。あとは、軍規監視局に任せるしかない。しかし、内部捜査権を有する軍規監視局とはいえ、奴らだって所詮は軍人だ。アフリカでの英雄を厳罰に処すなんて事はせんだろう。適当に捜査して嫌疑無し、もしくは不十分で幕引きだ。そうなると、警察は手も足も出せん。まったく、縄張りが違うというのも困ったものだ」

 首を傾げた三木尾善人は、背凭れから背中を離して、子越に尋ねた。

「その決起の失敗が、田爪の一件とどういう関係があるんですか」

「うむ。それより、二人の時は、その堅苦しい話し方は止めにせんか。もう、長い仲じゃないか」

 三木尾善人は口角を上げた。

「すっかり警察官が染み込んじまいましてね。長官」

 子越智弘は片笑みながら横目で三木尾を見た。

「そうかね。そうは見えんがね」

 そして、話を本題に戻す。

「ま、奴ら深紅の旅団レッド・ブリッグが狙っていたのが、AB〇一八だとすれば、警戒する必要がある。そういう事だ」

「AB〇一八を。どうして」

 三木尾善人は再び顔を曇らせた。子越智弘は真顔に戻って言った。

「軍が管理しているのは量子コンピュータのIMUTAイムタ。一方、バイオコンピュータのAB〇一八エービーゼロイチハチはNNJ社の管理下にあったが、現在は、奴らの資産を差し押さえている政府が実質的に管理している」

 三木尾善人は子越の目を見ながら静かに言った。

「つまり、政府が二つの巨大コンピュータを手中に入れている。事実上」

 子越智弘は頷く。

「そうだ。そして、この二つの巨大コンピュータの連結でSAI五KTシステムは稼動している訳だが、国内の全ての防衛体制やインフラ管理、世界中の金融情報の交換は、すべて、このSAI五KTシステムを利用しているのだ。という事は、SAI五KTシステムを支配下に置けば、この国と世界経済を支配下に置く事ができる。そして、それを実現できる方法が二つある。その一つが田爪健三だ。彼は、実際にAB〇一八とIMUTAを接続して、SAI五KTシステムを構築した中心人物だからな。彼なら、システムの制御方法を知っているはずだ。だが、このSAI五KTシステムは、このところ不調続きでね。その連結が時折、遮断されている。つまり、うまくいっとらん。この前も、停電があっただろう。原因は軍が管理するIMUTAがAB〇一八から離脱を図ろうとしている事にあるらしいが、問題の根源は、AB〇一八の方にあるようだ。詳しい原因は警察にも知らされていないが、どうもその問題あるAB〇一八からIMUTAを切り離そうと、IMUTA自身が頑張っているようなのだ。それなのに、離脱に失敗しているという事は、IMUTAよりもAB〇一八の方が一枚上手だという事だな」

 三木尾善人は深く溜め息を吐いた。

「例の新日の記者たちが書いている事と一致しますな。要するに、SAI五KTシステムを手に入れたければ、兄貴分のAB〇一八を押さえてしまえばいいという事ですな。IMUTAの方は自動的に付いてくると」

「そうだ。戦闘効率を優先させる職業軍人が、一度に両方を狙うとは考えられん。おそらく、狙っているとすればAB〇一八の方だ。そして、それを察知した国防省は、内密に事を処理しようと、影で動いている。たぶんな。深紅の旅団レッド・ブリッグよりも先に、自分たちがAB〇一八を直接の管理下に置きたいのだろう」

「GIESCOの方は、なぜ。AB〇一八を管理している訳でも、これまで管理した事実もない。そもそも、親会社のストンスロプ社とNNC社は対立関係にあったはずでは?」

「だから、政府に差し押さえさせたんだよ。辛島総理のバックにはストンスロプ社がいる。あそこの光絵由里子は、なかなかの女傑だ。有働前総理を退陣に追い込んだのも、彼女の策略だという話もある。タイムマシン事業も、もとはGIESCOが民間実験で始めた事を政府が引き継いだだけだからな。陰で糸を引いていたのは光絵由里子かもしれん。それに、IMUTAはGIESCOが開発し建設したコンピュータだ。政府の管理下にあるとは言っても、実際のメンテナンスや稼働管理は、軍から委託を受けたGIESCOが全て行っている。ということは実質的に、この国の半分を彼女に握られているのと同じだ」

「その光絵由里子が、国の実権を掌握しきるために、SAI五KTシステム全ての掌握を狙っていると。つまり、IMUTAの離脱とAB〇一八を事実上管理する事を目論んでいる」

「ああ、たぶんな。現に、君の事も根掘り葉掘り訊いてきたよ。まったく……」

 不機嫌そうにそう言って溜息を強く吐いた子越智弘は、話を続けた。

「ああ、それから、何者かが君達を監視するために新原海介という男を、君の所の管理官として送り込んできた。まだ三十五歳の若者だが、気をつけたまえ。油断のならん男だ。まったく、公安委員会から直接のご命令だそうだが、その命令の発信元が不明だ。まあ、公安委員の国会議員を動かせる人物といえば、たぶん光絵だろう。まったく、警察庁長官もナメられたものだな」

 苦笑いを浮かべる子越に、三木尾善人は険しい顔で確認した。

「では、二つの巨大コンピュータを操りたいが為に、ストンスロプ社と軍の双方とも田爪を探しているという事ですか」

「おそらくな。その意味では、辛島総理のASKIT攻撃の決断は、双方にとって渡りに舟だったのかもしれん。そして、舟が向こう岸に着いた途端、舟から下りて、競うように走り出した」

 三木尾善人は子越を指差した。

「長官。あんたもだろ」

 子越智弘は鼻で笑って答える。

「ふん。まあな」

 三木尾善人は友人として子越に尋ねた。

「二つのコンピュータを操るための、もう一つの方法。それは『バイオ・ドライブ』。そうなんだな?」

 子越智弘も正直に答えた。

「そうだ。おそらくな。だが、そのバイオ・ドライブの中に保存されていたデータを基にしてASKITの連中が製造したモノを見る限り、そのデータは偽物だ。なぜ、田爪はわざわざ偽の情報をタイムマシンに乗せて過去に送ったのか。その理由が知りたいと、出発前に君に言ったはずだが。何か成果は有ったかね」

 三木尾善人は両肩を上げて、首を横に振った。

「いいや。特に何も。正直、さっぱりだ。ただ、もし誰かが書き換えたのだとしたら、田爪はそいつを狙いに行くんじゃないかと思っている」

「ほう。書き換えた。なぜ、そう思うのかね。何か根拠となる情報でも掴んだのか」

「いいや、逆だ。田爪が偽の情報を書き込む理由が見当たらないからさ。それに、実際に理由を探しても出てこないとなれば、それは田爪が偽の情報を書き込んだという事実そのものが無いからなんじゃないか。田爪はドライブに真正な情報を書き込んでいて、第三者がそれを改ざんした。そう考えた方がスッキリする。それなら、その線で動いた方がいい。それだけだ」

「なるほどな」

 暫らく考えた子越智弘は、三木尾に言った。

「そうなると、やはり、あのドライブには田爪の研究成果が、まだ残っている可能性も否定できない訳だな。それに、なんと言っても一度SAI五KTシステムにプラグインした実績のあるドライブだ。そのシステムを解析すれば、AB〇一八とIMUTAを結合している仕組みが分かるかもしれん。と言う事は、安全に二つを分離させる方法も分かる可能性がある。もちろん、両者を調整する方法もな。だから、何としても手に入れなければならん。ただ、そうなると問題は、高橋からドライブを奪った西郷が、あのドライブを持って何処に飛んだのかという事だ。過去に飛んだかもしれんし、あるいは田爪の時と同じように、同じ時間の別の場所に飛んだのかもしれん。もし、過去に飛んだとして、それが我々の手の届く範囲にあれば、もしくは単に場所的移動をしただけならば、なおさら、そのドライブを手に入れる必要がある」

 三木尾善人は子越の顔を覗き込んだ。

「当てはあるのか」

 子越智弘は顔を引きながら、首を横に振る。

「いいや。だから、君を指名したんだ。君の類稀な推理力に賭けたんだよ」

 三木尾善人は頭を掻いた。

「やれやれ。じゃあ、図書館で歴史書でも読み漁りますかね。どこかにタイムマシン現るとか、西郷社長らしき人物の記載があったりして」

 子越智弘は真剣な顔で三木尾を睨み付けた。

「冗談はよしてくれ。我々は急がねばならんのだよ。だから、急遽、君に南米まで行ってもらったんだ」

 三木尾善人は手を一振りする。

「分かってますよ。だが、西郷がドライブを持って何処に、いや、何時に飛んだか、私なりのヤマは張っています。まだ、お話しできるほど確信はありませんが」

「ほう。やはり、まだ錆びてはいなかったようだな。いや、流石だよ。南米に行っても、直ぐには帰ってこない。という事は、現地で捜査を続けていたのだろ? そして、何かを掴んだ。それで、急遽、帰国した。しかも、帰国する情報を撹乱して。相変わらず、念が入っているな。で、帰国してから、この二日間は何をしていたんだね」

 三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着の表面についた糸くずを取りながら答えた。

「ああ、ちょっとな。気になる事があって、あっちゃこっちゃと動いていた。また、正式な報告書にする時間ができたら、きちんとまとめて報告しますよ」

「そうかね。楽しみだ。いやあ、やはり君を南米に行かせたのは正解だった。さすがは警視庁一の切れ者だ」

「こちらにとっては、不正解でしたがね。死にかけたんだぞ」

 三木尾善人は顔を上げて、子越を睨んだ。

 子越智弘は口を開けて笑う。

「ははは。いやあ、悪かった。こんな事を頼めるのも、同期の桜の君しか居らんのだよ」

 三木尾善人はまた溜め息を吐いて、言う。

「結局、気が付けば第一コーナーを周らされていたって事か……ったく」

「ん? どういう事かね?」

「馬も桜もハナが先って事ですよ」

 三木尾善人は子越の胸の桜形の徽章を指差した。

 子越智弘は自分の胸元を見てから、再び笑う。

「ははは。相変わらずだねえ、君は」

 そして真顔に戻って三木尾を睨み付けた。

「だが、このレース、負ける訳にはいかんという事も、肝に銘じておいて欲しい。暴走する軍人にも、政界を裏で操る財界人にも、あのスーパーコンピュータを渡す訳にはいかん。この国の治安を守るのは軍でも大企業でもない。警察だ。法治国家だからな。だから、発言力は我々が握らねばならん。そのためには、奴らに先んじて我々が、バイオドライブか田爪本人を確保せねばならんのだよ」

 三木尾善人はソファーの背凭れに身を倒した。

「長官。そんな事より、量子銃を持った田爪健三が国内をウロついているって事の方が問題じゃないですかねえ」

「ふむ。確かにそうだが、奴は猟奇殺人を繰り返すサイコパスではない。あの新日の記者がしたインタビューを聞く限り、辛うじて正気は保っているように思える。そう心配はしとらんよ。だから、君たちのような最小限の人員だけで対応してもらっている」

 三木尾善人は子越に厳しい視線を向けながら言う。

「犠牲も最小限って事ですか?」

 子越智弘は笑って答えた。

「そう捻くれるな、三木尾」

 三木尾善人は子越を指差した。

「あのな、田爪健三は、百三十人も殺ってるんだぞ。十分サイコ野郎じゃねえか。確かに、あのインタビューの田爪の主張は、全否定するつもりはない。だが、やってきた事は、やっぱりまともじゃねえよ」

 子越智弘は頬を掻きながら眉を寄せた。

「んん……そうだな。――だがな、これは君だから言う事だが、田爪の行為はあながち国益に適っていないという訳ではない」

「おいおいおい。また、ここにも居たか……」

 軽蔑的な眼差しを向ける三木尾に、子越智弘は掌を向けた。

「まあ、聞け。田爪が消し去った人間の多くは、いや、田爪瑠香以外の全員が、渡航費として巨額の金員をポンと支払って、タイムマシンに乗った連中だ。田爪の主張するとおり家族や周りの者への責任を放棄してな」

 三木尾善人は憮然として言う。

「だからと言って、殺していい理由にはならんだろ」

 子越智弘は手を振った。

「いや、そういう事を言っているのではない。私は客観的な事実を言っているのだよ。まあ、ちょっと聞いてくれ。――そういう無責任な人間は、社会に対しても何らの責任を果たそうとはしない。自分の懐を肥やし、私欲を満たす事に専念する。実際に、あの犠牲者リストに載っていた人物で、社会奉仕活動に資金提供していた人物や、他人の為に何かを提供した人物は誰一人としていない。そればかりか、資金を使って事業を起こし雇用を拡大したり、流通を活発化させたり、要は経済に参加している人間は一人も居ないんだ。研究に資金を投じている人間もいない。一人もいない。見事なものだ。つまり、巨額の金が彼らの所に集まったまま停滞していたのさ。ただ、社会に放出されるのは、彼らの贅沢な暮らしに消費される程度の量の貨幣で、残りはギャンブルだのレジャーだの社交だの、要は富裕層から富裕層に流れているだけ。その彼らが一人ずつタイムマシンに乗ってくれたおかげで、どうなったか。タイムトラベル法で生存権が中断され、強制的に相続が開始される。彼らが貯め込んでいた資金が配偶者と子達に分配され、その過程で多額の税金が徴収される。相続人は財産を現金化したり、現金を使用したりする必要度が高いから、必然的に金が社会に回りだす。つまり、無責任な富裕層の所にダブついていた金が社会に回るようになったという訳だ。その結果、実際にこの十年で経済は徐々に復興した。これは客観的な事実だ」

 三木尾善人は子越の顔を見据えた。

「大量殺人が実行されたというのも、客観的な事実ですよ。人殺しは、人殺しだ」

 子越智弘は首を振る。

「その通りだ。だが、田爪が危険な人殺しかどうかという点を論じているんだ。あの犠牲者リストに名前のある人間は、田爪瑠香を除けば全員が、国税からマークされていた人間だ。知っていたかね」

 三木尾善人は子越の目を見据えたまま答えた。

「いいや。だが、大方の察しは付く」

 子越智弘は片笑んで頷く。

「そうか。ま、並んだ面子を見れば、サツカンなら誰だってそう思うだろうな。問題は、田爪も同じ印象を抱いていたか、もしくは国内と国外の経済社会にとってガンとなる人物たちだったという事を知っていたかだ。私の推理はイエスだ。もしヤツが何も知らずに、ただ自分の価値観や正義感だけで処刑していたのだとしたら、逃亡後も世界中で多くの人間を消し去っているんじゃないか。だが、実際には一人の犠牲者も出ていない」

 三木尾善人は顔を横に向けた。

「それは、どうかな。量子銃で撃たれたら、消えちまうんだ。死体が出ない。俺達警察が犠牲者を認知していないだけかもしれないぞ。それに、経済に役立っているかどうかで消されたんじゃ、たまったもんじゃないぜ」

 子越智弘は再び頷く。

「うん。そうだな。だが私は、田爪がただ闇雲に私的制裁をしていた訳ではないと考えいる、そういう事だ。だから、量子銃についても、彼が乱射するとは思っていない。勿論、それも回収できれば、それに越した事は無いがね」

 三木尾善人は呆れ顔で首を傾けた。

「簡単に言ってくれますねえ。実際にヤツと対峙する我々現場の警察官の身にもなって欲しいものですよ。それに、量子銃を握って構えるのが、田爪とは限らんでしょ」

 子越智弘は厳しい顔に戻って首を縦に振った。

「うむ。確かに君の言うとおりだ。その点については、警察庁としても、現場の警官の安全に十分な配慮をするつもりだ。ああ、そうだ。量子銃の構造については、科警研に特別鑑定室を新たに設けさせて、そこで分析させている。ええと、岩崎君とか言ったかな」

「ええ、知ってます」

「そうかね。それから、これは田爪追跡の件とは直接には関係ないが、今度、警官に標準支給する拳銃を見直そうかと思っている。その試験装備用のものが届いているが、使ってみるかね。新式の防弾スーツも届いているようだが」

「銃や防弾着で、どうにかなる問題ですかね」

「そう言うな。まあ、見るだけ見てみたまえ」

 子越智弘は二人の間に置かれている応接テーブルの縁のボタンを押すと、膝の前に投影されたホログラフィー・キーボードのキーに人差し指で触れていった。

「ええとなあ……ああ、これだ」

 応接テーブルの上に拳銃のホログラフィー画像が表示される。立体的に投影された銀色の拳銃は、空中でゆっくりと横に回った。子越智弘は言う。

「シグザウェルP二二六エレクトリックバージョン。通称『AIガン』だ。人工知能を搭載した最新式の自動照準式拳銃だよ。弾は鋼鉄貫通型の自動制御弾が六発。撃ち損じる事は、まず無い」

「徹甲弾ですか」

「そうだ。近年、暴力団が備え始めた護衛用ロボットに対処する事が表向きの理由だが、実際は、事故防止のためだ。こう街中で超合金製の建設ロボットや警備ロボットが闊歩している中で普通に発砲したら、跳弾で一般市民が犠牲になるかもしれん。あいつ等ロボットは銃声が響いても床に伏せる事はしないからな。当たった弾は、跳ね返り放題だ。一般市民だけでなく現場の警官も危なくて仕方ない。だったら奴らの体の中に撃ち込める弾の方がいい。それで、鋼鉄貫通弾を採用する事にしたんだ。しかし、君も知っているだろうが、鋼鉄貫通弾は通常の弾よりも発射反動が大きい。それを自動制御で正確に射撃できるように、AIガンを導入しようと思っている。どうだ、いいだろ」

 三木尾善人は身を乗り出して、その拳銃のホログラフィー画像を覗きながら言った。

「回りくどい言い方をせずに、対ロボット用に、銃の威力を上げたと言ったらどうです? ただ、そんな強力な弾を使って、この銃のフレームが持ちますかね。続けて撃ったら、すぐに弾詰まりしそうですが。安全性を確認してからの方がいいんじゃないですか」

「分かっとる。試験はするつもりだ」

 そう子越が答えると、三木尾善人は顰めた。そして、顔を子越に向ける。

「――それで、防弾着の方は」

「うん。これだ」

 子越智弘は頷きながら、テーブルの上にもう一つの立体画像を表示させた。薄い半袖Tシャツがテーブルの上に浮かぶ。

「岡田武具製の甲一一七。軍でも既に導入している超軽量吸撃繊維で編み込んだ軟性の衝撃吸収型アーマーだ。ハイパーSATでも半年前から使用させているが、実際の現場で実弾が貫通したという報告はない。軽くていいらしいぞ」

 三木尾善人は肩を落として短く溜め息を吐く。

「はあ……撃たれる事が前提ですか……」

 顔を上げた三木尾善人は、浮かんだ疑問を口にした。

「で、そっちの銃で、この防弾着を撃ったら、どうなるんです?」

 子越智弘は、二つのホログラフィー画像の間で視線を往復させる。

「あ……、いや……、それは、どうかな。実際にやってみないと分からんよ」

 三木尾善人はソファーに身を投げた。

「ま、私の意見としては、IAガンは却下ですね。銃には警官それぞれの相性がありますから。検査した基準適合品から自由に選べる今の制度の方がいい。それに、このエレクトリック銃は前に試用した事があります。使えませんよ、コレ。中のコンピュータがバグったら、撃てないか暴発するかもしれない。現場の警官も、大多数が同じ意見じゃないですかね」

「そうか……まあ、アンケートでも採ってみるかな。それで決めよう」

「アンケートねえ。まあ、同じだと思いますよ。電子制御された銃に命を預けようって警官は、多くは居ないでしょう」

 子越智弘は顔を曇らせる。

「んん、そうかね。田爪の逮捕にも役立つと思ったんだがな」

 三木尾善人は言った。

「防弾着の方だけ、ウチの方に先に回してもらえますか。三人分。女性用のもあれば、それも一着」

「分かった。そうしよう。それで、今後の予定は」

 三木尾善人はソファーに深く倒れたまま、真剣な顔を子越に向けた。

「今、ウチの係りの者が、こちらのデータベースからイヴンスキーの情報を検索しているはずです。その検索履歴はサーバーから削除しておいて下さい。あとは、当たれる所を虱潰しに当たる、それしかないですな。まずは、GIESCO。次にストンスロプ社。それから軍の順番ですかね」

 子越智弘は腕組みをして、首を傾げる。

「んん、ストンスロプ社は辛島総理を支持している企業だからな。慎重に頼むぞ。事を荒立ててはいかん。ここが難しい所だ」

「じゃあ、軍の方は荒立ててもいいんですね?」

「馬鹿言っちゃいかんよ。縄張りが違うと言ったろ」

 三木尾善人は片笑んで手を振った。

「冗談ですよ。それから……真明教。奴らが絡んでいるかもしれません」

 顔を上げた子越智弘は、目を丸くする。

「真明教? あの南正覚の宗教団体かね。冗談じゃない。真明教は前総理の有働武雄の支持母体だった所だぞ。しかも、れっきとした宗教法人だ。そんなところに警察が強引な捜査なんかしてみたまえ、たちまち辛島総理は有働から、宗教弾圧だの憲法違反だのと揚げ足を取られる事になるだろう。最悪、退陣に追い込まれかねん。そうなれば、私も君もクビだよ。クビ。そこは駄目だよ。君」

 子越智弘は強く三木尾を指差した。

 三木尾善人は顎を触りながら顔を横に向ける。

「駄目だと言われましてもね。私の中では今のところ、第一容疑者なんですがね」

「なんだって? 正気かね。この件で彼らに何が出来るというのかね。彼らは一宗教団体に過ぎんだろう」

 三木尾善人は視線だけを子越に向けた。

「一宗教団体が国家転覆を画策した事もあったじゃないですか」

 二人とも、それをよく知る世代だった。記憶に深く刻まれている。あの事件の時、二人は大学生だった。後期試験も終わり、就職に向けての本格的な準備にかかろうとしていた頃に起こった事件だ。しかも、二人とも普段よく利用する地下鉄路線で事件は起きた。通常通り通学していたら、事件に巻き込まれていただろう。ニュースで一報を知った時、二人ともそれぞれに、それが他人事の事件としては受け止められなかった。その怒りと悲しみは、彼らが将来の道を決意する一つの大きなきっかけともなった。二人の舟先を決定付けたとも言える。その二人は、今、六十四歳になり、職業人としての人生に区切りを付けようとしていた。だが、それぞれが肩に積もらせた塵埃は、質も臭いも違う。

 応接テーブルを隔てた二人の間を沈黙が埋めた。

 三木尾善人が口を開いた。彼は背凭れから背中を離し、顔を前に出して子越に言う。

「とにかく、真明教は南米で戦争が始まる前から布教を開始している。スラム住人のほとんどが真明教信者だ。田爪の建屋を焼き払ったのも真明教信者。どうも変なんですよ。田爪の主張するパラレル・ワールド否定説は、奴らの教義と相反する。本当なら、奴らが現地で田爪を殺していても不思議じゃない。なのに、何故か逆に、田爪を警護している。何かが変なんです。何かが」

 子越智弘は姿勢を正すと、三木尾の目を見て言った。

「君の話も解るが、政治的影響も少しは考えてくれたまえ。何のために、秘密裏に君たちに動いてもらっていると思っているんだね」

「真相を明らかにして、悪いヤツに法の裁きを受けさせる、それが私の仕事です。政治云々で動いている訳じゃない」

 子越智弘は視線を逸らし、眉を曇らせた。

「君は政治を理解できる人間だと思っていたが」

 三木尾善人は頷く。

「理解はしています。しかし、理解する事と賛同する事は別ですよ。まして、警察官としての義務の履行となれば……」

 子越智弘は掌を三木尾の顔の前に突き出した。

「もう分かった。とにかく結果を出してくれたまえ。田爪とバイオ・ドライブの確保だ。ただし、捜査はくれぐれも慎重に行うんだ。権利侵害の無いようにな。それも警察官としての義務だ。これは命令だ。いいかね」

 子越智弘は立てた人差し指を何度も振った。

 三木尾善人はソファーから立ち上がり、警察庁長官に敬礼した。

「了解しました。失礼します」

 一睨みするように厳しい視線を送った三木尾善人は、子越に背を向けて長官室から出ていった。



                  三

 間口の広い玄関から出てきた三木尾善人は、警察庁ビルの門扉まで歩いていた。大理石製の重厚で大きな門柱を通り過ぎた三木尾善人は、その前で門番として立つ制服警官に軽く敬礼すると、葉の散った桜の木が並べられた大通り沿いの幅の広い歩道の上を、腰を叩きながら横切っていく。東西幹線道路の一部である官公庁街のメイン通り沿いの歩道の上は、スーツ姿の役人に交じり、勲章をぶら下げた制服姿の軍人や胸にバッジを光らせた議員や弁護士、地方からの団体観光客や修学旅行の学生でごった返していた。三木尾善人は人ごみを縫うように車道側に移動し、半年後の春を待つ桜並木の下を横断歩道に向かってゆっくりと歩いた。すると、都営バスから降りてきた七三頭の小柄な男が、背後から声を掛けた。

「警部、けえーぶう。待って下さい」

 三木尾善人は立ち止まって振り返る。中村明史刑事だった。彼は人ごみをかき分けて、三木尾の所に駆け寄ってくる。

「あ、警部。お疲れ様です。今ドライブを届けてきました」

「そうか。悪かったな」

「カエラさんが、電話待ってますって言ってました」

「ああ、分かった。後で掛けとくよ」

 二人は、信号機の下の横断歩道の前で立ち止まった。

 中村明史が三木尾に尋ねた。

「どうだったんですか。サッチョウの方は」

「ん、――ああ、新型の防弾着を支給してくれるそうだ。よかったな」

「防弾着? 量子銃に対応してるんですか」

「そんな訳ないだろ。あれに当たったら、おしまいだよ」

「そんじゃあ、意味無いじゃないですか」

 眉を寄せた中村に、三木尾善人は片笑んで言った。

「今のより軽くて丈夫らしいぞ。二枚着ても大丈夫なんじゃないか」

「またまた、警部まで。よして下さいよ」

 中村明史は顔の前で手を一振りした。

 三木尾善人はニヤリと笑うと、幅の広い東西幹線道路の中央分離帯の上にある信号機に目を遣りながら、中村に尋ねた。

「それより中村、おまえ、もしタイムマシンに乗って過去に行けるとしたら、何する?」

「え、タイムマシンですか? そうですね……」

 中村明史は腕組みをして考えた。すると、二人の横に数人の女子高校生たちが並んだ。地方からの修学旅行であろうか、ホログラフィー画像の立体地図を投影させた携帯端末を手に持って、周囲をキョロキョロと見回しながら信号待ちをしている。短いスカートの女子生徒たちを見ながら、中村明史は言った。

「高校時代に戻りますかね」

 三木尾善人は怪訝な顔で再度尋ねる。

「戻って何するんだ」

 中村明史は首を縦に深く振った。

「好きだった女の子に、ちゃんと告白します。結構、仲は良かったんですけどね、まあ、年頃だったんで、何か急に意識しちゃって、途中から冷たくしちゃたんですよね。そのまま卒業して会えず仕舞い。いい子だったんですけどねえ」

 三木尾善人は少し上を向いて呟いた。

「だよなあ……」

 中村明史が顔を向ける。

「え? 警部、知ってるんですか? その子の事」

 三木尾善人は中村を一瞥した。

「違うよ、馬鹿。普通の人間は、お前みたいに人生最大の失敗だと思う事をやり直しに行くんじゃないかって事だ」

 中村明史は頭を掻きながら言った。

「はあ、まあ、最大の失敗っていうか、後悔してるだけなんですけどね」

 歩行者信号が青に変わった。二人は、駆け出した女子高生たちの後から、ゆっくりと横断歩道の上を歩き始める。

 中村明史は横に停止している高級AI自動車に目を遣りながら溜め息を嘆いた。

「あーあ。金持ちは羨ましいなあ。タイムマシンで過去に行けて」

 三木尾善人は歩きながら言う。

「おまえ、気をつけろよ。そんなんじゃ、田爪に消されちまうぞ。それに、強欲連中は結局、誰一人として過去には行けてねえしな」

「ま、そうですけど。夢は持てたじゃないですか」

「夢を見たけりゃ、宝くじでも買えよ。で、岩崎は他に何か言ってたか」

「あ、はい。まず、ドライブの解析は助手の小久保さんが専門らしく、その人が言うには、軍事用マシンのAIはリブートが簡単だそうで、すぐに出来るそうです。そういう風に出来ているそうで」

「なるほどな。戦闘データは速やかに収集して分析しなきゃならんからな。そういや、ガキの頃にロボットアニメでそういうのを見た事があったな……」

 三木尾善人は顎を掻きながら歩いた。

 中村明史は報告を続けた。

「それから、ドライブが二つあったとか言ってました」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて聞き返す。

「二つあった?」

「ええ。何かバタバタしてて、詳しくは聞けなかったんですけど。もう一つ見つかったみたいです。それと、書き換えたのが誰か分かったとか何とか。とにかく、ものすごく忙しそうでしたよ」

 三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着のポケットに手を入れながら怒鳴った。

「馬鹿野郎! そんな大事な事、何で早く言わねえんだ!」

 旧式のスマートフォンを取り出した三木尾善人は、中央分離帯に設置されている横断者用の待機場まで駆け足で進むと、そこで立ち止まって、その古い携帯端末を操作した。その先の歩行者信号が点滅しているのに気付いた三木尾善人は、待機場から先の横断歩道を指差しながらスマートフォンを耳にあて、残り半分の横断歩道の上を速足で歩いて行く。中村明史は後を追った。三木尾善人は一度スマートフォンを耳から離す。

「あら、繋がらねえなあ。くそ、あいつの携帯に掛けてみるか……」

 三木尾善人は横断歩道を歩きながらスマートフォンのパネルの上で親指を動かした。隣を歩きながら覗き込む中村明史が言う。

「ええ? カエラさんの個人の携帯番号を知ってるんですか?」

「まあな。羨ましいか。あいつとは古い仲だからな」

「僕にも教えてくださいよ」

「嫌だね。本人に訊け。ていうか、第三者の携帯番号を尋ねるな。なに考えてんだ」

 三木尾善人は不機嫌そうな顔でスマートフォンを耳に当てる。

「あいつ、イヴフォンに替えたんだよな。スマホとは音の遣り取りがし難い……」

 横断歩道を速足で渡り終えた三木尾の背後から、車がアスファルトをタイヤで擦って急発進する音が響いた。三木尾善人と中村明史は反射的に振り返る。今では珍しいガソリンエンジンの生の音を鳴らして、深緑色のダットサンが走り去っていく。そのオールド・カーを目で追いながら、三木尾善人は呟いた。

「ん、ハマーの車じゃねえか。尾行か?」

 東へと走って行くダットサンを背伸びをして確認しながら、中村明史が尋ねた。

「誰です?」

 三木尾善人はスマートフォンから聞こえる呼び出し音を聞きながら答えた。

「何にでも首を突っ込む探偵だ。その前の車のナンバー見たか?」

「いえ、見ませんでした。すみません」

 三木尾善人は中村から顔を逸らすと、電話に出た岩崎に言った。

「ああ、俺だ。今話せるか」

 警視庁ビルの方へと歩道を横切りながら、三木尾善人は通話を続ける。

「すまないな。そうなんだ。だが、ちょっと気になってな。どうも、そいつが暴れた理由が気になるんだ。その護衛ロボットは、十キロ先の標的でも一発で仕留める腕を持った奴らだろ。それなのに、五メートル横にいた俺達や十メートル先の軍人を撃ち損ねた」

 二人は立番の制服警官に軽く敬礼して挨拶すると、敷地の中へと入っていく。

「ああ、確かにそうなんだが、俺は別の視点も考えてみたんだ。撃ち損ねたんじゃなくて、撃たなかったんじゃないかってな」

 音を聞き辛そうに顔を顰めていた三木尾善人は、反対の耳を人差し指で押さえて通話を続けた。

「根拠? そんなもの、ねえよ。だがな、そいつは、そのすぐ前に、五百メートル以上先の電波塔と、百メートル以上先の建物の中に取り付けてあった無線ルーターを正確に破壊してるんだ。そのルーターは約三十センチ四方の大きさだぞ。配電盤の部分と通信ケーブルを狙ったように撃ってるんだよ。正確に」

 横を歩きながら三木尾の話を聞いていた中村明史は、怪訝な顔をして三木尾の顔を見ていた。

 三木尾善人は岩崎カエラとの通話を続ける。

「だろ? おかしいだろ。それで、さっき俺が『撃ち損ねた』と言った着弾箇所を調べてみたんだ。そしたら、そこに何があったと思う」

 三木尾善人はスマートフォンを持ち替えて、反対の耳に当てると、厳しい口調で言った。

「違う、馬鹿。地下ケーブルだ。ネット通信用の地下ケーブル。それから、オスプレイのオート着陸用のGPS送受信器。夜間でも正確に着陸できるように地下に埋められている奴だ。完全に破壊されていた。GPS送受信器は米軍のモノだから、向こうの軍人さんたちはカンカンだったけどな」

 三木尾善人と中村明史は警視庁ビルの一階エントランスへと入っていった。

 この巨大ビルは中心部分が吹き抜けている。各フロアが輪状に積み重なり、その内側にガラス製のシャフトを昇る高速エレベーターが設置されていた。

 三木尾善人は岩崎と通話をしながら、中村にエレベーターの方を指差して、先にボタンを押しておくように指示する。中村がエレベーターの方に走って行くと、三木尾善人は歩きながら岩崎と通話を続けた。

「ああ、俺もそう思うんだ。大体、もう一体のロボットは、俺達を守るために地対空ミサイルに特攻までしたんだぞ。体を張って俺達を護衛した奴らが、単に暴走したとは思えなくてな」

 並び立つエレベーターシャフトの下で、上にいるエレベーターを見上げている中村を見ながら、三木尾善人は言った。

「まあ、そうかもしれないな。それなら仕方ないさ。故障してましたで、俺も納得がいく」

 立ち止まった三木尾善人は、眉間に皺を寄せて声を上げた。

「あ? なんだって? 自我? SAI五KTシステムがか。どういう事だ」

 岩崎カエラは言った。

『そうなの。まだ確信は持てないのだけど、例のドライブを書き換えたのは、その内のAB〇一八の方なんじゃないかと。田爪健三が偽の科学情報を書き込むなんて事をするはずはないわ。高橋諒一には書き換える事に利益がない』

 三木尾善人は険しい顔で頷く。

「そうだな。同感だ。だが、それで自我に目覚めているってのは、ちょっと飛躍してるんじゃないか」

 岩崎カエラは急に声を押し殺して、小声で言った。

『でも考えてみて。自我に目覚めた機械が、ハイ私は自我に目覚めていますって表明するかしら。もし目覚めていたら、いいえ、目覚めているからこそ、その事を隠すんじゃないかしら』

 スマートフォンを強く耳に押し当てながら、三木尾善人は頷く。

「なるほどな。確かに一理あるな。でも、どうやって書き換えたんだ。NNC社かASKITの奴らが繋いだ時か」

『タイミングはその時でしょうけど。物が違うかもしれない』

 三木尾善人はエレベーターの前の中村を一瞥すると、再び歩き始めた。

「物が? そう言えば、さっき中村が、ドライブは二つあったとか何とか言っていたが、こりゃ、どういう事なんだ?」

『ええ。二〇二一年の仮想空間実験の前に、ドライブは二つ存在したようなの。一つは赤崎教授から田爪博士へ、もう一つは殿所教授から高橋博士へ、それぞれNNC社から支給された物が渡されていた』

「じゃあ、その高橋が持っていた別のドライブが存在するって事か」

『ええ。もしくは存在したのかも。とにかく、当時の詳しい経緯を知る人物から話を聞いてみるわ』

 三木尾善人は再び立ち止まった。

「おい、ちょっと待て、誰だそりゃ」

『当時の事を取材した記者の名前が分かったのよ。ええと、名前は……西井上にしいのうえ長見おさみ。ほら、津田が開いた司時空庁の記者会見、あれ覚えてる?』

「ああ、例のASKIT事件に絡んでた神作や若い女の記者が出席してたやつだろ?」

『そう、そう。その若い女の子。ええと、名前は……』

「春木か。春木陽香」

『うん。その春木って子の横で怒鳴ってた、陰湿で感じの悪い記者が居たでしょ。言葉使いの汚い。たぶん、あの記者さんよ。この頃、テレビにも出ているみたいだけど』

 三木尾善人は首を捻る。

「いや、覚えてねえな。――いや、失礼、覚えてませんなあ」

 言い直した三木尾善人は、真顔で岩崎に忠告した。

「でもな、そういうのは、俺達サツカンの仕事だろ。科警研の研究者の先生が出る幕じゃねえよ。止めときな」

『残念でした。もうアポを取っちゃたし、お店も予約しました。それに、あの手の記者さんは、相手が刑事だっていうだけで、会ってはくれないわよ。国家権力や警察が大嫌いってタイプね。科警研の研究者が研究の為に話を聞きたいっていうから、会ってくれるんだから』

 三木尾善人は眉間に深い皺を刻んだ。

「でもな、そう簡単なヤマじゃないんだぞ。なんか裏に危険なニオイがするしな。とにかく、何処の店だ。時間は」

『教えませーん。南米のお土産でもいただければ、別でしたけどね。それに、優秀なボディーガードも一緒ですから、ご心配なく。それじゃ、西井上さんが書いた当時の記事をメールで送っとくわね。あと、軍用ロボのドライブの解析の方は、ウチの小久保君と下別府さんが総力をあげて分析してくれるだろうから、任せていれば安心だと思うわ。かなり手強そうな相手だけど。それじぁ』

 三木尾善人は慌てて叫んだ。

「おい、ちょっと待て。おい。もしもし。もしもーし」

 スマートフォンを耳から離した三木尾善人は、顰め面でそのスマートフォンを見た。

「ったく、何なんだよ。ドライブが二つ?」

 開いたエレベーターのドアを押さえながら、中村明史が手招きしている。三木尾善人はガラス張りのエレベーターに辟易とした顔で、その入り口へと歩いていった。



                  四

 三木尾善人がガラス製の重いドアを開けると、狭い部屋の中では、石原と村田がそれぞれの仕事をしていた。石原宗太郎は肩の上に顎で電話の受話器を挟みながら、立体パソコンのホログラフィーを動かしている。彼は帰ってきた三木尾と中村に手を上げると、その手で横のプリンターから出てきた書類を掴んで机の上に置き、電話を続けた。席に戻った中村の向かいでは、ウェヴカメラを前にした村田リコが高い声で話している。

「はい。では手配方、宜しくお願いいたします。お忙しい所、ご協力に感謝いたします。失礼致します」

 三木尾善人は、カメラに写らないように気をつけながら、村田の隣の自分の席にそっと座った。

 通信をオフにした村田リコが伸びをしながら言った。

「はああ。やっと終わりました。田爪の親族の警備の手配、完了です」

「おう、ご苦労さん。サッチョウのデータベースの方は……午後だな」

 石原宗太郎が向かいの机から長く太い腕を伸ばして、プリントアウトした書類を三木尾の前に突き出してきた。

「いや、サッチョウの方からこっちのアドレスに送られて来ましたよ。例の外国人の資料です」

 書類を受け取りながら三木尾善人は言う。

「おお、そうか。気が利くな。さっき長官と話をしてたんだよ。じゃあ、リコちゃん、検索の件はキャンセルな」

 横を向いてそう言った三木尾善人は、石原から渡された書類に目を通し始めた。

「どれどれ、ミック・オー・イヴンスキー。本名は、ミハエル・オブライエン・イヴンスキー。妙な名前だな。年齢四十九歳前後……前後? ロシア連邦エカテリンブルク出身。モスクワにて医学を学ぶ」

 中村明史が尋ねた。

「医者なんですか」

 書類を読みながら三木尾善人は答える。

「元は、そうみたいだな。ええと……その後は、ボスニア、コソボ、リトアニアと……要は紛争地域を転々として、最後はアメリカに移住。以後、消息を絶つ。二〇二五年前後から、コンゴ、南アフリカ、フランス、旧アルゼンチンの各国の軍隊に武器購入の仲介役として接触を開始。二〇三〇年以降は追跡が出来ていない。日本への入国履歴は無し。ふーん……」

 石原宗太郎が険しい顔で言う。

「信用できんですね」

 三木尾善人は頷いてから書類を捲った。

「そうだな。――イヴンスキーが関与したものと思われる犯罪。殺人七件、誘拐五件、外患誘致二件、内乱幇助二件、不正アクセス二百四十六件、公文書偽造に公務執行妨害、贈賄、窃盗、等等……きりがねえな。法律って言葉を知らんのか、こいつ」

 石原宗太郎は三木尾が握っている書類を指差す。

「そいつ、指紋も消してるんですね」

 三木尾善人は書類を捲りながら答えた。

「ああ、たぶん顔も変えてるな。この経歴だって、本当だかどうだか」

 三木尾善人は書類を指先で弾いてから、机の上に放り投げた。

 石原宗太郎が更に尋ねる。

「サッチョウの方はどうでしたか」

「ああ。軍と民間企業との競争に負けたくないんだと」

「なんすか、それ」

「西郷が持って消えたドライブだよ。そのバイオ・ドライブを、先に警察で手に入れたいらしい。田爪が書き込んだ量子エネルギープラントや量子銃の設計図が記憶されているかもしれんし、バイオ・ドライブそのものが、SAI五KTの実効支配権を握る鍵だからな。つまり、この国の実権をな」

 石原宗太郎は口髭を触りながら考えた。

「軍と民間企業……って事はストンスロプ社ですか。こいつらが田爪とドライブを探していると、そういう事なんですか。それに、警察も乗ると」

「そうだ」

 三木尾善人が頷くと、石原宗太郎は事務椅子の背凭れに背中を押し当てて身を倒し、頭の後ろで両手を組んだ。

「結局、俺達は権力闘争の片棒を担がされてるって事じゃないですか」

「ま、上の真意はそういう事だ。だが、俺達は警察官だ。量子銃なんて危険な物を持ち歩いている殺人鬼を野放しにはできん。難しい事は抜きにして、奴を捕まえて裁判所に連れて行く。それだけだ」

 組んでいた手を放して体を起こした石原宗太郎は三木尾に尋ねた。

「バイオ・ドライブは? それも、俺達が探すんですか」

「ああ、その件だが。まず、ドライブに保存されていたデータが嘘八百だってことは理解しているな」

 石原宗太郎は隣の中村と顔を見合わせてから頷いた。

「ええ、そのデータ、田爪の作った設計書だと思って、それを基にASKITがいろいろ作ってみたら、量子銃も量子エネルギー製造プラントも、何も動かなかったんですよね」

「そうだ。田爪がトラップとして偽のデータを初めから書き込んでいたのなら話は別だが、俺はどうも、誰かが書き換えたんじゃないかと考えている。そこでだ、今、科警研の岩崎から聞いた話なんだが……」

「失礼するよ」

 ガラス製のドアが開けられ、背広をきちんと着こなした男が入ってきた。聡明そうな顔をした姿勢のよい男は、石原の横を通って三木尾の席の横にくると、立ち止まって三木尾を見据えた。

「君かね。三木尾警部というのは」

 村田リコが小声で三木尾に耳打ちする。

「新原管理官です」

 三木尾善人は椅子から立ち上がり、彼に敬礼した。

「ああ、管理官。失礼しました。着任、ご苦労様です。ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません。特命対策室第五係、係長の三木尾です。本日、南米出張から戻って参りました。係員一同、今後とも、どうぞ宜しくお願いいたします」

 新原海介は腰の後ろで手を組んだまま、つんと澄ました顔で言う。

「うん。話は聞いているよ。危険な地域での捜査、ご苦労だった」

「いえ」

「しかし、あれだな。上司への挨拶は、普通、部下の方から足を運ぶものじゃないかね」

 そっぽを向いてそう言った新原に三木尾善人はもう一度頭を下げた。

「申し訳ございません。お伺いしようと思っていたところでした。ご足労いただき、恐縮であります。後ほど改めて、室長室までご挨拶に伺います」

「いや、もういいよ。だいたい君がどんな人物か分かったからね。それで、捜査の方はどうかね。進みそうかね」

 三木尾善人は机の上に置かれた書類を取って中村に渡しながら、ゆっくりとした口調で答えた。

「はあ、まあ、これから地を固めていくところですので……」

 新原海介は顔を曇らせる。

「のんびりしてもらっては困りますよ。田爪健三は連続殺人の容疑者ですからね。聞いた所によると、オリジナルの量子銃も見つかっていないとか。南米でも確かめたのかね」

「ええ。現地の外務省関係者の話では、見つかっていないという事です」

 新原海介は厳しい顔で三木尾を問い詰めた。

「君はそれを確かめたのかね。えらく早く帰国したようだが」

「いえ。情報は確かな筋からのものですので、信用できるかと」

 三木尾の答えを聞いた新原海介は鼻で笑う。

「ふん。いい加減だね。――まあ、いいでしょう。しかし、量子銃を田爪が国内に持ち込んでいるとしたら大事だ。我々としても、それを前提に網を張った方がいい。それで? 田爪の潜伏場所は割り出せそうなのか」

 三木尾善人は石原と視線を合わせてから答えた。

「今、その作業をしている所です」

 新原海介は四つの机を見回しながら言う。

「まさか、指名手配などを考えてはいないだろうね」

「まさか」

 三木尾の即答に、新原海介は満足そうに頷いた。

「うむ。賢明だ。容疑者の現在の人相が分からん以上、指名手配はできんよなあ。もし手配するとしたら、田爪に唯一接触しているあの永山とか言う男に協力を依頼せねばならんからな。モンタージュ画像の作成に協力してもらうとか、人相書きの為に聞き取りをするとか。困った事に、その永山という男は記者だ。そこからマスコミに情報が漏れる。これは、実にまずいのだよ。警察としては」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて進言した。

「しかし、我々が探すにしても、現在の田爪の人相は知っておく必要があります。永山記者への任意での聞き取りは、避けて通れないかと」

 新原海介は三木尾の胸元に人差し指を突き立てて、声を荒げた。

「それを避けろと言っているんだ。今更、田爪健三が生きている事が世に知れたら、どうなると思っているんだ。警察は信用と権威を失墜する。只でさえ、奴の行為を肯定する馬鹿共も多いのだぞ。逃走幇助する連中も出てくるかもしれん。そうなったら、ますます足取りが掴めなくなるじゃないか。君も治安を守る警察官なら、もっとよく考慮したまえ」

 石原宗太郎が口を挿んだ。

「国内外の政治的影響も考慮すべきだという事ですか」

 新原海介は厳しい顔を石原に向けた。

「誰がそんな事を言った。殺人犯を逮捕するのに政治もクソもあるかね。田爪は、人間を一瞬で消せる特殊な銃器を持っているかもしれんのだぞ。その危険性を良く考えたまえ。私は、公開捜査では逆に犯人検挙に支障が生じると言っているのだ。とにかく、逮捕だよ、逮捕。政治の話は、それからだ!」

 三木尾善人は、興奮する新原を宥めるように言った。

「分かりました。まずは奴の足取りの確認に全力を尽くします。進捗状況は随時、ご報告に伺いますので」

 新原海介は口を引き垂れて頷く。

「うん。そうしてくれたまえ。勝手に暴走されては困るからね」

 そう言い捨てて、新原海介は第五係室から出ていった。

 三木尾善人は息を吐きながら椅子に腰を下ろして脱力する。

「ふう。まいったな……」

 石原宗太郎は眉間に皺を寄せて不平を述べた。

「顔も分からないのに、どうやって探せって言うんだよ。ったく……」

 隣の中村明史がガラスドアの方を見ながら言う。

「自分は机の上で書類を見てるだけだから、いいですよね」

 その向かいの席の村田リコも頬を膨らませていた。

「やっぱり、感じ悪いわよね。なんか嫌」

 三木尾善人は三人の顔を見回して言った。

「こらこら。上司の悪口は、その位にしておけ。それに、満更、彼は間違った事も言っていない。俺達とは、基本的な考え方は同じなのかもしれんぞ」

 石原宗太郎は首を傾げた。

「そうですかね。善さんも随分と丸くなりましたねえ」

 三木尾善人は石原を指差して片笑む。

「歳を重ねれば、お前にも分かるさ。上に行けば、それなりの責任ってものがあるんだ。それに、三十五歳の若さで俺達の管理を任されているんだ。そりゃ、多少の威勢も張るさ。お前らも、いずれは、ああいう管理する立場になるんだぞ。よく見とかんと、いかんぞ」

 隣から村田リコが声を上げる。

「ええ! あの管理官、まだ三十五歳なんですか。なんか、それにしては、おじさーん。石原さんの方が、ずっと若く見えますよね。石原さんって、何歳でしたっけ」

 石原宗太郎は握った両手を口元に添えて肩を上げた。

「きゃ。男の人に歳は訊かないで」

 隣から中村明史が言う。

「三十九歳。もっとオジサン。いたッ」

 石原宗太郎は大きな手で中村の後頭部を叩いた。

 三木尾善人は平然として言う。

「まあ、彼はキャリア組だからな。役職は多少早めにあがるのは当然さ。だが、石原もいずれは管理職になるんだ。警察は縦社会だと割り切って、彼から学べる事は、しっかり学ばんと」

 石原宗太郎は椅子に仰け反って吐き捨てた。

「ケッ。俺は間違ってもあんな七三分けにだけは、しないですけどね。あ、ここにも居た」

 石原に顔を向けられた中村明史が口を尖らせる。

「悪かったですね。七三分けで」

 石原宗太郎は三木尾の顔を見て、話を戻した。

「それで、カエラさんが何か言ってたんですか」

「ん、岩崎か」

「さっきの話の続きですよ」

「ああ、そうだったな。岩崎が言うには、ドライブがもう一つ存在したらしいんだ」

「ドライブがもう一つですか?」

 石原宗太郎は眉を寄せる。三木尾善人は頷いた。

「そうだ。そいつが、今も存在するのかどうかは、まだ分からないそうだが、当初二つ在ったって事は、どこかで入れ替わっている可能性もある」

 中村明史が怪訝な顔で尋ねた。

「って事は、永山が送ったドライブは、どこかにくすぶっている可能性があるという事ですか。田爪の真正なデータを入れたまま」

「ああ。もしくは、何かに使われているか」

 三木尾の答えに中村明史は首を傾げた。

「使うって、あのバイオドライブはAB〇一八と同じDNAを使用して作られているんですよね。他のバイオマシンや無機物との結合は、拒絶反応の問題が有るじゃないですか。その問題を解決できたのは、田爪しかいない……そうか!」

 三木尾善人は頷いた。

「国内にあるバイオドライブが既に何かに使われているとしたら、間違いなく田爪健三が絡んでいる。まだ、何にも使われていないなら、これから何かに使うために、田爪健三を必要とする」

 石原宗太郎が髭を触りながら呟いた。

「なるほど、そのドライブを追えば田爪に当たる確率が高いって事かあ……」

 三木尾善人は頷くと、人差し指を立てた。

「それから、もう一つ。そのAB〇一八とIMUTAだが、そのどちらか、もしくは両方それぞれ、あるいは両方の共同で、自我に目覚めているかもしれんという事だ」

 石原宗太郎が聞き返した。

「自我に? カエラさんがそう言うんですか」

「ああ。実は、俺もちょっと気になってな。だから、あの暴走した軍用ロボットのハードディスクの解析を頼んだんだ」

「じゃあ、善さんは、自分を襲ったその暴走ロボットも自我に目覚めていたと言うんですか。あり得ないですよ。只の故障ですって」

「いや、分からんぞ。だってな、何か変だったんだよ。どうも、ただ単に暴走したようには、俺には見えなかったんだ。それで、もしかしたら、何か手掛かりになるんじゃないかと思ってな。外務省の調整官に『調整』してもらって、米軍から分けてもらったのさ」

 腕組みをして聞いていた中村明史は、しかめ面を三木尾に向けた。

「でも、警部。そんな事は科学技術庁にでも任せとけばいいじゃないですか。田爪健三がバイオドライブに近づく可能性がある、だから、そのバイオドライブを接続して出入力することができるAB〇一八や、それと繋がっているIMUTAについて情報を集めておく必要があるというのは、僕にも分かりますよ。でも、この二機のコンピュータが自我に目覚めているかなんてことは、田爪の捜査と関係ありますかね。要するに、SAI五KTシステムにまで、捜査範囲を広げるってことですよね。無理ですよ。これ以上は手が回りません」

 石原宗太郎も同調した。

「そうですよ。さっきの管理官みたいな奴に気を遣いながら、顔も分からん逃亡犯を追わなきゃならんのですよ。それに、ASKIT事件の資料だけでも、警察データサーバーにあるウチの部署のボックスが満杯になる量ですからね。この上、SAI五KTシステムまで捜査範囲に加えたら、仮に情報収集したとしても、俺ら三人だけでは目を通し終わりませんって。面倒な調査は他の省庁に任せて、結果を教えてもらった方がよくないですか」

 三木尾善人は首を横に振った。

「ところがな、さっきも言ったとおり、この事件はSAI五KTシステムの争奪戦が裏で絡んでるっぽいんだ。いや、少なくとも子越長官は、さっき俺にそう明言した」

 石原宗太郎は髭の下の口を尖らせる。

「じゃあ、『ぽい』じゃなくて、絡んでるんですよね」

「どうだかな。真相は分からんぞ。だが、もし絡んでいるのなら、コンピュータの事は調べておく必要がある。まして自我に目覚めているかもしれんコンピュータなら、なお更だろ」

 少し間を開けた三木尾善人は、顔を見合わせて首を傾げている石原と中村に言った。

「分かんねえのかよ。『容疑者』になるかもれん奴なんだぞ、あのSAI五KTシステムは。奴に『自我』があるのなら、俺たち人間と同じだ。自然人と同視できる。ということは、いつでも捜査対象者になる可能性があるということだ。そいつが、実際にこうして捜査線上に浮上している以上、奴の事を調べるのは当然だろうが。じゃあ、刑事デカなら、どう調べる。どう捜査する。いきなりホンボシをしょっ引くか? いや、まずは、そいつの周辺人物からだろう。特に同類の。それが、お土産のハードディスクだよ」

 三木尾の強引な説明に、中村明史は憮然として首を大きく傾げた。その隣で石原宗太郎が激しく頭を掻いて、強く溜息を吐き捨てる。三木尾善人は片笑みながら続けた。

「まあ、科学技術庁に任せるのはいいが、向こうに渡してからでは、こっちに返してもらうのに手続きが面倒だからな。先にウチで調べて、可能な限り証拠データを取っておいた方がいい。だから、あの暴走ロボットのハードディスクを岩崎に調べてもらったのさ」

 中村明史と石原宗太郎は、二人同時に項垂れた。二人とも、三木尾の強引な一面を知っていた。二人は下を向いたまま、また同時に溜息を吐く。

 三木尾善人は二人の若い刑事に言った。

「まあ、いい。とにかく、俺達は量子銃に注意しながら、田爪を追う。その方法の一つとしてドライブの行方も捜す。だが、この事件に黒幕が居るとしたら、そいつに要注意。そういう事だ」

「黒幕?」

 石原宗太郎が顔を上げ、鋭い視線を三木尾に向けた。三木尾善人は黙って頷く。石原の隣で、今度は中村明史が頭を掻いた。

「なんだか、面倒くさいなあ」

 三木尾善人は少し笑ってから中村に顔を向けた。

「いつもの事じゃないか。で、どうだ、中村。GIESCOの方は」

「ええと。もう少し待ってください。夕方までにはまとめられると思います」

「そうか。石原、真明教の方は分かったか」

「はい。一通りは。基本的な資料だけなら、今でも出せますよ」

「そうか」

 三木尾善人は背後のホワイトボードに目を遣った。依然として顔写真や資料が貼られたままである。中村と石原に目で合図されて隣の三木尾に顔を向けた村田リコは、彼の視線に気付いて椅子から腰を上げた。

「あ、すぐにやります」

 三木尾善人は手を上げる。

「いいよ。昼飯食べてからでいい。なあ石原、中村。そろそろ飯にしようか。リコちゃんもどうだ。一緒に」

「どこに行くんですか」

 村田リコが尋ねると、三木尾善人は腕組みをして考えた。

「そうだな……下の階の『バンバンうどん』。鍋焼きうどんが出る時期だろう。隣の『拳骨蕎麦』でもいい……あら?」

 村田リコは財布を持って歩いて行く。

「遠慮しまーす」

 彼女は背中でそう返事をして、部屋から出て行った。石原宗太郎と中村明史は、顔を見合わせて肩を上げる。三木尾善人は目をパチクリとさせていた。



                  五

「お待たせしました。特製鍋焼きうどんです。はい、こちら大盛り。バンバンいっちゃって下さーい」

 ワイシャツ姿で座る男達の前に、湯気を立てた鉄鍋が煮えたぎる汁の音を鳴らしたまま、半被姿の元気の良い女性によって並べられた。

 警視庁ビルの四十階は、飲食店街になっていた。そこには、和洋中の様々な飲食店が軒先を並べ、大抵の職員は庁舎内で食事を済ませる事が出来た。昔の捜査官の多くは、こうした食事の時間に街に繰り出し、生活の中で情報を集めていくのが常であったが、ビッグデータやネット指紋などの情報証拠の収集と分析が捜査の主流となったこの時代では、多くの捜査官たちは外出して食事をすることを嫌い、庁舎ビル内で食事を済ませたいと願った。しかし、社員食堂のような空間では職員の心理の抑圧になると考えた上層部は、ビルの中腹に民間の飲食店を入れて、ちょっとした飲食街を作ったのである。巨大ビルの四十階は、四十八階までが吹き抜けになっていて、さらに、一階から最上階の百八階までビルの中央を抜ける吹き抜けの周りが人工の緑地公園になっていた。中央吹き抜けから東西南北に伸びた各歩道沿いに五階建てのビルが建ち並び、寿司屋、ラーメン屋、蕎麦屋、ファーストフード、高級フランス料理店など様々な飲食店が立体表示の看板や食品を模した発香模型を店先に並べていた。職員たちはここで食事をし、散歩をし、四十六階から四十八階の間から差し込む日光や風をうけて、束の間の休息を満喫した。しかし、三木尾善人は、ここにあまり来た事がなかった。中央吹き抜けから小さく見える一階ロビーを眺めながら食事をするのが苦手だったという理由もあったが、やはり彼は足で稼ぐ刑事であった。だから、休憩時間もわざわざ官公庁街を離れ、新市街や旧市街、工場地帯といった市民の生活が溢れる場所で食事をし、散策をした。そうやって市民の生活を知り、感覚を掴み、情報にたどり着き、犯人を捕らえてきた。その彼が今日こうして、警視庁ビル内の飲食店街にある、このうどん店で昼食を取る事にしたのには、理由があった。三木尾善人は焦っていた。彼が命令を受けて動き出したのは一週間前の事であったから、事件発覚から二ヶ月以上が経過した現在、彼は明らかに出遅れていた。三木尾善人にとっては、政治的陰謀や他勢力との競争など、どうでもよかった。しかし、危険な銃器を所持した犯人を追う事件の捜査としては、明らかに行動開始が遅過ぎた。それは彼の意思に由来するものではなかったが、それでも彼は、必死に遅れを取り戻そうとしていた。三木尾善人には時間が無かったのである。

「はい。お待ち。ご注文の特製鍋焼きうどんの特製。特別にぬるいのです。ご注文はこれで全部ですね。伝票はここに置いときますよ。ごゆっくり」

 半袖姿の女性は荒っぽく四角いマッチ箱のようなマネーカード読み取り機をテーブルの隅に置いて戻っていく。三木尾善人はそれを自分の傍に動かした。

 石原宗太郎が割り箸を割ると、鍋の蓋を持ち上げた。

「じゃあ、いただきます。すみませんね、善さん。奢って貰っちゃって」

「いや、特命に召集されるなり、いきなりの出張で席を空けちまったし、新係の立ち上げでも、お前らには面倒をかけちまったからな。このくらいは、させてくれ」

「んんーん」

 石原宗太郎はうどんを頬張ったまま手を振った。うどんを飲んだ彼は言う。

「そんな、全然いいですよ。善さんも、捜査で行ってた訳ですし。それより、さっきの話の続きですけど、じゃあ、その西田っていう調整官が、田爪の生存に気付いたんですね」

「ああ、なかなか優秀な諜報員だよ。肝も据わっている」

 中村明史がうどんを掛けた箸を止めた。

「へえー。会ってみたいですね。綺麗な方ですか」

 石原宗太郎が横から言う。

「おまえは中学生か。顔で女を選ぶタイプなの? もしかして」

 職場と同じ並びで座っている二人を見て笑いながら、三木尾善人は言った。

「まあ、確かに美人だったぞ」

「善さんがそう言うってことは、相当に美人だな、こりゃ。ズズズー」

 石原宗太郎はうどんを啜る。

 中村明史は箸に掛けたうどんに息を吹きながら言った。

「そうなんですか。その人が、ニーナ・ラングトンとかイヴンスキーを追ってくれているんですね。だから、こっちは田爪に集中と。あれ、警部、食べないんですか」

「いや、熱いから冷めるまで待つ。それより、石原、真明教は今話してくれた説明で全部か」

「ええ。そうですね。だから、この機会を逃すと南の奴はまた巡回布教とやらに出かけちまうみたいですよ。まあ、どうせ、お布施名目で寄付させた金の回収でしょうけど。ズズズー」

 石原宗太郎はうどんを啜る。

 中村明史は箸の先で半熟の卵の黄身を割って中身を汁に溶かしながら言った。

「やっぱり、その西田さんが言うように、真明教が裏で糸を引いているんですかね」

 三木尾善人は蓋を載せたままの鍋を見つめながら答えた。

「いやあ、どうだかな。彼女も言っていたが、奴らには舞台が立派過ぎると思うんだよ。ストンスロプっていやあ、軍需産業からロボット製造、医療、自動車、鉄鋼、貿易と何でも有りの国際企業だ。方や、それと競っているのは国防軍、それも、正規軍の中でもアジア最強と噂される深紅の旅団レッド・ブリッグだ。これに他国の情報機関も田爪を追っているとなれば、いくら世界中に布教施設を有する巨大宗教団体とはいえ、出る幕ねえんじゃないか。だが、この件に絡んでるのは間違いないんだ。問題は、どう絡んでるかだ。どれ、そろそろ……ズズッ……熱いッ。熱いなあ、まだ……」

 顔を上げた石原宗太郎が言う。

「何を考えてるんですか。善さん」

 蓋を閉めた三木尾善人は顔を顰める。

「だって、仕方がないだろう。熱いんだから。もう少し冷めるのを待つしかねえか」

「だったら鍋焼きうどんを注文しなけりゃいい……って、そうじゃなくて。事件の事ですよ。どうも、単に田爪の逮捕だけを狙ってる訳じゃなさそうなんだよなあ。さっき上で言っていた『黒幕』。あれ、ホントは見当がついてるんじゃないですか」

 石原宗太郎は勘繰った目で三木尾を見た。

 三木尾善人は蓋を載せたままの鍋を見つめながら首を捻った。

「ううん。まだ分からんよ。でもさ、どうも変じゃねえか」

 丁寧にネギを箸で掴んで口に入れていた中村明史が顔を向けた。

「何がです?」

 三木尾善人は中村に顔を向けた。

「田爪瑠香だよ。夫の失踪後、十年間も研究を続けて、AT理論の間違いを修正。それを証明するために自分で実験機に乗り込み、南米に飛ばされた。そんで田爪健三に、間違って殺されちまった」

 中村明史は箸を持った手を下ろした。

「悲劇ですよね。ほんとに。気の毒に……」

 三木尾善人は鍋の蓋に手を掛けて言う。

「でもよ。蓋を開けてみれば……あら、ノビちゃってるんじゃねえか。冷まし過ぎたかな。ズズズー。うん、丁度いい熱さだが、麺がノビちまった。畜生」

 中村と視線を合わせた石原宗太郎が言う。

「――善さん……田爪瑠香の話」

「ああ、そうだった。いや、蓋を開けてみれば、田爪瑠香はストンスロプ社の会長のご令嬢だ。まあ、この頃の報道でみんな知っている事だが、十年前はどうだ。誰もそんな事を知らなかった。一部で報じられてはいたが、たいしたネタじゃないし、実際にそういう扱いだった。親子関係を周囲に知られていないのに、十年も研究するなら、普通、ストンスロプのGIESCOでやらねえか。昭憲田しょうけんた池の縁にあんだけの研究棟を建てているんだ。一部屋くらい都合つくだろ。会長の養女だぞ。それをなんで、ストンスロプと対立していたNNC社の支援金を使って、一人でこっそり研究してたんだ? ていうか、どうして光絵由里子は支援の手を差し伸べなかった。自分の娘に。変だろ、絶対に。その後の展開にしてもそうだ。なんだか、みんなして田爪瑠香を南米に送ろうとしていたように思えねえか?」

 中村明史は思案顔で頷いた。

「そう言われれば、そうですね。光絵会長なら、田爪瑠香の渡航を簡単に止められたはずですもんね」

「それに、実際に渡航した人物達だよ。ああ、これは言ってなかったかな。サッチョウからの情報では、瑠香以外の全員が国税当局からマークされていた人物だそうだ」

 うどんを啜っていた石原宗太郎が咽る。

「ズズズー。ゴホッ。ゴホッ……。全員がマークされてた? 国税から?」

 三木尾善人は周囲を見回して、声を殺した。

「馬鹿。声がでかいよ」

 横から中村明史が小声で言う。

「随分と出来過ぎた話ですね。それって、渡航者の全員がブラックな金を隠し持っていたって事ですよね」

 三木尾善人はしっかりと頷く。

「そうだ。だから、俺は思うんだ。あの犠牲になった渡航者達は皆、誰かにタイムマシンに乗せられたんじゃないかってな。うまく洗脳されて」

 石原宗太郎が眉を寄せた。

「洗脳……まさか、それが真明教の南」

「可能性だよ。可能性。だから石原、後で、おまえが調べた信者のリストと渡航者リストを照合して欲しいんだ。ついでに国税庁にも情報開示をしてもらえると、より正確に分かるがな」

「んあ……どうですかねえ。国税かあ、ハードル高いなあ。田爪を追ってる事は、勿論、これですよね」

 石原宗太郎は唇にそってチャックを閉める仕草をする。

「ああ、そうだ。頑張ってみてくれ。それから中村、お前はGIESCOの方が終わったら、軍の方を調べてくれ。SAI五KTシステムと関わりが深い人物、特に初期の建造段階から関わっている人物をピックアップして欲しい」

 中村明史は眉をハの字に下げた。

「こっちもハードル高いですよね。そんなの、どうやって調べたらいいんです。軍のデータベースなんて入れる訳無いじゃないですか。頼んだって教えてもらえませんし。令状がないと無理ですよ」

 三木尾善人は視線を石原に送る。

「石原。教えてやれ」

 石原宗太郎は中村の肩を叩いた。

「中村君。そういう場合はね、搦手からめてから攻めるのだよ。あんな馬鹿でかいスパコンを建造するには、相当大掛かりな工事が必要だろう。土木、建築、それから機械の搬入と組み立て。って事はさ、警察で手続きしてないはずないだろ」

「警察で?」

 怪訝な顔で首を捻った中村に、石原宗太郎はヒントを出す。

「だってさ、現場には、馬鹿でかいダンプやらクレーン車が通って、重量超過の特殊機材が搬入されたはずだろ。そうすると、いろいろ許認可をとらないといけないでしょ。積載一時超過許可とか、道路占用許可とか、特殊大型車両通行許可とか。申請書が紙が電子申請でされているよね。そこには担当者の氏名が記載されてるんじゃないかなあ」

 中村明史は頷いた。

「ああ、そうか。灯台下暗しですね。なるほど。勉強になりました」

 三木尾善人が知恵を授けた。

「出てきた名前を非常時厳戒令発令時のマニュアルと照合してみろ。正確な部署まで分かるはずだ」

 中村明史はまたキョトンとした顔をした。

「非常時厳戒令の、ですか……」

 石原宗太郎が中村の肩に腕を回す。彼は小声で言った。

「あのね、中村君。ここの新首都に遷都されてから、非常体制時の公安職員の連絡体制が整理されたでしょ。警察と軍と防災隊の連絡体制が。そういう時って、大事なものから優先的に警備するんじゃないかなあ、普通。SAI五KTシステムって、この国にとって大事な物だよねえ」

 中村明史は目を大きくする。

「そうか。そういう時って、一番深く関係している人間に最優先で連絡が行くはずですもんね」

 三木尾善人は付け足した。

「あの緊急連絡スキームは、リアルタイムで更新されている。という事は、各部署は連絡窓口として、移動がはげしい末端職員や中間管理職の人間を当てるはずが無い。あと、警備責任者からも上に辿っていけ。どこかで連絡ラインが重なるか、集中するはずだ。そいつが、ビンゴ。つまり、俺達の競争相手だ」

「なるほど。電子メモしとこ……」

 中村明史は背広の内ポケットから電子メモ帳を取り出して入力し始めた。

 石原宗太郎は再びうどんを啜りながら、目線を三木尾に向ける。

「それにしても善さん、金曜に戻られて、土日は何してたんです? あ、まあ、いいんですけどね。お疲れだったんでしょうから。死にかけた訳だし」

 三木尾善人は、のびた麺を挟んだ箸を止めて、石原に視線を向けた。

「お前、面白がってねえか……」

 そして箸を下ろす。

「宮崎からこっちに来る間に、爆心地に寄って来たんだ。それから、田爪夫婦の墓にも寄ってきたよ」

 電子メモ帳を仕舞いながら中村明史が尋ねた。

「何か手掛かりがありましたか」

 三木尾善人はうどんを口に入れながら手を振る。緩くなったうどんを不味そうに飲み込んだ彼は、もう一度首を横に振った。

「いや、なにも。誰かが置いた玩具の帆船模型が見つかったくらいだ。墓の花も枯れていたよ。おそらく、先月の瑠香の命日から誰も来てない。田爪が入国していたら、真っ先に来ると思ってたんだが、どうやら墓参りするような奴じゃなかったようだ。あ、そうだ。一応、サンプルを採取しといたんだ。枯れた墓花の表皮。触った人間のタンパク質が残ってるかもしれん。後で渡すから、そっちだけ先に鑑識にかけといてくれるか」

 石原宗太郎はうどんを咥えたまま動きを止める。彼は小声で言った。

「それ、いいんですか……」

「いいんだよ」

 三木尾善人は冷めたうどんを不味そうに啜った。

 中村明史が二人の顔を交互に見ながら言う。

「とすると、命日に墓参りしたのは、光絵由里子ですかね。そういえば、明日ですよね。田爪瑠香の祥月命日」

 お絞りで口を拭いた三木尾善人が頷いた。

「ああ。死んだのが六月五日だったから、明日、十月五日だな」

「張りますか」

 水を飲んだ三木尾善人は眉を寄せた。

「うーん。田爪が現れるとは思えんが……、まあ一応、張ってみるか。もし、光絵会長がそこに来たとしても、話しくらい聞けるだろうからな」

 中村明史は勇み顔で尋ねた。

「何時から始めますか。午前中ですよね」

 三木尾善人はうどんを啜りながら答える。

「そう、遠くないからな。光絵会長は常識人だろうから、墓参りは午前中だと思うが。七時過ぎにこっちを出るか。そしたら、八時前には現地に着くだろう。石原、一応、鑑識から簡易鑑識キットを借りといてくれ」

「了解です」

 三木尾善人は口に運び掛けた箸を止めて、事務連絡を付け加えた。

「ああ、そうだ、もしかしたら、今日中に新型の防弾チョッキが届くかもしれん。それも着とけ。一応な」

 石原宗太郎は皮肉たっぷりに言う。

「有り難いですね。光線銃対応の反射チョッキなら、もっと良かったんですけどね。どうせ違うんでしょ。まあ、贅沢は言いません。当たっても、分子まで細々になって消し飛ぶだけですからね」

 再びうどんを啜る石原を一瞥して、中村明史は三木尾に顔を向けた。

「警部は、午後はどうされるんですか」

「まず、お前が作ってくれたASKIT事件のファイルを読み込んでみるよ。それから、少し気になることも、まだあるからな。調べてみる。それから頭の中の整理だ」

 そう答えた三木尾善人は、冷めた鍋焼きうどんを不味そうに食べ続けた。



                  六

 第五係の捜査室には三人の刑事たちが席についていた。村田リコは居ない。三木尾善人は中村が作成した資料に熱心に目を通していた。その向かいの席で石原宗太郎が腕組みをして椅子に凭れたまま、眉間に皺を寄せて目を閉じている。隣の席の中村明史が机の上に浮いているホログラフィー文書に目を向けながら言った。

「警部。ちょっと面白い事が分かりました」

 三木尾善人は書類に目を通しながら答える。

「なんだ」

 中村明史はホログラフィー文書に顔を向けたまま報告した。

「GIESCOの事を調べていて分かったんですが、例のバイオ・コンピュータの開発、ストンスロプ社も一枚噛んでいる可能性がありますね」

 三木尾善人が顔を上げる。

「ん? どうしてだ。AB〇一八を開発したNNC社とストンスロプ社はライバル関係にあったんだろ」

 中村明史は空中の文書を読みながら答えた。

「それが、ストンスロプ社は二〇一六年に、NNC社に実験用の幹細胞を提供しているんですよ。その二年後にNNC社はAB〇一八を完成させています」

 背を丸めて机の上の書類を読んでいた三木尾善人は、眉間に皺を寄せて体を起こした。

「幹細胞を? 妙だな。どういう事情だ」

 捜査特権コードを使用して新首都地方裁判所特許訴訟部のデータサーバーにアクセスしていた中村明史は、閲覧している訴訟資料の概略を三木尾に伝えた。

「当時GIESCOが所有していた生体アンドロイド関係の特許について、日本国内に巨大バイオ・コンピュータを建造したいと目論んでいたNNC社が目を付けて、特許権侵害を理由に訴訟を提起してきたようなんです。その和解の内容として、GIESCO側が安定培養に成功していた高速増殖型幹細胞技術を丸ごと、NNC社側に提供したようです。サンプルの高速増殖型幹細胞と一緒に」

 三木尾善人は腕組みをして椅子の背凭れに背中を当てる。

「まあ、NNC社を含むASKITっていう連中は、特許マフィアみたいな奴らだからな。あの二社が、その手の攻防戦を重ねていたのは分かる……が、細胞技術を丸ごとってのは、随分と気前が良過ぎるんじゃないか」

 中村明史は訴訟資料を見据えたまま頷いた。

「ですね。結局、この件以来、GIESCOはバイオ関係から手を引いています。NNC社にしてみれば、それが狙いだったのかもしれませんが。ただ、ストンスロプ社側にも優先的に守りたいものがあったのかもしれません」

「と言うと?」

「裁判が第一回口頭弁論期日で終結しているんです。『訴訟上の和解』の成立で」

 三木尾善人は眉間に更に深い皺を刻んだ。

「和解期日を重ねる事も無く、初回でいきなり和解成立か。裁判所の外で話をしていたという事だな。しかも、被告側が急いでいた。口頭弁論で証拠調べが進んで、公の法廷で公開されてはマズイ事情があったから、高速増殖型幹細胞技術を捨てても早期に裁判を終わらせる必要があったという事か」

「ええ、たぶん。人工細胞や特殊細胞関係の研究は、全国の大学や研究所でもやっていますから、別の開発事業を守る事を優先させたのではないでしょうか」

 三木尾善人は組んでいた腕を解いて、中村を指差した。

「まさか、その『別の開発事業』ってのが、例の生体型ヒューマノイドロボットって奴か」

 中村明史は三木尾に顔を向けて頷く。

「はい。いわゆる生体アンドロイドですが、これは義手や義足、人工骨格、人工臓器、人工皮膚などの医療用最先端技術を結集して作られるものです。勿論、制御の為の高性能コンピュータ技術も」

「つまり『脳』だな」

「ええ。当時、既にフォトニックフラクタル技術を応用した高性能コンピュータの開発に着手していたGIESCOは、その部分に生体技術を用いなくても、その高性能コンピュータの小型化にさえ成功すれば、生体アンドロイドの制御は可能であると考えたのかもしれません。その他の皮膚や筋肉は、当時の人工化合物を用いた技術でも十分な物が作れますから、もしかしたら、これ以上、生体アンドロイドの開発にNNC社やASKITが首を突っ込むのを防ぐ為に、細胞技術を犠牲にして急いで和解したのではないでしょうか。生体アンドロイドの製造は、国策としては、多分野の諸問題に解決の糸口を作る重要政策でしょうから」

 三木尾善人は再び腕組みをした。

「なるほどな。辛島総理肝いりの政策は、彼が総理の椅子に付くずっと前から、練りに練られた政策だったという訳か」

 少し考えた三木尾善人は、指示を待っている中村に言った。

「分かった。おまえの推論として別立てにして、報告書にまとめてくれ。俺も、もう少し考えてみるよ」

「分かりました」

「それから、石原」

「……」

 腕組みをして顰め面で腕組みをしている石原を見ながら、三木尾善人は言った。

「中村、起こせ」

 中村明史はティッシュの箱で石原の頭を叩く。

「イテッ。――んだ、何すんだ、コラッ」

 頭を押さえて睨みつける石原を指差しながら、中村明史は言った。

「寝てましたよ」

「寝てねえよ。考えてたんだよ」

 言い訳する石原に三木尾善人が言う。

「目ヤニが付いてるぞ」

「あ、えっ、マジですか?」

 顔を手で拭いている石原に、三木尾善人は呆れ顔で言った。

「真明教の方な。あれ、信者リストをもう一度見せてくれ」

「あ、善さんのパソコンに送ってありますよ。ふあ……」

 石原宗太郎は大きく欠伸あくびを漏らした。

 三木尾善人は旧式パソコンに繋いだマウスを動かして、薄型液晶モニターを覗きながら呟く。

「ああ、これか……」

 石原宗太郎は中村に言った。

「お前な。寝てる先輩を起こす時はだな、こう優しく手を添えてから、ぐっと押すんだよ。わかったか?」

「それじゃ、お笑い芸人が先輩芸人にツッコミを入れる時と同じじゃないですか」

 中村明史は口を尖らせる。

 三木尾善人はモニターの上に額を出して石原に言った。

「お笑い芸人よりも、国税には連絡を入れたのか」

「あ、これからです。タイミングを待ってたんですよ。タイミングを」

「タイミング?」

 聞き返した中村に大きく頷いて見せた石原宗太郎は、上着のポケットから取り出したウェアフォンを操作し始めた。

「そんじゃ、そろそろ掛けてみますか……」

 石原宗太郎はウェアフォンを耳に当てる。

「あ、もしもし? ああ、俺俺。お疲れちゃん。お久しのぶりぶり。あのさ、今夜ちょっと飲みに行こうぜ。そうそう……」

 眉間に皺を寄せて石原を眺めている中村に三木尾善人が尋ねた。

「リコちゃんはどうした? まだ昼飯か」

「事務官向けの定期の職場マナー講習だそうです。職場での振舞い方とか話し方とかいろいろ」

 三木尾善人は顰めて口を開けた。

「あ? それ、親が教える事だろ。現場の職員に仕事ホッポリ出させてまで、やるべき事か?」

 中村明史は事知り顔で言った。

「その親が、そのまた親から教わってないんですから、教えられないですよ」

 首を傾げた三木尾善人に、中村明史は言ってみた。

「でも、歴史の授業で習いましたけど、黒船が来た頃の日本って、世界一礼儀正しい国だと言われたんですよね。それが、なんで、こうなっちゃったんですかね」

「親のまた親の、その親は、多くが戦争で死んでしまってるからな。俺達の親の世代は、家庭や社会で躾を受ける機会が少なかったのかもしれんな。実際、見ていてそう思うよ。だから、こんなクソみたいな世の中に、俺達から下の世代は上書きを続けていかにゃならん訳だ」

 中村明史は怪訝な顔で言った。

「じゃあ、警部たちの親の世代に問題が在ったという事ですか? 団塊世代でしたっけ」

 三木尾善人は首を横に振る。

「いや、そこまでは言っていない。ただ、戦争ってものが奪うのは、人の命や物だけじゃないって事さ。それに、原因は一概にそれだけじゃないかもしれんぞ。戦争以下の下衆な事を、俺達は何かやっているのかもしれん。日常生活の中でな」

 中村明史は立体パソコンの上のホログラフィーに視線を戻して呟いた。

「下衆な事ですか……社会人としての常識は持てるように、努力しているんですけどね。ネットでいろいろな作法講座を見たりとか。何か足りないんですかね」

 三木尾善人は額を指先で掻いた。

「そういう事じゃないんだが……まあ、いいや。そもそも、その言葉の使い方にも原因があるのかもな。『社会』なんていう明治時代の造語を使うから、実感できないんだよ。『世間』って言えばいいんだ。そうしたら、マナー講習なんて必要なくなるかもな」

 中村明史は眉を寄せて三木尾の顔を見ながら、暫らく考えていた。すると隣で、ウェアフォンでの通話を終えた石原宗太郎が大きくガッツポーズをした。

「よーし。第一関門、突破あ。バッチリです、善さん。国税、楽勝。よーし、バッチ来ーい!」

 三木尾善人は中村に視線を向けて言う。

「いや……やっぱり、講習も必要かもな」

 こっそり頷いた中村明史は、隣の石原に尋ねた。

「どうだったんです? 国税」

「これからだよ。これから。今夜、国税専門官のダチと飲み会だ。ベロンベロンに飲ませて、聞き出してやる」

 中村明史は眉を寄せる。

「月曜から飲み会ですか。どんな捜査手法なんです、それ」

 三木尾善人はパソコンを覗きながら石原に言った。

「明日、朝早いからな。気をつけろよ」

 石原宗太郎は敬礼して見せた。

「了解であります」

 中村明史は呆れ顔で言う。

「楽しそうですねえ」

 石原宗太郎は顔を無理に顰めた。

「馬鹿。楽しいわけ無いだろ。仕事だ、仕事。相手もかなりの酒豪だからな。よっしゃあ、掛かって来いやあ」

 石原宗太郎は拳を高々と上げた。

 三木尾善人は目頭を掴んで頭を何度も振っていた。



                  六

 次の日の朝、三木尾善人は日の光を浴びながら、車内で双眼鏡を覗いていた。車は高台の車道の脇の雑木林に隠れるように停まっている。雑木林の下は崖になっていて、その先には広大な墓地が広がっていた。綺麗に整理して区画された狭地の上に朝日を背にして並べられた御影石の塔の列は、日光を反射して白く光り、その輪郭をぼかしている。

 運転席に座って双眼鏡を覗いていた三木尾善人は、右耳に入れた通信機を人差し指で押さえて言った。

「こちらマル一。墓石に朝日が反射して、よく見えねえな。マル二、どうだ」

 墓地の隅の木陰から、石原宗太郎が耳に人差し指を当てながら答えた。

「うう……頭イテえ……ああ、こちらマル二。墓参りしているのは、現在三家族、七名。いずれも、マルヒの家の墓とは違う墓に向かっていますので、無関係な一般人と思われます。どうぞ」

 三木尾善人は双眼鏡の向きを変える。

「マル一、了解。ああ、こっちも確認した。あれは、関係ねえな。マル三、花はどうだ。変えられているか」

 柄杓を挿した小桶を提げて墓地内の通路を歩き回っていた中村明史が答えた。

「こちらマル三。花は新しいものに変えられていました。線香も火が残っています。なお、マルヒらしき者は周囲に見当たりません。どうぞ」

 三木尾善人はハンドルを軽く叩いてから言った。

「くそ。一足遅かったか。マルヒの墓の前に集合だ。通信終わり。オーバー」

 三木尾善人は双眼鏡を助手席の上に放ると、耳から通信機を外して、運転席のドアを開けた。

 墓場から離れた森の中で、地表に積もった枯葉の中に身を隠した男が、狙撃用のライフル銃を伏射態勢で構えている。ライフル銃のスコープを覗きながら、男は顎の下のマイクに向かって言った。

「こちらアルファー・フォー。ターゲット、移動します」

 彼のイヤホンに、雑音を交えた声が返ってくる。

『アルファー・ワン、了解。作戦続行。アルファー・スリー、フォー、ファイブ、引き続きターゲットを捕捉せよ』

「アルファー・フォー、了解」

 集まった三人の刑事たちは、周囲の墓よりも明らかに小さな墓石の前で立っていた。その小さな墓石を見下ろしながら、銀色のスーツケースを手に持った石原宗太郎が言う。

「えらく小さい墓ですね……」

 三木尾善人は屈んで墓石に手を合わせると、腰を押さえてゆっくりと立ち上がりながら言った。

「あれだけの事件を起こしたんだ。堂々としたモノは建てられんさ」

 周りを見回しながら、中村明史が言った。

「せめて、田爪瑠香の分だけ別に出来なかったんですかね。あの辺とか、まだ土地が空いているみたいですけど」

 三木尾善人が足下の小さな墓を眺めながら言った。

「墓場まで共に。それが夫婦ってやつさ。おまえら独身者には分からんだろうがな。だが、皮肉な事に瑠香も田爪も、ここに遺骨は入っていない」

 スーツケースを足下に置いた石原宗太郎が、立ったまま墓石に手を合わせてから言う。

「なんか、悲しくなりますね」

 三木尾善人は石原の背中を軽く叩いた。

「よし。始めるぞ」

 石原宗太郎は、スーツケースを開けると、中から鑑識用の器具を取り出し、一つずつ三木尾に渡した。三木尾善人は、受け取ったピンセットで墓に手向けられた花の葉や、茎の表皮を採取し始めた。中村明史は指紋撮影用のレーザースキャン・カメラで花筒や線香立て、納骨庫の扉付近を念入りに撮影する。偏光レンズを装着した石原宗太郎は、中村がカメラの液晶モニターを見ながら指差した箇所の地表から、ピンセットで何かを採取していった。

 手際よく一通りの作業を終えた刑事たちは、機材を片付け始めた。テキパキと片付けていく石原の横で、中村明史はカメラを持って立ったまま向こうを眺めている。

 石原宗太郎が中村の尻を軽く叩いて言った。

「おい、なにボサッとしてるんだ。早く指紋撮影カメラを渡せ。片付かねえだろ」

「ああ、すみません。それより、先輩、あれ……」

 中村明史は、目線で向こうの方を指し示した。石原宗太郎は中村の視線の先を見る。そこから離れた墓の前で、グレーのスーツを着た小柄な男が墓石に手を合わせていた。

 三木尾善人は二人の視線に気付き、その先に顔を向けて、その男に注目した。その男は大きな耳と剥き出したような大きな目をしていた。左手首には、防水性と高耐久性を兼ね備えた頑丈そうな腕時計を内側に向けて巻いている。

 中村明史が小声で言った。

「あのスーツの男、さっきからずっと、あそこに立ってますよね。拝むにしては、長くないですか」

 石原宗太郎が答えた。

「ああ、そうだな。俺達が来た時から居るな。それに、墓参りにしては、花も線香も持ってない」

「まさか、田爪ですか」

 石原宗太郎は上着の内側に手を入れて拳銃を出そうとする。その手を三木尾善人が掴んだ。

「焦るな。奴にしては若過ぎる。それに、あの腕時計。おまえなら分かるだろ。あいつ、軍人だな」

 三木尾と目を合わせた石原宗太郎は、片眉を上げて小さく頷いた。

 三木尾善人も小さく頷いて返すと、大きな声で言った。

「よし。じゃあ、そろそろ帰るぞ」

 三木尾善人は狭い通路を男が立っている墓の方に歩いていく。彼に続いて、スーツケースを左肩に担いだ石原宗太郎と柄杓を挿した桶を提げた中村明史が歩いていった。三人は男がいる墓の前を通りながら、こちらを向いたその男に軽く会釈をした。その小柄な男は、ギョロリとした目を無理に細めて、深々とお辞儀をして返した。三人はそのまま通り過ぎ、車に戻った。中村が運転席に座り、三木尾は助手席に座る。石原宗太郎は後部座席に座った。中村明史が電気エンジンをスタートさせると、三木尾は振り向いて石原に尋ねた。

「撮れたか」

 石原宗太郎は、左手を開いて中の小型のカメラを三木尾に見せながら答えた。

「はい。バッチリです」

 三人を乗せて墓地の駐車場から出ていく黒いAI自動車を、ライフル銃のスコープが捉えていた。スコープを覗いている迷彩服の男が通信する。

「こちらアルファー・フォー。ターゲットが攻撃可能範囲より離脱する」

『アルファー・ワン、了解。警戒態勢は現状を維持。アルファー・スリー、フォー、ファイブ、現在地にて哨戒継続』

『アルファー・フォー、了解』

『アルファー・ツー、ターゲットの顔は撮影できたか』

 グレーのスーツ姿の男は、大きな耳を押さえながら、ほくそ笑んで返信した。

「こちらアルファー・ツー。撮影は成功。三人とも綺麗に撮れました。ヒヒヒ」

 彼の耳の通信機に返事が届く。

『よろしい、アルファー・ツー。巣穴まで戻れ』

 グレーのスーツの男は、走り去る黒い覆面パトカーを大きな目で追いながら、薄っすらと笑みを浮かべていた。



                  七

 三木尾善人は、高い大きなビルを見上げていた。そこへ走り寄って来た中村に、三木尾の隣に立っていた石原宗太郎が尋ねた。

「どうだ? リコちゃんは、やってくれるって?」

 中村明史は、口を尖らせて言った。

「やらせますよ。仕事なんだから。さっきの指紋撮影カメラのデータを鑑識に回す事と、あのサル顔の男の顔写真のデータから人物を割り出す事だけじゃないですか。このくらいは、やってもらいますよ」

「まあ、優しくお願いしとけよ」

 三木尾善人は一言だけ中村に忠告して、そのビルの中に入って行く。

「しとけよ」

 石原宗太郎が大きな手で中村の肩を叩いてから、三木尾に続いた。

「なーんで、リコちゃんだけ特別扱いするかな。不公平だなあ」

 中村明史は口を尖らせて、二人の後に追いかけて行った。

 ビルの中の広く豪勢なエントランスを歩きながら、中村明史は腿を叩いた。

「しまったああ。リコちゃん、髪の毛を切ってたんだったあ。カエラさんに教えてもらったのに、褒めるの忘れてたああ」

 中村を一瞥した石原宗太郎は、首を一傾げしてから歩いていく。その先を、三木尾善人が険しい顔で歩いていた。

 ストンスロプ社ビルの一階エントランスは広かった。中央には大理石で囲まれた円形の池が設けられている。三木尾善人は受付カウンターの所まで行くと、その中に座っている三人の受付嬢の名札を確認しながら、彼女たちに話しかけた。

「ええと、桑野くわの範子のりこさんに新中にいなか陽子ようこさん、石塚いしづか美恵みえさんね。会長さんにお目にかかりたいんだけど、どうしたらいいかな」

 桑野範子が毅然と答えた。

「あの、どちら様でしょうか」

 三人の刑事たちは上着から黒い皮製のケースを取り出すと、一斉にそれを開いて見せた。

 警察バッジを確認した石塚美恵が、落ち着いた口調で尋ねた。

「ご予約はなさっていますか」

 三木尾善人は首を横に振る。

 石塚美恵は、少し攻撃的な口調で言った。

「それでしたら、ご予約をなさってからにしていただけますか。会長は多忙ですので、ご予約の無い面会には応じられません」

 三木尾善人は石塚を見据えて言う。

「そうかな。次に俺達が予約無しで来る時には、もっと大勢で来る事になるぜ。令状を持って。ま、これを見れば、会長も走って降りてくるんじゃないか」

 三木尾善人は石塚に名刺を渡した。

「ほら、お前たちも」

 三木尾に促され、石原宗太郎は新中に、中村明史は桑野に、それぞれ名刺を渡した。

 名刺を受け取った桑野範子は、それに目を通すとすぐに顔を上げ、今度は笑顔で答えた。

「少々お待ちください」

 そして、三人の女性達は、椅子を回して刑事たちに背を向けると、何やら打ち合わせ始めた。

「どうするけ? 捜査一課だってよ。そうさいっか」

「それより、あの髭の人、カッコ良くない?」

「この名刺、秘書室に、すぐに持っていった方がいいのかな?」

「勿の論よ。すぐに行った方が、いいに決まっちょるがね。時間を空けると、この前みたいに、また小杉さんに怒られる事は、分かっちょるが」

「ええ、それ嫌。小杉さんって、怒ると恐いよね。昭和のお父さんみたいだがね」

「そうそう。それに、なんか気持ち悪い。会長にベッタリ過ぎだし」

「そんな事より、どげんすっと? スキャンして社内メールで送るけ? それとも、私の美声での電話やろか?」

「だから、それでこの前は怒られたんでしょ。横着せずに直に持って来いって。小杉さん、昔の人だから、そういうとこ、うるさいわあ」

「そうそう。仕事を怠けるなとか、人間らしく体を動かせとか、昔の人はもっと手足を動かしたとか、うるさいよね。私は昔の人じゃないって」

「でしょ。しかも、そこからが大変よね。関東大震災に始まって、太平洋戦争、阪神淡路大震災、東北地方津波大震災ときて、富士山噴火震災、旧首都大震災まで当時の人たちの苦労話が延々と続くからね。長いよねー。細かいし。話がリアル過ぎて、夜寝る時に夢に出てくるっちゃが。マジで」

「どげんかせんといかんね。これは」

「うーん。あの長い説教を回避する為には、やっぱり『手渡し』しかないよね」

「えー。九十階でしょ。だるい。誰が持って行く?」

「やっぱり、この中で一番運動不足の人が行くべきじゃない?」

「ふふふ。誰やろか、それは。やっぱり、日頃の不摂生は外から見れば、すぐに分かるからねえ」

 並んでいる三人の女性のやや丸い背中は緊張しているように見えた。そして、石塚美恵が新中に三木尾の名刺を渡した。すかさず桑野範子も中村の名刺を新中に渡す。さらに、新中の左右の二人の女性は、口を揃えて言った。

「ごもっともです。大将!」

 左右の二人から名刺を受け取った新中陽子は、反論した。

「こら待て。『ごもっとも』じゃないが。大将って、どういうこつか。なんで私け? これけ? この腹け? 違うっちゃが。これは人生が詰まってるだけじゃが。こりゃ」

 桑野範子と石塚美恵は、左右から黙って新中陽子に冷ややかな視線を送っていた。

 新中陽子は、観念して言った。

「そうけ。私が行くのけ。マジけ。でも、上の階の低い気圧じゃ、この腹がもっと膨らむかもよ。知らんよ。ボーンってなるかもよ。どうする?」

「分かったから、はよ行かんね!」

 小声で言いつけた桑野範子を余所に、石塚美恵は椅子を回し、こちらを向いた。刑事たちに対して笑顔を作ってから作り声で言う。

「どうぞ、あちらにお掛けになって、お待ち下さいませ」

 桑野範子も無理に高い声を出して言った。

「只今、担当の者が連絡して参りますので。少々お待ち下さい」

 満面の笑みを作る同郷の二人から、カウンターの下でふくらはぎを蹴られた新中陽子は、刑事たちに一度笑顔を見せると、三枚の名刺を持って従業員用のエレベーターホールの方に駆けて行った。途中、片足のハイヒールをくじくと、その脚を引きずりながら、奥の方へと消えていく。

 三人の会話を全て聞いていた刑事たちは、呆れた様子で顔を見合わせると、その場から離れた。壁際に置かれた応接ソファーまで移動した刑事たちは、そこに疲れたように腰を下ろす。三木尾善人は、ソファーの背当てに両肘を乗せると、足を組んで背当てに凭れた。大きく開いたガンクラブチェックの上着から、銀色のベレッタが覗いている。向かいのソファーで壁を背にして座っていた石原宗太郎が頭を前に出し、軽く咳払いをしてから、小声で三木尾に言った。

「善さん。銃が見えてます」

 三木尾善人は、遠くの方でこちらを見てヒソヒソと話している他の来客に視線を向けると、急いで上着を整えて銃を隠した。彼は溜め息を吐いて言う。

「はあ。さっきの墓から田爪の指紋でも出てくれば、仕事はだいぶ楽なんだがな。たぶん出ねえだろうな。――石原、落ちていた毛髪は見つけたんだろ」

「ええ。あとは、その毛髪の毛根から検出されたタンパク質と、善さんが一昨日採取した枯れた菊の表皮、今朝採取した墓花の茎の表皮のそれぞれに付着した超微量皮膚片のタンパク質が全て一致すれば、一ヶ月前に墓に来た人物と今朝墓に来た人物が同一人物だって事だけは、一応の疎明ができますね」

「まあ、たぶん会長さんのモノだろうな。今日、指紋とDNA採取でもさせてくれれば、一発なんだが……駄目だろうなあ」

 三木尾善人は頭を掻いた。

 三木尾の隣に座っている中村明史が尋ねる。

「バイオ・ドライブの方は、何か分かりましたか」

「いや。さっぱりだ。岩崎から送られた西井上っていうゴロツキ記者が書いた昔の記事も、どうも客観性が無くて信用ならん」

 中村明史は壁の方を見ながら言った。

「当時、バイオドライブが二つ存在した事は、間違いは無いんですよね」

「ああ。それは確かなようだ。と言っても、そう断言できるだけの明確な証拠がある訳じゃ無いんだがな。岩崎の所にある赤崎教授と殿所教授の研究日誌には記載があるらしい。それと、西井上の記事の印象としても、まあ、その点は間違いないだろう」

 石原宗太郎が尋ねた。

「裏取りをしてみますか?」

「いや、そんな時間は無い」

 そう答えた三木尾善人は、背凭れから背中を離すと、身を前に乗り出した。

「そんで、ちょっと気になってる事があるんだが、石原、おまえ、交通課に知り合いは居るか」

「は? ええ、まあ。同期は沢山いますけど。何を調べるんです?」

「二〇〇三年に、田爪瑠香の両親が巻き込まれた交通事故だ。中村の方は、戻り次第すぐに事故証明書を取り寄せてくれ。交通課に頼めば全国のが取れるだろ」

「了解です」

 石原宗太郎は自分の顔を指差した。

「あれ、じゃあ、俺は何すればいいんですか」

「お前には、現地の県警から捜査記録を取り寄せて欲しいんだよ。事故の細かな状況が知りたい。正式なものじゃなくてもいいさ。言ってる意味は分かるな。とにかく、当時の事故現場に立った警官の作った記録が見たいんだ。手配してくれるか」

 石原宗太郎は三木尾の目を見て頷いた。

「分かりました。隣の県ですからね、交流はあると思いますから、つてを当たってみます」

「ずいぶんと時間が経っちまっているが、どうしても確かめたい事があるんだ。頼むな」

 そう言うと、三木尾善人は隣の中村に顔を向けた。

「なあ、中村。そういえば、ここは創業百十五年だったかな」

「ええ。正確には百十四年と半年って事になりますね。一九二四年の四月に設立されています。当時の商号は石坂商会。光絵慎二郎が石材の販売からスタートして、合金製造、機械部品、自動車、エレクトロニクス、医療、ロボットと広げていったみたいですね」

 石原宗太郎は感心した顔で中村を見て言った。

「へえ。おまえ、あの分厚い資料を暗記してんの? 成長したね」

「いえ、先輩の後ろに書いてあります。社史の概略」

 中村明史は石原の後ろの少し上の方を指差した。石原宗太郎は振り向く。壁の上の方にはストンスロプ社の社史の年表を掘り込んだ大きな石版が貼られていた。

 三木尾善人はその年表を見上げながら言う。

「バブル崩壊後の不況も、リーマンショックも、その後の第二次大恐慌も全てうまく乗り切ったんだよな」

 中村明史も年表を見上げながら答えた。

「軍需産業部門が強いですからね。安定はしているみたいです。ただ、昨今の経営はかなり厳しいみたいですよ。例のタイムマシンの研究事業に巨額の投資をしておきながら、大爆発以来、手を引いてしまったのがネックになってるみたいですね。それを取り返そうと、新型の軍用輸送機の開発やら戦闘用ロボットの開発やらに躍起になっているようで。公開されている財務諸表を取り寄せてみましたが、キャッシュフローで見た限りでは、相当に赤字が膨らんでいるみたいです」

 三木尾善人は中村の方に顔を向けた。

「新型のアンドロイド開発も請け負ってるって噂だが、本当か」

「例の生体型ヒューマノイドロボット製造計画ですよね。政府は計画を表明して、国営企業設立の法整備と予算計上を済ませていますが、試作品に成功したというのは噂だけで、どうも確かな情報じゃないようです。その外注先がここかどうかも、まったくの極秘扱いで公表されてませんし」

 三木尾善人は片笑んだ。

「だろうな。政府の事業計画を事前に民間企業に洩らしていたって事になれば、まずいもんな。まして、それが総理の熱心な支持者となれば、地検の特捜部が動き出すかもしれんし。鉢巻つけて」

 中村明史は自分の鼻先を指差した。

「でも、僕、調べましたよ。昨日、先輩に教えてもらった方法で」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて石原と顔を見合わせる。石原宗太郎は両肩を上げた。

 中村明史は淡々と話した。

「厚労省と経産省の薬剤購入申請のリストを見てみたんです」

「よくそんな物を見れたな」

 驚いた顔をしている三木尾に中村明史は小声で言った。

「いや、ウチの警備課の生物兵器テロ対策チームのデータベースを、ちょっと覗いたんです。そこの警戒先リストを見たんですよ。あそこ、あっちこっちから薬剤関係の取引資料を入手してますからね」

 三木尾善人は口を開けて大きく頷いて、石原の方に視線を送った。石原宗太郎は口を引き垂れて、再度両肩を上げる。

 中村明史は報告を続けた。

「そしたら、やっぱりここの名前が出てました。ちょうど五、六年前の頃に、ちょこちょこと特殊な薬剤を仕入れています。それらの保管場所と使用の本拠地はGIESCOの所在地になっていました。あの化学物質のリストからすると、間違いなく再生細胞や人口筋肉、人工皮膚なんかを作ってますね」

「さすが、元製薬会社の研究員」

 指を鳴らした石原に親指を立てて見せた中村明史は、話を続けた。

「これって、生体型のヒューマノイドロボットの製造には必須ですよね。って事は、やっぱり……」

「来たぞ」

 ソファーに片肘を載せて中村の話を訊いていた三木尾善人は、視界に入っていたエレベーターからスーツ姿の男と女が出てきたのを見て、そう言った。三人は立ち上がり、一度顔を見合わせる。中年のスーツ姿の男と共に円形の池を回って歩いてきているのは、若い女だった。二人とも、上着の襟にバッジを付けている。

 石原宗太郎が小声で言った。

「善さん、弁護士ですね」

「そうだな」

 中村明史が小声で言う。

「何ですかね。僕らに用でしょうか」

 石原宗太郎が言った。

「当たり前だろうが。こっち見てるだろ。あのお姉ちゃん、おまえを睨んでるぞ」

「ゲッ、マジですか。――ああ、本当だ。こっち見てる」

「ありゃ、フェミニストの代理人だな。中村の七三分けが不快だから、慰謝料請求するつもりだ」

「先輩の髭を剃れっていう仮処分を申し立てるつもりかもしれませんよ。環境訴訟で」

「俺の髭は公害かよ」

 三木尾善人が声を殺して言った。

「バッジの色が金色だ。新人弁護士だろう。だが、横の男はベテラン弁護士の美空野だ。二人とも口に気をつけろ、厄介な奴だぞ」

「了解です」

 三木尾に注意された石原と中村は、再度顔を見合わせた。中村明史は上着のポケットに手を入れて名刺入れを出そうとする。三木尾善人は彼に視線を送って、その必要が無い旨を伝えた。中村明史は首を竦めてポケットから手を出した。三木尾善人は弁護士たちの方へと歩いていく。石原宗太郎はズボンのポケットに両手を入れて、肩を張って三木尾についていった。中村明史は上着の襟を整えながら石原についていく。

 三人の刑事たちは、二人の弁護士の前で立ち止まった。弁護士たちも立ち止まる。カスケード・ストライプのスーツを着た中年の男が、三木尾に目を据えて挨拶した。

「どうも。弁護士の美空野です。こちらは弁護士の町田先生です」

「町田です」

 小さな声でそう言って軽く一礼した栗毛の若い女は、三人の刑事たちの顔を鋭く観察する。その横で美空野朋広弁護士が堂々とした態度で言った。

「ストンスロプ社と光絵由里子氏の代理人を務めさせて頂いています。したがって、以後、ストンスロプ社や光絵氏に関するご連絡その他一切は、まず我々を通していただきたい」

 石原宗太郎と中村明史は、また顔を見合わせた。三木尾善人は顔を曇らせる。

 美空野朋広弁護士は、顔を傾けて言った。

「まずは、要件を伺いましょう」

 三木尾善人は単刀直入に用件を伝えた。

「光絵由里子に会わせて欲しい。直接、本人に聞きたい事がある」

 美空野の横から栗毛の新人弁護士らしき女が口を挿んだ。

「どういった内容ですか。差し支えなければ」

 三木尾善人は、その若い弁護士を一瞥すると、美空野の目を見据えて言った。

「いや、捜査なんでね。本人に会わせて欲しい」

 すると、町田梅子弁護士が、今度は大きな声で強く言ってきた。

「何の捜査なのでしょうか。被疑事実が分からない以上、本人も対応しかねますが」

 実際にそのとおりであった。三木尾善人は少し躊躇した。背後から石原宗太郎が小声で進言する。

「善さん、帰りましょう」

 三木尾善人は町田の目を見て言った。

「田爪健三失踪事件の重要参考人だ。これでいいか」

 二人の弁護士は顔を見合わせる。町田梅子弁護士は怪訝な顔で刑事たちの顔を見回した。彼女は真っ直ぐに三木尾の目を見て主張する。

「田爪氏と依頼人は姻族関係にあるというだけで、事件とは何の関係もありません。ましてストンスロプ社は法人ですので……」

 美空野朋広が手を上げて町田の発言を制止した。彼は三木尾の前に顔を突き出して言う。

「三木尾善人警部。これは、任意での聞き取り調査という事でよろしいですよね」

 三木尾善人は床に視線を落とすと、大きく溜め息を吐いて答えた。

「ああ、そうだ」

 美空野朋広ははっきりとした口調で言う。

「それでは、面会を拒否させていただきます」

 石原宗太郎が美空野を睨みつけて怒鳴った。

「光絵会長が本当に、そう言っているのか。また死人が出るかもしれないんだぞ」

「石原」

 少し振り返った三木尾善人が石原を制止した。

 美空野朋広弁護士は、石原の顔を睨み付けながら大きな声で言った。

「どうやら、『代理人』制度を理解されていないようですな。代理人は代理人の判断で本人の為に行動するのですよ。民法は学ばれていませんか? どうやら、あまり勉強されなかったようですなあ」

 彼は石原に言っていたが、一瞬だけ三木尾に視線を送り、小さく鼻で笑った。そして、胸を張ってきっぱりとした口調で告げた。

「とにかく今は、会長はお会いしません」

 三木尾善人はワイシャツの襟から指を入れて首を掻きながら言う。

「なにも、逮捕しようって訳じゃないんですがね」

「脅しですかな」

「ちょっと顔を見て確認するだけですよ。話も二、三分で済む」

 今度は美空野朋広が溜め息を吐いて言った。

「しつこいですね。では、捜査令状はお持ちなのですか」

 三木尾善人は顔を険しくして、正直に答えた。

「いや。無い」

 美空野朋広はしたり顔で言う。

「それなら、お引き取り願えませんか」

 石原宗太郎が美空野を睨み付けながら言った。

「何か、やましい事でも有るんじゃないか?」

 美空野朋広弁護士は表情一つ変えずに、黙って石原を見据えていた。

 三木尾善人は振り返ると、石原の胸を軽く叩く。

「石原。帰るぞ」

「善さん……」

 石原宗太郎は、自分の前を通り過ぎ玄関へと歩いて行く三木尾の背中に不満そうな顔を向けた。彼は中村に促されて三木尾についていく。

 歩いて帰っていく三人の後ろから声がした。

「ああ、三木尾警部」

 三人は立ち止まって振り返る。

 美空野朋広弁護士は口角を上げて大きな声で言った。

「次は令状を持参してもらえませんか。正当な捜査なら我々も協力するのにやぶさかではありません。勿論、令状が取れればの話ですが」

 三木尾善人は美空野を睨み付けて答えた。

「分かったよ」

 美空野朋広弁護士は三木尾に向けて人差し指を振りながら言った。

「警部も退職前だ。一人でスタンドプレイに走って、これまでの警察官人生をパーにするのは勿体無いですよ。もっと慎重に」

「ご忠告どうも。じゃあ、これからは友人にでも尋ねながら進めるとするよ」

 三木尾善人は美空野に背を向けて歩いていく。

 美空野朋広弁護士は少し首を捻ったが、笑みを浮かべて頷いた。

「それがいい」

 彼は勝ち誇った顔で三木尾の背中を見送った。



                  八

 警視庁ビルに戻ってきた三人は、第五係室でお茶を飲んでいた。石原宗太郎が不機嫌そうな顔で言う。

「あの弁護士、ムカつく奴でしたね」

 三木尾善人は湯飲みを傾けながら言った。

「あれが彼らの立場なのさ。それで刑事司法はバランスを保っている。あれくらいで、いちいち熱くなってたら、身が持たんぞ。――あつッ! あっつい!」

 口から湯飲みを離した三木尾善人は、隣の村田を一睨みする。

 お茶を入れた村田リコは、申し訳無さそうな顔で首を竦めた。

 向かいの席の中村明史が腕組みをしたまま三木尾に言う。

「でも警部、腹が立たないんですか。だいたい、弁護士って、なんで悪い奴の弁護なんかするんですかね」

 三木尾善人は湯飲みのお茶に息を吹き掛けながら言った。

「フーフー。あのな、『弁護人』っていう立場なんだよ。被告人を徹底的に防御する。起訴した検察側は、被告人を徹底的に攻撃するだろ。そういう相反する事を違う立場からやらせる事で、刑事裁判が客観的なものになるし、お互いの主張が重なる部分があれば真実性が高いだろうし、証拠の出し合いをして淘汰されていけば、確固たる証拠だけが残っていく。それらを積み上げて、真実を明らかにしようとする。事件になった出来事を直接に見ていた訳ではない裁判官が判決を書くんだからな。つまり、法廷で実験させているようなものだよ。あえて、片方に攻めさせて、もう片方に守らせているんだ。フーフー。それに、もし有罪にするにしても、被告人に徹底的に言い訳したり言い逃れしたりさせて、それを一つずつ徹底的に潰しておかないと、ムショに入れられた被告人が後から言い訳を思いついたりしたら、自分が刑務所に投じられた事に納得しねえだろ。ああ、俺は運が悪かったんだあってな。そんな奴は、ムショを出たら、また同じ犯罪を繰り返しかねん。そしたら、また被害者が出る。だから、『弁護人』という立場の人間に、徹底的に反論をさせとくんだよ。その時に被告人本人が思いつかない分もな。それを丁寧に潰していくのが、俺達のような治安当局側の責任だ。その『弁護人』の席に弁護士という法律の専門家が座っているに過ぎん。日本の法律では、刑事弁護人は弁護士に限定されているからな。外国では、そうじゃない国もある。まあ、とにかく、弁護士は『弁護人』としての仕事をしているだけだ。何であれ、全力を尽くす義務がある。それは捜査段階でも同じ。だから、あまり気にするな。仕事だよ、仕事。お互いにな」

 中村明史は腕を解いて頷いた。

「なるほど……勉強になりました」

 講義を終えた三木尾善人は口角を上げて中村に尋ねる。

「それより、DNAはどうだった。一致したか」

「ええ。枯れた花に付着していたもの、今朝の花に付着していたもの、落ちていた髪の毛、これら全てが一致したそうです」

「で、指紋は?」

 石原宗太郎が答えた。

「それが、画像の解析をどれだけ高解像度で行っても出てこないらしいんですよ。フルスキャンを三度したそうで、それで時間掛かったみたいですね。それでも、一人分しか出ないそうで」

「一人分。それでいいじゃねえか。誰のだ」

「いや、それが、照合にかけたら、えらい昔の指紋情報がヒットしたらしいんですよ」

「誰のだよ」

「田爪瑠香です。管理局員時代の指紋認証データと一致したようです」

 三木尾善人は顔を顰める。

「なんだ? 十年以上前のデータか?」

 石原宗太郎は机の上のメモ書きに視線を落としながら言った。

「いや、それでですね、一応、あの墓地の管理者になっている区役所に問い合わせてみたんですよ。あの墓の建立日を。確かに、二人が結婚して直ぐに立てた墓みたいですね」

「ずいぶん気の早い奴らだな」

「それが、実際に建立したのは光絵由里子のようですね。つまり、金を出したのは。役所での手続き等は執事の男がやったようですが」

「じゃ、何か? 田爪瑠香は、嫁入り道具に養母から墓を送ってもらったって事か? そんで、死ぬ前まで、ちょこちょこ行って掃除したりしていた。だから指紋が残っている。そうなるよな」

 石原宗太郎は首を傾げている。

 中村明史が眉を寄せて言った。

「自分の墓を掃除していたら、本当に死んじゃったなんて、洒落にならないですね」

 三木尾善人は中村を一瞥すると石原に視線を向けた。

「他の指紋は出ないのか。なんでだ」

「さあ……」

 石原宗太郎は再び首を傾げた。

 中村明史が意見を述べた。

「たぶんですけどね。あの手のご婦人って、ああいう場所では手袋していませんか。黒い、レースのやつ。執事って職業の人間も、白い手袋している事が多いですよね。だからじゃないですかね」

 三木尾善人は怪訝な顔をしながら頷いた。

「まあ、確かにな。それなら、指紋が出なくて当然か……。問題は、一致したDNAが誰の物かだな。おそらくは光絵会長のだろうが……」

「失礼するよ」

 ガラスドアを開けて管理官の新原海介が速足で部屋に入ってきた。彼は三木尾の前まで歩いてくると、三木尾を指差していきなり怒鳴りつけた。

「三木尾君。君は一体何を考えているんだね!」

 三木尾善人は驚いた顔で椅子に座ったまま新原を見上げている。

 新原海介は言う。

「立った今、美空野弁護士から苦情の電話を受けたところだ。散々嫌味を言われたよ。光絵会長から任意で話を聞きたいのなら、手順というものがあるだろ。どうして私に報告しないんだ。君が会おうとしたのは、あのストンスロプ社グループの光絵会長だぞ。街のチンピラとは訳が違うんだ。事前に私の方に言っておけば、それなりのセッティングをしたのに、君のような一介のヒラ刑事がアポ無しで出向いて行って、すんなり会えるとでも思ったのかね」

 三木尾善人はすんなりと頭を下げた。

「すみませんでした。ご迷惑かけて。今後は、管理官にご連絡してからにします」

「今後? ふざけるな。もうGIESCOの線は断たれたよ。美空野弁護士は、一切の面会と捜査協力を拒否すると通告してきた。まったく、これでいちいち裁判所にお伺いを立てて、令状を準備せんと敷地への立入りも出来なくなったじゃないか。光絵会長は辛島総理とつうかあの仲だというのは知ってるだろ。まったく余計な事をしてくれたよ。君は!」

 新原海介は強く三木尾を指差して、睨みつける。

 三木尾善人は深く眉間に皺を寄せて、新原の顔を見つめていた。

 石原宗太郎が横から口を挿む。

「政治の話は後なんじゃなかったのですか」

 新原海介は石原に顔を向けた。

「なに? 石原、貴様、上司に向かって、なんだ、その態度は!」

 三木尾善人は椅子から腰を上げて執り成す。

「まあまあ。今後は気をつけますから。それから、この馬鹿にもよく言っときます。私から点数を引いといてください」

「当たり前だ。だいたい、君の指導がなっとらんから、こういう刑事になるんだ」

 石原宗太郎は椅子に座ったまま、ふて腐れた顔で言った。

「俺はまだ、この部屋に来て一週間ですがね」

「石原」

 三木尾善人が彼を制止する。

 新原海介は石原を睨みつけると、三木尾に顔を向けて苛立ちをぶつけた。

「それにな。美空野弁護士は、日本でも有数の弁護士事務所の経営者なんだぞ。弁護士業界でも相当の力を持っている。少しは相手を立てるという事を知らんのか。そもそも、突然乗り込むなんて無茶をするんじゃないよ。違法捜査で賠償請求でもされたらどうする。来年度のウチの予算から削られるんだぞ。そんな事まで考えているのかね。君は」

 新原海介は人差し指を何度も三木尾の鼻先に突きつけた。

 黙って新原の話を聞いていた三木尾善人は、その人差し指を手で払うと、気色ばんだ顔を新原に向け、声を荒げる。

「あのですね。お言葉ですが、あのバカ弁護士も田爪の事件は知っているはずでしょう。まさか新聞が読めん訳じゃあるまいし。人が百三十人も死んだんですよ。まともな弁護士だったら、依頼人を説得して捜査協力させる方向で事を進めるんじゃないですかね。アポ無しで行ったから会えない? 極秘捜査で進めろって言ったのは、あんたじゃないか! それとも何ですか、極秘捜査用の極秘捜査令状なんてものがあるんですか。何の捜査か訳も分からず裁判所が発する逮捕許可や捜索許可なんてものが存在するんですかね。だいたい、何処の世界に、これから抜き打ちでお話しを伺いに行くから宜しくって事前に電話入れてから乗り込むデカがいるんだよ。ああ、あれですか、ヘッポコ弁護士からクレームが来たくらいで、おどおどなさっている管理官殿に事前の連絡でも入れておけば、美空野を説得して光絵会長との面会を取り付けたとでも言うんですか。だったら、今度からそうしますよ。そもそもな、土足で会長室に乗り込んで行った訳じゃねえよ。ちゃんと下の受付の姉ちゃんたちに取り次いでもらって、待合用のソファーで大人しく待っていたんだ。それで迷惑だって言うなら、あそこの一階エントランスはコンクリートで埋めちまえばいいんだよ。待合用の高級ソファーも大理石敷きのエントランス・フロアも必要ないじゃないか。あんたも警察の人間なら、なんでこの位のことを、あのクソ弁護士に言ってやらんのですか!」

 三木尾善人は強く怒鳴りながら、新原を押し返すようにじりじりと前に歩いて行く。ガラスドアの前まで後退した新原海介は肩を上げて三木尾を睨み付けた。

「貴様……」

 中村明史が隣の石原に小声で言う。

「実は相当にムカついていたみたいですね」

 石原宗太郎はニヤニヤしながら頷いた。

「みたいだな。『クソ弁護士』だって」

 村田リコが湯飲みをお盆に載せて持ってきた。

「あのう、管理官。お茶を、どうぞ」

「いらん!」

 村田リコは目を瞑って首を竦める。

 新原海介は立てた人差し指を振りながら三木尾に言った。

「三木尾善人警部、この一件は、私の方からしっかりと上に報告させてもらう」

「おうおう、どうぞどうぞ、ご勝手に。どうせこちとら、もう少しで定年だ。知った事かい」

 新原海介は捨て台詞を吐きながら、ガラスドアを開けた。

「後悔しても知らんぞ、君」

 彼は激しくガラスドアを閉めて出ていった。

 三木尾善人は顔を赤くしながら自分の席に戻り、安物の事務椅子に荒っぽく腰を下ろす。

「ったく。リコちゃん、後で塩を撒いとけ」

 石原宗太郎が声を掛けた。

「善さん……」

 湯飲みを持ち上げた三木尾善人は石原を睨みつける。

「あん? なんだ石原」

「あの受付の三人、おばちゃんでしたよ」

「知るか。――熱ッ!」

 村田が入れるお茶は熱過ぎた。三木尾善人は村田リコを強く睨みつける。村田リコは急須の蓋を開けて、湯気を立てている中を覗き込んだ。彼女は首を傾げる。それを見ていた三木尾善人は眉間に深く皺を寄せた。

 中村明史が頭の後ろで手を組んで天井を見上げる。

「はあ。警察官人生、終わっちゃったかなあ」

 石原宗太郎が中村の肩を叩いた。

「ま、そん時は、俺と一緒に警備会社でも始めようぜ。俺が社長でお前が副社長。石原、中村スーパーセキュリティーカンパニー。INSS社。かっこいいだろう。どうだ?」

 中村明史は眉を寄せて石原を見る。

「カンパニーのCは、どこ行ったんですか。それに、すぐ潰れそうだし」

 丸いお盆を胸の前で抱えた村田リコが自分を指差した。

「ええ。じゃあ、私はどうすればいいんですか」

 石原宗太郎は髭を触りながら思案する。

「うーん。リコちゃんは、広報だな。キャンペーンガール。こんな水着で」

 村田リコは石原に冷ややかな視線を送る。

「セクハラじゃないですか。石原さん」

 三木尾善人が眉を八字に垂らして言った。

「あのな……おまえら、真面目にやれよ」

 石原宗太郎は快闊な声で言う。

「分かってますよ。事件を解決すれば問題なし、でしょ。よおし、絶対に田爪の奴を捕まえるぞ。うぃー」

 彼は隣の中村とハイタッチをした。

 三木尾善人は頭を左右に振る。

「警察の未来が本気で心配になってきたな。――それより、中村。事故記録は取れたのか」

「あ、はい。今、プリントアウトします」

「石原の方はどうだ?」

 石原宗太郎は天井を見上げながら答えた。

「ええと、俺の同期が今付き合っている彼女の前の彼氏の元奥さんの不倫相手が、当時、例の事故の初動捜査に当たってたみたいなんですよ。話は聞けると思いますが、少し時間を下さい。二、三日のうちには話を聞いて、捜査資料を手に入れます」

 三木尾善人は全力で不安を顔に浮かべた。

「それ、本当に話を聞けるのか。ある意味、国税庁よりハードル高いじゃねえか……。まあ、いいや。任せる。ああ、それと中村。昨日調べた軍関係の資料。あれも出せるか」

「ええ」

「じゃあ、それ持って昼飯食いに行くぞ」

 三木尾善人は立ち上がった。

 石原宗太郎が目を丸くする。

「ええ? もうですか。ちょっと早くないですか」

「ああ。ついでに会いたい奴もいるんでな。行くぞ」

「ああ、ちょっと……」

 大きな声で呼び止めた村田リコが書類を差し出した。

「あのう。警部。これなんですけど」

 三木尾善人は怪訝な顔で書類を受け取る。

 村田リコは言った。

「新しく支給される予定の拳銃について、装備課からアンケートだそうです」

「はい、却下」

 三木尾善人は書類を机の上に放り投げた。

 村田リコは三木尾の席の後ろの角に置かれた段ボール箱を指差す。

「あと、防弾着が届いてます」

「おう、そうか。石原、車に積んどいてくれ。後で見てみよう。ほら、行くぞ。二人とも早くしろ」

 三木尾善人はスマートフォンを上着から出しながら、部屋から出て行った。

 石原宗太郎は立ち上がりながら言う。

「お、俺ですか……。マジかよ」

 渋々と部屋の隅に移動した石原宗太郎は、みかん箱ほどの大きさのその段ボール箱を持ち上げた。

「よっ。あれ、意外と軽いな。リコちゃんは自分の分は?」

「あ、ちゃんと頂きました。女性用」

 段ボール箱の上部のガムテープが剥がされている事に気付いた石原宗太郎は、村田に尋ねた。

「あれ? もしかして、もう着けてるの?」

「はい。どうです? 結構、自然でしょ」

 右を向いたり左を向いたりしてポーズをとる制服姿の村田リコを見て、石原宗太郎は頷いた。

「うん。外から見ても、全然分かんないね。きつくない?」

 村田リコは頬を膨らませる。

「ひどい。それ、どういう意味ですか。ちゃんとサイズはピッタリですけど!」

 石原宗太郎は狼狽して答えた。

「いや、別に、そういう意味じゃ……そんじゃ、昼飯に行ってきまーす」

 段ボール箱を抱えた石原宗太郎は逃げるように駆けていく。

 ガラスドアを開けて支えて石原を通した中村明史は、村田リコに言った。

「ごめんね。先輩は、悪い人じゃないから。あ、それから、さっきの猿顔の男の照合も、よろしくね。ああ、髪型を変えたんだ。似合ってるなあ。カワイイ、カワイイ」

 親指を立てて見せた中村明史は、そそくさと廊下に出て、石原を追いかける。

 一人部屋に残った村田リコは、頬を膨らませたまま言った。

「遅いっつうの。今頃か」

 村田リコは机の上の電話から受話器を持ち上げる。彼女は庶務課の内線ボタンを押した。

「あ、お疲れ様でーす。一課の村田でーす。あのお、お尋ねしますけどお、そちらに塩ってありますか。――そう、塩です。ソルト。――いえ、撒くんです。外に」

 村田リコは真顔で通話を続けた。



                  九

 三木尾善人は、住宅街の中にある小さな公園のベンチに腰掛けていた。ベンチの後ろの花壇では咲きほこったコスモスが風に揺れている。

 中村明史は、路上に止めたAI自動車の運転席からその様子を観察していた。

 助手席に座っている石原宗太郎が、支給された新型の防弾着を広げながら言った。

「これ、薄いなあ。大丈夫なのか。ホントにこんな物を軍も採用してんのかよ。ほとんど普通のタンクトップじゃねえか」

 中村明史が運転席側の窓から外を見ながら言った。

「超軽量吸撃繊維ですよ」

「超軽量……なに?」

「甲一一七式超軽量吸撃繊維。繊維の中の衝撃吸収ナノ粒子が衝突した弾丸の衝撃をそのまま吸収して、八十度プラマイ五度の角度で発散するんです。あ、誰か来た」

「へえ。詳しいな。でも斜めから入ってきたら、どうすんだ?」

「弾丸自体は止まるんでしょうけど、衝撃波は体に伝わるでしょうね。骨折か臓器破裂」

「なんじゃそりゃ。意味ねえじゃねえか」

「結局、軽量合金か超強化プラスチック製のアーマースーツの下にバックアップで着る下着ですよ。フル装備の軍人や特殊部隊員が使う。実際にウチのハイパーSATの隊員も、新型の貫通弾対策として、既に全員が着ているみたいですよ」

「なんだよ。対ロボット用の鋼鉄貫通弾が出回ってきたから、その慰め用の補助アイテムかよ。アーマースーツ着てない俺達には意味ねえだろ。結局、上の連中は、俺たち現場の警官の安全なんか本気で考えちゃいないんだな」

「それより先輩、あの警部の隣に座ってる人、誰です?」

 中村明史は遠くのベンチを指差した。三木尾が座っているベンチに、もう一人スーツ姿の男が座っている。男は三木尾と同じくらいの初老の年頃で、太い眉の下の眼光は鋭い。

 中村の横に顔を出して、サイドガラスから向こうを覗いた石原宗太郎が言った。

「ああ、赤上あかがみさんだ。警視庁公安部特別調査課の課長さん。赤上あかがみあきら警部。善さんと同じ中途採用組で、警察学校の同期らしい。二人とも昭和四十九年生まれ、ファミコン・ガンプラ世代」

「公安部? なんで、こんな旧市街の公園なんかで会うんです? 普通に警視庁ビルの中で会えばいいのに。下の階なんだから」

「さあね。公安の奴らが考える事は分からんよ。今の『公安特調』って言えば、犯罪組織形成の事前取締りをするところだろ。でも実際には政治テロの監視が本命で動いている。つまり、政治家や官僚の監視。そこの課長さんが、捜査一課の現場警官と親しくするのは、いろいろまずいのかもな」

「どうしてです?」

「つまり、俺たち警官も奴らの監視の対象範囲って事さ。政治家や官僚は自分じゃ動かないからな。必ず、現場の人間を使う。そして、事が明るみになると、そいつを切って捨てて保身を図る。お決まりだよ」

「ふうーん。あ、戻ってきた」

 三木尾善人は、腰を叩きながら車の方に歩いてきた。三木尾と違う方向に歩き出した赤上は、数台前の車の前を通り、車道を横断していった。そして、反対側の歩道の上にあがると、石原たちの方に一瞬だけ目を向けた。石原と中村は、車の中から軽く会釈をする。赤上は背中を向けたまま、少し手を挙げて応えたように見えた。そして、そのまま横の路地の奥に消えていった。

 車の後部ドアが開き、三木尾が乗り込んできた。

「いやあ。待たせたな」

「お疲れ様です」

「端末あるか?」

 三木尾にそう尋ねられて、中村明史はAI自動車のダッシュボードに取り付けてあるコンピューターのボタンに手を伸ばした。

 三木尾善人は言う。

「いや、それじゃない。オフラインのCPUだけの奴。石原、足下にあるだろ」

 石原宗太郎は自分が座っている助手席のシートの下を覗いた。

「あ、これですか」

 彼は旧式のノートパソコンをそこから取り出した。どう見てもジャンク品にしか見えないその汚れた古いパソコンを指差して、中村明史は言った。

「CPUだけ? それで動くんですか」

 三木尾善人はパソコンの電源ボタンを押す。

「ああ。工学修士の赤上明お手製のパソコンだからな。ほら、動いた」

 その古いノートパソコンは冷却ファンを回す音を鳴らしながら、モニター画面を青く光らせた。

 中村明史は驚いた顔で言う。

「へえ、あの人、工学修士なんですか」

「ああ、研究者になるつもりが、なぜか警察官に転向。今じゃ、裏世界の研究者だ。よーし、バッテリーも劣化してねえな。使える」

 石原宗太郎が三木尾に尋ねた。

「で、その犯罪マスターさんから、何か情報でも貰えたんですか」

 三木尾善人は、ガンクラブチェックの上着のポケットから超大容量記憶媒体「MBC(メモリー・ボール・カード)」を取り出して見せた。

「全部こっちに入ってるらしい。OSから文書ソフトまで。だから、空っぽのこのパソコンでも動くんだと。つまり、ハードディスクやメモリーに情報の痕跡が残らないようになってるだそうだ。公安の奴ら、ていうか赤上の奴、良くこんなのを考えるよな」

 石原宗太郎と中村明史は顔を見合わせた。

 三木尾善人はそのパソコンに繋がれた外付けのドライブにMBCを差し込む。

「一回しか開けない代物らしい。ワンチャンスだ。さてさて……っと、よし出た」

「何ですか」

 中村が覗き込む。

 三木尾善人は運転席と助手席のシートの間から前に身を乗り出して、二人から見える位置にそのパソコンを置いた。彼は言う。

「美空野の顧問先リストだよ。あの野郎、尻尾つかんで泡吹かしてやる」

 石原宗太郎と中村明史は、再び顔を見合わせた。

 ノートパソコンの画面に細かな文字が並び、下から上がっていく。

 三木尾善人は目を凝らしながら呟く。

「ほう、さすがは公安情報。エグイねえ。どれどれ、まずストンスロプだろ。それから、ステムメイル社。ほう、伊文銀行にクンタム社もかあ。お、有働代議士もいるぞ」

 中村明史が聞き返す。

「有働って、前総理の有働武雄ですか」

「ああ。それから……っと。ええっと、ええっと……」

 並んだ文字を指でなぞっていた三木尾善人は、大きな声を上げた。

「ビンゴ! 宗教法人真明教団。真明教だ。それに、みなみ智人ともひと

「南智人?」

 首を捻った中村に石原宗太郎が言った。

「南正覚だよ。真明教の開祖の。本名は智人。昨日の俺の資料、読んでないのかよ」

 三木尾善人はリストを読み上げていく。

「あとは、学校法人真明学園、医療法人真明会か。美空野の奴、真明教の関連法人を丸ごと引き受けている訳だな」

 石原宗太郎は言った。

「繋がりましたね。ストンスロプと真明教。やっぱり、善さんの読みどおりでしたね」

「ああ。だが、まだ顧問弁護士がカブっているってだけだ。もっと細かい情報が欲しいんだが……くそっ。駄目か。やっぱり、真明教関係の情報シートだけがスカスカの内容だ。これじゃ、使えねえな」

 三木尾善人は期待はずれの内容に顔を曇らせた。

 中村明史がノートパソコンを指差して言う。

「それ、一回限りって事は、きっと公安が違法に収集した情報だからですよね。たぶんハッキング。それでも情報が集められなかったとすると、真明教のコンピューターは公安でも調べられないほど高度なセキュリティーで防御されているって事ですか。奴ら、そんなに高い技術を保有しているんでしょうか」

 三木尾善人は画面を覗きながら答えた。

「ああ。きっと、有働前総理っていうファイヤーウォールを張っているのさ」

「どういう事です?」

 怪訝な顔をしている中村に石原宗太郎が言った。

「鈍いなあ、おまえ。真明教は有働が総理に就任した時、それを資金面で全面的にバックアップした連中だろ。一度、失言で政界を追われた有働が返り咲いたどころか、総理にまでなったんだ。相当な資金援助をしたに違いない。つまり、有働は真明教に対して、でっかい借りがあるのさ」

「それが、公安と何の関係があるんです?」

 石原宗太郎は中村を指差す。

「ああ、そうか、おまえ知らないのか。公安部の特別調査課は有働が総理の時に、その肝入りで開設された部署なんだよ。自分の政敵を排除するために。だから、今でも影響力がすごいってわけ」

 三木尾善人が付け足した。

「結局、公安の連中も人間だって事さ。職を賭してまで真明教に手を出す奴はいない」

 中村明史は車窓から外を見回して言った。

「だから、こんな所で密会していたんですね。でも、僕たちもマズイじゃないですか。こんなの調べて……」

 三木尾善人はポケットから取り出したスマート・フォンを画面の前で構えて言った。

「マズイよなあ。――あらら、念が入ってるねえ」

「どうしたんですか」

 三木尾善人は、スマートフォンを覗き込んで、そのモニターの上で指を滑らせながら答えた。

「スマホで画面を撮影しようとしたんだが、撮影ガードって奴か、こっちのレンズ越しじゃ真っ黒になって、何も写らねえんだよ」

 石原宗太郎がズボンのポケットに手を入れて言った。

「画素数の問題じゃないですか。俺のウェアフォンで撮ってみましょうか」

「おう。頼む」

 石原宗太郎は楕円形の薄型端末の表面に触れた。端からホログラフィー画像でデジタル・カメラが浮かべられ、ウェアフォンの小型レンズをノートパソコンに向けると、そのホログラフィーのデジタル・カメラの背面モニターに、ノートパソコンが映し出された。しかし、その薄型液晶モニターの部分は真っ黒くなって何も映らない。

 石原宗太郎は何度もウェアフォンの角度を変えながら首を傾げる。

「あれ。駄目だなあ。中村、イヴフォン使ってるよな。そっちじゃ駄目か?」

「ちょっと待ってください。いま、やってみます」

 中村明史はネクタイに留めていた新型のイヴフォンの角度を整えると、音声でそれを操作した。

「起動。カメラ、動画」

 そして、頭を三木尾の前に出して、ノートパソコンのモニターに顔を近づける。

「ああ、撮れるかなあ。僕には見えてますけどね。ああ、やっぱり、イヴフォン同士じゃないと駄目ですね。これ、レンズが付いてないんですよね」

 三木尾善人が尋ねた。

「外の撮影は出来ないのか」

 中村明史は自分の側頭部を指差して答えた。

「脳波に直接リンクして音と映像を送るんです。イヴフォン同士の通信だと、互いの脳の記憶画像を飛ばし合って、立体画像通信みたいな事ができるんですけど、普通に撮影は出来ないんですよね」

「そうか。だから、あの永山って記者は田爪の顔を撮影できなかったんだな」

「たぶん、そうでしょうね。一応、僕のは先週発売された最新タイプのイヴフォンで、僕が見た映像を静止画にして相手に飛ばせるんですよ。でも、やっぱりイヴフォン同士じゃないと駄目みたいですね。カメラ、オフ。停止」

 音声でイヴフォンを操作する中村の隣で、石原宗太郎がノートパソコンのモニターの隅を指差した。

「そんな事より善さん、これ、このカウント。データ消去までの残り時間じゃないですか。あと一分を切ってますよ」

 三木尾善人はテンポ良く数値を小さくしていくそのデジタル数字を見て焦った。

「うわ、くそ。マジかよ。誰かカメラ持ってねえか、カメラ。普通のフイルム撮影の奴。人間の目で見えるって事は、感光媒体なら撮れるだろ。バカチョンでもいい。どっか売ってねえか」

「はあ? アナログカメラの事ですか?」

「そう、そう!」

「なんですか、その『馬鹿ちん』って」

「バカチョンだよ。紙の奴。ああー消える!」

「ああ!」

「……」

「消えたな。……」

「消えましたね」

「紙の奴?」

 三木尾善人は肩を落とした。

「いいよ、もう。――まったく、赤上の奴、スパイ映画の見過ぎなんじゃねえか。凝り過ぎなんだよ。畜生」

 石原宗太郎が呟いた。

「それだけ、ヤバイ情報だったって事ですよね」

「ああ、そうだな。俺達も消されちゃうかもな」

 中村明史が口を尖らせる。

「そんな、冗談じゃないですよ。僕は未だ二十代ですよ」

 石原宗太郎は支給された新型防弾着を中村に差し出した。

「これ、お前にやるからさ、二枚着とけよ」

 中村明史は防弾着を押し返した。

「だから、どうして、重ね着させようとするんですか」

「後輩が季節の変わり目で風邪をひかないように、気を使ってるんじゃないか。俺の思い遣りを無視すんのか」

「先輩が着ればいいじゃないですか」

「俺は、ほら、暑がりだし。それに、これ、ダサいし。こんなの着てたら婦警さんたちからモテないだろ」

「じゃ、なんで僕に二枚も着させるんですか。しかも、サイズが違い過ぎます」

「いいじゃねえか。おまえ好みのヒップ・ホップ・ジャンパーみたいで」

「ラッパーです、ラッパー。ヒップ・ホップ・ラッパー。でも、防弾着を大小重ね着しているラッパーなんかいませんよ」

「アーティストなら時代の最先端を走れ。これ、軽いぞお」

「僕は刑事です。公務員です、公務員。ラップは趣味。公私混同はしません」

「じゃあ、今度、交通課の同期に頼んで、おまえを寺師町の歩行者通行整理に回すように頼んでおくよ。昔いただろ、DJ風に交通整理する警官。二〇三八年のDJ刑事は中村君、君だ!」

「いや、いやいや。全然嬉しくないです。なんで安い固定給でステージに立たないといけないんですか」

 三木尾善人はノートパソコンを片付けながら呟いた。

「何の話してんだよ、おまえら……」

 三木尾善人は大きく溜め息を漏らした。



                  十

 三木尾善人は、箸の上に数本の麺を引っ掛けたまま、器の中のスープの表面を眺めて微動だにしなかった。古びた狭い店内には、壁際に小さな四角いテーブルが六つ並べられている。その中の一つに三人の刑事たちが座って昼食のラーメンを食べていた。周囲には白い湯気とスープの香が立ち込めていて、それぞれの仕事着姿の人間たちが麺を啜る音、器に当たるレンゲの音、束の間の休息に飛び交う雑談や笑い声に混じり、注文を伝える年配の女性の声と、客で埋まったカウンター席の向こうから聞こえてくるリズム良い葱を刻む音が響いている。

 素区もとの雑居ビルの一階にあるこのラーメン店は、三木尾善人の行き付けの店である。石原や中村も三木尾に連れられて、よく訪れる店だ。味もよく、料金も安価であり、何より雑然としながらも細部にまで目の行き届いた衛生管理が三人とも気に入っていた。暖簾を広げて次々と出入りしていく客が引き戸を開閉する音をカラカラと鳴らす。それに合わせて響く店主の挨拶を聞きながら、三木尾善人は黙って器のスープを眺めていた。そして、一言だけ呟く。

「どうにもならねえな」

 三木尾の向かいに座っていた中村が尋ねた。

「それでも熱いんですか。だから冷麺にすればよかったじゃないですか。まだ、メニューにあったのに」

「十月に冷麺なんぞ食えるか。馬鹿。そうじゃねえよ。捜査の事だよ」

「あ、そうだったんですか。すみません。ズズズー」

 中村は麺を啜る。

 三木尾善人は、箸の上の麺を器に戻して、言った。

「いやな。上からは、指名手配はするな、GIESCOには近づくな、軍との管轄違いは厳守しろ、教団には手を出すなと言われているだろ。それでいて、他に手掛かりも突破口もない。奴の親戚も友人知人も奴を匿っている気配は無いし、そもそも、奴の入国の記録もない。そうなると、例のバイオ・ドライブを追うしかないんだよな。それなのに、あっちも駄目、こっちも駄目じゃ、どうしようもないだろう。指名手配するなってのは解るけどな」

 すると、中村の隣で大盛りラーメンを黙々と啜っていた石原宗太郎が、箸を止め、コップの水を一気に飲みほした。彼はコップを握った手の指先で口髭を拭きながら言った。

「でも、善さんの見立てじゃ、あの外国人を雇ったのはストンスロプか軍なんでしょ。あるいは、真明教」

「まあな。ただ、どうも不自然な気がしてなあ」

 石原宗太郎が眉を寄せた。

 三木尾善人は腕組みをして言う。

「だって、よく考えてみろよ。ストンスロプは国家権力と同視できるほどの大企業だ。総理とも親密。一方、軍は国家権力そのもの。そこでだ……」

 三木尾善人は少し声を小さくした。

「外交レベルで考量すれば、日本政府が奴を確保して、日本の法律で日本の裁判にかける、これがベストな対応なんだよ。政府にとっては。その奴を国家権力の一部が匿っているとしたら、俺達に探させるか? おかしいだろ。その必要は無いじゃないか。SAI五KTシステムの修理が済んだら、奴の確保を表明して、裁判にかければいい。それに、もし本当に奴を匿っているのだとしたら、どうしてAB〇一八とIMUTAは仲違いしているんだ? 奴が居るのなら、対処できているはずだろ。だが、現実には、これだ。故障続き。もし、奴でも治せねえ程の問題なのだとすると……」

 中村明史が言った。

「自我に目覚めてるから……ですかね」

 三木尾善人は頷く。

「そうだ。それも考えてみた。だが、だったら修復するってレベルじゃないだろう。今すぐにでも、全てのシステムからSAI五KTシステム自体をオフラインにしないといけないんじゃないか。そうなれば、軍や防災隊、俺達の使っているあらゆる機関のメインシステムが停止する。世の中のインフラ制御も。これって、それこそ厳戒令を発令するレベルだろ。内密にでも。だけど、そんな命令は下りていない」

 石原宗太郎も腕組みをして考えた。

「そうですねえ……。田爪……奴を匿うっていうリスクを犯さなくても、SAI五KTシステムを停止してしまえば良い訳ですもんね」

 中村明史が言う。

「まあ、そう簡単に停止できるかどうかは、分かりませんけどね。新日の例の記事にも、いろいろと書いてありましたし。それでも、奴が国内にいて、事態が悪化しているのだとしたら、変ですね。矛盾します」

 三木尾善人は中村を指差した。

「だろ。だから、もしかしたらストンスロプも軍も、未だ奴を確保できていないんじゃないかなと考えていたんだよ」

 石原宗太郎は口髭を撫でた。

「そうなると、例の教団かあ。でも善さん、教団と奴は、思想的には真逆の考えですよね。そんな教団の連中が、奴を匿いますかね」

「うーん……」

 三木尾善人は険しい顔で首を傾げた。

 中村明史が発言する。

「それより、軍の一部が勝手に動いている可能性はどうなんです?」

「赤鬼か」

「ええ。奴ら『深紅の旅団レッド・ブリッグ』が決起に失敗しているってのは、もうニュースになっていますけど、もしかして、それを教唆したのが教団だとか」

 三木尾善人は苦笑いしながら首を捻った。

「教団がねえ。――石原、奴らの信じている教祖の予言に、そんなのは有ったか? コンピュータが世の中を支配するとか、軍隊が世界を支配するとか」

「いやあ。記憶に無いですね。もう一度読んでみますよ、教祖の預言書。でも、俺の記憶じゃ、奴の予言に終末論的なものは無かったはずです」

 三木尾善人は小声で尋ねる。

「終末論じゃなくても、自分たちが世界を支配するとか、ITの世界で頭を取るとかいうのは、どうだ」

 石原宗太郎は周囲の客に注意しながら話した。

「いや、無いですね。どの予言も、どちらかというと、地道に努力しましょう的な教えに終わるだけですもんね。それに、あの教祖が何かを予知する時は、ああ、例えばあの核テロの大爆発とか、田爪……奴の生存とか、かなり具体的に示すんですよね。日時とか場所を。そんで、それがまた当たってるんですわ、これが、不思議な事に」

「そうか。じゃあ、その線は薄いなあ。――中村、軍の方のSAI五KTシステムの責任者は、調べがついたか」

「ズズズー。うぐっ。ごほっ、ごほっ」

 麺を啜っていた中村明史は、上司から急に「宿題」の報告を求められて、麺を喉に詰まらせた。コップの水を飲んで、彼は言う。

「――すみません。ハイ。持って来ました。これです。消えない奴です」

 中村明史は上着のポケットから小型の端末を出す。石原宗太郎がそれを受け取った。

 中村明史は心配そうな顔で言う。

「ラーメンの汁をつけないで下さいよ。これ、僕の私物ですから。新品ですからね」

「分かってるよ。うっせーな」

 石原宗太郎はその小型端末を操作すると、それから平面ホログラフィーで資料文書をテーブルと平行に投影させた。

 中村明史がそれらに目を向けながら言う。

「二〇一七年から一八年にかけての当時、ウチの方や国交省の建設部に出されていたSAI五KTシステム関係の申請書に記載のあった名前は、この十一名です。そのうち、現在も在職しているのは、この四名」

 三木尾善人は両眉を上げる。

「何だ? 二〇年で半分以上も辞めてるのか? 軍も労働環境が厳しいんだな」

 三木尾に視線を送られて、石原宗太郎は片眉を上げた。

 中村明史は首を横に振る。

「いえ、ほとんどの方が定年退職ですよ。もちろん、病気で依願退職された方もいますけど。ちょっと、先輩、脂のついた箸で触らないで下さいよ」

「ホレ、ホレ」

 石原宗太郎は子供のように、中村の端末に箸先を近づける。

 三木尾善人が真顔で中村に尋ねた。

「どうして、退職の事情まで分かったんだ」

 中村明史は小声で説明する。

「ウチの交通課の検索システムで運転免許から住所と年齢を検索して、生命保険協会に照会をかけたんです。そしたら、すぐに回答してきてくれました」

 片眉を上げた三木尾善人は言う。

「だろうな。捜査一課からの問い合わせだからな。それで?」

「どの保険会社も契約者の就業事情は随時確認しているみたいなんです。在職中かどうか、年収は幾らかとか、色々と分かりました。ほとんどの人が同じ保険会社と契約していましたから、助かりました。団体加入って奴ですよ」

「どこの会社だよ」

 そう尋ねた石原に中村明史は耳打ちした。

 石原宗太郎は中村に顔を向けて、目を見開く。

「マジか。あそこの団体割引、そんなに安いのか。なんで、ウチもそこにしないんだよ」

 三木尾善人が真剣な顔で中村に尋ねた。

「それで、本ボシは割れたのか」

「ああ、すみません。ええと、この四人の名前を緊急時の連絡リストから探すと、この二名の名前がありました。それぞれの所属部署は、ここです」

 中村明史は石原の前に置かれた端末に手を伸ばし、ホログラフィー文書を切り替える。

 新たに表示された文書を覗き込んで見ながら、三木尾善人は呟いた。

「情報システム部と中央作戦本部か……」

 顔を上げた彼は、机の上に低く浮かんだ文書を指差しながら中村に尋ねる。

「ここから上にも行くんだな?」

「はい。ええと……」

 中村明史は、端末から更に新しいホログラフィー画像を浮かべさせた。今度は小さなカードのような文書が何枚も机の上に並べられる。三木尾善人と石原宗太郎は、ラーメンの器をテーブルの隅に退かした。中村明史がそれらのカードに手で触れて動かしながら、説明する。

「まず情報システム部からは直接、各責任者に連絡が行くようになっています。連絡武官の榎木和美、情報局長の増田基和、空軍指令本部長の鬼目知貴、電子軍指令本部長の高岩章介、調達局連絡部長の木村文弘。中央作戦本部からは、国防大臣と防災大臣、それから、エネルギー大臣となっていますね」

 石原宗太郎が髭を触りながら言った。

「国防大臣は空席で、防災大臣とエネルギー大臣は今、誰だっけ」

 中村の方を向いた石原に三木尾善人が答えた。

「阿多晃一と一口和彬だ。どちらも居眠り大臣か……とても陰謀に絡んでいるとは思えんな。そうなると、情報システム部の線だな。もう一度、見せてくれるか」

「あ、はい」

 中村明史は五枚のカードを一列に三木尾の前に並べた。

 三木尾善人はそれらを見比べながら言う。

「局長クラスが一人いるな。増田基和。増田……ああ、津田の調書に出てきたな。増田学校の」

 中村明史は頷いた。

「ええ。僕も気になりました。増田学校って言えば、増田基和が秘密裏に組織している軍内派閥ですよね。軍人としては、かなり優秀な人材を集めていると聞いています」

 石原宗太郎が言う。

「赤鬼の連中が表なら、増田学校は裏のエリート組織って言われている奴らですからね。俺が居た頃も、軍内で噂にはなっていました。装備も実力も一級品らしいです。こいつらが赤鬼を動かしているんですかね」

 三木尾善人は首を横に振る。

「いや、それは無いだろう。奴らは精鋭の偵察部隊を主軸とする保守派の集団だと聞いている。特定の総理ではなく歴代総理に影で使えて、軍を内部から監視するのを使命としてきた奴らだ。クーデター地味た事はすまい。実際に、津田に殺されかけた永山や神作たちを救出したのは彼らの部隊のようだ。つまり、奥野国防大臣の企みを阻止した事になる。そんな奴らがクーデター? 無理が有り過ぎるよ。それよりも、実戦部署の中に並んで、どうして調達局が入っているんだ?」

 中村明史は端末に手を伸ばして言った。

「あ、それなんですが、僕も変だなと思って、国防省の公開されているデータを開いてみたんですよ。そしてら、これ」

 テーブルの上からカードが消え、今度は何枚もの書類が斜めに重なって浮かべられた。どれも右隅にアルファベットが表示されて、文書の上に黒い幕が貼られ内容を見る事が出来ない。

 中村明史は言った。

「公開情報のはずなのに、ほとんど見る事が出来ないんですよ。どこのページを開いても、このマークの所でストップ。なんです? この『BD』って」

 三木尾善人が険しい顔で言った。

「バード・ドッグ。軍規監視局だ」

「軍規監視局?」

 聞き返した中村に石原宗太郎が言う。

「軍隊の中の警察だよ。ウチの内務調査部みたいなもの。監察官ってのが、逮捕から起訴まで一貫してやることになっていて、軍内部に睨みを効かしている。嫌な奴らだ。警察学校で習っただろ」

「そこが調べている最中だから、捜査情報で非公開って事ですか」

 石原に確認した中村に、三木尾善人はテーブルの上を指差しながら言った。

「って事は、本ボシはここだな。調達局。でかしたぞ、中村」

 石原宗太郎が中村の肩を叩く。

「でかしたぞ。中村」

 中村明史は慌ててお絞りを掴んで端末に手を伸ばした。

「だから、先輩、コップの水滴が」

「おお、すまん、すまん」

 石原宗太郎はわざとコップの水滴を端末の近くに散らす。そんな石原に三木尾善人が言った。

「石原の方は、暫く掛かるんだったな」

「ええと、国税の方ですか、事故の方ですか」

「両方だ」

「国税の方は、大丈夫です。事故の方は、もう少し時間をください。なんせ、ものすごく微妙な人間関係の伝なんで」

 三木尾善人は眉を寄せて言う。

「もう少しクリアな線はなかったのかよ」

 石原宗太郎は頭を掻いた。

「ははは。すみません。――でも、なんで瑠香の両親の事故死に拘るんです?」

「うん。お前ら、ストンスロプ社やGIESCOの資料見て気付かなかったか。今朝、ストンスロプ社ビルで社史の年表を見た時も」

 石原宗太郎と中村明史は顔を見合わせた。

 三木尾善人は二人に説明する。

「あの会社、二〇〇三年以降、急激に新製品の開発数を伸ばしてる。タイムマシンの研究を始めたのも二〇〇三年以降だ。瑠香の両親の事故は二〇〇三年五月三日。その直後からタイムマシンの開発って、偶然にしちゃ、出来過ぎだろ」

 中村明史が目を丸くした。

「まさか、永山記者が送ったタイムマシンは、二〇〇三年五月三日に?」

 中村を一瞥した石原宗太郎は、眉を寄せて三木尾に言った。

「いや、善さん。ちょっと飛躍し過ぎじゃないですかね。確かに瑠香はストンスロプの光絵由里子会長の養女ですけど、それは、ストンスロプグループの運送会社の車両の運転ミスが原因で事故を起こしてしまったからで、その責任をとって光絵会長は瑠香を育てたんでしょ。発明だって、その前から幾つも特許をとっていますし、大体、創業百十五年ですよ。IT革命で、さらに躍進したってだけじゃないですかね」

「いや、でもな。そう考えると、辻褄が合うんだよ。科警研の岩崎は、バイオ・ドライブは二台あったと言っていた。昨日、岩崎から届いた新聞記事の内容が本当なら……」

 三木尾善人は周囲を見回してから、小声で言い直した。

「それが本当なら、永山が飛ばしたタイムマシンに乗って、田爪の真正なデータが入ったドライブは二〇〇三年に飛んだ、そして、もう一つのドライブには、たぶんGIESCOが偽の情報を書き込んで、最終的にASKITに渡った、という線も考えられるんだ。むしろ、そっちの方が分かりやすいだろ」

 中村明史はテーブルに視線を落として考えた。石原宗太郎も天井を見上げて思量する。

 三木尾善人は話を続けた。

「それで、ASKITと司時空庁は、何も知らずに偽の情報の入った方のドライブを奪い合っていたが、実は、真正な情報の入ったドライブはGIESCOが持っていた。奴らは、その情報と飛んできたタイムマシンを基に、新製品の開発を続けた。そして近年、IMUTAが不調になったので直したいが、自分たちじゃ直せない。だって田爪の発明のパクリだから。それで、本当に開発した田爪を探し、連れて来た。軍はそれに協力しているだけ。出撃の失敗も、ストンスロプから目を逸らすための偽装工作。な。合うだろ。辻褄が」

 中村明史が尋ねる。

「真明教は、どう絡むんです?」

「分からん」

 三木尾善人は即答した。

 中村と石原は再び顔を見合わせて、今度は首を捻った。

 三木尾善人は、ばつが悪そうにコップの水を飲むと、石原の顔を見て言った。

「それで、石原、国税の方は。リストとの照合結果は、どうなった」

「あ……ええ?……ああ、すいません。忘れました」

「あん?」

「冗談です。ちゃんと終わっていますよ。報告するのを忘れていましたって事です」

 石原宗太郎は上着から古い手帳を取り出して開いた。

「ええと、まず、渡航者のうち、田爪瑠香と光絵幸輔を除く全員が真明教の信者ですね。渡航者本人か、その家族が信者です。どの渡航者も、渡航の直前に真明教に対して、巨額のお布施をしているようです。それから、田爪瑠香と光絵幸輔を除く渡航者のほとんど全員が、国税の要注視リストに名前が挙がっています。そのうち、マルサの査察対象になっていたのは、約半分。こりゃ、臭いますね」

 中村明史が怪訝そうな顔で言う。

「つまり、真明教は金絡みって事ですか」

 三木尾善人が頷いた。

「そうなるな、たぶん」

 石原宗太郎は人差し指を立てる。

「それから、もう一つ、面白いことが分かりました」

「なんだ」

「渡航者のうち、アキナガ・メガネ社の秋永広幸社長あきながひろゆき。司時空庁に金を払ったのにタイムマシンに乗れなくて、今、ストンスロプ社に八つ当たりの特許訴訟を提起している、あの秋永社長です。それから、南米での最後の犠牲者となった馬水まみず家。馬水諭隆、その妻の哲子、娘のリナ、その下のショウタロウ。この五人の渡航者全員が、ストンスロプ社とその子会社の株を保有しているんです」

「子供二人もか。下の子はたしか……」

「三歳です。かわいそうに。しかし、おかしいと思いませんか。普通、三歳の子の名義で株を保有しますかね。しかも、渡航の申し込みは、この子が生まれた後にやっているはずなんですよ。胎児では申し込みできませんから。搭乗権の競争入札の状況からして、渡航の直前に申し込んだとは考えられません。だとすると、このショウタロウ君が生まれて直ぐに渡航の申し込みをして、その後数年のうちに、この子の名義で株式を保有した事になります。としても、数年後にはタイムマシンで渡航する訳ですから、その株式を失う訳でしょ。不自然じゃないですか。これ」

 三木尾善人は険しい顔で答えた。

「憶測じゃ、何とも言えんがな。しかし、確かに妙な感じはするな。その株式の正確な取得時期は確認できんのか」

 石原宗太郎は両肩を上げる。

「いや、そこまで調べるには、ストンスロプ社の株主名簿データにアクセスしないと無理ですね。正式に嘱託でもかけられれば見る事は出来ますが、駄目なんですよね。あの会社には」

「そうだなあ。上の許可が下りんだろうな。少なくとも、新原管理官が激怒する」

「だろうと思って、一応、それとなく国税の方に聞いてみたんです」

 三木尾善人は片眉を上げて片笑んだ。彼は言う。

「で、なんだって」

「やっぱり、具体的な株式の取得時期までは教えてもらえませんでしたが、その国税専門官が遠まわしに言うんですよ。どうも、渡航者の全員がストンスロプ社の株式を何らかの形で保有しているそうなんです。勿論、あの田爪瑠香も含めて」

 中村明史は眉間に皺を寄せた。三木尾善人も腕組みをしながら顔を曇らせる。彼は首を傾げて言った。

「まあ、上場企業の中でも世界的大企業として一番人気のストンスロプ株だからな。富裕層の保有率が高いのは解かるが、それにしても全員とは、ちょっと出来過ぎだな」

 石原宗太郎は頷いた。

「ですよね。それで、他に渡航がキャンセルになった人物が、ストンスロプ株を保有していたか、調べてみたいんですけど。ストンスロプ社に対する捜査情報提供嘱託、やっぱり無理ですかね」

 三木尾善人は厳しい表情で唸る。

「うーん。この状況じゃ、ちょっとストンスロプ社には無理だろうな……」

「ですよね。ああ、もう」

 激しく頭を掻いた石原宗太郎は、三木尾に言った。

「善さん、これから、どうするんです? せっかくここまで色々と分かってきたのに、ストンスロプも軍も駄目、真明教も駄目じゃ、動きようがないじゃないですか」

 三木尾善人は石原と中村の目を見て言った。

「GIESCOも駄目だって、管理官は言ってたよな」

 石原宗太郎は手帳を仕舞いながら頷く。

「ええ。美空野に睨まれたから、GIESCOの線も断たれたって。ったく、官僚のくせして、なにビビッてんだよ、あいつ」

「……」

 暫らく険しい顔で何かを考えていた三木尾善人は、仕切りをつけた。

「とにかく情報と証拠を集めよう。それが無いと、嘱託もへったくれも無い。あくまでも本命は……」

 少し間を空けた彼は、静かに言う。

「いや、本命は田爪だ」

 そして、端末をポケットに仕舞っている中村を指差した。

「中村、手が空いてたら、真明教の資金繰り状況を調べてくれるか」

 続けて隣に指を向け直す。

「石原は、例の事故情報の取得を急げ。時間がかかり過ぎだぞ」

「了解でーす」

 そう答えた石原の隣から中村明史が尋ねた。

「軍の方はどうしましょうか」

 三木尾善人は掌を向ける。

「とりあえず、そこでストップ。軍規監視局が捜査しているんなら、邪魔は出来んだろ。そっちの方面は、また何か思い当たったら指示するよ」

 石原宗太郎が眉間に皺を寄せて三木尾に言った。

「バード・ドッグかあ。内輪の捜査って信用できますかね。あいつらには、俺も前に散々な目に遭いましたからね」

 三木尾善人は石原の顔を見て言った。

「明日、直接行って話を聞いてみるか。凱旋も悪くないだろ」

 石原宗太郎は鼻に皺を寄せた。

 中村明史が三木尾に尋ねる。

「この後、警部はどうするんです?」

 三木尾善人は箸を持ち上げて答えた。

「そうだな……。ま、とりあえず、神頼みでもしてみようと思ってる。――うえっ、なんだよ、麺がのびちまってるじゃねえか」

「まだ食ってなかったんですか……」

 石原宗太郎と中村明史は呆れ顔で三木尾を見ていた。

 三木尾善人は、また、のびた麺を啜っていた。



                  十一

 三木尾善人と石原宗太郎、中村明史の三名は、朱塗りの大きな門の前に立っていた。門の向こうには、白い玉砂利の上に敷かれた石畳が敷地の奥まで続き、その先には寺院造りの大きな建物が三人を待ち構えるようにして建っている。

 三木尾善人は門の下の敷居を跨ぐと、数段の石段を降りて石畳の上を歩き始めた。彼に続いて歩く石原宗太郎が、正面の大きな屋根の平屋を見上げながら言う。

「へえ。ずいぶんと立派なもんですねえ。高額お布施の集大成ってやつですな」

 ガンクラブ・チェックの上着の上から腰を押さえながら、三木尾善人が彼に尋ねた。

「ここは奴らの本拠地だが、宗教的聖地ってのは別にあるんだろ?」

「ええ。山奥の方に、寺だか神社だかしれんものを造っているようですね。月に一度は、そこで祈祷会を開いているようです」

 二人に続いて歩きながら、周りをキョロキョロと見回していた中村明史が言った。

「ほんと、仏教系と神道系のどっちなんですかね。基本的な造りは和風ですけど……」

 石原宗太郎が目の前の神殿の屋根を指差して言った。

「あまいな。あの屋根の上のあれは、はじっこのやつ、あれはイスラム教のモスクっぽいぞ。両端の窓も見てみろ」

 中村明史は目を凝らす。

「あ、ステンドクラスにマリア像」

 三木尾善人が前を向いたまま横を指差した。

「そっちには牛の石造があるぞ。まったく、何がしたいのやら」

 苦笑いしながら歩く三木尾の横で、石原宗太郎が不安そうに尋ねた。

「でも、善さん。本当に大丈夫なんですか。管理官に言っとかなくて。さっき、有働がどうのこうのって言ってたじゃないですか。やっぱ、後々問題になるんじゃ……」

 三木尾善人は前を向いたまま答える。

くさびは問題が起こる前に打っとくものだ。現場には現場のやり方があるだろ」

 すると、どこからか黄色いジャージ姿の小太りの女が、箒を握ったまま走ってきた。彼女は笑顔を作って、気取った高い声で話しかけてきた。

「あ、いらっしゃいませえ。もしかして、入信希望者の方ですか?」

 三人は上着から警察バッジを取り出すと、一斉にそれを女に見せた。

 石原宗太郎が言う。

「警察です」

 女は何度も瞬きしながら言った。

「あれ、もう、いらっしゃったんですか? もう少し後になるかと……」

 三人の刑事たちは顔を見合わせた。

 石原宗太郎が尋ねる。

「他に警察が来る予定が有るんですか?」

 黄色いジャージ姿の女は、喉元の汗を拭きながら取り繕う。

「あ、いえ。私の勘違いでした。金のバッジで、その……そう、警備会社の方かと。近頃、物騒でございましょう。おほほほほ」

 女の不自然な弁明に、三人の刑事は再び顔を見合わせた。三木尾善人が名刺を取り出し、石原に渡す。石原宗太郎はそれを受け取ると、中村にも名刺を出すように促しながら、自分の名刺入れを取り出した。彼は自分の名刺も出して、それら三枚の名刺を女に渡す。

「あの、こちらの南正覚みなみしょうかくさんにお会いしたいのですがね。ちょっとだけ、お話しを伺いたくて」

 女は箒を地面に置くと、石原が差し出した三枚の名刺を両手で丁寧に受け取ってから、精一杯の作り笑顔で答えた。

「教祖様は只今、定例会議に出ておりまして……具体的に、どのような御用件でしょうか」

 三木尾善人が言う。

「ああ、いや。ちょっと会って挨拶したいだけなんだ。伝えるだけ、伝えてもらえないか」

「はあ、分かりました。少々お待ちいただけますか。あちらの中でお待ちください」

 女は、本殿の広い間口の玄関の方を手先で示すと、箒を拾い上げて、その建物の裏手の方に走っていった。

 三人の刑事たちは石畳の先の石段を上り、その先の格子作りの大きなガラスサッシを開けた。高い敷居を跨いで中に入ると、平石が敷かれた十畳ほどの広い玄関があった。奥行きの広い踏込みの先には天然木製の上がり框が敷かれ、その向こうには、高級和紙の障子の前まで畳みが敷かれている。その六枚の障子戸は左右に開け広げられていて、その向こうに体育館ほどの広さの本堂が見えた。奥の方には金銀煌びやかな祭壇が豪勢に飾られていて、その手前の横一列に置かれた台の上に、小型のカード読み取り機が並べられている。その手前の中央には一段高くなった部分があり、その真ん中に分厚い座布団が置かれていた。

 鴨居にぶつけた頭を掻きながら、石原宗太郎がその座布団を指差した。

「あそこに正覚が座って、入信者たちに説教するんですよ」

 そして、顎先で祭壇の前に並んだ金属の小箱を指しながら言った。

「奥に並んでいる機械が、お布施を取る為の電子マネーチェッカーです」

「ふうーん」

 三木尾善人は、周囲を見回した。隅々まで掃除が行き渡っていて、よく整理されている。一足も靴が並べられていないところを見ると、今は誰も来訪していないようだ。三木尾善人は念のため、奥の本殿の中を覗き込んで確認したが、やはり誰も居なかった。彼は端に寄せられた障子を眺めて言った。

「防弾性だな」

 隣の石原宗太郎が顔を前に突き出して、目を細めながら言う。

「そうですね。防弾和紙ですね。――あらら、最高級品だ」

 二人に背中を向けて、さっき開けた格子戸を観察していた中村明史が言った。

「こっちのサッシも防弾ガラス製ですよ」

 三木尾善人は、呟いた。

「いったい誰に怯えているのかねえ」

 三人の刑事が暫くの間、その玄関の中で待っていると、本殿の祭壇の端の方に設けられた電子和紙製の襖の表面が、赤、白、青と輝きながら、自動で左右に開いた。スポットライトを浴びながら、法衣に身を包んだ丸坊主で小太りの老人が、不機嫌そうに本殿の中に入ってくる。

 その法衣の男は、手に握った、畳まれた長い扇子を、開いた襖の向こうに座っていた黄色いジャージ姿の男に向けて言った。

「信者が居ない時は、電気を切っとけと言ったろう。馬鹿者が」

 そして、金糸の刺繍が施された長い裾をひらりと舞わして振り向くと、背筋を正し、もう片方の手に握った大数珠を揺らしながら、速足で三木尾達がいる玄関の方に歩いてきた。

 三木尾善人は、石原に小声で確認する。

「アレが正覚か?」

「ええ。そうです」

 三木尾善人は、左右に立っていた部下に、さらに小声で言った。

「礼儀正しく行こうな」

「了解です」

 南正覚は障子の敷居を跨ぎ、玄関の畳の上に力強く立って、上から仁王のような表情で刑事たちを見下ろした。

 三人の刑事たちは丁寧に一礼する。すると、南正覚も背筋を伸ばしたまま丁寧に美しい御辞儀をした。

 三木尾善人は一度眉間に寄せた皺を戻して、口角を上げ笑顔を作った。

 頭を戻した南正覚は、三人を再度見回すと、三木尾のところで視線を止め、言った。

「ようこそ、我が教団施設へ。まあ、どうぞ、中へ」

 三木尾善人は、顔の前で手を振る。

「ああ、いえ。こちらで結構です。すぐに済みますから」

 南正覚は一歩だけ前に出ると、少しだけ顎を上げて、刑事たちに目線を向けた。

 三木尾善人は笑顔で言う。

「それにしても、すばらしい内装ですなあ。あの天井板は、やはり天然木ですか。ひのきか何かで?」

「そうじゃ。やはり板木は自然の物に限るからの」

 三木尾善人は、さらに尋ねた。

「こちらのサッシも、随分と高級なガラスを入れておられますなあ」

「ああ、ちと特別な物をな」

 三木尾善人は前を向き直すと、頭を掻きながら言った。

「いやあ、我々の安月給では、到底、手に入れられませんな。いや、羨ましい限りです」

 南正覚は憮然とした顔で刑事たちに尋ねた。

「警部殿、ええと、三木尾さんとおっしゃいましたかな、今日は一体どういうご用件で。この南正覚に何を訊きたいのかな?」

 南正覚は意外にも堂々とした威厳のある態度であった。防弾装備に囲まれて何かに怯えている男には見えなかった。

 三木尾善人は隣の石原と顔を見合わせてから、南に切り出した。

「実は、おたく達の教団とストンスロプ社とは、どういう関係なのかを聞きたくて、伺ったのですよ」

 三木尾善人は南の反応を待った。今朝ほど、ストンスロプ社の本社ビルを訪ねた三木尾善人は、対応した弁護士の美空野が思いの外に早く行動した事から、おそらくは南の方にも、警察が動き出したという連絡は来ているであろうと予測していた。もし、この教団が事件に関与しているのなら、まず、事情を尋ねもせずにストンスロプ社との関係を否定するであろう。そして、ストンスロプ社との関係について問い詰めれば、逆に、捜査の進展状況が気になるはずだから、必ず、それについて問うてくるだろうと目算していた。

 だが、以外にも南正覚は、清廉とした眼差しで三木尾たちをじっと見つめていた。三木尾善人は彼の人相を観察した。日に焼けた老練の顔は随分と肉付きがよく、弛んでいる。しかし、その目は、前に立つ三木尾たち一人一人の目や手の位置、足の位置をしっかりと確認していた。三木尾たちには、それが、まるで刑事が容疑者と対峙している時のような、鋭く的確な観察のように思えた。

 三木尾善人にストレートに尋ねられた南は、ゆっくりと目を瞑り、暫く考えた。再び目を開けた彼は、三木尾の顔を正面から見据えて、ゆっくりとした口調で不機嫌そうに答えた。

「知らんよ。ワシらとは何の関わりも無い」

 回答は三木尾の予想したとおりであった。それで、三木尾善人は次のフローに進み、今度は慎重に質問をした。

「南米でも、随分と熱心に布教されておられるようですなあ。この戦争の最中に。大変だったでしょう」

 もし、この戦争に教団が関与しているなら、何らかの反応があるはずだと三木尾善人は考えていた。そこで三木尾善人は、南の眉の動き、眼球の動き、鼻孔の変化、口角、顔色に意識を集中して観察した。

 ところが、南正覚が眉一つ動かさずに淡々と、今度は速やかに答えた。

「うん。まあ、確かにな。苦労は多かった。それで、何が訊きたいのじゃ」

 三木尾善人は目の前の強敵に、慎重に丁寧に一本ずつ矢を放つ。

「いや、実はね、私、先日向こうへ行ってきたのですよ」

 南正覚の弛んだ額の肉が皺を作った。そして彼は、一言だけ発した。

「ほう」

 南正覚は、三木尾の顔を凝視したまま何も言わない。

 三木尾善人は、さらにフローを次の質問に進める。彼は、もう一つの疑念の確証を得る為に、ひとつ細工をして南に言を発した。

「向こうの人達が言うには、おたくの信者は、そのほとんどがイカモノかゲリラだってことらしいのですよ。それでね、これはまあ、噂なんですがね……」

 そこまで言いかけて、三木尾善人は少し意図的に間を置いた。三木尾善人は仁王立ちしている南の後ろの鴨居に見えた横長の掛字に目を遣る。丁寧に表装されたその掛物は、枯れた筆遣いで『本地ほんじ垂迹すいじゃく』と書かれていた。神仏一体を示すその語を見た三木尾善人は、南の服装に目を向けて、そのちぐはぐな組み合わせに納得した。ベテラン刑事は再び南の目を見て、慎重に言葉を選びながら質問を続ける。

「噂では、どうも、向こうのゲリラの活動を、真明教団が裏からバックアップしていたんじゃないかって……なんせ、私は日本人でしょう。向こうで現地の人達に色々訊かれましてね。――まあ、私も警察官なんで、それで、こうして今日、お話を……」

「何をぬかすか、この無礼者が」

 南正覚は、低く嗄れた声で三木尾に怒鳴りつけた。

 三木尾の隣で髭をいじっていた石原宗太郎は、驚いて首を顰めた。

 三木尾善人は、南の表情と発言に集中する。

 南正覚は、姿勢を正すと、握っていた大きな扇子を畳んだまま三木尾の前に突き出して、少し興奮した顔で声を荒げた。

「ワシらは、あの戦争で焼け出された戦災孤児や民間人を救うために金を送っておるのじゃ。ワシらが南米にどれだけの数の戦災孤児保護施設を建設したと思う。ワシらはその施設に食料や医薬品などの必要物資と運用資金を提供しているだけじゃ。勿論、信者の中には、前科者もいれば、ゲリラ兵士もいる。しかし、それがどうした? 彼らには未来への希望が必要じゃ。ワシの予言が必要なのじゃ」

 三木尾善人は、ほくそ笑んだ。南正覚は三木尾が張った罠に掛かった。そして、その事を彼自身が気付いていない。三木尾善人の疑念は確信に変わった。だから彼は、そこで一旦、質問を打ち切った。

 その時、中村明史の視界には、正覚の前に「村田リコ」という文字が浮かんでいた。彼の脳内の聴覚野にだけ着信音が響く。イヴフォンへの電話の着信である。中村明史は、この緊張した状況でイヴフォンを音声操作する訳にもいかず、ただ黙って、頭の中に鳴り響くイヴフォンの着信音に耐えていた。おかげで、先輩たちと正覚の遣り取りがよく聞こえない。中村明史は不用意に電話を掛けてきた村田に苛立ちながら、眉間に皺を寄せていた。

 三木尾の攻撃の停止に気付いた石原宗太郎が、再び口の周りの髭を右手で撫でながら、南に尋ねた。

「たしか、こちらの教団の方々が信じておられるのは、予言を信じて悪しき事態を回避する……そういう事ですよね」

 南正覚は憤怒で赤く染まった顔を大きく縦に振ってから、答えた。

「そうじゃ。それが宇宙の真実じゃ。ワシが予言した事は必ず起こっておる。予言は正しい。だから、それを信じて、危険を回避すればよいのじゃ。しかし、実際には回避できていないようじゃがの」

 三木尾善人は南正覚が大数珠を握る手に力が入っているのを見て、片眉を上げた。そして、石原の質問に対する南正覚の回答を反芻し、考察し、生じた疑問を彼にぶつけた。

「時吉提案では、パラレルワールド肯定論者でいらっしゃいましたな。その方が予言を?」

 すなわち、行動によって未来が変化し、別の時間軸へと進むのであれば、その予言した事象は生じるはずが無く、予言の意味がなくなってしまう。三木尾善人は、その点を問うていた。

 南正覚は両目を瞑り、顔の前で合掌して、静かに答えた。

「どの未来においても、宇宙の神により予言された事は絶対に起こる。宇宙の神様は万能の神様なのじゃ」

 三木尾善人は再び石原と顔を見合わせた。石原宗太郎は南正覚の禁じ手の珍回答に呆れた様子で、少しだけ眉を傾けていた。

 先輩たちの様子を見て、彼らが会話に間を開けたのを察した中村明史は、その一瞬の間を好機と捉えて、音声でイヴフォンを操作し、手動操作に戻す。彼は小声で早口で言った。

「マニュアル・オペレーション(手動操作)オン」

 すると、なぜか猛烈に憤怒した南正覚は、大数珠を握っていた左手を中村の顔の前に突き出して、大声で怒鳴った。

「なんじゃと。もういっぺん言ってみい!」

 三木尾善人は、中村の後頭部を軽く叩いて、南に向けて謝ると共に、中村を叱った。

「すみません。――馬鹿、謝れ!」

 後頭部を押さえながら中村明史は、南正覚に一礼した。理由が分からなかった。だから、彼の低頭は浅い。中村明史はなぜ自分が叱られたのか分からないまま、口を尖らせて、体を横に向けた。彼はネクタイに留めたイヴフォンのボタンを指で押して、手動操作で電話に応答する。やっと彼の脳内から、それまで鳴り響いていた着信音が消えた。

 南が中村を鬼のような形相で睨みつけているので、石原宗太郎が口を開いて、彼の意識を自分に向けさせた。

「とにかく、おたくではゲリラの支援は、なされていないと」

 南正覚は興奮を抑えながら、石原に対して胸を張って答えた。

「当然じゃ。なぜワシらが戦争の支援をしなければならん。そんな事は断固として否定するぞよ。それとも何か、警察はワシらの信仰にケチを付けに来たのか? 権力が信仰の自由を侵害するつもりか?」

「いえ、そんなつもりは……」

 三木尾善人が即座に否定した。弁護士の美空野ならともかく、宗教家の南が憲法上の権利を主張してくるとは思ってもいなかった石原宗太郎は、少し慌てる。一方で、三木尾善人は慌てていなかった。彼には予想の範囲内であった。その予想の出発点は彼の確信であり、そこから逆算すれば、南がそのような視点で捉えるであろう事は、三木尾には容易に察しがついていた。玄関の上がりかまちの向こうに仁王立ちしている南智人を、三木尾善人は鷹のような目で睨みつけた。

 その頃、中村明史の視界には、框を隔てて鼎立している三人の姿の前に、半透明の村田リコが映っていた。彼はイヴフォンで村田と通話している。彼にだけ見えている村田リコは、正覚の前で手足をバタつかせながら、喚いていた。もちろん、その声は中村以外には聞こえていない。

 中村明史は下を向くと、迷惑そうに小声で言った。

「え? どういう事? ――あのさ、リコちゃん、緊急事態じゃなかったら、メールにしてよ。こっちは今、ものすごく取り込み中なんだけど」

 村田リコの像も小声で返してきた。

『だから、緊急事態なんですって。いま、新原管理官がまた来たんですう。もう、カンカン。ブチキレてましたよ。三木尾は居るかあって』

 中村明史は三人に背中を向けて、忍び声で話した。

「ええ? なんで。リコちゃん、何か、やらかした?」

 村田リコの像は眉間に皺を寄せて言う。

『わーたーしじゃ無いですよ。そっちです、そっち。警部に怒ってるんです。今、真明教の施設に居るんでしょ?』

「え? 何で分かるの」

『新原管理官が言ってました。警官が宗教施設に軽々しく踏み込むなあ!、大至急呼び戻せ! って。――はい。私、伝えましたからね。後は中村さんの仕事ですからね。バトンターッチ。そいじゃ。よろしく』

「よろしくって、はあ? もしもし、もしもーし。切れた。何がターッチじゃ」

 イブフォンのスイッチを押しながら独り言をブツブツと言っている中村に、三木尾善人が尋ねた。

「どうした。何かあったか」

「警部、何やら新原管理官が直ぐに戻って来いって言っているみたいです」

 中村明史は三木尾に耳打ちする。

「管理官、ブチキレてるそうです」

 三木尾善人は俯くと、溜め息を吐いた。顔を上げて南に言う。

「すみません。急に戻らんといかんみたいで。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。いやあ、しかし、これで安心しましたよ。例の田爪の事件で、南米の市民は随分と怒っているみたいなんでね。もしも教団がそれに関与していたら、イチBあたりのレベルで警戒態勢とって、ここやら他の施設やらを警備しなきゃならんかなと思っていたんですよ。南米から移住している人間も多いですからね。いや、でも本当によかった。安心しました」

 三木尾善人は南を睨みつけたまま、石原と中村に言う。

「じゃあ帰るぞ」

 中村明史は、さっき南に睨みつけられたので、とりあえずもう一度深く一礼した。

「どうも失礼いたしました」

 すると、南正覚も中村に対して深々と丁寧に素早いお辞儀をした。その一礼は凛としていて、美しかった。その南正覚を三木尾善人はじっと見つめる。彼は片笑みながら、玄関の戸口へと向った。

 三木尾善人は、腰を叩きながら敷居を跨ぎ、格子戸を閉めようとする。そして、ふと何かを思い出したように大げさに額を叩くと、踵を返して玄関の中に一歩だけ戻った。彼は本殿の奥に戻ろうとしていた南正覚に向かって、大声で言う。

「あ、それからもう一つ。田爪の奴がね、生きているかもしれんのですよ。なんせ、奴も信念の男ですからな。ま、何か気になる事がございましたら、私どもまでご一報下さい。市民を守るのが我々の義務ですから」

 三木尾善人は帰り際に爆弾を放り込んでいった。そして、正覚に向けて軽く敬礼してから振り返り、またニヤニヤしながら敷居を跨ぐと、格子戸を丁寧に閉めた。

 三人は朱塗りの門へと歩いて行く。

 三木尾善人は、白い玉砂利の上の石畳を歩きながら言った。

「意外と、まっすぐな奴だったな。気宇壮大な男なのかもしれん」

 隣を歩いていた石原宗太郎が眉尻の絆創膏を掻きながら顔を曇らせる。

「そうですかね。言ってる事が滅茶苦茶じゃないですか。馬鹿なんですかね」

 三木尾善人は片笑みながら言い直した。

「まっすぐな馬鹿だ。まあ、奴が庶民の救済を真剣に考えている事は、信じていいかもな」

 石原宗太郎は眉間に皺を寄せる。

「ですかねえ。俺には、金儲けのための詭弁にしか聞こえませんでしたけどね。時間の無駄でしたかね。まあ、ストンスロプ社の事は関係を否定してくれましたから、強制捜査の糸口は作ってくれましたけど。でもやっぱり、物証が無いから駄目ですかね」

「そうでもねえぞ。収穫はあった。中村、例の調子で調べて欲しい事がある。耳を貸せ」

「はい。何ですか?」

 中村明史は怪訝な顔をして三木尾に頭を寄せる。

 三木尾の耳打ちが終わると、中村明史は眉を寄せて言った。

「はあ。分かりました。調べてみます。全国じゃなくて、そこだけでいいんですよね」

「ああ。急いで頼む。こいつより早く見つけろよ」

 三木尾に親指で指された石原宗太郎が両眉を上げた。

「あれ、善さん。何で俺には教えてくれないんですか」

「馬鹿野郎。おまえには、瑠香の両親の事故についての記録集めっていう仕事があるだろ。そっちを急げ。ボーとしてると、後輩に追い抜かれるぞ」

 石原宗太郎は、下唇を出して首を竦める。

 刑事たちは、朱塗りの巨大な門をくぐって、車まで歩いていった。



                  十二

 三木尾善人は、石原と中村を引き連れてエレベーターから降りてきた。警視庁ビルの幅の広い廊下を少し早足で歩きながら、彼は言う。

「ああ、それからな、光絵会長の義理の兄貴、光絵幸輔だっけ、そいつのこれまでの経歴をもう一度洗え。石原、おまえがやれ」

「了解。でも何で光絵の……」

 三木尾善人は立て続けに指示を出す。

「それから、中村」

「はい」

「おまえは、軍の阿部亮吾っていう男の経歴を調べろ。例の赤鬼集団の大将だ」

「了解です」

 三木尾善人はガラス製のドアを開けた。第五係室には村田リコだけが座っている。三木尾善人は自分の机に戻り、立ったままパソコンの画面を覗き込んでメールの着信を確認した。石原と中村がそれぞれの席に腰を下ろすと、三木尾善人は体を立てて言った。

「じゃあ、俺は管理官に怒られてくる」

 三木尾善人がガラスドアの方に歩いていくと、机の上の立体パソコンの上に浮かんでいるホログラフィー・アイコンに触れながら、中村明史が言った。

「あ、警部。鑑識から例の画像の解析とDNAの照合結果が上がってきてます」

 三木尾善人は石原の横で立ち止まる。

「おお、そうか。ああ、リコちゃん。俺が戻ってくるまでに、司時空庁のセキュリティとシステム・メンテナンスを請負っているのは何所か、調べられるかな」

「それは、警部がどのくらいの時間、お説教されるかによりますけど……」

「……」

 一瞬だけ閉口した三木尾善人は、村田に指を振りながら歩いて行く。

「とにかく、調べてくれ。連絡先が分かればいい」

「はーい」

 軽い返事をした村田リコは、慌てて三木尾に叫んだ。

「あ、警部。さっき、『キューハチ・ツール』っていうお店から警部に電話がありましたよ。ハマーさんの自動車の事でお話がありますって」

 ガラスドアのノブに手を掛けた三木尾善人は振り返った。

「あ? 『キューハチ・ツール』? ――知らんなあ」

 椅子を回して三木尾の方を向いた石原宗太郎が言った。

「ああ、たぶんそこ、ガソリンカー専門の修理工場ですよ。寺師町の地下高速道路の入り口、三番口、あそこを出てすぐ右の角を曲がったところにある。かなりマニアックな修理工場ですね」

 三木尾善人は眉を寄せる。

「ハマーの奴、さては事故ったな。――ったく。石原、悪いが近くの交番から一人行かせてくれ。どうせまた、何か事件絡みだ。少し多めに記録画像を取っておくようにも言っておいてくれ。悪い」

「あいよ。了解でーす」

 三木尾善人はガラスドアを引き開ける。

「あ、善さん!」

 石原宗太郎が呼び止めた。

 三木尾善人はドアを開けたまま立ち止まる。

「なんだ」

「冷静に。クール・イズ・ベストですよ」

「分かってらあ」

 三木尾善人はドアを閉めて廊下へと出た。ガンクラブ・チェックの上着を整えながら、彼は呟く。

「ったく、なんだよ。ワイシャツの宣伝しに行くんじゃねえっつの」

 三木尾善人は幅の広い廊下を歩いていった。

 新原管理官の部屋の前に着いた。ドアの前で深呼吸をしてから、軽くノックをする。返事が無い。三木尾善人はドアを開けた。

「失礼します」

 部屋の奥の机の前に、制服姿の子越智弘警察庁長官が立っていた。その前の応接椅子の横で新原海介管理官が直立不動のまま、頭を垂れている。

 三木尾善人はドアを開けたまま姿勢を正し、敬礼した。手を下ろした彼は小声で呟く。

「こりゃ、リコちゃんも、余裕を持って調査できるな」

 子越智弘は言った。

『ん? どうした。誰か来たかね』

 新原海介は、ドアを開けたまま部屋の入り口の前で立っている三木尾を一瞥すると、子越に言った。

「三木尾警部です。――三木尾君、入りたまえ」

「はい。失礼します」

 三木尾善人は、軽く一礼してから部屋の中に入る。

 目を細めて子越を見つめる三木尾に新原海介が言った。

「ホログラフィーだ。ここに立って。そう、その辺だ。どうです、長官。ご覧になれますか」

 新原が映像の鮮明度を上げていたため、三木尾には実像か虚像かの区別が一瞬つかなかったが、室内に立っていると思われた子越智弘は、天井から投影されたホログラフィー画像だった。新原海介は、通りの向こうの警察庁ビルの最上階にいる子越智弘長官と立体映像通信をしていたのだ。だから、新原海介は三木尾が子越の部屋の立体映像に映し出されるよう、カメラに映る位置に三木尾を誘導したのだった。 

 目の前の立体映像の子越智弘が言った。

『うむ。よく見えているよ。三木尾警部、ずいぶんと私の顔に泥を塗ってくれたじゃないか』

「真明教の事でしょうか」

 三木尾の発言に、隣の新原海介が声を荒げた。

「何をとぼけた事を! あれほど言ったじゃないか。君は……」

 子越智弘が右手を上げて新原を制止する。彼は三木尾に顔を向けた。

『三木尾警部、分かっているのかね。君は自分の上司にも多分に迷惑をかけているのだよ。本来なら、彼に指導するのは警視総監の役割だ。それを、警察庁長官の私が、わざわざこうして直接、彼に苦言を呈さねばならん。これが、どういう意味か、分かるかね』

「はあ、申し訳ありません。私の独断専行によるものです」

『そんな事は分かっとるよ。いいかね。これは、総理から直々の苦言なのだよ。私はそれを伝えているのだ』

 三木尾善人は眉をひそめ、怪訝な顔をした。真明教に接触すれば、彼らに資金援助されている有働代議士からクレームがつくと予想していたが、まさか、捜査を命じた辛島総理から苦言を呈されるとは思っていなかったからである。

 三木尾の顔を見て、子越智弘は言った。

『解かっとらんようだな。警察が令状も無く宗教法人施設に踏み込めば、信仰の自由の侵害だと騒ぐ連中がいる。国家権力の権限蝓越だとな。それは、現政権の敵対勢力にとって、格好の攻撃材料にもなる』

 三木尾善人は胡散顔で言う。

「有働武雄ですね。真明教に支援されている有働前総理が、辛島総理に圧力をかけてきた。そうなんですね」

 子越智弘は口角を上げた。

『政治だよ。政治家が政治をしているだけだ。だが、これだけは、はっきりしている。警察庁からの命令で特設された警視庁の特別部署の刑事が三人で宗教家を恫喝したというニュースがテレビやネットで流れでもしたら、野党勢力は、ここぞとばかりに現政権を攻撃してくるぞ。このタイミングだ。辛島政権が退陣に追い込まれる可能性もある。その場合、君はどう責任をとるつもりかね』

 三木尾善人は隣の新原の顔を一瞥すると、子越に厳しい顔を向けた。

「お言葉ですが、長官。南は黒です。この件に絶対に絡んでいますよ。最悪、有働前総理も……」

 子越智弘が三木尾を発言を制止する。

『君は、まだ分かっちゃいないようだな。我々は過去の事に眼を向けている訳では無いんだよ。未来を考え、今を見とるんだ。私は田爪健三の確保を命じたはずだ。過去の事件の真相解明など命じてはいない。今、この国にとって重要なのは、他国に先立って田爪を確保する事だ。それが重要なんだよ。それから……』

 子越智弘は三木尾の隣で立つ新原に目を向けると、少し考えて、言った。

『まあ、いい。新原君、君にも言っておこう。ドライブだ。これは何としても我々が回収せねばならん』

 新原海介が尋ねる。

「田爪の例のバイオ・ドライブですか?」

『そうだ。あれが、SAI五KTシステムの制御のために必要なのだよ。もちろん、田爪博士を無事に捕まえられれば、それに越した事はない。だが、それが上手くいかなかった場合の安全策も採っておかねばならん。あのドライブは何としても回収する必要があるのだ。警察の威信が懸かっとる。いや、この国の中で今後大きな発言権を得るのが、軍か、防災か、警察か、あるいは民間の巨大企業体か、今はそれを決する天王山とも言える。君も警察官僚なら、このくらいの事情は理解できるね、新原君』

 三木尾善人は、新原の顔を見て肩眉を上げた。

 新原海介は頭を下げたまま、子越に言った。

「は。承知いたしました」

 子越智弘はさらに続ける。

『だから三木尾警部、君たちは余計な事はしなくていいんだよ。まずは田爪の身柄さえ押さえてくれれば、それでいい。ドライブの方は、新原君、君が直接指揮してくれ。いいね』

 三木尾善人は言った。

「ですが、長官。奴は量子銃を持ったまま姿を消しているんですよ。もし新たな被害者が出たら……」

「三木尾君。控えたまえ」

 そう三木尾を制した新原海介は、子越の映像に顔を向けた。

「長官。確認なのですが」

『なんだね』

「ドライブの捜査については、私に一任していただけるという事ですね」

 子越智弘の像は首を縦に振る。

『そうだ。三木尾警部には、ドライブの件からは手を引いてもらおう。官邸には、そう報告しておく』

 新原海介は真っ直ぐに立ったまま、子越の像を見据えて言った。

「それから。もう一つだけ、よろしいでしょうか」

『うむ。聞こう』

「万一、田爪が量子銃を国内で使用した場合は、公開捜査に切り替えさせていただいて、よろしいですね」

 子越智弘の像は顰めた顔で頷く。

『うむ。その場合は仕方あるまい』

「その場合、全面展開の捜査になろうかと思われますが、ハイパーSATや特務隊を使用する事も必要になろうかと思われます。その際には、いかがいたしましょうか」

『そうだな。その時の世論の動向にもよるが、一応はそのつもりで居てもらおう』

「でしたら、その事前調査と作戦に必要な情報収集も兼ねて、三木尾警部には動いてもらってはいかがでしょうか。いざ部隊を使用するとなった場合に、それから建物の内部構造や突入の障害になる設備の情報を集めていたのでは間に合いません。そういった情報を事前に収集しておけば、いざと言う時に速やかに対処できます。世論の注目が高い場合に部隊を使用されるおつもりならば、その際には手際良く処理できた方が、政治的ダメージは最小限で済むかと思われますが、いかがでしょう」

 子越智弘は少し考えた。そして、顎を触りながら新原に目を向ける。

『なるほど。さすが新原君だ。公安委員会が推薦してきただけの事はあるな。どうやら、噂どおり君はニューリーダーになる素質のある男のようだな。よろしい。三木尾警部、そのつもりで適宜、情報も集めておいてくれたまえ。その情報は随時、新原君に報告するように。いいね』

 三木尾善人は子越の像を鋭く睨んで頷く。

 新原海介が三木尾に顔を向けると、子越智弘の像は三木尾の方を指差した。

『ああ、それから、君はもうすぐ定年だ。今後の警察の事や、この国の未来の事をもう少し深く考えて、しっかりと行動してくれたまえよ。新原君の仕事への目配せも怠ってはいかん。いいね』

 三木尾善人は頭を掻きながら言う。

「そんな、田爪の捜査だけで手一杯なんですけどね……」

「三木尾君」

 新原海介は三木尾をたしなめてから、子越の像に顔を向けた。

「承知いたしました。この新原が責任を持って対処させていただきます」

『うん。新原君。なかなか乗りこなすのが大変な馬だろうが、しっかり手綱を握っておいてくれよ。時々、暴走するんでな。ははは。では、よろしく』

「は。失礼します」

 敬礼する新原の前で、右手を上げたまま停止した子越智弘の像は、細かく波打ちながら消えた。

 三木尾善人は顔を横に向けて毒を吐く。

「なーにが、ははは、よろしくだ。手を上げる前に、こっちの給料あげろってんだよ」

 新原海介は大きく息を吐きながら、応接ソファーに荒っぽく腰を下ろした。

「はー。まったく……」

 三木尾善人は頭を掻きながら腰を折る。

「どうも、すみませんでした。管理官にもご迷惑をお掛けしました」

 新原海介は意外にも穏やかな口調だった。

「いや、長官の事だよ。犠牲者が出てから本格的に動くって、どういう事だ。ドライブの回収? 私は、そんな物には何の関心も無いよ。問題は量子銃だろ。それと連続殺人犯。長官は、国内で誰かが犠牲になった場合に、その遺族にどう説明するつもりなのかね。今までは国際世論と日本のイメージを最優先にしていたので、強力な捜査陣が敷けませんでした、申し訳ないって、説明するのかね。本当に私も、いい加減に嫌気が差してきたよ」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて、新原の顔を見下ろした。

「管理官、あんた……じゃあ、もしかして、さっきのハイパーSATの情報収集の話も」

 新原海介はソファーの背凭れに身を倒して言った。

「政治だよ。政治をしただけさ。これでも私は官僚だからね。田爪の確保にハイパーSATを投入するのなら、その急襲先は奴が潜伏している所って事になるだろ。もしくは、量子銃がある所。それなら、それらの可能性がある場所は、全て出向いて行って内部の様子を事前確認しとかないといかんはずだ。違うかね。それを君に任せると、長官が仰ったんだ。堂々と情報収集すればいい。ただ、警察官が他人の管理する建物にこっそり入る訳にはいかんからな、必然的にそこを管理する人間とは、話をせねばなるまい。その時に、たまたま田爪の件に話題が及んでも、それは話の流れというもので、仕方ないんじゃないのかね?」

 新原海介は顔を三木尾に向ける。

 三木尾善人は片笑んだ。

「ふん。あんたって人は」

 新原海介は、ソファーから勢いよく立ち上がって言う。

「ちなみに、ドライブの捜査は私に任された。直接に指揮をしろとね。だから、たった今、指揮をとろう。三木尾警部、ドライブの所在についても引き続き存分に捜査したまえ。責任は私が取る。但し、捜査の進捗状況については、逐時、報告してもらうよ。三度、同じようなトラブルは御免だ。いいね」

「了解しました」

 三木尾善人は若い管理官の顔を見据えて、敬礼した。新原海介は頷くと、自分の机へと歩いていった。

 三木尾善人は新原の背中をじっと見ていた。



                  十三

 第五係室では、三人の部下が上司の帰りを待ちながら仕事に取り組んでいた。

 石原宗太郎は机の上に浮いている可接触式のホログラフィー文書の頁を捲りながら、隣の中村に尋ねた。

「なあ、なんで軍人の捜査がお前で、光絵会長の義理の兄貴の捜査が俺なんだ。田爪瑠香の親族関係を調べたの、お前だろ?」

 中村明史は、机の上に幾つも並んで浮かんだ写真画像を見回しながら答える。

「三木尾警部は、きっと客観性を重視されているんですよ。前に調べた僕じゃない方が、余計な先入観無しで捜査できるじゃないですか。それに、両者を照合して、より正確な情報に絞る事ができる。そういう事じゃないですかね」

「じゃあ、なんで、さっき真明教の所で、警部はお前にだけ指示内容を耳打ちしたんだよ。俺には内緒かよ」

「それも、捜査のためじゃないですかねえ。まあ、僕の実力が認められてきたって事かもしれませんけど」

 石原宗太郎は中村の方に体を向けた。

「なんだ、なんだ? なんか、お前、この頃、先輩に対して偉そうじゃね?」

 ガラスドアが開けられた。中村明史が腰を反らして石原の向こうを覗く。

「あ、警部。お疲れ様です。どうでした?」

 三木尾善人は下を向いて歩きながら言った。

「ああ、ドライブの方の捜査からは外された」

 石原宗太郎が声を裏返す。

「はあ? じゃあ、どうやって田爪を探せばいいんですか。バイオ・ドライブが唯一の手掛かりじゃないですか」

 自分の席の椅子に腰を下ろした三木尾善人は言った。

「そんで、また捜査に戻された」

 石原宗太郎は首を傾げる。

「はあ? なんですか、それ。意味わかんないですよ」

「要するに、おとがめ無しだ。さあ、仕事、仕事」

 手を叩いた三木尾善人は、向かいの席に鋭い視線を向けた。

「で、石原。光絵会長の義理の兄貴。詳細は分かったか」

「ええ。だいぶ妙な事になってますよ。今、ちょうど、面白い情報を新聞記事から見つけたので、それの詳細を検索してる所です。ちょっと、待って下さい」

「そうか。じゃあ、中村。阿部亮吾とかいう軍人の方はどうだ。何か出たか」

「はい」

 中村明史は隅の方に縮小していたホログラフィー文書を標準サイズに戻して、それに顔を近づけた。

「阿部亮吾、五十六歳。国防陸軍第一七師団長。機械化歩兵連隊独立指揮官。対馬奪還作戦、アフリカPKO戦線にて功績をあげる。南米戦争でも極秘作戦に従事。ASKIT掃討作戦にも成功した彼は、軍内においても一目置かれる存在で、十七師団は今や国防軍の二大フロントの一つ……あれ? ちょっと待って下さい。ええと、これは……」

 中村明史は急に忙しそうに手を動かして、ホログラフィー文書を動かしたり、消したりし始めた。

「ああ!」

 中村明史と石原宗太郎が同時に声を上げた。

 三木尾善人が二人の顔を交互に見ながら言う。

「なんだ。どうした、二人とも」

「あ、いえ。じゃあ、先輩から」

「お前の方が、警部に報告してた途中だろうが。そっちから言えよ」

「分かりました。じゃ、遠慮なく」

 中村明史が報告を始めた。

「あのアフリカPKO作戦に日本が参加した時、深紅の旅団レッド・ブリッグが孤立したフランス軍の部隊を救出して、話題になったじゃないですか。その時の感謝状をあげる式典みたいなのが、後日に駐日フランス大使館で執り行われていて、その時の記事の画像でフランス大使と握手する阿部の画像が見つかったんです。で、彼の後ろの方に写っている制服姿の男が気になって、ネットで人相が一致する男の画像情報を自動検索してみたんです。そしたら、ばっちりヒットして、この男、国会の国防審議会の様子を写したニュース画像にも出ていて、さらに、もう一つ見つけた記事にも出ていたんです。十四年前に開かれた、ストンスロプ社の『創立百年記念パーティー』の会場を写した画像に。それで、名前を探ってみました。この記事の日付の国防審議会に出席していた国防省の人間と、パーティー出席者で軍関係の名前。これらの双方に出てくるのは『津留つる栄又さかまた』という氏名。それで検索すると、阿部亮吾が前に陸軍の第三師団で連隊長をしていた時に、第三師団と国防省との間で連絡担当官を務めていたのが、この津留のようです。それから、昨年は、GIESCO製の新型兵員輸送機のプレゼンを国防幹部達の前でやっているのも、この津留栄又です。それで、もう少し探ってみたら、この男は『国防装備品の安定的装備に必要な条件について』っていう論文を政府系の内部研究雑誌に寄稿しているんです」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せる。

「それが、どうしたんだ。官僚なら、論文くらい書くだろう」

 中村明史は三木尾の顔を見て言った。

「いや、問題は、その論文の表題の横に記されている著者の名前です。いいですか、読みますよ。国防省調達局、局長、津留栄又」

 三木尾善人は強く顰めて言う。

「調達局? 昼飯の時も出てきたよな。調達局って所」

「はい。例の緊急連絡スキームでSAI五KTシステムに関する緊急連絡部署の一つになっている所です」

 三木尾善人は腕組みをしながら言う。

「じゃあ、その津留栄又とかいう男は、SAI五KTシステムだけじゃなく、GIESCOやストンスロプ社、それから深紅の旅団レッド・ブリッグとも繋がりが深い可能性があるって事か」

 中村明史は頷いた。

「はい。可能性ですけど。でも、また繋がりましたね。軍とストンスロプ社。たぶん、この津留という男、ストンスロプ社とはズブズブの仲なんでしょうね。阿部とも個人的に親密なのかもしれません」

 三木尾善人も厳しい顔で頷く。

「かもな。調べてみる価値はあるな。ストンスロプ社と軍、ストンスロプ社と真明教か。光絵が軍と真明教を使って、田爪を日本に連れ込んだ。もし、そうだとしたら、田爪をかくまっているのは、やはりGIESCOだな。あそこには職員宿泊用のビルもあるんだろ?」

「そうですね。逃亡している科学者を匿うには、打って付けの場所ですよね」

 そう言った中村の目を見ながら、三木尾善人は言った。

「イチかバチかで、踏み込んでみるか」

 すると、石原宗太郎が口を挿んだ。

「いや、善さん。それ、どうですかね。こっちも、すごい記事を見つけたんですよ」

 三木尾善人は石原に顔を向ける。

「光絵の兄貴か。なんだ」

 石原宗太郎は事務椅子の背凭れに背中を押し当てて、隣の中村を軽く指差した。

「光絵幸輔は山の中に住所があるまま、動いていないって、中村が言っていたじゃないですか。それもそのはずですよ。精神病院とシャバを往復していたようですから」

「精神病院だと」

 三木尾善人の眉間に再び皺が寄る。

 石原宗太郎は身を起こして頷くと、机の上の手帳を捲り始めた。

「ええ。まず、順番に説明します。光絵昌宏の養子になる前の姓は尾木。尾木幸輔は孤児院で育っています。問題児だったようで、少年院には二度送られていますね。中で、そのまま成人を迎えています。それから、定職に付く事はなく、チンピラ稼業で地元警察の常連。前科もチンケなゴタで傷害が三犯。麻薬取締法違反が五犯。常習ですね。アンパンとチョコレートの密売もやっていたみたいです。麻取に記録が残っていました」

 村田リコが顔を上げて、中村に尋ねた。

「アンパンとチョコレート?」

 中村明史が村田に教える。

「隠語だよ。警察の。『アンパン』はシンナーの事で、『チョコレート』っていうのは、えーと、阿片樹脂なんかの麻薬物質を固めたやつのこと。密売人や常用者が隠し持っているんだよ、よく」

 石原宗太郎は手帳を指先で軽く弾いて言う。

「そんで、自分もヤクをやり過ぎて、精神病院に」

 三木尾善人は怪訝な顔で尋ねた。

「なんで、そんな奴がストンスロプの光絵家の養子なんかになれたんだ?」

 石原宗太郎は首を捻る。

「さあ。幸輔が三十歳の時に手続きをしていますね」

 三木尾善人は机の上に両肘を付いて身を乗り出した。

「それは、精神病院に入る前か、後か?」

「入る前ですね。この養子縁組手続きをした頃から、急に金回りがよくなったみたいで、その金で薬物類に手を出し始めたようです。麻取の調べによれば」

 三木尾善人は顔を顰める。

「麻薬取締局にもマークされていたのか」

 石原宗太郎は頷いた。

「ええ。古い記録が残っていました。それで、その当時の行動観察記録を見ると、尾木幸輔から光絵幸輔になった直後から、女が出来たみたいです。名前は、小野田幸子。その後に、小野田幸子が勤務していたスナックで暴力事件を起こし、傷害と器物損壊、公務執行妨害で現行犯逮捕されています。その裁判の際の精神鑑定で当たりが出て、精神病院に送致。七年後に仮退院となり、そのまま失踪です」

 三木尾善人は再び強く顔を顰め、聞き返す。

「失踪? どういう事だ」

 石原宗太郎は立体パソコンの前のホログラフィー・キーボードの上で指を動かしながら答えた。

「いや、でも後で、ちゃんと見つかっています。事件を起こしてね。今、当時の新聞記事をそちらに転送します。――どうです? 出ましたか?」

 三木尾善人は自分の机の上の液晶モニターに顔を近づけた。表示された記事を読み始めた彼は、すぐに口を開いた。

「ああ。ひでえ事件だな」

 自分のパソコンに転送された同じ記事を読んでいた村田リコも眉を寄せて言う。

「十六箇所刺したって、ひど過ぎ……」

 その記事を読んでいた中村明史が声を上げた。

「ああ! これ……」

 石原宗太郎は中村の方に顔を向けて頷く。

「そうだ。光絵幸輔は仮退院後、数日間放浪。当時既に他の男性と結婚していた幸子の家に現われ、復縁を迫り、それを拒んだ彼女を刺殺した。驚いたのは二点。まず、幸子を殺した光絵幸輔は、その後、繁華街に逃亡して通行人三名に創傷を負わせた後、駆けつけた警官の発砲で負傷し、運ばれた病院で死亡している。もう一点は、死んだ幸子の夫の名」

 三木尾善人が画面を見つめながら、静かに言った。

「南智人……」

 石原宗太郎は三木尾に顔を向けて、首を縦に振る。

「はい。あの南正覚の本名と同じです。正覚の住所暦と照合すると、一致します。つまり、同一人物だと思われます」

 三木尾善人は呟いた。

「南と光絵家。繋がったな」

 彼は、鋭い目つきでモニターの記事を睨みつけていた。

 中村明史が怪訝な顔をして尋ねた。

「でも、光絵幸輔が死んでいるって、どういう事です? この事件は二〇一五年ですよね。僕は光絵幸輔の戸籍情報を取得したんですよ。彼は今年の六月二十三日にタイムマシンで渡航していて、戸籍にもタイムトラベル法の生存権中断の記載がされています。裁判所の生存権中断確認書も発布されていましたよ」

 石原宗太郎は机の上に浮かんだ新聞紙のホログラフィー画像を指差しながら言った。

「まだ、この新聞記事だけしか見てないからな。俺も何とも言えないが……。善さん、奴が死んだという記事が誤報だと思います?」

「あるいは戸籍の記載が間違っているか、だな。他の記事は見つからなかったのか」

 石原宗太郎は眉を八字にして答えた。

「それが、俺が見つけられたのは、その一つだけなんですよ。後は、ネット上から消されています。しかも、その記事は抽象的で曖昧だ。ついでだから言っておきますが、二〇〇三年の瑠香の両親の事故、あれの当時の情報も、完全にネット上から消されていますよね。今ネット上に出回っている情報は、公開された永山のインタビューで田爪が語っていた事故の話をもとに、新たに書かれたものばかりですからね。まったく当てにならない。どちらの事件についても、ネット上から綺麗に消されているなんて、妙ですよ。これは、臭いますね」

 中村明史が腕組みをしながら考えた。

「もし光絵幸輔が本当は生きていたのならば、その二十三年後にタイムマシンに乗って南米に飛ばされ、田爪に殺された。そうすると、なぜ、死んだように偽装する必要があったのか。もし本当は、二十三年前に死んでいたのだとしたら、タイムマシンに乗って南米に飛ばされたのは、いったい誰なのか……」

 三木尾善人が呟く。

「田爪健三と同じだな……」

 石原宗太郎が尋ねた。

「田爪と? どういう事ですか」

 三木尾善人は言う。

「死んだと思われていたら、生きていた。もし、本当に死んでいたのなら、疑問が残る。今、量子銃も持って逃げているのは誰なのか……」

「……」

 石原宗太郎と中村明史は顔を見合わせた。石原宗太郎が三木尾に言う。

「南は光絵家を恨んでいる可能性がありますよね。そうすると、ストンスロプ社と真明教が手を組んでいるって線は薄くなりますね」

 中村明史も意見を述べた。

「軍とストンスロプ社は、競っているという線も消せないですよね。協力しているというより、覇権を争っているとか」

 三木尾善人は視線を中村に向ける。

「津留はどうなる。ストンスロプ社と深紅の旅団レッド・ブリッグを繋ぐキーマンが国防省内にいるじゃないか」

 中村明史は首を傾げながら必死に推理した。

「ううん。裏切り者って線は、どうですかね。軍内部にいるストンスロプ社との内通者」

 石原宗太郎が指摘した。

「じゃあ、深紅の旅団レッド・ブリッグはどうなるんだよ。あいつらだって、軍の一部……」

 三木尾善人が手を上げた。

「ちょっと待て。まず、いろいろ整理しよう。とりあえず、ええと……」

 三木尾善人はパソコンの液晶モニターを指挿しながら言った。

「石原。これは、例の南米の写真の分析結果か。鑑識の」

 石原宗太郎は椅子から腰をあげ、三木尾の机の方まで身を乗り出して液晶モニターを覗いた。

「ええ。全部終わったそうです」

「ふーん。どの写真にも、田爪の姿は写っていないんだな。石原、このMGの十って何だ?」

 席を回ってきて三木尾の横に立った石原宗太郎は、三木尾が指差した画面を見ながら答えた。

「ああ、十万倍まで仮想拡大してスキャンしたって事ですよ。丸一日かけて三回もスキャンしていますから、どこかに田爪が写っていたら必ず引っかかるはずですよ」

「どの田爪の写真と照合したんだ」

「ええと、ちょっと自分のパソコンで開いてみて、いいですか? 接触式の旧式キーボードは使い慣れてなくて。善さんの方に飛ばしますから」

 石原宗太郎は自分の席に戻り、立体パソコンを操作した。空中に浮かんだホログラフィー・アイコンを指で挟んで動かしていく。資料を見つけた彼は、それらを三木尾のパソコンに転送してから言った。

「この三つの動画です。どれも、田爪がテレビ出演していた時の動画ですよ」

 転送されてきた動画を再生してみた三木尾善人は、そこに映る田爪健三を見て言った。

「これは、若いじゃないか。十五年以上前の動画だろ。今はもっと歳食ってるはずだぞ。しかも、永山って文屋さんの話じゃ、普通より随分と老けていたそうじゃないか。インタビューした永山も、最初、田爪だと確信が持てなかった程に」

 石原宗太郎は細かく何度も頷いた。

「ええ。だから、鑑識の方で加齢推測画像を作りましてね、あの、指名手配犯の手配写真にする時に使うやつ、それを基にスキャニングしたみたいですね」

「加齢推測と言うと、エイジ・プログレッションってやつか」

「ですね。一応、十年後、二十年後の加齢推測画像を作って、それぞれでスキャンしています。精度の方は問題ないはずだと言ってました」

「そうか……」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せてモニターの動画を見つめたまま、そう呟いた。

 石原宗太郎は別のホログラフィー文書を机の上に浮かせた。

「あと、例の建屋の放火。ホシが使用したのは、南米の戦闘区域でゲリラ軍が使用していたモノと同じタイプの手榴弾のようですね。爆発の仕方が一致したそうです」

 三木尾善人は視線を石原に戻す。

「やっぱりな。そうなると、やったのがゲリラ軍の関係者である線が濃厚だな……」

 そして、横を向いた。

「リコちゃん。司時空庁のセキュリティーを請負ってる会社とシステム・メンテナンスを請負っている会社は判った?」

 村田リコはケーキの形にしているホログラフィー・アイコンを並べた、まるで洋菓子店のショーケースのような立体パソコンの上で、モンブラン・ケーキ型のアイコンを摘まんで中央に移動させ、フォルダの中の文書ファイルを展開した。彼女の前に平面の文書が浮かぶ。

「はい。ええっと。セキュリティーを請負っているのは、基本的には国防省と警察で、民間人用の出入り口の保安ゲートの保守とセキュリティシステムのメンテナンスを民間企業が下請けで引き受けていました。システム・メンテナンスの方は、ほとんどGIESCOが随意契約で引き受けています」

「ほとんど?」

 聞き返した三木尾を無視して、村田は報告を続ける。

「その他の残りも、ストンスロプ系の子会社です。エレベーターシステムのメンテナンスとか、防犯カメラシステムのメンテナンスとか」

 三木尾善人は椅子に凭れながら言った。

「ふーん。その民間人用の保安ゲートの保守をしている民間企業は、タイムマシンの発射場の搭乗ゲートなんかの保守も請負っているのかな」

「はい。たぶん同じタイプのゲートだと思うんですけど、ちょっと待って下さいね」

 村田リコはチーズケーキのアイコンを摘まんで、中のデータを展開する。

「あ、あった。ええと……」

 二つのホログラフィー文書を見比べていた村田リコは頷いた。

「うん。同じです。保守管理も……やっぱり、同じ会社ですね」

 三木尾善人は旧式のキーボードに指を載せると、前を向いて言った。

「じゃあ、その会社の名前と連絡先を、俺のパソコンに入れといてくれるかな」

 村田リコは答えた。

「もう、送ってあります。警部が怒られている時間が長かったものですから」

 手を止めた三木尾善人は、少しだけ村田に顔を向ける。

「――あ、そう。……」

 小さく嘆息を漏らして前を向き直した三木尾善人は、液晶画面に目を凝らして文書を作成しながら、村田に再度尋ねた。

「それから、例の墓場の男の面は割れたかな」

「あ、はい。坂口統一郎さかぐちとういちろう、元国防陸軍第九師団下、第二偵察部隊員。現役時代は特殊潜入作戦に従事。作戦中に負傷して名誉除隊。三十九歳、独身、だそうです」

 三木尾善人は指を止める。

 中村明史が言った。

「やっぱり軍人か。でも、辞めているんだ」

 石原宗太郎が驚いた顔で村田を見た。

「三十九歳って、俺と同い年じゃん。マジか、あいつ」

 三木尾善人は石原を一瞥してから村田に顔を向ける。

「じゃあ、今度一緒に同窓会でもやったらどうだ。リコちゃん、あいつ、イカモノ臭かったが、そっちの方は調べた?」

「イカモノ?」

 頭の中にスルメイカを思い浮かべた村田リコに、中村明史が言った。

「前科者のこと。これも警察の隠語だよ。古いけどね」

 頭の中からストーブと熱燗のイメージを必死に消した村田リコは、立体パソコンの上のチョコレートケーキのホログラフィー・アイコンに触れて、中の資料を展開した。データベースから急いで検索する。

「ええっと、ありませんね。前科は何も」

 三木尾善人は両眉を上げる。

「ない? そうか。そういう人相には見えなかったがな」

 再び液晶モニターに顔を向けた三木尾善人は、キーを叩きながら村田に尋ねた。

「なあ、リコちゃん。どうやって調べた。前科マエも無いのに、どうして氏名やら、軍人時代の所属が分かったんだ?」

 村田リコはキョトンとした顔で言う。

「え? だって、石原さんが撮った顔の画像を検索にかけたら、ヒットしたんです。逮捕者リストに沢山載っていて、それ全部ヒットしました」

 石原宗太郎が口を開けた。

「あ? 逮捕者リスト? 沢山って、何件だよ」

「ええと、二十一件です。全国で。あと、外国でも一件。スペインで身柄を拘束されていますよ。この人、国際派」

「ちょっと……いいかな」

 三木尾善人は椅子を回して、体を隣の席の村田に向けた。

「二十一件も逮捕されていて、一度も、送検もされていない、有罪にもなっていない。だから前科者リストに載っていない。そういう事かな」

 村田リコはコクリと頷く。

「はい。そうですけど」

 石原宗太郎が尋ねた。

「――それ、それぞれの容疑は何かな、リコちゃん」

 村田リコは立体パソコンの上のホログラフィー文書を見ながら答えた。

「ええと、住居侵入に、窃盗、殺人未遂もあるなあ、逃走幇助と公務執行妨害。でも、ほとんどが住居侵入ですね」

 中村明史が尋ねた。

「あの……えっと……スペインでは、なんで捕まったのかな」

 村田リコは答える。

「ええと、スパイ容疑みたいですね」

 三木尾善人は村田を指差した。

「みたいじゃなくて、それ、黒だろうが。その内容で、どうして真っ先に報告しないんだ!」

 村田リコは目を丸くした。

「ええー。だって、どれも二、三日で釈放されていますし、全国で逮捕されてるから、皆さんご存知の有名な泥棒なのかなって……」

 三木尾善人は指先で机を叩きながら怒鳴った。

「有名な泥棒が、すぐに釈放されるか! バックに権力者がいるんだよ。それで、その殺人未遂ってのは、被害者は誰だ!」

「ええと……芝地俊彦さんって、書いてあります」

「芝地って、あの国会議員の芝地か」

 中村明史が三木尾に尋ねた。

「それって、日本の戦力保持に反対している平和主義者の芝地ですか?」

 三木尾善人はそれに答えずに、また村田に尋ねた。

「その殺人未遂事件っていうのは、まさか例の狙撃未遂事件の事じゃねえだろうな。自衛隊の国防軍化に最後まで反対した芝地議員が国会議事堂内で狙われた」

 村田リコは口を尖らせながら、上目使いで三木尾を見て頷く。

「たぶん、そうですけど」

 三木尾善人はセロテープ台に手を掛けた。

「うっ……くっ……この……」

 椅子から腰を上げた石原宗太郎がそのセロテープ台を手で押さえながら、三木尾を宥める。

「まあ、まあ。善さん、落ち着いて。――で、リコちゃん。そいつはどうしてか、逮捕されると直ぐに釈放されているんだよね。そんで、たぶん、その住居侵入や窃盗も、現場は全国の官公署とか、国会議員の自宅や事務所でしょ、きっと」

「そうです。石原さん、すごーい! どうして、分かったんですか?」

 村田リコは目を輝かせて手を叩く。

 三木尾善人は机の上に片肘をつくと、その手で頭を掻きながら言った。

「じゃあ、例によって例のごとく、そいつは今、何処で何をしているかは分からん訳だ。イヴンスキーみたいに……」

「いえ。分かってますよ」

「はあ?」

 三木尾善人は顔を上げる。

 石原宗太郎は更に腕を伸ばして三木尾の肩を押さえながら、村田に優しく尋ねた。

「それ、すっごく大事な事だと思うんだけどね。で、何処なの」

 村田リコは窓の外を指差す。

「すぐそこです。ツー・ブロック先の国防省ビル。除隊後に国防省に再雇用されて、今は調達局の事前調査部ってところに所属しています」

「ちょ、調達局だあ?」

 三木尾善人は顔を真っ赤にして立ち上がった。左手で背凭れを掴んだ事務椅子を少し持ち上げて、村田を睨み付けている。

 村田リコは頭を覆って、身を丸めた。

 石原宗太郎が必死に三木尾を宥める。

「善さん、落ち着いて。とにかく、捜査に集中しましょう。ね。警部」

 三木尾善人は激しく事務椅子を床に置くと、速足で廊下へと出て行った。

「行くぞ。坂口はSに間違いねえ」

 石原宗太郎は慌てて三木尾を追いかけた。

「エス?」

 顔を赤らめている村田リコに中村明史が言う。

「違うよ。スパイのスのS。国防軍のスパイ要員ってこと。除隊したのも偽装工作だよ、きっと」

 外から三木尾の怒鳴り声が聞こえた。

「中村! 早く来い! 馬鹿が感染するぞ!」

「はい」

 返事をして駆け出した中村明史は、急停止して、村田に言った。

「あ、気にしないでね。リコちゃんは悪くないから。あ、それから、その髪型、最高!」

「はあ?」

 中村明史はガラスドアを開けて出て行った。

 一人室内に残った村田リコは、椅子に座ったまま机を見回した。

「ええ?」

 腕組みをして暫らく考える。

「ええー? どうしてー?」

 彼女は驚いた顔で、何度も首を捻っていた。



                  十四

 三木尾善人は顔を紅潮させながら、肩を上げて雑踏の中を歩いていた。

「どうして、あの子は、ああなんだ! 午前中に、ストンスロプ社に行く前にオーダーしたんだぞ。分かっていたんなら、すぐに踏み込んで身柄を押さえられたかもしれんのに。これじゃ、もう逃げられているかもしれん!」

 夕刻の官庁街の広い歩道の上は、帰宅する人々で溢れていた。歩道の右側では、何本もの車線を並べた幅の広い東西幹線道路を、薄っすらとランプを点灯させた無数のAI自動車が埋め尽している。

 三人の刑事たちは、疲れた顔で帰路につく人々をかき分けながら、暮れなずむ官庁街のビル谷間を二ブロック先の国防省ビルまで急いだ。

「すみません。通ります。急いでます。すんません」

 低速で進む前の人間に声を発していた石原の後方で、小股で小刻みに歩を進めていた中村明史が三木尾に言った。

「まあ、リコちゃんには細かい事情を話してない訳だから、しょうがないですよ」

 三木尾善人は、半ば八つ当たりをするかのように中村に怒鳴った。

「仕事に対する積極性が無いんだよ、積極性が!」

 大股で歩いていた石原宗太郎が、真剣な顔で三木尾に尋ねた。

「坂口の奴、自分の情報が検索でヒットした事に気付きましたかね」

「たぶんな。これまでも、逮捕されても直ぐに釈放されているって事は、奴は何らかの違法ツールを使って警察の検索システムにリンクしている可能性がある。だから、いつも動きが早い」

 中村明史が、不安そうな顔で言う。

「でも、国防省ビルって、軽武装した軍人が警備していて、簡単には中に入れませんよ。令状を取った方が良くないですか?」

 三木尾善人は中村の顔を見ないで答えた。

「何の容疑でだ。奴はあそこに突っ立っていただけだぞ」

 元軍人の石原宗太郎が、右側の車道から前方の人ごみまで順に視線を移動させながら、口髭を撫でて言った。

「俺達を監視していたんでしょうね。たぶん、あの近くにはバックアップの部隊がいたはずです」

「ああ、だろうな。おそらく、俺たちと同じように、田爪があの墓を訪れると考えたんだ。きっと俺たちを狙撃用のライフルか何かで狙っていたんだろうよ。そして、田爪が現れたら、奴諸共、俺たちも消す。まったく、ゾッとするぜ」

 人をかわしながら、三木尾の左側に回った中村明史が言った。

「もしくは、力ずくで拉致するか、ですね」

「ああ、そうだ。とにかく、俺達とは発想が違うからな。軍人は」

 三木尾善人は石原の顔を見た。石原宗太郎は前を見ている。彼は三木尾の胸の前に手を出して足を止めた。三木尾と中村も立ち止まる。

 石原宗太郎は先の方を目線で示して、小声で言った。

「善さん。前の男……二十メートル先、正面です」

 三木尾善人は石原の視線の先に目を向けた。黒や紺のスーツの中に紛れて、グレーのスーツ姿の小柄な男が、他の歩行者を追い抜きながら速足で歩いている。男の後頭部の左右から大きな耳が見えていた。一瞬だけ、その男が横を向いた時、墓地で見た大きな瞳の不気味な横顔が確認できた。

 中村明史が小声で三木尾に確認する。

「坂口統一郎ですよね」

 三木尾善人は、速やかに指示を発した。

「石原は右、中村は左だ。少しずつ詰めろ。奴が国防省ビルに入る前に押さえるぞ」

「了解」

 小声で揃えて返事をした石原宗太郎と中村明史は、その男から視線を外さないようにして、人ごみを縫うように左右に散った。

 三人の刑事は、目標から距離を置きながら彼を囲むように歩いていく。そして、少しずつ目標との距離を縮めていった。

 石原宗太郎は、高い身長を活かして、前を歩く人々の頭越しに目標を捉えながら、車道との境に並べて植えられている桜の木の枝の下を進んだ。彼は坂口の斜め右後ろに位置していたが、自分の進行方向の先に地下リニア駅への降り口がある事に気付くと、目線を坂口に向けたまま、数メートルだけ歩道の内側に寄った。

 石原の位置の変化に気付いた三木尾善人は、人ごみを縫いながら、少しだけ目標の斜め左後ろの方に移動する。彼は左側面を任せた新人の刑事に目を遣った。

 中村明史は、反対に向かって進む人々を避けながら、時折、小走りになって進んでいたが、結局、歩道の左端に追いやられる形になった。首を伸ばして坂口の位置を確認しては前を見て進む。人ごみと官庁ビルの敷地の間に空いた一瞬の隙間を見つけて、小走りで前に進んだ中村明史は、直ぐに右側を確認した。坂口統一郎は前方を気にしながら歩いている。中村明史は坂口が頻繁に視線を向けている方角に注意を向けた。人ごみの中を速足で歩いて行く軍の制服姿の若い女が目に留まる。その女は、人ごみを縫うように歩いていて、時折、後ろを気にしていた。中村明史は眉間に皺を寄せて前に進んだが、ハッとしてすぐに右を向いた。彼は、坂口を追い越してしまっていた。坂口統一郎は歩く速度を落としている。中村明史は慌てて歩く速度を落として、ゆっくりと進みながら、自分が目標の後方まで下がるのを待った。

 夕日に照らされた疲れた背中をいくつも追い越しながら、三木尾善人は右前方を歩く坂口に視線を据えて、少しずつ距離を詰めていった。

 急に速度を落として周りの人間と同じ歩調で歩き始めた坂口の先には、ブロックの境の横道があった。そこの横断歩道の信号が赤色に変わり、人々が足を止める。歩道の端から順に歩行者の流れが止まり、人が溜まっていった。坂口統一郎は周りの人間と同様に更に歩く速度を落とす。そして、信号待ちをしている人々の最後尾に着くと、足を止めて立ち止まった。その後ろに、彼の後方を歩いていた紺色のスーツ姿の男達が彼の姿を覆い隠すようにして立ち止まる。更にその後ろから、歩行者が次々とそこに詰めて止まっていった。信号待ちをする人々の背中に隠れて、坂口の姿が見えなくなった。三木尾善人は険しい顔で足を速める。すると、東西幹線道路を横断する長い横断歩道の歩行者信号が青になった。三木尾の前を人ごみが左から右に流れ始める。石原宗太郎は、人ごみの中から飛び出した頭を三木尾の方に向けた。坂口とほぼ同じ横列にまで上がっていた中村明史も、振り向いて三木尾の方を見る。三木尾善人は、首を縦に振って石原と中村に合図を送ると、横に流れる人ごみを手で掻き分けながら、目標の位置まで進んだ。三木尾善人は、目の前の紺のスーツの男性の肩を掴んで横にどかす。そこに坂口の姿は無かった。

「くそ!」

 三木尾善人は、すぐさま右を向いて叫んだ。

「石原!」

「分かってます! 追います!」

 そう返した石原宗太郎は、既に地下リニア駅への降り口に向けて駆け出していた。

 三木尾善人は下唇を噛んで人を押しのけながら石原を追う。驚いた周囲の女性が悲鳴をあげた。地下リニア駅への降り口の階段を数段下った所で止まった三木尾善人は、振り向いて、後から追いついた中村に叫んだ。

「中村! 鉄道警察に、この地下ホーム全部を封鎖させろ!」

「はい! ああ、もう!」

 駆け込んできて急停止した中村明史、地団駄を踏みながら、ネクタイのイヴフォンに手をかけた。

 その頃、石原宗太郎は階段を下り終え、その先に続く地下道を、時折ぶつかる通行人に謝罪の言葉を投げ捨てながら、全力で疾走していた。彼は警察だと叫びながら走る。驚いて振り返った人々が立ち止まり、横に退いた。石原宗太郎はその間をどんどん前に進んで行く。人々が立ち止まった事で、狭い地下通路の中は通行人が滞留し、後から流れてくる人々がそこに押し詰めた。三木尾善人はその中を必死に人をかき分けながら進んで行く。通行人にぶつからないように体を横にしたり、手を上げたりして前に進んでいた石原宗太郎の視界には、通行人を突き飛ばしながら前に進むグレーのスーツの男がしっかりと捉えられていた。坂口統一郎は角を曲がり、その先の階段を下りて行く。遅れて角を曲がった石原宗太郎が先を覗くと、下り階段の先の地下道を走っていく坂口のグレーの背中が見えた。階段を駆け下り始めた石原宗太郎は、左側のエスカレーターに気付くと、声をあげた。

「失礼! 警察です! どいて下さい! 通ります!」

 石原宗太郎はエスカレーターと階段を仕切っていた低い御影石の壁の上に飛び乗ると、その縁の上を滑り下りていく。その時、ようやく角の所までたどり着いた三木尾善人は、壁に手をかけて階段の下を覗いた。エスカレーターの横を滑り降りた石原宗太郎が上手く着地して、そのまま地下道を走っていく。

 三木尾善人は、息を切らしながらボヤいた。

「はー、はー。くそ! 滑り台かよ! 反則じゃねえか!」

 三木尾善人は腰の痛みと切れる息に耐えながら、階段を駆け下り始めた。

 石原宗太郎は、階段の下から真っ直ぐに延びる広い地下道を疾走した。幸いにも、その長い地下道の中は人が疎らであった。この先は地下リニア鉄道の有多町南駅の改札があり、そこから先が更に二つの通路に分かれている。石原宗太郎は意外にも早い速度で走って行く坂口の背中を追いながら、その先でどちらの通路に曲がるかに注意を払った。途中、石原宗太郎は制服姿の中年の警察官とすれ違った。その制服警官は全力疾走していく石原に驚いて振り返ると、大きな声で叫んだ。

「おい、そこのあんた、走っちゃ駄目だ。駆け込み乗車は……」

 石原を追い掛けようとした制服警官の後ろから、三木尾の声が響く。

「一課だ! 一課! 本庁の捜査一課!」

 立ち止まった制服警官は振り向いた。ガンクラブ・チェックの上着を着た初老の男が、汗だくになりながら足を引き摺って走ってくる。ヨロヨロと走ってきた三木尾善人は、その制服警官にしがみ付くようにして止まり、息を切らしながら必死に言った。

「はー、はー、ホシを……追ってる……はー、はー、とにかく……駅を封鎖して……応援を呼べ……」

 膝に手をついて立ち眩みに堪えている老刑事を支えながら、その制服警官は敬礼する。

「あ、失礼しました」

 唾を一飲みした三木尾善人は、その警官の肩を叩いた。

「早くしろ」

「は、はい! 分かりました!」

 警官は慌てて無線機で連絡を取り始めた。

 三木尾は深く深呼吸をすると、息を整えてから、通信中の警官に指示を出す。

「気をつけるようにも言えよ。奴は銃か何か、武器を持っているかもしれん」

 言い終えないうちに、三木尾善人は、肩と肘を上げ、曲がった膝を前に出しながら、老躯を駆って長い地下道を進んでいった。

 この地下道の先の改札の向こうで、通路は左右に分かれている。内回り線と外回り線へと向かう通路である。通路の先には下りの階段があった。その長い階段を下りると、その先に地下リニア鉄道のホームがある。地下リニア鉄道のホームは、線路とホームが転落防止のための壁で区切られていた。透明の強化アクリル製の壁で、幾つものドアが等間隔で並んでいて、各リニアが到着する度に、随時、乗降口と連動したそのドアが開いて、リニア列車とホームの間を移動する人々を安全に通すのだった。

 その長いホームは、先ほど到着したリニアから下りてきた人は誰も残っておらず、次のリニアを待つ数人の人々が各ドアの前に立っているだけだった。階段から少し中央に進んだ所にある乗降ドアの前に、まだ女性でも、しかし、女児でもないはずの彼女たちは立っていた。その一人が不機嫌そうに言っている。

「よく考えたらさ、なんで、これをウチらが取りに来ないといけないわけ。勝手に持って行ったのは国防省じゃん。調べて何も無かったんなら、自分たちで返しに来るのが筋なんじゃね? 今日のリニア賃で、今月のお小遣い、逼迫しまくりじゃん」

「でも、それは今日、このコスプレを買ったからだと思うけど」

「だいたい、ボディ・アーマーだって、ネットで売ってたのは、国防省の軍人さんだよ。そっちの管理の問題じゃん。ウチは、廃棄品で要らないのかなと思って、買っただけなのに、なんで返さないといかんのじゃ。せっかく、お小遣い貯めて買ったのに。ていうか、返したんだから、払った金を返せっつうの」

「軍隊の人って、ケチなのかな」

「それに、学校も学校だよね。わざわざ遠足から帰らせなくても、学校から国防省に返しておいてくれればいいんじゃん。なんで、ウチ達が学校まで戻らないといけなかったのかな。どうせ、取りに来てくれるんなら、葉路原丘公園まで取りに来て貰えばよかったんじゃん。そしたら、タイセイ君にも、コクれたはずだし……ああ、がっぺむかつく!」

 胸元から肩に掛けて金色の装飾がされたゴム製の赤いゴムスーツを着て、頭のカチューシャに銀色の斧のようなものを鶏冠のようにして付けた女子が地団太して、隣に立っている女子に不満をぶつけていた。不満をぶつけられた隣の女子は、胸元に赤い太いラインの施された銀色のゴムスーツを着ていて、頭のカチューシャの上には水牛のような大きな角を左右に付けている。そして二人とも、お揃いの紺色の四角いリュックサックを背負っていた。

 水牛の角の女子は、その太い角の先が潰れていないか指先で慎重に確認しながら言う。

「あの探偵だよ。ぜっっったい、あのオジサンがチクッたんだよ。きっとそうだよ」

 鉄の斧を頭に載せた女子が、両肩に掛かったリュックのベルトを握ったまま、言った。

「レプリカだったら良かったのかな。甲一一三式のアーマースーツって超カワイイのに、レプリカ・シリーズには無いんだよね」

 水牛の角の女子が、斧を乗せた女子のお腹の辺りを見ながら言った。

「でも、朝美の、その腰のベルト、ホントにカワイイよね。イケてる」

「そうだんべ? くくく。よほど羨ましいようじゃの。では教えてやろう。ここのボタンを押すとですな……ほら、バックルの所の渦がグルグル回る。くー、くっく、く、く」

 山野朝美は、腰に巻いた太いベルトに付いている大きなバックルの中の風車のような装飾を回しながら、奇妙な声で高らかに笑う。頭に太い銀色の角を乗せた永山由紀は、腰を屈めて、朝美の回転するバックルに顔を近づけると、体を起こし、少し溜め息を吐いて項垂れた。

「やっぱ、朝美ちゃんは違うなあ。なんか、センスが大人だよね」

 山野朝美は、頭の上の銀の斧の角度を真っ直ぐに調えながら、誇らしげに言った。

「むふふ。そう? 実は薄々、そうじゃないかなあって思ってたんだよね。親友の由紀だから言うんだけど。このベルトもそうだけど、この太腿の所にビームガンを持ってくるあたり? なんか、私って、中学生の枠に甘んじてるのは、もったいないんじゃないかなって思うのよねー。この、溢れる才能っていうの? ファッション界の革命児っていうのかなあ……ねえ、聞いてる?」

「ねえ、朝美。せっかく官庁街に来たんだからさ、なんか親にお土産でも買って帰ろうよ。官庁街ぽいやつ」

 山野朝美は、腕組みをして考えた。

「官庁街ぽいやつかあ。ママ、怒ってたからなあ。何か買って帰るかあ。何にする?」

「そうねえ……」

 顎に手を当てて少し考えていた永山由紀が、両手を叩いて言った。

「そうだ。『ワイロ饅頭』は? 札束の形したアレ。隣の財務省下駅の売店にあるんだよね。雑誌で見たけど、意外と安くね?」

「ワイロなのに、激安。くっくくく。ウケる。しかも、財務省の下の駅って、くくく」

「でしょ。新聞記者のウチらの親には、ぴったり……きゃっ!」

 階段からホームに駆け込んできたグレーのスーツの男に突き飛ばされた永山由紀は、転落防止用の強化アクリル製の壁にぶつかった。

「ぬ! 何者ぞ!」

 山野朝美は咄嗟に両手で頭の斧を挟んで腰を落とし、身構える。奇妙な体勢で前に立ち塞がった朝美の肩を押して、坂口統一郎は怒鳴った。

「どけ!」

 軽く突き飛ばされた山野朝美は、頭の鉄斧を投げようと声を上げる。

「シュワッ! ――あれ……」

 斧はカチューシャに接着されていた。彼女の奇声に一瞬立ち止まった坂口統一郎は、首を傾げてから走り去ろうとした。すると、山野朝美が坂口のグレーのスーツの袖を掴んだ。

 彼女は母譲りの巻き舌調で怒鳴る。

「待たんかい、コルァ! 年頃の女子中学生にぶつかっといて、なんじゃい、その言い草は! それでも大人か、われ! おお! シベリア送りにして再教育すっぞ!」

 アクリルの壁に突き飛ばされた永山由紀は、頭の片方の角の先を触りながら、涙目で叫んだ。

「ああ! 折れてる! 頭の角が折れてる! せっかく買ったのにー。買ったばかりなのにい。お、折れてるううう!」

「離せ、小娘! 邪魔だ!」

 坂口統一郎は山野朝美の手を必死に振り払おうとした。山野朝美は放さない。坂口統一郎は運が悪かった。今、彼の腕を掴んでいるお下げ髪の女子中学生は、昨日、今日といろいろ在って、猛烈に機嫌が悪かった。山野朝美は鬱憤を吐き出すかのように、そのグレーのスーツの「大人」に怒鳴る。

「ぬぁーにが、邪魔か! ナメとったらあかんぞ、こちとら樺太帰りじゃ、凍った土ば掘り返してきたとばい! 骨拾うた女に、脅しが通じると思うとるがかあ!」

 少女の叫び声はホーム中に響いた。

 坂口統一郎は大きな目で瞬きしながら言う。

「い、意味が分からん……」

 折れた角を抱いて泣いている親友を一瞥した山野朝美は、小さく歌い始めた。

「しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん、しーとおぴっちゃん……」

 坂口統一郎は階段の方に何度も目を遣りながら言った。

「と、とにかく手を離せ。子供に怪我をさせる趣味はない」

 山野朝美は流し目で静かに言う。

「では、相手が子供じゃなかったら怪我させてもいいんですね。――ふうっざけんにゃ、コルァ! 他人の物を壊したら、ちゃんと弁償せんかい! このボケカスがあ! ソンバイガイショウでコウソすっぞお!」

 と言いたかった。は少し前に覚えた言葉だった。

「俺は今、忙しいんだ」

 坂口統一郎は、朝美の手を再度振り払おうとしたが、山野朝美は渾身の力で掴んだまま放さない。彼女は語気を強めて彼に食って掛かった。少しだけリカコ先生の真似をする。

「忙しいとは何ですか! 大人なら、やるべき事をやってからにしなさい! そら、一緒に来なさい、大人! お巡りさんに突き出したる! 大人なんだから、大人しくせい!」

「な、何なんだ、おまえ。くそ、仕方ない」

 坂口統一郎は朝美が掴んでいる手を握って、そのまま捻ろうとした。ところが山野朝美は、彼の予想外の行動に出る。

「ぬ! 暴れるかあ! ならば、このビームガンで……」

 山野朝美は、太腿の横から玩具のレーザー銃を素早く抜くと、坂口の顎の下にその銃口を押し付けた。視界の下から銃器らしきものを突きつけられた坂口は、職業上の習性からか、反射的に両手を上げた。

「や、やめろ。なんだ、おまえら!」

 山野朝美は勝ち誇った顔で静かに笑う。

「くくく。よくぞ聞いてくれました。ウチらは波羅多はらた学園グループ新志楼しんしろう中学の……」

 するとそこへ、石原宗太郎警部補が駆けつけた。彼は、坂口が下ろしかけた右腕を背後から素早く掴むと、そのまま背中に捻り上げる。そして、もう片方の手で朝美の「ビームガン」の銃身を握って、ゆっくりと下に降ろしながら言った。

「はい、はい。お嬢さん方、ご協力ありがとう。警察です。もう、いいからね」

 そして、呼吸を整えながら、坂口を睨みつけて言う。

「この野郎……足、はえーな」

 石原宗太郎は坂口の腕を捻り上げたまま、反対の手を腰に回して手錠を探す。

 永山由紀はしゃがんだまま涙目で、折れた角先とカチューシャの角の根元を頻りに合わせていた。彼女の横で玩具のビームガンを握り締めて立っていた山野朝美が、目を潤ませながら、高めの甘えた声で石原に言う。

「えっとお……この人があ、いきなり突き飛ばしてきてえ、そしたらあ、由紀ちゃんの頭の角が折れちゃってえ、私い、恐くてえ……」

 石原宗太郎が朝美に顔を向けた瞬間、坂口統一郎は左肘を石原の顔面に打ち込んできた。石原宗太郎は素早くかわす。坂口統一郎はリズムよく、その左肘を石原の脇腹に打ち込むと、体を曲げた石原から右手を振り払い、そのまま右手で手刀を打ってきた。石原宗太郎は右腕でそれを受け、左手で坂口の襟を取ろうとする。坂口統一郎が石原の左手を払い、右脚で脇腹に蹴りを放つ。その脚を受け止めた石原宗太郎は、それを掴んだまま坂口の左足を蹴り払った。床に背中をついて倒れた坂口統一郎は、上から押さえつけようとした石原の胸に靴底で一撃を加えて押し返すと、素早く跳ね起きた。後ろに押された体を戻した石原の頬に右拳を打ち込み、続けて左拳を放つ。屈んでよけた石原宗太郎は素早く体を起こし、更に飛んできた坂口の右拳を左腕で受けると、坂口の腹部に右拳を打ち込んだ。身を丸めた坂口の頭部を下に押さえつけた石原宗太郎は、透かさず顔面に膝を打ち込む。体を起こした坂口の襟を取り、素早く反転した石原宗太郎は、そのまま坂口を背負い投げた。弧を描いて宙を舞い、腰から床に落ちた坂口統一郎は、体を返されてうつ伏せにさせられ、組み伏せられる。顔を上げた坂口統一郎は、鼻から大量に血を噴いていた。

 石原宗太郎は坂口の腕を背中に捻り上げたまま、襟を掴んで彼を立たせた。ふらつきながら立ち上がる坂口統一郎は、鼻血を垂らしながら不気味に笑みを浮かべている。床に血の混じった唾を吐いた石原宗太郎は、坂口の大きな耳に口を近づけて、小声で言った。

「現場の警察官をナメんじゃねえぞ、軍人さん」

 坂口統一郎は、薄ら笑いを浮かべて、鼻血を啜った。

 そこへ、三木尾善人が息を切らしながら階段を下りてきた。震える膝を押さえて最後の段を下りると、ヨタヨタと数歩だけホームの上を歩く。坂口を取り押さえている石原を見つけて安堵した彼は、肩で息をしながら横のタイルの壁に手をついて凭れ掛かった。背中を丸めて暫らく咳き込んだ後、右手の親指と人差し指で輪を作って石原に見せる。

 肩を上下させながら、三木尾善人は言った。

「ヒー。ヒー。――お前ら……足……速過ぎなんだよ……ヒー。――よくやった……石原。ヒー、ヒー……よくやった……ヒー……」

「大丈夫ですか、善さん。まったく、中村の奴、何やって……」

 その瞬間、坂口統一郎は石原に右手を捻じられたまま、石原の左脇の空間に身をずらし、器用に前転した。重心を前に取られた石原の後頭部に、回転した坂口の右足の踵が落ちてきた。不意に一撃を食らった石原宗太郎は、前に倒れ込む。綺麗に着地した坂口は、降りてきた階段とは反対側の階段の方に走った。すると、ホームの奥に見えるその階段から横一列に並んで下りてくる警官隊の何本もの足が見えた。坂口統一郎はリスのように体を反転させ、今度は三木尾が下りてきた階段の方に進もうとする。

 三木尾善人は瞬時に左脇からベレッタを抜き、その銃口を坂口に向けて構えた。

「坂口! そこまでだ!」

 坂口統一郎は反射的に動きを止める。

 石原宗太郎は左手で後頭部を押さえながら、右手でコルト・ガバメントを構えていた。彼は左右に頭を振ってから言う。

「いってえな、コノ。やってくれるじゃねえか」

 身構えた坂口統一郎は、再び振り返って、最初に進もうとした奥の階段の方に体を向けた。しかし、その先には、中村に引き連れられた鉄道警察の警官達と本庁からの応援の警官隊が並んで向かって来ていた。前後を挟まれた坂口は、両手を上げて観念したかのような素振りを見せる。そして暫く考えると、そのまま少しずつ横に、リニアの乗降用のドアの方に動き始めた。ホームには、次のリニア列車が低速で進入してきていた。

「止まれ。撃つぞ!」

 怒鳴った石原に続いて、三木尾善人が叫んだ。

「坂口!」

「警察だ! 全員伏せろ!」

 銃口を坂口に向ける三木尾の後ろに、背広姿の鉄道警察の刑事が、銃を構えて現われた。ホームで次のリニアを待っていた数名の一般人たちは、物珍しそうにそれまでの捕り物劇を見物していたが、その刑事の一言に、悲鳴を上げて皆一斉に床に伏せた。銃を構える鉄道警察の刑事の後ろから、数名の制服警官が駆けつける。鼻血を流し、両手を上げて立っている坂口に拳銃を構えている三木尾と石原に、後から駆けつけた制服警官達は、一斉に銃を向けた。制服警官の一人が怒鳴る。

「そこの二人! 銃を捨てろ! 警察だ!」

 石原宗太郎が、背後で拳銃を構える制服警官たちに呆れ顔を向ける。

「見れば分かるよ。それに、こっちも警察だ。バカ」

 三木尾善人は、ベレッタを構えた右腕の下から、ゆっくりと左手を出して警官たちに掌を向けると、慎重に言った。

「分かった。撃つなよ。いま、バッジを見せるからな。撃つんじゃねえぞ!」

 石原宗太郎はコルトガバメントの銃口を坂口の方に向けたまま、視線も彼から離さなかった。三木尾善人は自分に銃を向けている刑事の目を見ながら、そのまま左手を上着の内ポケットに慎重に突っ込むと、中から警察バッジを取り出して、床に落とし、その刑事の足下に蹴って送った。鉄道警察の刑事は、それを拾い上げると、中を確認する。そして銃を下ろし、他の警官たちにも合図して銃を下ろさせた。

 三木尾善人は坂口に銃を向けたまま、早口で背後の警官隊に叫んだ。

「リニアのドアを開けさせるなよ。出てきた乗客が巻き込まれるぞ」

 制服警官の一人がアクリル製の壁の方に走り、途中のスイッチを押して開閉を停止させる。三木尾に促された石原宗太郎が、両手をあげて背中を見せて立っている坂口に銃を構えたまま近づいていった。後ろから坂口の肩を掴んで下に押さえつけ、床に膝をつかせる。

 坂口統一郎は諦めたように、自ら両手を頭の後ろで組むと、下を向いて大人しくなった。

 その時、一人の警官が、仕舞いかけた銃を慌てて構え直して、声を上げた。

「おい、そこのお前! 銃を捨てろ!」

 警官のその声に、三木尾と石原は反射的に、ガンホルダーに仕舞いかけた銃を握り直し、頭を低くして身構えた。二人はその警官の銃口の先に視線を動かす。そこには、伏せている一般人の中で一人だけ立っている、頭に銀の鶏冠を乗せた赤いゴムスーツの少女がいた。彼女は玩具のレーザーガンの銃身を握り締めて、立ち尽くしている。その「レーザーガン」を見た警官が、間違えて反応したのだった。玩具の銃を握り締めた山野朝美は、目を潤ませて言った。

「石原様。石原様って言うのね。ステキ。ついに見つけたわ、私の王子様。やっぱり、時代は警察ね」

 朝美の足下で伏せていた永山由紀が、朝美の赤いブーツをつまんで引っ張りながら、涙目で言う。

「ねえ、朝美。撃たれちゃうよ。伏せた方がいいよ。朝美い……」

 山野朝美は鼻の下を長く伸ばして、立ったままだった。

 坂口に手錠を掛けていた石原宗太郎が、銃を構えた警官を横目で見て、彼に言った。

「おい、その子が持ってるのは、おもちゃだよ。おもちゃ。銃をおろせ。危ねえだろ」

 ハッとした制服の警官は、恥ずかしそうに銃を仕舞った。

 坂口統一郎は、駆けつけた警官隊に両脇を抱えられ、そのまま連れて行かれる。彼の顔は鼻血まみれであった。しかし、そこに終始、薄ら笑いを浮かべていた。

 中村明史が三木尾と石原の所に駆け寄ってきた。

「警部、先輩、お二人とも大丈夫ですか」

 石原宗太郎が、ワイシャツに付いた靴跡を払い落としながら言った。

「おっせーよ、お前。先輩と大先輩を走らせてんじゃねえよ。あ痛たた」

 石原宗太郎は、坂口に一撃をくらった顎を押さえる。

 三木尾善人が石原の胸を軽く手の甲で叩いて宥めてから、言った。

「中村、なんか冷たい飲み物でも買ってきてくれんか。さすがに、疲れたわい」

「あ、わかりました。すぐ、買ってきます」

 中村明史は、階段を全速力で駆け上がっていった。



                  十五

 窓の外に夜の有多町を映し、自然光LEDで室内を照らされた第五係室には、男たちしか居なかった。村田リコは既に退庁している。椅子に座って横を向いている中村明史は、心配そうな顔で言った。

「先輩。本当に大丈夫なんですか。少し腫れてきてますよ」

 石原宗太郎は、冷えた缶ジュースを顎に当てながら、言った。

「あ痛たた。大丈夫。大丈夫。くそっ。あれはカンフーだな。ったく」

「いや、やっぱり腫れてきてますよ。医務室に言った方が良いんじゃないですか?」

「いいよ。大げさに騒ぐほどでもねえよ」

 椅子に座ったまま腕組みをして石原の顎を見ていた三木尾善人が、二人に尋ねた。

「さっき下のロビーで隣のエレベーターに乗って行ったのは、たしか……」

 石原宗太郎が答えた。

「ああ、時吉ですね。弁護士の時吉浩一。親の事務所を継いで、忙しいんじゃないですか」

 三木尾善人は眉を寄せる。

「そうか。あいつもたしか、ASKIT事件に絡んでいたんだよな」

 中村明史が頷いた。

「はい。絡んでたっていうか、永山記者を軟禁から解放させたのが、あの先生のようですね」

 三木尾善人は口を尖らせた。

「ふーん。法律家としての仕事をしただけか。ん、なんだこりゃ」

 彼は目に留まった、液晶モニターの外枠の中央から少し横の位置に貼ってあるピンク色の付箋を剥がして手に取った。村田の字だった。三木尾善人はそれを読み上げる。

「先に帰ります。カエラさん、軍用ロボットのAI、新ドライブ、それぞれ……それぞれ?……PCバツ。村田。――って、意味が解んねえよ。岩崎が来たのか?」

 中村明史が言った。

「ああ、お昼に来たとか言ってましたよ。そういえば」

 三木尾善人は項垂れながら電話機に手を伸ばす。

「それなら早く言えよお。岩崎、もう帰ってるかな。ったく」

 石原宗太郎が下を指差しながら尋ねた。

「それより善さん、下の方、どうします? 坂口。俺が取り調べましょうか?」

 受話器を電話機に戻して少し考えた三木尾善人は、首を横に振った。

「いや、俺がやろう」

 壁の掛け時計を一瞥した三木尾善人は、椅子から立ち上がる。

「どれ、そろそろ鼻血も止まっただろう。行くか」

 三人は、留置施設フロアへと向かった。

 警視庁ビルの中腹にある留置施設フロアは警備が厳重である。狭い廊下の天井には、三六〇度を写し撮る全方位型多角レンズの警備カメラが等間隔で並び、左右の壁には余計なドアは設置されていない。その閉塞感が漂う廊下を歩いてきた三人の刑事たちは、防弾ガラス製の壁の前で立ち止まった。向こう側で待っていた係りの制服警官がカードキーで壁の隅のドアを開ける。

「あ、お疲れ様です。警部」

 中に入った三人の刑事たちは、その制服警官と共に取調室のドアが並んでいる廊下を歩いた。三木尾善人が制服警官に尋ねる。

「で、奴は何号だ?」

「二〇三号取調室です。映像記録の準備も出来ています」

「ご苦労」

 そう答えて、三木尾善人は険しい顔で歩いていった。石原宗太郎と中村明史も厳しい顔つきで後についていく。三木尾と並んで歩いていた制服警官が後ろの石原の腫れた顎を見ながら言った。

「なんか、大変だったみたいですね」

 石原宗太郎が顰めて頷いて見せる。

 三木尾善人は前を向いて歩いたまま言った。

「ああ、まあな。疲れたよ。俺も年だな」

 石原宗太郎は指差した自分の顔を中村に向けた。中村明史は眉と肩を同時に上げる。

 制服警官が後ろの二人と横の三木尾の顔を交互に見ながら言った。

「しかし、こう世の中が変わってくると、犯罪者もいろいろですね。自分も近頃の犯罪者は理解できんですよ」

 三木尾善人は言う。

「俺は昔から理解できんよ」

 制服警官は後ろを向いて、石原と視線を合わせた。石原宗太郎は眉間に皺を寄せて頷いて見せる。

 三木尾善人は制服警官に再び尋ねた。

「それで、どうだ、奴の様子は」

 制服警官は眉を寄せて答えた。

「いやあ、なかなか、変わった奴ですね。よくしゃべったり、急に黙り込んだり。感情の起伏が激しいといいますか、なんといいますか……」

 三木尾善人は横を歩く制服警官の顔を一瞥して言う。

「まあ、いろいろと訓練は受けているはずだからな、気をつけといてくれよ」

 制服警官は物怪もっけ顔をして言った。

「そ、そうなんですか。人は見かけによりませんなあ。あ、押収した武器の類は、証拠係に回してあります」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せた。

「そうか。やっぱり、隠し持ってたか」

 制服警官は首を傾げながら言った。

「最新式なんですかね。軽かったですよ。本人は武器じゃないと言い張っていましたが」

 三木尾善人は深刻な顔で言う。

「奴らが持ち歩く物は、変わったものが多いからな。しっかり分析してもらえ。国防省からの正規の支給品以外のブツなら、銃刀法違反で再逮捕できる」

 制服警官は目を丸くした。

「こ、国防省? はい。了解しました」

 二〇三号取調室の前で立ち止まった三木尾善人は、制服警官に確認した。

「奴は、他に何か言っていたか」

 ドアの鍵を開けた制服警官は、頬を掻きながら言う。

「ひたすら、電話を掛けさせてくれだとか、弁護士呼んでくれだとか、うるさい、うるさい」

 三木尾善人は制服警官の目を見て言った。

「それで? 暫らく外部には連絡させてないんだな。頼んだとおり」

 制服警官は首を縦に振る。

「ええ。内密にって事ですよね。でも、さすがに監禁はマズイだろうと思って、奴が自供した実家の連絡先には電話を入れときました。母親が出ましたけど」

「実家?」

 三木尾善人は眉間に深い皺を刻んで、石原と視線を合わせた。石原宗太郎が首を横に振る。制服警官は二人の様子を怪訝な顔で見ていた。三木尾善人がドアを開ける。石原宗太郎が髭を触りながら制服警官に言った。

「バカ、奴が言っている『実家』ってのは、国防省の事……」

「うわああん。ごめんなさああい。もうこんな変な服は着ませええん。角も鶏冠とさかもつけませえええん。だから帰してええ。お家に帰りたいよおおお。ママあああ。パパあああ」

 その取調室に置かれた机の向こうには、赤いゴムスーツを着て斧を頭に載せた女子中学生が座り、号泣していた。山野朝美である。

「なんだ……こりゃ……」

 三人の刑事たちは唖然とした。

 中村明史が慌てて隣のドアに走り、それを開ける。

「私、今度から、ちゃんとフリフリの付いた服着まああす。ごめんなさあああああい。死刑にはしないでえええ。もうお父さんの剪定バサミは分解しませええええん。ドライヤーも改造しませええん。ふああああん」

 銀色のゴムスーツを着た永山由紀が室内で号泣しているのを見た中村明史は、眉を寄せた顔を石原に向けた。

 制服警官は苦笑いしながら言った。

「いやあ、ずっとこの調子で、うるさいのなんの。ああ、そっちの子は手を出して無いみたいですから、ドアに鍵は掛けときませんでした」

 ドアを閉めた三木尾善人が尋ねる。

「あの、サル顔の男はどうした」

 制服警官はキョトンとして答えた。

「サル顔? ああ、坂口さんですね。とんだ災難でしたよね。もう帰りましたよ」

「帰った?」

 制服警官は笑顔で頷く。

「ええ。この子達に注意したら、鼻に一発くらったって人でしょ。地下リニアのホームで玩具の銃を振り回していたこの子達の方が悪いのに、災難ですよね。ああ、そうだ。警部に痴漢か変質者に間違われて手錠かれられたけど、これも警察の仕事でしょうから、特に問題にはしないって仰っていました。だから、警部にも気にしないでくれって」

 三木尾善人は額に手を当てて項垂れた。

 制服警官は胸を張って言った。

「いやあ、なかなか理解のある、いい人で良かったですよ。あ、ご安心下さい。ちゃんと医務室で鼻の治療をしてもらって、丁寧に謝って、帰ってもらいましたから。結構、機嫌良さそうに帰って行きましたんで、たぶん大丈夫……」

 石原宗太郎がゴミ箱を蹴り上げた音が響く。

 中村明史が厳しい顔で尋ねた。

「まさか、時吉弁護士ですか」

 その制服警官は顔を顰める。

「時吉? いいえ。何の事ですか」

 三木尾善人が制服警官の胸に指を突き向けながら言った。

「じゃあ、手錠をはめられて連れてこられた人間を解放したのは、どうしてなんだ」

 制服警官は不機嫌そうな顔で答えた。

「なに仰ってるんですか。先ほど警部殿が伝令書をメールしたんじゃないんですか。怪我している民間人は誤認逮捕の可能性があるから、すぐに釈放して丁寧に対応しろって。みんなに届いているみたいですけど」

 石原宗太郎が怒鳴る。

「みたいですけどじゃなくて、上にいるんだから、内線で確認しろよ!」

 三木尾善人は、制服警官に詰め寄る石原の前に手を出して戻らせると、その制服警官に冷静に指示を発した。

「とにかく、その俺が送ったメールとやらを急いで鑑識に回して調べてもらえ。他にもウィルスか何か仕込まれているかもしれん。それから、発信元が分かったら、教えてくれ」

 制服警官は目を丸くして驚いた。

「え? って事は、あれ、偽メール?」

 石原宗太郎が声を荒げる。

「当たり前だろ! 三木尾警部殿が誤認逮捕なんかするか! 傷害の現行犯逮捕だったの、奴は。あと、他の事件の重要参考人!」

 中村明史が付け足す。

「ていうか、奴は一連の議員襲撃事件や公文書窃盗事件の実行犯です。間違いなく」

 制服警官は目を白黒させた。

「奴って、坂口さんですか? そ、そうだったんですか」

「他に誰がいるんだよ。あんな悪人面。目を見て判んないのかよ。苦労してようやく捕まえたんだぞ! 見ろ、これ!」

 石原宗太郎は制服警官に再度詰め寄り、顔を突き出して腫れた顎を何度も指差した。

 三木尾善人が静かに言う。

「石原。もう、よせ」

 石原宗太郎は頭を強く掻きながら、床を一度だけ踏み鳴らした。

 三木尾善人は女子中学生たちが入れられている取調室のドアを指差しながら、制服警官に言った。

「とにかく、この子たちは早く帰してやれ。ただの通りすがりだ。何の関係もない。ああ、もう、こんな時間だから、パトカーで家まで送り届けてやれ。いいな」

「はい。分かりました」

 三木尾善人は背中を丸めて、歩いてきた廊下を戻っていく。石原宗太郎と中村明史は後を追った。三人は防弾ガラス製の壁を通って、その向こうの廊下を黙って歩いた。エレベーターの前に着いた三人は、無言でドアが開くのを待つ。

 石原宗太郎が頭を縦に激しく振って口を開いた。

「畜生! せっかくの糸口だったのに!」

 中村明史が口を尖らせる。

「なんか……やる気無くしますね」

 三木尾善人は中村に厳しい視線を向けた。

「馬鹿野郎。男なら、こういう時こそ、やる気を出せよ」

「はあ……」

 首を竦めた中村明史は、下を向く。

 三木尾善人はズボンのポケットに両手を入れたまま上を向いた。

「よし。気晴らしに、ちょっと飲みにでも行くか」

 石原宗太郎が顰める。

「善さん、そんな事してる場合ですか。逃げられたんですよ。警察の中から。一度逮捕した被疑者に。これってマズイでしょう。早く、坂口を捕まえないと」

 三木尾善人は石原に顔を向けた。

「お、石原警部補が珍しく本気になってるな」

 石原宗太郎は言う。

「俺はいつも本気ですよ。善さんこそ、どうしちまったんですか。いつもの善さんなら、予備の弾倉をポケットに詰め込んで、駆け出して行ってるんじゃないですか。どうして今回は、そんなにクールなんです?」

 エレベーターのドアが開いた。三木尾善人は腰を叩きながら入っていく。

「んん。ここまでくると、怒る気にもなれんというかな……とにかく、いい店があるんだ。ちょっと付き合えよ」

 石原宗太郎と中村明史は一度顔を見合わせてから、エレベーターに乗り込んだ。三木尾善人は一階のボタンを押す。エレベーターのドアは静かに閉まった。



                  十六

 三人の刑事たちは、新首都の繁華街寺師町へとやって来た。石原宗太郎がネオン灯で装飾されたビルを見上げて、隣の中村に尋ねる。

「ら、らんこんとる……来た事あるか、中村」

 中村明史はその如何わしさが漂うビルの入り口を見回しながら答えた。

「いえ。お酒飲みませんから」

「ランコントル。『出会い』って意味のフランス語だ。いい出会いがあるぞ、独身さん」

 三木尾善人は石原の胸を叩いて、地下への階段を下りていった。石原宗太郎と中村明史は顔を見合わせてから、三木尾についていく。

 地下にある入り口のドアを開けると、中はミラーボールに反射した光が駆け巡り、酒に酔った客やコンパニオンの浮かれた声が飛び交っていた。ドぎつい化粧をした大柄な女装コンパニオンたちが、低い声で三人を迎える。三木尾善人はその派手な衣装のコンパニオンたちに声を掛けながら、店の奥へと進んでいった。石原宗太郎と中村明史は警戒しながら後についていく。カウンターの中には巨体の女装男が居た。大きな丸い体に紫のドレスを着て、しっかりと化粧をしている。彼は三木尾に言った。

「いらっしゃーい。あら、善さんじゃない。珍しい」

 大きな手を顔の前で一振りする。

 三木尾善人はカウンター席の丸椅子に腰を下ろした。

「よう。繁盛してるみたいじゃねえか」

 石原宗太郎と中村明史は怪訝な顔をしながら椅子に座った。

 女装男は片笑みながら三木尾を見て言う。

「今日は何の御用かしら」

「何の御用は無いだろう。飲みに来たんだよ。部下を連れてな」

 三木尾善人は隣の椅子に座った石原から順に指差して言った。

「こいつは石原で、こいつは中村。俺の優秀な部下たちだ。石原、中村、こいつはザンマルって奴だ。この店のオーナーだ」

 石原宗太郎は中村に頭を近づけて、小声で尋ねた。

「おい、知ってたか? 善さん、こっちの趣味があったのか?」

「いや、知りませんでした」

 ザンマルは石原の前に肘をついて顔を近づける。

「あら。お髭のお兄ちゃん。可愛いじゃない。タイプだわああ。怪我したの? 介抱してあげましょうか」

「ははは……」

 後ろに顔を引いて愛想笑いをしている石原に、中村明史が小声で言った。

「先輩にお任せしますよ。どうぞ、どうぞ。いい出会いでしたね」

「ふざけんな。男じゃねえか。あの腕みろよ、丸太かよ」

 二人がコソコソと話していると、ザンマルは流し目を送って声を低めた。

「何か?」

「あ、いや、別に。ははは……」

 中村明史は必死に取り繕った。

 ザンマルは三木尾善人の前に焼酎が注がれたグラスを置く。

「警部も随分と、お疲れのご様子ねえ。はい、どうぞ」

 三木尾善人はお絞りで手を拭きながら言った。

「ああ、色々あってな」

 ザンマルは本当に疲れた様子の三木尾に視線を送りながら、石原にもグラスを差し出した。

「ふーん。相変わらず、本社は大変なのねえ。はい、お髭ちゃんも、どうぞ。チビちゃんは何にする?」

「あ、じゃあ、ジンジャーエールで」

 ザンマルは片笑んで頷いた。

 グラスに口を付けた三木尾は、手に持ったグラスの焼酎を見ながら言った。

「美味いな。これ」

「くろひじヨ。九州の銘酒、『ヒムカのくろひじ』。お髭ちゃんには、特別だからね」

「はは……どうも」

 髭を傾けた石原宗太郎は、少しだけその焼酎を口にした。

 グラスを置いた三木尾善人が、カウンターに両肘をついて言う。

「それでな。憂さ晴らしに、コンサートライブにでも行こうかと思うんだが、チケットは手に入るか?」

「ブッ」

 石原宗太郎が焼酎を噴いた。

「うわ。ああ、もったいねえ」

 慌てる石原にザンマルが台拭きを渡す。

「はい、はい。これで拭いて」

 受け取った台拭きでカウンターの上を拭きながら、石原宗太郎は隣で平然と焼酎を飲んでいる三木尾に尋ねた。

「――ライブ? 善さんがですか? 誰の?」

「Kカワノだ」

「ブッ」

 中村明史がジンジャーエールを噴いた。

「ゲホッ、ゲホッ。け、Kカワノ? あの、ラッパーのKカワノですか?」

「けーかわの?」

「やだな、先輩知らないんですか。Kカワノですよ。アルファベットのKに片仮名でカワノ。今、一番売れてるラッパーです。自称、ヒップホップの王様。すごいんですよ」

「はあーん。キングのKか。善さん、そんなの聞きに行くんですか。冗談でしょ?」

 グラスを置いた三木尾善人は真顔で答える。

「いや、マジだ。どうだ、手に入るか?」

 ザンマルはウインクして答えた。

「大概のライブのチケットは揃えてるわよ。ご存知の通り」

「そうか。一枚くれ。特別席だ」

「はい、はい。特別席ね。ありますよ。ちょっと待ってて」

 ザンマルはバックヤードに入っていく。

 中村明史が石原越しに三木尾を覗きながら言った。

「いいなあ。Kカワノのライブのチケットって、なかなか手に入らないですよね。幾らなんです?」

「さあな」

 無愛想に答えた三木尾に、石原宗太郎が小声で尋ねた。

「ところで、ここのママ、何者なんです? あの目……」

 三木尾善人は少し石原に頭を寄せて、他の客に聞こえないように小声で言う。

「前職は俺たちの同僚だ」

「なるほど、やっぱりね」

「機動部隊の特別部署に居てな、そこの鑑識部門ではピカイチの腕だった」

「へええ。そうなんですか」

「え? 何ですか? 教えてくださいよ、先輩」

 石原宗太郎は中村に耳打ちした。

「あのな……」

 中村明史は目を丸くする。

「ええ! マジですか。へええ。元力士かプロレスラーかと思ってました」

 三木尾善人は石原の前に頭を出して小声で二人に教えた。

「そっちの方もピカイチだ。警視庁内で、奴に柔道で勝てる奴は居なかったぞ」

 バックヤードへの入り口から顔を出したザンマルが言う。

「寝技が得意なの。寝技が。ふふ」

 ザンマルは不気味な笑みを石原に送って、再びバックヤードに消える。

 石原宗太郎は凍りついた顔で言った。

「――中村、銃の常時携帯許可、取ってあるよな。いざという時は、頼むぞ」

「ええ。分かりました。でも、ショットガンじゃないと通用しないんじゃないかな」

「そうだな。鋼の体っぽいもんな」

 ザンマルがバックヤードから戻ってきた。手に金色の紙片を持っている。彼はそれを三木尾に差し出した。

「はい。チケット。ちゃんとプレミアものよ」

「悪いな。お代は、今度払うよ」

 チケットをガンクラブ・チェックの上着に仕舞いながら、三木尾善人は椅子から腰を上げる。隣の石原宗太郎が尋ねた。

「あれ。善さん、もう行くんですか」

「ちょっと、突き抜けてくるよ」

「突き抜けて?」

 三木尾善人はザンマルに言付けた。

「こいつら、俺が辞めた後のアトガマだ。可愛がってやってくれよ」

 彼は去っていった。

 ザンマルは石原と中村に色目を向けながら言う。

「わかったわ。ふふふ。しっかり可愛がって、あ・げ・る」

「……」

 石原宗太郎と中村明史は、肩を上げて固まっていた。

 店から出てきた三木尾善人は、階段を上った。地表に出て路地の奥へと歩いて行く。ガンクラブ・チェックの彼の背中を、建物の陰から一つの冷たい眼差しが見つめていた。指先で挟んだ青い切花を鼻の前でクルクルと回していた男は、その花を白いスーツの胸ポケットに挿すと、片側に大きな刀傷を残した顔に薄ら笑みを浮かべながら、後をつけていく。三木尾善人はズボンに両手を入れて、光り輝くネオンに照らされた歓楽街に背を向けると、暗い裏通りへと歩いて行った。



                  十七

 三木尾善人は暗闇で点滅する激しいライトに目を細めながら、ステージの端でスポットライトに照らされたタキシード姿の男に目を遣った。その男は、マイクを握り、興奮した様子で観客に向かって叫び始めた。

「今夜も弾けちゃって下さい! 突き抜けちゃって下さい! さあ、呼んじゃいましょう! ヒップホップ界の風雲児、ラッパー界のキング・オブ・キング! ぶっ飛ばせ、言葉のナパーム弾! ミスタあああああ……Kえええカワノおおおお!」

 耳をつん裂く爆音のあと、ステージの幕が開き、タボタボの服に重そうな装飾品を体中に着けた男が、重低音のリズムに体を揺らしながら歩み出てきた。スポットライトに照らされた男は、深く被った毛糸帽の下の大きなサングラスを押さえながら、マイクに向けて早口で色々と怒鳴り始めたが、三木尾善人には聞き取れなかった。三木尾善人は部屋の隅に立って、その狭い空間に犇いている若者たちを眺めた。体をぶつけ合いながら激しく上下に飛び跳ねている若者たちは、彼が青春期に見た年上の若者達そっくりであった。バブル経済に浮かれたあの時の若者たちのように、この部屋の中の若者も狂っていた。三木尾が冷ややかに若者達を眺めていると、鍛え抜かれた肉体をタキシードで隠した黒人男性が話しかけてきた。

「ああ?」

 周囲の騒音に掻き消されて、彼の言っている事が聞き取れなかった三木尾善人は、苛ついた顔で耳に手を当てて、その黒人に聞き返した。

 黒人の男性は背中を丸めて、三木尾の耳元に顔を近づけると、丁寧に言い直した。

「プレミアチケットのお客様でございますね。どうぞ、こちらへ」

 三木尾善人は頷いた。そして、爆音と閃光が飛び交うライブ会場の外に出て行く彼について行く。その様子を、踊り狂う人々の隙間から大きな瞳が観察していた。その男の耳は大きく、鼻の上には大きなガーゼとバツ字のテープが貼られていた。

 三木尾善人は、黒人男性に案内されて、薄っすらとライブ会場の音が響いている廊下を歩き、奥のドアの前まで来た。ドアは分厚い金属製で、その手前の壁にはセンサーらしき物が取り付けてある。三木尾善人は、その前を通った。すると、ドアの周りの壁が光り、ブザー音が鳴った。横に立っていた黒人男性は、また、丁寧に三木尾に言った。

「何か、武器をお持ちでしたら、お預かり致します」

 三木尾善人は、その黒人男性が差し出した大きな掌の上に、左脇から抜いた銀色のベレッタを置いた。そして、腰の後ろから折り畳まれたチタン製の警棒を取り出し、それも渡す。タキシード姿の黒人男性は、渡された銀色の拳銃を逆さに持ち上げて電灯にかざし、珍しそうに観察した後、ドアを開けて、三木尾に中に入るように促した。

 三木尾善人がその部屋の中に入ると、後ろでドアが閉まる音がして、続いて自動ロックが作動する音が響く。

 三木尾善人は部屋の奥に向けて歩き出した。そこには、薄型の壁掛けモニターや可接触式の立体モニター、多機能モニターや旧式の液晶モニターなど、様々な種類のモニターと無数のキーボードが、配線ケーブルの渦に囲まれて並べられていた。突き当りの壁には、一面に多機能モニターが貼られている。その手前に置かれたリクライニングチェアーに座っていた、ジーンズに白いシャツの色白なスラリとした男が、椅子から立ち上がり、丸い縁のサングラスを外して、机越しに笑顔で握手を求めてきた。

「やあ、三木尾警部。お久しぶりです。これは、これは。何年ぶりですかね」

 三木尾善人は、差し出された手を握る事は無く、言った。

「相変わらず、穴蔵暮らしか。立体映像で観客を騙しながら」

 男は椅子に座り直すと、言った。

「騙してるとは、人聞き悪いなあ。あれは俺の作品ですよ。芸術。アート。観客はそれを見て金を払っている。でも、そんなに貰ってませんよ。俺も楽しませてもらってますから」

 三木尾善人は男の机の前に置かれたアンティークの椅子に腰を下ろすと、周囲を見回しながら言った。

「それで、これだれの機械を揃えられるという事は、副業の方も相変わらずご盛況なのかな」

 男は顔の前で手を一振りして、作り笑いを浮かべた。

「嫌だなあ。何言ってるんです? もう、ハッキング稼業からは足を洗いましたよ。これでも、今は有名人ですからね。ラッパー界のカリスマ」

 三木尾善人は、机の正面を激しく蹴り上げて、黙って男を睨んだ。

 男は肩を上げて身を引く。

「怒らないで下さいよ。本当に、今はただ、趣味でパソコンいじっているだけの、ただのミュージシャンなんですから」

 三木尾善人は男の目を見据えて言った。

「そうかい。だが、先日も米国の国防省幹部しか知らないはずの情報が、ネット上でばら撒かれたらしい。調査委員会の報告では、不正侵入の形跡は否定できないそうだ。例のステルス侵入。『アクアK』のお得意の方法じゃねえか。水のように柔軟で、透明。『アクアK』っていやあ、インターポールや世界中の情報機関が追っている手配順位一位の不正ハッカーだ。それがお前だって事、公表してもいいんだぜ。退職前の手土産に、貴様をしょっ引いてもいい。どうだ」

 男は暫らく三木尾の目を凝視した。そして、声を上げる。

「だあ、分かりました。分かりましたよ。やってます。今でもバリバリ現役です。はい」

 そう叫んだカワノは、顔を逸らして呟く。

「なんで、こんな人にバレちゃったかな……」

「あん?」

「いや、別に。それで、今回俺に調べてほしい事は何です?」

 三木尾善人は目を座らせる。

 カワノは愛想笑いをしながら言った。

「あ、すみません。調べさせていただきます」

「まず、これだ」

「まず? かあ……まとめ買いかよ。畜生」

 カワノは三木尾が差し出したメモ用紙を受け取ると、椅子を回して横を向きキーを叩き始めた。三木尾善人は壁の時計に目を遣る。

 カワノは三木尾の顔色をチラチラと伺いながら言った。

「ああ、いや、何でも在りません。言っときますけど、善さん、俺はポリシーを持って仕事してますからね。前にも言いましたよね。ポリシーその一、他人を不幸にするハッキングはしない。ポリシーその二、自分の興味だけで不必要なハッキングはしない。ポリシーその三、ハッキングした情報は抜き取らない。見るだけ。ポリシー四……」

「分かったから、早くしろ。何分かかるか計ってるんだ」

「失礼しちゃうな。誰を試しているんです? ほら、もう前のモニター達に映ってますよ」

 三木尾善人は壁一面に取り付けられた無数のモニターに目を遣った。目を細めている彼を指差しながら、カワノは言う。

「あ、そうか。善さん老眼で見えないんだ。今、その横のモニターに映しますから。それ、お客さん用。はい、どうぞ。ごゆっくり、ご覧下さい」

 三木尾善人は椅子を回して横を向き、目の前に棚の上に置かれた大型の液晶モニターに顔を近づけた。

「なるほど……腕は落ちてねえな」

 カワノは壁のモニターを見回しながら言った。

「こいつ何者です? 悪者には間違いないですよね。ロシアの情報機関なんか、暗殺対象リストにあげていますよ。ほら、その一番右のモニター。その隣のフランスの警察データベースには、殺人事件の容疑者として……ええと、他にも六件が疑われる……だそうです。悪い奴だなあ」

 椅子を回してカワノの方を向いた三木尾善人は尋ねた。

「何処にいるか、分かるか」

「ううんと、今ですよね。ちょっと待って下さい。はい、どうぞ」

 カワノは素早くキーボードを連打して、いとも簡単に結果を表示させた。

「今、いるとしたら日本の確率が高いでしょうね。その次は香港」

「根拠は」

「まあ、俺がざっと見た感じですけどね。いいですよ。こうして、世界中の情報機関のデータベースから抽出したイヴンスキーちゃんの名前と関連付けされている都市名を、日付順に並べて……世界地図上に移動の軌跡を表示すると……ちょっと待ってくださいね。ほら。これに、航空路線と船、代表的な鉄道の路線図を重ねてっと……さっきのイヴちゃんの軌跡と重なってないものを削除。ほらね、どの線も日本の海域周辺で途切れている」

 三木尾善人は横の棚の上の大型モニターを再度覗きながら呟いた。

「なるほど。たいしたもんだ」

「このくらいで褒められちゃあ、『アクアK』の名前に傷が付くなあ」

 三木尾善人は厳しい視線をカワノに向けた。

 カワノは首を竦める。

「すみません。――そんで、次は?」

 三木尾善人はもう一枚のメモ用紙を渡す。

「こいつを調べてほしい。居所を追っている」

 カワノはメモ用紙に書かれた人名を見て、眉を寄せた。

「田爪健三。また、ヘビーですねえ。やっぱり、生きてるんですね」

「いいから、探せ」

「はい、はい。写真やら個人データやらでの追跡は、どうせもう、そっちでやってるんでしょ。だから、俺っちは、世界中の、お友達にっと。はい、一斉送信。カモーン。カモーン。来い! 来い! ――はい、来たあ!」

 ゲーム感覚で情報を集めているカワノを、三木尾善人は不安そうな顔で見ながら言う。

「大丈夫なのか」

「何がです? スーパー・エシュロンですか?」

 顔を向けたカワノは、手を振った。

「んなもん、恐くない、恐くない。スーパーでも、ウルトラでも、ハイパーでも、アクアKを見つけられますかっての」

 カワノの机の上に並べられた立体パソコンの一台から、ダイナマイトの形をしたホログラフィー画像が投影された。その下に文字が並んでいる。カワノはそれに顔を近づけた。

「おやおや? スーパーじゃなく、コンビニが引っかかってきましたよ。ああ、返事した友達も、みんな気付いてますな。暗号で『開くな』って返してきている。なるほど……んじゃ、ぜーんぶ、消去っと」

 カワノは素早くキーを叩いて、並んでいる立体パソコンの上に次々と浮かび始めたホログラフィー画像を消していく。

 三木尾善人は眉間に皺を寄せた。

「どうしたんだ」

「ああ、焦らない。焦らない。すぐ、済みますから」

 椅子を回して横のモニターを覗きこんだカワノは、顎を触りながら呟いた。

「なるほどね、フラちゃん達か……」

「フラちゃん?」

「フラクタル。知りません?」

「知らんなあ」

 首を傾げた三木尾に、カワノは説明した。

「数年くらい前からかなあ、ネット上にチラチラと出没し始めたハッキング集団ですよ。あっちゃこっちゃの情報を、かき集めている。目的は不明。方法もまちまち。ま、俺の予想じゃ、やさぐれハッカーの寄り合いだな。みんなで協力して、標的に波状攻撃を仕掛ける。トイレに行くのに友達を誘う奴っているでしょ。ああいうタイプの奴らですよ。きっと」

 三木尾善人は横の大型モニターを見つめていた。モニターにはメルカトル図法で世界地図が表示され、その上のあちらこちらで赤い点が点滅している。

 カワノは言った。

「だから、大抵のセキュリティーは突破する。奴らでも突破できないのは、SAI五KTシステムか、この俺くらいじゃないですかね」

 三木尾善人は再びカワノに顔を向けた。

「その、フラクタルがどうしたんだ」

「やだなあ、善さん本当に知らないんですか? もしかして、警察も?」

 三木尾善人は黙ってカワノの顔を見据えている。

 カワノは口を大きく開けた。

「かー。あ、なるほど。それで、俺の所に来た訳ですね。さすがの警察も、俺に頼らざるを得ないって事ですか」

 三木尾善人は視線を落として言う。

「まあ、個人的には、それは認めるよ」

「……」

 珍しく敗北を認めた三木尾の顔を、カワノはじっと見つめた。短く溜め息を漏らした彼は、膝を叩く。

「分かりました。アクアKは正義のハッカー。いつも正義の側に立つ善さんが困ってるなら、力に成りやしょう」

 三木尾善人は険しい顔で尋ねた。

「そのフラクタルという奴らは、何をしているんだ」

「ああ、こいつら、田爪健三ってキーワードで網張っていますね。ッて事は、その関連する言葉にも。とにかく、俺の送ったメールに偽装ログを付加しやがった。たぶん、そうやって、網に引っかかった奴を片っ端から調べ上げている」

「お前は大丈夫なのか」

「俺は大丈夫ですよ。無色透明の『アクアK』ですよ。それに場数を踏んでますから、そのくらいの事は想定済みでっせ。奴ら今頃、地球の反対側を一生懸命に調べていますよ。奴らに俺が見つけられる訳なんて、ないない」

 カワノは顔の前で手を振る。

 三木尾善人は冷静に質問した。

「じゃあ、お前なら逆に、こいつらを炙り出す事が出来るんじゃないか」

 カワノは深く頷いた。

「やって、みましょう。でも、少し時間下さいよ。大学院出の素人を相手にするのとは訳が違う。色々とモノも揃えないといけないし」

「分かった。どのくらいかかる」

「そうですね……明日の夜までには、何とかいたしましょう」

「分かった。頼むぞ」

「他には何か」

「この会社のデータサーバーは、どうだ」

 三木尾善人は更にメモ用紙を差し出した。カワノはそれを読み上げる。

「ええと、トライアル・ノック・アウト・システム社。ああ、司時空庁のゲートシステムのメンテを引き受けていたところですね。楽勝ですよ」

「さすがに、詳しいな。だが、どうして過去形なんだ?」

 カワノはキーボードを操作しながら答える。

「先月、倒産しましたからね。本当にノックアウト。でも、まだ破産手続きに入ったばかりだから、たぶん、サーバーは電源を落としてないと……ほらね。火は入ったままですわ」

「そこからな、ゲートのセキュリティセンサーの項目を探して、通過情報の履歴を見つけてくれるか」

「はいよ。ありました。それで?」

「光絵幸輔っていう人物の通過履歴を探してくれ。司時空庁の本庁舎の全ゲートと、タイムマシンの発射場の全ゲートの履歴からだ」

「要するに、その『みつえこうすけ』って奴がタイムマシンに本当に乗ったか知りたいんでしょ? 字は?」

「光絵は分かるな。あとは幸せの幸に、車辺の輔だ。あるか?」

 入力を終えたカワノは、眉間に皺を寄せた。

「いや……無いですね。これ、スーパーセンサーのログですからね。これに無ければ、一度もゲートを通過した事は無いって事ですもんね。乗ってないんじゃ、ないですか」

「そうか……」

 カワノは再びキーを叩きながら言った。

「何か、身体的な特調とか無いんですか? これ、スーパーセンサーですから、体内の大抵のモノは感知して識別できるんですよ。例えば、人工心臓を入れているとか、癲癇てんかん患者用の情報チップとか、性転換手術した証明チップとか」

 三木尾善人は首を横に振る。

「いや、そんな手術をしたという情報はない」

 キーを一叩きしたカワノは言った。

「じゃあ、やっぱり乗ってないんですな。こりゃ」

「……」

 納得のいかない表情をしている三木尾を見て、カワノは言った。

「じゃ、日付はいつなんです?」

「六月二十三日」

「二〇三八年の?」

「ああ」

 モニターを覗きながら、カワノは首を傾げた。

「変だなあ。その日の履歴が丸ごと消されているなあ。司時空庁の方は……ああ、こっちもだ」

「なんとか復元できないか」

 椅子を回して三木尾の方を向いたカワノは、首を横に振った。

「ここからじゃ、無理ですね。でも、これも少し時間を貰えれば、そうだなあ、明日の昼過ぎまでには、残留データの中から塵を拾い集めるところまでは、出来ますよ。そこから予測復元してみましょうか。精度の方は、けっこう高いですよ」

「そうか。じゃあ、頼む」

 そう答えた三木尾善人は、カワノを指差した。

「それから、お前、警察のサーバーに入れるか」

「は? ええ、まあ。ああ、どうかな、出来るような、出来ないような……」

 惚け顔をするカワノに三木尾善人は厳しい視線を向けて尋ねる。

「入った事は。あるのか、ないのか」

「有りやす。有りやすよ」

「今日、俺の名前で偽メールを送った奴がいる。今すぐ、分かるか」

「偽メール? 警部の名前で? よっぽど恨まれているんですね。ヒヒヒ」

 三木尾善人はニヤニヤと笑っているカワノの顔を睨みつけた。

 カワノは椅子を回してモニターの方を向くと、キーを叩きながら三木尾に言った。

「冗談ですよ。ああ……そのメールそのもののデータがあれば、分かりますけどね。今、何処です?」

「もう、侵入したのか?」

「ええ、だから、急いで下さいよ。何処ですか。あんまり長居したくないんですよ。善さんもでしょ」

「たぶん鑑識だ」

「あ、鑑識さんね。鑑識……鑑識っと。ありゃあ、ここのファイヤーウォール、一度見直した方がいいですよ。外から丸見えだ。ああ、これか。ええと、善さん、善さん、三木尾、三木尾と……これかな? さっきですよね。夕方の」

「ああ、そうだ」

「おお、あぶねえ。データ破壊型のウィルスが仕込まれているぞ。その手は桑名の焼きハマグリっと。さあて、俺のダチの善さんを陥れようとした悪い奴は、誰だあ。おや?」

「……」

 指を止めたカワノは、眉間に皺を寄せてモニターを覗き込む。

 三木尾善人が尋ねた。

「どうした。誰だ、送ったのは」

「いやあ、転送先を遡って着いた先、このIPアドレスはね、国防省の端末なんですよ」

「やっぱりな」

 カワノは再びキーを操作しながら言う。

「そういえば、国防省も、いろいろ大変ですねえ。このところ」

「このところ?」

「へえ。なんだか、新興の地下組織みたいな連中のあぶり出しに、躍起みたいですぜ」

「地下組織? 何だ、それは」

「なんでも、ASKITの残党みたいで、情報局が調べて……あれ?」

「どうした」

 カワノはモニターに視線を据えたまま答えた。

「国防省は本命じゃないですよ、善さん。メールの本文を作った人間は、まったく別人ですね。誰か別の人間が別の場所で作成したメールを国防省の人間がペーストして、新規の偽メールに加工している。つまり、下書きした奴が他にいますよ」

「なんだと。何処の誰だ」

 カワノはモニターを回して角度を変え、三木尾の方に向けた。

「自分で見て下さいよ。こいつです。追っかけたら、ここの端末に到着。ここって……」

 三木尾善人は椅子から腰を上げてモニターを覗き込みながら、カワノに言った。

「なあ、ケー。こいつの正体を探れるか。何者で、何処に所属し、誰と繋がっているか」

「勿論ですとも。善さんをハメようとした訳でしょ。だったら、絶対に正体を暴いてやりますよ」

 三木尾善人は椅子に腰を戻さずに、そのまま立ち上がる。

「分かったら、最優先でメールくれ。アドレスは……」

「いつものアレですね。分かってますって。それより、他についでは無かったですか」

 三木尾善人は手を振った。

「いや。もう、随分と料金を超過してオーダーしちまっているだろ。このくらいにしとくよ」

 横を向いたカワノは、キーを叩きながら言った。

「んな、水臭い。じゃあ、これはどうです? 真明教」

 カワノは三木尾の横の大型モニターを指差した。そこには、真明教のホームページが表示されていた。カワノは言う。

「今、警察に入った時、善さんの部屋から猛烈に検索されているのに気付きましてね。調べているんでしょ、真明教を」

「ああ」

「いいや、いいですって。サービスです。サービス。ちょっと早いけど退職祝いですよ。そう思って下さい」

 手を振ってそう言ったカワノは、真顔に戻って横のモニターに目を遣った。

「それより、こいつら、やたらとGIESCOのサーバーに侵入しようと挑戦していますね。全部失敗していますけど。素人に毛が生えたくらいの腕ですからね。無理も無いか」

 三木尾善人の眉間に皺が寄る。

「GIESCOに? 何を探っていたんだ」

 カワノは素早くキーを叩いて、モニターに顔を近づけた。

「ええと……奴らが探っていた可能性が高いワードは……『パンドラE』。EはアルファベットのEです。何でしょかね、これ」

「パンドラE……」

 三木尾善人は顔を曇らせた。モニターを見ていたカワノは、更にモニターに顔を近づける。

「おやおや? ここ、真明教の連中、端末っちゅう端末をフラちゃん達に覗かれてますよ。たぶんですけど」

「さっきのフラクタルか」

 カワノはキーボードの上で指を動かしながら頷く。

「ええ。この電子指紋の断片が奴らのものか、はっきりしないんで、断言は出来ませんけどね。あーあ。教祖の南正覚の個人端末まで、かき回されてるっぽいですね。つい、さっきも、AI自動車からのホログラム通信を盗聴されてる」

「向こうは気付いているのか」

「真明教ですか? いや、まず気付いてないでしょうね。俺でも、さっきの接触が無かったら、気付かなかったですからね。こいつら、意外と手強いかもな」

「ついでに、教団の資金繰りは分かるか」

 カワノは涼しい顔でキーを叩く。

「楽勝です。昔と違って、今の大抵の会計ソフトは、ハッキングしやすいように出来てますからね。意図的に。はい、出ました」

「意図的に?」

「ええ。それが世間ってものですよ。ほい、真明教団のバランスシートです。あと、損益計算書も」

 カワノは三木尾の横の大型モニターを指差した。そこには真明教の貸借対照表と損益計算書が表示されている。数字を追いながら、三木尾善人は眉を寄せた。

「――随分、赤字だな」

「ですね。ああ、ほら、ここのログ、分かります? 頻繁に出てるでしょ。ここにも、ここにも」

「ああ。そうだな。何処だ、この発信元は」

「国税庁ですよ。国税庁査察部。ちなみに、おたくの経理課にも、財務局のログが付きまくっているかもしれませんよ」

 眉間に皺を寄せた三木尾善人は、大型モニターを指差した。

「これ、プリントアウトできるか」

 カワノはきっぱりと言う。

「ポリシー三、ハッキングした情報は抜き取らない。見るだけですって」

「そうだったな。いや、失礼した」

 椅子に身を倒したカワノは、片笑みながら言った。

「でも、善さんの所の小坊主君が調べやすいようになら、しておけますよ」

「そうか。手間を掛けるな」

 三木尾善人は頭を掻きながら、短く溜め息を吐いた。

 カワノは椅子から身を起こし、心配そうな顔で言う。

「なんか、大丈夫ですか。善さん、だいぶ疲れてるみたいですけど。日本の警察も、もっと功労者を大事にしなくちゃいかんですよね」

「高齢者?」

「功労者ですよ。頑張ってくれた人。善さんみたいに。ほんとなら、一番楽なポストに付いて、然りじゃないですか」

「人を使い古しみたいに言うなよ。それに、楽をして高い給料を受け取れる性質たちじゃねえからな」

 カワノは三木尾を指差した。

「真面目なんだよなあ。そういうところ」

 三木尾善人はカワノに背を向けて、出口へと向かいながら言った。

「他に、どういうところで真面目にしろっていうんだ。――ま、いいや。とにかく、そのフラクタルとかいう覗き屋の集団と、スーパーセンサーのログ、それから、さっきの男。全部、調べといてくれよ」

「覗き屋?」

 カワノは気を害したように、顔を顰める。

 三木尾善人は背中を向けたまま言った。

「オメエさんとは違うよ。オメエさんは、節度ある覗き屋だ」

 三木尾善人はドアを開けて、出て行った。



                  十八

 警視庁ビルの壁面に朝日が当たる。

 ブランドの隙間から強い光が射し込む第五係室の机の上で、三木尾善人は古い英和辞書を捲っていた。熾烈な受験戦争時代に使っていたボロボロの英和辞書だ。頁を重ねた縁には、油性マジックで大きく名前が書かれている。何度も雨に濡れたその英和辞書は、表紙の厚手の紙がたわんでいて、形が歪んでいた。

 三木尾善人は「E」を頭文字にする単語の上を指でなぞって目を通していた。横に置いたノートの上には書き出した英単語が並んでいる。そこには、echo(反響)、epimorphosis(真再生)、expand(発展させる)、ego(自我)などの単語が書き並べられていた。ノートの横には、何冊もの書籍が積み重ねられている。どれもギリシャ神話に関する書籍である。頁を開いて重ねられた分厚い書籍の一番上には、付箋が貼られていた。そこには、「ToDo書店」という文字の下に、カタカナで「ハマー」と書かれている。重ねられた本の向こうには、割り箸を立てた空のカップラーメンの容器が置かれていた。

 ガラス製のドアが開き、石原宗太郎が入ってきた。彼は、薄暗い室内で机に座っている三木尾に驚いて言う。

「あ、お、おはようございます」

「おう。おはよう。顎はどうだ? 腫れはひいたか」

 石原宗太郎は顎を触りながら答えた。

「ああ、大丈夫です。ひきました。それより……」

 三木尾の机の隅のカップラーメンの容器を見つめて、彼は尋ねた。

「善さん、まさか、泊まったんですか?」

 三木尾善人は辞書に目を落としながら答える。

「ああ。どうしても気になっちまってな。一晩中、考えてたよ。だが……」

 三木尾善人は荒っぽく辞書を閉じた。

「やっぱり分かんねえんだよな。全体像が」

「この事件の……ですか?」

 三木尾の机に回ってきた石原宗太郎は、箸を立てたままのその空の容器を赤いゴミ箱に入れると、目に付いた三木尾のノートを覗き込んだ。

 三木尾善人は椅子の背凭れに身を倒して、頭の後ろで手を組んだ。

「ああ。田爪の奴を探すのが最優先だが、どうも、一連の事件を意図的に引き起こしている奴がいるような気がしてな」

「やっぱり、軍の連中じゃないですかね。昨日の坂口にしても、俺たちに気付いただけで、あんなに必死に逃げたって事は、なんか隠してるんですよ。きっと」

「それは間違いないだろうが、それだけで黒幕が軍だと断定するのは早過ぎる。それに、ストンスロプ社も、絶対に何か隠している」

「軍と結託しているって事ですか……」

「うーん。どうだかな。SAI五KTシステムと新型兵員輸送機の納入で結びついてはいるが、田爪健三が絡んではこない。なんか、こう……すっきりしねえよな」

「こいつは?」

 三木尾善人は積み重ねられた書籍の上に貼られていた付箋を手に取った。

 三木尾善人が視線だけを向けて言う。

「ああ、この本と同じ本をネットで検索していた書店だ。それも、昨日の夜。追跡されないように、安物のIPアドレス偽装プログラムを使っていた。それで、かえって公安部にピックアップされたみたいだ」

「公安?」

「夜中に俺が下の図書室でこの本を検索していたら、同じ本を探しに来た公安の連中から事情を尋ねられた。その時に聞いたんだ。こっちは適当に答えといたが、お蔭で、本を借りるのが遅くなっちまった」

「この『ハマー』ってのは?」

「俺が知っている探偵だ。その書店は、ハマーがよく使う店だ。旧市街の片隅で無許可で紙製の書籍を販売している。一昨日も、そこの交差点でハマーを見かけた。もしかしたら、奴もこの事件に絡んでいるのかもしれん。どうも、臭う」

 石原宗太郎は付箋を本の上に戻すと、三木尾の後ろを通って、窓の方に向かった。村田の机に目を向けると、出勤している形跡がない。既に出勤時間になっているにもかかわらず、珍しく村田が遅刻している事に首を傾げながら、石原宗太郎はブラインドを開けた。

 射し込む朝日に三木尾が目を細める。

 石原宗太郎は自分の席に戻りながら尋ねた。

「そのハマーって男、どんな探偵なんです? ワルですか」

「いや、その逆だ。うーん……もう一周して、結果、逆だな。悪者に手を貸したり、犯罪を幇助するような奴じゃない。ああ、ほら、昨日、自動車修理工場に警官の手配を頼んだだろ。あの電話の件の男だよ」

 石原宗太郎はハッとして声をあげた。

「ああ! そうでした。車の確認でしたね。すみません、忘れてました」

 慌てて電話機から受話器を持ち上げた石原に、三木尾善人は手を上げた。

「いや、まだ手を付けてないなら、ちょっと待て。保留だ。俺が直に行くよ。その方がよさそうだ」

 石原宗太郎は受話器を戻しながら言った。

「でも、田爪の捜査に集中した方がいいんじゃないですか?」

「ま、そうだな」

 机の上のノートを閉じた三木尾善人は、動きを止めて静かに言った。

「でもなあ、なんか、責任を感じるんだよ」

「責任?」

「ああ、おまえら、次の世代に対する責任さ。その次の世代にも」

「どうしちゃったんです? 善さん」

「だって、このまま放っておけねえだろ。せっかく次の世代にバトンタッチって時に、この、いかがわしい関係というか、状況というか……」

 石原宗太郎は三木尾の顔を凝視した。三木尾善人はいつに無く、哀しい顔をしていた。彼は冷めたお茶を一口啜って、言った。

「俺たちの世代は、二十代と三十代の貴重な時代を失った。『失われた二十年』ってやつだよ。前の世代のツケを払わされたのさ。俺も六十四だ。後は、そのツケを回した世代の介護が待っている。同じ事を次の世代のおまえらに繰り返させる訳にはいかんからな。整理はして、引き渡さんといかんと思っている。一応は。だから、とりあえず今は、警察官として、出来るだけの事はしたいんだよ」

「――善さん」

「ちゃんと結果を出さないとな。最後くらいは」

 そう言って、三木尾善人は冷たいお茶を啜った。

 ガラスドアが開き、陽気な声が飛び込んできた。

「おっはようございまーす。よっしゃあ、セーフ! あれ、リコちゃん、まだ来てないんですか? ふっふっふ。じゃあ、今日はリコちゃんがアウトですね。僕の勝ちですね。ふふふ」

 ほくそ笑みながら自分の席に向かう中村明史を、石原宗太郎が呆れ顔で見ながら言った。

「出たよ。競争心だけで責任感は全く無い、ミスター新世代。セーフとかアウトって問題じゃねえだろう」

「な、なんですか。朝から、いきなり」

「あのな、警部殿は昨夜、ここに泊まって、事件の真相について検討されていたんだぞ。おまえも、ちゃんとしろよ」

「それは、先輩も同じじゃないですか。昨日、一緒に飲んでいた訳だし……」

 石原宗太郎は三木尾を一瞥して、気まずそうに頭を掻く。

「うん……まあ、そうか……」

 三木尾善人は冷めたお茶を啜りながら笑っていた。

 鞄を床に置いて椅子に座った中村明史は、三木尾に尋ねた。

「それより、警部。昨日、Kカワノのライブには行かなかったのですか?」

 三木尾善人は腕組みをして首を何度も振る。

「行った、行った。行きましたよ」

 中村明史は興味津々の顔で尋ねた。

「で、どうでした? やっぱり、良かったですか?」

「ん? ああ、色々なものを見せてもらったよ」

「ええ! いいなあ! 特別席って事は、サインとかも貰えたりしたんですか?」

「いや、サインは貰えなかったが、貴重な情報は貰えた」

「情報?」

 首を傾げた中村明史は、怪訝な顔をしたまま立体パソコンに向かい、電源を入れる。顔を上げた彼は、再び三木尾の方を向いて、脳裏に浮かんだ答えを確認した。

「ああ! それ、もしかして、次回にゲリラ開催するコンサートの場所と日時とかでしょ。うわあ! いいなあ!」

 三木尾善人は中村を無視して、両手に持った二つの機械を石原に見せながら尋ねた。

「石原。このドライブの中身を見るには、どうしたらいい?」

「ああ、それ、カエラさんが持ってきた、例の護衛ロボットの人工知能プログラムですね。たぶん。ええと、それ、軍事用のハードドライブですから、接続ケーブルも普通に売ってるヤツじゃ駄目ですね。それに、暗号や特殊なファイヤーウォールもかけられてますから、軍のパソコンじゃないと開けないと思いますよ。もしくは、科警研じゃないと」

 三木尾善人は左右のハード・ドライブを見つめながら言った。

「じゃ、なんで持ってきたんだ、岩崎のヤツ」

「それより、どうして二台なんでしょうね。善さんが南米から持ってかえってきたのは、一台でしたよね」

 ハード・ドライブを机の上に置いた三木尾善人は、パソコンの液晶モニターの隅からピンク色の付箋を取った。

「リコちゃんが上司の俺に残した丁寧なメモ書きを、もう一度読むぞ。カエラさん、軍用ロボットのAI、新ドライブ、それぞれ、PCバツ。村田。――中村、おまえ、解るか?」

「いえ、解りません」

 三木尾善人は付箋をモニターの隅に戻した。

「じゃあ、俺も解んねえよ。だいたい、この矢印は何だ。どうして、これだけ、こうも立体的に丁寧に描いてあるんだ。この手間をなぜ、作文に掛けない」

 中村明史は尋ねた。

「カエラさんに電話してみたら、どうです?」

「向こうから掛かってくるだろう。頼んだのは、こっちなんだから、仕事を引き受けた者の責任として、分析結果の説明はしてくるんじゃないか、普通」

 ドライブを丁寧に机の隅に並べて置いた三木尾善人は、石原に顔を向けた。

「それより、石原。田爪瑠香の両親の事故の件、どうなってる」

「ええと……それがですね、俺の同期が今付き合っている彼女の前の彼氏の元奥さんの不倫相手っていうのが、結局、その同期の奴の彼女のモトカレの上司だったらしく、そのモトカレ君と元奥さんと、俺の同期の奴とその彼女さんとは、元同僚だったそうで……」

 腕組みをして石原の話を聞きながら、天井を見上げて考えていた中村明史が、顔を石原に向けた。

「ええ! じゃあ、全員、警察官なんですか」

「元な、元。元警察官だ」

 三木尾善人が目頭を摘まみながら言う。

「そんな、八十年代のトレンディードラマか、その成れの果てを表した二〇〇〇年代の昼ドラみたいな話は、どうでもいい! 結果はどうなったんだ、結果は」

 石原宗太郎は頬を掻きながら答えた。

「いや、そういう訳で、なかなか、その元上司の名前が聞き出せなかったんですけど、何とか判りまして、当時の捜査の関係資料が手に入りそうなんですよ。当時、事故現場一帯が停電で、全員、手書きで文書を作成したらしいんですけど、そのバカ上司、資料の下書きやコピーを、自宅に持ち帰っていたらしいんです」

 三木尾善人は眉を寄せて石原を見つめた。

「おまえ、だんだん村田に似てきたな。――それより、なんで関係資料なんだ。捜査資料そのものは?」

 石原宗太郎は真剣な顔で答える。

「それが、カクヒ扱いになっていたらしいんですよ」

「カクヒ? 最上級極秘事項か。久々に聞いたな。どうしてだ」

「その事故ったトラックってのが、ストンスロプ社が当時の自衛隊に納入する予定だった、国産の新型戦闘機を積んでいたようなんです」

「だが、民間人が二人も死んでるんだぞ。極秘扱いって、おかしくねえか」

「ええ、俺も、そう思います。だから、今日、その元警官に会いに行ってきますよ。現場近くに居たようですから、話を聞いてきます」

「そうか。中村、もう一度、例の交通事故証明書を見せてくれ」

「あ、はい。どうぞ、今、警部のパソコンに転送します」

 三木尾善人は旧式のマウスを動かして、中村から自分のパソコンに送られてきた文書ファイルを展開する。画面に表示された文書を読みながら、三木尾善人は呟いた。

「運転していたのは、水島みずしま和人かずと三十二歳か。加害車両単独の運転ミスによる、停止車両への衝突。――彼は亡くなったんだよな」

 三木尾の問いに中村明史は答える。

「ええ。即死だったようです」

「瑠香の両親も、即死だったな」

「はい。事故の衝撃がすさまじかったのでしょうね。この三名は、遺体の損傷が、かなり激しかったようです。具体的死因を特定できないほどに」

 三木尾善人はモニターから顔を離し、腕組みをして椅子に凭れた。

「当時の警察は、その事故車両が搬送していた戦闘機を隠すために、一帯を封鎖したんだよな。周辺の県警から応援まで動員して。水島が運転していたのは、十トントラックだったんだな。間違いないな」

「ええ。それが、瑠香の両親が乗っていた、停車中の普通乗用車に側面衝突して、その上に乗り上げたんです」

「それで、トラックの運転手も即死か? 現場は幹線道路から一本入った住宅街だろ。トラックが爆発炎上でもしたのなら、消火救助活動で消防が右往左往したはずだ。消防は現場に居たのか」

 中村明史は聞き慣れない単語を聞き返した。

「しょうぼう? あ、今の防災隊の消火支援部みたいなものですね。ええと。現場には消防車って車両が一台、到着していますが、すぐに署に戻ってますね」

「その後の事故車両の行方は」

「どっちの事故車両ですか?」

「トラックだよ。トラック」

 中村明史は首を横に振る。

「いや、分かりません。捜査資料を探せって言われなかったので。でも、『カクヒ』でしたっけ、最重要極秘事項に指定されているなら、仮に捜査資料が存在しても、僕らみたいなヒラ警官には閲覧させてくれないですよね」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せた。

「変だよな。遺体の損傷が激しかったって言ったよな。瑠香の両親はともかく、乗り上げたトラックの運転手の遺体も、損傷が激しかった? 炎上した訳でもないのにか? しかも、トラックは幹線道路から住宅街の横道に入ってきたんだろ? スピードも出ていないはずだよな。ていうか、出せないよな。横道に曲がるときに、ギアを落としたはずだから」

 首を傾げた三木尾善人は、暫らく考えていた。ふと顔を上げた彼は、また中村を見る。

「あ、そうだ。中村、お前、例の宿題、やったのか?」

「ああ、今日あたり、先方から返事が来ると思います」

「そうか。それから、真明教の資金繰りの方は、どうだ?」

「ああ! 忘れてました」

 中村明史は慌てて立体パソコンのホログラフィー・アイコンを動かす。横で忙しく手を動かしている後輩に、石原宗太郎が言った。

「その前に、『すみません』だろうが。まず謝れよ。忘れてたんだから」

 三木尾善人は黙って石原を軽く指差した。

 石原宗太郎は小声で言う。

「そうでした、俺もでした。すみません」

 三木尾善人は中村に言った。

「で、大将。どうなんだ。あの宗教団体の金回りは分かりそうか」

 中村明史は立体パソコンの上で熱心に手を動かして、ホログラフィーのアイコンを動かしたり浮かせたりしていた。

 三木尾善人と石原宗太郎は顔を見合わせて、口を引き垂れる。

 中村明史は頭を掻きながら言った。

「ええと。銀行融資を受けていれば、銀行協会の方で借入先に借入額、担保についての情報を把握してるいはずなんですよね。それが分かれば、その借入先の金融機関に財務状況を報告しているはずなんで、それが手に入れば……あれ?」

 ホログラフィー画像に顔を近づけた中村を横目で見ながら、三木尾善人が言った。

「どうした」

「ちょっと、待って下さい」

 中村明史は首を傾げながらホログラフィー文書を切り替える。

「あれあれ? なんで?」

「何だよ、どうしたんだよ。言えよ」

 横から石原宗太郎が覗き込んだ。中村明史は立体パソコンの上に浮かんだ封筒のホログラフィー画像を指差しながら言う。

「いや、先輩。これ見てください。これって、教団からのメールですよね。美空野弁護士に宛てた。たぶん、この、あて先のメールアドレス、美空野法律事務所ですよね」

 石原宗太郎は自分の立体パソコンに向かった。

「ええと……今、あの法律事務所のホームページで調べてみるよ。待ってろ。ミソラノシンメイ、アットマーク……そうだな、ドメインは同じだ。たぶん、ここのアドレスだな。顧問先ごとにアドレス作っているんだろうな。なんで、お前のところに届いているんだ」

「分かりません。何か間違えているんでしょうね。真明教から美空野事務所とこっちに同時に送信されています。しかも、警部。この添付ファイル、会計ファイルなんですよ」

 三木尾善人は落ち着いた様子で言った。

「開いてみろ」

「大丈夫ですかね。本文によれば、教団は昨日、定例報告会をやっていたみたいなんですよ。そこでは、会計報告もされますから、その内容を美空野事務所に報告……」

 中村の横から、ホログラフィー画像を覗き込んでいた石原宗太郎が声を上げた。

「うわ、本当に出た。会計資料ですよ。善さん」

 三木尾善人は積み重なった書籍の中の一冊を取って開きながら言った。

「おう、そうか。よかったな」

 中村明史は宙に浮かんだ会計データのホログラフィー文書に目を凝らしながら言う。

「それにしても、赤字だらけですね。連結決算している医療法人や学校法人が足を引っ張っています。ああ、いや、それだけでもないな。やっぱり、南米への食料と医療物資の援助に、相当に金を注ぎ込んでいますね」

 三木尾善人は本の頁を捲りながら言った。

「すぐにプリントアウトしとけ」

「え? あ、はい。了解です」

 文書を印刷した中村明史は、立体パソコンの上から姿を消したホログラフィー文書を探して、ホログラフィー・アイコンを指で動かしていった。

「あれ? 勝手に削除されてる。何で?」

 横から石原宗太郎が眉を寄せて覗き込んだ。

「お前のパソコン、ウイルスに感染してるんじゃないか」

「そんな馬鹿な。アンチ・ウイルス型の最新式パソコンですよ。それに、警視庁のファイヤー・ウォールは、普通の攻撃じゃ突破できないはずです。それこそ、SAI五KTシステムに同期してあるんですから」

 三木尾善人が顔を上げる。

「ここのシステムも、SAI五KTシステムと繋いであるのか」

 中村明史は頷いた。

「ええ。だから、外国のサイバー部隊が本気で攻撃をしてきても、突破できないと思いますけど」

 石原宗太郎はプリンターから取り出した会計文書を机の上で立てて揃えながら言う。

「真明教の方が、いじられてるんじゃないか。あそこ、ワキが甘そうだからな」

「じゃあ、誰かがわざわざ、僕たちの所までこっそりメールが送信されるウイルスを真明教のパソコンに仕込んでくれたって事ですか?」

 下を向いて本を読みながら、三木尾善人が呟いた。

「親切なハッカーもいるんだよ」

 すると今度は、真明教の会計資料を読んでいた石原宗太郎が書類に顔を近づけた。

「うん? ――おい、中村。これ」

 隣から書類を覗き込んだ中村明史が言う。

「あれ? 警部、これ見て下さい。今プリントアウトした会計資料の末尾の頁です」

 三木尾善人は、中村に促されて石原が差し出した書類を受け取り、その末尾の頁の欄外に小さく印字された文字を読む。

「神作と永山?」

 石原宗太郎は三木尾が握っている書類を指差しながら言った。

「それって、新日ネット新聞の神作と永山の事ですよね。あの記者たち、宗教法人の会計情報をハッキングして覗いてやがったって事ですかね」

 三木尾善人は書類を中村に返しながら言った。

「話を聞いてみる必要があるな。中村、新日ネットに電話して、この二人の記者とアポをとってくれ。それから、石原。おまえは、国防省の軍規監視局に連絡を入れてくれ。担当者と会って、サシで話がしたい」

 石原宗太郎は目を丸くする。

「え、これからですか。何の要件だと言えばいいんです? 担当者の名前は?」

 三木尾善人は本を閉じると、椅子から腰を上げる。

「そいつを調べに行くのさ。例のBDマーク。あの調査をしているのは誰か。何を調べているのか。俺達の前に出てきた奴が、その担当の監察官だ。同じ司法官憲どうし、膝突き合わせて話せば、何か教えてくれるかもしれないだろ。それに、坂口についても、向こうでしょっ引いて貰えるように交渉できるかもしれん。その方が、手間が省ける」

「なるほど。で、善さんは、これから何処に行くんです?」

「俺は下で朝飯を食ってくるよ。それから、サッチョウに行って長官に会ってくる」

 中村明史は怪訝な顔をする。

「警察庁ですか? また、長官に?」

 三木尾善人は頷いた。

「最重要極秘事項の事、何とかならんか尋ねてみるよ。それと、国防省への訪問の事も」

 石原宗太郎は歩いてガラスドアの方へと向かう三木尾を目で追いながら言った。

「そんな……大丈夫ですか?」

 三木尾の前で、ガラスドアが向こう側から勢いよく開けられた。村田リコが飛び込んでくる。

「警部、おはようございます。遅くなりました。更衣室からのエレベーターが混んでいて。今日は何かあるんですか?」

 中村明史が透かさず村田を指差す。

「はい、遅刻う」

 村田リコは背伸びをして、三木尾越しに中村に言った。

「な、なあによ。言っておきますけどね、本当は、私は中村さんより早く登庁しているんですからね。制服に着替える時間とかがあるんです! エレベーターが混んでいて、乗れなかったって言いましたよね」

 三木尾善人は目の前の村田に尋ねた。

「そんなに混んでたのか」

 村田リコは言う。

「だって、外の道路が目茶目茶に混雑していて、ふだんバラバラの時間で出勤する人がまとめて出勤してきたみたいなんですよ。エレベーターも更衣室も大混雑で……」

 中村明史は横を向いて、窓から外の景色を眺めた。

「ホントだ。でも、リコちゃん、地下リニアで通勤だよね」

 村田リコは三木尾を押し退けて、石原の向こうの中村に叫んだ。

「地下リニアも混んでて、なかなか乗れなかったんですう! 地上の都営バスが渋滞で動かないから、樹英田町からの通勤者がみんな地下リニアに集中しちゃってるんですよ! この部屋に来るのが、ちょっと遅れたくらいで、なんなんですか。もう!」

 三木尾善人が村田の肩をつついて言った。

「あ、リコちゃん。昨日のメモのドライブ。あれ、どういう事? それから、中が見られるようにしてもらえると助かるんだけどな」

「もう」

 村田リコは三木尾の席まで回った。机の上の液晶モニターを指差して言う。

「付箋に矢印を書いておいたじゃないですか。こんなにリアルに。貼った場所を変えちゃうから、分かんないんですよ。元はここに貼ってましたよね」

 村田リコはピンク色の付箋を液晶モニターの中央から少し横の位置に貼り直した。

「ほら、この位置なら、ばっちりです。矢印の先には……」

 腰を落とした村田リコは、液晶モニターに貼られた付箋に顔を近づけて、その付箋に描かれた立体的な矢印の絵の先に目線を合わせる。そして、石原の頭の横を指差した。石原宗太郎は振り返って、そこにある棚を見回す。再び村田に顔を向けた石原宗太郎は、棚を指差して首を傾げた。村田リコは立ち上がり、苛立った様子で言う。

「だから、その棚の上の特殊なインターフェースでパソコン繋げば、中の人工知能と話ができるそうですよ。でも、ネット接続されている環境は危険だから、すぐにはパソコンに繋ぐなって、カエラさんが言ってました」

 石原宗太郎は困り果てた様子で言った。

「あ……ああ。そういう意味なんだ、そのメモ」

 村田リコは不機嫌そうな顔で言い返す。

「ちゃんと書いてますよね、日本語で。読みますよ。先に帰ります。カエラさん! 軍用ロボットのAI、新ドライブ!、それぞれ、PC駄目。村田!。ほら、お先に帰りますからね、カエラさんが軍用ロボットのAIを新しいドライブにそれぞれ入れて持ってきましたよって分かりますよね。パソコンには、すぐに繋いじゃ駄目って。フロム村田リコでしたって事でしょ、これ」

 中村明史が首を傾げる。

「いや、いやいや、分からないよね、それ」

「どうして分からないんですか。だから女心も理解できないんでしょ!」

 中村明史は頬を膨らませる。

 石原宗太郎は椅子に凭れた。

「いやあ、わかんねえよ。新手の暗号かと思ったよ。ねえ、善さ……って居ないし……」

 三木尾善人は既に出掛けていた。



                  十九

 石原宗太郎と中村明史は、国防省ビルの前の歩道に立っていた。二人は、狭い門を守る武装兵たちとは距離を置き、車道に近い場所に立って、いつもより混雑しているその車道に顔を向けている。石原宗太郎はウェアフォンをポケットに仕舞った。中村明史は左目を赤く光らせて、イヴフォンで通話している。彼が通話を終えると、石原宗太郎が言った。

「カエラさんが撃たれたそうだ」

 中村明史が頷く。

「ええ。僕も今、聞きました。大丈夫でしょうか。あ、警部だ」

 三木尾善人が歩いてきた。

 中村明史が尋ねる。

「どうでした、警部」

「ああ。国防省へは、橋を渡してもらえた。中に入れてもらえそうだ」

「そうですか。良かった」

 無線で伝令を受けた門番の兵士の一人が、三木尾たちに手招きした。三木尾たちは兵士たちに敬礼しながら狭い門を通り、国防省ビルの敷地の中へ入っていく。三人はビルの入り口に向かって歩いた。そびえ立つ頑丈そうな高層ビルを見上げて歩く三木尾に、石原宗太郎が尋ねる。

「善さん、聞きました? 昨夜、カエラさんが何者かに撃たれたそうです」

「ああ、俺も今、子越長官から聞いた。どうやら、犯人はイヴンスキーのようだ」

「イヴンスキー? 科警研に突っ込んだんですか? なんで奴が」

「分からん。ちっ。本当に奴も国内に居やがったとは……」

 三木尾善人は唇を噛みしめる。

 中村明史が尋ねた。

「それで、カエラさんの容態は?」

「大丈夫だ。たいした事は無いらしい。弾は右肩を貫通。骨の損傷も無いそうだ。出血がひどかったらしいが、ま、あいつの事だ、死にはしまい。医者も驚いていたそうだよ」

 三木尾善人は小さく笑った。石原宗太郎と中村明史は怪訝な顔を見合わせる。三木尾善人は続けた。

「どうやら、イヴンスキーって野郎は、相当に腕の立つ殺し屋みたいだな。たまたま近くに警備用のロボットを置いていて、そいつが岩崎を守ってくれたという事だ」

 中村明史は眉を寄せる。

「どうしてカエラさんが。何が狙いだったんでしょう」

「あそこで解析しているASKIT製の量子銃か、エネルギーパック、あるいは量子エネルギープラントの設計図が狙いだったのかもしれん」

 石原宗太郎が首を傾げながら言った。

「でも、ASKIT製のそれらは、どれも全部使えない物なんですよね。そんな物をどうして」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せる。

「もしくは、何か別の事情か。そのロボットが記録した動画によれば、イヴンスキーは『ある物』を岩崎に要求した後、執拗に岩崎の命を狙っていたらしい。必要な物が無いと知った奴は、あいつを消す事に目的を切り替えた。つまり、口封じだ」

 石原宗太郎は眉をひそめた。

「ある物?」

「後で話してやるよ。ここじゃ不味い」

 三木尾善人は警備兵たちの詰め所や目の前の検問ゲートの横に設置させている警備カメラを視線で示した。

 石原宗太郎は頷く。

 三木尾の視線に気付かなかった中村明史が尋ねた。

「カエラさん、何を掴んだんです?」

 石原が睨んで質問を止めさせようとしたが、中村明史は続ける。

「もしかして、AB〇一八の自我の覚醒の件ですか。あるいは、バイオ・ドライブが二つあった事とか」

 三木尾善人は検問ゲートの横で係りの兵士が差し出したプラスチック製のケースに、旧式のスマートフォンとベレッタM九二F、折りたたみ式の警棒、手錠を入れながら答えた。

「分からんよ。だが、その線が濃厚かもな。そして、何処かの誰かが、何かを隠そうとしている。それは確かだ」

 中村明史も、イヴフォンとCOP三五七マグナム、手錠、小型の端末、電子手帳を取り出してプラスチック製のケースに入れた。

「カエラさん、大丈夫でしょうか。また、襲われるんじゃ……」

 石原宗太郎はウェアフォンとガバメント復刻型のコルト四五オートマチック、予備の弾倉、バタフライナイフ、折りたたみ式の警棒、投げナイフ、メリケンサックをケースに入れていく。それを眺めながら、中村明史が呆れ顔で言った。

「どんだけ武器を持ってるんですか……」

 小さな手裏剣と手錠をケースに入れた石原宗太郎は、片眉を上げた。

 三人は金属探知型の検問ゲートを通過した。係りの兵士が渡したケースから、それぞれの道具を元の位置に戻していく。

 石原宗太郎がコルト・ガバメントを左脇のガンホルダーに戻してから言った。

「善さん、とりあえずイヴンスキーの捜索を優先させませんか。他の事は、奴の身柄を押さえてからでも……」

 注意深く見回したベレッタをガンホルダーに戻した三木尾善人は、手錠と警棒とスマートフォンを元の位置に戻しながら言った。

「いや、それは駄目だ。捜査をしたところで、奴を見つけられるはずがない。それに、岩崎を襲った事で、奴は全国の男性警察官ばかりか女性警察官までもを敵に回した訳だ。特に男性警察官のイヴンスキー逮捕の意欲は、尋常じゃない。かなり感情的なものだろう。今のお前らみたいにな。これだけ多くの警察官が殺気立っているとなれば、さすがのイヴンスキーも、直ぐには動けんよ。暫くは地下に潜ったまま、出て来られないはずだ。そうなれば、俺達だけで捜査しても見つけられるはずが無い。時間の無駄に終わる」

 道具を仕舞いながら、石原宗太郎と中村明史は再度顔を見合わせた。

 三木尾善人はガンクラブ・チェックの上着を整えて言う。

「とにかく今は、従来どおりの捜査を続行だ。岩崎の見舞いは、夕方にでも行くとしよう。イヴンスキーの事は、公安の連中が本気の何割り増しかで追うはずだ。暫くは、その様子を見るしかない」

 予備の弾倉を腰に戻しながら石原宗太郎が返事をする。

「了解です」

 中村明史はイヴフォンをネクタイに留めながら尋ねた。

「警部、『カクヒ』の件は、何と仰ってました? 子越長官は?」

 三人はビルの入り口へと歩き始めた。

 三木尾善人は肩の横で手を振る。

「駄目だ。ぜんぜん駄目。光絵会長に完全にビビってる」

「光絵会長に?」

「ああ。あの事故の全資料は、ストンスロプ社の意向で極秘事項に指定されたらしい。長官曰く、実のところ、上層部も中身は分からんそうだ。警察は現場周囲を立ち入り規制する事に専念しただけで、事故調査そのものはストンスロプ社の研究員が実施して、事故車両も何もかも撤収していったそうだからな」

 中村明史は険しい顔で言った。

「二〇二五年の大爆発の時と同じですね」

「そうだな」

 石原宗太郎が髭を触りながら言う。

「警察が捜査するべき現場を、民間企業が取り仕切ったんですか。じゃあ、法定の調書類はどうしたんです? まさか、何も作ってないとか」

「いや、作るには作ってあるが、すべてストンスロプ社からの報告と、車両を撤収した後の現場での検証作業を基に作ったものらしい」

 石原宗太郎は顔を顰めた。

「何ですか、それ。トラックを所有していた運送会社は、ストンスロプ社の子会社なんですよね。それじゃあ、事故の一方当事者の主張だけで書類が作られたのと同じじゃないですか。そんなもの、まったく当てにならないですよ」

 三木尾善人は深く頷く。

「そのとおりだ。だから、警察庁もそういった批判をかわすために、最重要極秘事項に指定して、記録一切をお蔵入りさせているんだろ」

 三木尾善人はガラス製のドアを荒っぽく開けて、国防省ビルのエントランスへと入っていった。



                  二十

 エレベーターから出てきた三人の刑事たちは、国防省ビルの中の廊下を速足で歩いた。先頭を歩く三木尾善人が前を向いたまま言う。

「中村、記者たちとの連絡は取れたか」

 中村明史は小走りで前に出ると、三木尾と並んで歩きながら小声で言った。

「それが、神作真哉と永山哲也は、有給休暇をとっていて休みらしいんですよ」

「二人揃ってか。妙だな」

「それで、神作真哉の別れた女房も同じビルで記者をしてるのは知ってますよね。その前妻さんに居所を知らないか聞いてみたんですよ。そしたら、それ誰だったと思います?」

「誰だ」

「山野紀子です。昨日、駅で間違われて連行された、女子中学生が居たでしょ。赤いゴムスーツ着ていた、三つ編みの子。山野朝美。あの子の母親だったんですよ」

 二人の後ろを歩いて話を聞いていた石原宗太郎が目を丸くした。

「ええ。あの頭に鶏冠つけてた方かよ。マジで?」

 中村明史は少し振り向いて頷く。

「そう。ま、それで、山野さんは昨日の件の事情聴取か何かだと思っていたみたいで、すんなり居場所を教えてくれました。場所は、ええと……ここです」

 上着の中から取り出した小型の端末を操作して、小さくホログラフィー画像の地図を表示させた中村明史は、それを三木尾に見せた。地図の旗が立っている位置を確認した三木尾善人は、眉を寄せる。

「ここは……なあ、石原、ここは真明教の総本山がある所の、すぐ近くだよな」

 三木尾と中村の肩越しに地図を覗き込んだ石原宗太郎は頷く。

「ああ、そうですね。ここのちょっと先の山の中に……ほら、ここ。奴らの総本山です」

 石原宗太郎は、地図をスクロールしてポイントを示した。

 三木尾善人が中村に顔を向けた。

「こいつら、いつから休みをとっているんだ」

「一週間前からだそうです」

 石原宗太郎が言う。

「そりゃ、あやしいな」

 三木尾善人は石原に顔を向けた。

「石原。おまえ、瑠香の両親の事故現場に臨場したっていう元警官に会いに行くんだろ。そいつの住所はどこだ」

「ここの、隣町ですよ。総本山からだと二十キロくらいのところにある町です」

「じゃあ、午後は一緒に乗って行くか。途中で石原を降ろして、中村と俺で神作たちのいる場所まで行こう」

 中村明史は端末を胸のポケットに仕舞いながら言った。

「了解です。あ、この部屋ですね」

 三人は、「軍規監視局」と書かれた表札の下のドアの前で立ち止まった。



                  二十一

 三人の刑事たちが、衝立を背にして置かれた二人掛けの応接ソファーに詰めて座っている。真ん中に座っている石原宗太郎が右に窮屈そうに座っている中村に言った。

「もう少し詰めろよ」

「詰めてますよ。肘掛けが横腹に食い込んでますけどね……」

 壁際に座っていた三木尾善人が言う。

「中村、おまえ、そっちに座れよ」

 三木尾善人は向かい側の二人掛けのソファーの壁際の方を指差した。

 中村明史は言う。

「僕だけ、そっち側は淋しいじゃないですか」

 石原宗太郎は中村をソファーから押し出した。

「子供か、おまえ。暑苦しいだろうが」

 中村明史は頬を膨らませて、小さな応接テーブルを回った。すぐ横のカウンターの向こうに並んでいる机の事務員たちが、クスクスと笑っている。中村明史は上着を整えてからソファーの隅に腰を下ろした。すると、それと同時に三木尾と石原が立ち上がった。中村明史は慌てて立ち上がる。

 三木尾善人は、現れた制服姿の年配の男に敬礼して挨拶した。

「どうも。警視庁捜査一課の三木尾です」

 制服姿の男も背筋を正し、敬礼する。

「お疲れ様です。軍規監視局長の森寛常行と申します」

 そして、中村の横に来て言った。

「ま、どうぞ。楽にしてください」

 三人の刑事たちはソファーに腰を下ろす。森寛常行局長も中村の隣に座った。彼は三木尾の顔を見て言った。

「お話しは伺っています。田爪健三の事を調べていらっしゃるのですって」

 三木尾善人は頭を掻きながら苦笑いを作った。

「ええ。そうなんですよ。いやあ、困ったものでしてな」

 石原宗太郎は椅子の背凭れに身を倒し、足を広げて座っていた。目の前に座る軍規監視局の局長の顔をじっと見据えている。中村明史は少し遠慮気味に座って、壁に肩を当てていた。三木尾善人は膝の上に肘を載せて、身を前に倒して言う。

「退職前に、厄介な書類仕事ですよ。大量殺人をしたあげく、外国の戦火で死んだとはいっても、奴も日本国籍をもつ日本人ですからなあ。警察も、いろいろと書類は揃えておかんといかん訳です。形だけでも。分かりますでしょ」

「なるほど……」

 森寛常行は三木尾の目を見て、そう一言だけ答えた。二人は、テーブルを隔てて、一瞬、互いの目を睨む。

 ソファーに身を倒した森寛常行局長は、手を上げて言った。

「いや、分かります。私達も、重要な軍用品を横流しする馬鹿から、女性隊員にセクハラする奴らまで、どうしようもない軍人の尻拭いのために、書類作りと取調べに日々を費やしていますからな。それで、どういった協力をすればいいのですか」

 三木尾善人は森寛の目を見たまま、眉を寄せて答えた。

「御省が他官庁に公開されている情報を確認させていただいたのですが……いや、念のためですよ。御省と田爪に関係があるはずは無いのですが、田爪の発明した技術が軍事転用される事が騒がれている昨今ですからな。一応、ぬかりの無いように資料をそろえて、軍方面とは無関係だという事をはっきりさせろと上司からドヤされましてね。それで、そちらの公開情報をネットで拝見していたら、『BD』っていうロゴマークが出てきたんです。それ以上先を見る事が出来ないのですよ。まあ、御省の何らかの事情で非公開になっているのでしょうが、それならそれで、私としても書類への書き方というものがありますからね。大げさに面倒な手続きを執るよりも、こうして直接訪ねて、ご担当者の方にお話しを伺った方が早いと思いましてね」

 暫らく間を空けた森寛常行は、笑顔で頷いた。

「そうでしたか。ウチの監察官が検索した情報は、捜査秘密の確保のために、自動的に非公開処理にするよう、システムができているんですよ。ちなみに、そのマークの下に番号がありましたでしょ。その番号は分かります?」

 三木尾善人は正面に顔を向ける。

「おい、中村。分かるか」

 森寛常行は身を起こして、隣に座っている若い刑事の方を向いて言った。

「あ、いや。ウチの方で調べるのは、やぶさかではありませんが、今分かればと思いまして……」

 三木尾善人には、森寛が三木尾の言う事が本当かどうかを確かめようとしている事は分かっていた。だから、中村に指示を出した。中村明史は胸のポケットから取り出した小型端末を操作して、そのホログラフィー文書を表示させながら答えた。

「分かります。ええと……これです」

 森寛常行は、横からホログラフィー文書を覗き込みながら言う。

「ほう。調達局関係ですな」

 三木尾善人は森寛の表情を観察しながら言った。

「一応、全部の頁を見たんですが、ここだけ、閲覧禁止になってますからね、好奇心というか、なんというか。見るなといわれれば、気になる性分でしてね。ははは」

 森寛常行は頷く。

「この番号は、たしか外村君だな。ま、間違いないでしょう。しかし、よわったなあ」

「何か不都合でも」

「いや、これは外村という監察官が担当しているのですが、まだ出てきてないんですよ。彼女、午後からの出勤なんです。正午前には出勤してくるのですが……」

 森寛常行は腕時計に目を落とした。顔を上げた彼は三木尾と石原の顔を見て尋ねる。

「急ぎますよね」

 三木尾善人は首を縦に振った。

「ええ、まあ。できれば、早めにお会いできた方が、私としても上司に叱られなくて済みますからな。どうしてもというのであれば、後日改めて出直しますが」

 森寛常行はソファーから腰を上げた。

「いや、ちょっと連絡を入れてみましょう。直ぐに出て来られないか本人に電話して訊いてみます。少々お待ちいただけますか」

「ええ。お手数をおかけします」

 森寛常行はカウンターを回り、事務フロアの奥にある部屋へと向かった。

 三木尾善人と石原宗太郎は顔を見合わせる。石原宗太郎は鼻から息を吐いて、肩を上げた。

 暫らく待っていると、森寛常行が戻ってきた。彼は石原の横に立ったまま言う。

「直ぐに出てくるそうです」

 三木尾善人は森寛に軽く頭を下げた。

「すみません。無理を言ってしまって」

 森寛常行は掌を向けて、首を横に振る。

「いやいや。お互い、禄を食む身ですからな」

 石原宗太郎は森寛の柔軟な対応を逆に怪しみ、眉をひそめていた。三木尾善人と中村明史も拍子抜けしたような顔をしている。三人とも、軍規監視局が警察に対抗意識あるいは縄張り意識を顕にして、もっと強硬な態度で接してくると考えていたからだ。外部とは一線を引く捜査機関である軍規監視局なら、三木尾たちの申し出を簡単には受け付けないはずだった。だから、三木尾善人としては、それなりの説得は必要だろうと覚悟していたのだ。しかし実際には、森寛常行の態度は好意的とも思えるものだった。そればかりか、彼は更に協力的な提案をしてきた。森寛常行は言う。

「それより、調達局についてお調べでしたら、今私どもの手許にある資料でよろしければ、ご覧になられたらいかがです? 外村が出てくるまで」

 三木尾善人は眉を寄せて言う。

「よろしいのですか?」

「ええ。どうぞ、こちらです」

 森寛の案内に従って、三人はソファーから腰を上げた。一度視線を合わせてから、森寛に黙ってついて行く。カウンターに沿って歩き、壁との間の通路を通って事務フロアの中に入った四人は、こちら向きに並べられた机で仕事に励んでいる制服姿の女性事務員たちの前を通って、反対側の壁のドアの前まで移動した。首に提げた認識票を壁の機械に翳した森寛常行は、ロックが解除されたドアを開けて中に入り、三人の刑事たちに手招きした。

 三人は怪訝な顔で中に入っていく。中はスチール製の棚が並べられ、窓は無かった。資料室か証拠品の保管庫のようである。森寛常行は端に置かれたテーブルの前まで移動すると、その上に置いてある旧式のパソコンをマウスで操作しながら言った。

「下の資料室は我々でなければ入れませんし、端末もアクセスコードを入力して、指紋認証しないと使えません。しかし、既に我々が取得して保管している資料なら、自由にご覧になれますよ。と言っても、今のところ、こちらで集めた証拠資料は監査局が定期監査で集めた資料ですから、調達局にとっても当たり障りの無い都合のいい内容のものばかりですがね。少しお待ちください。いま、出しますから」

 腰を折ってパソコンを操作する森寛の後ろで、三人は眉間に皺を寄せた顔を見合わせた。

「ええと。私のコードを入力して……」

 三木尾が使っているのと同じ、押しボタン式のキーボードを叩いた森寛常行は、身を起こすと、振り向いて言った。

「さあ、どうぞ。これで使えます。一応、閲覧履歴は全て保存されますから、そのつもりで。それから、あそこの監視モニターが室内の全ての変化を記録しています。その点も、お忘れなく」

 森寛常行は部屋の天井の隅に設置されている多角カメラを指差した。森寛の顔に視線を戻した三木尾善人が尋ねる。

「しかし、良いのですか。あなたも公務員だ。しかも、私達と違って国家公務員の特別職。捜査資料の公開は、守秘義務違反になるのでは?」

 森寛常行は片笑んだ。

「それがご希望なのでしょ。――まあ、内部的な機関とはいえ、我々も司法官憲の端くれですよ。捜査機関同士が情報を交換して、いちいち守秘義務違反になっていたら、国は治安を守れません。私は、そう思いますがね」

 三木尾善人は石原と視線を合わせた。

 森寛常行は椅子を引きながら言う。

「ま、お互い公務員だ。あなた方にも我々に言えない事情がある事は、理解しているつもりです。それを詮索するつもりは、ありませんよ。さあ、どうぞ。座って下さい」

 森寛常行は軽く一礼すると、その部屋から出て行った。三木尾たちも頭を下げる。

 パソコンの前の椅子に腰を下ろしながら、中村明史は首を傾げた。

「随分と、物分りの良い人だなあ」

 石原宗太郎は中村の隣の椅子に座って言った。

「俺達が何を調べているのか、検索履歴から探るつもりなんじゃねえか」

 反対の隣の席に座った三木尾善人が首を横に振る。

「いや、あの目は違うな。本気だ。どうやら、ここの監察官も調達局を疑っているらしいな。もしかしたら、我々と同じ目的で捜査しているのかもしれん」

 石原宗太郎は、中村の前の液晶モニターを指差した。

「どうします、善さん。本当に、この端末で調べますか?」

「せっかく、善意で使用させてくれているんだ。使わせてもらおう。中村」

「はい。では、調達局から……」

 中村明史は、画面に表示されている検索ソフトの入力スペースに文字を打ち込んだ。液晶モニターの画面に、無数の文書ファイルのアイコンが並べられた。

「出ました。うわあ、やっぱり、相当の量の資料を集めてますね」

 石原宗太郎は腕組みをして画面を睨みながら言う。

「その外村とかいう監察官、ちゃんと目を通しきれているのかよ。すげえ量だぞ」

 三木尾善人がモニターを指差した。

「フラグが付いてるな。この文書は何だ」

 中村明史がマウスを不慣れな感じで動かして、そのファイルを展開する。液晶モニターの画面に表計算ソフトで書かれた資料が広がった。

「ええと、調達局の調達記録ですね。品目ごとに分けられていて、なるほど、こっちのシートにグラフ化されてるのかあ」

 三木尾善人は顔を顰めた。

「それにしても、随分と古いアプリケーションを使ってるな。軍規監視局って、予算を回してもらってないのかよ。よっぽど嫌われてるんだな」

 石原宗太郎は腕組みをして椅子に凭れたまま片笑んだ。

「まあ、内部の軍人で良く思っている人間はいませんよ」

 中村明史が画面に顔を近づける。

「んん? 今月になって弾丸やら燃料やらを大量に調達していますね。新型の鋼鉄貫通弾も仕入れています」

 三木尾善人が言った。

「これ、最新の資料だな。昨日か。次の資料は」

「はい。ええと、補充した武器弾薬などの供給先です。これは……『Rad17』って何ですかね」

 石原宗太郎が横から告げる。

「陸軍第一七師団。深紅の旅団レッド・ブリッグのコードだよ」

「へえ、なるほどね。さっすが元軍じ……」

 三木尾善人が中村の肩を軽く叩いた。口を止めて顔を向けた中村に、三木尾善人は天井のカメラを目で指して示す。中村明史は小さく頷いた。石原宗太郎は腕組みをして椅子にふんぞり返ったまま、小声で言う。

「別に俺は、悪い事して辞めた訳じゃねえよ」

 中村明史は口を引きたれると、石原にはっきりと頷いて見せた。

 三木尾善人が言う。

「七月二十三日以前の補給量は」

「はい。開いてみます」

 中村明史はマウスを動かして、ポインターを移動させた。リンクボタンをクリックして別のシートを開く。

「ええと……通常の量ですね。六月も五月も。一定です。七月、八月まで一定量ですね。ASKITへの攻撃までは一定量です」

 三木尾善人は更に尋ねた。

「新型の兵員輸送機の納入予定は」

「納入の予定日ですか?」

「そうだ」

「ちょっと待って下さい。――納入予定品目……これかな」

 もう一つシートを開いた中村明史は、それに目を通していった。

「ええと。あれ? 延期されています。ですよね、先輩」

 石原宗太郎は背凭れから背中を離し、画面を覗き込んだ。

「ああ、そうだな。来期以降に順次、実戦配備する予定になっている」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せた。視線を逸らして、指先の爪を擦り合わせていた彼は、再び顔を液晶モニターに向けた。

「下部組織に、坂口の名前はあるか」

 中村明史はキーを叩く。

「検索してみます。坂口統一郎っと」

 表示された結果を見た彼は言う。

「いえ、所属はしていませんね。ここにある資料では」

 三木尾善人は更に尋ねた。

「昨日の朝か、あるいは、その前に作戦についた部隊があるか?」

「ちょっと、待って下さい。そういうのは、どうやって検索したらいいのか……」

 石原宗太郎が中村の肩を押した。

「貸してみろ」

 中村と席を替わった石原宗太郎は、素早くキーを打ち、軍用コードを打ち込んでいく。

「俺が所属していたのは、随分と前ですからね。作戦コードが変更されているのは当然だと思いますが、出動履歴くらいなら……ああ、駄目ですね。作戦関係までは、ここにある資料では分からないですよ。軍内部の作戦ネットワークで調べないと」

 三木尾善人は頷いて、もう一つ指示を出す。

「阿部亮吾を検索してみてくれ。何か出ないか」

 石原宗太郎はキーを叩いた。

「阿部亮吾。出ました。ええと、これは……軍歴表ですね。それと政治思想も。かなり念入りに調べています」

「ここの外村とかいう監察官も、調達局と阿部の繋がりには気付いているみたいだな。ストンスロプでは、どうだ」

「ストンスロプ……出ました。おお、GIESCOの資料もありますよ。なんだ、こいつらも調べてんのかよ」

 横から覗いていた中村明史が言った。

「これ、僕たちが入手したものと、ほとんど同じですね。入手日付の順番から言うと、どうもASKIT事件から探っているって感じですもんね」

「津留栄又は」

「津留栄又。有りますね。津留の資料。すげえな、こんなに集めてるのかよ」

 背凭れに身を倒した三木尾善人は、厳しい顔で言う。

「これで、はっきりしたな。軍が組織的に関与している訳じゃない。軍内部の特定の個人か集団が動いている。おそらく、その首謀者は津留栄又だ」

 石原宗太郎が液晶モニターに顔を近づけた。

「あれ? 善さん。この名前。ナオミ・タハラって、NNCのニーナ・ラングトンの秘書じゃなかったでしたっけ。高橋諒一と一緒に遺体で見つかった」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せる。

「ああ、そうだ。だが何故、津留の資料の中に出てくるんだ。ああ、ちょっと待て。画像データがある」

 三木尾善人が指差したアイコンに石原宗太郎はカーソルを移動させた。

「開いてみます」

 その上をクリックすると、数枚の写真画像が並べて表示された。その一つを更にクリックして、大きく表示する。背広姿の津留栄又とドレス姿のナオミ・タハラが高級レストランで食事をしているところを窓の外から撮影したものだった。

 三木尾善人が言う。

「これは、二人が食事してる写真だな。監視撮影の画像か……」

 石原宗太郎が画像に目を凝らしながら言った。

「奥の窓の気色から言うと、ここ、かなり高層階にあるレストランですよ。という事は、暗撮用の無音ドローンか何かを使っての空中からの撮影、しかも、レーザーカメラですね。人も機材も、それなりに投入した、かなり力を入れた監視作戦ですよ、こりゃ」

 中村明史が首を傾げながら言う。

「どうなってるんですかね。NNC社と調達局は、裏で繋がっていたんですかね。軍もそれを掴んでいたから、津留を監視していた。そういう事でしょうか」

 三木尾善人は画像を睨みながら首を横に振る。

「いや、津留個人がASKITと繋がっていたのかもしれん。軍はストンスロプ派でASKITとは距離を置いていたはずだ。だから調べていたのかもな。津留を消すために」

「裏切り者の抹殺ですか……」

 そう呟いた中村に続いて、石原宗太郎も呟いた。

「だから、ここの監察官は、調達局や津留を調べていた」

 三木尾善人は再び腕組みをして言った。

「こんなものを俺達に見せてくれるって事は、ここの監察官たちも動きにくい事情があるんだろう。外部の俺達に梃入れを期待しているのかもしれん」

 そして、更に指示を出した。

「これまでの、定期監査の資料とやらを出してくれ」

 石原宗太郎は、古いパソコンを操作して、指示された資料を検索した。



                  二十二

 軍規監視局の入り口の横に、パーテーションとして衝立が立てられている。その横にある壁際の応接セットには、さっきと同じ位置で三人の刑事が座っていた。刑事たちの顔は険しい。そこへ、制服姿の外村美歩が現れた。若い女性の監察官に少し驚きながら、三人はソファーから立ち上がる。

「ああ、どうも。急にお呼び立てして、申し訳ありません。警視庁捜査一課の三木尾です」

「監察官の外村です」

 外村美歩は丁寧に頭を下げた。それを見て、三木尾善人は面食らった。監察官は法曹である。同じ法曹の検察官と日々接している警部の三木尾善人は、法曹の気位の高さを知っていた。検察庁の検事室に検事を訪ねても、彼らは警察官に対しては適当に頭を下げるだけで、実に横柄な態度で接する。外村くらいの年齢の検事も、常に上から目線の態度だった。外村のように丁寧な接し方はしない。

 三木尾善人は少しだけ眉を開いた。

 提げていた分厚い鞄を横に置いた外村美歩は、三人の刑事たちと名刺の交換を終えた。そして、刑事たちに腰を下ろすよう促すと、、中村の隣の席に静かに座った。彼女は綺麗に髪をまとめ上げた頭を真っ直ぐにして、凛とした姿勢で座り、三木尾の方を見た。その見覚えのある顔を思い出しながら、三木尾善人は彼女に言うう。

「早出させてしまったみたいですな。本当に、申し訳ない」

 すると、足を大きく左右に広げて、背凭れに身を倒して座っている隣の石原宗太郎が小声で言った。

「お昼からのご出勤とは、結構なご身分で」

 三木尾善人は石原を睨みつける。

 外村美歩は石原の皮肉には応じずに、三木尾に尋ねた。

「それで、どのようなご用件でしょうか」

「ええ。実は、ある容疑者の行方を捜索中なのですが……」

 そう切り出した三木尾善人であったが、外村美歩の顔相と目を見て、彼は言い直した。

「いや、正直に言いましょう。我々は田爪健三を追っています」

 中村明史と石原宗太郎は、三木尾善人が捜査目的を打ち明けた事に驚いて、彼の顔を見た。外村美歩は、驚いている石原と中村の顔をそれぞれ一瞥してから、三木尾に視線を戻した。彼女は眉をひそめて言う。

「田爪健三……例のタイムマシンの発明者の。彼は死んだのでは?」

 三木尾善人は正直に話した。

「いえ。生きているんですよ。そして、その逃亡を手助けしている人間がいる。この日本国内に。そして、奴も既に国内に入っている」

 事務フロアの奥の大型サーバーの横で背中を向けて立ち、他の事務員に仕事の指示を出していた森寛常行局長が、少しだけ顔を横に向けて、応接セットの方を見た。

「……」

 外村美歩は三木尾の顔を見据えたまま、黙っていた。

 三木尾善人は外村に尋ねる。

「坂口統一郎という人間は、知っていますか」

「善さん、そこまでは……」

 口を挿んだ石原に手を上げて制止した三木尾善人は、まっすぐに外村の顔を見て答えを待った。

 外村美歩はしっかりと三木尾の顔を見据えたまま、首を横に振る。

「坂口……。いいえ。知りません」

 三木尾善人は話を続ける。

「警察に何度も逮捕されている奴でしてね。我々の資料では、こちらの調達局の事前調査部に所属している事になっていますが」

 外村美歩は眉間に皺を寄せる。

「事前調査部? ちょっと、よろしいですか」

 立ち上がった外村美歩は、分厚い鞄を提げて、カウンターの隅に近いドアの方に歩いて行った。そのドアを開けて中に入る。

 体を捻って衝立から顔を横に出し、外村を目で追っていた石原宗太郎は、体を戻すと、隣の三木尾に小声で言った。

「善さん、どうしてぶちまけたんです。信用できるか分からんじゃないですか」

 三木尾善人は答えた。

「信用できるさ。そういう目だ、あの監察官さんは」

 中村明史は小さな応接テーブルの上に身を乗り出して、声を殺して三木尾に言った。

「でも、ここが坂口を動かしていたら、どうするんですか。津留の事も調べていたんですよ」

「都合が悪ければ、俺達に見せるはずがない。それに、ここのボスは、本物の目をしている。坂口を動かしているとは思えん」

 石原宗太郎は背凭れに身を倒して言った。

「ですかね……」

 外村美歩が戻ってきた。手にはプリントアウトした資料を持っている。彼女はその書類に視線を落としながら、中村の隣に腰を下ろした。そして、書類を捲りながら言う。

「いえ。事前調査部に『坂口』という人物は所属してはいませんね。表向きは」

「表向き?」

 三木尾善人は聞き返した。

 外村美歩は書類を差し出して言う。

「ええ。このリストを見てください。この国防省ビルの入場ID登録者のリストです。ここに『坂口統一郎』の名前が載っています。彼は、このビルへの入場IDの登録をしている」

 三木尾善人は受け取った書類に目を通した。名前と数字が並んだリストに蛍光マーカーで線が引かれている人名がある。そこには、坂口統一郎と記載されていた。

 顔を上げた三木尾善人に外村美歩は言った。

「それに、六十階フロアへの入室パスワードも彼に発行されています。ここは、調達局が入っているフロアです」

 三木尾善人は眉を寄せる。

「どういう事です? なぜ所属していない人間に入室パスが。ここは国防の最重要拠点でしょうが」

 外村美歩は頷いた。

「確かに。基本的に、軍に所属していない人間には、入室パスは発行されません。その男が入場IDの登録をする事ができて、入室パスも発行さていたという事は、その男は、過去に国防省に所属していたという事。ところが、現在の所属人員リストを検索しても、名前が出てこない。つまり、現在は軍に所属していない。記録上は」

 三木尾善人は書類を応接テーブルの上に置いて、言った。

「軍隊の人事管理は、どうなっているんだよ。そんなに、いい加減なのか」

 外村美歩は真っ直ぐに三木尾を見据えたまま言った。

「ID登録者のリストに名前が残っていて、入室パスの無効化手続きも済んでいないという事は、事前調査部への何らかの形での所属登録のデータが抹消されてから、まだ間もないという事です。おそらく、改ざんされたデータが上書きされたのは、この数時間か、数十分の間のこと」

 三木尾善人は石原と顔を見合わせてから、険しい顔を外村に向けた。

「俺達がここに来る事を知って、慌てて、坂口の所属記録を消した奴がいるって事か」

 外村美歩は首を縦に振る。

「そうです。つまり、その男は……」

 石原宗太郎がソファーに凭れたまま、言った。

たこ

「凧?」

 聞き返した三木尾善人に、外村美歩は説明した。

「我々の世界では、そう呼ばれています。事前調査部は、軍用の調達備品の納入にかかるあらゆる情報を事前に調べる部署です。時に、それは諜報活動まがいの事もすると聞いています。そして、それは非合法な場合が多い。だから、いつでも切れて、命令どおりに動く人間を外部業者に仕立て上げて、業務委託という形で使用するのです。彼らは、外部業者として、秘密裏に形が残らないようにして命令を受け、非合法活動に従事する。主に現役の軍人から抜擢した者たちを、一度、退役させる形にして、軍とは無関係な民間人として使用するそうです。そして、万一、悪い事態が発生したら、すぐに切って捨てる。この男のように。それで、『凧』と呼んでいます」

 三木尾善人は腕組みをして、ソファーに身を倒した。

「使い捨てのスパイって訳か……」

 石原宗太郎が視線だけを三木尾に向けて言う。

「それに耐えられる人間が選抜されているって事ですよ。作戦に失敗しない自信がある凄腕が」

 外村美歩は石原を一瞥すると、三木尾の目を見て言った。

「もちろん、内規でも禁止されている作戦手法です。責任の所在が明確になりませんから」

 三木尾善人は頷いて返す。

 中村明史が口を挿んだ。

「ですが、警部。奴は、逮捕される度に外部の圧力で、すぐに釈放されているんですよね。使い捨てにしては、変じゃないですか。リコちゃんの調査でも、国防省の所属が判明したわけですし……」

 身を起こして前に出した三木尾善人は、軽く外村を指差してから尋ねた。

「あんたは、どう思う」

 外村美歩はソファーの上で背筋を正したまま三木尾の目を見て、静かに意見を述べた。

「おそらく、調達局の誰かが、個人的に使用している。きっと解雇と再雇用を繰り返しているのでしょう。つまり何度も凧糸を手繰り寄せては、必要な時に再び上げている」

「津留か」

 外村美歩はゆっくりと頷いた。

 石原宗太郎が言う。

「もし、そうだとすれば、津留局長はこの施設の通用パスを個人的に部外者に発行している訳だ。こりゃあ、明確な軍規違反ですなあ」

 外村美歩は石原に顔を向けて、もう一度頷いた。

 三木尾善人は横柄な態度の石原を一瞥すると、再び外村に顔を向けて尋ねた。

「津留か坂口を連行できないか」

 外村美歩は視線を逸らさずに尋ね返す。

「それが田爪健三の件とは、どう繋がるのですか?」

 三木尾善人は視線をテーブルの上の書類に落として言った。

「実は昨日の朝、田爪家の墓で張り込んでいた俺たちの前に、この坂口統一郎が現われた。恥ずかしい話だが、監視されていたのは俺たちの方だったようだ。つまり、奴らも田爪を追っている可能性がある。その後に奴の身柄を確保したが、逃げられた。手の込んだ偽装工作でな。俺達は、田爪逃亡の裏で動いているのはストンスロプ社だと思っている。そのストンスロプ社は軍と繋がりが深い。特に調達局の津留とはな。だが、その津留が坂口を使って田爪を追っているとすれば、ストンスロプ社も津留も田爪の行方を知らないという事になる。津留か坂口を取り調べる事ができれば、その辺の事情も知る事が出来るかもしれん」

 外村美歩は落ち着いた声で言う。

「つまり、あくまでも狙いは、田爪健三の身柄の確保であり、その逃走幇助にストンスロプ社が関与しているかも確認したいと」

 三木尾善人は外村の目を見て首を縦に振った。

「そうだ」

 外村美歩は三木尾の目を見て即答する。

「では、お引取り下さい。私たちの職域ではありません」

 彼女の答えを聞いた石原宗太郎は、横を向いて鼻で笑った。中村明史も眉間に皺を寄せて外村の顔を見ている。

 三木尾善人は眉を八字に傾けて言った。

「しかし、あんたも調べていただろう。ストンスロプ社と軍の関係を。そして、調達局の津留に行き着いた」

 外村美歩は真っ直ぐとした姿勢で三木尾を見据えたまま言う。

「お答えできませんが、仮にそうだとしても、それは軍内部の規則違反の問題を調査しているだけです。外の世界の法規違反に対処する権限は、私たち監察官には与えられていません」

 三木尾善人は提案した。

「じゃあ、こっちで津留を逮捕するというのは、どうだ?」

「それは、そちらでご自由に。法律に則り、適正に対応されれば宜しいのではないでしょうか」

 外村の冷たい回答を聞いた石原宗太郎が、横を向いたまま吐き捨てた。

「かたい事を言うねえ」

 外村美歩は石原の方に顔を向けると、彼に諭すように言う。

「私たち軍規監視局は、軍隊や軍人が規則どおりに行動しているかを監視するのが任務です。それは文民統制の要です。その私たちが、監察官法や国防軍規則を無視して行動する訳にはいきません。もし、津留局長が法令違反をしているのであれば、法に則り、適正な手続きで処罰されるべきです。その際に、協力できる事があれば、法の定めた範囲で適正に対応させていただきます。しかし、現時点では、何の手続きもとられていません。したがって、警部さん方に、監察官の私が協力する事は出来ません」

 三木尾善人は反論した。

「しかし、津留は国防軍の一部を勝手に動かしている可能性だってあるじゃないか。違法だろ。だからあんたも、津留と十七師団の関係を探っているんじゃないのか」

 外村美歩は三木尾に顔を向け、彼の目を見据えて答える。

「それは、軍内部の問題です。つまり、国防軍規則違反の問題であり、私たちの仕事。捜査は非公開。国防機密を外部に漏らさないために、私たち監察官には非公開の特別法廷にも起訴する権限が与えられているのです。これらの制度趣旨を無視する訳にはいきません。それに、軍内部の問題であれば、専門的知識を必要とする捜査になりますが、警察で対応できますか?」

 石原宗太郎が背凭れから身を起こし、顔を前に突き出して言った。

「内々で処理するつもりかよ。また、闇から闇に葬るつもりなんじゃねえだろうな」

「石原」

 三木尾善人が石原を制止する。

 外村美歩は睨みつける石原の目を真っ直ぐに見据えて話した。

「憲法上保障されている『裁判を受ける権利』が一般人よりも制限される事は承知の上で、皆、軍隊に入っているのです。国防とは、そういうものです。しかし、だからといって、特定個人の利益や感覚で処罰を決するのは、法治国家のする事ではない。あくまでも、法律によって委任された範囲で、軍規に従い適正に処罰するのです。それが、私たちの仕事です」

 外村を睨み付ける石原の頭を横から向こうに押しながら、三木尾善人は外村に尋ねた。

「その仕事も、相手が調達局と深紅の旅団レッド・ブリッグじゃあ、まともにさせてもらえないんじゃないか」

 外村美歩は三木尾の方に再度顔を向けて、頷いた。

「確かに。正直言いますと、私としても手を焼いています。しかし、軍内部の人間が外部の民間事業者と結託して私的に軍隊の一部を動かしているのであれば、由々しき問題です。何としても、その人間を特定し、厳罰に処さねばならないと考えています。また、非合法な諜報活動を行っているのであれば、その命令の発令元を特定し、検挙せねばなりません。『凧』を幾つ拾い集めても、元を断たなければ、連中は新たな『凧』を飛ばすだけですから」

 背凭れに体を倒した石原宗太郎は、髭を触りながら言う。

「けっ。臭い物には元から蓋をってか。さすが軍隊。いつまでたっても変わらないこと。『お仲間意識』丸出し」

「石原。いい加減にしろ」

 三木尾善人が一喝した。石原宗太郎は不満そうに顔を横に向ける。

 外村美歩は背筋を正して座ったまま石原を見据えていた。彼女は静かに首を横に振る。

「いいえ。蓋をするだけでは足りないわ。元を除去し、徹底的に消毒しなければ、臭いは消えませんから」

 そして、三木尾と中村の顔を順に見ながら言った。

「それに、仮にあなた方が坂口を逮捕したとしても、『凧』に選ばれるような軍人は、警察の取り調べ程度では、決して命令元を明かしませんよ。戦地で敵の捕虜となっても、いかなる拷問にも耐えられる訓練を積んだ人間を選んでいるはずですから」

「なるほどな」

 三木尾善人はそう言って頷いたが、石原宗太郎は再びソファーから起き上がり、外村に飛び掛らんとする勢いで顔を前に出した。

「なんだと。ちょっと、善さん」

 三木尾善人が石原の後ろ襟を掴んで引く。

「落ち着け、石原」

 石原から手を放すと、三木尾善人は彼に言った。

「確かに、この監察官さんの言うとおりだ。警察が取調べで拷問なんかするはずがない事くらいは、こちらの監察官さんも承知の上だ。それよりも、仮に俺たちが坂口をパクったとしても、事前調査活動の一環で協力してもらっている人間だと言われれば、軍事機密の領域になっちまう。そうなりゃ、警察は手も足も出ねえだろ」

 外村美歩は、口を尖らせている石原の顔を見て、冷静に話した。

「首謀者を検挙すれば、実行犯の行動について詭弁を弄して擁護する者はいなくなります。つまり、大元を確実に検挙する必要がある。それには、彼らに言訳させないだけの確実な証拠が必要になります。まずはそれを、軍内部で私たちが見つけなければならない。私は、そう考えています。そのうえで、刑法犯に該当すると判断されれば、通常の法廷に起訴し、身柄を警察に引き渡すつもりです」

 外村の横から中村明史が尋ねた。

「田爪健三を軍内の一部の者たちが匿っているとしたら、どうなんですか」

 外村美歩は中村を見て答える。

「関与の度合いによります。軍の正当な秘密作戦なら、起訴も逮捕もされないのは当然でしょう。彼の発明は国防上、大変な脅威である事は、皆さんでもご理解いただけるはずです」

 三木尾善人は自分の頭を撫でながら言う。

「まあな、核爆弾や生物兵器なんかを積んだマシンが他国からワープしてきたら、たまったもんじゃないからな。あるいは、未来から攻撃されるとかな。じゃあ、やっぱり、あんたらも田爪を追っているのか?」

 外村美歩は首を横に振った。

「いいえ。彼が生存しているという情報は、私は今知りました。ですが、田爪健三の生存が本当なら、ウチの情報局が既に何らかのネタを掴んでいるはずです。おそらく、どこかの部隊が行方を追っているでしょうね。勿論、正当な方法で合法的に」

 石原宗太郎が茶々を入れる。

「本当かねえ」

 外村美歩は石原の顔を一瞥すると、三木尾の顔を真っ直ぐに見て、続きを話した。

「しかし、正規の作戦とは別に、一部の人間が共謀して彼を匿うなり監禁なりしているとすれば、それが軍規違反である事は勿論ですが、それとは別に、刑法上の罪の構成要件も満たす可能性が高い。また、正当業務ではありませんから、違法性も阻却されない」

 三木尾善人が続ける。

「そして、責任も成立する。つまり有罪の疑いがある。容疑が成立すれば、俺たち警察の領域だ。軍の正規の作戦行動ではない以上な」

 外村美歩は頷いた。

「そうです。ですから、ウチの局長が、こうしてあなた達に資料を公開したのでしょう」

「……」

 三木尾善人は黙って外村の目を見ていた。中村明史はカウンターの向こうの事務フロアに視線を向ける。森寛常行局長は背を丸めてコソコソと歩いていき、奥の部屋のドアを開けて中に入っていった。中村の視界に「村田リコ」という文字が浮かぶ。中村は慌ててイヴフォンを操作して、村田からのメールを開いた。

 外村美歩は三人の刑事たちの顔を順に見ながら言った。

「それに、彼を匿っているのが誰であれ、それが大変に重大な事態である事は、私にも察しがつきます。だから、こうして警視庁の捜査一課の特別チームが動いている。それにもかかわらず、警察庁から当局に連絡があった。しかも、長官直々に。警察庁が外部のあなた方を動かしているだとすれば、それは、政治的ダメージを最小限に抑えるためですよね。それも、国際的な政治ダメージを避けるため。しかし、私も局長も、おそらく、あなた方も、この件が政治問題以上の問題を孕んでいる事に気付いている。少なくとも、私は、そう考えています」

 毅然として、かつ、昂然とした態度でそう言った外村美歩の目を見て、三木尾善人は静かに尋ねた。

「いい人なのか?」

 外村美歩は首を傾げる。

「誰がです?」

「森寛監察局長だよ。信頼できるのか」

「分かりません。私は評価する立場ではありませんから」

 三木尾善人は微笑んで頷いた。すると、中村明史がソファーから腰を上げて、三木尾善人に耳打ちする仕草をしながら呼び掛けた。

「警部。ちょっと」

 三木尾善人も応接テーブルの上に頭を出して耳を向ける。中村からの耳打ちを聞いた三木尾善人は大声で叫んだ。

「何い! 場所は」

「寺師町の入り口のイチョウ並木通りです」

「くそっ! 行くぞ!」

 三木尾善人は立ち上がり、隣の石原の足を蹴った。

「な、何すか、急に。どうしたんです?」

 石原宗太郎は口を尖らせて立ち上がり、応接セットから横に出た。慌ててカウンターの方に移動する三木尾と横に立っている中村を見た外村美歩は、急いでソファーから腰を上げ、横に退く。中村明史は外村に頭を下げながら、通路に出た。ドアの方に向かおうとした三木尾善人は、立ち止まって振り返り、敬礼しながら早口で言った。

「ああ、失礼しました。事情が変わりましてね。どうやら、悠長に法律談義している場合じゃないようだ。この件で新たに拉致されたか殺された者が出た可能性がある。また、後日に連絡しますよ。今後とも、ご協力をお願いいたします。とにかく、今は急ぎますので、それじゃあ」

 三木尾善人はドアを開け、廊下を駆けていった。



                  二十三

 イチョウ並木に挟まれた寺師町のメイン通りは、渋滞した車両で埋め尽くされていた。歩道の上に犇いている通行人たちは、路上の車列のあちらこちらから頻繁に鳴り響いているクラクションの音にも慣れ、顔を向けずに歩いている。その広い歩道の横に、ドアを開けたままの黒い高級車と赤色灯を回したパトカーが停まっていた。横の歩道には黒山のような人集りができていて、パトカーと高級車を歩道の上から覆っている。物珍しそうに見物する人々の多くは、ウェアフォンやビュー・キャッチでパトカー撮影していた。

 立ち止まっている車両の間を、赤色灯を回した黒い覆面パトカーがクラクションを鳴らしながら強引に車線変更していた。その黒いAIセダンは、ようやく一番外側の車線まで移動すると、パトカーが停車している所から少し離れた位置の道沿いに縦列駐車スペースが空いているのを見つけ、そこに停まった。赤色灯が回転を止め、前の左右のドアと後ろの右のドアが開いて、男たちが降りてくる。

 ドアを閉めた三木尾善人警部は、周囲の混雑状況を見回して言った。

「なんだ、こりゃ……。いったい、どうなっているんだ」

 運転席のドアを閉めた中村明史も周囲を見ながら言う。

「リコちゃんの話、本当だったんですね。有多町から寺師町まで車だらけで、全然動いてませんね」

 助手席側から回ってきた石原宗太郎が言う。

「この前の停電の時とは比べ物にならねえな。SAI五KTシステムは何やってんだよ。このままじゃ、西の方も詰まっちまうぞ」

 鳴り響くクラクションの中、三木尾善人は眉間に皺を寄せて石原の話を聞いていた。険しい顔でもう一度周囲を見回した三人は、向こうの方に見えるパトカーの方に速足で進んでいく。

 縦列駐車している車と通行車線上で立ち往生している車の間を歩きながら、中村明史はブツブツと文句を言う。

「それにしても、思いっきり緊急事態じゃないか。どうして今度はメールなんだよ……」

 後ろを歩いていた石原宗太郎がニヤニヤしながら言った。

「リコちゃんに嫌われてるんだよ、おまえ」

「それは先輩だと思いますよ。セクハラするし」

「してねえよ。人聞きの悪い……」

 パトカーの手前で立ち止まった三木尾善人は、頭を掻きながら顔を顰めた。

「くっそー。何なんだ、この野次馬は」

 するとそこへ、制服姿の中年警官が走ってきた。彼は三木尾の前で立ち止まり、敬礼する。

「あ、三木尾警部。お疲れ様です。A一七交番の長友寛巡査部長であります。どうぞ、こちらです」

 掛けて行こうとした長友を石原宗太郎が呼び止めた。

「おい、まず野次馬を何とかしろよ」

「あ、はい。――おおい、見物人を下がらせろ。捜査の邪魔だ」

 長友寛はパトカーの横に立っていたもう一人の若い制服警官に指示すると、三木尾に言った。

「すみませんね。ちょうど、お昼でこの辺りは混雑しているものですから……」

 三木尾善人は険しい顔で尋ねた。

「車の混み具合も尋常じゃねえな。何かあったのか」

 長友寛は眉をハの字に垂らして答える。

「ええ。どうやら、東の方のトンネル全部で国が抜き打ちの安全点検を始めたそうで、通行止めになってるんですよ。それで、車がこっちに流れてきてまして、もう大変ですわ。しかも、この渋滞の中で暴走した馬鹿がいたようで、向こうの方で車両事故が多数発生しましてね。さらには、湖南見原丘工業団地でも、カーレースをやったバカ連中がいまして、ぐっちゃぐちゃです。こっちは全く手が足りませんわ。ただでさえ、カエラさんの護衛に人員を裂いているっていうのに……」

 三木尾善人と中村明史は顔を見合わせた。後ろの石原宗太郎が言う。

「何とかしろよ。これじゃ、現場検証ができねえじゃねえか」

「現場検証?」

 キョトンとしている長友に三木尾善人は言った。

「とにかく、ブツを見せろ。話は、それからだ」

 四人は黒い高級AI自動車の方に歩いていった。

 その黒い車はAIキャデラックだった。運転席のドアが開いたままになっていて、電気エンジンは切られている。キーカードは差し込まれたままだった。運転座席の上には、抜け殻となった法衣が腰の部分から下を車の外に垂らして乗っている。襦袢の襟は立ったままだった。その周りを大粒の数珠が囲んでいる。

 三人の刑事は、開いたままのドアの横から少し離れた位置に立って、それを見つめていた。その後ろから、長友寛が言う。

「いやあ。午前中からずっとここに、ドアを開けたまま路上駐車している車があるって通報がありましてね。自分が駆けつけたのですが、そしたらこの状況で。一応、他は何も動かしていません。原状のままであります」

 座席の上の法衣を見つめたまま、三木尾善人が尋ねた。

「なんで、俺が分かった」

「ダッシュボードの下に警部殿の名刺が落ちていましてね。これです」

 長友寛は三枚の名刺を差し出した。三木尾善人はそれを受け取る。彼と石原と中村の名刺だった。三人は顔を見合わせる。長友寛は説明を続けた。

「それで、これは何か事件のニオイがすると思って、名刺の番号に電話して、事務官の方、村田さんでしたっけ、その方にお伝えしたんです」

 三木尾善人はドアに触れないように注意しながら、足を広げて運転席の横に立ち、腰を落として車内を見回した。法衣の肌けた襦袢の中で何か動く物を見つけた。ポケットから白い手袋を取り出した三木尾善人は、それをはめ、襦袢の中に手を入れる。持ち上げた三木尾の手の指に挟まれた電気コードの先には、鼓動を続ける人工心臓が付いていた。血液は付いておらず、まるで新品のようである。石原宗太郎が証拠品保管用のビニール袋を広げて、三木尾に差し出した。三木尾善人は、そのビクビクと動く小さな機械を袋の中に入れた。石原宗太郎は袋に蓋をすると、もう一人の若い制服警官に手招きして、それを渡し、軽く耳打ちする。その若い制服警官はそれを持って、慌ててパトカーへと走っていった。

 長友寛は中村の横で話し続けている。

「いやあ、自分としても連絡先に迷いましてね。この手のヤマって、交通課で処理する事案なのか、何課で処理すればいいのか、はっきりしないでしょ。ああ、やっぱり生活安全課ですかね? 待てよ、不法投棄になるのかな。もしくは、家出人捜索の準備……」

 三木尾善人が手袋を外しながら立ち上がった。

 石原宗太郎が髭を触りながら三木尾に言う。

「この時間帯に繁華街を全裸でジョギングですかね。だとすれば、もう捕まっていますよね、普通」

「そうだな。だが、人工心臓まで外して行く馬鹿はいないだろう」

 後ろから長友寛が言った。

「一応、この車は『拾得物』って事になるんですかね、こういう場合って。あと、自動車の使用者宛に駐車違反の切符を切ってもいいのかどうかも……」

 三木尾善人は長友を無視して言う。

「中村。奴が百三十人も消し去った武器は何だったけ」

「量子銃です。肉体を分子レベルまで分解する」

「だよな。こりゃ、殺人事件だな。おい、石原」

「さ、殺人事件?」

 長友寛は目を丸くした。

 石原宗太郎が彼に指示する。

「あんた、ウチの科捜研のチームが到着するまで、絶対に誰も近づけるなよ。四方に幕を張って、外からも見えないようにしといてくれ」

「は、はい。了解しました」

 三木尾善人は石原と中村の顔を見て言った。

「リコちゃんが気付いてくれてよかったな。ただの車両放置で処理されてたら、対応が遅れるところだった……」

 石原と中村の後ろから、長友寛が背伸びして言う。

「あの、警部殿……車両の所有者も照会しましたので、ご報告しておきましょうか」

 三木尾善人は溜め息を吐いて答えた。

「南か、真明教だろ」

 長友寛は目をパチクリとさせる。

「はい。宗教法人真明教団となっていました。さすがですね」

 石原宗太郎が長友に言った。

「もう、いいから。現場維持に取り掛かってくれ」

 長友寛は敬礼すると、野次馬達の方へと走っていった。

 三木尾善人は頭を掻きながら言う。

「これで、田爪が国内に潜伏している事は、間違いねえって事がはっきりしたな」

 中村明史はその黒いAIキャデラックを見回しながら意見を述べた。

「どうでしょう……少なくとも量子銃が国内に持ち込まれている事は、間違いないって事にはなるでしょうが……」

 三木尾善人は運転席の中を見つめながら険しい顔をする。

「いや。オリジナルの量子銃は田爪の奴が肌身離さず持っていた物だ。岩崎の話では、使用できる可能性があるのは、その量子銃だけ。それが使われたって事は、田爪が国内にいる可能性が高い。それにな、この服の形を見てみろ」

 中村明史は三木尾と共に、運転席の座席に載っている抜け殻の法衣を見つめた。

 三木尾善人が言う。

「逃げようとした体勢じゃないだろ。助手席側にも路上にも流れずに、真っ直ぐ下に落ちたって感じだ。という事は、正覚はまっすぐ座ったまま撃たれた。おそらく、ドアを開けて、車を降りようとしたところを直ぐにだ」

 横から石原宗太郎が言う。

「迷わず一撃必殺。田爪のり口ですね」

 三木尾善人は頷いた。

「そうだ。南米でタイムマシンの搭乗者たちを処刑した方法と同じだ。至近距離から一発。ビビーっとな。ドアを開けた南に迷わず近づき、迷わずに狩った。正に『猟師銃』だな」

「量子……猟師……なるほど、うまい!」

 中村明史はポンと手を叩く。三木尾善人は厳しい顔で中村を睨んだ。中村明史は調子に乗った事を反省して、首を竦める。すると、向こうから警察の大型バスが走ってきた。前を走る白バイが、他の一般車両を退かせて道を開けさせる。その様子を見た三木尾善人が驚いた顔で言った。

「早いな。どうしたんだ」

 石原宗太郎が片笑みながら言った。

「さっき、あの若い巡査に連絡するように言ったんですよ。向こうの交差点で交通事故の現場検証してるのを回せって。さっきの巡査部長が多発事故があったみたいな事を言ってたでしょ。それなら、近場の所轄から大所帯で臨場しているはずだと思ったので」

「おお、そうか。気が利くな」

「まあ、一課の正式な鑑識が到着するまで、現場維持はできるでしょ。ああ、ほら、もうブルーシートを下ろして持ってきた。いいねえ、張り切ってるねえ。仕事が早い。原始的だけど……」

 石原宗太郎が歩いて行く。適当な位置で停まったバスから降りてきた数人の警官たちは、ブルーシートを抱えて駆けてくると、石原の指示に従って周囲にシートを張って目隠しの壁を立て始めた。

 三木尾善人は中村に言う。

「中村。鑑識班長にドアノブの指紋を徹底的に調べろと伝えてくれ。それと、車両周囲のゲソコン(足跡)もな。検出したゲソコンから推定体重を割り出せたら、すぐに知らせろと言っとけ」

「了解です」

 中村明史はバスの方に走っていく。

 三木尾善人は彼を呼び止めた。

「おーい、中村。周辺の道路も封鎖させろ。一課の鑑識にも連絡して、到着したら、タイヤ・バーコード痕から通行車両の復元データを作成してもらうんだ。犯行時刻の可能性のある時間帯の全ての通過車両を特定して欲しいってな。それから、街頭の防犯カメラ映像もチェックだあ」

「わかりました」

 大きな声で返事をして、中村明史は走っていく。入れ替わりに石原宗太郎が戻ってきた。

 三木尾善人は、もう一度車内に顔を向けて呟いた。

「田爪の奴。ついに国内で被害者を出しやがった。畜生……」

 石原宗太郎が、悔しそうに言う。

「これで、公開捜査に移行ですね。――クソッ!」

 石原宗太郎は強く吐き捨てる。

 三木尾善人は冷静に言った。

「かもな。それより石原。神作と永山の所に出かける前に、おまえ、赤上の所に行ってきてくれねえか。南の資料を貰ってきてくれ。連絡は入れとく」

「南の? もう、調べたじゃないですか。それに、公安部が資料をくれますかね。また、この前みたいな奴……」

 三木尾善人は片笑んだ。

「そんなにディープなネタじゃねえよ。いくらバックに元総理大臣の有働がついているって言っても、公安も国内の巨大宗教法人の教祖の基礎資料くらいは、普通に揃えているはずだ。俺たちが調べるより、遥かに手の込んだ調査をした資料をな。これまでは有働に気を使って非公開にしていたかもしれんが、その南が殺されたんだ。所轄署に捜査本部が立ち上がる。そうなれば、帳場の方から公安に資料を照会してくるだろう。こういった事態に速やかに対処するための資料だ。当然、公安はそのつもりで準備しているはずだ。そいつを、ちょいと先に頂くのさ。なあに、元々田爪の捜査をしていたのは俺たちだ。その俺たちが資料の公開を請求しても、断りゃしないよ」

 中村明史が走って戻ってきた。

「鑑識にやらせる事、伝えておきました。道路封鎖は、すぐに取り掛かるそうです」

 三木尾善人は頷く。

「そうか。じゃあ、一旦戻るぞ」

 ビニールシートをはぐって目張りから外に出た三木尾善人は、駐車した覆面パトカーに向かって歩き始めた。石原宗太郎と中村明史は怪訝な顔を見合わせて、三木尾の後についていく。三人は黒いAIセダンに乗り込んだ。

 中村明史が電気エンジンをスタートさせると、後部座席から三木尾善人が言った。

「――ああ、中村。例の宿題、急げ」

「了解です。部屋に戻ったら、すぐに確認してみます」

「それが済んだら、すぐに出発するぞ」

 中村明史は驚いた顔で振り向く。

「え? どこにですか。昼飯は?」

 三木尾善人は厳しい顔で怒鳴った。

「神作と永山の所に決まってるだろ! 奴らが追っていた男が消されたんだぞ。昼飯だと? 人が一人死んだんだ。そんなもの食ってる時間なんてあるか! 刑事デカだろうが、おまえ。ほら、車を出せ!」

 黒いAIセダンの覆面パトカーは、赤色灯を回しながら、少し間隔の開いた通行車線に入っていった。



                  二十四

 新高速道路の上を疾走するAI自動車の後部座席で、三木尾善人は膝の上に載せた空の弁当箱を見つめていた。

 弁当箱と箸を左右の手に持った中村明史が、運転席から後ろを向いて言う。

「いやあ、やっぱり、AI自動車の自動定速走行システムって便利ですね。自動運転だから、こうして、移動中に、みんなで弁当を食べられますもんね」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せて言った。

「いいから、早く食え」

 缶のお茶を飲んだ三木尾善人は、前の助手席に向けて言う。

「石原。赤上からもらった資料は」

「ごほっ。んぐ。はい」

 弁当の白飯をかき込んでいた石原宗太郎は、缶ジュースでそれを流し込むと、足元の鞄から書類を取り出して三木尾に渡した。

「はい、これです。どうぞ」

 三木尾善人は怪訝な顔で書類を受け取りながら言う。

「なんだ、紙書類か。珍しいな」

 缶ジュースをもう一口飲んだ石原宗太郎は言った。

「捜査資料用に再編したものらしいです。今後も全部、紙で配布するらしいですよ」

「なるほどな、電子データだと、どこまで調べてるか追跡されるかもしれんからな。やっぱり、まだ有働には気を使っているって事か、あるいは、別の理由か……」

 資料に目を通している三木尾に、ハンドルに背を向けて弁当を食べながら、中村明史が尋ねた。

「どんな内容なんです?」

「ん? これか。南の経歴だ。それより、中村、例の宿題を見せてみろ」

 中村明史は慌てて弁当をダッシュボードの上に載せる。

「あ、はい。ええと、このメモリーボールカードに入っています。今、前のモニターに出しますね」

 中村明史は上着のポケットから取り出した名刺大の記録媒体をダッシュボードの中央に設置されたAIのコンピューター・パネルの横に挿し込む。地図を表示しているパネルの下から平面のホログラフィー画像が投影された。

「はい。出ました。これです」

 宙に浮いたホログラフィー画像の文書に目を向けた石原宗太郎が、それに顔を寄せる。

「あれ? なんだ、これ警官の雇用データじゃん。ていうか、これから俺が行く元警官が勤務してた県警じゃん。おまえ、それを調べてたの?」

 中村明史は弁当箱を手に取って頷いた。

「はい。向こうの県警の人が、仕事が早くて助かりました。出てくる前に、ギリギリで届きましたからね。もう少し早く出てたら、先輩にこれを見せられないところでした」

 後部座席から三木尾善人が言う。

「悪いな石原。お前を信用してない訳じゃないんだ。情報に客観性を持たせたかったんでな。――中村、奴の名前はあるか」

 中村明史は箸の先でホログラフィー文書を指す。

「ええ。ここに」

 缶ジュースを飲みながら中村が指した箇所に目を向けた石原が咽た。

「ゲホッ。ゴホッ」

 運転席と助手席のシートの間から頭を前に出して、その資料に目を凝らしていた三木尾善人が呟く。

「やっぱりな」

 石原宗太郎は目を大きくして、その宙に浮いた資料に顔を近づけた。

「な? 南智人? 南じゃないですか。南正覚の本名。あいつ、警官だったんですか」

 三木尾善人は石原の問いに答えずに言う。

「中村。このデータは、当時の紙印刷の記録をスキャンして取り込んだものだな」

「はい。警部に言われたとおり、県警の人事部でオフラインのコンピュータを使って全部スキャンしてもらってから、取り込んだ文書の画像データを記録媒体に格納してもらって、それを郵便で送ってもらいました」

「そうか。それでいい。じゃあ、石原。こっちの公安の情報を読み上げてくれ」

 三木尾善人は頁を捲った紙の資料を石原に手渡す。

「え? あ、はい。ええと、南正覚。本名、南智人。履歴……ホントだ、元警官です」

「ちゃんと読んでくれ。警官としての職歴の所だけでいい」

「はい。ええ、二〇〇〇年十月、第三種警察官採用試験に合格。二〇〇一年四月、県下警察学校に入校。二〇〇三年三月、卒業。二〇〇三年四月から交番勤務。配属先……あら?これ、田爪瑠香の両親の交通事故があった場所の、すぐ近くですよ」

 シートに凭れて腕組みをしたまま、目を瞑って聞いていた三木尾善人は頷いた。

「そうか。やっぱりな。――それで、その後は、どうなっている」

「ええと、二〇一三年まで交番勤務で、同年から二〇一五年まで東北の復興支援要員として、気仙沼警察署に出向しています。二〇一六年からは、地元の所轄署の総務課に勤務していますね。あとは、二〇二一年に退職するまで、ずっと内勤です」

 目を開けた三木尾善人は、しっかりと頷いた。

「そうか。中村が取得した資料とも一致するな。という事は、この情報に間違いは無い」

 石原宗太郎は資料の頁を捲って眉を寄せる。

「二〇二〇年に一人息子を病気で亡くしているんですね。ああ、その時に自分の心臓の筋肉の一部を移植しています。息子に。そうか、それで人工心臓が車の中に……」

「奴が赤字覚悟で南米の難民の医療支援の為に金を送っていたのも、これで頷けるな」

 資料を膝の上に下ろした石原宗太郎は、後ろを向いて言った。

「あの、善さん。いろいろ、訊きたい事があるんですけどね、まず、どうして南が元警察官だと分かったんです?」

「んん。理由は幾つかある。まず、目だ。警官には警官の目ってのがある。他人を観察する目だ。俺には分かる。お前が、ランコントルのママが元警官だと分かったようにな」

 石原を軽く指差した三木尾善人は話を続けた。

「それから、あのお辞儀。俺たちが真明教の施設で南に会った時、奴は綺麗なお辞儀をした。警官や軍人、防災隊員などの公安職が組織の中で叩き込まれる独特の頭の下げ方。あれだ。俺達のお辞儀につられて、昔の癖が甦ったのかもしれん。それで、おやっと思った」

 顔を見合わせている石原と中村を見て片笑んだ三木尾善人は、更に話を続けた。

「だから、俺は奴に、わざと警官の古い隠語で話してみた。『イカモノ』って言ってみたんだ。会話の中で。そしたら奴は、それをちゃんと『前科者』と言い換えて返してきた。そのとおり、『イカモノ』ってのは、前科者の事だ。今じゃ、あまり使わないがな。それで俺は、最後にもう一つだけ、引っ掛けてみた。『イチBあたりのレベルで』ってな」

 中村明史がコクコクと頷きながら言う。

「ああ、確かにそう仰ってましたね。イチBがどうとか。でも、『イチB』って、『一号警戒B態勢』の事ですよね。それって、総理以外の国務大臣などの警護対象者が式典とか会合に出席する時に展開する厳重警備体勢ですよね」

 三木尾善人は深く頷いた。

「ああ。だが俺はあの時、『イチBあたりのレベルで』って言ったんだ。つまり、それくらい大げさなって意味で使ったのさ。まず、普通、素人なら『イチB』の意味について尋ねてくるはずだが、奴は何も尋ねなかった。しかし、警察の隠語を知っている素人も大勢いる。だから、あえて程度を表す比喩として使ってみたんだ。ただ隠語を知ってるだけだったり、聞き慣れているだけならば、今の中村のように疑問に思うはずだ。そうではなく、実際に肌で知って、具体的なイメージができるならば、程度の問題として捉えるはずだと思った。奴はスムーズに会話を進めた。それで、確信に変わったのさ。こいつは元警官だとな。おそらく奴は、一号警戒B態勢で交通整理か雑踏警備に実際に駆り出された事があるに違いない」

 紙の資料を捲っていた石原宗太郎が声を上げた。

「ほんとだ。この公安の資料だと、南智人は、二〇〇七年と二〇一一年に地元選出国会議員の大臣が視察に来県した際に、空港周辺道路の警備についています」

「だろ」

 そう片笑んで答えた三木に、石原宗太郎は尋ねる。

「俺と中村に並行して調べさせたのは、どうしてなんです? 客観性ってのは分かるんですけど、どうして、その客観性を、こんなに重視したんです?」

 三木尾善人は顰め面を傾けた。

「どうもな、出てくる情報が嘘くさくねえか? イヴンスキーの情報も、光絵由里子の情報もだ。墓の指紋が一人分? おかしいだろ。極めつけは、光絵幸輔だ。俺が得た情報では、奴はタイムマシンに乗っていない可能性がある」

 中村明史が聞き返した。

「光絵幸輔がですか。やっぱり、死んでいたんですか?」

 三木尾善人は首を横に振る。

「いや、そうじゃない。司時空庁の入場ゲートのデータが、何者かに消されているんだ」

 石原宗太郎は眉間を寄せて三木尾を見た。

「どこからの情報なんです、それ。例の下請けの民間企業とやらに問い合わせたんですか」

「ああ、まあ、ちょっとな」

 顎を掻きながら答えた三木尾善人は、話を先に進めた。

「それに、俺名義の偽メール。あれも、軍の調達局から送信されていた」

 中村明史が目を丸くした。

「調達局から? ――やっぱり、そうか」

 石原宗太郎が悔しそうな顔で言った。

「なんで、さっき軍規監視局に行った時に、それを言わなかったんですか。あの監察官をへこましてやれたのに」

 三木尾善人は言う。

「いや、彼女の主張はもっともだ。間違えてない。それに、監視局は俺たちの邪魔をしようとしている訳じゃない。俺たちとは手段が異なるだけだ」

 石原宗太郎は首を捻った。

「そうですかね。とても本気だとは思えませんでしたけどね」

 三木尾善人は石原の目を見て言った。

「まあ、それよりな、大事なのはここだ。その偽メールは、調達局以外で作成されていた」

 中村明史が尋ねる。

「どういう事です? もしかして、ストンスロプ社ですか?」

「それは分からん。今、ある男に探らせている」

 石原宗太郎は眉を寄せた。

「ある男? 誰です、それ」

「それは、言えん。すまんな。そいつの予測だと、イヴンスキーも日本国内にいる可能性が高いそうだ」

 石原宗太郎は胡散顔で言う。

「イヴンスキーも。でも、カエラさんを襲ったのは奴なんですよね。奴が国内にいる事は、はっきりしているじゃないですか。本当に信用できるんですか、その情報」

「ああ、かなり信用できる。実際、俺がその情報を得たのは、岩崎がイヴンスキーに襲われる前だからな。それよりも、二人とも考えてみろ、どれもこれも全部コンピューターを使った情報ばかりだ。俺たちが集めた情報もほとんどが電子情報だ。警察のコンピューターはSAI五KTシステムとオンラインでリンクしているんだろ。そのSAI五KTシステムが怪しいって時に、そんな情報を鵜呑みに出来るかよ。だからと言って、今の時代、コンピューター無しじゃ、コソ泥の検挙もできねえ。だから、石原には公安の電子捜査の情報を、中村には紙ベースの実物情報を集めてもらったのさ。この二つが本当に整合しているかどうかも知りたかった。つまり、クロスチェックってやつだ」

 中村明史がホログラフィー文書に目を向けながら尋ねた。

「でも、南の経歴だけ、どうして、こんなに慎重になるんです?」

「これがキーになるからだよ。たぶんな。ところで、おまえら、『パンドラE』って聞いた事あるか」

 石原宗太郎が繰り返す。

「ぱんどら、いー? いいえ。知らんですねえ。中村、何か聞いた事あるかよ」

「いいえ。ギリシャ神話のパンドラの箱なら知っていますけど。何ですか、そのパンドラEって」

 三木尾善人は肩を上げた。

「俺も知らないんだ。実はな、真明教の奴ら、GIESCOに頻りにハッキングしているらしい。『パンドラE』っていう検索ワードを使って」

 中村明史が顔を顰めさせた。

「GIESCOに? もしかして、さっきの『ある男』って、ハッカーじゃないでしょうね」

「んん。まあ、そんなところだ」

 また顎を掻きながら答えた三木尾善人は、流し目で見ている二人の視線を振り払って、話を先に進めた。

「それはともかくだ、真明教の奴ら、GIESCOにハッキングしておきながら、一方で何者かに頻繁にハッキングされている」

 石原宗太郎が厳しい顔で言う。

「まさか、新日ネットの神作と永山ですか?」

 三木尾善人は首を横に振った。

「いいや、それとは別だろう。ところで、おまえら、『フラクタル』って聞いた事あるか?」

 中村明史が答えた。

「ああ、それ、聞いた事あります。コンピューター用語ですよね。地形図の線とか雲の輪郭みたいに複雑な線で作る図形を少ないデータ量で簡単に表現する技術じゃなかったでしたっけ。たしか、もともと『相似』って意味ですよね」

 石原宗太郎が言った。

「いや、違うな。ネット上に組織された謎のハッキング集団の名前の方だ。そうでしょ、善さん」

 三木尾善人は頷く。

「そうだ。どうも、真明教はそいつらにハッキングされているようなんだ。しかも、この数日の間に、何回もな」

 石原宗太郎は激しく頭を掻いた。

「だあ、もう、分かんねえな。どうなってるんだよ」

 石原のフケが入らないように、中村明史は慌てて弁当を手で覆う。石原宗太郎は中村に口を尖らせると、弁当の上に頭を突き出して何度も掻いた。中村明史は迷惑そうに弁当箱を引いて避ける。

 三木尾善人はシートに凭れたまま語り始めた。

「整理すれば、こういう事だ。田爪健三は日本にいる。間違いなく。そして、誰かが奴を匿っている可能性がある。ストンスロプ社も軍も田爪健三を必要としている。そして、ストンスロプ社は軍の調達局と通じている。一方で、SAI五KTシステムの支配権を得ようと軍と競ってもいる。先にAB〇一八を支配してしまった方の勝ちだ。だから、ストンスロプ社も軍も、我先に田爪を確保しようと躍起だ。そして、真明教。奴らは田爪を追ってはいない。なのに、ストンスロプ社の研究機関GIESCOにハッキングしている。探しているのは『パンドラE』。その教祖の南正覚は、過去に妻をストンスロプ社の社長の親族に殺されている。つまり、恨んでいた可能性がある。その南がストンスロプ社から奪おうとしているのは、おそらくストンスロプ社あるいは光絵家にとって、相当に重要なものだ。それが『パンドラE』。その真明教をフラクタルと新聞記者たちがハッキングしている。タイミングから察するに、奴らが追っているのも、『パンドラE』。という事は、『パンドラE』は田爪健三と並んで重要なモノ」

 中村明史が再び目を丸くした。

「まさか、ドライブですか。永山がマシンに乗せたバイオ・ドライブ。それがパンドラE」

 三木尾善人は中村に人差し指を振った。

「そうだ。俺もそう思う。奴らが追っている『パンドラE』とやらが、そのバイオ・ドライブを指しているとすれば、それが在る場所に田爪健三も居るに違いない。そのドライブを開くためにな。奴の技術と知識が必要になるはずだ。そして、南は、そのバイオ・ドライブを奪おうとして、田爪に消された。俺はそう推理している」

 石原宗太郎が髭を触りながら言う。

「GIESCOか……踏み込みますか」

 三木尾善人は石原の目を見て言った。

「だが、それにはパンドラEが例のバイオ・ドライブだって事を確かめないといかん」

 石原宗太郎は怪訝な顔をする。

「どうやってですか。神作と永山に訊くんですか」

 三木尾善人は頷いた。

「ああ。訊いてみるつもりだが、ここでまた、クロスチェックだ」

「クロスチェック? もしかして、俺ですか?」

 自分の顔を指差した石原を見ながら、三木尾善人は再び頷く。

「そうだ。俺の読みどおり、永山が送ったタイムマシンが二〇〇三年に到着したんだとしたら、当時の記録に何らかの痕跡や事実の記載が残っているはずだ。それをお前に確認してきてほしい。もし、バイオ・ドライブをストンスロプ社が回収していたんだとしたら、やはり、『パンドラE』はGIESCOにあるバイオ・ドライブの事だという可能性が高くなる。そして、それは同時に、田爪がそこに居る可能性でもある」

 中村明史が口を挿んだ。

「でも、そうすると、軍も真明教も田爪の逃走には直接絡んでいる訳ではないと言う事になりますよね」

 石原宗太郎が腕組みをした。

「軍も、真明教も、現時点で全員が田爪かドライブを捜しているって事は、田爪の逃走の手引きをしたのは彼らじゃないという事かあ」

 三木尾善人は険しい顔で頷いた。

「そうだ。それに、ストンスロプ社が軍を影で動かしているとすれば、ストンスロプ社すらも、そもそも田爪の逃走に関与していなかったのかもしれん」

 中村明史が言う。

「だとすると、イヴンスキーは、誰が雇ったのか……ですね」

「そういう事だ。つまり、この三者の他に、事を動かした黒幕がいる。あの監察官の言うとおり、元を叩かないと、誰を逮捕しても坂口の時みたいに逃げられちまうぞ」

 前の席の二人は顔を見合わせた。

 三木尾善人は更に言う。

「それにな、この事件に南智人がどう絡んできたのか、それも大事だ。実力的には他の二者より遥かに格下の真明教、だからストンスロプ社からも軍からも、特別に警戒されていた様子は無い。それなのに、南自身は、防弾性の特殊素材の障子だのガラスだのに囲まれて、まるで何かに怯えるように生活していた節がある。見つかった車のガラスも、防弾ガラスだったな」

 石原宗太郎が頷く。

「ええ。そうですね」

 三木尾善人は厳しい顔で言った。

「なんで、格下の南が最初に狙われたんだ。『パンドラE』を見つけた訳でも無いのに。真明教は、GIESCOへのハッキングを繰り返していたとはいえ、一度もコンピュータへの侵入には成功してないんだぜ」

 石原宗太郎は三木尾に尋ねた。

「じゃあ、善さんは、南が何か他にも絡んでいたと言うんですか? それ、何なんです?」

「それを、お前に確かめてもらうんじゃねえか。頼んだぞ」

 三木尾善人は石原を指差した。

 石原宗太郎は顰めた顔で困惑していた。



                  二十五

 三木尾善人はハンカチで汗を拭きながら、膝下まで伸びた草に隠された畦道の上を歩いていた。その後ろから、中村明史が蚊に喰われた首や頬を叩きながら、ついてくる。

 途中の小都市で石原を降ろした二人は、そこから更に三十分ほど国道を進み、県境沿いの低い山脈の中腹まで来ていた。新首都圏の北部にそびえる千穂倉山は高い。その中を走る国道の左右には、背の高い木々が立ち並んでいたが、時折、その森が切り開かれていて、そこに田畑や牧草地が広がっていた。木の柵で囲まれた草地では、放たれた牛たちが頭を下げて地表の草をんでいる。隣の畑では、近隣の集落の住人らしき、繋ぎの上下にゴム製の長靴を履いた老人がグレーのキャップを目深に被って、草刈機で雑草を刈っていた。三木尾善人と中村明史は、AI自動車の覆面パトカーをその近くの路肩に停めた。運転席の窓を開けて、その老人に話しかける。老人は草刈機のエンジン音を理由に、視界に入った三木尾たちを無視しているようであった。中村明史が車から降りて、道路の古く傷んだアスファルトと畑の土の境の所まで移動し、大声で老人に呼びかけた。それでも老人は、知らんふりをして草を刈っていたので、三木尾善人は運転席に手を伸ばし、クラクションを鳴らした。草刈機を止めて振り向いた老人に中村が話しかける。日に焼けた顔の老人は、黙って森の上の方を指差した。そこには、木々の間から赤いトタンの屋根が少しだけ見えていた。中村明史は老人に礼を言うと、車に戻り、電気エンジンをスタートさせ再び車を走らせた。老人は胸のポケットから取り出したタバコを口に咥え、安物の簡易ライターで火をつけながら、走り去る黒い最新式自動車の後ろ姿を睨みつけるように見ていた。

 三木尾と中村を乗せたAI自動車は、再び森に包まれた山道を進み、すぐにまた、森が切り開かれた箇所に出た。今度は左右を田圃に挟まれていた。後部座席に座っている三木尾善人が左の窓から道路下の棚田の並びを見下ろすと、その先に麓の町が小さく見えていた。運転席の中村明史は右を向き、二反ほどの広さの田の方に顔を向けて、その先に古い民家を見つけた。中村明史は静かにブレーキを踏んだ。

「あれですね。神作と永山が借りているっていう民家は。どうします?」

「行くんだよ。決まってるだろ」

 三木尾善人は車を降りた。そして、細い道路を、来るはずも無い対向車に注意しながら横断し、赤い屋根の古屋まで伸びた畦道の上を進んで行った。中村明史は慌ててAI自動車のエンジンを止めると、車から降りて、三木尾と同じように道路を横断した。そして、道路と田の境所で立ち止まり、膝下まで伸びた雑草を見て顔を顰めた。彼は溜め息を吐いてから、ズボンの裾を捲くり始めた。靴下の上辺りまで左右の裾を捲り終えると、蚊を叩きながら三木尾の後を追って畦の上を進んで行った。

 二人が雑草に覆われた小道を通り終えると、その先には壊れかけた納屋が在った。納屋の中には埃を被ったすきくわが掛けてある。奥の方には、青いビニルシートが掛けられた耕うん機らしきものが埃に埋もれていて、その上から落ちてきたであろう納屋の天井板が覆いかぶさり、そのまま腐っていた。

 三木尾善人は振り返って、通ってきた田圃を眺めた。一面が雑草に覆われている。彼は再び前を向いて、納屋の隣にある井戸の先に視線を投じた。赤いトタン屋根の車庫の前に、錆びて傷んだスレート葺の母屋が建っていた。日陰の犬走りには苔が生え、床下には、土で汚れた植木鉢が幾つも転がしてあった。蔦の這った雨どいは、所々で外れていて、閉めたままの雨戸の前に垂れ下がっている。

 三木尾善人と中村明史は、雑草が踏み倒された小道の上を歩き、その母屋の玄関の前まで来た。

「こんにちは」

 返事は無かった。三木尾善人は、もう一度呼んでみた。

「こんにちは。神作さんか、永山さんはいらっしゃいませんか。警察の者です」

「はあい。今、行きます」

 太い張りのある声が返ってきた。駆けてくる足音の後、玄関のサッシが開いた。そこには、ジーパンにTシャツ姿の短髪の男が立っていた。

 三木尾善人は丁寧に頭を下げると、名刺入れから取り出した名刺を差し出した。

「永山さんですね。警視庁捜査一課の三木尾と申します」

 受け取った名刺の記載を怪訝そうに読み返しながら、永山哲也は言った。

「はあ。一課の方ですか……。それで、何か?」

 玄関の中を見回した三木尾善人は、頭を掻きながら言った。

「いや、すみません。こんな所まで押しかけてしまって。実は、あなたがインタビューをした田爪健三の件で動いておりまして」

「田爪? またですか。もう、勘弁してくださいよ」

 永山哲也は大きく溜め息を吐いた。

 三木尾善人は顔の前で手を振る。

「いやいや、お手間はお掛けしませんから。少し、お話しを聞かせてもらえませんかね」

「あの……インタビューに関する事でしたら、僕の書いた記事を全部読めば分かるんじゃないですかね」

 三木尾善人は鋭い視線を永山に据えたまま、片笑んで言った。

「我々の方で、ある組織の捜査をしておりましたらね、そこのコンピューターをハッキングした者がいる事が分かりましてね。それで、神作さんと永山さんに捜査にご協力いただけないかと思いまして」

 永山哲也は更に顔を顰めさせた。

「どういう事です? 協力って、僕と神作キャップがですか?」

「ええ。ご承知の通り、ハッキングは違法です。原則は。しかし、正当な取材活動の一環として取材対象者のコンピュータにアクセスしただけというなら、話は別です。その時たまたま、普段は外部からはアクセスできないフォルダやファイルに、たまたまアクセスできてしまった。ま、そういう事もありますからな。構成要件上の故意が成立しない以上、犯罪は成立しません。ですから、あなた方が、どのような取材活動としてアクセスされたのか、お話しを伺いたいと思いましてね」

 永山哲也は一方的な三木尾の話に顔を曇らせる。

「ちょっと待って下さい。一体、何の話です?」

「真明教へのハッキングの話ですよ」

「僕と神作キャップがですか? 僕は、職場の先輩である神作に連れられて、この山奥に釣りに来ているだけです。渓流釣り。パソコンなんて、ここ数日、触ってもいませんよ」

 三木尾善人はニヤリとして呟いた。

「ここ数日ね」

 三木尾善人は永山に、ハッキングが「ここ数日」の間に行われたとは言っていなかった。それにもかかわらず、永山が「ここ数日」と期間を限定して話した事で、三木尾善人は永山たちが真明教のコンピューターをハッキングしている事に確信を抱いたのである。

 三木尾善人は奥の方を見回しながら言った。

「神作さんは、おられますか」

 永山哲也は頭を掻きながら言う。

「ああ、今、ちょっと……」

「――だから、今は無理だって言ってるだろ。しつこいんだよ! ゴホッ、ゴホッ」

 奥の襖の向こうから、咳と擦れた男の声が聞こえた。三木尾善人と中村明史は顔を見合わせる。忍び声ながらも大きなその声は続いた。

「――あのな、朝美の事で、ここまで刑事が来る訳ないだろうが。ゴホッ、ゴホッ……。よく考えろ、このパーチクリン!」

「警部……」

 中村明史が少し後ろに下がって、向こうの軒先を指差した。永山哲也は顔を押さえて下を向いている。三木尾善人は厳しい顔で永山に言った。

「ちょっと、向こうの方を失礼します」

 三木尾善人と中村明史は草が生えた庭の方に回った。戸を開け広げた縁側の奥の和室で、左目を緑色に光らせた神作真哉こうさしんやが胡座をかいて座っている。襖を開けて入ってきた永山哲也が外の三木尾たちを指差しながら、顰めた顔で言った。

「キャップ……ナイス・タイミングです」

 神作真哉は犬走りの前に立つ二人の刑事に顔を向けると、慌てて言った。

「と、とにかく切るぞ。今、そこに来てる」

 神作真哉はシャツに挟んだイヴフォンのボタンを押して通話を終え、額を押さえながら天井を見上げた。

 永山哲也は立ったまま、呆れ顔で溜め息を吐く。

 前に出た三木尾善人は、名刺入れから名刺を取り出しながら言った。

「どうも。警視庁の三木尾です。なんか、お取り込み中だったようですな、神作さん。名刺をここに置いておきます」

 神作真哉は気まずそうに視線を逸らして言った。

「ん。ゴホン。あー、さようか。宇宙の神様も、喜ばれるぞよ。ゴホン、ゴホン」

「声、どうかされましたか? 風邪ですかな」

「いや、たいした事はないぞよ。ちと、喉を痛めただけぞよ。ゴホッ。ゴホッ」

 永山哲也が言った。

「キャップ。寝てた方がいいんじゃないですか。すみませんね、刑事さん。二、三日前の夜釣りで、風邪ひいたようで、喉を痛めちゃっているんですよ。昨日まで、まともに声も出なかったんですから」

 神作真哉は口をへの字に引きたれて言う。

「いや。宇宙の神様への、お経のあげ過ぎじゃぞよ。お経の。ゴホン」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せた。

「宇宙の神……おたくも、真明教の信者さんですか」

「うむむ。そうだぞよ」

 三木尾善人は横を向いて言う。

「そういえば、すぐそこに真明教の総本山とかいう施設がありますよね」

「ゴホン、ゴホン。ああ、ええっと、そうじゃ。そのとおりじゃ! ほら、総本山からの神秘の力を間近で感じるぞよ。うむむむむむ。てやああ!」

 神作真哉は三木尾が顔を向けた方角に大きく両手を広げて翳す。

 永山哲也が刑事たちに言った。

「すみません。神作キャップ、新興宗教にのめり込んじゃって、ずっとこんな感じなんですよ。山篭りに付き合わされて、挙句に風邪の看病。後輩の僕も、たまったものじゃないですよ。ははは」

 三木尾善人は眉をひそめて尋ねた。

「渓流釣りじゃなかったんですか?」

 永山哲也は目を泳がせながら言う。

「あ、えっと、渓流釣りを兼ねた山篭りです。釣ったり篭ったり、忙しい、忙しい」

 三木尾善人は片笑みながら頷いた。

「ほう、羨ましいですな。私もじきに退職ですからね。老後は、こういった自然の中で悠々自適の生活を送りたいものですな」

「いいですよ、田舎暮らしは」

 永山哲也がそう言うと、三木尾善人は彼の目を見て言った。

「田舎なら何処でもいいって訳でもないでしょうがね。良くない田舎も多くあります。こちらは、どうですか」

 目を瞑って腕組みをした神作真哉が、いかめしい顔を作って答える。

「うむむ。皆、親切だぞよ」

「そうかな……」

 中村明史は眉を寄せて首を捻った。

 三木尾善人が口角を上げて穏やかな口調で言った。

「実は私も、将来は、こういった小さな家で釣り三昧っていうのに憧れていましてね。退職も近いですし、そろそろ準備しようかと考えていたところです。ああ、失礼ですが、こちらの建物は、借り物で?」

 永山哲也は頷いて答えた。

「ええ。どこの山村も、過疎化が進んで、空き家だらけですからね。安くで、簡単に借りられました」

「そうですか。でも、こんな山奥だと、インフラが整ってなくて不便でしょう。水道は?」

 永山哲也は庭の隅を指差す。

「ああ、そこの井戸水です。まあ、飲むのはちょっと恐いんで、飲料水は別に持参していますけどね。ガスはプロパンだから、一応、普通に使えますけど、まあ使った事はないですね。風呂なんかは薪で沸かしますから」

 三木尾善人は両眉を上げた。

「薪で。懐かしいですなあ。私も幼い頃は、実家が薪風呂でした。結構、地方都市には、今でも使っている所が多いですからな。暖かくて、いいでしょ」

 永山哲也は笑顔で頷く。

「ええ。薪で沸かすと、お湯が柔らかくなる気はしますね」

「電気は?」

「ええ。一応、来ています。テレビも冷蔵庫も使えますし、不便は無いですよ」

「電話も?」

 神作真哉が慌てて口を挿んだ。

「回線は外したままぞよ! ゴッホ、ゴホン。ゴホン……」

 苦しそうに咳を続けてから、彼は大声で怒鳴った。

「下界の雑言は、雑念の元じゃ! 電話なんぞ、いらんぞよ!」

 永山哲也が頭を掻きながら言う。

「すみませんね。キャップはIT嫌いで。会社とも連絡が取れなくて困っているんですよ」

 中村明史が言った。

「さっきイヴフォンで通話されてましたよね」

 神作真哉は言う。

「ゴホン、ゴホン……ああ、それはじゃな、電波の受信感度の確認じゃ。電話してみたが、やはり電波の感度が悪いようじゃの。上手く通話できんかった。話が通じん」

 中村明史はネクタイに留めたイヴフォンのボタンを押して、宙を見上げた。彼の視界に電波の受信レベルを示すアイコンが浮かんで映る。三本の縦棒がしっかりと立っていた。

 三木尾善人は中村の顔を一瞥してから、神作に言う。

「そうでもないでしょう。こんな人里離れた山の中腹なのに、この辺は高レベル通信の携帯電話も圏内のようですから。そのイヴフォンが使えるって事は、ネット通信もできますよね」

「いやいや、これは……ゴホッ、ゴホゴホ……」

 神作真哉は狼狽した様子で顔を逸らして咳を続ける。

 三木尾善人は口角を上げて言った。

「いや、将来の楽しみのために、ちょっとお聞きしただけですよ。どうか、お気になさらずに」

 そして、永山に顔を向けて言った。

「それでは、真明教のコンピュータにも不正アクセスをした覚えはないと」

 神作真哉が声を荒げた。

「あ、当たり前じゃ! ここに居ては、さような事はできぬぞよ!」

 すると彼は、わざとらしく空中を見上げた。

「お? ぬぬぬぬ……うおおお! 来た! 宇宙の神様からのお告げが来たぞ! おぬしら、早う帰れ! 身を清めぬ不届き者は、お告げの邪魔じゃああ! さっさと下界に戻るのじゃあ! 退散! 悪霊退散! きええええ! ぬうう、臨兵闘者皆陣列在前」

 九字を切り始めた神作を呆れ顔で見つめながら、永山哲也が刑事たちに言った。

「すいませんね。こうなると、手がつけられなくて。キャップの家族も、これが心配で僕に一緒について行ってくれって頼まれたんですよ。離婚しているのに心配してくれる優しい人なんだから、もっと大事にすればいいんですけどね……あ痛っ」

 神作真哉は永山の膝に一突きを加える。永山哲也は膝を押さえて、体を傾けた。

 三木尾善人は人差し指を立てて言う。

「では、最後にもう一つだけ質問をしてもいいですかね」

 永山哲也は膝を押さえながら、顰めた顔で答えた。

「何でしょう」

 三木尾善人は永山の目を見据えて言った。

「あなた方、新聞記者たちの世界で『パンドラE』って言葉を聞いた事がありますかな」

 一瞬間を空けた永山哲也は、また一瞬だけ神作に視線を送る。神作真哉は首を回して柔軟運動をしながら、一瞬だけ首を横に小さく振った。

 永山哲也は三木尾に答える。

「パンドラE? ――さあ」

 その時、神作真哉が胸を押さえて勢いよく仰向けに倒れた。

「はっ。苦しい。神様が、神様があああ! この聖なる敷地の中に悪魔が二匹おる。追い出せ! 追い出すのじゃああ! おお? おおお? 出るぞ。出るぞよ!」

 三木尾善人と中村明史は顔を見合わせる。

 中村明史が永山に尋ねた。

「あの……、何が出るんですか?」

 永山哲也は床の上でのたうち回ってみせる神作を見ながら、首を傾げた。

「さ、さあ……」

 神作真哉は尺取虫のように畳の上で腰を折ったり伸ばしたりしながら、叫んだ。

「煩悩じゃ! 我の中の汚れし煩悩が、すべて吐き出されるのじゃ。すべてを、すべてを出すぞよ! うーん……うーん……ふん!」

 高い音が響く。

 鼻を上下させた三木尾善人は、口に手を当てて叫んだ。

「くせっ! 屁じゃねえか。まったく」

 中村明史も顔の前で手を振りながら言った。

「ゴホッ。ゴホッ。臭いですね、警部。ゲホッオ。オエエ」

 中村明史は激しく嘔吐えずいた。それくらい臭かった。

 三木尾善人はハンカチで口を覆いながら言う。

「と、とにかく、真明教について何か分かりましたら、その名刺の番号まで連絡して下さい。ゴホッ。我々は、ただ事実解明だけが目的で動いている訳ではありませんから……。ゲホッ。ゴホッ。犯人逮捕が我々の仕事です。悪人は見逃したくない。ゴホッ。帰るぞ、中村」

 三木尾善人は涙目で咳き込んでいる中村の背中を押しながら、玄関の方に向かった。立ち止まった彼は振り返り、神作を指差す。

「ああ、それから、神作さんよ。俺はな、田爪瑠香や他の渡航者たちを死に追いやった真の『悪モノ』を追っているんだ。何か協力してくれるんなら、会いに来いよ。電話やメールは駄目だ。ネットもな。もちろん屁もだ。分かったな」

 神作真哉と永山哲也は顔を見合わせた。

 三木尾善人は更に付け加える。

「それと、もう一つ。野菜も食え。もしくは、一度病院に行け。屁が臭過ぎるぞ」

 三木尾善人は背中を向けて歩いて行った。そして、もう一度振り返り、大きな声で言った。

「ああ、最後にもう一つ。南正覚みなみしょうかくは死んだ。今朝、殺されたよ。量子銃でな。あんたらも気をつけろよ。今の田爪健三は相当に危険だ。永山さん、あんたが話した頃の田爪とは違う。それだけは忘れるな。姿を見たら、とにかく逃げろ。いいな」

 三木尾善人は真剣な顔で永山を強く指差すと、再び背中を向けて帰っていった。



                  二十六

 黒いAIセダンが山道を下っていく。助手席に座っている三木尾善人は、ドアに肘をつき、その先の手に顎を載せ、呟いた。

「やっぱり臭うな」

 運転しながら、中村明史が頷く。

「ほんとに臭いオナラでしたね。いったい、あの人は何を食べたんですかね」

 三木尾善人は言った。

「違うよ。奴ら、真明教の何かを探ってやがる。渓流釣りだあ? ガムテープで何箇所も繋いだ釣竿しか置いてなかったじゃねえか。あれで、どうやって釣りをするんだ。それに、おまえ、玄関に置いてあった靴を見たか」

「はい。登山用のブーツが二足。土が付いていました」

「草もな。あいつら、山に分け入って、何かを調べているんだ。夜釣りで風邪をひいただと? 惚けた事をぬかしやがって」

 三木尾善人は横の窓から山の上の方を見ながら言った。

「おそらく、この山の上にある真明教の総本山とかいう施設だ。あそこに山の中から近づいて、野営しながら張り込みでもしていたんだろう。ところが、正覚の総本山入りが予定より大分遅れたんで、連日の野宿の寒さで風邪こじらせたってところだろうな。いずれにせよ、神作たちにも、教団の施設に正面から堂々と入れない事情があるって事さ。あるいは、普通に取材しても回答を得られない秘密が教団の側にあるか」

 中村明史は、鋭い眼差しで先を見つめる三木尾の顔を一瞥して尋ねた。

「パンドラEですか」

「たぶんな」

 頷いた三木尾善人は、視線を前に向けたまま言う。

「とにかく、俺の勘では、神作と永山は既に何かを掴んでいる。何かをな」

「どうしますか。新日ネットの本社に行って、問いただしますか」

「警察が報道機関にそんな事してみろ、俺もお前も、即クビだぞ。表現の自由の侵害だの言論統制だのって言われるんだ。おまえ、もう一度、就職活動したいか」

「いいえ、御免です」

「じゃあ、もう少し慎重に行動しねえとな。ま、神作たちの方から連絡してくるさ。きっとな」

 顎を引いた三木尾善人は、ガンクラブ・チェックの上着に目を向けた。上着の中に手を入れた彼は、振動を続ける旧式のスマートフォンを取り出し、耳に当てる。

「ああ、俺だ」

 スピーカーから、男の声がラップ調の音楽に混じって聞こえた。

『アクア……違った。Kカワノだぜ。よう、善さん。いろいろ分かりましたぜえ。チェゲラッ』

「そうか。順番に言ってくれ」

『はいはい。まずですね、フラクタル。なかなか手強かったですが、ま、この俺様の方が一枚も二枚も上でしたね。奴らダブルトラップどころか、トリプルで……』

「結論は」

『ああ、すみません。結論はですね、奴らパノプティコンのサードパーティーですよ』

「サードパーティー?」

『そ。専門分野ごとに実働部隊を揃えてあるんですよ。パノプティコンの幹部連中は、そういう奴らに命じて、いろいろと行動させる。フラクタルの奴らは、パノプティコンの情報収集活動を受け持っているみたいですね。つまり、下請け業者みたいなものですよ。それと、あのストンスロプ社も奴らのサードパーティーの一つなのかも』

「なるほどな。パノプティコンか。どおりで、警視庁だけじゃなく、その上の警察庁が動いている訳だ」

『それから、例のスーパーセンサーのログ。その中から、面白いモノを見つけちゃったんですけどねえ』

「なんだ」

『あの日の消されてたデータを復元させてみたら、分かったんですよ。個体識別用のコードです。最後の方に圧縮されて、チョロチョロって、ひっ付いていました。ちょっと手間が掛かりますが、このコードを照会すれば、タイムマシンの発射場のセキュリティーゲートを通ったモノの正体が完璧に分かりますよ。ちょっとだけ時間くださいな』

「そうか。じゃあ、分かったら俺のこの携帯に情報を送ってくれ。直送で頼む。ん?」

 三木尾善人はスマートフォンを耳から離し、画面を覗いた。キャッチホンの表示が出ている。カワノの声は続いていた。

『了解ですう。ああ、それから、善さん。例の男、気をつけた方が……』

 三木尾善人は通話を切り替えて、スマートフォンを再び耳に当てた。

「もしもし。おう。どうした」

『お疲れ様です。西田です。ご報告しなければならない事があります』

「ん? 日本に帰るって、決めたか」

『いえ。それは、まだ……』

「そうかい。ま、ゆっくり考えたらいいさ。あ、そうだ。ラングトンは、どうなった。こっちで掴んだ情報じゃあ、イヴンスキーの方は日本国内に潜伏している可能性が高いぞ。ああ、いや、少なくとも昨夜は確実に日本に居た」

 西田真希は静かに話した。背後で雨の音が響いている。

『ニーナ・ラングトンは、結局、フランス国内で身柄を拘束しました』

「おお、そうか。お手柄だったな。じゃあ、あとは、こっちだな。実はな、田爪が日本国内にいる事は、ほぼ確定した。今朝、奴の量子銃が使われたと思しき遺体というか、衣類だけが見つかった。今、鑑識で使用の痕跡を調べているところだ」

 西田真希の声に驚いた様子は無かった。彼女は既に情報を得ているようだった。西田真希は落ち着いた口調で言った。しかし、その声には、恐怖と驚愕が混じっていた。

『その事なんですが、警部。私は、今、協働部隊の特殊チームの人間と一緒に、スラム街の郊外にいます。南米のジャングルの中です』

「あ? また戻ったのか? しかもジャングルって、そっちは、まだ夜明け前だろ。何の作戦だよ。怪我はしなかったか?」

『大丈夫です。警部。落ち着いて聞いて下さい。実は今……』

 三木尾善人はスマートフォンを強く耳に押し当てて西田の話を聞いた。眉間に深い縦皺を刻んだ彼は大きな声を上げる。

「何いいいい! ど、どういう事だ。間違いないのか。うん。――うん。それで。――そんな馬鹿な。本当かよ」

 三木尾の様子を横目でチラチラと見て運転していた中村明史が、ダッシュボードのパネルを指差して三木尾に告げた。

「警部、警部。鑑識から緊急メールですよ。読んだ方がいいんじゃないですか」

 パネルに表示されたアイコンに指で触れて操作しながら、三木尾善人はスマートフォンで話す。

「西田さん、ちょっと待ってくれ」

 ダッシュボードの前に、鑑識からの報告書がホログラフィー文書で浮かべられた。それに目を通した三木尾善人は眉を引き攣らせる。

「どうなってるんだ……」

 ハッとした彼は、すぐにスマートフォンを持ち直し、地球の反対側の西田に言った。

「あのな、そっちも落ち着いて聞いてくれ。こっちの街頭カメラの映像の解析で、犯人が量子銃を撃つ瞬間の映像が確認された。たった今だ。犯人はガイシャの車の横に停めた車の中から量子銃を撃ったようだ。犯人の顔や姿は捉えられていない。だが、タイヤ・バーコード痕から車種が特定された。タイヤ痕から推定される車両重量から、その車種の登録された重量を差し引いた差、つまり、搭乗者の総体重は、こっちで把握している田爪健三の体重の推定範囲からプラス十キロオーバーだ。小さな子供やダンベルでも乗せていない限り、量子銃を持った田爪健三だと考えられる結果だ」

 中村明史は険しい顔で三木尾の方を一瞥した。三木尾善人はスマートフォンを握って耳に当てたまま頷いている。

「うん。――うん。――そうだな。――分かった。とにかく、事がはっきりしたら、また連絡するよ。そっちも気をつけろよ。それじゃ」

 三木尾善人は通話を切った。アクアKからの通話も切れている。三木尾善人は険しい顔のまま、スマートフォンを上着の内ポケットに仕舞った。

 中村明史が眉を寄せて尋ねる。

「どうしたんです?」

 三木尾善人は手を上げて言った。

「すまん、中村。ちょっと、考えたいんだ。静かにしといてくれ」

 三木尾善人は横のドアに肘をついて指先の爪を合わせながら、鷹のような鋭い視線を前方に向けて考え続けた。



                  二十七

 地方都市の寂れた商店街のアーケードを沈みかけた太陽が照らしている。遠くの空には分厚く黒い雲が並んでいた。商店街の端で停止した黒いAI自動車に、大きな紙袋を提げた石原宗太郎が乗り込んだ。

 後部座席に腰を下ろした彼は、機嫌よく言う。

「お疲れでーす」

 彼がドアを閉めると、車は新高速のインターチェンジに向かって走り始めた。

 紙袋の中を覗きながら石原宗太郎は言う。

「いやあ、大収穫でしたよ、善さん。あの爺さん、当時の事故現場に最初に現着した警官の一人だったみたいで……あれ? どうしたんですか」

 三木尾善人は険しい顔で前を見つめたまま黙っていた。

 運転している中村明史が言う。

「考え中……みたいです」

 石原宗太郎は口を開けて頷いた。

 三木尾善人が前を向いたまま言う。

「いいんだ。続けてくれ」

 紙袋から分厚い汚れたファイルを取り出した石原宗太郎は、それを開きながら報告を始めた。

「あ、はい。ええと、それで、その爺さんは寝たきりになっていまして、話は聞けなかったんですけど、介護をしている息子さんの嫁さんに頼んでみたら、あっさり資料を渡してくれました。まず結論から言うと、善さんの睨んだとおり、タイムマシンがトラックに追突して起こった事故である事に、ほぼ間違いないですね。卵型のマシンらしきものを、その元警官が目撃しています。つまり、永山が送ったマシンは、二〇〇三年の田爪瑠香の両親の事故現場に現れた。これ、確実です」

「やっぱりな。で、どこで見たんだ」

「瑠香の両親の車に乗り上げたトラックの荷台の中みたいです。荷台の外壁は波板状に曲がっていて、表面に薄く氷が張っていたとも書いてありました」

「そうか、見せてみろ」

 石原宗太郎は、茶色く色あせ所々に染みのある紙製のファイルを助手席の三木尾に渡した。分厚いファイルの中には、ルーズリーフと不揃いな捜査記録の一件書類が歪な形で何十枚も綴られている。パラパラと捲ると、後半はどの書類も、使用済みの文書の裏面に手書きで書き綴ったものだった。三木尾善人は眉間に皺を寄せる。

 石原宗太郎は言った。

「当時の事故状況報告書。停車位置から角度まで、バッチリです」

 三木尾善人は、その雑然と綴られたファイルの表紙を改めて開いて、最初に綴られていた事故状況報告書にじっと目を通した。書類には、地図上に事故車両の位置が記号で記載されていて、そこに、角度や侵入速度などの細かい情報が赤鉛筆で書き込んであった。

 三木尾が書類を捲りながら読んでいる間に、中村明史が石原に小声で尋ねた。

「先輩。パノプティコンって、何ですか」

 石原宗太郎は答えた。

「知らねえの? 新商品のお菓子だよ」

 三木尾善人が、前の助手席で書類に目を向けたまま、言った。

「老舗の秘密結社だ。世界中を裏で牛耳っている」

 石原宗太郎と中村明史は、二人とも眉間に皺を寄せて、助手席の三木尾を見た。

 三木尾善人は、開いていた紙ファイルを閉じると、話を始めた。

「パノプティコンというのは、一般には一望監視施設を指す。大勢の人間を監視して制御する仕組みの事だ。刑務所なんかが、その典型だな。奴らの名前も、たぶん、そこから来ている。奴らは、世界中の情報を集め、分析し、行動する。あらゆる手段を使ってな。この世界を監視し、秩序を守っているんだと」

「ASKITみたいな奴らですか」

 中村の質問に、三木尾善人は鼻で笑った。

「ASKITなんかは、パノプティコンからすれば、新興のチンピラさ。一説によると、パノプティコンという、秘密結社だか、地下組織だか知れん連中は、古代ギリシャ時代以前から世界の監視を続けているそうだからな」

 中村明史は眉間に皺を寄せる。

「そんな……それじゃ、民主主義の敵じゃないですか。壊滅させるために国際的に協力しようとはしないのですか」

 三木尾善人は片笑んで言う。

「何度もやってるさ。その結果が、俺達が歴史の教科書で教わってきた戦争の数々だ。ま、俺の個人的な推論だがな」

 石原宗太郎が髭を触りながら険しい顔をする。

「国が生まれる前から存在している組織じゃ、その国の根幹にまで侵食してるって事ですもんね。勝てる訳ねえか。どうせ、また、正体は分からないんでしょ」

 三木尾善人は頷いた。

「ああ。奴らは決して、自分たちを表に出さない。だから、その正体が分からない。例によって例の如く、そういうところだ」

 三木尾善人は、再び紙のファイルを開いて頁を捲り始めた。

 石原宗太郎は、大きな上半身を前に乗り出して、三木尾に尋ねる。

「そのパノプティコンが、どうかしたんですか?」

 三木尾善人は資料を読みながら答えた。

「ストンスロプ社も、例のフラクタルとかいうハッカー集団も、そのパノプティコンの手下だそうだ。『サード・パーティー』って言うらしい」

 石原宗太郎は、自分の額を叩くと、大きく息を吐いて後部シートに倒れこんだ。

 ハンドルを握っていた中村明史は、深刻な顔をして言った。

「また、厄介なのが出てきましたね」

 三木尾善人は黙って頁を捲っていたが、ある頁を捲り直して、指先で何かの記載を確認すると、また数頁前に戻ってから、その頁の記載を指で追い始めた。そして、その指を止めると、静かに呟いた。

「やっぱりな」

 隣から中村明史が尋ねた。

「何か見つかったのですか?」

 三木尾善人は、何も答えずに、ガンクラブ・チェックの上着から古いスマートフォンを取り出すと、それを操作してから耳に当てた。

「ああ、リコちゃんか。ちょっと急ぎの用なんだ。いいか。警察庁の文書管理課に連絡して、次の文書番号の書類があるか確認してくれ。それから、その文書について、閲覧の請求している人間がいれば、その特定も頼む」

 そう言うと、開いたファイルに綴られていた文書の右上に記載されていた活字の番号を指でなぞりながら、読み上げた。

「大至急たのむ」

 三木尾善人は、電話を切ると、そのスマートフォンをシートの隙間に挟むように置いて、また、膝の上のファイルに綴られた文書を捲り始めた。そして、言った。

「石原……」

 三木尾に呼ばれた石原宗太郎は、頭の後ろで手を組んで後部シートに凭れたまま答えた。

「はい? 何ですか」

「これ、当時の資料だけじゃねえな」

 石原宗太郎は、身を起こして答えた。

「え? 事故当時に手書きした下書きの捜査資料だって事ですから、三十五年前の資料のはずですけど」

 三木尾善人は、綴られた一枚の書類の裏に押された赤字のスタンプを指差して見せ、石原に言った。

「いや。こいつは十五年前の物だ。この備品番号を見てみろ」

 石原宗太郎は、身を乗り出して、それを見た。

「二、ゼロ、二、三、ホントだ。その元警官の爺さんが退職した年ですね。二〇二三年」

「その次の頁もだ。退職前に警察庁にファクスを送っている。何度も。どれも二〇二三年」

 中村明史が尋ねた。

「二〇二三年って言えば、真明教が設立された年ですよね」

「そうだ。もしかしたら、宗教法人設立の認可が申請された際に、所管の官庁から、南についての素行調査の依頼が警察庁にあったのかもしれん。申請当時、南はテレビや新聞の紙面を既に賑わせていたからな」

 石原宗太郎が怪訝そうな顔で言った。

「当局が南に関心を寄せた、という事ですか……でも、どうして、その書類を」

「遺失物横領の容疑だよ。この頁を見てみろ」

 三木尾善人は、開いたままのファイルを石原に手渡した。

 石原宗太郎は三木尾に指差された頁を読んで、首を傾げた。

「これ、近隣住人の目撃証言じゃないですか」

 石原宗太郎は、その証言録を小声で読んでいたが、重要な部分にくると、声を大きくして読んだ。

「一番最初に着いたお巡りさんが、何か拾っていました?」

 そして、前の助手席の三木尾に尋ねる。

「善さん。この、『一番最初に着いたお巡りさん』って、まさか……」

「そうだ。南だ。南智人巡査。前の方の頁に書かれている当時の警官の配置表を見てみろ」

 石原宗太郎は頁を捲った。

「ええと。ああ、確かに、居ますね。でも、少し離れたところの交通整理ですよ」

 三木尾善人は、前を見たまま言った。

「最初の方の頁の勤務記録部分を見てみろ。さっき俺が文書番号を読み上げた文書のすぐ後だ。フォーマットに手書きで書き込んである奴。そこに、南が勤務していた交番の事故当日の勤務日報が記されているだろ」

 石原宗太郎は、再び頁を捲った。

「ああ、これか。南智人……十時から周辺警ら」

「次の頁も見てみろ。警らの経路が地図上に記してある」

 言われた地図を見た石原宗太郎は、声を上げた。

「ああ! 例の事故現場の住宅街を通っていますね」

 運転をしながら、中村明史が言った。

「あの事故の時刻って、午前十時十二分でしたよね」

 三木尾善人が、腕組をしながら答えた。

「そうだ。つまり、警ら中に事故現場付近を通っていた南巡査は、『一番最初に』現場に駆けつけた。現着一番乗りだったんだろう。ところが、当時の南は警官に成りたての新人だ。後から到着した先輩たちに顎で使われて、あげくに遠方の交通整理に回された。要は、手柄を横取りされたって事だな」

 石原宗太郎が顎鬚を掻きながら呟いた。

「あの爺さんか……」

 三木尾善人は続けた。

「たぶんな。だが、問題は、そこじゃない。おそらく、最初に現着した南は、そこで何かを見つけ、それを密かに自分のモノにした」

 石原宗太郎が三木尾の推理に続けた。

「その様子を見ていた近隣の住人が不審に思い、あの爺さんに報告した。当時、巡査長だった爺さんは、南に問いただしたが、南は否認。証拠も無い。それで終わり」

 中村明史が、さらに続けた。

「しかし、それから二十年後に、警察庁から南の警察官時代の素行について照会があったので、その元警官は、二十年前の事を思い出し、退職前の僅かな時間で、その事件の捜査をして、その報告を警察庁にした」

 三木尾善人は、ダッシュボードのデジタル時計に目を遣りながら言った。

「おそらく、そうだ。だから、二〇二三年の備品である当直記録票の裏なんかにメモ書きしているんだ。退職前に、警察庁に対して提出できる大ネタに出くわした訳だからな。必死こいて資料を集めたんだろう。警官人生で大金星のチャンスが最後に巡ってきた訳だ。だが、元同僚とはいえ、同じ釜の飯を食った人間を突き出すとなれば、簡単にはいかん。それに、自分が手柄を横取りした事実もバレちまう。きっと、それで、こっそり調べていたのさ。どの書類も正規の書式ではなく、使用済みの紙の裏に記載されているのは、そのためだろうな」

 中村明史が、ハンドルを回しながら尋ねた。

「でも、どうして、当時の警察庁は動かなかったんでしょうか」

 三木尾善人は答えた。

「まず、この捜査資料には、客観性がない。事件から二十年も経っていれば当然だが、その元警官の実力にも多分に問題がある。言わんとせん事は分かるが、それを裏付ける確固たる証拠を集めていない。それに、時効。実行行為時から二十年も経過している。更に言えば、この資料を読んだ時の感想だな。嫉妬にまみれている。以前、自分の部下だった男が、マスコミで有名な宗教家として成功を収めようとしているんだ。ジェラシーを感じるのは分かるが、この書類は、南智人の邪魔をしようという作者の意図がみえみえだ」

 石原宗太郎が、後部座席のシートに深く座り直して言った。

「あの爺さん、警官時代にドロドロの不倫劇で主役を張っていたような大将だからな。信用されなくて当然といえば、当然なんですかね」

 三木尾善人が一言呟くと同時に、シートの縁のスマートフォンのベルが鳴った。

「自業自得だな」

 三木尾はスマートフォンを耳に当てた。

「三木尾だ。どうだった、リコちゃん」

『ありました。警察庁に保管されている文書の中に、該当する番号が存在しました。それで、その文書は、先週、閲覧されています』

「そうか。それで……うん。――うん。そうだろうな。分かった。俺が戻るまで、誰にも言うんじゃないぞ。じゃ」

『警部! それから……』

 耳から話した三木尾のスマートフォンから、村田リコの高く大きな声が響いた。三木尾善人は慌ててスマートフォンを耳に戻し、応答する。

「なんだ、どうした」

 村田の話を聞いていた三木尾善人は、怪訝そうな顔で言った。

「泣き声? 痔なのかもしれんじゃないか」

 新高速に入った黒いAI自動車は自動運転に切り替わった。ハンドルから手を離した中村明史は少し振り向き、頭の後ろで手を組んだまま後部座席に凭れていた石原宗太郎と顔を見合わせた。

 暫く黙って村田の話を聞いていた三木尾善人は、突如、声を荒げた。

「俺は生まれてこの方、男子便所しか使った事はねえ! 女子トイレの中の事など知るか! 岩崎だって人間だ。便所が長くなるくらいの事はある! そんなに心配なら、さっさと見に行け!」

 電話を切った三木尾善人は、眉間に皺を寄せたまま、スマートフォンを上着の内ポケットに仕舞った。

 中村明史は三木尾に事態の詳細を尋ねようとした。しかし、顔を紅潮させ憤怒を堪える三木尾の顔を見て、何も言う事が出来なかった。

 三木尾善人は歯を喰いしばったまま暫く黙っていた。そして、顰めた顔で助手席側の窓を開けると、ダッシュボードの下から取り出した赤色灯を屋根の上に乗せて、言った。

「中村。自動運転を切れ。とにかく、急いで戻るぞ。チンタラした運転したら、外に放り出すからな。石原。ベルト締めとけ!」

 中村明史は慌ててハンドルを握り、緊急車両用の手動運転に切り替えて、ハンドルを切った。三人を乗せた黒のAI自動車は左へ急激に車線変更すると、赤いランプを点滅させながら、新高速道路の脇に設置されている緊急車両専用道路の上を猛スピードで走っていった。



                   二十八

 警視庁ビルの広い廊下を二人の男が速足で歩いている。肩を怒らせ、顔を紅潮させて歩く三木尾善人の前に、石原宗太郎が立ち塞がった。

「善さん、落ち着いて」

「うるせえ。どけ! 車の中で散々説明しただろ。そういう事なんだ」

 三木尾善人は石原を押し退けると、鼻を膨らませて歩いていった。

 石原宗太郎は三木尾の後を追いながら、眉を八字に傾けて言う。

「いや、でも、ネオ・アスキットは唯の噂話……」

 三木尾善人は新原管理官の部屋のドアをノックもせずに激しく開けた。机に座って書類に判を押していた新原海介は、顔を上げて言う。

「何事かね」

 三木尾善人はズカズカと中に入っていった。困惑した顔で石原宗太郎が後から入ってくる。三木尾善人は新原の机の前に立つと、紙の書類を机の上に叩きつけて置き、怒鳴った。

「それは、こっちの台詞だ! これは、どういう事だ!」

 新原海介は決済していた書類を横に置くと、三木尾が置いた書類の一枚を手に取った。

 三木尾善人は椅子に座っている新原を睨み付けながら言った。

「二〇〇三年の事故現場の、警官の配置図と名簿の下書きだ。そこに打ってある文書番号で問い合わせたら、それをワープロで清書したものが警察庁の文書管理課に保管されていたよ」

 新原海介は、机の上に散らばった手書きの書面を拾い集めると、それぞれを隅々までじっくりと読んだ。

 三木尾善人は机の上に両手をついて、身を乗り出す。

「あんた、一週間前に、この文書を閲覧しているな。どういう事だ」

 新原海介は、何かを思い出したように、横の立体パソコンの方を向くと、その前に投影されているホログラフィー・キーボードの上で指を動かして何かを入力した。立体パソコンの上に浮かんだホログラフィー・アイコンを指で摘まんで動かし、中から文書ファイルを選択して表示させる。空中に投影されたホログラフィー文書を指で摘まむと、向きを変えて三木尾に向けた。

 新原海介は落ち着いた声で言う。

「これの事かね」

 そして、机の上の手書きの図面や人員表を、そのホログラフィー文書と見比べながら、三木尾に言った。

「確かに、この文書は、私が取得した資料文書の下書きのようだが、それが、どうしたんだね」

 三木尾善人は、鷹のような目で新原を睨みつけて、言った。

「何のために、その文書を閲覧したのかと訊いているんだ」

 新原海介は執務椅子の背凭れに身を倒して言う。

「着任して担当する事件について、関係する資料一切を調べるのは当然だろう。例の田爪のインタビュー記事に出ていた事くらいは知っとかんと、君たちに馬鹿にされるからな。それで、文書管理課に関連する物を出してくれと頼んだんだ。だが、あの事故は、ストンスロプ社の軍事品納入の関係で、最重要極秘事項に指定されている。君たちも知っているだろう。だから、警察庁もこんな物しか送ってこなかったんだよ。こんな文書が、何なんだと言うんだね」

 三木尾善人は、激しく机を叩いた。

「とぼけるな、この野郎! じゃあ、なんで個人用のフォルダに保存していたんだ!」

 三木尾善人は新原の立体パソコンの上に浮かんでいるアイコンを指差した。

 個人用フォルダーのアイコンに目を向けた新原海介は、その目を泳がせながら答えた。

「事前に予習していたという事を知られたく無かったんだよ。君たちに。私にだって、面子というものがある」

 三木尾善人は机越しに新原の胸倉を掴んで、言った。

「いいか。この事が分かっていたらな、南には初めから警護を付けるなり、警察署内で保護するなり出来ていたんだ! 南を死なさずに済んだんだぞ。俺は実際に南智人って男に会ったから分かる。奴は悪事に関わったかも知れねえが、悪人じゃねえ。救ってやれたはずなんだ!」

 後ろから石原に羽交い絞めにされ、三木尾善人は、ようやく新原管理官のワイシャツから手を離した。

 新原海介は、椅子に深く座り直すと、右手で歪んだネクタイを直しながら、怒りを押し殺して言った。

「いったい、どういう事かね。もっと落ち着いて、説明してくれたまえ」

 三木尾の後ろから、石原宗太郎が言った。

「その配置図と人員表には、南の名前が載っているんです。南智人、真明教の南正覚の本名が。つまり、奴は、元は警察官だったんですよ」

「なんだと?」

 新原海介は書類を手に取って、読み直した。三木尾善人は石原が手を放すと、ガンクラブ・チェックの上着を整えながら吐き捨てた。

「本庁のお偉いさん候補は、末端の警察官には関心が無いようですな」

 新原海介は両手で握った書類に目を凝らしながら言った。

「確かに、居るな。こいつが、あの南なのか」

 石原宗太郎が頷く。

「ええ」

 新原海介は書類と三木尾の顔を交互に見ながら尋ねた。

「だが、それが田爪の件と、どう関係するんだ。この事故に南が関与していたとでも言うのか」

 三木尾善人は少し声を落ち着かせて言った。

「違うよ。その事故は、永山が送った例のタイムマシンが原因で起こった可能性がある」

「なに? 南米で消えた、あのマシンか。バイオ・ドライブを乗せた」

「そうだ。そして、南がその現場に居た。ちなみに、南は現場から何かを持ち去った可能性が高い」

「まさか、バイオ・ドライブか」

「まだ、分からんよ!」

 三木尾善人は怒鳴った。彼は一度隣の石原と視線を合わせてから、再び新原に顔を向けて、彼に言った。

「だがな、こんな重要な手掛かりがある事が分かっていたら、最初から南に的を絞る事もできた。それに、犠牲者も出さずに済んだんだぞ。分かってんのか!」

 石原宗太郎も冷ややかな視線を送りながら彼に言う。

「どうして、捜査課の資料データベースに保存せずに、個人フォルダなんかに入れておいたんです。捜査用の資料データベース・フォルダに入れていたら、俺たちも情報を共有できて、南の関与にもっと早く気付けたと思うんですが」

 新原海介は愕然とした顔で視線を床に落としていたが、その顔を上げると、目の前の二人刑事の顔をそれぞれ真っ直ぐに見てから、頭を下げた。

「すまん。私が馬鹿だった。君たちに威勢を振るいたいばかりに……いや、虚勢だな。それに、どうでもよい資料を集めていると、君たちに笑われる事も恐れたんだ」

 机の上に額を押し付ける新原を前に、三木尾善人と石原宗太郎は再び顔を見合わせた。

 下を向いて溜め息を漏らした三木尾善人は、その顔を新原に向けて諭すように言う。

「俺たち現場の刑事はな、その『どうでもよい資料』を朝から晩まで必死の思いでかき集めて、一つ一つを血眼になって調べ尽くしているんだ。そこからようやく見つけた仔細な事実を積み重ねて、真実を見つけ、犯人を追っているんだよ。仮に、それが全て無駄骨になったとしても、そんな事を批判したり、愚弄する奴なんていない。現場では情報が全てなんだ。出てきたもの、見聞きしたものは全てテーブルの上に乗せる。それが現場の常識だ。あんたがちゃんと現場の警官の声に耳を傾けていれば、人一人が死なずに済んだかもしれないんだぞ!」

 新原海介は再度、額を机に押し付けた。

「本当に、すまない。まさか真明教の南が関与しているなどとは思いもしなかったんだ。それに、あそこのバックには有働元総理がいる……」

 顔を上げた新原海介は、眉を寄せて言った。

「という事は、まさか、有働武雄が首謀者なのか」

 石原宗太郎が指先で頬を掻きながら言った。

「分かりませんよ。まだ、そこまでは」

 三木尾善人が新原の顔を見据えて言う。

「だが、田爪の逃亡を手引きしたのが何者か、大体の察しはついた」

 新原海介は緊張に満ちた顔で三木尾の目を見る。

 目を閉じた三木尾善人は静かに言った。

「ストンスロプ社」

 新原海介は顔を強く顰めた。

「ストンスロプ社だと? どういう事だ。筋が通るように説明してくれ」

 三木尾善人は早口で話した。

「二〇二五年の核テロ爆発の爆心地で防災隊に発見され、司時空庁が回収したバイオ・ドライブは偽物だが、装甲板は本物。本物のバイオ・ドライブは、何者かが追っていて、それは『パンドラE』と呼ばれている。そして、真明教の南は、その『パンドラE』がGIESCOにある事を突き止めた」

 キョトンとした顔をしている新原を見て、石原宗太郎が説明した。

「探っていたんですよ。GIESCOにハッキングして」

「なんだって? ハッキング? 真明教がか」

 三木尾善人は頷く。

「ああ。そんで、装甲板は司時空庁、バイオ・ドライブはGIESCOにあるとすると、二〇〇三年の事故現場で南がくすねたのは、それ以外の物だったという事になる」

 石原宗太郎が続けた。

「永山が送ったマシンには三つの物が乗せられていました。一つはバイオ・ドライブ。もう一つが、耐核熱金属で出来た数枚の装甲板。そして、最後に……」

 三木尾善人が新原の目を見据えて言う。

「レコーダーだ。永山が田爪のインタビューや自分のレポートを録音したICレコーダーだよ。大概の人間が、あのレコーダーは転送の際のエネルギーか、二〇二五年の爆発の熱で消えちまったと思っているが、二〇〇三年に飛んでいたとすれば、話は別だ。カウントに入れておく必要がある」

 石原宗太郎が肩を上げて言う。

「そして、そのレコーダーを南が二〇〇三年の事故現場で手に入れたんです」

 三木尾善人はゆっくりと締めくくった。

「当然、その中には三十五年後までの未来の話が入っていた訳だ。田爪が丁寧に話してくれた、アレさ。南正覚は、その内容を基に、予言をしていたって訳だ。蓋を開けてみれば、何て事は無い。ただのカンニングって事だよ」

 新原海介は目を丸くして尋ねた。

「じゃあ、南殺しは、口封じか」

 三木尾善人は頷く。

「おそらく、それもあるだろう。だが、それ以上に、怨恨の線が強い」

「怨恨?」

 石原宗太郎が補足した。

「司時空庁発のタイムマシンに搭乗した人間のほとんどが、真明教の信者だったんです。彼らは全員が、大金を教団に寄付して国税の追及を免れてから渡航しています。つまり、南の勧説でタイムマシンに乗った可能性があるんです」

 三木尾善人は鋭い視線を新原に送ったまま話す。

「その中止を訴えた田爪瑠香は、南にとって邪魔な存在だったはずだ。有働経由で手を回して、瑠香をタイムマシンに乗せたという筋も成り立つ。もし、そうだとすれば、田爪の標的になるのは当然だ。田爪にとって南は、愛する嫁さんを自分に殺させた張本人だろうからな」

 三木尾善人は下を向いて深く溜め息を吐いてから、再び顔を上げ、話し続けた。

「ストンスロプ社にとっても、自社にハッキングまで仕掛けてくる連中だ、迷惑者以外の何物でもない。それに、真明教とは、軍と違って何の利害関係もない。だから、田爪に南を消させたのかもしれん」

 新原海介は厳しい顔で尋ねた。

「証明できるか」

 石原宗太郎が答える。

「真明教の全施設とストンスロプ本社、それからGIESCOにガサ入れ出来れば、後は大体の資料は揃っています」

 三木尾善人が頭を掻きながら言った。

「問題は、有働だな。それと、顧問弁護士の美空野だ」

 隣の石原が小声で言う。

「善さん、アレも」

「ああ、そうだった。パノプティコンも。こいつが、ちと、厄介かもな……」

 新原海介は何度も瞬きしながら聞き返した。

「パノプティコンだと? あの、パノプティコンか?」

 三木尾善人は首を縦に振る。

「そう。そのパノプティコン」

 新原海介は額に拳を当てて、椅子の背凭れに仰け反った。

「何てことだ。奴らが動き出したとは!」

 三木尾善人と石原宗太郎は顔を見合わせて、それぞれ口をへの字に引き垂れると、両眉を上げた。

 石原宗太郎は新原に言った。

「おそらく、『パンドラE』という隠語を使って、バイオドライブを探しているのも、実質的には彼らでしょうね」

 三木尾善人は、両肩を上げて大きな声で言った。

「ああ。そういう事が好きそうだもんな。連中さんは。だけどそれより、こりゃあ、きっと、ネオ・アスキットの連中も顔面蒼白だな。なんせ、秘密結社の横綱のご登場ってところだからな。かなりヤバイよな」

 新原海介は椅子に身を倒したまま三木尾に視線を向けると、すぐに身を起こして、深刻な顔で尋ねた。

「ネオ・アスキット? 何だね、それは。ASKITは壊滅したはずだろう」

 石原宗太郎が眉を寄せて憂鬱顔を作って説明した。

「いや、ところがですね。その残党がいるらしいんですよ。なんか、政治的理想だけを持った、ASKITのイメージにそぐわない連中が。組織が壊滅した後、もともとASKITの利益優先主義に反発していた連中は、すぐに新たな秘密結社を組織し、ASKITの再興を謳って立ち上がろうとしているそうなんです。噂ですがね。ていうか、俺もさっき善さんから聞いたばかりなんですけどね。あ、失礼。警部でした」

 三木尾善人は石原と視線を合わせて言った。

「まあ、理想に燃えて決起しようって言うんだから、悪い奴らじゃねえかもな。とは言っても、現行法じゃ、どストライクで内乱罪だけどよ。そうか、『決起』って言えば、たしか、深紅の旅団レッド・ブリッグの連中もそんな事をしていたな。って事は、奴らもネオ・アスキットなのかな」

 石原宗太郎は髭を触りながら大きく頷いた。

「その可能性はありますね。うん、うん。アジア最強の赤蟻軍団かあ。うわあ、おっかねえ……」

 石原宗太郎は身震いして見せる。

 新原海介は深刻な顔で呟いた。

「ネオ・アスキット……そんな事態になっていたのかね……」

 三木尾善人は言った。

「ま、そっちの方は、軍規監視局に任せるしかねえな。餅は餅屋だ。どっちにしても、いずれパノプティコンが綺麗に掃除してくれるだろうしな。放っとこう。それよりも、俺たちは田爪に集中だ。な、石原」

 石原宗太郎が答える。

「そうですね」

 三木尾善人は新原に鋭い視線を向けた。

「で、どうするんだ? 管理官殿」

 少し考えた新原海介は、三木尾を指差しながら言った。

「光絵由里子だ。直接、光絵を押さえるぞ」

 三木尾善人は首を傾げる。

「光絵会長を?」

 新原海介は、はっきりと頷いた。

「そうだ。証拠品の捜索と差押えも重要だが、まずは、危険な量子銃を持ち歩いている田爪健三の身柄を確保する事が最優先だ。君の説明が本当なら、光絵由里子は田爪の所在を知っている。という事は、ストンスロプ社の本社ビルやGIESCOといった巨大施設を捜索するより、彼女の口を割らせた方が、ずっと効率がいい。それに、自宅に踏み込んでしまえば、こっちのものだ。光絵の自宅にまで、有働や美空野が訪ねてきているという事は、まず無いはずだ。彼らと光絵の間に、そこまでの親交は無い。という事は、邸内の少数の人間を押さえてしまえば、有働や美空野に連絡が行くまで、時間を稼げる」

 また石原と顔を見合わせた三木尾善人は、新原に視線を戻して腕組みをした。

「なるほど。だが、何の容疑で踏み込むんだ? 容疑が固まらないと、令状も取れないぜ」

 新原海介は椅子に深く凭れると、三木尾の目を見据えて言った。

「三木尾君。君は何を言っているんだ。量子銃という殺人兵器を持った、逃亡中の連続殺人犯が、この新首都の、しかも警察庁や警視庁の目と鼻の先で、白昼堂々と新たな犯行に及んだんだぞ。グズグズしていると、こちらが捜査態勢を整えている間に、連中は田爪を国外にでも逃がしてしまう可能性がある。令状など、後付けでいい。任意での聴取だ。相手が抵抗さえしてくれれば、公務執行妨害で現行犯逮捕できる」

 三木尾善人は再度首を傾げた。

「そんなんで、いいんですかね。少し乱暴じゃないですか。美空野弁護士もついていますし。それに、光絵のバックには、辛島勇蔵っていう現職の総理大臣がいるんですよ」

 新原海介は背中を椅子から離すと、三木尾善人を指差しながら言った。

「三木尾君。私は君に、十分な捜査をするようにと命じたはずだ。今、ここで田爪を取り逃がしたら、君は、これまでの警察官人生を後悔するんじゃないかね。それに、もし、これ以上さらに被害者が出るような事でもあれば、私も警察官になった事に意味を見出せなくなる。だから、この件には、お互いに警察官の誇りを懸けて臨もうじゃないか。心配するな。これから先の事は、何があっても、責任はこの新原海介がとる!」

 新原海介は決然として立ち上がった。口を深く引き垂れた彼は、机の上の立体電話機のボタンを押す。電話機の上に、黒いスーツ姿に赤毛のおかっぱ頭の若い女性がホログラフィー画像で投影された。彼女は緊張した面持ちで素早く返事をする。

『はい。ハイパーSAT』

「私だ。捜査一課管理官の新原だ。これから、田爪健三の確保に向かう。君たちハイパーSATも、出動の準備をしておいてくれ。第一小隊を緊急出動させる。残りの三小隊は通常編成の出動準備態勢で待機させておけ。いいな!」

 ホログラフィーの女が素早く敬礼すると、新原はボタンを押して内線通話を切った。おかっぱ頭の女のホログラフィー画像は敬礼をしたまま停止し、消える。新原海介は石原を指差してから上着を脱いだ。

「石原君。君は、ハイパーSATの小隊を連れて、後から来てくれ。私と三木尾君は、先に光絵邸に向かう」

 三木尾善人が確認した。

「ハイパーSATを連れて行くんですか?」

 見慣れない拳銃を挿したガンホルダーに肩を通して装着した新原海介は、再び上着を羽織ながら答える。

「ストンスロプ社は軍事ロボットの開発も行っている。光絵邸に配置されているかもしれんだろ。ハイパーSATは、機械化特殊急襲部隊だ。違法改造された護衛ロボットとの戦闘にも長けている。きっと必要になるはずだ。行くぞ、三木尾君」

 新原海介は勇ましい足取りで廊下へと出て行った。片眉を上げて顔を見合わせた三木尾善人と石原宗太郎は、新原を追って廊下へと出て行く。

 新原海介は鼻息を荒くしながら、広い廊下を速足で歩いて行った。その後ろを、少し距離を置いてゆっくり歩きながら、三木尾善人は言う。

「石原。中村に、準備して下の駐車場に車を回すように言え」

「了解」

 石原宗太郎はウェアフォンをポケットから取り出しながらガラスドアを開けて第五係室へと入っていった。三木尾善人はその前を素通りして、腰を叩きながら歩いて行く。新原海介はドアを開けたエレベーターに威勢よく乗り込んで行った。事成し顔でボタンを押す彼は、ドアを開けたまま、三木尾が来るのを待っている。三木尾善人は小さく溜め息を漏らして呟いた。

「やれやれ。どうやら、これからが大仕事だな」

 ガンクラブ・チェックの上着の老刑事は、眉間に皺を寄せて、ガラス張りのエレベーターへと乗り込んでいった。

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